刷り込まれた奴ら
since 98/08/15
■ ロング・エンゲージメント |
Date: 2005-10-30 (Sun) |
DVD。
『アメリ』というかわたくし的には、『ロストチャイルド』、『エイリアン4』のジャン・ピエール・ジュネの作品。
第一次大戦時のドイツとフランスが睨みあいをする戦場での出来事を巡る、文学ミステリーの映画化。格調高いのでしょうが、出てくるフランス人の顔の区別が付かず、途中で何度も寝る。監督のオーディオコメンタリーを聞きながら、再度観るがそれでも区別がつかない。
まあやっていることは相変わらずのジュネ印満載で、それは楽しいのですがね、これもフランス人なら滂沱の涙を流す話なんでしょうが、日露戦争の203高地の攻防戦のようなモンで、こちらには『大日本帝国』が如くピンと来ない。
そうねえ、確かにそれなりにうまいんだけど、昔のギャグに倣って言うなら、「ドラマ」はあるんだけど「チック」がないのね。「チック」自体には何の意味も無いんだけどさ。古典フランス映画の持っている枠組みというか、品みたなものが感じられないんだよね。ジュネのいままでの作品を観れば、それが無理だとはわかるけど、目指しているのがその世界ならば、もう少しねえどうにかなりそうなものだけど。自分のスタイルに固執したのですな。カメラがあんなに動くと結局はストーリーは語りきれない。そのジレンマ。それも古くて新しい問題ですな。ジュネがそもそもすべてコントロールできるアニメからはじめたというのはよくわかる気がする。『アメリ』のコントロールされた世界は、最初から変だと決められた、成長しないキャラクターたちが右往左往するだけだから。こじんまりと受け入れられるんだけどね。現実の枠組みには全然無効な訳です。
CGで往時のパリを再現する辺りの偏執的な部分はオモシロイです。レンタルDVDはメイキングが付いてないですね。
あと『香港国際警察 NEW POLICE STORY』。日本語吹き替え版ビデオ。ジャッキー・チェンの映画はオモシロイだけなので、感想を書くのが難しいです。それが最高の褒め言葉だと思いますが。ジャッキーが主役なのだが、若手とのアンサンブル演技を目指しているのに驚き。あとワイヤにも。ググッとベタな泣かせに斜めに見ようとするも、おっとどっぷりと浸かった方が勝ちだぜと、ジャッキーの術中にはまることにする。
クラッシック映画BBS
http://www1.rocketbbs.com/313/cla_bbs.html
ハリウッド古典DVD(含海外版)を中心とした話題が楽しいです。
■ シンシティ |
Date: 2005-10-02 (Sun) |
キチガイと娼婦と警官しか出てこないバイオレンス映画です。鬱屈したやりきれない70年代っぽい重さが上映時間を長く感じさせながらも、その時間に浸れて素晴らしい。70年代といっても、ピーター・ハイアムズのどーしょーもないやつとか、『ビッグマグナム77』みたいなやつのことよ。
いまハリウッドで撮るとみんなトニー・スコットの出来損ないみたいなものにしかならないのに、アンチハリウッドとして襟を正して筋を通しているのがよくわかる。まあそういってもワインスタイン製作をメジャーなのかどうかによりますが…。最早そういう議論がもう無価値なのかもしれないが、
でもR-15さえもキツイ、グロなシーンが満載で、かなりの客は、ドン引きだったよ。
これは『キルビルvol.1』の脳内オレ映画を洗練させた、コミックの一コマ一コマへの偏愛というか、画のインパクトを最大限に追求した、フランク・ミラーの美意識の勝利なのではないかと思う。映画監督がカットやシーンで語ろうとすることをコマ割のレベルですべて処理しようとする濃密度。観ていてこちらに求める集中力が、映画というよりはコミックを読み興奮するあの感覚に似ているような気がする。カットの持続時間が、いままでは劇映画ではタブーに近いことを徹底的にやり通した意固地さがすごい。
一番好きなシーンは、ガソリンタンク、鉄条網、チューブ、鉄ノコ、が次々に出てくるだけのところ。なんかハッとしたんだよね。あんな撮りかただれもしていなかった気がする。コミックの描き方としてはなんの変哲も無いんだけどさ、まるでアート映画(死語)のようにみえた。なんだろうね。
■ 撮影監督 |
Date: 2005-09-25 (Sun) |
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/487376257X/qid=1127612147/sr=8-1/ref=sr_8_xs_ap_i1_xgl/249-7537048-8710733
