Make your own free website on Tripod.com

新作の神は細部に宿る(街とビデオ屋で見られる映画)

 誰もが見る映画は、観なくてもいいっショ。毀誉褒貶の戦慄の新作情報。参考になるかいな………


●スペースカウボーイ

 SPACE COWBOYS

 00

 クリント・イーストウッド(熊谷シネプラザ21)

 映画がおんな子どもや渋谷アートもどき野郎に占拠されてから久しいが、ここにハリウッド映画が21世紀も生き残る可能性を示した映画がやっと登場した。それはとても反動的ないわば超保守といわれる男の映画への反逆とも愛情とも後年、評されることだろう。

 音響や爆発やSFXだけでなく、まだ映画で人を感動させることが可能だということを、身を持って証明した男クリント・イーストウッドは、70才。その彼とチームを組んで宇宙に行く男たちが、設定上のキャラクター、プラス、役者そのものの魅力によって一層存在感のある演技を見せる。だってイーストウッドと54才のトミー・リー・ジョーンズが同じチームにいるなんてあり得ない設定をぬけぬけと説得させる語り口は、「映画とはそういうものである」と確信を持っているとしか思えない。

 どちらかというと『バード』、『許されざる者』、『マディソン郡の橋』、『真夜中のサバナ』など重いテーマをねちっこく撮ることで評価されるようになったと思うが、実は映画自体のダイナミズムを大切にしながらプロの仕事として観客を魅了する術を十分に心得ているのだ。

 4人のスターのこれまでのキャリアを知っている観客に目配せをしながら、それを楽しんで誇張して描くなんて敬意と親愛がないと成立しない演出手法と思う。ある種、ハワード・ホークスのリオ・ブラボー三部作を思わせる雰囲気もあるが、僕はドン・シーゲルの『ダーティー・ハリー』以降の軽やかな作品群を思い起こした。『突破口』のウォルター・マッソー、『テレフォン』のチャールズ・ブロンソン『ラフ・カット』のバート・レイノルズらスターと一緒に彼らのキャリアとキャラクターを生かしながらも、型にはめずに作り上げるセッションのような映画作りに近いと思った。

 語り口もシーン変わりもばっさり大胆な省略法を使い、今の観客には着いて来れないほどのテンポで物語は進む。でも観ていればわかるんだよなあ、実は。なぜなら物語が非常に単純だからだ(笑)。

 SFXにしても、無重力状態は老体たちの身体がきついからこれくらい描けば良いだろうと最小限の表現だけど、きちんと無重力で浮かないように足元を固定するとカットなどディテールはきちんと描いている。手抜きでは無い説得力だ。

 この簡潔な編集・演出をあえて選んだことに監督兼プロデューサーとしてのキャリアと自信が感じられる。この映画の簡潔さとキレは、いつまでもうだうだ自問自答しているJ=L・ゴダールの近作を遥かに越えた的確さだ。

 「映画ってこういうもんだよ○○君」と無言のメッセージを送ってくる(○○には、ルーカスでもスピルバーグでも誰でも良いけどね)。タランティーノとルーカス以降、無意味に複雑化された映画に対してもっとも未来志向な答えだといえる。

 ラストは男の(そして彼に感情移入した観客の)バカな夢で終わり完全に『スペース・カーボウイ』の虜とされてしまう。

僕的にはあまりフューチャーされていないが、ジョン・フリンの傑作『ローリング・サンダー』のウイリアム・ディベイン&T・L・ジョーンズのコンビが観られてうれしい。この作品は『三鷹オスカー』で観たなと思い出してしまう。

 わかっているな監督は、とにんまりする。

(角田)



●サノバビッチ★サブ

 00

 松梨智子(中野武蔵野ホール)

 うーん、きついなあ。というのが正直な感想。敗因は一つ、きちがい女・松梨が主役じゃないことだ。だから彼女が出ている前半だけがおもしろく観られるんだ。基本的に確信犯的な悪趣味・妄想は彼女が画面に出てはじめてインパクトを持つ。だから他の誰かが狂気を演じていても、それは松梨のフィルターを通した面白さであって、肉感的にこちらまで届いてこない。

 今回の場合はインモラルな登場人物たちが遭遇する出来事がかなり読めてしまってツライ。おいおいオチはそこかい何か普遍的だなあ……、ずっこけました。

 ちょっといきなり自主映画の世界だ(もともとそうだが)。毒が効かないんだよお。笑いが並列なんだよな。主人公が絞り気切れてないのもなあ。あと、スプラッターねたは、『モンティー・パイソン&ホーリー・グレイル』ですでにやっているのでぜひ観るように。

 もともと時空間処理はめちゃくちゃな人で、それは演劇的で別に良いんだけど。今回は物語の時間配分に失敗していると思う。物語の中で数年たつとするときには、そのシーンも長くなり、繰り返しをいれることで時間経過を示しているのだけど、そのシーンのなかに飛躍がないので、映画のスピードが停滞してしまう。ちょっとそれが多すぎたんじゃないの。

 今回の問題は、いかにもコンピュータで編集しましたという感じの編集。入門書に「こういう風にはしてはいけません」というのを全部やっている。テロップの入れすぎ、エフェクトの使いすぎ。

 あと、音楽、音響の処理のまずさ。『毒婦マチルダ』は音楽のインパクトが作品を引き締めていた。今回は音楽がうまくはまってない。

 撮影はお金のないのは分かるけど、もう少し出来る人に頼んだ方がクオリティーあがるよ。バカコメディーで画面が見えず、セリフが聞こえないのは致命的だと思う。

 一年に一作撮るのは大変だと思う。しかし僕はきちがい女優監督、松梨智子を観たい。

(角田)



●ジャンヌ・ダルク

 99

 リュック・ベッソン(ヴァージンシネマズ市川コルトンプラザ)

 ベッソンによるコスプレ超大作。「フィフス・エレメント」の頃よりは格段に「女優」になっているので、ミラ・ジョヴォヴィッチが好きじゃないヒトは、ますます嫌いになるだろう。あの声でオーバーに怒り、泣き叫ばれたら、たまったものじゃない。

 映画監督が自分の恋人を主演に据えて映画を撮るのは別に珍しいことでもないが、その作品のスケールが大きければ大きいほど、その監督と主演女優の恋愛は破綻へと向かわざるを得ないのは何故だろう。ま、いずれにしても自分の恋人を使って2時間半ものコスプレを撮れるというのは、うらやましい限りだが。 

(船越)



●御法度

 99

 大島渚(ヴァージンシネマズ市川コルトンプラザ)

 心理学を学ぶ奴はブロークン・ホームに違いないし、ホモ映画を撮る監督は絶対ナルシストに違いない、という偏見が僕にはある。だから大島監督はナルシストに違いない。

 この映画は「セックス」と「バイオレンス」という大島監督好みのモチーフに加え、監督好みの美少年(もと美少年)たちが3人(松田龍平・武田真治・浅野忠信)も出演している。ここまで監督の趣味が前面に押し出されてはいる作品も珍しい。話も相変わらず弁証法的で判りやすいし、夜のシーンが多い映像も綺麗なので復帰第一弾としては、申し分ない。たぶんスタッフが優秀なのだろう。個人的には松田龍平より武田真治の方が色気を感じたし、大島監督には、こういった行儀のいい変態映画じゃなく、次作ではぜひ破綻した快作を撮って欲しいとも思う。

(船越)



●雨あがる

 00

 小泉尭史(新宿武蔵野館)

 これは、いわゆる時代劇というジャンルで解釈してはいけない。黒澤明という日本映画の一時代を築き上げた監督のクロニクルの終わりとして観なければ何も見えてこない。

 今、“時代劇”と呼ばれるコスチュームプレイは、非常に偏ったジャンルとしてしか存在していない。いわゆる一時間の勧善懲悪のワンパターンのチャンバラとしてしか想起されないと思う。また黒澤明の評価も“巨匠”とか“大仰な”という言葉で括られている。  しかしこの作品を観ているうちに、時代劇というジャンルのそもそもの豊かさに包まれている作品だと思い始めた。山中貞雄があり、伊藤大輔、マキノ雅博ら、戦前から時代劇を撮り続けた監督の作品は、決して硬直したチャンバラだけがメインの活劇とは限らなかったと思う。いまも多くの人が「時代小説」を読むように、時代劇に託して描く方法は決して間違っていないし、そうでなければ描けない題材もあるだろう。そんな寓話として観ていく方が楽しめることに気付いた。

 晩年の枯れた境地の脚本としては、無性に懐かしく感じられるひとつの世界を描ききっている小品としてキチンと評価すべきであろう。三船史郎のバカ殿様も、明朗な闊達な愛すべきキャラクターとして狂言回しであり、単純に演技云々を言ってもそれは的外れな指摘だと思う。確かに彼の存在は、黒澤明自身が作り上げた“リアリズム時代劇”からは、遠く外れているようにみえる。もう黒澤時代劇=リアルの枠は外してあげようじゃないか。「黒澤だから」というので厳しく求めすぎているものが多すぎると思う。

 それよりも、三船も含めた作品世界を、その空気とリズムを楽しみたい。といいながらも、これほどシナリオの骨格の太さで勝負している作品は、やはり黒澤明だなあと感じさせてくれる。最後に彼は、活劇映画ではなく、映画自身の活劇という、娯楽を通して映画の豊かな世界に忠実な作品を残せたのではないだろうか。

(角田)



●スリーピー・ホロー

 SLEEPY HOLLOW

 99

 ティム・バートン(新宿プラザ)

 ディズニーが作ったアニメ版『スリーピー・ホロー』観られないかなあ。背景が全部ゴッホ調らしい。そっちの方が気になるなあ。当然この作品も参考にしているらしいけど。

 バートンは相変わらず、ツボを外さない手堅い演出を見せるけれど、ちょっと気になったのが製作総指揮でフランシス・コッポラの名前があったりしたことね。映画会社的にはこれをクラッシックホラーの『ドラキュラ』、『フランケンシュタイン』の路線で(もちろんコッポラ版の方ね)売ろうとしてたんじゃないかと思える。また、B班カメラマンでコッポラ、ルーカス人脈と関わりの深いコンラッド・ホールが名を連ねているのを見て、コッポラが口出しをしたのかなあとも考えてしまった。

 というのも映画のリズムがいつものティム・バートン映画と違い、アクションの部分などカットが多く、変にテンポがあったような気がした。コスチュームやセットなど完璧なのだが、歪んだ世界観があまり見えてこなかった。ジョニー・デップと母親のリサ・マリーのところくらいかなあ。悪くは無いんだけど主人公が誰だか良く分からなかった部分で感情移入がしにくかったのかも知れない。

 というの『セブン』のケヴィン・アンドリュー・ウォーカーだったからか。血塗れなのに盛り上がりに欠ける平坦なシナリオの問題なのか。ファンタジーなのにファンタジー色が薄かった気がするなあ。その部分に結構期待してたんだけど、期待のしすぎかもしれない。室内シーン(長回し)とか、廃虚のシーンなど静かなところは雰囲気があって良いのだけど、風車の所とかシーン的に意味ないと思うし、とにかくアクションが良くない。他の所と溶け込んでいない。編集のこけおどしがすぎる。これはコッポラが悪いと言うことにする。

(角田)



●カリスマ

 00

 黒沢清(テアトル新宿)

 黒沢清の映画は、いつも「映画」を観るだけではなく、「映画」の体験を観客に余儀なくさせることだ。

 適当な言葉がないが純粋映画という言い方は好きではないが、ジョン・フォードの『捜索者』が西部劇映画を遥かに越えた美しい映画を体現したように、口実としてのストーリーやテーマを簡単に脇においてしまう映画を作るときに一番スリリングな映画となる。

 久しぶりに訳の分からないと呼ばれるだろうし、エコロジー映画と勘違いされる要素を多く含んだ意地悪い解釈も出来る本作は、『ドレミファ娘の血は騒ぐ』以来と言って良いほどスリリングで挑戦的なスタイルだ。

 言っておくが、これは1970年代のアメリカB級アクション映画なのだ。そのスタイルを緩用しながら独自の映画世界を築き上げていく試みだ。だから、主人公はピストルが必要なために刑事であるし、放浪するダーティーヒーローの為に失職するし、得体の知れない森は、まるでペキンパーかイーストウッドかドン・シーゲルの西部劇の舞台になるような僻地だし、謎の農業研究所職員は傭兵集団だし、彼らの樹を巡る争いは『ジョーズ』の漁師、警官、研究者のタイプキャストの色分けを使っている。(パロディーシーンもある!)

 彼らの行動原理をアクション映画の登場人物と考えれば、ひとつひとつの行動、身のこなし、カメラの位置、光の美しさが理解できる。何度も言うがストーリーは口実である。観る側とのギリギリの対話を映画を通じて行おうとしている、その様子がアクション映画のように美しく、格好良いのだ。

 冬の自然光が良いとは思えないが、独特のアクセントを作品に与えていることは確かだ。またカメラもパンするときに安易に広角レンズを使ってないので、背景がブレて流れショックのある画が出来ていて突き放した感じが良く出ていたと思う。音響効果の設計もドルビーで無いのにそれ以上に、緊迫感がある音の使い方になっている。

 是非、「映画」を体験して欲しい。

(角田)



●シュリ

 SHURI

 98

 カン・ジェゲェ(新宿ミラノ)

 広い劇場で公開されて良かったです。お陰で多少の粗さも気にならずに観られました。というかそういう風格、この時代には珍しく“マス”(大衆って言葉なのかなあ)に向けて作られた映画と感じた。早く言えば、世界の映画が冷戦終結と同時に“マス”に向けての口実としてのテーマ(多くの人が共感するという意味で)を見失って、矮小になるか敵がエイリアンになるかしかならなくなった状況で唯一残されたドラマが生み出されるところ、南北朝鮮問題にフォーカスを合わせながらエンターテインメントの要素を見事に取り入れたのが面白い一因だと思う。それと同時に、冒頭の北のスパイ養成や銃器の組み立て、扱いのリアルさ(ずっしりと重さが伝わってくる点)などの細部の演出が映画に真実味を与えている。

 ドラマとしての甘い点、恋愛とか済州島のシーンや情報部内部のドラマなどは、『踊る大捜査線』をはじめとする、日本のTVドラマの影響があるのではないかと勘ぐってしまう。センチメンタルさと、ユーモア、人物の対立から出てくるドラマとの割合がそう感じさせる。脚本家、君塚良一の世界が前記の三点のバランスが絶妙の人だからね。

 『シュリ』の上手い点は、実はクライマックスであるはずのサッカー場のシーン前に、登場人物の感情の流れが観客に完全に整理されて未消化な部分が無いために、ハラハラドキドキじゃなく、結果は分かっているのだが、悲劇がどのように結末を迎えるか、そこに完全に観る側の比重が行くように仕組まれているところだ。だから、この映画の一番の名シーンは一発の銃弾で撃たれ、彼の顔を見つめながら死んでいく、あの崩れるように倒れていくところだったと思う。あの彼女の表情に全てが集約されて感情が見事に頂点を示した。サッカー場というスペクタルな設定を作りながらも、音楽とかアクションで単純にごまかすんじゃなくて、脚本が良くできているために観ていて未消化な部分がない。

 逆に言えば非常にお古典的な話が成立するのは、世界で一番ホットな所でしかあり得ないのかも知れない。

(角田)



●戦争のはらわた

 THE CROSS OF IRON

 76

 サム・ペキンパー(渋谷シネアミューズ)

 今見直すと、案外とこじんまりとした低予算な映画だったことが分かった。初見の時はすんごいスペクタクル戦争映画で、「境界線!」がクライマックスで延々とあった気がしたけどそうではなかった。でもそんな事は関係なく、ただただ泣ける映画には変わり無かった。画と音、音楽の編集の細かさがペキンパーの映画の中じゃ一番凄いんじゃないだろうか。劇場のスピーカーの音量が最大になっていたにもかかわらず、全然うるさいとか不快に感じず、逆に緻密な職人芸を感じた。

 ドイツ軍の軍服を着た西部劇だと言うことが、相変わらずのペキンパー映画に出てくるアウトローの男達の登場でよく分かった。『ワイルド・バンチ』とそっくりだもんな、登場人物たちの美学が。観よ、男達のバカ騒ぎを!

(角田)



●富江REPLAY

 00

 光石富士朗(新宿東映)

 つらいなあ、低予算。それをカヴァーする何かを最後まで見つけられなかったんだろうなあ。前作も観てないんで何とも言えないけど、どーゆー映画なのかついに分からなかった。別に宝生舞じゃなくても良いじゃないかと言うのが最大の疑問。人面疽の設定も謎だ。山口沙弥加もあんな使われ方じゃ可哀想だ。最も画面が暗いのも良くない。アイドルを使う意味がない。結局、ドラマもホラーも中途半端。演出に強引な力ワザがあれば違ったろうが、監督はホラーが好みじゃないみたいだ。頼むからどこか面白いところを作って欲しかった。

(角田)



●うずまき

 00

 higchinsky(新宿東映)

 貶すのは簡単、でもどこかで「そんな簡単に片付けない方が良いぞ」という囁きも。なあんで全てをパクリで片付けようとするのかよく分からない。大林映画からたくさん持ってきているというか、映像だけの人ってなんですぐ大林なのかなあ。まあわかりやすいからなんだろうけどさ。ビジュアルショック的唐突な演出も、まあやるのは勝手だけど、金取って見せるなよと、軽く舌打ちしたくなるし、映像が凝って豊かな風に見えるけど、実は映像の表現力の1/100も使いこなせてないことに気付いていない勘違いに気の毒にとも思いつつ、そういえばNHK-BSで深夜やってた『アタラント号』は、素晴らしかったなあ1930年代に映像で映画の感情を豊かに描ききってたんだなあともぼんやりと考えてもいた。

 まあ、ビデオで撮影してキネコ起こししたらしいけど、あまり分からなかったし、ビデオ合成だったので、合成部分もきれいに出来てたんで良いかと簡単に許してしまったりして、これからこういうスタイルもどんどん増えて来るんだろうなとも思い、やだなあフィルターで色調を作り出すなんて照明がいらねえじゃないか、そういえばこの作品の照明って滅茶苦茶フラットだったなあ、奥行きがなくて、単純に広角レンズで歪ましてごまかしてるだけじゃんと気付いたりもするわけ。なんかパクるんだったらもっと志の高いパクリをして欲しい。どうせ類似品が増えていくことは確かだから。どこまで借り物で済ます訳?あ、ついでに言っておくとビジュアル的うずまきイメージの面白いところは、全部原作の中にあったよ。

(角田)



●シックス・センス

 SPACE COWBOYS

 99

 M・ナイト・シャマラン(渋谷シネフロント)

いやー、見事に騙されましたわ。ドンデン返しがあると聞いていても、最後まで分からなかった。ルール的には反則ぎりぎりというよりも、大反則だあ!そりゃわからんわ。これ以上バラすと結末が分かってしまうかも知れないんでこれくらいで。

 全体的な作りが非常にオーソドックスな撮影、演出がなるべく目立たないようにして観客を安心させといて、いきなり幽霊を現実と同じレベルのリアルさで出してきて、恐ろしさ満点のホラーに一瞬にして映画を変える。これは、『ブレア・ウイッチ・プロジェクト』とは正反対の手法だけど、ボク的には『シックス・センス』の方を買うなあ。きちんとしたスリラーを現代的に解釈した分だけ、素人のまぐれ当たりの『ブレア・ウイッチ・プロジェクト』よりは全然いい。

 幽霊の出し方にしても、照明や息が白くなったりして、「出るぞ出るぞ」と思わせてそれ以上の衝撃を与えてくれるからねえ(げろ吐き少女には参った(笑))。ホントにありとあらゆるホラーからスプラッター、ショッカーを研究して、さりげなく作り出した、丁寧な作りだと思う。だからロングランするし、人に薦めやすいんだろう。

(角田)



●ファンタジア2000

 FANTASIA 2000

 00

 (新宿アイマックスシアター)

 アイマックスってどう考えても、体験する映像と音というアトラクションとしか思えない人間には、誰か天才が現れて、アイマックス映像のスタンダードを作ってくれないと、なんか居心地悪くて「なんでアイマックスなの」という疑問に誰かに答えて欲しいと思うんだけど、この作品も結局同じような結論だった。抽象イメージの最初のベートーベン(だったと思う)は、CGとセルアニメの合成に眼がちかちかして慣れる頃には終わってしまった。眩暈はしたけどトリップはしなかった。前作の『ファンタジア』の「トッカータとフーガ 二単調」がLSD体験に極めて近いと言われた衝撃からは遠いなあ。次のクジラのイメージはラッセンかと思うわかりやすいイメージ。それなら、前作の「春の調べ」の恐竜の方が世界ではじめて恐竜の動きを映像化した革新性が欲しかった(『ジュラッシク・パーク』観ているんだから衝撃少ないよな)。「ラプソディー・イン・ブルー」も悪くないんだけどさ、オムニバス・アニメ『メモリーズ』の大友克洋の一話1カットの作品を連想しちゃって較べちゃうんだよね。結局何が残ったというと、前作で出来なかった企画で、「ワルキューレの騎行」のイメージ画がちらりと出てきたのが一番想像力を刺激した。ひねくれすぎか?

(角田)



●ファイトクラブ

 THE FIGHT CLUB

 99

 デビッド・フィンチャー(渋谷シネ東タワー)

 “レスザンゼロ”な世代が描く小説は、ありとあらゆるブランドと固有名詞で出来ていて、そこから登場人物の内面を引きずり出す作業をしている。そこには、過度の暴力とポルノと幻想が渦巻いている。よく言う言葉では、「こんなの映像化不可能だ」となるのだが、デビッド・フィンチャーは、それを映画化してしまった。それだけでもこの映画は観る価値があると思う。

 SFXを本当に効果的に使える監督の作品として、あえて“裏スターウオーズ”とでも呼びたい。ジョージ・ルーカスの想像力もここまで使えるんだぞという見本みたいな作品だと思うからだ。別に宇宙船だけ描けば良いってモンじゃないだろう。

 そう、問題はフィンチャーだ。前作『ゲーム』は、ひどかった。『セブン』にしたって、オープニングのカイル・クーパーのタイトルが良いだけで映画としてはどうってことはない。僕の考えでは、フィンチャーには演出力は無い。いわゆる映画言語を駆使した演出は出来ないと見ている。オリーバー・ストーンもその系譜に連なると思うのだが、でもなぜか観てしまうのは、映像に対する演出力があるからだと思う。ハリウッドで、デジタルを使って作る映像には限界はほとんどないんじゃないか。そこで問われるセンスが、良いのがフィンチャーだと思う。ある種の汚れの美学を作り上げつつあると思う。蛍光灯を光源とした照明はまだ上手く行っていない感じがするが、飛行機の撮り方なんぞは大したものだと思う。

 話を戻すと、結局脚本が良くないと、映画は満足したものに仕上がらないのが、彼の限界だと言えよう。ただ今回はシナリオも良いので充分に楽しめます(ちょっと、ハリウッド的でわかりやすすぎる展開ではあるがね)。

(角田)



●DEAD OR ALIVE 犯罪者

 99

 三池崇史(中野武蔵野ホール)

 「ワン・トゥー、ワン・トゥー……」とのカウントする始まる竹内力と哀川翔の二人の運河の水辺に佇むショットから(ここは即興で撮ったシーン・ゼロらしい)、いきなり大音響と映像の洪水が溢れ、予告編の疾走するスピードで本編が突き抜け、これは予告編でしたというオチかと思う間もなく、4点ほどのカットバックがひとつに収束していき物語の下地がすべて提出される。映像の過度の過信というかCGに対する監督の意地というか姿勢を伏線として見せられる。

 竹内力と哀川翔はそれぞれVシネの中の自分を過度にならない程度に演じきっている。オープニングでリアリティー無視する宣言が現れてからは、一気呵成に映画の世界に強引に引きずり込まれていく。竹内力の親が眠る墓地の風景、『日本黒社会』でも出てきたけれど、小雨の中、色調がブルーに煙り、奥にどこまでも続く電信柱が続く不思議な光景(どこで撮ったのか気になる)がしょぼく美しい。裏切り者を射殺するクレーンを使った夜のワンシーン・ワンカットも静寂に満ちたなか銃声が鳴り響きあっさりと倒れる計算尽くのシーンで登場人物のそれぞれの葛藤が凝縮されているのでハッとさせられる(最近流行りの意味なくバタバタ死んでいくのととは違う)。哀川翔の刑事という役柄もなかなかはまっていて、妻が杉田かおるで、娘が臓器移植が必要な身体で父親は軽蔑されているなど、非常に細かい。細かいと言えば、脇役も全て一癖二癖ある設定で描かれて、警察は無能で、日本のヤクザは間抜けで新宿がまったくの無法地帯となっている。哀川翔の部下の寺島進のとぼけた味が出ている。哀川翔が密偵する横浜中華街の描写がすごい。ほとんど日本に見えない。いままであんな風に中華街を撮った人はいないんじゃないだろうか。説明できないけど、横浜が台湾のように見えるんだよね。不思議なことに、不思議だ。

 中国残留孤児の血族の話は竹内力に引き継がれ展開していく。暴力殺戮シーンはギャグなのか、美学なのか大いに議論が分かれるところだが、そのスレスレの線が監督の狙いだったんじゃないだろうかと思う。ここらから、映画が加速するスイッチが入りラストまで暴走していく。ラストは書けないのだが最初からこれを計算尽くでやられていたら、Vシネと言うジャンルを越えたVシネ。映画を越えたVシネの誕生じゃないだろうか。竹内力と哀川翔を使った段階で確信犯なのに、しかも観客の期待の裏をかいてこんな傑作を作る三池崇史は恐ろしい。ちなみに大勢の観客で楽しんで率先して拍手して観るとより堪能できます。(思わずバカ笑いをしてしまった観客として)

(角田)



●ブレア・ウイッチ・プロジェクト

 THE BLAIR WITCH PROJECT

 99

 ダン・マイリッチ/エド・サンチェス(新宿ミラノ座)

 やらせ映画を作るときに最も重要なことは、なぜ死にそうなときなのにカメラを回しているか?ということだ。だってそれがないと映画にならないじゃないか、というのは尤も意見であり、結局は映ってなかったら何の意味も無いという当たり前のことからは誰も逃れられず、この映画もその辺の作りが下手な分アラが見えてしまう仕掛けになっている。森で道に迷ったのに何で相手のことを撮影しているのか、そんな余裕は無いじゃないかと思ってしまうのが、まあ普通だろう。もうちょっと出来の良い監督だったら、何かしら動機付けを考えて撮り続けさせるだろう。

 映っているものも、リアクション狙いなので肝心なものが映ってなかったり、説明不足になりがちなのだが、その辺を2台のカメラでカットバックして補おうと単純に撮っているので、非常によく切り返しが出来ているので説明過多ともいえる。編集が上手く繋がりすぎていて想像力をかき立てられる部分が無いのだ(特にラストは下手過ぎる。プロの編集者だったらあんな繋ぎはしないだろう。あそこはきちんと演出すべきだったと思う)。音もドルビーサウンドにするなよなと言いたくなる。

 受けたのは、アメリカの都市伝説的な要素が、インターネット時代にマッチしたんだと思うけど。そういう意味じゃ「電波少年」のほうが上手い。あれは日本人に受ける感動と涙が上手くあわさって旅のモチベーションを盛り上げているよ。

(角田)



●白 THE WHITE

 99

 平野勝之(BOX東中野)

 『由美香』、『流れ者図鑑』と来て最終作はまさかひとりで厳寒の北海道を旅するとは思わなかった。旅を続けるものが見えなかった。今回は、旅に映画が呑まれてしまった感があるんだよね。監督のこだわりが一体どこに行ったのか、最後まで掴めなかった。ベクトルは“旅する自分自身”へと向かい続けたのではないだろうか。

 しかし、掘り下げて行くほどのものは無かったと思うし、そんなヒマも無かったのではないだろうか。記録者でも観察者でもない演出家は一体何者なのだろう。ゴールに向かうにつれてその意味がどんどん曖昧になり、風の音と車輪の音だけしかしなくなったのは、監督の映画に対する敗北ではないだろうか。もっと人間を撮って欲しかった。

(角田)



●I LOVE ペッカー

 PEKKER

 99

 ジョン・ウオーターズ(恵比寿ガーデンシネマ)

 単なる悪趣味と「バット・テイスト」は違う。みのもんたが司会をするような番組のあからさまな弱いものをイジルのが、単なる悪趣味であって、かといって権力にただ逆らうだけの硬直した叫び声もエンターテインメントとしても二流だ。結局は世の中全部見せ物になっていてその中で楽しんで生きてくには、まとめて笑ってやろうという気持ちがないと、それがどんなクズであろうとも意味を見出すことでその人にとっては良いんじゃないと思いたいが、一方ではやっぱクズはクズだよなあという平衡感覚が働き“電波系人間”でないすれすれのところを歩いている。

 前置きが長くなったが、世の中がぐちゃぐちゃになればなるほど、生来「バッド・テイスト」と呼ばれていたジョン・ウオーターズの映画は、規範的にならざるを得ない。といっても道徳的というのではなくより巧妙にいわゆる良識の概念をひっくり返し混乱させることがむき出しになりすぎている現状に反抗するように、まるでルイス・ブニュエルの映画のように見える人にしか分からない爆弾を仕掛けている。それは、たぶん時代が彼の映画に追いついたところでようやく爆発するに違いない。

 あからさまなボルチモアに住むホワイト・トラッシュ(貧乏白人)一家。(リサイクルショップと言いながらゴミを拾って売っている)息子が手に入れた中古のカメラで撮ったスナップがニューヨークのアート界の話題を呼び、あっと言う間に天才としてもてはやされる。しかし、基本的に周囲の人たちの反応がそれほど変わらないのがおかしい。単純なサクセスストーリーにはなるはずはなくシナリオも見事に伏線が見事にきいてハッピーエンドを迎える。あまりにストーリーテリングが上手すぎてあからさまに「バッド・テイスト」がわかるかどうか、楽しめるかどうか、観る人のリトマス試験紙になる映画です。

(角田)



●WHO AM I?

