■言いたい邦題、特集コラム「映画はだからオモシロイ」

 なんか、しょーもないことダラダラと暴論を書いてみました。お急ぎでない人は読んでって。反論大歓迎



●お笑い映画ベストテン
 イギリスのBFI(英国映画協会)と雑誌「サイト・アンド・サウンド」が、批評家と監督による、映画オールタイムベストテンを発表し、そのニュースは世界を駆けめぐった。しかし、その実体のズッコケさ加減に大笑いしてしまった。その馬鹿馬鹿しさのレポートと、そのなかでも面白そうなことを書いていた監督たちのベストテンごっこをレポート。
 名付けて、■誰もが知りたがっているくせにちょっと聞きにくいベストテンのすべて



●追悼するには早すぎる 相米慎ニ

 相米慎二の訃報に接して、久しぶりに映画関係者が亡くなって驚いている自分に驚く。冷静でいられないのはたぶん意識的に映画を観始めた頃、80年代なかばころ、日本映画がものすごくおもしろかった頃、相米映画に出会ったからだろう。
 はじめて観たのは『ションベンライダー』(1983)。ふだんは日活ロマンポルノを上映している映画館がたまたま上映しているのを見つけて駆けつけた。ファーストシーンからのいつまでも終わらない長廻しに、あまりもの衝撃を受け絶句した。貯木場の移動の美しさに陶酔して、アタマがパンクするのではないかと思った。90分で30カットという伝説的な映画は、ドキュメンタリー出身の撮影の田村正毅に負うところが大きいが(かれの劇映画初じゃないだろうか)、それでも役者が狂気に駆られていく姿を見ているとものすごいパワーを持った映画を作ったと思う。
 『魚影の群れ』(1983)は試写会で観た。上映前に監督が壇上に上がりインタビューを受けていたが、ボソボソと語るなかにも、あきらかに緒方拳の演技に不満を漏らしていた。映画はまたまた冒頭の長廻しに度肝を抜かれる。本当にマグロを釣ったそのシーンは、よく分からずただその凝り様の異様さが突出していた。なぜか松竹の製作だった映画は興行的に惨敗だった。
 ある年には三本もの映画を撮ったときがあった。厳密には二本と一公開作なのだけど、『ラブホテル』(1985)、『台風クラブ』 (1985)、『雪の断章 情熱』(1985)。
 『ラブホテル』に参ったひとは多い。日活ロマンポルノで石井隆の名美と村木の話を撮りあげたその手腕は、もはや職人技としか言い様がなかった。なかでも山口百恵の「夜へ」が流れるシーンは圧巻だった。あまり知られてはいないけど、岩井俊二映画の手持ちカメラ撮影の篠田昇のデビュー作でもある。
 『台風クラブ』の伝説はあまりにも多い。ディレクターズ・カンパニーの初の自主製作であり、公募脚本から選んだ1作(しかも次点入選)であり、撮影のときも夏に撮影したにかかわらず、とうとう一本の台風も来なかったので、雨を降らして台風を作ったこと。
 実はこの映画のエキストラに参加して、相米映画に触れたことがある。日曜日早朝の原宿竹下通りにカメラを置き、原宿駅から出てくる工藤夕貴を捉えた3分ほどのシーン。段取りがあり、山手線がホームに入ると共にカメラが回る。それとともに雨が放水され、強風が吹き台風になる。予定では6時から7時までの1時間の撮影予定だった。テイク3まで撮った時に放水車の水が無くなった。日曜日なので人は増えてくる。しかし監督の指示は、給水してもう一度撮ることだった。放水車は給水に1時間ちかくかかった。そのあとまた2テイク撮ってようやくOKが出た。わたしたちはびしょびしょになって、現地解散だった。
 紆余曲折を経た映画だったけれど、まだメジャー映画会社に力があったころだった。当時の映画業界の認識では、弱小プロダクションが作ったスターの出ていない映画は公開に値しないということだったのだろうか。なかなか公開はできなかった。
 そこに偶然が重なる。バブルの祭りのひとつとして、東京国際映画祭がはじまる。しかし外国人に見せる映画が集まらなかった。苦肉の策として、新人映画監督に賞金付きの賞を与えることになる。それがヤングシネマ大賞であり、それを見事に獲った。それが相米と彼の周辺の関係を変えて行った起点となったのではないだろうか。『台風クラブ』がいつ上映されたのかあまり記憶に無い、その騒ぎにかかわらずひっそりと言ったイメージがある。そのころにはマスコミの対応もすべて世界が認めたすごい監督となったいた。