「キネマ旬報」映画史観に則った本造りのような気がして、内容も含めなんか入り込めませんでした。取り上げているキャメラマン(撮影監督)は劇映画から文化映画、ドキュメンタリー、CMまで幅広い人選でありそれ自体魅力的なのですが、インタビュー対象よりも、聞き手の思い込みの方が前面に出ていて、ありていなことしか訊いていないのが残念。それでもいままでの類書に出てこなかった人も多く取り上げられているので本屋でご一読を。
m@stervision氏のリンクが久しぶりに覗くと更新されてましたね。巡回サイトが増えそうです。
そーいえば、拙サイト名、Imprinted Ager's HOMEPEGE→PAGEに直しといてもらえませんか、m@stervision兄。
■ ランド・オブ・ザ・デッド |
Date: 2005-08-28 (Sun) |
なんか懐かしい70年代後半から80年代初頭のアメリカ映画みたい。ニューシネマが終わり、ブロックバスターの時代が来るそんな頃の雰囲気。キライじゃないけどね。いかにもロメロらしい視点と言えば言える。ちょっと政治的な部分が全面に出すぎだけど。白人VS有色人種ならなんで主人公が白人なのかという根本的な疑問はあるが、まあ、アクション映画として登場人物たちの使い分けはいい感じ。少なくともジョン・カーペンターの気恥ずかしさはない。
ただね、すべてが中途半端なので肩透かし感は否めないデス。『死霊のえじき』の頃から違和感があった、「知能があるゾンビ」を拡大解釈したのがダメな部分じゃないかなあ。感情移入できないデクの坊に準主役的な役割をあたえちゃマズイでしょ。作り手の意図が直接的に見えすぎちゃって逆効果だと思う。それならもっとフランケンシュタインのような物悲しさがないと。あれじゃリストラオヤジの逆ギレにしかみえん。あくまでゾンビはゾンビであって射撃の的である方が観客は爽快感があるんだよねえ。
いつの間にか「ゾンビ獲りがゾンビに」なってしまったようです。寝かしすぎの題材なのかなあ。
低予算だからか全部を夜間にしたのは正解。ただ照明が80年代っぽかったのがどうでしょーか。今ゾンビを映像化するなら『ドーン・オブ・デッド』のリアルな撮影の方が良かったな。だいたいロメロはユーモアが上手くないから、笑うのかどうなのかハッキリしないままで進んで行く、中途半端な緊張感の部分は相変わらずだねえ。でも説明ギリギリのカットの少なさで描く演出は久々に冴えている。
■ みこすり半劇場 生搾りスーパーDX |
Date: 2005-08-13 (Sat) |
中野貴雄監督によるシリーズ第二弾。前作は『キル・ビルVol.1』だったが、今回は『007』ネタ全開だ!予算も多少パワーアップしているので、撮影の安っぽさが無い。合成ショットのアイディアなんかも前作よりも格段に巧く見事に効果が出ている。
いつものような伏線の広げ方と回収が無いのは、元ネタがそもそも破天荒なものだからかな。オープニングタイトルの裸の女性のシルエットにゆらゆらとした映像が映るところで大笑い。よくやるよ(ホメてます)。
たぶんいまさ、007モノのパロディーとか作るとさ、なんかオシャレなものにしなきゃならんと得体の知れない自己検閲が入って、『オースティンパワー』のような世界に逃げちゃうんだろうけどね普通は。東洋人が白人の真似するプロモーションビデオみたいなやつね。
でもさ中野監督の場合はさ、テレビでやっていた「かなりカットされ、CM入り、日本語吹き替え」を「家族とお茶の間で見てしまう」映画こそが、映画じゃんというスタンスが見えてくるような気がするんですよねえ。
そのリズム感が同世代としては非常によくわかる気がしますわ。
それにしても、女の子たちの会話で、演じきった部分と素に戻るところのギャップの台詞回しの楽しさよ。カッコかわいいでもマヌケなヒロインたちというのはこの人の独壇場ですね。
お父さんは前作の方が良かったっス。
http://www.tmc-ov.co.jp/oscar/dos012/
■ プロデューサーズ |
Date: 2005-07-16 (Sat) |
メル・ブルックス原作の映画を、ブロードウェイでミュージカルコメディにして、トニー賞を総なめにした舞台。こういう公演があること自体全く知らなかったのですが、お誘いがあって新宿厚生年金会館に行く。
やーあ面白い。ひねって斜に構えた方が格好良い、なんて価値観を見事に吹き飛ばしてくれる、ザッツ・エンターテインメント!!圧倒的な完成度に唸るし、脇腹が痛くなるほど笑った。わざと古風なミュージカル・コメディにしているのかなと思ったけど、舞台ならではの観客の拍手と笑いが、また役者に力を与え一体となって楽んでいく。ああこれが娯楽なんだなあと感じました。