 ジャッキー・チェン ベニー・チャン(新宿オデオン)

 やぁー、観る映画が見つからずにジャッキーでも観に行くかと思ったら、これが面白かった。それほどジャッキー・チェンの映画って意識して観てないんだけど、これだけ身体が動く俳優って世界中探してもやっぱりいないんじゃなかろうか。アクション・シーンのアイディアの豊富さ。手を抜いていない部分など飽きずに楽しめました。

 最近の映画は、世界中移動していてもそのスケール感が出ないものが多いんだけど、この映画は、アフリカ、アムステルダムへのシーン転換や、ラリーのドライブアクションシーン、などなどハリウッドが無駄金を使っているのを少ない予算で確実な効果を上げているのを観て「伊達にアクション映画を撮っているんじゃないな」とニヤリとしてしまいました。正当派アクション映画、変わらないジャッキー映画の魅力を堪能できました。

(角田)



●狂わせたいの

 98

 石橋義正(ビデオ)

 京都発のインディーズ映画と言うのだが、頑張っているとは思うんだけど16ミリでモノクロで撮っている力強さが無い。奇妙な夜を過ごしたサラリーマンの話なのだが、照明の限度もあるのだろうし、ワザと匿名の街と言う設定で撮っている為なのか、ヒキの画が無いために観ていてつらい。発想は面白いし、70年代ド歌謡曲の使い方も面白かったのだが、リズムがたるく撮り方も普通なので、不思議な世界観が出なかった。

(角田)



●ヒートアフターダーク

 98

 北村龍一(ビデオ)

 ワンアイディアの銃撃アクションなのだが、オープニングはちょっと期待させられる。歩いている二人の男の足元を延々と移動撮影で撮っているのだが最後に、殺した死体が転がっているのが分かるというところまでは、良かったけど。そのあとは、よく人間関係が分からず、山の中の廃屋で銃撃戦をしていて撃ち方や殺し方に芸はなく、両者の側にカメラが均等に行くためにアクションとしても緊張感もカタルシスもない。映画ごっこといったところか。役者が名前があるから一般公開されたって感じ。

(角田)



●月光の囁き

 99

 塩田明彦(テアトル新宿)

 原作は読んでいないのだが、本屋でちらりと立ち読みをした段階では、内容のダイジェストという感じがした。基本通りに切り返しでお話しをつないでいく語り口に、新しさはない。

 フェティシズムがエスカレートされていく過程が、誰の共感も得ることが出来ないキャラクター設定として描かれているので、その点が内容としてマイナスではないだろうか。コミックの映画化の場合、コミックの中ではキャラクターはデフォレメされるためにキャラクターの設定は否応なく受け入れられるようになっていくのだが、それを映画化した場合には、エピソードを積み重ねない限り、キャラクターは観客の受け入れるものにはなりにくい。その辺の力ワザが足りないために平面的なお話しをなぞったものとして仕上がっている。男女の関係性が替わるという分かりやすいシーンも上手く行ってない印象を受ける。シナリオを作るときに感情のラインを基調にしていないからかしらん。切なさが全面に出ず、最後まで変態性が表面に出ている印象を受けた。やっぱり終わりまでふたりの気持ちがよくわからんよ。題材は面白いのかも知れないけどね。

(角田)



●どこまでもいこう

 99

 塩田明彦(ユーロスペース)

 映画においてのリアリティーって何を指すのかと思うことがある。分かりやすく言えばドキュメンタリーっぽく撮っているアッパス・キアロスタミでさえ、画面を横切るニワトリの足にヒモが見えたときには幻滅したものだ。絶対に画面の外では子供をつねって泣かせているに違いないと思ってしまう。そういう状況まで作りながら子供でも追いつめていくやり方もあるが、そうでなく思った型にはめていくやり方もある。子供は動物と同じで何かで釣らないと演技しないと確信している私としては、この映画の子供たちまたはそれを見ている監督の視線が気になった。

 どちらかというと、今の子供を描いているように見えながら、仕草や視線は大人の役者と変わらないものを求められていると思った。子供というか子役を使うのでは無いとすれば、フレームからはみ出そうが、予想外の仕草をしようがそれを受け入れることが子供が出演する映画を豊かにする方法だと思うのだが、どうしてもフレームの中に入れたいようで、移動撮影が多いのにも係わらず窮屈な印象を受けるのはそのせいじゃないだろうか。また、女の子の視線や振り返り方が無造作、あるいは無防備ではなく構えたもの、明らかに大人の目線に近いのがイヤだったなあ。男を意識しているような視線や仕草が意識的すぎて、それも大人(監督)が考えたものだと明らかに分かってしまうのが、「だったら大人の話にすりゃいいじゃん」と思ってしまう。

 転校してきた悪い子供や、友達のいない離婚した母親の元で育てられている男の子の描き方や、喧嘩して仲直りするところなどがあまりにもステレオタイプな役割分担で窮屈すぎる。逆に言えば説明過多じゃないのだろうか。

 子供の成長を見つめたものではなく、状況を語ったものにしか届いていないので、主人公たちの内面にも入れないし、大人のノスタルジーの世界にしかなっていないと思う。映画のスタイルよりも、子供が見えたい。

 ロケット花火をするときに、窓ガラスを外すのは反則です。

(角田)



●黒の天使 vol.2

 99

 石井隆(シネマミラノ)

 石井隆の世界はどこまで有効なのか。これには、前から疑念があった。彼の作る世界が独特で強固であればあるほど、時代から乖離していくのではないかという不安。『死んでもいい』から『GONIN』の頃までは、バブルからバブル崩壊の時期を通じて人間を描いていけたと思うのだが、しかしその場合も冷静になるとどうしても時代がかった台詞や設定が嘘臭く感じることもあった。まあ、劇画チックという死語を使えばその辺りは分かって頂けると思うのだが。その辺りがリアルを越えてしまうとつまらないVシネになってしまうのだが、そこは演出で抑えられたと思う。

 問題はこの「黒の天使」シリーズである。前作も葉月里緒菜で失敗した部分が、天海祐希でもクリアされていない。ひとつは彼女たちが劇画のように動けない、アクションが出来ないこと。そのあたりをカッティングでごまかすのは石井演出ではないので、余計に動きが悪いのが見えてしまう。もう一つは、この殺し屋という稼業が上手く描き切れていない部分にあると思える。石井隆の真骨頂は謎の男女が事件を通じて過去に翻弄されながらも、のたうちまわっている姿を描くところだが、今回も背負っている過去の部分が浅く嘘臭いし、映画にとって殺し屋の過去っていらないんだよね。そこが作品として成立させるためには齟齬をきたしている。だったら、名美と村木みたいに過去に会って今は敵同士の大和武士との関係を全面に押し出した方が良かったのではと思う。片岡礼子の起用にも?が付くしね。ちょっとストーリーをこなそうとして空中分解しているところはある。

 撮影と照明は、石井節が全開で、天海のアップなどロマンポルノのころのフィルムの質感があって良いです。石井隆にはもっと情けない男が主役の映画を撮って欲しいものです。

(角田)



●白痴

 99

 手塚眞(新宿ピカデリー3)

   えー、体調のせいかどうか分からないけど、やたら眠くてほとんど八割は眠りこけていたので、批評不可能です。ちょっと思ったことはあるけど、ビデオでもう一度観るまで保留した方が良さそうです。

 でも、映画監督とかにこだわってない映像づくりというか、何にこだわって作っているんだか分からないところは、自主映画時代から変わってないような気がする。さすがヴィジュアリストというところなんでしょうが………。

(角田)



●金融腐食列島[呪縛]

 99

 原田眞人(新宿東映)

 角川映画、東映系公開で、おおっ、80年代の再現か!とも一瞬思ったが、そうではないしたたかなマーケティング的な映画な様な気がした。それが良い悪いじゃなくて映画的なダイナミズムに欠けているのが、悪くはないが物足りない最大の原因だ。

 それは何かというと、映像と脚本の問題じゃないだろうか。“金融パニックムービー”のコピー通りに物語は進んで過不足はないのだが、深みに欠けるのは映像と脚本の仕掛けに欠如している部分があるからだろう。

 映像において一番問題な点は、観客は、テレビや新聞で報道されていない部分を観たいわけで、これは脚本にも通じることだが、結局観られるものがテレビドラマセットの様な会社の室内セット。おまえらこんなところでホントに毎日働いているのかよと言うくらい無機質なオフィスと、張りぼてのような役員室(料理の鉄人かと思った)。まあ、要するに細部の工夫が見えないわけでホテルの部屋も会議室も意味合いに於いては変わらないので、時間、空間の緊張感が全く出ない。

 同じく、撮り方もテレビのニュースで見たカットと全く変わらない画が多くて、これを臨場感だと思っていたら監督はアタマ悪いんじゃないのと同情するしかない。逮捕されて地検に入っていったり、地検が銀行に入っていったりする部分もテレビニュース以上の物が何一つ出てなく、編集もワザと粗っぽくするとかアメリカ映画のようにカットを短くしても同様の効果しか上げていない。

 困ったのは主人公たちも同じ様な撮り方だから一向に感情移入できないし、物語を語る狂言回しに過ぎないし、個人の判別もつきにくい。自殺する重役もどうやって死んだのか、まったくハッキリしない。死に方にひとつの会社の裏を背負った男のケジメみたいなものを表現出来ると思うのだが(これは演出の問題か?)、単なるカメラの遊び(しかも失敗。デパーマの『スネークアイズ』の方がまだ効果的だ)に終わっている。シンプルな撮り方した方が効果が出るのに。死ぬのを観客に分からせる分からせないの、どちらを選ぶにせよあの撮り方は間違っている。学生映画じゃないんだからさ、客は置いていかれるよ。

 しかし、問題なのはやはり脚本で三人もいながら(うち一人は原作者)、骨の無い脚本はどうしてだろう。早い話が、これは第一勧銀事件をモデルとしたその裏側を描いた暴露物の筈が、正義の味方勧善懲悪の時代劇にスリ変わっている、会社万歳の忠臣蔵でストーリーとしても、情報としても決定的に古いのだ。それをどう新しくするかが課題であって、結局その入口で終わっているし、何の意外性もないし、はっきりいうとドラマが無いんですね。だから人物もステレオタイプだし(だから分かりにくい)、あんな絵に描いたような悪役重役がいるとは思えないし、勧進帳ひとつで全てが解決するなんて事は分かりやすすぎて、客は、その勧進帳に書かれたどろどろした部分や、政治家とのつながりとかそういうスキャンダラスな部分(ようするにフィクション)を観たいわけで、それらについて何一つ答えを出していない。

 対立のドラマがどこにも存在しないから、ストーリーを進め、解説するために、女性記者の存在が必要となる、それがストーリーがどうしようもないから必要以上に大きくなって、視点が第三者的なストーリー展開になってしまう。シーンづくりでも個人の生活や性格を映していないので個人個人が何を考えているのかよくわからん。普通だったら内部から裏切り者が出てくるとか、非常にエキセントリックな人物を出すとか膨らませようがあるのだが、単なる会社だけの話で終わって不況で困っているお父さんにはだから何なんだ!としか思わせない内容になってしまっている。予定調和のエンターテインメントモドキでした。

(角田)



●地獄

 99

 石井輝男(ニフティーサーブ配信)

 画質が悪かったので細部がわからなかったから、もう一度公開後に観て感想を書き替えるかも知れないことを最初に断っておきます。これで話題になればこういう公開(?)方法もいいんじゃないかとも思いますが…CM代わりとしてね。

 しかし、石井輝男の変態ワールドが全開してぶっ飛ぶというか、スキャンダラスな部分に一瞬絶句した後、狂喜、大爆笑となります。

 本来なら、プログラムピクチャーで、封切りが迫っているから何でも良いから作れというノリに近く、企画としては思いつくがプログラムピクチャー絶滅の今となっては誰もやらないことを敢えてやっていることに拍手を送りたい。三度目のリメイク作品で、最近の犯罪事件(宮崎勤、オウム)の再現をやるなんて、みんなが観たくてもテレビでもここまではやらないよな的、台詞まで忠実に再現してあるあざとさ。その徹底ぶりに観ている方が乗ってくるという、ほとんど確信犯的、見せ物小屋感覚映画。でもなんか腑に落ちないラスト(笑ってしまった)、他はエログロはツボを外さない演出。低予算の中、これだけのスケールのあるプログラムピクチャーを作れるなんて、若手は絶対かなわない世界を築いて、しかもだれでも楽しめて面白い。このサービス精神、娯楽映画の王道です。やはり石井輝男はすごい。

(角田)



●双生児

 99

 塚本晋也(有楽町スバル座)

 乱歩の耽美世界を再現するのに、簡単なのは、風俗とガジェット(小物)の仕掛けでごまかす方法だ。しかし、この作品は真正面から繊細で大胆な色彩設計でその世界を造形したことで、結果、深みがあると同時に塚本ワールドが構築できた作品だ。あるものを撮影するのではなく、油絵か彫刻のようにひとつひとつごつごつとした厚みを持った手触りで作り上げていく世界。撮影を監督本人がやったのも大正解だ。

 ひたすら限定された空間の中で展開されるストーリー、人物の配置によって日本家屋の薄暗さ重厚な黒を基調とした映像が作品に深みを与えている。

 反対に、白と極彩色を基調とした貧民窟と川辺の外の世界は喧噪と猥雑さが際立って、日本家屋の静謐なシーンと正反対な白日の悪夢の世界を作り上げている。

 どちらにも共通したエロチシズムは『鉄男』の時から変わらない、人間と内部、外部を問わない異物の混入による人物の心理や外見の変化というテーマを押し進めたものではないか。双生児である二人は陰と日向の存在がやがては融合して一つの人格になってしまうのだから。まぎれもなく塚本ワールドの人物であると言えよう。

 メジャー映画でありながら大胆な個人映画を築きあげられる方法を塚本晋也は獲得した。

(角田)



●シンプル・プラン

 A Simple Plan

 98

 サム・ライミ (新宿武蔵野館)

 サム・ライミがブランクを経て、新しいスタイルで現れた。というよりも、今回のスタイルは彼がテレビシリーズ『アメリカン・ゴシック』などを手がけていたせいなのか、ストーリーを簡便に語る方向を全面的に押し出している。

 というのは、脚本が素晴らしく書けているので、敢えてカメラワークで心理の表現や観客の感情を揺さぶる必要がないと判断したためだろう。原作者による脚本は、人物配置、葛藤がアメリカ映画の定石のひっくり返しで反モラル的な一般人を描き出している。壊れた兄弟愛、貞淑だが欲深い妻、善人だが悪党になる男。彼らを運命の必然に追い込んでいく演出が冴えているし、役者が素晴らしい。大仰でなく、雪深い貧乏な田舎町にひっそりと住む人間の心理を丁寧に、切り返しの積み重ねだけで描ききっている。余計なカットが全くないミニマルな傑作だ。

(角田)



●オースティン・パワーズ:デラックス

 AUSTIN POWERS THE SPY WHO SHAGGED ME

 99

 ジェイ・ローチ(丸の内プラゼール)

 第一作目より、お下劣度、下ネタ度倍増のどうしようもなくオバカシーン満載。ますます悪ふざけが強力に幼稚になってきているので本気でやっているのか、パロディーなのかわからんけど、豪華ゲストがワンカット出てたりして、こういう強引さがアメリカンコメディーの強さだなあと感じる次第。おしゃれ映画で売ろうとしていてもそんな事無理でテレビ放映できない過激なギャグばかり。

 この手のコメディーは続編の度にマンネリ化が進むけど、そんなことわかっているとばかりに確信犯的に開き直っているところがふてぶてしいというか、したたかな部分でナンセンスに徹してていい。

 第三弾が出来たらほとんど本当に面白いギャグの部分は日本人には理解不可能になるんではないだろうか。もう、主人公より悪役の方が面白くなっているからなあ、そちらのキャラクターの方が膨らみやすいからね。ジョン・ランディスやピンクパンサーシリーズのようにならなければいいけど。

(角田)



●バッファロー'66

 Baffalo '66

 98

 ヴィンセント・ギャロ(シネクイント)

 こんなオシャレじゃない映画をオシャレで売って良いんだろうか。あざといというかホント分かってやっているのかねえ?なんか確信犯的な褒めかたが気に入らないなあ。みすぼらしい才気ある破滅型バカが撮ったショボい恋愛ドラマの自主映画じゃないのか。映画ジャーナリズムが仕立てたマスコミ・ヒステリーを感じる。観ないと話題に乗り遅れるってノリだけじゃん。

 リバーサル・フィルムで撮ったような画質。90年代の終わりを永遠の終わらないノスタルジーとして定着させること。時間をどこかで止める事をしたかったために、わざと古ぼけた70年代の映像を再現したのでは無いだろうか。主人公のビリーにとって時間はいつも混乱している。未来に飛んだり、過去に飛んだり、最後までそれはまるで悪夢を続けてみているようにも思える。その中であがく自分を突き放さないのが、サブタイトルのA LOVE STORYと、誘拐されたレイラの存在ではないか。レイラだけが現在と未来を生きてビリーの救いとなる。それが目覚めかもしれないが。

 そこにたどり着くまでのディテールがたいしたことじゃなくても、その全力疾走ぶりがこの映画の魅力となっている。どんなに下らないことでも突っ走ることで映画となり得ている。そのしょぼくれた男の意地に感情移入してしまうことで好き嫌いは分かれるだろうなあ。映画を撮ったことが無くても、映画を知っているギャロの思い込みの力ワザに一本あり!。

(角田)



●マトリックス

 THE MATRIX

 99

 ウォシャウスキー兄弟(渋谷ジョイシネマ)

 眼を開いて観よ。『マトリックス』は確実に90年代の映像を代表する映画となることは、間違いない。官能的で言ったら『スターウオーズ』をはるかに凌ぐエロチックな表現でエクスタシーを味あわせてくれること間違いなし。

 ここまで、完璧に映像が(特殊撮影)が物語とマッチしたSFXはいままで無かった。久しぶりに心地よいダイナミックな快楽を感じさせてもらった。スローモーションのコマ数もカットによって全部スピードを変えたに違いないと思えるほど、タイミングが心地よい。ストーリー、アクションと一体になっているのだ。

 ストーリーは目新しくない、特にコミックやアニメを観ている日本人にとっては、アイディア的に盗作されたと感じるかもしれないが、少なくとも、SF映画は進化すると思う。そういう意味では画期的な作品とは思う。あるゲームメーカーの社長は「ゲームは映画の進化したもの」と言っているが、『マトリックス』を観ると、逆にゲームやマンガをも吸収してしまう映画の懐の深さを感じた。ストーリーを語るのに邪道とされていた手法が時間・空間・構図の全てを再構築して映画としていく様が感じられた。映像表現の一つの可能性としてこの映画は充分に楽しめる。

(角田)



●アイズ・ワイド・シャット

 EYES WIDE SHUT

 99

 スタンリー・キューブリック(渋谷パンテオン)

 誰が言ったか知らないが、スタンリー・キューブリックは、完全主義者の巨匠と言うことになっている。果たして本当にそうなのか?映画界じゃ大体巨匠とか言われるともうダメだという印象があるがキューブリックの場合は『2001年宇宙の旅』の頃から言われているという事はそのあたりからダメじゃんということになる。遺作となった本作以降の作品はないのだからそのあたりをもう一度検証しても良いんじゃないのかと思うのだけど、特に彼が製作者も兼ね、イギリスで映画製作を始めた『博士の異常な愛情』、『2001年宇宙の旅』、『時計仕掛けのオレンジ』、『バリー・リンドン』、『シャイニング』、『フルメタル・ジャケット』そして『アイズ・ワイド・シャット』という作品群になるが、はっきり言って今も生き残っているインパクトのある作品は、『時計仕掛けのオレンジ』くらいなものだろう。現代のポップカルチャーの先見性という事で生き残っているという意味なのだけどね。

 そこで、キューブリックを解き明かすキーワードとして、“世紀末の通俗性”と言う言葉を導入してみたい。

 たまたま今年は世紀末前年だが、キューブリックは、『バリー・リンドン』、『アイズ・ワイド・シャット』の原作に於いて19世紀、『博士の異常な愛情』、『時計仕掛けのオレンジ』、『シャイニング』、『フルメタル・ジャケット』で20世紀、『2001年宇宙の旅』で21世紀のそれぞれの悲観的な世紀末を未来、過去を問わずに好んで描こうとしている。そこには、観客が感情移入できない、ある種の人間嫌いまで昇華された底意地の悪さが収まり悪くばらまかれていると思うのだが、絶対に心地よく映画館を後に出来ない、人間不信になって劇場を後にし、未来は過去は世紀末はこんな様相をしているのかとゾッとしながらも、不思議に次回作を期待してしまう様になる。それがもう一つのキーワード「通俗性」じゃないだろうか。

 キューブリックの作品群は、全部原作がある。オリジナル脚本はない。それを忠実に映画化した作品もないのだが………。そして、なぜか必ずハリウッド・スターがキャスティングされる。完全に世界マーケットを意識している映画製作者としての行動だと思うのだが。また物語の目玉も必ずあり分かりやすい言葉を提出しやすいようになっている。いわば、一作毎にキャッチコピーがあるようなものだ。「核の脅威」、「人類の英知を越えた存在とは」、「暴力の祭典」、「19世紀の再現」、「モダンホラー」、「人格改造」、「セックスの表現」、と非常に分かりやすい。こんなに分かりやすくて良いのかと思う。また、一作毎に変えて、作家として一貫して追及しているものはないのかと、真面目な批評家から怒られそうなウケ狙いが目立つ。そこが意識的な通俗性と言える。

 巨匠伝説は、取り上げる題材じゃ無いことは明らかだ。じゃあ、作品なのか?確かに技術的にキューブリックが先駆者であることは多い。が今の眼で見直すと、例えば『バリー・リンドン』は、撮影の粗さは驚くほどいい加減だ。伝説は伝聞に過ぎないのでは無いかというのが一つの答えで、完全主義は何を基準にしているのかは謎だ。キューブリックにしか分からないOKの基準があるとしか思えない。それくらい一本の作品の中でもムラがある。

 『アイズ・ワイド・シャット』についていえば、19世紀の性の冒険譚の原作を20世紀に再現しようと言うよりは、トム・クルーズとニコール・キッドマン夫妻が出るポルノではないかという期待を肩すかしを食わせることに興味を覚えた企画に過ぎないと今までのキューブリック作品を観ているとそう思う。一点気になったのがCMでもお馴染みの鏡に映った二人の絡みの場面がフェード・アウトしているのが腑に落ちない。あれは重要なシーンだと思うのだが、ハリウッドスターの絡みをワザとポルノまがいに撮れば(それがキューブリックの今作の狙いだったと思うのだが)、最後まで衝撃は残ってどんな結末になろうとみんな納得したと思うのだが、それが抜けているため、あれは不自然なシーンだ。誰かの陰謀か?