 『雪の断章 情熱』(1985)は、田中陽造のシナリオを徹底的に解体した映画だった。どうシナリオを読めばあんな映画になるのかという奇天烈な映画だった。これも伝説のたしか30何シーンワンカットじゃなかったっけな。東宝の撮影セットをふたつぶち抜いて作ったセットで20年くらい一気に見せるというアクロバットで唖然とした。しかもこれが東宝の正月映画で大林の『姉妹坂』との二本立てだった。これが一番不思議だったのかもしれない。斎藤由貴をゴミと呼び、精神棒を持ってしごくというイメージはこの頃に確立したんじゃないだろうか。
ヤングシネマの特徴は、次の映画を撮る資金を援助してくれることだった。相米は武田泰淳の「富士」をあげた。これは敗戦間近の富士山の麓にある精神病院の話だ。いまも中公文庫で読めるけれど、おもしろい小説だ。こんなバブル期に逆らった企画は通らない。
 相米の沈黙期が続く。隔年開催の東京国際映画祭の次回の目玉にと考えていた事務局の焦りを傍目に映画はなかなか作られなかった。そして『光る女』 (1987)が出来る。あまりにも観念的な世界であり、総すかんを食う。
 これ以降、映画とは距離を置いたかれは、この映画の音楽の三枝成章のオペラの演出をしたりする。あまり知られていないと思うが、この時期に日産のシーマなどの高級車のCMを何本か撮っている。
 『東京上空いらっしゃいませ』(1990)は松竹に勤務の会社員が書いたシナリオを映画化したものだという。この頃にはあまり良い観客ではなくきちんと見ていない。この頃には演出力だけで撮っている感じがしていた。
 相米の迷走はまだまだ続く。たしか自治体の紐付きで作られた映画だと思うが、相米のやりたいことがきちんと結実したのが『お引越し』(1993)ではないだろうか。主演の子役田畑智子に、中井貴一も桜田淳子も食われてしまう。撮影の栗田豊通は、ロバート・アルトマンの撮影監督だけど、もともとは『太陽を盗んだ男』(1979)で、助監督と撮影助手という関係だった。栗田の撮影監督方式は日本ではじめてのはず。自然光が美しい作品だった。
 どこまで行っても、子供の映画しか撮れないといわれるジレンマはあったのだろう。そこにディレクターズ・カンパニー倒産が重なる。結局、長谷川和彦が一本も撮らない会社で中心となったのは相米だったのだろう。ディレカンについてはここで述べることではないだろう。
 『夏の庭』(1994)は観ていない。
 『あ、春』(1998)。これが相米なのかというくらいカメラの動きはなく、誰が撮ったのかわからないほどだった。これがキネマ旬報の第一位に違和感を感じた。
 『風花』(2001)のメイキングを見たときに、にこやかにおしゃべりするかれの姿をみて、見てはいけないものを見てしまった感じがした。そのためか映画を見損なった。
 『翔んだカップル』(1980)は、だれもがいまでは使う青春映画の定番となった女の子が自転車で坂を下るを発明した。この映画は、キティ・フィルムの伊智地啓の製作。日活時代の知り合いというつながりだった。日活が合理化で人員削減したときに出ていったのが、相米、長谷川和彦、伊智地、岡田裕(『お葬式』プロデューサー)らで、残ったのが、中原俊、金子修介らだった。80〜90年代の映画を作ったのがかれらと言ってもいいだろう。
 あと加えるなら、この青春映画が当時の自主映画に与えた影響は大きかった。今関あきよしや松岡錠冶やぴあ出身の監督の多くはこの映画の影響下にあったといえるだろう。
 もっと言うならアイドル映画が、新人監督の作家性を発揮しても良い映画だとした元祖だ(その公式はいまも崩れていない)。
 『セーラー服と機関銃』(1981)は、映画の出来としては評論家にボロクソ言われた。おすぎが怒っていたのをラジオで聞いた。
 しかし、いままでのアイドル映画では借り物でしかなかった薬師丸ひろこが、ショートカットになって、全身で演技するのを見てその瑞々しさに全国の少年少女は熱狂した。また松田優作の『遊戯シリーズ』の仙元誠三のカメラがロケーションで、80年代の東京の雰囲気を余すところなく描き出している。
 なにかを総括するには、まだ時間がかかるだろうが、ただ同世代のひとりの映画作家が成し遂げたことはあまりにも多かった。