なんか中学生くらいに戻った感じ。素直に面白いものを観て面白いと思う気持ちが心地よかった。
時間とおカネのある人は是非。
http://www.theproducers.jp/
■ 宇宙戦争 |
Date: 2005-07-01 (Fri) |
911をテレビで見ていて「オレの方がうまくやれる…」と呟いただろう、スピルバーグがアメリカ本土を戦争状態にしてしまった恐ろしい映画。
もっと恐ろしいのは、それをテーマ性をまったく度外視して、テクニックだけで作り上げてしまったことだ。
久々に裏スピルバーグが炸裂して、『激突』『ジョーズ』から『ジュラッシック・パーク』に至る恐怖とサスペンスが、『シンドラーのリスト』から『プライベート・ライアン』に至るリアリズム・ゴアが、『未知との遭遇』から『E.T.』の夜間の燦めく光の洪水が、とスピルバーグ印のオンパレードのなんで、それらの見応えのあるイメージに、やっぱりこういうものをやると凄いわと唸る。
もはや、どこがCGなのか実写なのかまったくわからないVFXのすごさよ。特に冒頭から30分は徹底的に圧倒されまくる。
予想通り、ほとんどストーリーや人間ドラマは存在しない。テロ後の世界云々はあるけど、それは恐怖を煽る背景に過ぎない。
しかし、ここまでリアリズム描写を追求する意味がどこにあるんだろうかねえ。確かにテクニックだからCGだからウソだからいいじゃん、と言われればそれまでだけどさ。大量殺戮を微に入り細に入り喜々として描いているから、観客はドン引きになる。
映画じゃなく見せ物だからと納得できる人なら良いけどさ、リアルなスプラッターはスナッフフィルムとどこがちがうのかということですな。
ヒトを嫌な気分にさせてまで、本物そっくりなウソを作り出すことに意味があるのだろうか?果たしてここまでの臨場感が必要なのか?
効果のための効果でしかないのだが、スピルバーグの場合は単純に物語の要求するレベルを越えてしまうからなあ。
■ ここはブログではない |
Date: 2005-06-29 (Wed) |
全然映画館に行ってないねえ。まあそういう気分の周期なので仕方ないですが。『宇宙戦争』と『惑星戦争死すの復讐』は観に行くでしょう。あとゾンビの新作はいつやるのかなあ。
マトリックス商法のときも書いたけど、全世界同時公開は信用ならない。あとなぜ日本はハリウッド映画の公開が世界で一番遅いのか?スターウォーズはそうじゃないの?これは昔からそうだけどさ。ハリウッド映画の興行収入のかなりを日本市場が占めているはずなのに、こういう状況はいつまで続くんでしょうかね。世界一高い料金とさ。
それはともかく、ここ半年ビデオで観た作品の批評を少しずつ書いていこうと思います。防備録的な内容なので、面白くなかったら中止するつもり。
あとそろそろ新しいページをはじめますね。いままで放置しているページも多いのでリンク切れとか古い内容は直します。
■ 徒花時代劇江戸見参 |
Date: 2005-06-06 (Mon) |
『十兵衛暗殺剣』 倉田準二
6/22(水)〜28(火)浅草名画座
http://homepage3.nifty.com/showcine/koya/asakusameiga.htm
『忍者狩り』 山内鉄也
6/24(金) 16:00/19:00 アテネフランセ文化センター
http://homepage3.nifty.com/showcine/koya/atheneefrancais.htm
まだちょっと先ですが防備録として。
両方とも観てないですので説明できません。詳しいことは検索してください。去年の京都映画祭で上映されたのと同じでしょうから、たぶんニュープリントじゃないかな。浅草には行きたいが、もう一方はどうかな。
■ HDカメラ戦争本格化?! |
Date: 2005-05-31 (Tue) |
劇映画のデジタル化では、ソニーのシネアルタ、パナソニックのバリカム、GrassValleyのVIPERがお馴染みだと思いますが、去年HDVという規格ができてようやくオモシロイ製品が出てくるようだ。
http://www.watch.impress.co.jp/av/docs/20050420/zooma202.htm
これらは基本的にはハイビジョンテレビ番組用カメラという位置づけだけど、上記の映画用カメラの民生版という性格もある。実際にどれくらいのモノなのかは夏以降に明らかになってくる。久しぶりに各社の個性が出ています。あとは価格がどうなるかだけどね。