(角田)



●パラサイト

 THE FACULTY

 98

 ロバート・ロドリゲス(東劇)

 ハリウッドに進出して、すぐに特徴がなくなっちゃたロドリゲスだけど、この一作はB級魂が生きていてSF学園ホラーというジャンルをこなしている。

 ストーリーは宇宙人の侵略者。『ボディ・スナッチャー』と同じ設定だけど、舞台が高校。そこで教師も生徒も乗っ取られていくのをカメラ小僧、学校新聞の編集長(ヒロイン)、フットボールの花形、SFヲタクの黒ずくめのパンク少女、謎の転校生、手作りヤクを売りさばくが(これが小道具として生きる!)アタマの良い不良。彼らが侵略する宇宙人をやっつけるのだが、彼らの中にも乗っ取られた奴がいるかも知れないサスペンスが上手い。娯楽の王道を行くハッタリの無い正当演出で作っているところにも好感が持てる。心地よいカッティングも良い。破綻しがちなストーリーを軟着陸させた演出を堪能すべし。

(角田)



● 八月のクリスマス

 98

 ホ・ジノ(シネマ・スクエアとうきゅう)

 地味な韓国映画です。不治の病に侵されたカメラ店を営む青年と駐車違反取締官(?)の若い女性の切ないラブ・ストーリーです。贅肉が極力殺ぎ落とされた映画なので、主人公の病名は最後まで謎ですし、ラブ・ストーリーといっても主人公ふたりはついにキスすることも、もちろんセックスすることもありません。アジア的日常描写(縁側・スイカ・・・)の積み重ねの延長に「死」もゆっくり訪れます。押し付けではない控えめな描き方が、とってもうまいです。

 声高に「新世紀のイブは・・・リンゴを食べません」と「愛の永遠」をテーマに掲げる野島某のTVドラマよりは素直に入り込めます。

 アジアの「ラテン」韓国でこんな「切な系」の映画が作られるとは、少し驚きです。

(船越)



●復讐は俺に任せろ

 THE BIG HEAT

 53

 フリッツ・ラング(三百人劇場)

 古典も観なくちゃイカンかなと思い、観客数が10人の劇場に向かう。しかし、寝てしまった。10数年前にビデオでちょっと観ていたけど、その時とそれほど印象は変わらず、なんでこれがフリッツ・ラングの最高傑作と呼ばれるのかわからない。個人的な好みとしてはもっと様式的な照明を施した『暗黒街の弾痕』や『死刑執行人もまた死す』の方が好きだけど。演出がうまいことは確かだけど、今観る映画じゃ無いな。ちょっと退屈だった。

(角田)



●豚の報い

 99

 崔洋一(テアトル新宿)

 崔洋一の作品は、黙っていると時々登場人物や物語の説明を省くために、観客が置いて行かれる事がある。アクションものの場合はある程度定型の流れがあるために全くついていけない事はないが、『東京デラックス』とか、本作のような場合、背景にいろいろ複雑な物語や人物と土地の物語が隠されているのかも知れないが、何の提示も説明もされないために分からない。シナリオの段階から失敗しているとしかいえない。

 10年前に死んだ父の骨を埋めるために島に戻った大学生の息子と知り合いのホステスたちの道行きをロードムーヴィーではなく、沖縄というか、南の島を舞台とした生者と死者の狭間で起こる登場人物のドタバタを描いた、如何にも売れない文芸作品の映画化というのがピッタリする舞台設定なのだが原作のイマジネーションが貧しいのか、それとも説明がないためか、主人公が最後まで何を考えて行動しているのかわからん!物珍しいエキゾチズムに過ぎない。

 たぶんに確信犯で、こういうシナリオを書いたと思うのだが、こういうシナリオをチェック出来ないプロデューサーにも問題があると思う。確か、WOWWOWから派生した映画製作会社の第一作だと思うのだが、監督至上主義だけで(それがすべて悪いとはいわんが)作品を作るのも如何ものだろうか?プロデューサーのやる気を疑う。自己満足的でいやだなあ。

(角田)



●スターウォーズ エピソード1 ファントム・メナス

 STARWARS EPISODE1 FANTOM MENACE

 99

 ジョージ・ルーカス(新宿武蔵野館)

 なんで、監督業を廃業した筈のルーカスが監督をやったかというと、逆に言えばルーカス以外が監督をやっても良かったからに違いない。でないと偏執狂の完全主義者のルーカスが監督をするはずがない、というか完成品を作れるはずがない。

 というくらいストーリーはステレオタイプのなんの工夫もひねりもない単純なモノだ。まったく第一作目のリメイクでドラマの演出の仕方が下手だ。まあそれはいいとしても眼に入り処理できる情報量を超えている特撮の量。途中で眼が痛くなってきた。でもロングのマット画は、あまり上手くないのが気になる。

 ようするに、実写で素材を撮影してデジタルで徹底的にいじる、そのコントロールが一体誰がしているかが気になる。監督だけじゃコントロールできるはずは無いと思うからね。

 ハリウッドでそのコントロールができるのは、S・スピルバーグとP・バーホーベンくらいじゃないだろうか。如何にゴマ化して特撮しているように見せるかを計算できて自分の作品にするかという意味だけどね。逆に言えば、本作品ほど没個性の映画は無いんじゃないかと思う。特撮至上主義の弊害じゃなかろうか。と言う意味で驚きを与えるものじゃない。逆にSF映画としては退化しているんじゃなかろうか。

 照明、影や役者の仕草ひとつで表現できる筈の映画が素材という考え方を徹底されてワンカットが実質的にどんどん薄っぺらいものになっていくのは残念だ。

 たぶん第2作はもう少しドラマの描ける監督を選ぶんだろうな。『帝国の逆襲』で、アーヴィン・カーシュナーを使ったように。でもハリウッドに職人監督が絶滅してしまった今、演出できる人物はアメリカ人じゃなくなるかもね。

(角田)



●ブレイド

 BLADE

 98

 スティーブ・ノリントン(新宿オデヲン座)

 バンパイアに犯された母親から生まれたバンパイア・ハンター、ブレイド。アメコミの映画化だが単純に楽しめる。夜の世界を何百年と蠢いてきたバンパイアを完全武装と日本刀で殺戮しまくるのは、CGを上手く使って殺陣もなかなか格好良い。ブレイドを助ける老ヒッピーのクリス・クリストファーソンのバンパイアに恨みを持つ武器屋もいい味出している。ストーリーの骨格は荒いのだがディテール、美術も含めて頑張っているのでコミックの映画化はこれくらいはやって欲しいって感じです。

(角田)



●RONIN

 RONIN

 98

 ジョン・フランケンハイマー(新宿ミラノ座)

 説明不足というか、冷戦終結以降、敵味方、西側東側をどのような存在として描くか難しい所だが、この映画、発想は良いのではあるが別にそれぞれリストラされた理由も分からないし、それぞれの特徴もはっきりしない、単なる寄せ集めテロリスト集団と描き方が変わらないので興味をどこに集中して観て良いのか分からなくなってしまう。プロ意識が一人一人にほとんどないんだよな、結局カネで雇われているだけだから格好良く無いんだよな。敵の正体も良く分からなかったしなあ。ディテールの描き方が中途半端で荒削りな爆発シーンと破壊だけが見せ所の映画に仕上がっている。

(角田)



●菊次郎の夏

 99

 北野武(渋谷ジョイシネマ)

 2時間たっぷりのテレビ・ドラマを観たといってもいい。これが映画である必然性がどこにも最後まで感じられない。彼自身の出てこない映画でも、『あの夏一番静かな海』や『キッズ・リターン』のように面白い作品があるのに、北野武が出てきてなんとか作品になっているという寂しいというか厳しいモノだった(初日でガラガラだもんね、騒いだのはスポーツ新聞くらいなもんだろう)。

 子役に何の魅力も感じられなかったというか、完全なミスキャストのために演出のリズムがガタガタになっている。長回しの演出も今回、大人と子供のために、二人を入れると中途半端なサイズになるし、子供との切り返しでは子供が緊張して演技にもなっていないため何の感情移入も出来ない。  脚本と大きく関わってくるのだが、ギャグ・シーンがほとんど思いつきで撮られているとしか言い様のない、登場人物たちの設定の必然性の無さと、関係性の薄さ。最後まで名前が付けられず、「デブ」、「ハゲ」と呼ばれるのが気になる。また『みんなやっているかい』と同じく、ギャグと展開があまりにも読めてしまうのだ。何のひねりもなくテレビのコントの延長の笑いでしかない。

 主人公の少年にも母親に会いに行く、という一大決心の不安と期待の気持ちが見えず、黙って菊次郎についていくだけだし、主人公の遊び人、菊次郎に至っては存在の必然性が感じられない。一応何をやってもダメな割に威張っている設定はあるのだが、誰とも絡めず一人芝居になっている。そのために、普段の映画ならその透明感が、「何を考えているか分からない日本人」的な不気味さを増すのだが、ここでは主人公がただ、子供を親の元まで連れていけば良いだけの話なので、ダラダラとした時間の経過しか見られない。たけしの話芸でつないでいるトークにしか見られない。ギャグも焼き回しのモノが多いし、新しさが何も見えない。

 浅草を出たら、後は一体どこを歩いているのかさっぱり分からない。『3-4×10月』、『ソナチネ』のような南国の画があれば持つのだけど、全然田舎の風景が描けていない。これもしかしたら、すごく予算が無かったんじゃないかと思わせるほどスケールを感じさせない。それと、『HANA-BI』以降顕著になった、如何にも日本風の浅草や夏祭りの描写はやめて欲しい。外国人が撮った、観光写真みたいだ。久石 譲の音楽は相変わらずうるさいしね。

 「ねらいで全てやりました」と確信犯的な作りをして逃げている部分が多々あるが、子供との距離の取り方が決定的に欠如している。最後のクレーン・ショットは高さが足りねえぞ!物語は90分で終わっているのに、なぜ30分もつまらないエピソードを伸ばしたのかわからない。コンクール用にしたとも考えられるが、シナリオの計算ミスだと思う。

 構図にしても、雑で太陽光線の計算も投げやりで、ピントが合っていない部分がある!(劇場のせいじゃないと思うけど、確かめて下さい。非常に特に後半、望遠ロングショットが甘いのです)。

 ロード・ムービーというか股旅モノというか、このジャンルでは、旅の動機、目的地までの距離感、登場人物が仲間意識を持っていく展開と旅の達成感や失望感、が気迫だと成立しないと思う。

 結構シーンを撮影していて、カットしたところが多いのだろう。繋がらない部分が多いし、唐突なシーン、カットが多い。シリアスに行くと、股旅ものになるからそれを避けようとして失敗しているとしか思えない。

 結局、北野武のナルシズムいっぱいの夏休みの話でしかなかった。

(角田)



●ワイルド・パーティー

 70

 Beyond the Vally of the Dolls

 ラス・メイヤー(渋谷シネパレス)

 約3秒毎に切り替わる小気味よいカッティング。1970年、ジリ貧の20世紀フォックスが配給したエロ映画。でも、技術はしっかりしていて丁寧に撮られている。かと言って今も面白いかというと、寝てしまってストーリーが分からなくなるほど、プロットは込み入っている。

 田舎の女性ロックバンドがLAに来て、芸能界の淫靡な部分に染まっていくと言ったのぞき見趣味でしかないストーリー。真面目に観る映画じゃないよな。突っ込み入れながら観る種類のモノだ。

 でも、プリントだけはニュープリントにしろ、ロードショー料金1200円も取って、退色したひどいプリントを何で見せるか。

(角田)



●日本黒社会 LEY LINES

 99

 三池崇史 (中野武蔵野ホール)

 黒社会3部作と言っても、全部独立した話で、何の共通点はない。あるとしたらやり場のない憤りが全編を覆う。日本人が誰もがどこかで感じていることをエンターテインメントの枠の中で映画として昇華しているところだろう。それが三池監督の手腕と言えよう。

 ストーリー、かなり、書いてしまうけど、是非見て欲しいです。

 主人公は、田舎の中国人帰国宿舎に住む20代の兄弟とちょっと足りない友達(田口トモロヲ)。パスポートを申請するが、保護監察中で無理と言われる。どこに生きたいというのではなく、ここにいるのがいやだと言うだけだ。

 盗んだバイクを田園風景の中、走らせると台湾映画のようだ。ベトナム人の故売屋から金を巻き上げると、彼らは新宿へ出ようとする。だが、怖じ気付いた何人かは残して。ここを数人の仲間が立ち尽くす中、電車が入ってきて主人公と悪友が乗り込むワンカットの手持ちカメラは、感情が押し詰まっていい。車内に座っている女子高校生が、普通のソックスをルーズソックスにはきかえるところが、艶かしくシーンの上手いブリッジになっている

 新宿に出た彼らは、娼婦に騙され有り金を取られる。ふとしたことでトルエン売りを始めることとなり、ヒモから逃げてきた娼婦と共同生活を送ることとなる。そこにはセックスも有りだが、陰湿にならず、あっけらかんと描かれているのは、ユーモアがあり(そう、さりげないユーモアが上手い監督でもある)女が強いのが最大の特徴じゃないだろうか。生き生きとしているのだ。物語と主人公に過多の感情移入を誘うようなアップの撮り方はせず状況的に、フルショットで撮っているが、いつの間にか次第にこちらの方から感情的にのめり込んでいくのだ。

 やがて、彼らは、上海マフィアから金を奪い、日本から脱出しようとする。どこ行こうではなく、ここでは無いどこかへ行こう。これが、黒社会3部作を通した、メッセージのような気がする。ただ「その答えは無いんだけどね……。」とも言っている。それがこの作品を支える魅力とアナーキーなパワーではないだろうか。

 奪った金をもって逃げるオートバイのシーンではちょっと涙腺が弛んだ。ちょっと足りない友達は死に、母親に金を届けるために故郷に帰る、3人。金を届けるアンバー系の茶のフィルターを意識的にかけた風景が不思議な世界を現わす。自転車の疾走シーンにも泣ける。近頃の日本映画は、一緒に走るシーンに手を抜きすぎていると思う。しかし、弟も殺されてしまう。帰りの2輛編成の電車の中、前方を凝視する主人公にそっと、手を回し抱きしめる女。

 ブラジルに密航する漁船に乗り込もうとすると、上海マフィアが待ちかまえていた。(竹中直人怪演だ)銃撃戦の中、海に飛び込むふたり。

 ラストは、美しすぎて切なくて、このために、この映画があったのかというシーン。いつまでも終わらなくても良かった。永遠と言う言葉が似合う。いや言葉にするには惜しすぎる。素晴らしい青春映画。大傑作だ。

 最後に嫌だが、言っておくとたぶん映倫通す為にピーの音を入れたんだと思うのだが、ぶちこわしだ。それと、なんでこういう映画のパンフがないの?くだらねえのは高い金払わせて(買わないが)売ってるくせに。誰かが本気になって作ったりすりゃ良いんだよ。見て良さがわかんない奴は、映画の敵だぜ。

(角田)



●アードマン・コレクション

 Aardman Collection 1987-96

 ニック・パーク他(ラピュタ阿佐ヶ谷)

 「ウォレスとグルミット」シリーズで有名なイギリスのクレイアニメ工房「アードマン・アニメーションズ」の短編コレクション。一番古いピーター・ガブリエルの「スレッジハンマー」のプロモーションビデオから1996年の作品までの全14作品。確か「スレッジハンマー」のビデオは「トリート・オブ・クロコダイル」のクエイ兄弟も手を貸しているハズだから、80年代にはイギリスのパペットアニメ界(?)の才能のある人々は出揃っていたことになるのかもしれません。

 10分間の作品を作るにしても1秒24コマ*60*10=14400コマですから、優秀なアニメーターが分業で取り組んだとしても気の遠くなるような作業量になることでしょう。CG全盛の世の中にまったくのローテクで挑むとは恐れ入ります。と、同時にCGの弱点と課題も見えて来るような気もします。

 日本でも最近「アードマン」あるいはニック・パークに影響を受けたと思われるアニメをNHKなどで目にしますが、なかなか寡黙だけど目の表情やしぐさが豊かな犬(グルミット)には敵わないようです。おそらく放送までのタイムスケジュールがまるでちがうからでしょう。日本では何年も掛けて一本作るようなことはしないでしょうから。ちなみに今回の短編集にはニック・パーク監督作品はありましたが、「ウォレスとグルミット」はありませんでした。

 阿佐ヶ谷ラピュタ、はじめて行きましたが、なかなか雰囲気の好い映画館でした。

(船越)



●avec mon mari/アベックモンマリ

 98

 大谷健太郎 (シネアミューズ・イースト)

 2組のカップルがいる。編集者の妻と食えないカメラマンの夫。カメラマンの友達の若い女とその恋人の編集者の上司。混乱した四角関係が美術に凝った部屋を背景に台詞の芝居でまるで舞台劇のように淡々と進む。そこには、感情の吐露は冗談めかしてあるが、激昂や喧嘩とはほど遠い静かな世界に包まれている。丹念に計算された台詞と役者の動きが違和感なく、シーンを途切れさせずに同居する。それらが醸し出す雰囲気は日常を越えた倦怠感、いや、カメラが捉えた(切り取ったではない)風景として定着していく。それが観客に弛緩と心地良さを同時に与えているのだと思う。そのシーンが終わらないでいつまでも続いて欲しいと言う気持ちになってくるから不思議だ。

 台詞や演技だけではなく、現在だからこそ、観たい映画がそこにあるからという証明なのだろう。本当にあるかどうかは分からないがあってもおかしくない世界が、そこに淡々と繰り広げられている。その日常性が今までの邦画の中では見つからなかった。非現実的なものか、流行・現実におもねるものの二つしかない世界に少し風通しを良くしてくれたのかなと思える作品。

 主題でいえば、今を描いた(風俗や文芸とか簡単には分類できない)独自の世界、展開の面白さではプログラム・ピクチャー並みの伏線を張って、小市民的な笑いが絶えない設定。こじんまりとしているのが、良い言葉か悪い言葉か分からないけれど、最後まで見せてくれる作品です。逆にひとつの世界が出来上がっていて、これが海外で通用するかは分からないけれど、リアルなお伽噺と言ったところでしょうか。

 しかし、上手く行かない若い結婚カップルの話が、今の日本映画じゃ多いと思うのだが何故だろうか。作者がその年齢なのか、身近なスペクタクルなのだろうか?

(角田)



●燃えよピンポン

 97

 三原光尋 (シアタートップス)

 松梨智子の作品を観てから「いかん、もっと幅広く観ないと」と思い駆けつけたが、インディーズの映画というより、懐かし自主映画の世界を垣間みたそんな由緒正しい?作品だった。

 きちんと、16ミリで撮って、それなりにロケセット(と言ってもそれほどないが)充実していて力が入っていることがよく分かる。ストーリーは大阪のドリンク剤の老舗「浪速ドリンク」(昭和30年代の「スチャラカ社員」のような会社)で働くOLが、ライバル会社の「天満ボトラーズ」の宿命のライバルOLとの男をめぐって社運をかけたピンポン大会に出場するまでを描いているが、実家が中国料理屋のヒロインに対していつも優雅なライバル(登場の時定番の音楽がかかる)があまり優雅に見えないと言うか、なんでOLが優雅なんだ?と疑問があるけど、それはさておき撮影は生真面目にカット割りをして、役者の演技で笑いを取ろうとしている。フィルムだから、その辺がアドリブであっても上手くはじけなてないのが残念。まあ、そんなにアドリブはないと思うのだが。

 ピンポンとういうネタも上手く転がってはいないと思うのだが、監督には「水泳」「ママさんバレー」そして「ピンポン」というスポ根三部作がありそのひとつに入るらしいが。社会人卓球選手権で勝ったらハワイに慰安旅行だと社長に約束を取り付けると、突然ミュージカルになって陽気なOL生活が歌われるのが笑える。

 その先は自主映画パターンの特訓、達人探し、免許皆伝とブルース・リーの世界が入って来て最後まで突っ走る。ちょっとまだこういうのやってたるの?と言う気分になってしまった。

 コテコテな割には身体を張ったギャグが少なかったなあと思った。小劇場の劇団員とは言え、そんなに過激なことは要求できないのだろうか。それとも、役者が映画の動きが分かってなかったのだろうか。役者に多く頼りすぎているんじゃないかな。主役以外の動きが結構、おざなりなところが目立った。

(角田)



●ペイバック

 PAY BACK

 99

 ブライアン・ヘルゲランド (日本劇場)

 『L.A.コンフィデンシャル』が当たったから、これやろうぜってノリで作られたとしか思えない、B級映画を甘い大作の条件(ギャラの高いスター、今っぽい派手な残酷描写)で固めたために中途半端に終わってしまった作品。

 冒頭のメル・ギブソンが撃たれて、弾丸を摘出しているところ(闇の医者がウイスキーでメスを消毒しているところは良い)や、ニューヨークのブルックリン橋を渡り、現金をこしらえて行くところなんか、原作を読んでいないと何のことだかさっぱり分からない。その頃になってやっと1950年代の話なのかと思って、だったら現金決済もおかしくないなと考えていると、中国人マフィアが出てきたりして、あれ、今の話なのかなとも思い混乱する。どっちつかずの描写が、仲間に裏切られ取られた7万ドル。当時にしても、今にしても大した額ではないが、奪い返すだけでそんなに人殺すなよと言ってやりたくなる。

 アクションの描写が至近距離でバンバン撃ち合うだけの何の芸もカタルシスも無いモノになっていて、ドルビーの音だけうるさい。後半になると、組織につかまりメル・ギブソンの独りM状態となって、血まみれになるが、こういう芸風の人なのかねえ(『マッドマックス』、『リーサル・ウエポンシリーズなんかそうだよな』)。

 脇で出ている、ジェームズ・コバーンやクリス・クリストファーソンの方が貫禄あります。(それにしちゃ、扱いがひどいなあ。見せ場がほとんどないんだもん)。

 せめて時代背景だけちゃんとしてくれたら、渋い出来にはなったと思うのだが。

(角田)



●永遠と一日

 98

 テオ・アンゲロプロス (シャンテシネ2)

 かつて一度でも自分に対して、強烈な映画体験をさせてくれた監督の映画は、何となくいつまでも追いかけてやろうという気になる。アンゲロプロスも最近生彩に欠ける作品を連発しているが、果たしてこの映画はどうなのだろう。カンヌで賞を取ったらしいけど、それは政治的な配慮でしかないと思うし、今まで大した賞は貰っていないんじゃないだろうか。違ったかな?

 まあ、それはともかく、ストーリーを簡単に言うと、余命幾ばくもない詩人がアルバニア系難民の少年と出会い、一日を過ごす。そこに過去と現在が絡み合いながら進んでいくという構成だ。

 私たちにとって難しいのは、その政治状況の背景はもちろん、詩人という職業の位置であろう。詩人という職業が政治的な発言権を持たない日本では主人公として成立しないことは確かだけども、ヨーロッパでも成立するのか。文化人的な地位はあると思うけど、それは既に過去の産物となりつつあるのではないだろうか。そこに、祖国ギリシャの革命の為に詩を書いた19世紀の詩人が理想像として語られる。しかし、彼は今の政治情勢に対して何の答えも詩人に与えない。これは、象徴的であり、アンンゲロプロスの映画が低迷している理由はそこにあると思うのだがどうだろうか。

 彼の映画は、過去に対しての政治的状況の分析、寓話化は映像のワンシーンで何十年も時を飛ばす手法で見事に表現する事ができる。しかし、現実を眼前にすると、その効果は観客には急に色褪せてマンネリズム、あるいは逃げの美学にしか映らない。混乱の極致にある世界を映画化することには勇気がいることだが、それは誰の手に余ることだと思う。現在を寓話にするために、難民の子供を出したり、詩人という職業を出したり、過去との交錯を行っているが、中途半端な印象を受けるのは、映像の解釈を非常に曖昧にしすぎているためだと思う。それを効果として使うのではなく、観客に判断を委ねすぎる。これでは、観客を映画とは別の次元の、同情から来るスノビズムの増長にも繋がりかねない危険性をはらんでいる。スタイルで、映画に何も語らせない、観客にとって「良い映画だね」と言わせる踏み絵のような効果をもたらせかねない。これこそが、曖昧な政治を映画に持ち込む最悪のやり方、国際舞台では受けるだろう手法だ。冷戦の季節が終わり、欧州の新たな統合のなかで模索する作家の中で(ヴェンダースがダメになったように)、大島渚に共感を覚える同世代人としてのアンゲロプロスが現代を描く手法がこのような形であるのは寂しいと思う。政治の季節以降の停滞でもあるともいえるが。アタマのなかで作りすぎながら、人に理解を強要しすぎる。

 技術的なことをいえば、屋外はほとんどノーライト。だが、現像処理が悪いのか画面に深みがない。『霧の中の風景』ではイタリアスタッフが参加していたからか、画面に艶があったのだが、どんどんひどくなっていく。あと、ドルビーを使う必要がない。ミキサーが下手なのか、無理に音を絞って変な素の沈黙の瞬間が多くできて興ざめしてしまう、目立つのだ。『旅芸人の記録』の頃に較べて機材は良いんだろうが効果が出てこない。お金が無いのだろうか。主役のブルーノ・ガンツの衣装にアルマーニと出てすごくがっかりした。

(角田)



●ワンダフルライフ

 99

 是枝裕和 (シネマライズ渋谷)

 『幻の光』に次ぐ第二作目。前作は、第一作ということでちょっとなあ、と言うところもあったけど褒めていた、しかしなんで宮本輝原作を映画化するのかなあとは思っていた。その疑問は解けることはなかったけど、今この作品を観て、ボク的には、「やばいんじゃないの」と思った。観終わって前を歩いていた女の子のふたり連れが、「良かったね」「うん、日本映画ってこういうこじんまりとしたのがいいよね」と会話していた。オジサン的には大いに違うぞ、そういう事じゃないんだと言いたかったのだが、「良かったね」、と言わせてしまう監督の技量と技法が巧妙になってきたことを指摘したい。それを意識的と無意識でやっていることも。

 その前にストーリーの概略を述べると、死んだ人間が来る場所があって(古い昭和初期の病院のような建物)、彼らは一生に一度の大切な思い出を思い起こし、それを短編の映画にしてそれを観ると天国へ行けるという、その一週間を描く物語だ。

 監督の是枝は、テレビ・ドキュメンタリー界では、若手として評価が高く、自殺した環境庁の官僚を追ったものや、エイズを告知した平田氏のドキュメンタリー、田舎の分校と福祉に迫るもの、記憶が失われる人の生活を捉えるものなどを撮っている。

 今回の作品では、監督、脚本、編集を兼ねている。そのためか、長い。まあ、それはいいとして、現在のテレビ・ドキュメンタリーの手法が多く取り入れられている。同ポジションでの編集。お陰で目をつぶっていても話の流れが分かる。それくらい喋りすぎで、映像が無い。言葉つなぎで編集され尽くされている。たぶん逆の静寂な印象を受ける人が多いと思うが、そう思わせるのが監督の意図した話法だと思う。映像的にはますます候孝賢の影響が顕著になっている。それが物事を凝視する視線と間違えられているのは、監督が大いに確信犯であると思う。自分の作り出す映像がどのように評価されることを充分意識して撮っているのが分かるからだ。ようするに、どうしたら真面目な人たちに受け入れられるか。それだけを達成するために映画が作られているとしか思えない。優等生なのだ。そういう映画もあっても良いのかも知れないけど、何を信じて映画を作っているのかまるでボクには分からない。もしかしたら本気で自分の見る世界、現実を信じて、計算しないで作っているのかも知れないが。

 人生の思い出を再現し、撮影することで天国に行けるなんてアイディアこそがテレビ製作者の驕りだと思うが、驕りがキツイ言葉なら傲慢さだ。他人の人生を切り取り、不特定多数の人間に物語として見せるものに演出や欺瞞はたくさんある。ドキュメンタリーでもね(現場にいた者が言うのだから間違いない)。それを淡々と撮ることを正当化していく行為が観ていて耐えられなかった。そこには、何の疑いも問いかけも無かったからだ。

 非常に老成した落ちついた演出という人もいるだろうが、信じているものが違うので、これからも他人に褒められる映画しか撮れないだろう。魂を揺さぶられるような映画ではなく良くできた映画、「うん、日本映画ってこういうこじんまりとしたのがいいよね」と言わせる映画を撮り続けることだろう。「それがなんで悪いの?」という人はボクと人種が違うんです。きっと。そういう人は、家でテレビでも見てなさい。

(角田)



●プープーの物語

 97

 渡辺謙作 (ビデオ)

 封切りの時も、どうしようかなと思いながら結局、観なかった。レンタルビデオ屋でも回転してなかった。なんでだろう?何を危惧していたのだろう。タイトルを含め、売り方があまり上手くないと言うのはあるとしても、何の匂いを感じたのだろう。極論を言えば、何の情報も口コミも流れて来なかった世界に、何のとっかかりも見いだせなかったのだと思う………。そう、観終わった今も、つかみどころがどこにもないのを感じている。要するに何したかったの?