参考
日本映画データベース 相米慎ニ



●和ホラーに関する覚書(01/09/03)

 過日、池袋文芸坐のオールナイトで観たホラーの三本はいろんなことを思わせた。「これほどの日本映画ができるというのは、新しいジャンルが形成され全盛期を迎えたように思えるが、じつは日本映画の製作形態がまったく機能せずに瓦解していることを示している例ではないだろうか。これからもこのジャンルは定着するのだろうか」

まずはその三本ですが、
『いきすだま 生霊』(2001 東映ビデオ)
『死びとの恋わずらい』(2001 アートポート)
『富江 re-birth』(2001 大映)
『案山子 KAKASHI』は見逃しました。

■『いきすだま 生霊』
 製作には東映セントラルが絡んでいた。(最近では『うずまき』などそうだ。謂わずと知れたVシネの元祖)
 監督池田敏春は、日活ロマンポルノで『赤い教室』、ディレクターズ・カンパニー時代に『人魚伝説』といっても知らない人が多いと思う。どちらかというと、宮崎勤事件の前の第一次ホラービデオ・ブームの時に、『ギニー・ピック』、『オール・ナイト・ロング』シリーズと並んで、ブームを決定付けた『死霊の罠』で記憶されている。あの当時の評価からすれば、質が高くなかったホラービデオの現場に、若手映画監督が入った最初の例だったと記憶している。まあ、あの事件の影響があるにせよ、いまも残っているのは、『死霊の罠』くらいだろう。
 役者は、三輪ひとみ、明日美姉妹と、アイドル兄弟バンドDOGGYBAGの松尾兄弟。
 原作はささやななえこのマンガ。
 ストーリーは、オムニバス二本立てで、それぞれドッペルゲンガーものとポルターガイストもの。そこに高校生である彼らが絡む中篇。

■『死びとの恋わずらい』
 製作のアートポートは香港映画の配給などしている会社だと思ったけど。
 監督の渋谷和行は、福山雅治やGLAYのPVを撮っているということで、初映画。
 出演は、後藤理沙、松田龍平、母親役に秋吉久美子。三輪姉妹も出ています。
 原作は伊藤潤ニ
 高校の転校生が幼馴染と出会い、その周辺で起こる恋占いの伝説をめぐる事件に巻き込まれる。

■『富江 re-birth』
 清水祟は、ビデオ作品『呪怨』で、誰とも違うホラーを撮り上げた若手監督。
 出演は、酒井美紀、遠藤久美子、妻夫木聡。
 原作は伊藤潤ニ。
 菅野美穂、宝生舞に続く第三作。殺しても死なない富江にみんな狂っていく話。
 

さて、どこからはじめるか。いうまでもなく、これらの作品は映画館で観るためというよりは、ビデオで売るために作られたことは確かだ。したがって予算もシビアであることがわかる。『いきすだま 生霊』は、全編アフレコで、音響もモノラル。『死びとの恋わずらい』では、同録、ドルビーステレオだった。『富江 re-birth』は同録だけど、ドルビーステレオじゃなかった。
 撮影シーンやSFXの量からみても、予算の順では、『死びとの恋わずらい』>『富江 re-birth』>『いきすだま 生霊』 と思われる。(それに、役者のグレードも併せてるとね)
 これらの差をどう乗り越えるかが、興味深いところなのだけど、ひとつひとつみていくと、

『いきすだま 生霊』では、フジフィルムを使い、フィルターワークとラボの処理で全体の色を押さえ、モノトーンに近くして、現実感を微妙に無くしている。これは、撮影条件が悪いときに天候を統一する苦肉の策でもあるのだけど。池田のような映画育ちだと、間を持たせるために、カメラの回り込みなどが多くなる。下手な役者の演技を持たせるときなどがそうだけど、いまやテレビドラマの定番のカメラの動きなので、観ている方が予感してしまって、古く感じ間が持っていない。恐怖演出も、SFXが限られているので、血みどろシーン等控えめだ。音で驚かせる方法が、『リング』、『CURE』で確立してしまった今では、物足りない使い方。
 ドラマの構成が一直線で恐怖以外を排除している。いわば身も蓋も無い話ってやつです。中篇なのでそれなりの緊張感が出ている。これ以上長くするには、もうワンアイディアが必要なため適当な長さだ。