■ 香港映画のすべて |
Date: 2005-05-24 (Tue) |
昨夜、NHK-BSで放映していたんだけど、最初の1時間を録画失敗(涙)。香港映画素人の私にもわかりやすくたいへん勉強になりました。
日本、シンガポール、香港の共同制作によるドキュメンタリー番組
60分×3回 「武侠映画の盛衰」 「カンフー映画のヒーローたち」 「銀幕の女神たち」
うーん再放送してほしい。(まあやるとは思うけど)
こういうカンジで海外では販売しているようです。
http://www.brns.com/pages4/doc2.html
で、今日の深夜0:45からはキンフーの「大酔侠」です。
■ それでもプロ野球が好きだ |
Date: 2005-05-04 (Wed) |
昨年のゴタゴタがあり、もうプロ野球のファンは止めようかと思っていた。5月3日、友人に誘われるがままに快晴の千葉マリンスタジアムに行く。老若男女で満員の球場は、千葉ロッテマリーンズが連勝中だからだろうか、楽しみに来ているぞという雰囲気が心地よい。
隣の席では「ウチのチームの応援団はねえ、読売なんかと違うんだよね」と試合中ずっとうんちくをたれるオッサンが陣取っている。ここでなければ会わない人たちが、普段の生活では言葉を交わす機会もないような人たちと、ただプロ野球好き、チームが選手が好きなだけで意気投合してボールの行方にハラハラドキドキする。
もちろん福浦の決勝タイムリーのときは、一緒に座席から立ち上がり大声で叫び拍手をする。
選手もヒットで塁に出ると必ず片手をライトスタンドに向けて上げて声援に応え共に戦っているのがわかる。
驚いたのは、あわやセンターオーバーの大飛球を、敵チームのセンター関川が後ろ向きキャッチの大ファインプレーをしたときに、どこからともなく大きな拍手が起こったことだ。今日の試合ではほぼ9割が地元ロッテファンで埋め尽くされているのに一体だれが拍手したんだ?友人はこともなげに「そりゃロッテファンだよ。関川もそれに応えてライトスタンドに向けて帽子に手をやってた」という。こういう風景ははじめて見た。なんかすごくいいな。一番感激した。まあその一方で楽天の連敗に対しては「あの記録的連敗の苦しみを味わってみるんだな」と辛らつだったりする。それはそれでもこのチームを見捨てなかったファンとしての自負の裏返しなのだろう。
来週からセリーグパリーグの交流試合がはじまる。そう去年のストライキで勝ち取ったものだ。千葉ロッテマリーンズでは相手チームとゆかりのあるOBが始球式をするという。誰がくるのだろうか楽しみだ。オールドファンとしては、ビール片手にぜひ往年のうんちくを語り合いたいものだ。
まだプロ野球ファンはやめられそうもない。
■ 映画戯言 |
Date: 2005-04-28 (Thu) |
ジョージ・A・ロメロ『Land of the Dead』の予告編。
アーシア・アルジェントが出ているのね。デニス・ホッパーも。
http://movies.yahoo.com/feature/georgearomeroslandofthedead.html
ちなみにパブリックドメインになった『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』はここで観られます。DVD画質で全編ダウンロードも可。
http://www.archive.org/movies/movies-details-db.php?collection=feature_films&collectionid=night_of_the_living_dead&from=mostViewed
「紫陽花や山田五十鈴という女優」
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4794212615/qid%3D1114660616/250-8485397-1815439
うーむますます横穴が広がる。東宝舞台かあ…。菊田一夫かあ。戦後独立プロの映画にやたら出て「人民女優」と呼ばれていたのは再々婚相手の加藤嘉の影響だったのか。
「マッカーサーとチャンバラ」
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4770408412/qid%3D1114660648/250-8485397-1815439
著者の小川正は脚本家で、東映のお子様映画「新諸国物語 笛吹童子」など大量に書いてます。またシナリオ作家協会の立ち上げにも噛んでます。