 映画が面白くなるであろう要素が抜け落ち、テクニックが目立つという最近にしては珍しくケレンのある映画なのだが、問題はそのケレンがどっかで観たことのあるものばかりのような気がする。映画のケレンをストーリーの中に入れることは危険だ。オールマイティーで魔法のようにケレンで事件を解決させることが出来るので、余程の巧者じゃないと使っちゃいけない。でないと、ストーリーを楽しむことが出来ない、それをご都合主義と言うんだけどね。それが多すぎる。

 確信犯にしては、下手だと思う。スタイルまでも行き届いていない。鈴木清順を出しちゃイカンと思うが、そこら辺が清順との、皮一枚の違いだと思うのだけど、繊細さと大胆さの組み合わせ。大胆さが粗雑に見えてしまったのが失敗。ストーリーでなく、画だけで見せようとしたのが失敗その次だろう。感情移入をわざとさせていないのだが、登場人物が馬鹿に見える。格好良くもないしね。一作目からこんな事をいうのは酷だがカメラポジションがことごとく違っていると思う。監督の空回りが映画の面白さを削いでいると思うが。こういう映画があっても良いと思うのだがのれないんだよな。それが欠点。押さえる部分は押さえないとアカンと思う。

 具体的には書かないが、観た人はどう思うのだろう。ストーリー的には状況があって、女の子ふたりのロードムービーで話は勝手に進んでいるんだよね。そこに関係のないエピソードがポツリポツリと入る。相変わらず、話はわからん。それが最後まで続く。ハアー。

 監督は画が撮りたかったので、映画を作りたかったんじゃなかったのだろうか。それで成立すると思ったのだろうか。それは10年前の自主映画までだよ。プロの作品の水準じゃない、映画を目指すのだったらね。

(角田)



●シン・レッド・ライン

The Thin Red Line   98

 テレンス・マリック (新宿ミラノ座)

 G島における攻防戦を描く作品を作り上げることを選んだ、テレンス・マリックには確たる映像のイメージが、イメージのみがあった。美しい映像を作り上げる作業は20年前に『天国の日々』で、既に完成させてしまった。次に作り上げるのは、「映像自身が美しく映画を語る映画」、として存在できるかどうかの実験だった。美しい日没の寸前の農場の暖色の映像ならどんな陳腐な話でも受け入れられていく。そこだけが評価されたことでマリックは落胆して姿を消したのではないだろうか。

 20年後その正反対の条件、太陽光線の直射日光が、鋭い光を差し込み自然の力に委ねられたまま生い茂る緑の雑草と、対照に織りなす濃い黒い影のコントラスト、そして倒れ行く兵士の血と、砲撃の火、立ち昇る黒煙、白煙の世界。生と死が、夜明けから日没までの時間のなかで最大限に引き延ばされ、そのなかで生き延びるしかない兵士たち、ドラマは単純だ。饒舌な言葉と、兵士のモノローグと、断末魔の悲鳴は同等な一つの世界を型どるオブジェであり、要素だ。砲撃と銃声が感傷をかき消し、雑草を渡る風の音がスクリーンを覆いつくす。

 何も削ぎ落とさず、表現できるものは全てスクリーンに現わす。ものすごく豊かな映画なのです。興行的には惨敗するだろうし、誰もが沈黙して無かった事にしようとする映画だろう。

 しかし、観るのなら、画面に現れたイメージを全部吸収しながら観るしか観る方法は無いのです。全てを画面のイメージに晒して、途中で何かを決めつけて観るものではないのです。映像詩という楽な言葉がありますが、ここでは、映像だけではなく映画全体を詩に変えようとする試みがなされているのです。しかも、50年以上前の戦場を舞台として。戦争映画を撮ろうとしていないとか、人物像が紋切り調だ、いや複雑すぎるとどちらでも解釈できるように曖昧さ(それこそ、戦争の不条理を体現したものではないだろうか)を構造的に持たせ、他の戦争映画が作り出す、スペクタルと残酷描写とは違う、監督自身が生み出すリアリズム世界を作りだしている。

 繰り返して言うが、戦争映画になっていないとか、退屈だ、という批評は的外れだ。これは、物語を語ることが映画という狭い考えを捨てさせ、映像とイメージの織りなす記録を映画という世界で表現しているのです。映画の可能性をどこまで拡げられるかに挑戦している闘っている過激な映画なのです。

 多くのハリウッド映画が、物語とSFXとマーケティングに安住した、世界共通のパッケージ製品を提供している中、ハリウッドの持つ世界随一の技術を使い、全く別のものを作り上げていく確かな演出を堪能するべきなのです。画面の隅々まで、何十キロ先の立ち昇る煙にまで神経を使い構築する完璧な画面。丘を登る兵士を背後から狙うクレーンショットの動きの計算され尽くした完璧さに酔っていいだろう(こういう映画のメイキング本が世みたい)。

 終わらない悪夢のように続く、延々と続く戦闘シーン。そこには何のカタルシスもない。『プライベート・ライアン』が疑似体験なら、この映画は極限体験に置かれたもっと居心地の悪い体験を提供してくれる。普通の映画なら、進むストーリーも停滞して、誰が誰だか分からない登場人物達と雑草の茂みに延々と隠れていなければならないのだ。映画の中のリアリズムじゃなく、リアルな映画の記録、それが詩に昇華されていく過程を一緒に体験することなのだ。

 多分に文学性の未消化の部分はあると思うし、それほど効果を上げていないアイディアもある。典型的なフラッシュ・バックや、日本兵の描き方などは納得がいかないが(アメリカ兵の撃つ時は百発百中なのはおかしい)、映画の可能性を拡げてくれたことに、これがハリウッドで作れたことは大いに賞賛に値する。たぶん、また早すぎた映画を作ってしまったのだろう。

(角田)



●BAR(バール)に灯ともる頃

“CHE ORA E” 89

エットーレ・スコラ(シネマスクェアとうきゅう)

 香港映画とイタリア映画は案外「家族もの」が多いが、この映画は「親子モノ」だ。

 スコラ監督の「ラ・ファミリア」「パッション・ダモーレ」「あんなに愛しあったのに」のタイトルだけは聞いたことあったが、作品は初めて観た。マルチェロ・マストロヤンニとマッシモ・トロイージ(イル・ポスティーノ)という大物(いずれも既に故人だが)競演作だというのに、製作(1989年)から10年を経てやっと日本公開にこぎつけたのは、田舎町が舞台のオンナっ気の少ない地味な親子モノだからだろう。

 物語はローマで弁護士をやっている成金で饒舌なマストロヤンニ演じる父がローマから100キロほど離れた港町、チヴィタヴェッキアで兵役中のトロイージ演じる、どちらかといえば寡黙だが、女にはモテモテの息子を訪れるところから始まる。「何時ですか?」という会話しか、まともに交わせない二人は、親子の絆を取り戻すことができるのだろうか?という「父と息子の関係」主題の映画として観るより、イタリアの田舎風俗映画として観たほうが面白いと思う。たぶん、ローマとか一部の大都会を除いたら、イタリアの地方都市は、どこか薄汚れていて、地味で単調で寒々しい街が多いのだろう。ハーブ入りの「グラッパ」は身体の芯から暖まりそうだ。

(船越)



●毒婦マチルダ

 99

 松梨智子 (中野武蔵野ホール)

 『流れ者図鑑』を観て、この作品のチラシを見て、「インディーズって言っても自主映画だろう。しかも、主演、監督。独りよがりの思い込みの作品じゃないだろうなあ」と思いつつも、『流れ者図鑑』の印象がどこかアタマの中に残っていて、「じゃあ、観てやろうじゃないか」と映画に行くには珍しく固い決意で望んだ。予想に反して、会場は満員。お陰で立ち見になってしまった。まあ、70分の上映時間だから良いだろう。定刻となり監督の簡単な挨拶に続き、本編が始まる。ん、ビデオ、しかも、デジカムじゃないか。まず、ここでボクの中の自主映画概念が崩れ始めた。劇場で限定レイトショーとはいえ、やっぱ、撮るなら借金してでも16mmでしょー。の展開が裏切られた。

 国会議事堂が映り、笑顔にボブヘアーの松梨が黄色のスーツで闊歩する背景に、ナレーションで「私の名前はマチルダ。国会議員なの。何事もポジティブに生きなきゃだめなの」と、心地よいリズムのカット割りとともに語られる。と思う間もなくどこからか銃声が響き、撃たれ血まみれになるところで、音楽が入りメインテーマが流れる。しかも、オープニングはいきなり廃虚での銃撃戦。次々と役者が紹介される。格好良すぎるカッティング。既にここで、「何が始まるんだろうか」という疑問符だけがアタマを駆けめぐっていた。それにしても、こりゃ、アクション映画なのかい?

 シーン変わって、夜中の豪雨の中、喚く天才バカボンのパパのような父親。主人公のマチルダの誕生だ。しかし、この子は女の子であったために、巨人の星にしたかった父親は、勝手に男の子として育て名前も押忍華留(オスカル)と名付けられる。リアリズムなんかなにも考えていない狂気の世界がはじまり、役者のテンションの高い早口の、それでいてテンポの良いリズムであっけなく物語?は進んでいく。自分が女と言うことに気付く押忍華留。その時、母親は北朝鮮のスパイであることを父親に喋ってしまい、突然現れた北朝鮮の殺し屋にふたりはあっけなく殺される。ここでなぜ、こんなにも早く殺し屋が来れたかという理由を、唐突にCGを使った図で全く説得力を持たない解説で科学的に納得させるのだ。ちょうど、その場に帰ってきた押忍華留は、アパートの隣の部屋に助けを求める。どこかで観たシーンだと思ううちに、隣の部屋の男に助けられる。男の名はレオン。職業は殺し屋。その日から押忍華留はマチルダとなった。と、パロディーをなるのかと思うと、画面にテロップが出て、「色々、殺し屋の訓練を受けるのですが、そういうシーンは撮影が難しいのと、長くなるのでありません」となる。次々とこちらを裏切る展開を呆気無くやっていく。と、オープニングの廃虚で銃撃戦のシーンとなり、レオンはマチルダに対しての一瞬のスケベ心で、隙を見せてしまい、殺し屋ジョンに撃たれてしまう。

 ここで、シーンは第二部へと変わり、北朝鮮に拉致されたマチルダの話になる。もう、全く先が見えないと言うのか、なんでも詰め込んであるというのか(こういうのは好きですが)、更に滅茶苦茶な展開になる。あらすじだけ書いても、殺し屋ジョンと金○成は、ホモの関係(ちゃんと、バスルームでの濃厚な濡れ場を撮っている。セットはどこかの高級ビジネスホテル)。息子の金○日(ちなみに親子は一人二役)はマチルダと結婚するが、革命が起きて、殺されてしまう。飢餓の世界に取り残されたマチルダは、死んだ金○日をバーベキューする。なんていう発想なんだ。

 シーンは変わり、新宿の地下道で、「私の詩集」を売っている男の話になる。お金にならないが夢を売っていたという男はある日、突然金儲けに走り、歌謡曲で大ヒットを飛ばし名音楽プロデューサー小西となる。ある日偶然、(そればっかやなあ)場末のマジックショーに入ったら、そこにはバニーガールとしてマチルダがいた。一目惚れをした小西は、マチルダの為に曲を書く。シーンはアイドル、マチルダのプロモーション・ビデオになる。糞真面目に撮っていて、スローモーションとか、最後に曲名とレコード会社のテロップが出るかと思うほどだった。小西は恵まれない子供たちのための遊園地、マチルダ・ワールドを作るとマ○ケル・ジャクソンのようなことを言う。完成した遊園地には(どっかのビルの外で撮影)マチルダの巨大黄金像(本当に金粉を塗って、アオリで撮っている……バカだあ)。しかし、小西は、株主訴訟で社長の座から降ろされて、無一文となってしまう。家計を助けるために働くマチルダ。ある日偶然、(そればっかやなあ)死んだ筈の母親が現れ、思い出話をしていると、母親は結核で喀血して、死んでしまう。その体験を小説にして、すばる文学賞を取る。成功を収めたマチルダの野望は、国会議員になることに向けられた………。と選挙カーに乗って、新宿アルタ前で演説したりしているうちに映画は終わる。

 観終わって我に返って呆然として、なんなんだこれは、という疑問がグルグルしていた。全く観たことのない映画体験だったと思う。演技とかは、ほとんど小劇場のノリに近く。オーバーアクション、ハイ・テンションは当たり前。しかし、それが全然浮いていないし、面白いでしょうと押しつけがましく全然ない、センスの良さは抜群だ。撮影はどちらかというと保守的で、単純な切り返し、カットバックで構成されている。ようするに、この気違いじみた世界を語りたかったんだな。その手段としてのビデオというメディアだったんだなと思う。インディーズと言っても、テレビドラマと同じクオリティーを持って作られているから余計に突出したおかしさがが出てくる。主張とか表現したいことが、映像に託すとか、主人公に託すんじゃなくて、自分を中心とする自分たちでも出来る世界を作るための手段なんだよね。

 だから、野望とかプロの監督になるとかそんな嫌らしさがまるで見えないエンターテインメント。でも、出来ることは全部やるよ。手は抜かないからね、と言う相反するプロらしさに徹する潔さがこの作品の魅力だと思う。自主映画の世界は暗いとかうざったいとか、思っていた僕にとってものすごい刺激になった。でもよく考えたら、テレビではデジカム使って放送しているんだし、音楽の世界じゃ、プロ。アマ機材は変わらないんだから、映像世界もそのレベルまで来ている証拠だと思う。

 つけ加えれば、セックス・ギャグなどきわどいのもいくつかあって、インディーズだから表現できるフィールド幅を感じた。だから芸術やリアリズムにデジカムの世界を乗っ取られる前に(日本人はまじめだからな)、マチルダ・ワールドを作ろう。その方がおもしろいじゃん。そう言うのが観たいんです。もしかしたら、絶滅したプログラム・ピクチャーの系譜なのかもしれませんね。それを個人的にやるということ。資本がなくても映像表現はできるということを示してくれた(ただおかしくて爆笑しただけかもしれないが)。

 松梨智子は、良いです。観ているうちに慣れてくる顔ですね。(市川準の『トキワ荘の青春』にも出演しているらしいが)。そのうちにテレビドラマにも登場してくるでしょう。テレビで稼いで、インディーズ・ビデオを作るようなスタンスの人になれば面白いのになあ。

(角田)



●小さな兵隊

LE PETIT SOLDAT   60

 ジャン=リュック・ゴダール (渋谷シネセゾン)

 やっと、観られた。もしかしたら一生観られなかったかもしれないと思っていたから嬉しいはずだが、気分は昂揚しなかった。なぜか?演出が下手だからである。『勝手にしやがれ』(59)も観ていられるのは、編集のリズムと、ジャン=ポール・ベルモンドの存在だと思うが如何であろうか。本当に映画として演出力が開花するのは『女と男のいる舗道』(62)からだ。

 そう思えるのは15年程前に、この映画のシナリオ翻訳を手に入れて読んだ印象よりも、映画自体がインパクトが無かったからだ。映像が勝ってなかった。シナリオでは、対立するスパイの哀しさが文学的な香りを持って描かれていたが、これじゃあ出来の悪い観念的な作品過ぎる。時代性もあるが、観念の部分じゃ納得できるものではなかった。シナリオに酔っている感じもあって、画作りに力があまり入っていないと感じた。でも長回しのところなんか昔だったらすごく感心しちゃっているんだろうな。ゴダールが肉体的ではなく、アタマで作りすぎた映画と思う。 (角田)



●四月物語

 98

 岩井俊二  (ビデオ)

   私的には、岩井俊二はのれるのとのれないのは二つに分かれる。前者はコミックか出来るような設定や画面に思きをおいたもの、『Undo』、『PICNIK』、『FRIED DRAGON FISH』、『スワロウ・テイル』。後者には『Love Letter』とこの『四月物語』が入る。

 ま、それは、趣味の部分があるから一概にどれが言い悪いは言えないが、どうも青春映画の残滓みたいな映画はどうも好きではない。好き嫌いで語ると不公平だから別の方向からみると、ノスタルジーを語る、たかだか30幾つの人間が語る大学生活についてとか、高校時代の話なんてどこにも出口のない甘いだけの菓子のようないい気なもんだ映画(近頃40くらいでもそんなことしている映画もあるけど)、近過去を美しく描くなんて今の日本じゃそんなに困難な作業じゃないし、選ばれた東京の風景が東京である必然性でもないし、どこでも景色がきれいなところであればいいんだというほど匿名性に満ちている。要するに、まさしく上京者の視点な訳。

 画になりそうなところを切り取った東京の景色は美しくない。美しいと思ったあなたはCMの見すぎだ。たかだか40分程度の短編に目くじらをたてることはないんだけど、気になるんだよね、街の匂いのしない(特に東京郊外の武蔵野にこだわるのならもっと撮れる画はあるぜと言いたい)いい気なノスタルジーは、8ミリで撮れ。

 というか、岩井俊二は批評もんから無視されているんだけど、映画はいっぱい撮れるはずだから、撮ればいいのに。巨匠ぶって何年も企画暖めても仕方ないだろうと思う。つまらなくても良いからたくさん撮るべきだと思う。キネマ旬報から無視されようと。ポニーキャニオンなんか潰してもいいから。誰かがやらないと面白い映画の流れは生まれてこないぞ。

(角田)



●ザ・グリード

DEEP RISING   98

 スティーヴン・ソマーズ (ビデオ)

   これは、いい。正当派B級映画。なかなかツボをおさえた設定・演出!

 登場人物が密輸船の陰のある若い船長(勿論主役)、彼の助手のオチョコチョイのエンジニア、その船に乗っている不気味な客。船長は「金さえ貰えば誰でもいい」と言うが、明らかに傭兵軍団。小型船は嵐の中、豪華客船にたどり着く、乗り込む傭兵達。成り行きで一緒に船内に入ることになった船長達はそこで、おぞましい光景を見る。たくさんいたはずの客がだれもいない、船内は滅茶苦茶。時折聞こえる不気味な音。生き残った美人女泥棒や船のオーナーや船長がタイプキャストを演じてくれてうれしい。イケイケって感じだ。

 ドラマの構成がしっかりしているので怪物の出てくる滑稽さも許される。拾いもんである。これはもしかしたら、ジョン・カーペンターの『物体X』のようなカルト映画になる可能性を秘めている。それくらい近年にしては完璧に良くできているB級モンスターものである。人間が描けているのがいいね。

(角田)



●出発

 le depart   67

 イエジー・スコリモフスキー (渋谷パルコPART3)

 洋画、邦画を問わず、青春映画は、ちょっとせつない。フランスとオランダとドイツ(ポルシェで疾走するわけだし)に挟まれた、ボクにとっては「シメイ(ビール)」の国といった程度の認識しかない、ポーランドからの亡命監督によるベルギー産のこの映画も、やはり例外ではない。

 ポップでシュールな映像美はこの当時のヨーロッパの流行だろうか、「地下鉄のザジ」(ルイ・マル監督・1960年)とイメージが被る。主人公がジャン・ピエール・レオーというのも、ヌーベル・ヴァーグの系譜に入れてしまいたくなる要因か。

 粉々に割れた鏡が「逆回転」で元に戻るところなど、印象的なシーンも多い作品だった。「ポルシェ」から「女」に目覚めるラストシーンは新しい人生への「出発」というよりは「あきらめ」のように思えるが、後味は悪くない。

(船越)



●穴

LE TROU    60

 ジャック・ベッケル(シネ・ラセット)

   脱獄モノは、なぜ、面白いのだろう。「抵抗」「大脱走」「アルカトラズからの脱出」「勝利への脱出」(あ、これはだいぶ落ちるな)想いつくままにいくつかタイトルを挙げてみても、傑作ばかりではないか。

 さて本作、数ある「脱獄モノ」のなかでも頂点ともいうべき伝説的傑作だとは聞いていたのだが、ボクは未見でした。で、どうだったかというと、これが本当に緊張感あふれる傑作だった。同じ脱獄モノでフランス映画の傑作「抵抗」(ロベール・ブレッソン・1956年)は感情のクライマックスを意図的に省略するような演出だったが、本作は、ハラハラ・ドキドキの連続で、まさに「全編クライマックス」。脱獄モノが好きで、未見の人は今すぐレンタルビデオ屋にGO!

 ラ・サンテ刑務所のある一室に収容されている4人の男たちは、脱獄計画を練っていた。ある日、妻殺しの容疑で、若い男が新しくこの部屋に収監されることになった。この男を脱獄の仲間にいれるべきか、それとも…

 実際の脱獄事件に関わった人物をそのまま俳優に起用しているというのも驚きである。

(船越)



●ガメラ3 邪神(イリス)覚醒

 99

 金子修介 ( ニュー東宝シネマ)

 「ガメラは人類の敵かもしれない」という疑惑は怪獣ものには当然つきまとうものである。そもそもギャオスやレギオンを何十匹殺しても心痛めないような亀がなぜ、子供ひとりの命を守ろうとするのか、同類のギャオスやレギオンと結託してなんで「人類」を破滅させないのか…「生物兵器」だとか何だとか、前作、前々作とそれなりに「科学的」「民俗学的」説明をしていたような気もするが、根本的には納得できない。

 「善意」としての「ウルトラマン」というのがあるが、「ガメラ」も物凄い「善意」の亀である。腹に穴あけたり、腕を切り落としてまで、住処どころかエサすら与えてくれない人類のために、イリスやギャオスと戦う必然性など、どこにもない。この「不幸な」亀に比べれば前田愛の一人や二人死んだって、どーってことない。やっぱり金子修介ってロリコン趣味なのか?!

 実は「ガメラ」のエサは「人類」でその「ガメラ」の縄張りをイリスやギャオスが荒らしに来たので仕方なく戦っているというなら話は別だが、それにしても命を賭けてまで戦う必要はない。

 第一作(怪獣使いの美少女もの)、第2作(自衛隊戦争シミュレーションもの)ともに面白かったので、今回も期待したのだが、イリスが「エヴァンゲリオン」状態で空中を飛ぶシーンや「憎むべき」新京都駅の破壊シーンは楽しめたが、ストーリーはもうひとつでした。前田愛をイリスと完全に融合させて「切り離せない」状態にしてくれたなら、もう少し違った展開になっていたかも…

(船越)



●アイス・ストーム

Ice Storm   97

 アン・リー (ビデオ)

   ニューヨークの郊外にあたるコネチカット州の小さい街の70年代、ニクソンが大統領の頃の冬の感謝祭を挟んだ数日間の物語。一つの家族の危機を描いた作品。近頃のアメリカ映画でこれだけ喋らない映画も珍しいくらい台詞が少ない。夫婦の危機、夫は隣人の妻と浮気をしているし、妻は小物屋で万引きをする。長男は大学の寮でマリファナを吸い、中学生の長女は、隣家の兄弟を誘惑する。

 物事の価値観がすべて崩壊していく時代に何が家族を一つにできるのか。セックスをはじめとして、すべてのモラルにノーということへの戸惑い。普遍的なことなど何もないと語りかけてくる人物達。戻れなくなるところまで自分たちを追い込んでいく時代に抵抗するでもなく、ただ流されていく様子をその揺れる心理と空っぽな家庭を突き放した視点で描く。逆に言えば、リアルタイムでは作れない作品かも知れない。

 遅れてきたアメリカン・ニューシネマだ。

(角田)



●ガメラ3 邪神(イリス)覚醒

 99

 金子修介 ( 新宿オデオン座)

 平成ガメラは、どれかお好きですか。私は1ですけどね。あれが一番単純で分かりやすいアクションだった気がする。G3は、その前2作を観てないと楽しめない構造になっている。まあ、なんとか補足は部分部分でされているけど、ちょっと悪ふざけしすぎじゃないかなとも思うが。

 えー、シナリオ。伊藤 和典は押井 守作品なども書いている、アニメーションのシナリオライターだ。私はどうもこれが引っかかっている。構成の核となる部分を取り違えている様な気がするからだ。そのためにいつも腰くだけのシナリオになっている。日本にも邪神がいて少女の意識とつながり顕在化する。 だから何なのか?勾玉とかゲームMANAとかキーワードがいっぱい出てくるが結局は消化されてない。山吹千里はなんだ?いつの間にか消えてしまった。ゲーム作家はなぜ死ななきゃならないのか?アニメーションによくある、詰めの甘い展開が今回も起きてしまった。

 最大のネックは、前田 愛を死なすことが出来ないことだろう。政治的に使わないきゃならないキャスティングとは思えないので始めから想定された役柄だと思うが、「わたしはガメラを許さない。」と言ってもドラマが成立しないじゃん。イリスと融合するなら自分もそれなりの代償を払わないと(死ぬということ)納得しがたい。そこに誰も気がつかないのか。昔のゴジラと同じで、ガメラを災害、厄災としてとらえるのなら、犠牲を払わないと収まらないはずだ(その辺の甘さは『もののけ姫』も同じだ)。誰も犠牲を払わないでガメラと街が破壊されていく………なんてことやっていると平成ゴジラのような人間不在の新しいビル壊すだけになっちゃうぞ。(あ、既に京都でやっちゃったか)。カタルシスで考えると、京都じゃなく、渋谷をクライマックスに持ってきた方が盛り上がったと思うのですが、どうでしょうオタベさん。

 特撮は、頑張っていて観ていてもっとやれというか、やりすぎというか某ロボットアニメーションの影響があるなあとも思う。イリスの飛ぶシーンとか、イリスを森で攻撃する自衛隊のあたりとかね。

 コンテの切り方がアニメと同じなので空でのチェイスの部分が分かりにくい。目線、客観の切り替えが上手くいってないので混乱する。でも職人芸としてはたいしたもんです。

 客席にはヲタクな人が多く、年齢層が高く、埋まってましたが、ガキんちょに観せたいね。

(角田)



●ウエディングシンガー

WEDDING SINGER   98

 フランク・コラチ(新宿シネカリテ2)

 小品のロマンティック・コメディーですが劇場で観た方が気分が良いのでは、と思わせるナイスな出来。ある種のお伽噺、イノセントな人間達が醸し出すドラマ。

 自分の結婚式をすっぽかされたウエディング・シンガー(結婚式のバックで唄うバンド)と式場で働く結婚を控えたウエイトレスの距離がどんどん近づく、結婚コメディーと言っても良いだろう。

 80年代音楽のオンパレードで懐かしかったなあ。見終わると得した感じになる楽しい気分になる。というか単純にマル貧対マル金の『金魂巻』の世界(古いね)、アイディア勝ちの映画じゃないかな。たぶんノスタルジー系の映画なんだろうね。80年代!を回顧して……。今じゃ成立しないのかなあ、んなことないと思うけど80年代だからいいんじゃないの。ちょっと背伸びした恥ずかしい部分が許されるってことなのかな。

(角田)



●スネーク・アイズ

SNAKE EYES   98

 ブライアン・デ・パルマ(新宿ピカデリー2)

 20才前に、一番影響を受けた監督と言ったらこの人、ブライアン・デ・パルマにつきる。『ファントム・オブ・パラダイス』には、はまらなかったけど、『フューリー』のワン・シーン全部、スロー・モーションにはぶっ飛んだ。『フューリー』は評価が低いけど、デ・パルマの中では一番良いんじゃないかとボクは思っている。という前段があって、その後も『殺しのドレス』『ミッドナイト・クロス』で何をやらかしてくれるだろうという期待とともに映画館に足を運んだのだが(あの辛口ゴダールがそのころのデ・パルマを褒めているくらいだ)、いつの間にか普通の人になってしまった。

 と思いきや、久々にデ・パルマ節を披露してくれましたね。画面2分割で、銃撃の場面を再現したり、トリック使いながら、延々と10分以上の長回しのケレン………。

 でも、ノレないんだよなあ。なんでだろう。たぶん、CG画面と同じでスティディ・カムによる、カメラがぐるぐる回るアングルに観客がすでに慣れてしまっている、スタッフも慣れてしまっていて緊張感が無くなっているんじゃないだろうか。失敗したらILMでデジタルで直しちゃえというという意識があるのではないだろうか。

 あと、編集がなめらかすぎるというか、ストーリー展開に破綻がないんだよね。編集時間を意識してシナリオを作ったとしか思えない(悪く言えばご都合主義。『ミッション・インポシブル』にいっぱいありましたよね)。展開が見えてしまう、シナリオの展開はちょっと古いんじゃないのというか、アクション・ゲームソフトをやっているような気分になった。「おいおいそれはないだろう」の連続だった。ニコラス・刑事(シャレです)の性格もよくわからんし、というか単純すぎて唖然とするわ、映像、モニターへのこだわりも中途半端なのだよ。坂本 龍一の音楽も普通。

 うーん、ハリウッドと妥協点を見つけてしまったのだろうか、彼は。往事のケレンを無邪気に楽しみたい人、もし『ミッション・インポシブル』が面白いと思った人にはお薦め。

 ちょっと、デ・パルマちゃんと初期から見直そう。もう小品は作らないのだろうか。

(角田)



●新唐獅子株式会社

 99

 前田陽一  (中野武蔵野ホール)

   原作の小林信彦と同様に乾質のユーモアを描ける監督だった。プログラムピクチャー精神というものをどこかに持っていた人。そんな想いがする。

 製作がGAGAではっきり言って低予算。赤井英和も良くおさえられたと思う。役者もほとんどいないので喜劇として見せ場が少ないというか芝居をそこら辺を呼吸で見せてくれないと見せられる方はちょっとつらい。細かいくすぐりはたくさんあって笑えるのだけど、積み重なってこない。逆に、Vシネ的な安っぽさが見えてくるのがつらい。脚本の練り方にちょっと無理があるかなと思うけど、どうしてもカラッとしない。画が狭いというか、そこら辺あっけらかんと開き直って撮影すればよいのに気を使いすぎている。スケールがでないんだよね。大阪でロケは出来なかったという話も聞くけど、もっとセットとか上手く使えなかったかなあ。

テレビの視聴率に対する皮肉とオチ(考えオチだね)は良くできてたと思うが。ちなみに山本竜二は良い役者です。

(角田)



● 鮫肌男と桃尻女

 99

 石井克人  (シネセゾン渋谷)

   現在ニッポンにおいて、映画という表現はオシャレなのだろうか。否、設問が違うな。映画はオシャレに作れるものなのだろうか。世の中には、黙っていても面白い映画を作ってしまう人とどうあがいても無理だ、という人がいる。

 平日の昼間の渋谷シネセゾンは若い人で7割くらいの入りだった。何を求めて観に来ているんだろう。確かに仕掛けに抜かりは無い。浅野忠信主演、望月峯太郎原作、CMを撮っている映像や衣装へのこだわり、照明へのこだわり。音響効果の細かさ。若人あきら、島田洋八などのキャスティング。チラシへのアートディレクションの細かさ。話題性は抜群である。