『死びとの恋わずらい』
 AV機能に力を入れるところからはじまっている。コダックフィルムで発色を良くして、ライトの当て方もポートレイトを撮るかのように背景から浮き上がるようにしている(カメラはスーパー16による)。音響のミキシングが、コンサートのように派手なだけでメリハリがないので、却って印象に残らない。あと同時録音で音がこもっているのは、録音技術の無さ。劇伴音楽もひとつしかなく、どんな場面でも同じ曲が使われるので、怖いシーンも興ざめする。
 しかしながら、問題なのは、なぜPVやテレビ出身の新人監督は高校生ものを撮ろうとすると、みんな大林宣彦になっちゃうんだろうか。この作品では、田舎の水郷と古い建物があるコジャレタ町が、千葉県佐原市にロケされている(ここは『うなぎ』や『月光の囁き』でも使われている)。『うずまき』では、長野県上田市でロケされたりと、大林の尾道状態になっている。それでなぜか自転車二人乗りのシーンが必ずある。また主人公の家も和洋折衷の住宅だったりする。なんか地方都市出身のルサンチマンが感じられるんだよね。というか、映画で一番大切なものはイメージなハズなんだけど、それをパクってきてなんとも思わない感覚が、PV、テレビ出身って思ってしまう。演出や編集の下手なところは置いとくが、勘違いしてんじゃないか。まあ、タレントをきれいに撮ることだけはほめられるけど、役者としては扱いきれてないね。後藤理沙はオブジェ同様だ。三輪明日美が芸達者なのには驚いた。そういえば『いきすだま 生霊』でも良かった。わかりやすくいえば、小林聡美クラスのうまさだ。
 SFXというか、CGI合成シーンがビデオ画面になるのには参った。合成の失敗だろうか、効果だと言われてもうまくいってないと思う。

『富江 re-birth』
 ビデオしか撮っていないのに大抜擢だと思うが、そのフットワークが和ホラーを支えているのだとも思う。こんなに誰にも似ていない映画を作る人は久々の登場だ。正統派の作り手でありながら、『発狂する唇』の佐々木浩久、『リング0』の鶴田法男、また黒沢清や脚本家の高橋洋などには影響されながらも、独自の作品になっている。
 どこが良いのかというと、基本的にアクションのつながりで物語を進めていくことに、ちゃんと神経を使って演出していることと、カメラの置く位置や動きが的確であって、長回しだと気づかない。これは巧みな職人芸に近い。室内の役者の動きとか、美術、小道具なども全然手を抜いていないのでリアリティがある。それでいながら、「これは映画です」という逃げ方はしない。まだ稚拙な部分もあるけど、上手な監督になりますよ。
 ただ、自然光による撮影がいまひとつで画面が暗く見えない。ロングショットの使い方など、そこら辺、黒沢清の影響がいくらかあると思うのだけど、抜け出て欲しい。音楽もゲーリー芦屋なので、全然問題は無い。それを使いきっている。『呪怨』のときも感じたけど、階段の撮り方が滅茶苦茶上手い。どこがって指摘するのはむずかしいんだけどな。
 題材が人間心理を生かし切れないので、説得力があるものにはならないが、『富江2』と比べたら、基本的には同じ話なはずのに、最後まで観せる力が全然違う(富江はジェイソンと同じ役回りだから)。ホラーの人物のテンションは現実とは別物なのでわからないけれど、たとえば他の題材でも撮れるのかと言うと、個人的なこだわりの部分が見えないのが、ちょっと気になる。
 

 概して、高橋洋ラインと、伊藤潤ニマンガラインがあるような気がする。そこから派生するのが、海外ホラーを基とする路線。黒沢清、中田秀男、鶴田法男ら。手本に忠実になろうとするあまり、怖くなくなっちゃったり、パロディーにしかならなかったりして来ている節はあるが。
 もうひとつは借り物路線で、原作マンガや大林宣彦の身近なところから持って来る、自称<映像派>。海外の技術動向には詳しいが、自分の語るべき映像言語をもていない。
こういうのってバブルの頃の異業種監督と同じで、違うのを作りたくて依頼するのだけど、逆にガチガチのどこかでみた映画が出来上がった例に似ている。