でここに書かれた彼の姿はシナリオライターというよりも映画ブローカーだったりします。彼の人脈やコネをフル活用して映画企画をまとめ上げて映画会社から斡旋料を巻き上げる。それは痛快というか唖然とするほど面白い。
戦後チャンバラ映画が撮れなくて困っていた大映の永田社長に話を持ちかけ、GHQの知り合いと賭けゴルフで勝負して見事に勝って検閲をパスさせた。
「笛吹童子」の企画を出しシナリオを書いて大ヒットさせ、同じ原作者の話を次々と映画化するが、話が無くなったのでこちらがシナリオを先に書いて映画化したら、東宝が原作者の家にあったそのシナリオを基に映画を作ったので同じ映画が同時に出来てしまい、こちらが原作を書いていない原作者とそれを買った東宝から訴えられた、など現場サイドとは全然違う話が続々出てきます。
東映の社長、大川博、プロデューサーのマキノ光雄、常務の伊勢憲三郎、東宝の森岩雄、滝村和男、松竹専務の高村潔、俳優ブローカーの星野和平らが世評とは違った面が人間臭く書かれています。これもまあ「映画渡世」の副読本だなあ。これにくらべると現場は純情だね。
「新諸国物語」シリーズはこちらで配信中
http://www.movie-circus.jp/index.html
「山田宏一のなんでも映画誌」の連載のどこかにゴダールとトリュフォーの決裂について書いてあったので、トリュフォー書簡集を書棚の奥から取り出し当該のページを探す。分厚くて大昔買ったのだがほとんど読んでいない。早く邦訳してもらいたいな。
…けっこう辛らつ。ゴダールが「映画史」の本で罵っていたのよりも烈しく的確だったりする。ゴダールに『アメリカの夜』についてハリウッド女優のジャクリーヌ・ビセットとレストランから出てくるシーンをなぜ撮らなかったなどと揶揄されているが、トリュフォーはならば君の映画にはなぜジェーン・フォンダが出ているのだ、また監督の気分が乗らないからといって小道具係りが飾りつけたロケセットを勝手にキャンセルするような所業は、マーロン・ブランドなどのハリウッドスターのわがままとどこが違うのかと、ゴダールのそれが単なるイヤミに対して、トリュフォーは真正面から心臓を貫くような真摯な内容を書き連ねる。ゴダールもこの書簡集の序文をそれでも書くのだから大した奴だ。
山田宏一のなんでも映画誌
http://channel.slowtrain.org/movie/column-eigasi/index.html
フランソワ・トリュフォー書簡集
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/0571141218/qid=1114674935/sr=1-17/ref=sr_1_0_17/250-8485397-1815439
■ Charley Varrick |
Date: 2005-04-25 (Mon) |
ドン・シーゲルの傑作というか、私的映画史上No.1である『突破口!』がアメリカでDVD発売されているようだ。だけど購入者レビューを見ると「何でワイドスクリーンと表示されているのに、スタンダードサイズなんじゃいボケェ!」という怒りのコメントで溢れている。うーむユニバーサルの廉価版なんでそのうちに日本でも発売されると思うけど、ま、同じだろうね。ドン・シーゲルに相応しい仕打ちだと言えるだろうが(涙)。
http://www.amazon.com/exec/obidos/tg/detail/-/B0003JANSW/qid=1114431342/sr=8-1/ref=pd_ka_1/104-8367942-8627116?v=glance&s=dvd&n=507846
『ジンクス!』
未公開だけどwowwowでは何度も放映しているシーゲル作品。ちょっと高いよなあ。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B0007N3534/250-9050385-3913839
■ スピルバーグ暦 |
Date: 2005-04-24 (Sun) |
太陽暦太陰暦イスラム暦と、いろんな暦がありますが、私だけに通用する映画に関する暦はスピルバーグだなあとふと思った。映画を観始めてからいままでこの時期なにをしていたのかなあと考えるとき、スピルバーグのあの映画がやっていた頃だよと当時の記憶が甦ってくることに気づいた。
中学高校時代が『未知との遭遇』(1977) と『ET』(1982) のあいだだった。そのころはカネと休みの限りできるだけ映画というものはすべて観たいと貪欲になっていた頃かもしれない。『1941』(1979)とかあったけどね。