 しかし、上映中ずっとノレない違和感を感じていた。それは、全てが借り物であるところに一因があるんじゃないだろうか。如何にもオモシロイでしょうという部分が多すぎる。おいしいとこ取りといっっても良い。センスの問題かも知れない。『ソナチネ』で、チャンバラトリオのリーダーを殺し屋として出すのと、若人あきらを出演させるのは、明らかに映画に対する監督のセンスの違いを示している。(分かるかなあ)。浅野忠信はキクチタケオを着た浅野忠信にしか見えないし、北野映画で浮いている寺島進が一番浮いていない演技をしているとは、如何に全員にこてこての演技をさせているのかが分かる。

 それがオモシロイとこだわりだと考える監督は、映画に対する勘違いをしていると思う。細部へのこだわりがCMなのかも知れないが、映画の細部へのこだわりとは別のものと考えられる。映画のダイナミズム、力技は15秒と90分の違いだと思う。ある種の大胆さが無いと90分間、嘘をつき通すことは難しい。それが映画を撮るものに必要な技術だと思うのだが。

 確かに、細部にこだわり、お金をかけることは重要だと思うし、ただ貧乏くさいもの、いつの時代の映画だ?というのを見せられるよりは野心に満ち溢れて頑張っているのだが、映画が弾まないんだ。パクリを露骨にやりすぎているというか、細かいところに凝りすぎている、全編凝っているので映画のテンションが満遍なくなってメリハリがつかないんだね。そう、画面が、エモーションで埋まっていないんだ。美術とかでは、埋まっているけどね。それは、映画とは関係ないところのオハナシなんで………………。

 なんか、タランティーノ、北野武以降、映像で物語とか登場人物の感情を語ろうとする新人監督がほとんどいなくなったんじゃないのだろうか?タランティーノは別の意味で頑張っていると思うのだが、まあ、ジム・ジャームッシュ以降としておこう、オフビートでカメラを長回しすれば映画になるというか観客にオモシロイでしょと言っている映画が多すぎる。確かに、カメラ、フィルム、照明技術は上がったのでよりナチュラルなシャープな映像が得られることで画面だけを観ていても持つ部分もあるけど、映画として成立させるにはどうすればよいか、その戦略に欠けている映画が多すぎるのではないだろうか。いわば真のエンターテインメント性が見えて伝わってこないのだ。

 そういう意味では、物語を成立させるのが困難な時代とは言えるが映画って単純さが集まって結果、複雑に出来ていると、かのフランスの監督も言っているが、名言だと思う。演出ってある種の想いだと思うんだけどね、センスを伴った(これ重要)。

 今後、CM、MTV関係出身の監督が増えると思うけど、ストイックにシナリオ段階からチェックできるプロデューサーがいないと、監督がしっかりしていない限り、同じ間違いはいつでも起こる。

(角田)



●メリーに首ったけ

THERE'S SOMETHING ABOUT MARY   98

 ボビー・ファレリー&ピーターー・ファレリー  (日比谷映画)

 やっぱ、こういう映画を観るとアメリカ映画の底力というか、パワーを感じさせられてしまう。みなさんどうぞ、20世紀フォックスの宣伝に騙されてオシャレな映画と勘違いして見に行って下さい。期待しない分、唖然とするくらい楽しめます笑えます。動物虐待、ストーカー、フェティシズム、連続殺人鬼とてんこ盛りに出てきて、画面を引っかき回す下ネタのオンパレード、ほとんど「ドリフの大爆笑」。もちょっと、上品に言うなら、作品のナンセンスさと楽しさは『ブルース・ブラザース』って感じの参加型楽しさ。見終わったら見てない人を騙して見に行かせましょう。(一生恨まれること間違いなし)。

 こういう、アイディアだけで(でも伏線が強引だけど、非常に良く効いている。それだけに全キャラクターが濃いんだけどね)出来ている映画が、作られる分、アメリカ映画ってバカというか健全というか、産業として成り立ってるんだね。アイディア勝ちの一本。ネタがばれないウチに劇場へ。

(角田)



  ● ニンゲン合格

 98

 黒沢清

     映画を観た後に思わずその劇中の印象的なセリフやシーンをマネしたくなることがよくあるが、この監督の「CURE」を観た後「あんた誰?」というセリフや指でエックスを作るシーンのマネを連発していた女の子とこの映画を観にいったら予想通り「ボクはここに存在した」というセリフを…言い出しはしなかった。ゆえにこの映画を観た直後の感想としては「女の子と観に行ってはイケナイ」映画だったかな?という程度のものだった。別に難解な作品というわけではないのだが、実につかみどころのない作品なのである。キャスティングから観ると黒沢版「うなぎ」かとも思わせるのだが…監督自身のコメントによると「無謀にも、他の何にも似ていない映画を撮る羽目になった」とのことだ。

 それにしても主人公役の西島秀俊は本当に影が薄い。役所広司より薄い役者というのも凄いものだ。演技なのだろうか?

 「ドレミファ娘の血は騒ぐ」の印象があまりに鮮烈なためにひょっとしてボクたちはこの監督のことを過大評価しすぎているのではないだろうか?それともボクの映画読解力が低すぎるのか?永い眠りからさめて云々というハナシでは「デッドゾーン」や「パリでかくれんぼ」の中の一遍のほうがボクの好みにはあってるようだ。

(船越)



●アルマゲドン

ARMAGEDDON   98

 マイケル・ベイ

   頭の悪そうなブルース・ウィルスや「白い粉」でも打っていそうなスティーブ・ブシェミに全人類60億人の明日を託さなければならない状況からして、既に人類滅亡は保証されているハズなのだが、もちろん滅亡はみごと回避される。さすがはアメリカ映画だ。

 「週間アスキー」によると「2年前に巨大彗星が地球にぶつかるかも知れない」というパニックがアメリカであったそうで(ボクには全く記憶に無いが)、この映画はそれがネタになっているそうだ。またアスキーの記事によるとハリウッドは2000年問題でも映画を2本作っている最中だそうだ。日本の平成「ガメラ」シリーズが自衛隊の全面協力ならこの映画はNASAの全面協力だ。

 パニック映画全般の不満としては「意外に」人は死なないし、建物が壊れないことだが、さすがに最近のSFXの進化には目を見張るものがある。森山氏も書いている通り、パリを筆頭にいくつかの都市は確かに壊れている。ただし、やはりあまり人は死なない。「プライベート・ライアン」のような悪趣味描写を観たあとのボクたちには、もはや内臓や目玉のひとつでも飛び出してくれないと「残酷」「悲惨」な状況だとは認識できない。

 荒唐無稽なハナシだからつまらないというのではもちろんないのだが、せめて荒唐無稽なハナシを物理学や生命科学や民俗学的説明でうまく「リアル」を感じさせる日本の平成「ガメラ」的手法で作ってくれたなら、もう少し面白くなったかもしれない。シナリオに工夫が無さ過ぎ。もう少し奇想天外なストーリーにはできなかったのだろうか?ひょっとしてこの映画、アメリカでは「子供向け」映画だったのだろうか?こんな映画でまさか「感動」するオトナはいるまい、と思っていたら、会社の同僚が「いやー感動しました」と言い出したのには驚いた。ひとそれぞれである。

(船越)



●ワイルドシングス

WILD THINGS   98

 ジョン・マクノートン  (新宿ピカデリー2)

   滅茶苦茶面白いから観ましょう。監督のジョン・マクノートンは『ヘンリー』で死体の出てこない連続殺人鬼映画を撮りその才気を見せ、『ボディ・チェンジャー』(ビデオのみ)で、人間の首をもぎ取って行かないと生きていけないエイリアンの話を、『恋に落ちたら……』でマーティン・スコセッシ製作、ロバート・デ・ニーロ主演のビル・マーレーのマフィアの情婦に恋する刑事の話など、今、アメリカで一番上手い監督です(当社比)。

 シナリオが物凄く良くできている。『ユージュアル・サスペクツ』なんか目じゃないね。これ以上言うとネタがバレるんでいいませんが、マクノートンは役者の扱いが物凄く上手く、マット・ディロンにしろ、ケビン・クラインにせよ、さりげない仕草で人物の性格や場面の空気を変えてしまう説得力のあるリアルな画面を作れる人だ。

 ストーリーは、フロリダのハイスクールのカウンセラー、マット・ディロンに2人の女生徒をレイプした容疑がかかる。一人は大金持ち、もう一人は麻薬中毒の問題児。絶体絶命のディロン。追いつめる刑事。しかし、真相は………………。

 良くできているからヒットするでしょう。もっと、えぐいキャッチコピーで売ればいいのにね。是非、監督のファンになって下さい。

(角田)



●死国

 99

 長崎俊一 (新宿ビレッジ1)

 一本じゃ足りないから、仕方が無い『リング2』の併映作品を決めなきゃね。ということで製作サイドから、角川書店原作で、ミス・東京ウオーカーを使えなどの縛りありきで、最後にじゃあ監督はどうするなんてことで始まったんじゃないのか。

 本気で参加している人間がいるとは思えないんだけど。撮影の篠田昇(岩井映画でお馴染みの)だけ狂っていて、映像が手持ちのクレーンありのフィルター、スモーク、高感度現像ビシバシのほとんどカメラのテストフィルムかと思いました。長崎俊一は何をしていたのか?何もしていないように思えたのはボクだけか。

 というか怪奇、ホラー映画の基本が分かっていない人間にいくら撮らせても無駄だよ。と思う。こういうスプラッターじゃない路線を新角川映画は敷こうとしているのだろうか。でも観客もバカじゃないからすぐに退屈さを見破って飽きてしまうと思うよ。質的に『CURE』、『リング』、『死国』は観客に対して同質の恐怖を与えていると思う。悪くはないがバリエーションが無さ過ぎると思う。それは=ジャンルに対する偏愛、解釈が稀薄だということだ。

 『死国』は演出のダメさは仕方ないにしても、脚本としてファンタジーとしても成立していない。ラストへ至るカタルシスの積み重ねが足りないんだよね。普通だったら驚かしとか、ハッタリを噛み合わせたり、生きている人間の嫌らしさを誇張したりして観客を不安にさせて畳み掛けるようにしてもっていくのだが、この内容じゃ誰も納得しないね。  原作だと転生がファンタジーとして描かれるから許されると思うのだが、それを画にするには説得材料が足りなさすぎる。最後までそんなことどうでもいいじゃんと思わせてしまったところは罪だ。

 中川信夫とは言わないが、嘘でも良いから市川昆みたいに忘れられない画を一つくらい撮って、「まあ、いいんじゃない」という感想を引き出せるくらいにしなきゃ、この路線ジャンルは死にます。頼むから『プライベート・ライアン』じゃないんだから音でごまかすのはやめてくれ。(『CURE』のパクリだ、音の使い方に関しては)やっぱ、映画は短編を脚色した方がいいんじゃない。想像力を使うところがない。ちなみに原作は読んでませんが、四国の人は怒らないのだろうか、これを観て。

(角田)



●リング2

 99

 中田秀夫 (新宿ビレッジ1)

 プロデューサー主導型と監督主導型がぶつかって映画が、滅茶苦茶なものになるのは良くある話だが、この場合は役割分担がはっきりして、意見の一致が無くてどっちつかずになったのではないだろうか。プロデュースの一瀬隆重は『帝都大戦』の超能力、科学SFモノを守備範囲にしているし、フジテレビの石原隆は深田恭子を売り出すことしかアタマに無かったんじゃないか。監督の前に脚本家がバーストを起こしてしまい、話が不条理の世界に迷い込んでしまったようにみえた。

 まず、中谷美紀が主役として出てくる必要はあったのか?確かに前作からのミッシングリンクをつなぐ役として超能力者としては使えるが、この作品自体、中谷を使ったことで前作が枷になって説明的すぎる部分が多く出すぎてストーリーのダイナミズムを奪っている。そこに超常的な現象に辻褄を合わせ結末をつけようとして、科学とか幻想が出すぎて恐怖のニュアンスを感じることが難しい。ポイントが絞りきれなかったんだと思う。早く言えば、中谷が何が動機で何を考えて行動しているのか分からず目的が見えないのだ。それが物語の魅力を半減している。

 前作では上手く使えた母性が、今回は機能できず松嶋菜々子は邪魔者扱いにしかなっていない。そう、そもそも『らせん』という作品が無かったことにして始まったいるから無理があるんじゃないか。ズルイよな。

 前作では「呪い」はあるのか、あるとしたらどういう形を取って現れるのかがポイントになっていたが、今回は山村貞子の「呪い」は存在して、誰にでも分かりやすく見えて、結局、「呪い」対「超能力」+「科学」のバトルものになってしまった。

 演出は頑張って、丁寧に撮っているのだが、枷が重すぎたようだ。独自な部分がほとんど出すことが出来なかったんじゃないだろうか。制約とお約束が多すぎる。第三弾も撮るらしいが、もうサム・ライミ並みに開き直るかしないと、もう「呪い」の怖さの効力は出ないと思う。

 役者として、深田恭子なんかに肩入れしても所詮下手だから力入れて売り出さない方がいいんじゃないの、コケルよ。柳ユーレイは良い役者になったな。これ以後役者として幅が広がって、邦画の中でポジションを作るんじゃないかな。

(角田)



●アルマゲドン

ARMAGEDDON   98

 マイケル・ベイ

「地球最後の日」、「メテオ」、「ディープ・インパクト」に続く小惑星激突物のオオトリです。

 時はなんといっても1999年です。我々が身を持って破滅を思い知るか、ノストラダムスが大嘘ツキか、ドキドキ物のまさにこの時代に生まれなければ味わえないスリルある世紀末。この話題性だけでも思いっきり後押ししている最高の映画的状況です。

  監督は「ザ・ロック」を当てたMTV出身の職人マイケル・ベイ。私は観てませんが、ヒットしましたし、大好きなショーン・コネリーが良い役で出ていたそうで、期待が持てそうです。

  予算はふんだんに使っています。ブルース・ウィルスを始めとした有名俳優が大挙出演していて否が応にも期待を煽ります。かの不死鳥ロック・バンド、エアロスミスが主題歌を提供しているからロックファンの集客もバッチリです。グループのリード・ヴォーカル、スティーヴン・タイラーの娘で、若手有望女優として売り出し中のリブ・タイラーもスラリとしたシルエットと父親譲りのちょっとエッチな口元が可愛いですし、若者代表として、「グッド・ウィル・ハンティング〜旅立ち」の脚本家として既にアカデミー賞を受賞しているベン・アフレックも出ていますし、なんといってもSFXに今をときめく主工房が大挙して参加しているのが大きな保険です。これだけでも見せ場が保証されたような物で、大船に乗った気分を抱かせてくれます。渋い所も忘れていません。最近大作には欠かせない怪優スティーヴ・ブシェーミは出ていますし、おまけに我が国代表として、松田聖子さんもカメオ出演されていますし(さあ、彼女は一体どのシーンで登場するのでしょう?はたしてセリフは有るのでしょうか?)、これで面白ければ、完璧です。前売券(ちゃんと購入した物です。金券屋さんじゃありませんよ)を握り締め、映画館へ出発です。

  映画館は大盛況です。なぜかカップルが多いのですね。6列で入場待ちする事約1時間。ああ、まったく並んで映画を観るなんて、久方ぶりですねぇ。でも御陰で前の方の良い席が取れそうです。やっほー。これも前日に上映時間と混雑具合をインターネットで検索しておいたからです。備え有れば憂い無しですね。無事席を確保したら、売店とトイレで上下のメンテナンスはO.K.売店にはなぜか親子連れも多くほのぼの。ブザーが鳴って、照明が落ちて、阪急東宝グループの死ぬ程退屈なコマーシャルも笑って許せる自分が誇らしいです。これ、映画が終わった後にやらないのは凄く頭が良いと思います。ドルビー研究所の映像ロゴが出て、さあ、いよいよ本編の登場です。この瞬間が堪らないのです。

 ここからネタばらしをしますので、御覧になる方は飛ばして下さい。つぎの@マークが「ばらし」終了の目印です。

  冒頭、いきなりスペース・シャトルが流星群に破壊され、ニューヨークに隕石が降り注ぐシーンが現れます。この当たりと小惑星を発見したNASAを描写するドキュメンタリータッチはまるでマニュアル通りの手堅い演出で、観てて安心極まりないです。 ここで無礼で成り上がりを目指すアフリカン・アメリカンの青年が飼っている躾のなってないフレンチ・ブルドック(または色白のボストン・テリア)のすぐ近くに隕石が落ちます。でも死にません。代わりにこの犬に悪さをされて困っていた善良なポリネシア系アメリカ人が蒸発してしまいます。これには大いに不満を抱きました。 「犬は死なない」の法則はそろそろ止めにしてもよいのではないでしょうか?「ワンダとダイヤと優しいやつら」以来英米映画で犬が死ぬシーンを見た事がありません。どなたか有ったら教えて下さい。近日公開の「メリーに首ったけ」では全身ギプスの犬が出てくるというだけで動物に対するサディズムが有る私は観に行く気になってます(後好きなのは、「炎628」で機関銃の曳光弾で牛が撃ち殺されるシーン、「モンキー・シャイン(モンキー社員では無いよ)」で主役のフサオマキザルが身障者に噛み殺されるシーン、「ペット・セマタリー」でゾンビ猫が主人公に薬殺されるシーン、「バルダザールどこへ行く」で最初から最後まで主演のロバが悲惨な目に会う所、「プライベート・ライアン」で、全編ヤンキーやドイツっぽの死にまくるシーン、あ、これは動物ではないか。e.t.c.…。皆さんもお好きな動物虐待シーンが有ったら教えて下さいね)。まあ、動物愛護委員会からの突き上げが有るなど、難しいのでしょうが。また「小猫物語」の様な素晴らしい動物虐待映画を観たい物ですねぇ。

熟練の掘削技術者で、筋金入りの反社会性精神病質者でもあるブルース・ウィルス一派と色気付いたリブ・タイラーが働く海底油田のプラントのシーンと、時間の無さから、NASAとアメリカ合衆国がどう考えても宇宙飛行には適さないゴロツキを世界救済のメンバーとして選ばざる得ない所なぞ、ブラックでなかなか脚本の狙いは良いです。なにしろ、ウィルス自身からして主演作「ビリー・バスケイド」で自分を湖に沈める為に嬉々として働いていたブシェーミをメンバーに入れているくらいだから、成功の可能性なぞはなから無いようなもんです。誰が彼と一緒に狭い宇宙船に乗りたいと思いますか。京都大学霊長類研究所のスーパー・チンパンジー「アイちゃん」の方がマシです。アメフトチームの人選にフット・ボールの技量より凶暴性を優先させた「ロンゲスト・ヤード」の様で、私の好きなシチュエーションです。旅の途中ではこの歪な一行に空ろな視線のロシア人宇宙飛行士(その名もアンドロポフ!)まで加わるのです。おまけに地表の具合なぞほどんど解からず、なおかつ周囲を流星群が荒れ狂う小惑星に、核爆弾とかつての不幸な爆発事故で私たちにも印象深い揮発燃料を大量に積んだスペース・シャトルで一発勝負の着陸を強行する訳ですから…。

 まったくもってハラハラし通しです。果たして彼らは無事任務を果たして再び地球に帰って来られるのでしょうか。その頃地球では本作戦の成功に疑問を抱いた軍部が大統領を丸め込み、NASA本部に乗り込んできました。すわ、内紛の兆し。もー、心臓はバクバクです。まるでわざとやっているようです。おまけに小惑星ではシャトルの一台が予想通り流星群に接触し、大破。かろうじて着陸できたもう一台も掘削機がいかれ…。本当に成功するのでしょうか。本当に成功するつもりがあるのでしょうか。

そうこうする内に小さ目の隕石がヨーロッパの大国、新経済圏ユーロの一方のリーダー、フランスの首都、パリに落ちてしまいした。やはり米露の核軍縮政策を無視して核実験を強行した報いでしょうか(この前に上海にも隕石が落ち、5万人程死にますが、それは小さな事です)。神はやはり存在しそうで、ここから俄然宇宙の作戦は成功しそうな雰囲気になってきます。ハイホー。

@さあ、最後はもう三遊亭円楽師匠の人情噺の様に涙が止まらないエンディングに向かってまっしぐらです。

 映画を観終わった後、とても痛いお尻と、凝った首が上映時間の長さと映画館の椅子の固さを物語っていました。一緒に観に行った船越君の目から、なぜか生き生きとした光が消えてしまっていました。彼はその後、ずっと不機嫌で、何時もの聴き分けの良さは何処へやら、むずがって私を困らせたのでした。

(森山)



●ニンゲン合格

 99

 黒沢清 (渋谷シネパレス)

    観終わった映画について何か書くことは生産的な作業だろうか。果たしてそれがどこに届くものなのだろうか。批評として機能するのか、それとも紹介文としての役割なのか。前者であれば、議論する場、あるいは産業としての場が存在して、興業、世評的に反応が期待できる市場があると言うことでそれも健全なことだと思う。後者であれば話は簡単で感想文を書けばいいだけのことで自分の生理でキーボードが叩き出したものを載せればいい話だ。

 なぜ、これから書こうかどうか悩んでいるのは、態々書くこともないしそれが誰のためにもならないことがほとんど分かっている場合だからだ。だからといって感想文にする気もないし、衒学的な「記号」でそれらしく書くのも反則だと考えている。何が言いたいかというかというと、観客を想定していない映画について何か書くことは虚しい作業だと言うこと。

 映画は妥協の産物であるが、そうであるが故にやることがあるんじゃなかったのか?が最初から最後までの疑問。これは、最近の監督作を何本か観ていて思うこと。明らかに戦う場所をずらしているのか、逃げているのかどちらかだと思うが、要するに批評を封じているのだと思うが(これはスタッフにも問題があるだろう)。シナリオについてリサーチをしているとは思えない細部の稚拙さが、細部のリアリティ、ひいては現代を描くことに何一つ通じていない。だから、どこまで行っても無国籍な映画設定であり、語られる台詞に重みがなくイライラさせられる。現実的じゃ無さ過ぎるなあと言う部分が多すぎる。寓話と開き直ればそれはそれで良いんだけどね。アメリカ映画じゃないんだから、その辺はクリアしなきゃならないだろう。ストーリー展開は、小説ならばプロの領域にまで達しているのだろうかと疑問を感じる。別のシナリオライターに書かせても良いと思うのだが。淡々として逸脱がなく、画面のつながりが単なる説明不足だけじゃないかと思うけど、そう言うところが良いという人もいるだろうから追求はしないがね。

 ストーリーの行動や動機付けがなんであろうと構わないが、そんなもの考えれば考えるほどウソ臭くなっていくものだし、10年間の植物ニンゲンから甦り、バラバラになった家族の存在を探す、というのは俗耳には分かりやすいが、そこに一つもドラマはない。80年代以降家族は「崩壊」し、「再生」するのが物語性としての普遍性を持っているけど、ここにはエピソードはあるが物語はない。それが最大の問題だ。無くても良いのか?じゃあ、誰に見せる映画なんだ、という堂々巡りでしかない。一体、いつまで反復するつもりなんだろう。形やスタイルの中に、観客に迫る真実があれば良いが、都合の悪いところは、「これは映画ですから………」と言い続けている。映画自身の魅力と可能性ってもっとあるし、それを監督自身かつて信じていたような気がするのはボクだけだろうか。その信じる力が観客に伝染して、「んな馬鹿な」という展開も画面も全てがスリリングだったんじゃないだろうか。

 演じる役者としたら、こんな自由が与えられたら楽しくて仕方がないだろうな。役者はよいのだが、ミスキャストが目立つ。役者の年齢の幅が無さ過ぎる、それ自身がドラマの広がりを押さえているとも言えないだろうか。その後の是非はともかく伊丹十三が『スウィート・ホーム』を撮らせたのはボク的には正解だと思ったのだが、どうでしょうか?

 全然、批評になってないな。演出的にはVシネの時と何も変わっていません。家族も主題ではありません、物語を進めるための手段です。そこには映画の枠組みさえも欠落しているのではないでしょうか。それをどう観るかは、それぞれの人の判断です。

「家族再生」のドラマと言うよりは「地球に落ちてきた男」の前半部分が延々と続き、「生」を観念的にとらえて映像化しようとしたが、そこまでこなれてなかった、未熟児です。観念は映像になりません。

 二週間くらいで終わってしまうのでお早めに劇場に行って下さい。画面のシャープさと音響の細かい設計は堪能できます。

(角田)



●シンク

 97

 村松正浩(BOX東中野)

 内容については、下記の角田さんの欄を見て想像して頂くとして、さて問題はこの作品について何も語ることが出来ないことだ。どこが面白いのか全く理解できないのだ。

 テレパシー女が仲間を探すプロセスを描いた話だと勝手に想像していたボクもいけないのだが、あっさり3人が知り合ってしまった時点でもう観るのを投げてしまったような気がする。あとは3人それぞれの人生がどー平行線を辿ろうが、シンクロしようがどーでもいい。

 どうも「現実に負けている」という気がするところが、つまらないと思う最大の要因かも知れない。「テレパシー」を巡る人間ドラマよりも「伝言ダイヤル」や「テレクラ」や「インターネット」を巡る人間ドラマのほうが遥かに刺激的なんだもん。

 いやーそれにしても本当にこの作品苦手だ。「死んでも続いてたらどうする?」というオチ丸わかりのセリフもイヤだし、主人公の女がコルク抜けずに悪戦苦闘するシーンをダラダラ映して「男の不在」もしくは「孤独」を描くというやり口も好きじゃない。クライマックスの3人がシンクロする舞台が「海」というのも…

 ぴあフィルムフェスティバルでグランプリ取ったのは、ノンリニア編集機も使わずによく1時間半近い作品を作ったと言うその「長さ」が評価されただけなのではないか?と密かに思っている。もちろんこんな事を好き勝手に言えるのはボクが撮る側の人間ではないからに他ならない。別に映画に努力のアトなんか観たくないんだもの。

(船越)



  ●出発

 le depart   67

 イエジー・スコリモフスキー (渋谷パルコPART3)

 すべからく、青春映画というのは、恥ずかしいものだ。10年前に熱狂した映画を見直してどこが面白かったんだろう。ママゴトじゃんと見直して思う映画がある。それは30歳をはるかに越えた奴の遠吠えであって、20代の奴等は観なければならない。大人になって、この映画をオシャレとかいって売り込もうとする奴は信じるな。青春映画はだいたい情けなくて恥ずかしい幻影的なもの。それを自分の良い様に解釈して、秘かに楽しんでいれば良いんだ。

 ストーリーは美容院で働く、自動車ラリー狂のジャン=ピエール・レオが、何とかして金を工面して、ポルシェを借りてレースに出ようとするが、金がない。そこで出会った元モデルの娘と金を工面しようとしていろんな手を(詐欺紛いも含む)使う3日間のお伽噺。ほぼ、即興としかいいようがない演出と小気味よいカッティングで若いなあと思わせてくれる映画だ。個人的にはいくつかの幻想的な現実何だか夢何だかわからないシーンが突然挿入され、ビジュアル的に強烈なので物凄く印象に残ってしまうので好きだ。ラストの解釈もどう考えればいいのかなあ。

 しかし、99年に渋谷でスコリモフスキーが観られるなんてなんと贅沢な体験だ。

(角田)



●犬 走る DOG RACE

 98

 崔洋一(ビデオ)

 久しぶりに冴えているぞ、東映セントラルフィルム。細部に力が入った作品で、おかしくも滅茶苦茶に弾けている悲喜劇。歌舞伎町を管轄としている刑事の岸谷五朗と気の弱いヤクザの舎弟らしき在日の大杉漣がしたたかな中国人女性を挟んで三角関係のような四角関係のような(女は大杉のボスの情婦でもある)ぐちゃぐちゃの関係が続く。岸谷は全く職務に熱心でなく、外国人から麻薬を取り上げ自ら打ち、ぼったくりバーを壊す。一緒に行動をする後輩の真面目な刑事、香川照之もキレてハイになって暴れまくるところがおかしい。