 両者を結ぶものは無いと思う。本来は、ジャンルを成熟させるために必要な、シナリオの完成度がほぼ壊滅状態だからだ。エンターテインメントを形成するまでのレベルに達していないのだ。わたしの言うジャンルやエンターテインメントとは、日活アクションとか、香港ノワールなどのことを指しているのだけど、通常ジャンルは成熟すると、他のコメディなどのジャンルとの融合やジャンルのカタチだけを借りる異色作が出てくるものだ。
しかし、このジャンルは広がりを持たないのが、致命的のような気がする。どこまで行っても成熟したり、別のかたちに変わるとは思えない。
たとえばピンク映画のように絡みがあれば、あとはどのようなドラマの展開をしてもよいという、自由度とは違い、この和ホラーは、制約がありすぎて、端的に言えば「恐怖の感情」以外を描くことはものすごくむずかしいことだと思う。そこに、ストーリーテリングや作者の想い(特質)を乗せることは、ジャンルの性格上困難だ。
 しかも、予算が無くても恐怖だけで、ヒット映画ができることを示してしまった『リング』以降、新人の起用は定番になっている。登竜門としてのこのジャンルで要求されるのは、突き詰めると「映像の表現」のみになってしまう。「映像表現」ではない。職人芸としての映画の語り方ではなく、作家芸としての映像の造型を求められるのだ。
映画監督個人に求められるのは、もはや映画として成立しているかではなく、映像商品として特徴(売り)があるかということなのだ。そこには映画が物語を楽しむものではなく、シーンと映像を楽しむものへと、観客の巷にあふれる映像への理解の仕方が変わってしまった現状がある。
他映像業出身(CM、PV、TV)監督が求められるのも、その流れだろう。しかしながら、彼らの映像に物語や感情の流れをねじ伏せるだけのちからは無いのも現状だろう。ただ彼らの持ち込む映像表現の規準については受け入れるところは大いにある。いつまでも旧来の映画表現技術(いわゆる邦画の貧乏臭さ)ではだれもが古臭く感じて見ないということを忘れてはならないだろう。
 そのなかで、映画としてのエンターテインメントを表現できる人物(プロデューサー、脚本家、監督)を探すとともに、いまの映像技術を使いこなす人物からも刺激を受けていく幅と多様性を持つことが、商業的に大きな流れとしての「和ホラー」として、世界的に生き残れる方法ではないだろうか。 


●’99カンヌ国際映画祭の誤算

 ヨーロッパ3大映画祭と呼ばれる、カンヌ、ベルリン、ヴェネチアがある。今や、ハリウッドメジャー以外は、そこでの受賞を目指して、仕上げ時期を合わせているといえる。

 日本に書く映画祭への窓口があって、そこに毎年その映画祭の作品選考ディレクターが来て、めぼしい作品を観て作品招待を決める。昔は、英語字幕プリントを先方に送ったのだが、最近は、ビデオでしかも東京に来て、 他の映画祭に取られないようにして作品を確保していくのが常識のようだ。

 3大映画祭の中でも特にお祭り要素が高い、カンヌでは話題性が優先され、幾つものハリウッド映画のプレミア上映とか受賞が行われているが、今回、 審査委員長に、非ヨーロッパ人のカナダ人偏屈監督、デビッド・クローネンバーグを選んだことが大誤算だったのではないだろうか。グランプリ授与の時に審査委員のソフィー・マルソーが文句言っていたらしいが、フランス人としてはそりゃそうだろう。今年は、ジム・ジャームッシュやデビッド・リンチ、マルコ・ベロッキオ、ペドロ・アルモドバル、北野 武といったメンバーが揃ったのに受賞作品は、ベルギーの小品『ロゼッタ』。日本じゃ、ビターズ・エンドと言う小さな配給会社で公開だ。地味なヨーロッパの閉塞感を描いた作品らしいが。しかも上映日が映画祭最終日前日だった。

 いまは、国際映画祭が二つの道に分かれようとしている過渡期だと思う。ひとつは、街起こしとしての権威づけ映画祭。大型映画祭がこれに当たる。新作の上映が主だ。もう一つは、発見、発掘の映画祭。知られていなかった作家を表舞台に出すこと。今年のカンヌで起きたことはその逆転現象だった。如何にもクローネンバーグらしいと言えばそうなのだが、 メジャーの映画祭で興行的には成功しそうもないマイナー発掘をしてしまったのだ。お祭りを白けさせる人物を選んだカンヌの事務局もバカだと思うが、映画祭の偽善を暴いたクローネンバーグはどこも呼んでくれないだろうな。メジャーどころはね。