そのあと製作総指揮という言葉が頻繁に使われるようになり、ジョン・ランディス、ロバート・ゼメキス、ジョー・ダンテの勢いに押されるようになった。その頃はヨーロッパ映画とか古典など観ていた時期だなあ。子どもっぽいスピ映画はもういいとか思っていたかもしれない。
社会人になってから、ほとんど映画を観ない時期が続いた。その頃のはリアルタイムで観てない。『カラーパープル』(1985) でアカデミー賞が獲れなかったころだ。そのあと迷走して、『太陽の帝国』(1987) 『オールウエイズ』(1989) 『フック』(1991) なんかかな。忙し過ぎて映画を観るヒマもなかったし、『シンドラーのリスト』のように楽しませてくれる映画も作っていなかった。
『ジュラッシク・パーク』(1993) と『プライベート・ライアン』(1998) でぶっ飛んで、中坊精神が戻ってきたネ。PCやネットに触り始めた時代だ。このあたりからまた映画を観始めた気がする。最近はあまりまたスピルバーグ映画を映画館で観なくなって来たなあ。なにかの周期でしょうかね。『宇宙戦争』は少し行きたいのですが、どうでしょうね。
<スピルバーグ作品暦>
http://www.allcinema.net/prog/show_p.php?num_p=3617
■ 生誕百年特集 映画監督 稲垣浩 |
Date: 2005-04-20 (Wed) |
http://www.momat.go.jp/FC/NFC_Calendar/2005-04-05/kaisetsu.html
20年前だったら、とにかく通って全部観ただろうな。そこからしかなにも語れないのだけども我ながら怠惰になったものだ。わたし的に今年は時代劇映画強化年間と勝手に決めているので、この企画を逃すのは非常に惜しいというか、これを逃して何をかいわんやですナ、ホントは。
時代劇映画の背景とか世相とかさ、知らないとうかつには書けないことがたくさんあることにようやく気づいてきたわけですよ最近。時代劇映画という括りさえ大雑把過ぎるし、実はイナカンの位置すらよくわかっていない。まあそれならまず観てから言えよ、とそれだけでも違うんだけど、まだその余裕がないというのが本音のところなんで、そう言い訳するとまた最初に戻るわけなんですが…。
「ひげとちょんまげ 生きている映画史」稲垣浩 S41 毎日新聞社
軽妙洒脱に書かれた日本映画界のエピソードを現場の眼から書くとこのようになるというエッセー集。確か中公文庫でまだ手に入るはず。大昔に一度読んだけど全然憶えていないというか勉強していなかったからね当時はわけがわかんなかったと思う。
撮影所用語の面白さ、映画製作のどたばたを誰にでもわかるように書いている。カーボンライトの照明で充血した眼を治療するにはリンゴやジャガイモをすったものをガーゼに包んで目を冷やした。御殿場で馬を使った撮影をするのは陸軍の演習地で軍馬が飼育されていたから。阪妻は横暴だと伝説にされた「ハイ御大のアップ頂戴ッ」事件の真相とか。楽しい話が詰まっています。
「日本映画の若き日々」稲垣浩 S53 毎日新聞社
前半が映画から見た京都地名案内、後半がわが交遊録と常談、戯談というエッセー。いやみのない文章なので読んでいて楽しいです。たぶんにマキノ雅弘「映画渡世」のサブテキストとして盟友稲垣本はお手ごろかと思います。
「映画監督五十年」内田吐夢 S43 三一書房
鈴木尚之の「私説内田吐夢伝」と併せて読むと、内田吐夢の複雑さとそのスケールが一層明らかになってくるように思える。壮大なまで大上段に構え芸術とはなにか悩み葛藤しながらも、その実の部分がなかなか見せな、大柄な外見とは違う内省と抽象的な思考と実生活の破天荒さ老獪さ、たぶん心象の景色が凡人とは全然違うんだろうな。
半生記というか、シナリオ調の文体で書かれているので、内田吐夢の映画みたいな無骨さで貫かれている。
「時代映画と五十年」八尋不二 S49 学芸書林
八尋不二は、山中貞雄を中心としたシナリオ合作チーム鳴滝組のひとりだったシナリオライターといえばわかるだろうか。
時代劇を中心にサイレンと時代から各社で書いてきている。彼の仕事と日本映画の歩みと映画人たちのエピソードが、シナリオライターならではの距離を置いた観察眼を持って書かれている。竹中労の日本映画縦断とはちがう視点から書いているので補う意味でも立体的になる。山上伊太郎など交友のあったから書けることだと思います。
やはり鳴滝組に一番多く記述が割かれている。いいかげんな偶然が重なり鳴滝組が出来たエピソードは笑える。鳴滝組の一番の成果は合作システムの構築ではなく、時代劇映画のセリフを現代語に置き換え「ちょんまげをのせた現代劇」を生み出したことだと言う。