 二人の情婦が殺された辺りからストーリーは加速度を増して裏切り合い、死体をかついで新宿をうろちょろするあたりは、隠し撮りで、そこはかとない不思議な良いムードだ。

 こういう映画が、海外に出ていって欲しいね。観念的な格好付け映画じゃなく。新宿の歌舞伎町のゲリラロケも頑張っている。しかし、やっぱ、歌舞伎町って狭いねと感じてしまう。今の歌舞伎町なのだが、今の歌舞伎町に見えないと思うのはボクだけだろうか。歌舞伎町らしい風景が少ないと思った。路地とか裏道があまり効いていないんだとね。美術の今村 力の力の入れすぎかもしれないが。脚本は秀逸。横浜映画祭で何か獲れるんじゃないかな。でもね、岸谷ってそんなに上手い役者じゃないからな、そう思いません?精いっぱいやっているのが見えちゃうというか、遊びがないんだよな。松田優作の為に書かれていたことを考えるとうーむと思ってしまうが、でもこの水準でも出来る役者はいないよな。崔洋一アクションが好きな方には是非お薦め。飽きません。

(角田)



●由美香

 97

 平野勝之 (ビデオ)

 恥ずかしくてAVはあまり観た事の無い私だが、エロ漫画は平気なので、林 由美香については、「職業AV監督(原作;カンパニー松尾、画;井浦秀夫.秋田書店、ヤングチャンピオンコミックス)」で予備知識は有った。かつてはAVアイドルで売った彼女ももう26歳。この業界でははっきり言って大年増だ。しかしこの女優の監督を惚れさせてしまう魔力は健在で、7年越しの片想いを創作意欲のオブラートで包んだ平野監督が再登場した。

AV製作のプロが公私混同しようがなにしようが、会社としては売れれば良い訳で、この作品を撮る上で社長が放ったたった一つの条件(館主にならってここでは伏せます)は、まさしくシンデレラの馬車をカボチャに、我々とは少々ずれてはいるが、監督平野や林 由美香を日常に連れ戻す魔法の言葉だったのではないだろうか。旅の終わりにこの条件が出されなければ、二人は礼文島で失踪または無理心中(当然平野が由美香を殺す)でもしていたのではないか。そこまでしなくても「社長、やっぱり撮れませんでした。」と土下座されておしまいだったかもしれない。それほど途中の旅の積み重ねは真綿で首を絞められるような緊迫感がある。そこまで読んでいたかは解からぬが、さすが社長。プロの一言であった。

このAVを正月明けの暇な会社でアフター5に若手と観ていたのであるが、一人抜け、二人抜け、最後は「昔、林 由美香のファンだった。」という妻帯者と、最後の10分間だけ巡回に来て張り付いてしまった警備員と私の3人で見終わった。警備員は「正月早々凄い物観ちゃったよう。」などと言いつつも満更でもない様子で帰っていき、それまでの130分間観通した二人はしばらく椅子から立ち上がれないでいた。

(森山)



●スクリーム2

 SCREAM2   97

 ウエス・クレイヴン(ビデオ)

 前作から見ることをお薦めします。2本立てで見るとわかりやすく、それなりに楽しめます。相変わらず、反則ギリギリの手を使ってあざとい演出をしてますが、それも一興。ただ数合わせのための殺人が多く、2時間は長すぎます。もうちょっとタイトにして欲しかった。

ウエス・クレイヴンは闇でも、完全に見えない風にはせず、暗闇の怖さより、あからさまにスプラッターの描写を見せることの方に興味があるみたい。だから、暗いところの方が何も起こらないと言う逆転の発想で脅かすホラーじゃないかね。即物的だけど。

(角田)



●神々の愛い奴(神軍平等兵の帰還)

 神様(新宿ロフト・プラス・ワン)

 老いて群れから取り残された獅子をハイエナ達が遠巻きにして弱るのを待っている。上空にはハゲタカも。でもまだ手は出せない。

 高齢と病気、長年の独房生活でパラノイア気質が悪化した奥崎謙三を主演に迎え、本職でない根本 敬(自称被差別未開放漫画家)や湯浅 学(音楽評論家、幻の名盤開放同盟)等により背筋が寒くなるようないい加減で情の薄い態度で作られた作品。

 ここでは書けないような非道な行為を何とかなだめすかしてやらせようとするスタッフと奥崎の綱引きがスリリングで、ありとあらゆる悪条件にも関わらず、面白いが、そう思う事が恥ずかしくなるような気まずい映画。

 奥崎謙三の瘴気爆発。ご機嫌取りの為行われるスタッフの土下座の回数としょっぱさは記録的。

 1月2日、「芸能界ドリーム・チーム」vs「プロ野球名球界」の軟式野球試合をテレビ観戦。往年の名選手も老いては体が思う様に動かない。広瀬はベースランニング中に足が縺れ、長島は三塁線ファールに一歩も動けない。キャッチャーを勤めた松原は二塁までボールが投げられない。ドリームチームのスピードに塁を盗まれまくっても、老練狡猾さと顔で、互角以上に戦っていた。ドリーム・チーム監督たけしの毒舌も明らかに名球界チームへの愛情がこもっっており、観ていて和んでしまった。それにしても山田と北別府と村田の投球は凄味が有った。

 p.s.奥崎の怒り狂うシーンも凄かった。

(森山)



●ビッグ・リボウスキー

 98

 イーサン・コーエン(シネマライズ渋谷)

 スイマセン。半分以上寝てしまいました。評価不能デス。

  (角田)



●神様の愛い奴

 98

 神様(新宿ロフト・プラス・ワン)

 こわれている筈の奥崎謙三は、生きていた。そう『ゆきゆきて神軍』で刑務所に入った奥崎は、娑婆に帰ってきた。AV に出演するために。彼を取り囲む若いスタッフ。特殊漫画家根本敬を始めとするスタッフは、いきなり奥崎の途切れない話のペースに巻き込まれる。ここでスタッフは甘かった。AV 出演を受諾した段階でエロ爺いだと多寡を括っていたと思う。しかし、神軍二等兵は死んでいなかった。その強力なパワーは、若いスタッフでは抑えきれなかった。原一男も逃げ出したアクの強さは健在だった。

全ては自分を中心に世界は回り、自分の世界の中でどこまでも完結する正気と狂気の狭間を生きる男は、既に自分がカメラを通した虚像なのか、実像なのかも不確かなところまで自分を追いつめてしまっている。だから、中途半端な見せ物として自分を描こうとすると突然激昂する。平身低頭で謝り、あたふたするスタッフを尻目に自分のペースを貫く。恐いモノなど無いのだ。自分の中の平衡感覚がぶっこわれている。刑務所の中で破壊された自己と(半生を刑務所で過ごしているから)、それでも生き残るために自らこれが自己だと思って、人に見せている自己のギャップの凄さ。それが多重人格のようにころころ変わるのが滑稽を通り越し奥崎謙三のみが突出してくる。

だから、誰にも暴走は止められず監督はついに「神様」となってしまった。これは、作品なのか、それとも奥崎のプライベートの記録なのか、どちらなのか。

 今回の中には奥崎AVの部分は入っていなかったが、(別編集して出すらしいが)、一本の作品としたら傑作になったかも知れない。現場にプロがいずに、学生映画が奥崎にAV やらせちゃうんだもんな。構成、編集した藤原章は頑張ったと思う。現場の空気を見事に捉えていた。

 これと『ゆきゆきて神軍』は2本立てで見るべきだと思った。奥崎というスターの記録の果てに、映画がそんな、形式張ったモンじゃないと言うことがわかり、映画の敗北、解体していく様が見られると思うからだ。………………観念的過ぎたかな。ともかく、奥崎が映画を作品を浸食してしまっている。これって、単なるスター映画とどこが違うの?ドキュメンタリーじゃないよね。『ゆきゆきて神軍』の時も感じたけどね。

(角田)



●アクアリウム

 98

 須賀健太郎(中野武蔵野館)

 水族館の魚と交信が出来る女の子の成長記。

参った、してやられた。コミック原作の映画化の難しさを何一つクリアできていない、シナリオと演出の方法論の無さに唖然。自主映画でも近頃ないよなというほど、何も仕掛けも工夫もない。デジタル加工しようが何しようが、結局は、コミックの映画化は原作者と喧嘩するくらい、解体して再構築しないと話も雰囲気も出せないんだよな。シナリオ、切通理作。

 1年ほど前に少女マンガ原作の映画化のシノプシスを作っていたときにそれは、つくづく感じました。コミックの方で映画化(アニメ化も含む)を想定して描いていないと、ストーリーは解体してしまう。まあ、日本人的に行間とモノローグを読むのが少女マンガの特徴でもあるからね。何一つそれを補完する説明が台詞でもなかったからなあ、話自体、わかんないや、雰囲気だけだ。ああ、びっくりした。

デジカメで撮った素材をコンピュータ上で編集して16ミリにキネコ変換した方法論も、苦渋の選択だなあ。あまりきれいじゃなかった。

(角田)



●シンク

 97

 村松正浩(BOX東中野)

 1人の女の子と2人の男が、相互にテレパシーで絶えずコミュニケーションを撮りながら日常生活を過ごしている。その有り様をドラマチックさもなく、淡々と描く。ビデオ作品。

 ビデオでダラダラと長回しをして、良い間違えても、言葉に詰まってもNGだか、分からない画面がつながれていく。それは、それなりに快感がある、というのはウソで、たぶんこの作品が最後まで見ていられるのは、二つの理由があって、一つは、センスの良さというか自主映画の王道の貧乏臭さをクリアしている点だろう。出演者の自然さ、衣装のセンス(オレンジのダッフルコートは決まったね)、小道具などが、まあ90年代しているから、生活感無いから、ファンタジーとしてまた、現在の青春映画として成立している。カメラがグチャグチャ安定しない分、テレビの深夜枠ドラマには無い生々しさはある。もう一つは音の良さで救われている。風によるノイズは無いし、ビデオ特有の些細な呟きまで捉える繊細さが作品を引き立てている。結構、そこに気を使っていると思う。音楽へのこだわりも自然であり好感が持てる。

 編集では、岩井俊二の影響か唐突にインサートが入ってビジュアル・ショックでまあ、ダラダラをごまかしてる部分もあるけどね。

 ビデオの特質なのか、作品の特質なのか分からないけど、悲しいくらい淡泊な3人の関係、他人への不干渉、双方的に見えて、実は一方的なコミュニケーション。カメラは3人の物語の中に入らず、回りをなぞっているだけ、そのシラケ具合が独特さを生んでいた。一つのやり方だとは思うけど、そこに監督の刻印が見えるかというと分からない。同じ方法は2度出来ないだろう。商業路線には乗らないだろうがそれはそれで良いのかな。ちょっと長いので覚悟してみるべし。90年代の一つの側面が見えるかも。

(角田)



●あ、春

 98

 相米慎二(テアトル新宿)

 これが正月第二弾かなにかで、三宅裕司の『サラリーマン専科』とかと併映で見られると、とっても得して「やっぱ、相米はすごいよ!」と吹聴して回れるんだけど、正月映画で、しかも単館ロードショーというのが個人的には気になるなあ。まあ、年齢層広く観客もまあまあ入っていたからそれはそれで良いのだろう。

 と納得しながらも、立川名画座で15年前の正月映画として、『姉妹坂』と並んで『雪の断章 情熱』を見た時の興奮は忘れられない。なので、正しくは、2本立ての1本として封切られるべき映画であることは確かだ。

 そう、松竹映画(!)として小市民ドラマの典型的パターンとして、死んだはずの父親が突然現れ家族が混乱する様を描いている。

 演技は、相米組の役者が総出演で、斎藤由貴がなかなか頑張っているさりげない仕草が、世間ずれしていない箱入り娘の証券マンの妻というキャラクターに厚味を持たせている。他の人物が一癖も二癖もある屈折した過去のあるキャラクターだから、バランスとして救いとして静謐なキャラクターとして描かざるを得なかったとは思うのだけど、その分逆に、愛情が感じられない感じの良いだけのキャラクターになってしまっている。富司純子の佐藤浩市の母役は、安食堂の女将という意外な役どころで上手くこなして型から外れた演技が艶っぽくて安心して見ていられる。  脚本通りに撮られた中での役者の演技と芝居は満点をつけても良いが、カメラが感情を伴うはずの相米映画はここには無い。ラストの病室のシーンでもなんであんな単純に寄っただけなのか分からない。しかも、ヒヨコという大切な小道具にピントが来ていないことにも不満が残る。だって、『セーラー服と機関銃』の同様のラストの渡瀬と薬師丸ひろこのキスシーンの複雑なでも必然的なクレーン・ショットに比べてなんの感動も感じられなくて残念だった。

演出巧者による良質なホームドラマは見られます。………………でも映画の世界の職人芸と言う世界への傾斜は正しいのだろうか、もっとスペクタクルなハッタリ(狂気)が映画の魅力ではないのか?伝統芸を見に来てるんじゃないと思うのは俺だけか?その辺は『踊る大捜査線THE MOVIE』を見て考えてみたい。

(角田)



●流れ者図鑑

98

 平野勝之(ビデオ)

 あなたは、他人からよく見られたいと思っていますか。優等生であると思いますか。その想いはどこからくるのでしょうか?カメラの前に現れる対象(=自分)とは何だと思いますか。このハンディ・ビデオカメラ全盛期の時代には何の不思議もないことだけど、カメラに写す写される者の間にある緊張感を求めて、全てが画面に充満するのがドキュメンタリーという言葉に置き換えても、AVでも何でも良いけどフレームに切り取られ、さらけ出される自分があまりに情けなくちっぽけに見える瞬間。その瞬間の愛しさを求めてこの作品は出来るはずだった。

 あの『由美香』の続編。不倫北海道野宿自転車旅行AVシリーズの第二弾。今回、同行するのは26才の自分でも自主映画を撮る演劇もやってたというちょっと変わった女の子。今年の夏は異常冷夏だった。連日の雨、霧の悪天候に阻まれなかなかふたりは前に進まない。今回は目的地も何もない全くの行き当たりばったりの旅。それでいて、セーラー服とか、ナースとかのコスプレ衣装は持ってきて自転車で走っている。

 平野も松梨(女優)も、作品がどうなっていくのか、二人の間に恋愛感情が生まれるのかを不安に持ってスタートしている。しかし、それは大した危惧には繋がっていかない。作品は意外な方向に流されていく。本当に、本当に、何も起こらないまま何日も経ってしまう。次第にイライラが募っていく平野。対して松梨は成す術が無い。彼が何に苛立っているのか分からなくなっていく。

 そして自分を責め始める松梨。自分だけの世界に入り出す。その結果、自分が女優であり、作品を成立させるのだという訳のわからん妄想に捕らわれ出す。一方の平野も何も仕掛けることが出来ずに、鬱屈が溜まっていく。対象(女)が動かないのだ。どちらがどう悪いという話ではなく、男と女の間に理解しがたい溝が出来ていく。女は何か言って欲しい、そして演じたい、褒められたい。それしか依って立つ手段が見つからない。男は、女に何かを自分からしてもらいたい、そこから何か感情が広がって行き作品になっていくからと、完全に方法論が食い違ったまま旅は続く。

 女は頑張り、ナース姿で自転車を漕ぎ「私はあきらめない、負けない」と呟き、ひたすら走り続ける。男はその姿を見て「バカヤロー、走行メーター見てただ走るんじゃねえ。撮影し損なったじゃないか」と言う。あんなに頑張ったのに、叱られる。何が悪いのか分からない。一生懸命やってるじゃない。そう、二人とも既にすれ違っている自分たちに気付かない振りをしているだけ。どちらかが折れたら負けるかという精神力の勝負になってきてしまった。

 もしも写される対象に写す側が愛情を感じることが出来なくなったら(SM的な関係であっても)、あとはただ映っているだけになってしまう。写される女は全てをさらけ出す、AVでしょと言いながらも、なにもさらけ出すことが出来ない、指示を待つだけの優等生から脱却できない。それに対して情熱を失う監督。これでヤラセで絡みを撮っても、オシゴトになってしまう。作品の中でそれには一言も触れていないが、そういうこと何だと思う。いつまで経っても二人の距離は変わらない。二人の思い込みのすれ違いのまま映画は終わる。

 『由美香』を撮ってしまった以上、もう後戻り出来ないところに平野は、自分を追いつめてしまったのだろう。編集の(画と音)巧みさは相変わらずで、感情が溢れ出てきている。『流れ者図鑑』がはまりきれなかった終わりのない旅は、第三部にどうつながるのだろうか。観ていて、モノを作る作業をする人は味わうことが出来る、苦しい悔しい作品だ。旅は失敗かもしれないが、映画は失敗ではありません。念のため。

(角田)



●血を吸うカメラ

 Peeping Tom   60

 マイケル・パウエル(シネ・ラセット)

 こんな孤独で恐い映画が隠されていたなんて……。あまりにも常軌を逸していてお薦めするのにも躊躇する。でも出来は素晴らしい。

 ねっとりとしたテクニカラーで描かれたカラーと闇の融合。陰鬱な人間の裏側を描き、自分自身の異常性に苦悩する主人公。カメラを覗くことによってしか性的興奮をしない男。その原因は……。

 殺人者の日常と苦悩を描くなんてそれ自体狂った設定なのに主人公は何の救いもなく突き放される。人間のダークサイドが自分の真の姿として生きている男の苦しみなんて誰にも分かるはずないけど、それが感じられるようにどんよりとしたロンドンの天気の下で起こる事件が淡々と描かれる。最近の訳の分からない殺人鬼ものとは区別して欲しい。狂気が膨れ上がりラストに爆発していく有り様は鳥肌が立つほど恐い。

(角田)



●X-ファイル ザ・ムービー

  THE X FILES FIGHT THE FUTURE   98

 ロブ・ボーマン(新宿アカデミー)

 『X-ファイル』の魅力は、アメリカの都市伝説と政府の陰謀と宇宙人のフォークロア(トンデモ)とテレビならではの、CMが入れば場面転換が素早くできる利点を使ってシナリオの不整合性をごまかせるというテレビにしてはスタイリッシュな展開がヒットを呼んだと思うが、さて、映画である。

 *ネタバラシしますのでご注意下さい。

 いきなり3万年前のテキサスで度肝を抜くが、フォローがなく現代へ来て事件が始まる。3万年の間エイリアンは何してたんだろうか?オクラホマでビル爆破事件が在ったからといってパクって数体の死体を吹っ飛ばさなくてももっと合理的な死体処理方法があったんじゃないのかね?態々、目立つようにしなくても良いじゃないのかと思うが。その先はテレビでもお馴染みの密告者が出て来るというパターンだが、今回は多少話を進めないとならないので、動きが派手である。が、ウイルスを培養するにも施設が派手じゃないか。場面をポンポンと変えていくのに追いつくだけでも大変なのに、やっていることがほとんど007状態というか超人としか思えない。そんなにFBIって勝手に動けるの??

 映画だからと言うことを誤解している。ただスケールが大きいのであれば良いんじゃなく。もっと、奥行きのあるストーリー、キャラクターを出して欲しかった。

これはテレビシリーズを見ていない人出も楽しめると言うよりは、テレビシリーズってこういうものだよと知らせるのにちょうど良いテレフーチャーの特別版になった感じだ。

(角田)



●かさぶた

  SCABIES    87

 アボルファズル・ジャリリ(シネ・ラ・セット)

 アッバス・キアロスタミだけじゃないんだぜ、とばかりに配給元の意気込みが伝わってきそうなイラン映画。「友だちのうちはどこ?」と同じく1987年の製作。

 また「友だち〜」と同様、子供が主人公なのは政治的配慮(イラン・イラク戦争中だし、検閲とかもきびしそうだし)からかも知れないが、結局この映画は本国では上映禁止になったらしい。

 「ヘンなタイトルだな」と思ったのが観てみようと思った直接の動機だが、内容はいたってマトモな「大人は判ってくれない」(つまり少年院もの)だった。

 「文盲」の主人公が「反体制的」チラシを配った罪で少年院に入れられる(なんちゅう不条理)オープニング以降、少年たちの「塀の中の生活」(労働・いじめ・けんか・懲罰)がドキュメンタリー・タッチで描かれる本作は、実際にスタッフが少年院に寝泊りして撮影を進めたらしい。確かに美しい映画でロベール・ブレッソンの映画を観たとき同様、心が浄化されるような印象を受けた。

 少年院という「小さな世界」でのできごとのなかにイランの当時の状況(政治・経済・教育)を垣間見ることはもちろん出来るのだけれども(実際、監督の意図は少年院の少年たちにイランの現状を仮託しようとしているのかもしれないが)そういった社会的・政治的側面よりも「職業俳優」ではない「素人」の少年たちが実に表情豊かに生き生きとしていることが最大の見所だと思う。特にプールに全員で駆け出していくシーンは忘れがたい。

 劇的な物語がなくても退屈しない映画は忘れた頃に現れるものだ。

 本作は「大人は判ってくれない」+ブレッソンだったが、同時上映の「7本のキャンドル」はパラジャーノフ+ブレッソンっぽい。あくまで予告を観た印象だけど。完全入替性なんで「かさぶた」しか観なかった。ちなみに「かさぶた」は少年院内で流行っている皮膚病のこと。

(船越)



●クルシメさん

 97

 井口昇(ビデオ)

 56分のビデオの中に込められた想いは存在するのか。この作品に関しては答えはイエスである。ビデオという日常というか、どこまでも被写体に肉薄するメディアを巧み使い、登場人物の存在を少しづつ露わにしていく過程がそこには映されている。

 ストーリーは、大きな公園で落ち葉清掃をする女の子たちの話。一人は、好意を持つと相手が一番嫌がることをする発作を持っていて、もう一人は、可愛いが、普段は見えないところに身体的な欠陥を持っている。この二人を軸にして話はダラダラと進む。

 演出はフィルム効果で撮られているが、時々ビデオの生の画が挿入される。それも感覚的に不意打ちで入ってくるので結構どきっとする。その生々しさが映画における、いやビデオにおけるリアリティの境界を曖昧にしてスリリングなのだ。ビデオだから生々しいのか、映画としてきちんと成立させようとする事がリアリティなのか混乱してくる。そして映像は容赦なく観ている者を物語のドロドロの関係の中に引きずり込んでいく。

 よくある女の子映画とは全く縁のない奇妙な関係性だけで物語は進む。アップと手持ちを多用したホームビデオの世界のような映像の中に入り込んでいく奇妙な感覚に取り込まれていく。そう、引きずり込まれる要素は、監督自身の撮影の構図と編集の巧さにもある。ともに映画的構図とは無縁のマンガの構図、コマの流れに従った編集、なめらかではないが観ている者の欲望に従った編集は斬新だ。Vシネマとも、テレビドラマともちがう、『映画ビデオ』とでも『ビデオ映画』とでも言うべきジャンルが出現し始めている気がする。そこにはマンガの影響が見え隠れしている。ビデオで作品を作ってみたい人必見。

(角田)



●ラジュー出世する

  NANA PATEKAR AS "JAI"    

 A.ミルザー(ビデオ)

 現代映画の最終兵器、インドミュージカル恋愛サスペンスアクション何だかジャンル不明映画。見ているうちにどの分野にはいるかと言うより、後何が抜けているのかなあと思うくらいてんこ盛りな内容。  ストーリーは田舎から希望に燃えて出てきた青年ラジューが、ボンベイで働いて出世していく間に恋愛あり踊り(意味もなく!)ありで、クレージーキャッツの無責任シリーズというか、東宝サラリーマン物を一瞬連想したけど、ところがどっこい話はそんなところで終わらず、銀河系の彼方まで吹っ飛んでいく、超豪華(と言ってもインド基準でだよ)夢の大作って感じで進む。映画原理主義者としては映画には全てを注ぎこまなきゃ行けないと思っているから、雨のボンベイのラストシーンなど分かってても泣けてしまうのよ。映画はここまでやらないとねやっぱりという娯楽作品です。でもビデオで観るのは寂しいね。劇場にかかったら是非見に行こう。 (角田)



●てなもんや商社

 98

 本木克英(ビデオ)

 松竹生え抜きの監督第一作。まだ若い監督なのだが、頑張っている。中国の工場に洋服を作らせている商社、横浜にある萬福商事に入社した小林聡美と会社の人たち、が中国の会社とのトラブルと悪戦苦闘しながらも働いていく姿をカルチャーギャップを細かいネタとして散りばめてユーモラスに描いている。

 時代としては、曖昧にしているのだが天安門事件を挟んだ前後10年間、中国が成長していく過渡期と重ね合わせられている。無理矢理盛り上げようとせず、時間が淡々と過ぎながら主人公達が成長したり去っていったりするのを優しく見守っている姿に久しぶりの松竹映画じゃんとも思った(ちょっと地味かな)。後半になると、ほとんど中国ロケで第一作にこんな難しい撮影せんでもいいのにと思いながらも、結構街の描写にも気を遣って(遣いすぎて意味が良くわかんなかったところもあったが)中国の姿をちゃんとステロタイプにならない風に撮っている。

 華僑の上司役の渡辺謙が好演で、お金儲けに罪悪感が無く遣り手でいながら気配りが細かいまめな男として「ボクは中国人からは日本人、日本人からは中国人として見られてるんですよ」などポロリと言うが、全く嫌みのないキャラクターとして、謎の中国人とは一線を画したキャラクターとして成り立っている。中国の工場を視察に良く途中、夕暮れの湖で休憩しているときに渡辺 謙が突然、あずさみちよの『二人でお酒を』を中国語で歌いだし、ロングショットになると湖の向こうに古い寺の塔が見えるシーンは美しい。

 軽い気持ちで見ていると気分も軽くなる、そんな気負ってない映画です。

(角田)



●ダークシティー

  Dark City    98

 アレックス・プロヤス(新宿東急)

 『クロウ 飛翔伝説』でブランドン・リーをCGで甦らせた男の最新作。冒頭のナレーションが分かりにくく、わざと謎めいて語られているが、ネタはほとんどバレているに近い。どう考えても「ゆうばりファンタスティック映画祭」でみたら面白かったと思う。

 非常に設定とか美術とか雰囲気とか黒に色調を統一したりと凝っているんだが、スタッフの賛同が得られなかったらしく、美術がスカスカなとことが辛い。ジュネ&キャロだったらもっと密室になったのに惜しいなあと思った。悪夢にしては分かりやすい設定で、オチが分かっちゃうけど、そうなりながらも結構楽しめます。これこそ、日本のアニメのまたは古き良きSFを良く観ているなあと微笑ましくなってしまいます。サム・ライミだったら、もう一ひねり力技があったかなと思うけど、予算のせいか手堅くまとめています。ジェニファー・コネリーとキーファー・サザーランドがいい味だしています。B級SFとしては大いに楽しめますのでちょっと拾いものの小品。

 予告編でやっていた、『バッド・ランズ』『天国の日々』のテレンス・マリック監督の21年ぶりの新作『シン・レッド・ライン』を早く観たい!

(角田)



●アンツ

  ANTZ    98

 エリック・ダーネル/ティム・ジョンソン(新宿オスカー)

 アメリカじゃ、アニメーション大作映画が近頃やたら封切られているけど、これは単にディズニー・キャラクター経営戦略が上手くいっているだけの真似であって(といっても本家は今経営的にコケているらしいが)、別に製作者側がアニメーションそのものに対する何かがあるという訳じゃないだろう。だってディズニーの昔から、世界中の童話、神話をパクってバーレスクとアメリカ万歳主義の暗さの微塵もない平板なストーリーに換骨奪胎しているだけじゃない。要するにアメリカ人の考えるアニメーションというのは如何にリアルにお伽噺を語るかという、健全な家族向けという幻想で成立しているところが大きいと思う。

 日本の場合はヲタクが積み上げてきた文化だから文脈が違うんだよね。日本の場合、アニメというのは不思議なメジャーでありマイナーでもあるという一種独特の文化圏にあると思う。

 さて問題はアメリカだ。近頃CGの発達のお陰でそれを売り物としてアニメーションが作れるようになってきた。要するにテクノロジーを操れる世代が作れるようになってきたということだ。そう、彼らの世代はアニメは軽蔑される文化にあったに違いない。アニメ好きは変人扱いされていたに決まっている。(これはゲーム好きも同じ扱いだと思うが)。ティム・バートンがディズニー・スタジオに合わなかったように彼らは暗いのだ。

 重役会議では3CG映画すごいの作りまっせとごまかしても、『アンツ』『トイ・ストーリー』も暗い。(『トイストーリー』の悪ガキの部屋のシーンなんか最高のホラーじゃないか)アニメーターの怨念が炸裂しているのだ。ボクの予想では『BUG'S LIFE』もたぶん暗いと思う。だからジャパニメーションは浮世絵と同じで別の文脈でみないと、アニメは世界を結ぶ言葉なんて簡単には言えないと思うよ。

 と言う意味で、出来上がった作品を見てドリームワークスの連中は焦ったと思う。だってアリの世界では旧ソ連の様に階級制度がひかれ、労働と戦争に明け暮れ楽しみは無く、ひたすら死ぬまで生きている虫の生活が描かれている。そこから抜け出す冒険だって巣から半径500メートル以内という狭い狭い世界。全編に陰鬱さが漲っている。プロデューサーはアタマを抱えたと思う。だから、声優が豪華キャストで埋められたんだと思うけどね。話題で救うにはこれしかない!と。

 アニメーション的難点で言えば、演出的に本来3Dなのに、表情が2Dアニメーションのデフォレメした表情を使っているので、非常にグロテスクに見える。3Dアニメーションにおける表情の文法が出来ていないのはゲームも含めて既に分かっていることだが、表情について考えていかないと、既存のアニメの決まったいくつかのパターンと取ってつけた様なデフォレメされた演技様式しか出来ずそこで進化が止まってしまう可能性がある。難しい課題だけどね。3Dアニメーションはどこかで独自の道を見つけないと、ならないと思う。それはリアリズムではないだろう。昔ワーナーでナンセンスアニメーションを作ったテックス・アヴェリーのような天才を待つしかないのだろうか?