 新人映画監督が世界に出て行くには、映画祭で賞を取るのがてっとり早い方法と言われている。映画祭が増えたために、出品作品が足りないし、一方では、箔をつけるという意味で両者の利害は一致している。だから、逆に、名の出た監督は、出品する映画祭を選べるし、賞を取りやすい傾向のある映画祭を選ぶことが出来るのだ。(ファンタスティック系に強いとか、新人に賞を与えやすいとかね)。一時期、中国系がそれで世界の映画祭を席巻したけど、今は世界中どの国でもそれは戦略としてやっているみたい。日本より海外でのほうが知名度の高い塚本晋也などそうだ。だから、ポスターの何とか映画祭受賞には気をつけようね。
 


●デジタルとアナログの狭間に

「FLICKER!#4」:AXIS:\1,500という雑誌が手元にある。「感性を狙撃する!次世代デジタル映像誌」というものらしい。なんで、買ったかというと、特集記事の 「最近、ニホン映画観てる?」に知り合いの監督がインタビューに答えていたからで、それだけ読むと、「キネマ旬報」と変わんないじゃん。とお思いでしょうが、それが、3Dアニメーションソフトの使い方、レビューの間に挟まれて、“映画撮影現場ルポ”や“フィルムの種類と撮影の実際”のような記事が混在しているのだ。なんだこりゃ。と思わずにはいわれなかった。ようするに、 デジタル、VTR映像とフィルムしか使わない映画人の間ではものすごい感覚、技術、教養の落差が生まれているのだ。(これは友人のディレクターからも同様の指摘もあった)

 間を取るように、岩井 俊二と掛須 秀一(AVIDの編集者、日本の第一号)の対談があるが、岩井はハイビジョンカメラなら、F効果で疑似フィルム効果は出せると言っているが、それは、お前、CMでハイビジョンモニター上だろう、と突っ込みを入れたくなる。

 ベータカムなら一日10万円程度かかるものをDVなら只同然で回せるから、世界の趨勢がそちらに行くのは必然だろう。フィルムにこだわる時代は終わりに近づいているのではないだろうか? ただその時に、映画の原理も知らず、ビデオしか知りませんと言う人間が主流になると今のハリウッドのMTV出身監督ばかりになってしまい、ドラマが作れない可能性もあるだろう。

 日本では、映画が産業として成り立ってないから(世界中どこもそうか)特にその断絶が激しいんじゃないかと思う。アメリカとかの大学の映画学科では基礎教養としての映画を教えているから、まだデジタルと齟齬があまりないと思うのだが、どうなのだろうか?少なくとも日本の映画人はデジタルには疎すぎる。

 と言うところで入ってきたのが、スターウオーズがデジタルで上映するという話題である。これが本当に映画館と同様の効果を上げれば、プリントのコストダウン、制作費のコストダウンに大いなる影響を及ぼすだろう。

 その時に必要となるのは、デジタルの技術を使えることと、アナログの教養、センスの蓄積だろう。
 


●初春放談〜映画がキライと言う人には会ったことはないが、それでいいのか日本映画〜

 近頃、映画は窓口で当日券を買うどころか、“チケットぴあ”で、200円安く、買うなんてこともしないで、ひたすら安売りチケット屋で、なんだか分からない 株主招待券などを購入している。(ちなみに今回は1200円)誰が得して、誰が損しているのかなあ。やっぱ、損したのはチケットを売りつけられた人かなあ。いや待て、株主招待券の場合は、チケット屋に売る方も得をしているではないか。じゃあ、だれがリスクを負うんだよ。こんな状況がおかしいと感じないのかな、とか言っているウチに名画座が潰れる。でかい(ポリシーのない『タイタニック』しか置いてない)レンタルビデオ屋しか残らない。なんてこと言ってても仕方ない。

 日本じゃ、とっくの昔に“映画”は“産業”としての役割が終わったんだから儲け、作品を作るという発想がない。友人の映画ライターは「国からの資金援助で生き延びていく仕組みを作るべきだ」と言っているが、娯楽至上主義としては、ケツが痛くなり、発作的に席を立ちたくなる映画は観たくないからその意見には反対である。