それまでの美文歌舞伎調のセリフを市井の人間が喋る言葉に変えていったという改革的な部分、伊藤大輔に代表される昭和初期の傾向映画の悲壮感ではなく、ロマンのある楽しい時代劇を作ったことにあるという。
「百八人の侍 時代劇と45年」八尋不二 S40 朝日新聞社
「時代映画と五十年」の十年前に書かれた本で、内容は基本的に同じです。加筆と写真が多い「時代映画と五十年」の方が定本になるでしょう。
「映画と小道具 その道五十五年」南正守 監修稲垣浩 S54 高津装飾美術
なぜか図書館に所蔵されていた限定2500部の本。映画の小道具専門店として知らないものはない高津装飾美術の社長の半生を記述した本。
京都の古道具屋だった高津新古道具店に勤めだした大正11年の頃、偶然マキノ映画撮影所からの依頼で小道具をレンタルしたところから映画との付き合いが始まる。当時は舞台小屋芝居に使われるような小道具ばかりだったものをリアルな生活小道具に置き換えたのが映画小道具のはじまりだった。映画産業の成長とともに事業を拡大して、リヤカー一台で毎日京都中の撮影所を回ったそうだ。日活の多摩川撮影所ができるとともに調布に進出し、東京での基盤を固める。
本書は社内報をまとめたものから多くがなるので、商いの心得の話が多いのだけど、映画製作の裏側、小道具調達の苦労のエピソードも多く語られる。古道具といってに国宝級の武具馬具もあり、洋風家具、中国風家具なども取り揃えて、映画のみならず舞台、テレビでも利用されている。
ただ言われたものを持ってくるのではなく、シナリオを読み、当時の風俗を研究して、映画として見るに耐えられるセットを作り上げる審美眼を持ち、予算の配分も出来、シーンの設定で壊すような小道具もきちんと作れ、足りないものは自社で制作する。日本映画を縁の下で支えているパートがよく理解できる。
京都時代からの友人である、稲垣浩監督が監修を務め、対談も三船敏郎、杉村春子、伊藤大輔、衣笠貞之助と多士多彩だ。
■ 映画人烈伝 |
Date: 2005-04-08 (Fri) |
http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/4878922419.html
読み方はカツドウヤレツデンです。映画監督関本郁夫が出会ったカツドウヤたちがなんと活き活きと描かれていることか。加藤泰やプロデューサーの天尾完次、スケバン映画の女の子たちの現場の熱さに泣けます。
ただ余計なことだけど、私は70年代の日本映画はダメです。特に東映映画は。いやたぶん観たら面白いんだと思いますが、この時代を未成年として過ごした者としては息苦しいのです。客観的に無邪気に楽しめないですね。そのあたりの距離感がうまく掴めないいまだに。まあ当時のやるせない閉塞感みたいな空気をいまさら追体験したくないんでしょうね。どうもすぐ、ひと気の無い昼間の寂れた呑み屋街の外れの電柱にあった、雨で紙がぐずぐずになった地元の映画館の立て看板、極彩色のポスターを思い出してしまうんですね。あれこそ悪所というかまともに見ちゃいけないものだったんですね、ぽっかりと空いた理解できないブラックホール。街で見かけた傷痍軍人のように、思わず眼をそらしてしまっていたのです。そのあたりが整理されれば観るかもしれないです。
それはともかく監督小沢茂弘のインタビューがおもしろ過ぎる。易者になったヒトとばかり思っていたがそうではなかった!
「(前略)映画っちゅうもんはね、根本的にはロマンですよ。夢ですよ。そして相剋ね。これがドラマツルギーの基本ですよ。正しいか悪いか抜きにして、戦いがあって、弁証法的に一つの危険に進んで行くわけでしょう。ロマンがあって相剋……相剋のもっとも具体的なものはアクションだけど、アクションだけじゃないからね。状況、境遇の相剋ってこともあるんだから、これを外してしまうと劇場用映画の基本から外れると思いますよ。お客さんはやっぱり夢とロマン、そして壮絶な相剋が見たいし、それはおもしろいからでね、この基本は何十年たとうと変わらんと思いますよ。ただその描き方にね、ファッショナブルなところがあるんです。流行とか、感覚とか……。だからそれにズレていると、なんやこの映画、古いワ(笑)。だけど基本は変わらん。今の若い人はその基本をどっかに忘れてしもうて、ファッションだけ追うでしょう。そのへんがチグハグだと思うんだよね。そのときの流行みたいなことやって、何か一つテクニックを見つけるとそればっかりで……だけどすぐに飽きられるワね。創意工夫、アイディア、そしてアンサンブル……これは長年やって来んと分からんもんですよ」