(角田)



●キッスで殺せ(ディレクターズ・カット)

 KISS ME DEADLY Director’s Cut   55

 ロバート・アルドリッチ(シネセゾン渋谷)

 なぜ今、この映画を観なきゃならないのか良く分からないが、赤狩りでハリウッドがガタガタになったあと、自分のプロダクションで白黒B級映画を作ろうとしたのはなぜか。

 原作のマイク・ハマーはもっと格好良く強く、やたら拳銃をぶっ放すが、映画では、秘書を使って離婚の調査をするしがない私立探偵として描かれている。その時点ですでにヒーロー像から逸脱している。冷戦時代のリアルと映画の中のちんけなリアルとのどっちがウソくさいんだと観客に突きつけている。

 かなり挑発的であり、夢も希望も無い絶望を前面に押し出している。アルドリッチはその絶望を乗り越えていくか、または挫折するか、どちらかの人間しかいつも描いていない。まあ、どっちでも彼のなかの興味としては構わなかったのだろうがね。観客はえらく面白い映画を見て満足して帰るか、梯子をはずされて打ちのめされて帰るか、どっちにしても中途半端じゃ済まされないのがアルドリッチ映画だと思う。前者には『特攻大作戦』、『ロンゲストヤード』、『カリフォルニアドールズ』。後者には『攻撃』、『傷だらけの挽歌』、『北国の帝王』、『クワイヤーボーイズ』、『燃える戦場』、『ハッスル』などがある。

だから、『キッスで殺せ』になにかを求めようとしちゃアカンのよ、(傑作とか)。アルドリッチの仕掛けた幾つもの罠を楽しまないとつまらないよ。主人公が情けなく、やることなす事が滅茶苦茶で、探偵だから探偵をする、悪役だから悪役をすると言った、ご都合主義でただみんなステレオタイプの役回りをして死んでいく。そんなひねくれた映画なんだからさ。いまから40年前のハリウッド内アンチ・ハリウッドだと思いなさいよ。

(角田)



●リプレイスメント・キラー

 THE REPLACEMENT KILLERS   98

 アントワ・フークア(新宿ジョイシネマ3)

 製作総指揮=ジョン・ウー、出演チョウ・ユンファ、ミラ・ソルヴィーノ………。

 ついに聖林に来た男。今、世界一ガンファイトが似合う男(かつては宍戸錠だったが)。クールさと甘さが同居できるスターと言う言葉が出る男、チョウ・ユンファ。彼の世界進出第一作にしてはなかなか良い環境を与えられていて、気持ちいい大型香港アクションを観ている感じがあって痛快だった。

 組織に家族を人質に取られて殺し屋をせざるを得ないチョウ・ユンファは、オープニング・クレジット一曲数分間で既に華麗なガンプレイを見せてくれる。(勿論スローモーション!しかもルガーの二丁拳銃)。しかし、組織のボスの息子を殺した刑事の息子を殺す命令にどうしても引き金を引けない彼は、組織を捨て、家族を守るために中国に戻る決心をする。そこに出てくるのが、ロスの古い50年代の木造のビルの一室で一人仕事をするミラが扮する偽造パスポート屋。やむを得ずの相棒が善人じゃないところがいいね。やってくる刺客のショットガンでボロボロにされた事務所の中で戦う二人のアクションの決まり具合、シビレます。何しろサービス満点のアクションで洗車場での銃撃戦など工夫がいっぱい。盛りだくさん。スタッフは、絶対に香港映画フリークと見たね。

 あと、ジョン・ウー。彼の影ながらの力があったと見た。早く、チョウ・ユンファ主演ものを撮ってくれ。『ミッションインポシブル2』なんか作ってる場合じゃないぞ。ついでにスタンリー・キューブリックもいつまでも撮り直しをしているんじゃない。トム・クルーズのスケジュールが空かないじゃないか。新作『WIDE EYE SHUT』も楽しみだけどね。

 寺院や坊さんなどの東洋の描写が甘いけど、そこら辺は目をつぶっても格好良さの追求はかなり頑張ってます。充分堪能できます。チョウ・ユンファのハリウッド進出をこの目で確かめよう。

(角田)



●CUBE

 97

 ヴィンチェンゾ・ナタリ(シネ・ヴィヴァン六本木)

 クローネンバーグにも通じるカナダの新鋭監督。寒い季節の長いカナダはこの手のホラーを生み出しやすいのか。「JM」の絵コンテ、アニメーションも手がけていたそうです。

 内容は単純な映画です。男女6人が何のためか閉じ込められた正立方体の部屋(その正立方体がさらに巨大な立方体を構成している)から仕掛けられた「トラップ」を回避しつつ暗号を解き明かしながら逃げ出す、それだけです。ちょうどルービック・キューブの「内側」に閉じ込められたようなものです。ルービック・キューブを自力で完成させられなかったボクには到底出られそうにありません。

 いかにもデジタルゲーム世代の作品でそのままロール・プレイング・ゲームになりそうです。そのうちどこかのゲームメーカーが出すかもしれません。この監督はきっとゲーム・デザインを手がけても優秀でしょう。幾何学的装飾とCGのすばらしさは見所のひとつです。低予算映画ということを逆手に取ったアイディアの勝利です。最後まで黒幕の存在も目的も良く判らないところも好感がもてます。観客に閉塞感・緊張感を与えることだけが、目的なのかもしれません。

 10月31日よりナタリ監督の短編作「ELEVATED」を併映してますが、「CUBE」がこの「ELEVATED」のパワーアップ版だということが、良く判ります。

(船越)



●キッスで殺せ(ディレクターズ・カット)

 KISS ME DEADLY Director’s Cut   55

 ロバート・アルドリッチ(シネセゾン渋谷)

 観終った後の正直な感想は「確かに緊迫感はすごいけど、ただの安っぽい出来そこないのB級じゃん」でした。ロードアイランドの名門一族出身のこの映画監督にはカルトなファンも多いのでやたらなことを書くと怒られるかもしれないので、先に白状しておくとボクは「攻撃」と「何がジェーンに起こったか?」しか、まともに観たことありません。熱心なファンの方、ごめんなさい。

 さて「キッスで殺せ」ですが、まず人間関係が良く判らないし、主人公のハマーが敵を一撃で倒したという「必殺技」も見当がつかないし、国家機密が絡んでいるみたいなのですが、その正体(パンドラの箱=原爆?)もよく判りません。というのも原作のスピレーンのマイク・ハマー・シリーズを一度も読んだことがないボクには当然のことかもしれません。原作は早川から出ているだろうから(「燃える接吻」かな?)、今度チェックしてみます。また、この映画が製作された1955年当時のアメリカの社会風潮が良く判らないので、この映画の全編にみなぎるただならぬ閉塞感と緊張感は社会を反映したものかどうなのかも判りません。

 ただ、この映画の閉塞感・緊張感は圧倒的で後の作品群にも繋がるものがあります。マイノリティー趣味もアルドリッチらしいといえるかも知れませんが、作品的には、やはり失敗作でしょう。

 印象的なのはオープニングのタイトル・ロールでデヴィッド・リンチの「ロスト・ハイウェイ」のオープニング・ロールはこの作品のパクリかと思わせるほどのカッコよさです。あれ、そういえばこの作品と「ロスト・ハイウェイ」とは結構共通項ありそうだな…自動車修理工が出てくるし、敵か味方かよく判らない女が出てくるし、画面暗いし、小屋は爆発するし、元も子もない映画だし…

(船越)



●がんばって、いきまっしょい

 98

 磯村一路 (新宿東映プラザ)

 湖水を滑るように進むボート。高校時代という時間。自分が自分でしかない悔しいもどかしい時。その一瞬一瞬がスローモーションのように思い出される映画。(ここら辺キネマ旬報っぽいな)

 ナッちゃんこと田中麗奈が進学校にやっと入って始めたのはなぜか女子ボート部。何の説明もないままに淡々と時間が流れ、あるのは年に一回の県大会。ここら辺の仕掛けが製作の周防正行らしいが、しかしこれも盛り上がりもなく弱い新参チームは負ける。日常生活を挟んで(瀬戸内海の伊予の海が綺麗だ)途中から入った東京から出戻りのやる気のないコーチ(中嶋朋子が良い!)やボート部の女子部員の友達連中との間の抜けた、狙いではない、独特の間の会話が可笑しい。合宿の深夜の花火なんか、恥ずかしいけどイイヨねって感じのシーンも見所かな。

 アップがほとんどなく、監督も無理に凝ったカットを撮ろうとせず、ミディアムのショットで女の子たちと四国、伊予の浜辺の空気と共に捉えられる。ただひたすら好感の持てるホッとする映画で、こんなさりげない映画は近頃珍しいなあと思う。勿論最後に向かって盛り上がって行くんだけどそれさえも淡々としています。

 今風にギャグを入れたシーンも撮ったと思うけど(『あさってDANCE』の監督だものね)、リズムを大切にしてカットしたと思うよ。女性がどう見るのかが感想を聞きたいもんだ。観客層も口コミで広がっていく感じで老若男女が観に来ていました。ロングランで11/27までやってます。久々のうれしい邦画の小品。

(角田)



●ドーベルマン

 Dobermann  97

 ヤン・クーネン (ビデオ)

 カッチョイイ映画なんです。こっちがフランス映画だろ、バイオレンスだろ、などと色眼鏡で見ようとすると、ことごとくぶっ飛ばしてくれる痛快無比な映画デス。オープニングクレジットでいきなりドーベルマンの力(リキ)の入った3DCG。特に意味は無いんだが意気込みと心意気が伝わってくるシーンでぶちかましてくれる。

 暗黒街というか、ヤクでラリったキャラクターが素晴らしく非現実的で小粋だね。アメリカ映画がやるともっとぐちゃぐちゃになるんだが若さでその辺を逃れている。生まれたときから拳銃を放さないリーダー。唖の義妹との奇妙な関係(近親相姦か)。女が下品でロケット弾を撃ちまくり銀行強盗をする。サポートするのは、自称牧師の手榴弾魔に気の短いすぐ撃ちまくるプッツン野郎と個性的というかいい加減というか無茶苦茶というか、派手だけど慎みのある(センスがあるってこと)ギャングものを見せてくれる。これに対抗する非常のゲシュタポの異名を取る警部が非情な手段で強盗団を追いつめていく。結構、出てくる奴等がみんな悪いやつでいい顔をして、人間っぽくってそれでいて、ストーリーの中に上手くはまっています。呵々と大笑いしながら楽しんで見るのが正解。

(角田)



●TOKYO EYES

 TOKYO EYES  98

 ジャン・ピエール・リモザン (シネスイッチ銀座)

 ピーター・グリナウエイ、ジム・ジャームッシュ、ダニエル・シュミット、ヴィム・ヴェンダースと日本資本で作るヨーロッパ監督が多いけど、ジャン・ピエール・リモザンもその一人に名を連ねたか。確か第一作目の『夜の天使』を10年ほど前に見に行って前評判倒れでがっくりした記憶があるのだが、今回も大して演出が変わってないのに愕然とした。

 「東京」ということを置いといたとしても、即興じみた長回しのダラダラした演出。やたら顔のアップの多用(ビデオになったらどうすんだろう)、赤色を服やベッドのシーツと画面の中に入れたがるクセ。登場人物がビデオを持って撮影しあったりたりする。登場人物の感情の経緯がさっぱりわかんねえ。なんとなく、こう感じろという傲慢な脚本が気にいらんね。

 拳銃を持ってムカツいた街の大人に発砲する少年が、何もかにも興味の持てない美容師見習いの女の子と出会って恋に落ちる。女の子の兄は刑事でこの事件を追っている。その数日間をだらだらと追っているんだが、どこで何がどうなったから関係が盛り上がってこうなったのっていうのがさっぱりわからん。品の良いアイドル映画じゃねえの?フランス人が見ても分からないと思うけどね。

 ついでに言えば「東京」「下北沢」である必然性も何にもない。「東京」と言う街に関してカメラを引く度胸はない人だね。ありのままを受け入れているとも、黙示録的に描くこともしない。それは日本人も同じだけど。(唯一ダニエル・シュミットが『描かれた顔』で舞踏家の大野一雄を竹芝桟橋のフェリーターミナルの噴水で踊らせたのには戦慄が走ったが)まあパチンコ屋の描写が出てこないだけで少しは許せるかなくらいで、あとはTOKYOの何の切なさもこわれようも見えない。まあお伽噺と思えば腹は立たないけどね。

 見所は美術と衣装に絞られる。今回僕自身は、吉川ひなのと武田真治を見に行ったからね。武田真治はグッドだね。何でも出来ますよ。良い役者です。吉川ひなのが良かったのはラフな自由な演出プランだったからだろうね。即興も入れながらのペースで役作りをしていった感じがする。ワンショットでアップで喋るとボルテージが下がるのがちょっとね。あと、二三年すると映画女優として開花するかも知れないな。テレビドラマで消耗しなければその可能性はあると思う。枠に収まっていない感じがして期待は出来ます。

 あ、ついでに北野武はオマケですのであんまり関係ない役(ヤクザというかチンピラ)です。

 ということで、ここまで出来ると言う部分とこんなモンだよねと言うのを確認する為に足を運ぶのは如何でしょうか。

(角田)



●由美香

 97

 平野勝之 (ビデオ)

 ビデオはどんなに大きな画面に映してもビデオであって、映画の代用品にはならない。日活ロマンポルノ末期に「ロマンX」方式というビデオ撮影、キネコ処理での公開があったが非常に違和感を感じた。とは言っても時代は変わりビデオ公開のものも多くなったが、庵野の様に「ただいくら回しても安いから」というバカな理由であっさり撮る人間もいる。彼にとっては戦略ではあろうが、少なくともそこにはビデオ撮影の選択までの苦渋はなかったろう、だからテープには情念は乗り移っていなかった。回したら写った記録だけだった。

 しかし、この作品に流れる濃密な時間は何だろう。元々アダルトビデオの『ワクワク不倫旅行』として企画されたはずの作品がいつの間にか、記録を越え、AVを越え、情念のみが念写されたごつごつとした手応えの何かに仕上がっている。適当な言葉が見つからない。

 監督、企画者、撮影、不倫の相手である平野勝之は、AV女優であり、不倫の相手である林由美香と自転車で最果ての地、礼文島を目指す。40日以上の旅である。

 7年前に平野はデビュー作で林に惚れてしまいずっと想いを秘めていた。そしていま再びその由美香と不倫という関係を持ち、彼女の企画物AVを撮ろうとする。その辺りが7年前と、現在とが交錯しながら巧みな編集で描かれる。平野は由美香に想いを寄せ、由美香から何か意味のある言葉を求めようとするが、由美香からはぼんやりとした言葉しか戻ってこない。そのかったるいぐずぐずした関係が描かれる裏で、会社の企画会議では、もうAVアイドルではない由美香は名前だけでは売れない、何か企画の目玉を入れろと至上命令が出る。それが達成されれば作品として出してやるという条件がつく。これがエグイ物であることは、V&R カンパニーを知る人なら分かるだろう。

 もちろん、平野は悩む。由美香をスターとして出演させたい、しかしこの条件を出すことは彼女を傷つけ自分との関係を清算されることでは無いのだろうかと。そこがこの映画のサスペンスとなっていく。

 企画が決まり動き出した、当然平野の妻にはこの不倫の事実は告げられる。「身体中から力が抜け脱力しました」というテロップで出る妻のコメント以外、妻はじっと平野のカメラを見るだけで言葉を発さず、存在をカメラの前から隠す。

 反対に由美香は、プライベートも何もかも本当に何も考えてないかのように大胆に天真爛漫に子供のように振る舞う。しかし、反動で手が付けられないナイーブな存在にもなる。その表情が物凄く良い。平野がカメラを通してじっと見て、こちらにもその表情を何度も見せてくれる。

 旅が始まり、(はっきり言ってとてもハードな旅だ)、二人の関係というか平野の内面がすごく揺れているのが、描かれ続ける。そこに自転車の疾走感、景色の開放感、どう撮ったのかわからんほどの凝った構図での撮影。そこに内面の呟きとしてのテロップがいくつも重なり、勿論ハメ撮りもありのまま混沌としたまま時間と走行距離は過ぎ去っていく。生な感情のぶつかりあいが徐々に現れ始め(といってもそんなにドラマチックなものではなく、曖昧模糊な物だが)微妙に平野と由美香の関係がすれ違っていく。

 それを淡々と詩的な映像というか徹底的に編集でいじった画が美しく切なくさせる。夜のキャンプ場の炎がスローシャッターで舞ったり、ブローアップしたザラザラの画面、深い深いオーバーラップが、アニメーションの様に丹念に編集され、テープに定着させ、どうしたら伝わるのかと、執念で描いている。

 最終目的地が近づくにつれ、旅の意味や二人の関係や、秘密の企画のプレッシャーがじわじわと、しかしのんびりとした中の緊張感として描かれる。由美香の顔がどんどん変化していくところが同じ寝ているアップでも変わっていくのが、カメラを通しての平野のドキドキとして伝わってくる。

 さて、最後は想像を絶し、日常に一度落として、再びもっと遠くの世界まで飛んでいってしまう切なさは、神代辰巳というより、田中登の『マル秘色情メス市場』のように貧乏くさく切なく滑稽だ。そして由美香が撮った美しい朝日でなぜか唐突に映画は終わる。男って情けないねえ。

 ビデオに映ったものは、撮ったものは何だろうと考えていて、プライベートな記録なんじゃないのか。撮ってる最中の彼、平野の欲望と妄想の視線だけがこの作品を成立させている。それだけではなくもう一度編集で思い入れを入れながら自分をコケにしてまでも、自分が納得するものを作ろうとしている。自分がコケにされないとこの映画は成立しないことにいつの間にか気付いていたのだろう。自虐的でさえある痛い編集作業だったろうなあ。ビデオテープには全てが映ってしまいそこには何もない。ある種、視姦としての視線しかない。それがここまで意味を持ち、見ている側までたどり着くことは滅多にない。

 ビデオについてはまだ考える余裕(スペース)はあるだろう。ローリー・アンダーソンとかゴダールがビデオをいじっていた時代を超え、今、「だってデジタルなんだもの。スタミナハンディーカム!」の時代に語る言葉が必要だ。

 映像は汚い、ピントはぼける、ノイズで音は聞きづらい。音楽は一曲のリフレイン。それでも滑稽で哀しくて可笑い作品はできる。

(角田)



●ラヴ&ポップ

 98

 庵野秀明 (ビデオ)

 誰か見た人いる?エヴァは見たけどこれは見ていないと言うまるでアニメファンみたいなこと言っている人が多いんじゃないだろうか。あの騒ぎは何だったのかというのはここで述べることじゃないからいいとして、半ば期待と、駄目だろうと言う期待がごちゃ混ぜのままに映画は始まりました。 デジタルビデオカメラで全編撮影した画面。画質はビデオになっていたけど、劇場の時にはF効果を使ったのかな。スタンダードでくねくねと動くカメラは面白いけどそれだけだね。

 映画は海に浮かぶ女子高生の水死体を海底から見ている夢から始まる。「おお、サンセット大通りじゃん」とつかの間思った後には、執拗な笑っちゃう程の主観カメラと、超ローアングルの盗撮カメラのオンパレード。お話し的には脚本が村上龍の原作をほぼそのまま脚色しているので、まあ破綻はない。原作読んでない人には結構話が面白く感じるんじゃないのかな。ただ退屈な日常性を象徴するのにレールに乗って走っている模型列車にカメラを載せて走らせるシーンは頂けない。これってこのレールから外れないという象徴でしょ、安易すぎない。そういう幻想シーンがいっぱい出てきて悩むのかと思ったけど(笑)、本線のストーリーに戻ったから良かった。

 演出には、何にもこだわらないことにこだわったんじゃないかと思えるところがたくさんあった。アニメじゃないから制御できんもんね。これはある意味での自主映画、プライベート・ビデオだよ。監督の好みというか、好き嫌いで出来ているんだもの。

 好きな物………だせえ選曲のクラッシック(まるで中学の音楽の教科書から引っ張ってきたような名曲ばかりだ)、ファーストフード、汚い工事中の街、女の足、広角レンズ(実相寺昭雄だ)。

 嫌いな物………女子高生、雑踏、明るいところ、生活感、食べ物(みんなまずそうに食べる)、そして映画。

 映画が撮りたくもないのに撮れるんだよ俺は、と言って作った感じが感じるのね。最後に編集と音楽でどうにかなるわい、どこまでも脱力しているんだよな。ここが何がどうしても撮りたかったと思わせるものが何もないんだよなあ。いろんな煩わしい事柄から逃げまくっているのが見え隠れする。それを正直に見せてしまうだけ愛すべき自主映画、学園祭用クラスで一夏かけて作りましたビデオのようには出来ている。

 どこまで行っても「こんなものですよ」とニヤニヤ笑いで逃げられる映画(ビデオ)なんだよね。批評封じと言っても良いな。誰も真面目に取り上げようとすればするほど脱力させられる、要するに監督の手の中でしか遊ぶことを許されていない、村上龍の小説の映画化としては初めて成功した(自分で監督していないから)文芸映画作品というのが、妥当な結論じゃないかな。庵野に何を期待するんだ?所詮は感覚と記憶のコラージュの高校生映画研究会だからね、新しいことは何もない。

(角田)



●ブギー・ナイト

 BOOGIE NIGHT  97

 ポール・トーマス・アンダーソン (シネシャンテ1)

 オシャレな宣伝がメディアでされているが、そんな映画だと思ってみると泣きを見るぜ。この2時間30分の映画は70年代から80年代までのアメリカンポルノ映画の盛衰を描き、その産業に集まった人たちを描いたおかしくて悲しい作品だ。

 見ていて、なぜかボブ・フォッシーの『レニー・ブルース』を今は亡き三鷹オスカーで見た時の、そんな記憶を呼び戻された。70年代を描いているだけじゃなくて、映画の精神も70年代だからか。今の観客には乗れないところは多いだろうが、かつてこういう映画がたくさんあったぜ、という歴史を知っている者たちには是非見て欲しい。

 すごく駄目な奴等がそれでも生きているんだというのが、長回しの部屋中を動き回るカメラによって同時に幾つものドラマが交錯していく。どこがどうというのではなく、映画の素敵さ加減を再確認できる貴重な作品だと思う。アメリカン・ニューシネマだね。

 バート・レイノルズのポルノ監督はすごく良いです。彼の『シャーキーズ・マシン』も良かったね。なんでアカデミー助演男優賞取れなかったのかなあ。

(角田)



●ディープ・インパクト

 DEEP IMPUCT  98

 ミミ・レダー (新宿パラス)

 夏休み興業No1で女子供の涙を絞ったと言われる作品だが、パニック映画風に売られているが、パニック映画と読んで良いモンだろうか。予告編で有名な津波のシーンはオマケ程度で終わってしまうからさ。

 昔『メテオ』で延々と会議をしていた訳のわからん映画を作った教訓を活かして、今回は数人のアメリカ人と、親子、家族関係に的を絞り込んで、それをパラレルに描き、時間経過と共にサスペンスを盛り上げようとする手法を取った。これが成功しているのかどうかは趣味の問題だと思うけど、安いドラマだなあというのが印象。

 ミミ・レダーってコンテ、シナリオ通りに演出はできるけど、サスペンスの演出は得意で無いのではないだろうか、時間の経過が結構まんべんなく流れるので盛り上がりに欠け、緊張感が足りない。シナリオはご都合主義、無理矢理盛り上げようとする意図が見え見え、人物像が薄っぺらいところも原因だとは思うのだけど、音楽でごまかされ、このくらいで泣いたり出来る人は幸せな人だなあ。

 個人的にはすぐに死んじゃう天文所の観察員チャーリー・マーティン・スミス(『アメリカングラフィティー』、『ビリー・ザ・キッド21才の生涯』)が変わらない性格俳優をしているのが見られて良かった。

(角田)



●生きない

 98

 清水浩 (テアトル新宿)

 宣伝のせいか、観客は入っていた。が、今作る映画なのか。今見る映画なのかと聞かれると、NOと言うだろう。どこに監督がいたのだか全然分からなかった。これは同じく助監督をしていた人が撮った『教祖誕生』でも同じ事を感じた。真似してどうするの?