 古今亭志ん生じゃないけど、かつて「落語なんて、無くったって、無くったって良いもんだから」と言ったらしいが、映画も同じだと思うけど、駄目になったら、それからそこからまた始めりゃ良い話でノスタルジーとか、松竹が東映が土地売ったとかどうでも良いんだよね。去年、日本映画の復活とか、ぎゃあぎゃあ騒いでいたけど、不景気で手っ取り早く客が来ているだけだろう。テレビで宣伝してさ。そりゃそれでも良いんだけど、レベルとかいっちゃ悪いからなんというかなあ、ドキドキする映画、あっけなく確かに映画を観たという手応えのある作品が出て来るのだろうか。『リング』くらいかな。

 映画プロデューサーの時代とか何人かのプロデューサーが持ち上げられているが、彼らの作品に一貫性があるか?3本続けてみられるか?適当な役者やスタッフはおさえられているのか?とまず聞きたい。彼らの多くがどこかに所属する社員であり、後ろ盾がある。しかし、 シナリオが読めないという致命的な欠点があるといえよう。嘘だと思うなら、今、書いたことが当てはまるかどうかリストを作ってみたらどうかな。キャスティングやスタッフリングの妙がみられるとか、監督を野放しじゃなくコントロールできているか?(だらだらした映画作らせないこと!)

 手塚治虫じゃないけど、日本の映画の才能の多くが漫画にいってしまったことは確かだ。近頃の安直な漫画原作の映画の多さがそれを示していると思う。とともに、演出の均質性という問題もあるのではないだろうか。長回しすりゃいいってもんじゃないぞお。日本の撮影技術もかなり世界的にもレベルが高いので、画が保ってしまうんだよね。それを演出、作家性と勘違いしすぎ。モーション・ピクチャーの意味をも一度考えた方がいいね。あと、お客のこともね。勿論、「一スジ、二ヌケ、三ドウサ」のストーリーもである

 まあ、本論はないからいいんだけど、各個個別にやると、それはそれで面白いんだけどね。ここらで、終わりにしよう。結論はありません。

 都知事選に石原慎太郎が出て、当選して、かつて国会議員時代、弟の石原プロの『大都会』『西部警察』の撮影で東京のド真ん中で爆破やカー・チェイスを警察とコネつけて実現させたというように、東京で滅茶苦茶なロケできる世の中なってかないかなあ。(3/7)
 


●誰が映画を愛しているのか。徹底比較!『タイタニック』VS『ムトゥー、踊るマハラジャ』

 どうも、世の中変になってきているようで、映画を観に来て「感動したい」とか「泣きたい」とか巫山戯たことを言う輩が増えているようだ。映画をテレビドラマと勘違いしているようだ。この3カ月ほど、ヒマだったので結構マメにテレビドラマ見ながら飯食っていたけど、これがどのドラマも必ず一回は、主人公が泣くのね。くだらねえこと言いながらさ。はっきり言ってそれがドラマの起伏と大して関係ないので見ている方が白けてしまう。だったらもっと盛り上げんかと、思わず突っ込みを入れたくなるほどだ。日本人のメンタリティーなのか。マスコミのメンタリティーなのか、作家とプロデューサーの精神状態なのかは解らないけどこんなに泣くドラマって多かったっけ。

 問題は映画だ。『タイタニック』は、映画ではなくテレビドラマだったからあれだけ受けたのではないか。あんなに分かりやすく定石のレールに乗ったストーリー展開ってあっただろうか。登場人物の人間描写の薄っぺらさも気にはならなかったか?映画の持つスペクタクルで味付けしたトレンディードラマ(ハーレクインロマンス)じゃないのだろうか。葛藤も感情の交錯も目に見える通りで、それを台詞で補うから分かりやすい分かりやすすぎる。そこには想像力の飛躍が何にもないんだよね。近頃の 大作・体感映画はみんなそうだと思うけど、登場人物の感情を演技で見て、どうそれを演出してストーリーの中で活かすかよりも、シャープなカメラで撮った画面の中で決定的な痛さ、息苦しさのような本能的な感情をパブロフの犬の様に刺激を受けて反応させられる映画を好んでいるんじゃないのだろうか。そこには勿論ハリウッドのテクノロジーが絡んでくるのだけど、ジェームズ・キャメロンや、スピルバーグはそれに気がついて映画というおもちゃを撮っている見せ物として、それは徹底すれば映画として本家返りしていると言え別に否定する事じゃない。テクノロジーの進化が職人芸を消滅させることなんて日常、良く転がっている話だからね。

 顧みて『ムトゥー、踊るマハラジャ』はどうだろう。VFX(特撮)はほぼ無く、『タイタニック』とは、3時間と上映時間とラブストーリー?という共通点しかない。だけど映画の面白さは半端ではない。それはどこから来ているのか。誰が映画を信じているか、いや信じさせているかという事だろう。映画ってなあにと聞かれて何と答える。豪華絢爛夢の世界なんて陳腐だけども本質的な言葉はすぐに誰の口からも出てくる。そう、それを易々と実現してしまうことに『ムトゥー、踊るマハラジャ』の強力さがある。原始的な体感映画の大局にある、映画百年で作り上げてきた映画の嘘のテクニック、楽しませる、観客を幸福な気持ちにさせる方法を全て動員しているところなのだ。歌、踊り、アクションのカット割り・スローモーション、エキストラ、スター!という映画でしか表現できない手法が炸裂している。観客の観たい映画を展開しているのだ。別にそこに志があるわけでも何でもない。ただ、幸福な時間を作り上げてるだけだ。

 そこには、世紀末の映画テクノロジーの可能性は無いが、映画の可能性、観客との可能性はあるのではないだろうか。映画館で観る映画が良いなんて言う気はないけど、劇場の熱気というのはひとつの楽しみでもあるわけだ。話が逸れたが、別にどちらがどうという話じゃないんだ。とどのつまりは映画はテクノロジーの進化へと進んでいくがそれがシンポとは限らない。そう思って劇場に行かないとハリウッド映画以外は観られなくなるよ。映画を観るときの感情の基準がそこになってく可能性はある。

 始めは『タイタニック』を貶そうと思ったけど、『プライベート・ライアン』を観て気が変わった。ボクも洗脳されてきてんのかなあ。
 


●ドリーム・ワークスSKGはすごいんじゃないのか?!

 多分、あんまり気を引くタイトルじゃないだろうが、こんなこと誰も言わないだろうから書こうと思う。そもそもドリーム・ワークスってなんだか知ってる?ハリウッドの映画製作スタジオの名前だよ。スティーブン・スピルバーグ、ジェフリー・カッツエンバーグ、デヴィッド・ゲフィン、の頭文字を取ってSKG。・・・でも分からないかな。ヒット映画メーカーのスピルバーグ、落ち目だったディズニーを立て直した元社長カッツエンバーグ、ゲフィン・レコード会長のゲフィン。というメンバーが集まって作ったスタジオ。資金的にはマイクロ・ソフトのビル・ゲイツも絡んでいるというスタジオ。  その第一作目に『ピース・メーカー』を選ぶところにこの集団の異様さがあるとボクは思う。内容の紹介は別のところで書いたからけど、見る前の「どうせ、手堅いヒットするテーマなんだろう」と思ったら大間違いで驚いた。そして、ドリーム・ワークスという会社を考えると、集まった三人は(ビル・ゲイツも入れると四人になるが)、エンターテインメント産業にいるある現代アメリカ人たちの典型だと思った。  スピルバーグは、片親の永遠のマザコン少年。カッツエンバーグは、栄光の座をアイズナー会長に追われクビになったビジネスマン。ゲフィンは一代で大レコード会社を築き上げた公然の同性愛者。ゲイツはコンピュータおたく。多分、みんな戦後生まれのベビー・ブーマー世代だろう。なんか明るいアメリカの負の部分を担当する屈折した成功者の集まりだ。逆に言えば、アメリカのエンターテインメント産業がないと生きてはいけなかった人たちなんじゃないかな。ユナイテッド・アーティストをその昔設立した、チャップリン、グリフィス、ピッツフォードだってクセのあった人たちだけど、ドリーム・ワークスの屈折ぶりに較べたらおおらかなものだと思うが。なんせ監督に 『ER』の実績はあると言え、テレビ出身の新人の女性の監督を選ぶなんて、アタマの構造がねじれているでしょ。だから今、ドリーム・ワークスが何を考えて映画を製作しているか興味があって、しばらく全作品を追ってみようかと思う。他の映画スタジオとは違うねじれ方をしていると思うので、それを解明していきたい。今、考えているのは、描かれている価値観は、アメリカのモラルについてではないんじゃないだろうか。すごく複雑なことをしていこうとしているみたいだ。 ・・・・なので取りあえず『ディープ・インパクト』を見に行かなくちゃ。
 



 
 


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