 シナリオはCXの世にも奇妙な物語でやればちょうど良いストーリーだと思うが、もう少しクスグリの笑えないギャグ部分をふくらますよりも本質的な死んでいく人間達を突き放しても良いからきちんと描いて欲しかった。

 演出に関しては全く見るところはない。演技に関しても。どこを見たらよいのか全く分からない。集団も個人もどちらも描けていない。何の突出した部分が見えない。不条理な設定が、観光映画としてしか成立していないんだよね。自殺志願者を乗せたバスが観光を装い事故を起こしてみんな死ぬ、そこにたどり着くまでに描くことがたくさんあるだろう。ここでも淡々と時間が流れているのみだ。やはり予定調和だと思う。

 この手の話には、どこか神の存在、不在が出てこないと成立しないのではないか。一種の奇跡について語らないと行けないと思う。そうするしか登場人物の心の変化は描ききれないのではないか。

   やはりロカルノ映画祭の陰謀の噂は本当なのかと考えてしまう。

(角田)



●アベンジャーズ

 AVENGERS  98

 ジェレマイア・チェチック (新宿東急)

 予告編は文句無しに格好良い。でも本編は………。テレビのリメイクの雰囲気を出そうとレトロっぽくしたり、シャレタ会話をするところがすべて外している。撮影したは良いが長すぎて切り刻んでいる内に、どこが面白いところか良く分からなくなってしまったと言う感じの映画。

 説明不足と説明過多でまどろっこしい部分が交互に来てアタマがこんがらがる。ストーリーは予備知識を入れておいた方が良い。

 ただ、レトロな雰囲気、セットの凝りよう、ユマ・サーマンの衣装は一見の価値はあります。ビデオまで待った方がいいね。

(角田)



●ミル・マスカラス「愛と宿命のルチャ」

 LA VERDAD DE LA LUCHA  88

 フェルナンド・ドゥラン・ロハス (BOX東中野)

 映画としては駄目だが、ルチャドールの心意気としてはよし。

 マスカラスとドスカラスが悪人と戦う『月光仮面』的展開を予想していたのだが、脚本はメキシコ・マット界の抱える問題(貧困、暴力、教育水準の低さ、プロモーターによるレスラーからの搾取、etc)を提起する硬派な内容。関係者各位への気遣いを見せつつ淡々と演出していた。

 リングサイドからスローモーション多用で撮られたルチャのシーンは強烈な催眠効果を持つ。華やかなはずのパーティーシーンにも場末の物悲しさが漂う。

 『ムトゥ、踊るマハラジャ』なみの内容を期待したらしくじるが、プロレス好きの人は観て損は無し。有名なレスラーが多数実名で、出演。。演技はつたないが、堂々たる体格。特に、マスカラスとドスカラスの美丈夫振りは際立っていた。

(森山)



●鬼畜大宴会

98

 熊切和嘉 (ユーロ・スペース)

 『プライベート・ライアン』にも匹敵する、ヴァーチャル・リアリティー体感映画が現れた。35ミリ、スタンダード、役者・スタッフは無名。噂によると“ぴあフィルムフェスティバル準グランプリ”に選ばれながらも、事務局がびびって上映さえなかったといういわくつきの映画。その描写によりどう考えても映倫は通らないね、通ってもX指定だわこれは、というシロモノ。

 ストーリーは、70年代の新左翼活動らしい(台詞が少なく、固有名詞がでてこないので推測するしかないが)グループが、内部分裂を起こしやがて破滅していく様子を淡々と撮っていく。普通この手の自主映画にはイライラさせられることが多いのだが、一人一人、裏切り者を捕まえ、執拗にいたぶり殺してく有り様を、リアリズムで描きながらも、不快感という意味では全く政治とかストーリー・テーマが欠如しているので、見せ物として楽しめる。いつか訳のわからん自主映画の世界に帰るのかと思ったがそんなことはなくプロの作品以上に丁寧に作り込まれている。人の頭を猟銃で吹っ飛ばすことに全力をかけている、そのパワーに上品さまで感じてしまう。映像に全てを託している意味ではとても志の高い映画です。どこまで、本気で作っているのか、シャレなのか判別が出来ないと言う点でも『プライベート・ライアン』のようだなあ。

人殺しスプラッター映画だけど、妙に透明感があるんだよね。観たこと無い映画です。

(角田)



●エンド・オブ・バイオレンス

 THE END OF VIOLENCE  97

 ヴィム・ヴェンダース (ビデオ)

 済みません。早送りしてしまいましたんで、本来書かないほうがいいのかなあと思ったけど、興味があっても観てない人も多そうだから印象を記します。

 一応昔のヴェンダース・ファンとしては、『夢の果てまでも』で決別というか、生理的に耐えられなくなってしまい、『ベルリン天使の歌』なんか初日に行って、激憤して帰ったけど映画はヒットしちゃったということもあって、「もう、違う人になっちゃったんだ」と思いつつ、『リスボン物語』にはアタマを抱えてしまったりして、なんやかんや言いながら付き合って来たようだ。

 50歳を過ぎ、自分でも何がやりたいのかわかんなくなってしまったというか、急に無邪気という言葉を失ってしまいそれでも映画を作るにはどうしたらいいのかと言うときに勝手に自分の妄想に逃げ込んでいくというダメになったパターンをリピートしていてちょっとグロテスクな気分になった。

 テーマとしての映画の暴力と現実の暴力とそれを監視するカメラ、メディアがあって、そこに映画プロデューサーを中心とした人間が巻き込まれていくという、ストーリーは面白くなりそうなんだけど、いかんせん、語りがトロく、カメラも安定していないし(安易な切り返しと長回しにやる気が感じられない。画調と構図が決まってない、どうしたんだと思うくらいダメ)、誰が何を考えて何をやってるのだか良く分からない。思い込みと観念が突っ走ってるのだけど、ストーリーだけ三文小説という構造。単純すぎるぞ90年代の映画としては。どう考えても「パソコン、ハイテク苦手です」オヤジ的な視点が見え隠れしている。

 122分我慢できる人、観念的な映画を観ても眠らない人なら観てみて。ダメさを確認するのは悲しい。

(角田)



●D坂の殺人事件

  98

 実相寺昭雄 (ビデオ)

 耽美な映像を描き続ける実相寺が撮った、江戸川乱歩もの。ちなみに明智小五郎は、嶋田久作です。映像と、美術の変さ加減をご堪能あれ。思ったよりも普通に出来ているんで多少のスカスカな感じは受ける。『ウルトラマン・ダイナ』でも撮っているのが分かったので今度はそれを借りて観てみます。個人的には、マルキ・ド・サドの翻案した『悪徳の栄え』の方が耽美的で良かったなあ。

 昭和初期を撮るのに、同じテレビ演出から始まった実相寺昭雄と久世光彦の世界が近そうで遠いと感じるのはボクだけだろうか。

(角田)



●ブレーキ・ダウン

 Breakdown  97

 ジョナサン・モストウ (ビデオ)

 なぜかこっそりと公開されたままになっていたけど、気になってようやくビデオで観たら、なんとこれが大当たり。製作、『キンゴ・コング』のディノ・デ・ラウレンティスとその娘。主演カート・ラッセルと豪華だが、それ以外は誰も知らないし、あんまりお金がかかってない映画。敢えて一言で言えば、『激突』『悪魔のいけにえ』だ。あ、分かった?君の予想は外れていないよ。

 でも、93分、かっちりと丁寧に撮っていて、ディテールの描写がなかなか迫真に迫っているんで緊張感があるし、悪役は悪役でそれなりの落とし前がついて、そうだよなと納得して観ていられる。最近のハリウッド映画は、悪役でも死ぬと嫌な気持ちになるけど、この映画では「ヤッタレー!」とカート・ラッセルを応援したくなる気分にさせられる。滅茶苦茶正当派のアクション映画です。監督の演出力も大したもの。

 15年くらい前に監督、フレッド・デッカー(『ロボコップ3』)が『ドラキュリアン』で、またはスティーブ・カーヴァーが『超高層プロフェッショナル』で見せてくれた、熱いB級映画魂に通じるものがあるね。必見。

(角田)



● Heavenz それぞれの到達点

 井出良英 (銀座シネ・パトス)

 英語は苦手なのだが、タイトルのHeavenzのzは複数形のsをzに置きかえるというアングラ世界では良くお目にかかる表現だ。コンピューターの世界にもwarez(違法コピーソフトを流通させる行為、またはそれら違法コピーソフトの総称)とかあるし。

    映画は山下徹大(加山雄三の息子さんらしい。そういえば、生命保険のCMで観たような気もする)扮する若手人気DJテツの青春成長物語。テツの片思いの女(関谷理香)の恋人役に笙の東儀秀樹がミュージシャン役(サックス奏者兼DJ)で出演している。

 この渋谷系の若者テツ君、やけに現状にイライラして、ケンカっぱやいのだが、正直、観客の我々のほうが、イライラする映画でカタルシスはまるで感じられなかった。DJを描く映画の割には音楽も退屈だし、クラブとかの現代東京風俗の描き方も平凡だし、役者も弱い。せめて「沙耶のいる透視図」(86年和泉聖治監督)くらいには楽しませて欲しかった。

 現代の若者が、退屈しのぎに無計画でアナーキーな行動を引き起こし、最初はうまくいくが、やがて警察や内部分裂によって一気に破滅へと向う…という「青春残酷物語」パターンの映画が好きなボクにはかなり不満の残る作品だった。

 ただ、300円でGETしたチケットなのであまり文句は言えないんだけどね。ちなみに観客は8人だった。

(船越)



● プライベート・ライアン

 Saving private ryan

 スティーブン・スピルバーグ (新宿スカラ座)

 「必見」という情報が来たので、先行オールナイトに並んで(夜中なのに結構の人数が入った、これが!)3時間の上映時間、飽きずに見ました。と言っていいのか分からないけど、この作品では、スピルバーグの二つのトラウマが融合して出来上がった記念碑ではないだろうか。ハッキリ言って面白い。その面白さがどこから来るかというと、『ジュラッシック・パーク』的な面白さであり、『カラー・パープル』的なものではない(『シンドラーのリスト』を見ていないのでこの比喩が適切かどうかは分からないが)。

 まず、戸惑ったのが、スクリーンサイズが戦争映画なのに、ヨーロッパ・ビスタビジョサイズだったこと(1:1.75)。普通アメリカ映画、特に大作だったらシネマスコープサイズ(1:2.35)、最低でもアメリカ・ビスタビジョンサイズ(1:1.88)のスクリーンの大きさを選択するはずだ。まあ、スタンダードサイズ(1:1.33)がかかる小屋があるとは思えないから、それは現実的ではないけどかなり意図的な選択だと思う。それと、見れば分かるのだが戦闘場面の随所に、動きがぎこちないところがあるのだが、カメラのシャッター開角度を狭めてわざとコマ落とし風、ぎこちない動き、分かりやすく言うならニューズ・リールを意識した画面づくりになっている。でもそこまでやるならなんで白黒にしなかったのと言う疑問も出てくる。『シンドラーのリスト』はモノクロだったのにね。カラー撮影は頑張っているという人がいるかも知れませんが、わざと画調を合わせなくしたりする仕掛けをしたりしてますが、そういう部分は愛嬌としても、情緒的な部分とか、さりげない部分での撮影が雑で必ずしも成功しているとは思えません。そこが相変わらずの、金をかけるシーンと、かけないシーンを露骨に描き分けるスピルバーグのプロデュース感覚の賜物でしょう。ジョン・フォードといわなくともあの逆光のシーンはもうちょっとどうにかで来ただろう、と思いましたね。なんか時間に追われて撮影している感じがして落ちつかないんだよ。天候の変わりやすいイギリスで撮影したとは言ってもね

 ここで、分裂したスピルバーグのトラウマが炸裂する。そう、ひとつは映画は全てエンターテインメントであるということ、その一番の観客が自分であること、だからなんか新しいことしなきゃ気が済まないんだボク症候群。その為の上記の撮影技法だし、『ジョーズ』から『レーダース』にかけての観客に過剰な痛みを伴う呵責ない残酷的描写の徹底。ここまでやるかという計算には脱帽しましたが、特に細かいドイツ兵が撃たれるところ着弾、血の飛び方なんて最近のハリウッド映画の中じゃスローモーションも使わずに撮られた中じゃ一番洗練され美しかった。勿論、ヲタクも唸る武器、戦闘車両のレプリカをきちんと作ったところも偉い。そこに費用をかけすぎたんじゃないかとも思うが……。そう、前述したけどさりげないシーンの撮り方が雑だから、いつまでたっても誰が誰だか最後までよくわからん。たぶん脚本では書かれていたと思うのだけど、スピルバーグが先を急いだために無くなったんだろう。『E.T.』までは、なんとかストーリーを止めても登場人物の感情を描こうとしていたが、(『ジョーズ』では船内で3人が酔っぱらいながら、過去を語り合うシーン、『未知との遭遇』では、デビルタワーの模型を作るところ(最も『特別編』ではカットされてたが、『E.T.』では夜空を飛ぶシーン……)最近の作品になるにつれ、ヒステリー的にそういうシーンは削られていく。レコードを聴くシーン?あのシーンに何か感じますか?

 ボクは今回スピルバーグがたどり着いたところは、映画にとって、今や映像なんかどうでもいいんだという心境のような気がして仕方がない。確かに映像は迫力があります。戦車が近づいてくると地面が振動するなど、すごくリアルです。でもそれはスピルバーグにとっては小手先のことで本人は大して面白いとは思っていないでしょう。他の監督が手抜きしているくらいに思ってるくらいでしょう。カット割りもほとんど最低限のモンタージュしか使っていません。映画学校泣かせの無茶苦茶なカメラワークです。それよりこの映画の最大の見所?は音響効果の出来だと思います。どうやったら画面以上の効果が出てくるのかものすごく計算していると思う。その編集が的確だと思う。戦闘シーンなど、たくさんの音が混じるんだけど、どれもがクリアに聞こえ細かい瓦礫の崩れる音や、叫び声なんかも聞こえるの。この映画がリアルに思えるのは、音の力が60%と考えても良いんじゃない。あの緊張感は画面だけの効果じゃないよ。そこまで計算している。劇映画の文法を意図的にぶっこわして詰め込めるだけの情報を詰め込んでいるから、観客も戦場にいるのと同じ混乱を味わうことができる。だからこれも『ジュラシック・パーク』の系譜に入る体感ムーヴィーなのだ。

 それがエンターティナーという彼自身の資質だと思う。別名やりすぎとも言う。そしてもう一つのトラウマ、偉大なアメリカ映画監督でありたいという願望。いい年なのに良い子になりたいというコンプレックスがどこかにまだあること。これについては、僕自身が『シンドラーのリスト』と『アミスタッド』を観てからちゃんと答えを出したいと思うのだが、スピルバーグの不幸は、全てをどうしたら受けるかでしか考えられないエンターティナーであることだと思う。たぶん、ストーリーで言えばノベライゼーションの方が感動的なのではないだろうか。それは脚本がどうも未消化のような印象を受けるからだ。まだスピルバーグには脚本をそのまま撮るという作業は出来ないのだろう。だからいつも飽きない映画を見せてくれるのだけどね。彼にとっては諸刃の剣だろう。

(角田)



● デス&コンパス

 DEATH AND THE COMPASS

 アレックス・コックス (ビデオ)

 昨年、ユーロスペースで公開された、日本資本も入ってる、アルゼンチンのルイス・ボルヘスの原作を翻案した作品。すっとぼけた、冒頭からテロリストの襲撃が延々と長回しで撮られたりする、メキシコを未来都市的に捉えたところは格好良い。それとカットバックする、元警察署長の架空のインタビューの言葉でつないだ編集のシーンが異様な違和感を感じさせる。ピーター・ボイルの演じる、直感と衒学で事件を解決する刑事の何故か青いスーツに白いコート、黒のトレンチ帽という真剣にやっているんだか良くわかんないけど、キマッテいる姿がアレックス・コックスの探偵映画に対する外さないところを示しています。なんか迷路のような警察署のセットを見て、オーソン・ウエルズの『審判』を思い出した。官僚組織と迷宮というテーマも近いものを感じているし、これは、カフカとボルヘスの問題なのかな?事件はどこまでもネジ曲がり、そしてあっけなく終わる。小品というか、実験的な映画だね。シュールな気分を味わえます。アンチ・リアリズムの刑事ドラマ?なのです。

(角田)



● 夢翔る人 色情男女

 色情男女

 イー・トンシン (新宿シネマミラノ)

 返還前1996年の香港作品。映画を愛する人々に捧げられた作品。といっても、トリュフォーの「アメリカの夜」とは随分印象が異なる。香港映画に内面的描写など求めてはいけない。ただし映画(人)への愛情は勝るとも劣らない。

 レスリー・チャン扮する売れない芸術志向の映画監督が、軽蔑していた「ポルノ映画」を撮ることになり、商業主義のプロデューサーやわがままで大根の主演女優たちに翻弄されながらも、やがてスタッフの信頼を得て(売れない映画監督「イー・トンシン」が入水自殺を図るというエピソードやレスリー・チャンが「変態家族 兄貴の花嫁」のビデオで観て勉強するというエピソードが挟まれている)難航の末になんとか撮影を終了するのだが…というのがストーリー。

 ウォン・カーウァイのポップで洗練された映画(作品中にも名前が出てきます)ぐらいしか、最近の香港映画は観ていなかったので、久しぶりにこういった「ダサい」香港映画を観て少し戸惑った。丁寧な内面描写ではなくアクション(エピソード)の積み重ねで強引に話を展開していくあたりはいかにも「古典的」香港映画で好感が持てなくもないですが、疾走感が得られるほどではなかったのは残念だ。ただし、この映画の魅力は「レスリー・チャン」その人だろう。新宿で金曜日の晩に観たのだが、観客の9割は女性客で、みんな作中のレスリー・チャンには満足していたようだ。役者目当てで映画を観に行く、というのも正しい映画の観方だろう。

(船越)


●チェイシング・エイミー

 Chasing Amy

 ケヴィン・スミス  (シネアミューズ・ウエスト)

 騙されたと思って、見てといってももうすぐ公開終了しちゃうんだよね。すごく地味な映画です。でも笑えます。まともな人間は出てきません。ニューヨークと近郊の小都市に住む、黒人のホモ、バイセクシャルの女、そんな女に恋する漫画家とその相棒。 狭い世界のなかで、人が真剣に考え悩み、そのシュチエーションが笑いを呼ぶという、ボクはビリー・ワイルダーのシュチエーションコメディーを思い出しました。それも、すごく残酷な部分、人を斜に見る人間騒ぎの莫迦さ加減を。

 でも、この映画はそれでも莫迦なんだから仕方ないじゃんと言わんばかりに笑わせてくれます。脚本がものすごく上手いんです。拾いものと言う感じで、見ると、一晩くらいは(レイトショーなんで)ニタニタしてられます。ウディー・アレンのように深刻にならず、かといって、ジム・ジャームッシュのようにすかしていなく、ジョン・カサベテスのように温かく、登場人物に感情を吹き込んでいる。

 そのうちに少女漫画家がパクるんじゃないかと思われるほど、設定、キャラクター共に良くできたお話しです。是非ご覧あれ。

(角田)


●ゴダールのリア王

 KING LEAR

 ジャン・リュック・ゴダール  (三百人劇場)

 ゴダールの1987年作品です。当初は確か89年公開予定だったハズですが、永らくビデオのみのリリースだった問題作の登場です。

 80年代以降のゴダール作品のほとんどがそうですが、ストーリーを語ることはほとんど意味がありません。リア王もコーディリアもシェークスピアの末裔も登場するので、過不足はないでしょう。相変わらず美しい「ゴダール的」迷宮映画です。

 ドルビー・ステレオというオモチャを手に入れたこの映画の凄い所はやはり、音と映像と言葉の交錯する瞬間です。まさにかつてない新鮮な「映画的」体験が得られます。本当にゴダールというヒトは永遠に「恐るべき子供」です。ちなみに劇中では映画を発明する教授役をゴダールがドレッド・ヘアーで怪演。その教授の助手が、これまた「恐るべき子供」レオス・カラックス(「汚れた血」の監督。新作「ポーラX」も99年公開予定)が寡黙に演じてます。

 「右側に気をつけろ」とほぼ同時期の作品なので、見比べてみるとこの当時のゴダールの音と光と言葉のメディア・ミックス的戦略を窺い知ることが出来るかもしれません。

「タイタニック」を好きだというヒトには是非みてもらいたいものです。たぶん、寝てしまうことになるでしょうが、とても心地好く眠れるはずですから…

(船越)

追伸:「ムトゥ踊るマハラジャ」のコメントについては、是非「みんなくれぐれも自分で本当に面白いと思ったところでだけ笑うなり拍手するようにしましょう」という一文を載せて欲しい(^^;


●TAXI

 TAXI

 ジェラール・ピレス (新宿ジョイシネマ2)

 監督の名前より、製作・脚本のリュック・ベッソンの名前が大きいというシロモノ。だから、面白かったとも言える作品。ハッタリが何もない正攻法のみで作られたといえる。設定そのままの世界が繰り広げられたフランス・マルセイユでアメリカ映画撮ってみました、すごいでしょう。と自信過剰のリュック・ベッソンの顔が見えるようだ。

 抜群のテクニックを持つ改造タクシー運転手と運転免許が取れないマザコン刑事がドイツ人の強盗団を捕まえるまでの物語。うん、何にも考えさせてくれない分、潔いんでこの映画は口コミでヒットするでしょう。

 そういえば、ベッソンの映画ってみんな口コミで認知度が上がって評判になるパターンが多いね。多分、見たヒョーロンカたちは映画が気に入っても、「これ好きっていっちゃ恥ずかしいんじゃないの」と思わせるヤバさとクサさが同居しているのがベッソンの映画の特徴だと思う。簡単に言えば、映画少年の発想に近いんじゃないかな。

 でも、ある種のカタルシスはあるし、お手軽な感じで楽しい映画です。車だから『マッド・マックス』を求めたり、フランスギャングものだから、ジョゼ・ジョバンニの映画の雰囲気を求めてはいけません。何てったって、オープニング曲が『パルフ・フィクション』のテーマ曲と同じなんだもん。ノリが良けりゃいいじゃんという映画でした。

(角田)



●ゴジラ

 GOZZILA

 ローランド・エメリッヒ (新宿スカラ座)

 何と言っても、画面が暗かったので細部がよく見えなかった。内容もまあ、そんなもんだろうって感じで安売りチケットで1200円で良いね、と言う感じだ。

 というと投げやりだがどこを楽しめと言う感じの映画じゃないか。『インディペンデンス・デイ』もそうだったが、どこにも引っかからないんだよね。悲惨さがゲームというか、人間くさくないんだよな。どこかで見たようなシチュエーションがその通りに強引に展開して行くだけで観ている方は置いてけぼりを食らってしまう。逆に言えば、展開とゴジラの動くスピードが速すぎて、ストーリーが追いつかないんだよね。ゴジラの動きが(というのは=脚本を作る人間のアタマの構造が)先手を行きすぎて全然展開が読めてしまう。要するに脚本を書いたドイツ人2人組(監督と製作)の手の平の上でしか遊ばせてくれないような身が縮こまった映画に仕上がっている。これくらいで喜ぶのは、小学生か、アニメヲタクくらいなもんだろう。

 シナリオが悪すぎる。何故という問いが無さ過ぎる事が内容を薄めていると思う。ゴジラを動物に見立てて解釈したことで単なる動物の本能で行動して失敗する米軍など、単なるアホにしか見えず、出てくる人間の行動にも何の必然性も感じられない。あれだけ動物っぽいなら近づいただけで獣臭があったりしてすぐに居場所が分かったりすると思うんだけどなあ。ジャン・レノの平田昭彦というより、宝田 明的存在感は笑えたから(それにしてもショボイ笑いだ)まあ許すけど、人間が間抜けな存在だけでゴジラが何だったのか、たまたまニューヨークに来ちゃいましたってノリで作られているとしか思えない、発想がセコイ映画だと思う。

 やはり、ティム・バートンかアレックス・コックスに撮らせるべきじゃないのかな。いくらでも発想が広がるのに、こんな『ジュラシック・パーク』もどきにしちゃいけない。怪獣に少しは感情移入させてくれるか、破壊の快感を味あわせてくれよ。お前らの学生映画を見に来てるんじゃないの!

(角田)



●オースティン・パワーズ

 AUSTIN POWER International Man Of Mystery

 ジェイ・ローチ (渋谷セゾン)

 ギャグ映画はシナリオが命です。やっとバカバカしい映画が現れた。この間ビデオで『007 カジノロワイヤル』を観たけど、面白かったというか今観ているから、笑えるんじゃないかなと言うほど斬新だった。時間があったら観て下さい。

 で、この映画どこが良いかというと、基本的なアイディアは冷戦時代のスパイ映画のパロディを基本に、プラス、70年代のファッション(風俗、考え方)が90年代に突如よみがえったら笑えるだろうなという単純な発想で、これが当たっている。『オースティン・パワーズ』が偉いところは、リメイクじゃなく、オリジナルでキャラクターを作ったところだろう。今だったらいくらでもリメイクでオイシイ商売をしようとしている奴等が多いところをあえて、どっかで観たセンスを最大限に茶化しながらも愛情をこめて作っているところが良い。心がなごみます。勿論笑えます。が、クスクス笑いと言った感じでしょう。なんてったってイギリス風な(オフビートなね)ところを狙っているから、下品なところもまあまあ上品に見えてしまう。007で笑ったことがある人には大お薦め映画。まだまだ、素材をいじれば面白くなるジャンルってあるんだなと再認識しました。(ストーリーはばらさないよ。自分で観よう)。センスで言えば、赤塚不二夫まんがが好きな人にもお薦め。(だからさ、そんなにすかした映画じゃないさ)。

(角田)



●ピース・メーカー

 Peace Maker

 ミミ・レダー (ビデオ)

 ドリーム・ワークス第一弾と言う割には監督にTV出身を使うとか、バカにしていて劇場に足を運ばなかったけど、これが滅茶苦茶面白い現代の冒険活劇に仕上がっていた。失われたウクライナの核弾頭がテロリストの手に渡るのをCIAと女性科学者が止めるという、アメリカ愛国主義万歳って映画だけど、近頃のアメリカ映画にしては珍しく、敵がバカでなく知性がある人間として描けていたのが内容に深みを持たせた。逆に、主人公達が犯罪者に見える、(ヒーローものと愛国心が重なったときにはよくあるケースだが)、意図的に描いたのなら大したものと思う。

 要するにアメリカ的正義に疑問符を打っているのだ。これが新しい映画スタジオの第一弾の作品の中味だよ。野心的だと思わんかね。タイムリーなのか、分からないが、欧米人には、悲劇としてしか描けていないユーゴ内戦について大きな視点と、個人の冒険の視点からメスをいれたという意味じゃ画期的だと思う。テオ・アンゲロプロスの作品の視点と違って大国アメリカの犯罪についても良く言及されていると思う。言っておくがそれは勿論ストーリーテリングの中にエンターテインメントの形としてだよ、お忘れなく。冷戦以降のパワー・ポリテクスについてきちんと踏み込んでいると思う。ピース・メーカーと言う言葉がダブル・ミーニングということに次第に気付く仕掛けになっている。皮肉な意味が分かってくるところでドラマの複雑さが上手く浮き彫りにされていく。しかし、なんでこんな挑戦的な題材を選んだんだろうな。確かに他の映画スタジオじゃ作らないな。ボクはアート系(あるいは岩波ホール系)エンターテインメントとあえて呼びたい。勇気ある題材の選び方に敬意を表したい。

(角田)



●ムトゥー、踊るマハラジャ

 MUTHU

 K・S・ラヴィクマール  (シネマライズ渋谷)

 この映画はテクノミュージカル映画として記憶に残る作品だろう。楽しい映画については、別項で『タイタニック』と比較して書きたいと思うので、この映画を観ながら思った事を書くと、戦後間もなくの東映時代劇ってこんな感じだったような気がする。日本人はせせこましいので、1本で3時間よりは、3本立て4時間とかを好んだと思われる。勿論スーパースターは居たし、踊りも歌もあった、恋の駆け引き、チャンバラもあった。

 ここでポイントなのは、スーパースターがお茶目であるところだ。なんでもできるけど、失敗しても憎めないみんなの人気者。という方程式が成り立つところで映画も成立している。観客を味方に付けてしまえば後は恐いもの無し、突然どんなシーンが現れようと誰も気にしない、喜ぶだけだ。日本でそれが成立しないのは、スーパースターがいないのは勿論、3時間も映画を観る機会が少ないこと、映画のリズムに身を任せることが無くなったんじゃないだろうか。誰も映画は好きだけど、そこまでは熱中しないやということだ。

 しかし、没入という言葉が死語となっているとき『ムトゥー、踊るマハラジャ』を観ること、または映画に対する疑いを持ったとき、喝を入れてくれる格好の刺激剤となる。観るべきだよ。

 今思いついたのだが、東映時代劇、東宝サラリーマンものでもいいや、『ザッツ・エンターテイメント』的に作ったらすごく楽しいものが出来そうだ。ビデオで作ろうかしらん。上映時間は3時間ね。

(角田)



●アンドロメディア

 三池崇史  (新宿松竹)

 天下の『SPEED』が出ている映画を観ないわけにはいかない。誰に何と言われようが良いんです。でも、映画の出来は良くなかった。所詮は中学生だなあ、と言うのが印象。シナリオにも救いがないし、訳分からないとしかいいようがない。誰が映画を信じているのか?監督は信じていると思うけど、役者がなあ。それはいいんだけども!他の作り手達が子どもを食い物にしているようで気持ち悪かった。売れるウチに稼いでおこう。という今も昔も変わらない体質。子どもダマシをしていちゃダメになると思う。

 ちょっと、書いていてヤな気分になったので、この項は改めます。しばらくお待ち下さい。

 違う側面から書いていこうか。アイドル映画ではなく、ヴァーチャル・ワールド=サイバー・パンク映画としてどうだったのかと考えると、サイバー・パンクもので成功した映画ってないもんね。スタンリー・キューブリックの映画がやろうとしていることがそれに近いかも知れないなあ。人間の脳細胞を破壊しまくる狂気だけを追い続けている映画を撮り続けていると言う意味で。新作のいつ出来るかわからない『AI』(人工知能)には期待しちゃうなあといって、おっと『SPEED』でしたね。中途半端なS・F(エス・エフ)と言った解釈まで何とかたどり着いたところで終わっちゃっているんだよね。大林宣彦レベルなんだ。だったら、塚本晋也に撮らせるプロデューサーは居なかったのだろうか。書いてるだけでワクワクしますが、どうでしょう。

 頑張っているのだが、そのダメさ加減を観に行くのも一興か・・・な。

(角田)



HOME Foward