■ 落ち穂拾い |
Date: 2005-04-07 (Thu) |
さいきんの公立図書館はここ数年の本しか開架してないので、残りはピンポイントで検索するしかない。で戯れに分類番号778.2を入力してみると、あーら不思議1500件くらい出てくるので根気良く眺める。この図書館ではかなりいろんな本を漁ったと思ったけど、古本屋でもamazon.comでもあまり見かけない本が次々と出てきたので喜んで借りて帰る。
「日本映画の若き日々」稲垣浩
「ひげとちょんまげ 生きている映画史」稲垣浩
「映画監督五十年」内田吐夢
「百八人の侍 時代劇と45年」八尋不二
「時代映画と五十年」八尋不二
「映画の都のサムライ達」八尋不二
「カメラマンの映画史 碧川道夫の歩んだ道」山口猛編
「映画人烈伝」関本郁夫
「映画と小道具 その道五十五年」南正守 監修稲垣浩
「神州天馬侠」吉川英治(…これはちがう)
「荒木一郎 ベスト・アンド・ベスト」(これもちがう…か)
■ 連載もの |
Date: 2005-04-02 (Sat) |
図書館に行く機会があれば、さがして読んでみてください。
毎日新聞、日曜版連載
「快楽亭ブラックのヒーロー回復にこの1本」
日本映画のシリーズもののおもしろさをひたすら書いています。マニアックになり過ぎていないので読みやすいかも。
小説新潮、隔月連載
長部日出雄「天才監督木下恵介」
小説家長部日出雄が木下恵介とその作品について詳細かつ半端でなく資料等を読み込んで書いています。ものすごく読み応えがあります。
■ 4月のNHK-BS |
Date: 2005-04-02 (Sat) |
個人的な防備録なんで、誰にでもオススメな映画が抜けていたりします。それはリンク先のBSのホームページをご参照ください。
http://www.nhk.or.jp/bs/navi/movie_td.html
http://www.nhk.or.jp/bs/navi/movie_fw.html
4月5日(火)後1:00〜2:38
「武蔵と小次郎」1952
監督:マキノ雅弘 松竹京都
深夜0:30〜2:26
「父よ」2001
監督・原作・脚本:ジョゼ・ジョバンニ
4月6日(水)後1:00〜2:33
「鞍馬天狗 鞍馬の火祭」1951
監督:大曽根辰夫 松竹京都
後8:00〜9:32
「さすらいのカウボーイ ディレクターズカット版」1971
監督:ピーター・フォンダ
脚本:アラン・シャープ
撮影:ビルモス・ジグモンド
4月7日(木)後1:00〜2:33
「天下の伊賀越 暁の血戦」1959
監督:松田 定次 東映京都
4月8日(金)後1:00〜3:03
「新選組」1969
監督:沢島 忠 三船プロ
4月11日(月)後1:00〜2:46
「大菩薩峠」1960
監督:三隅研次
4月12日(火)後1:00〜2:31
「大菩薩峠 竜神の巻」1960
監督:三隅研次
後3:00〜4:44
「ララミーから来た男」
監督:アンソニー・マン
脚本:フィリップ・ヨーダン、フランク・バート
4月13日(水)後1:00〜2:39
「大菩薩峠 完結篇」1961
監督:森一生
4月14日(木)後1:00〜2:20
「鯉名の銀平」 1961
監督:田中徳三
4月15日(金)後1:00〜2:28
「中山七里」1962
監督:池広一夫
4月15日(金)後2:30〜4:59
「シマロン」1960
監督:アンソニー・マン
4月18日(月)後1:00〜2:37
「蛇姫様」1959
監督・脚本:渡辺邦男
4月19日(火)後1:00〜2:31
「陽気な殿様」1962
監督:森一生
4月20日(水)後1:00〜2:44
「女と三悪人」1962
監督・脚本:井上梅次
4月21日(木)後1:00〜2:35
「忠直卿行状記 」1960
監督:森一生
4月22日(金)後1:00〜2:26
「手討」1963
監督:田中徳三
4月25日(月)後1:00〜2:10
「エノケンの法界坊」1938
監督:斎藤寅次郎
4月26日(火)後1:00〜2:23
「エノケンの怪盗傳 石川五右衛門」1951
監督:毛利正樹
4月27日(水)後1:00〜2:27
「女次郎長ワクワク道中」1951
監督:加戸敏
4月28日(木)後1:00〜2:34
「女ざむらい只今参上」1958
監督・脚本:渡辺邦男
脚本:関沢新一
4月29日(金)後7:45〜9:47
「幕末」1970
監督・脚本:伊藤大輔
4月30日(土)後1:30〜4:35
「エル・シド」1961
監督:アンソニー・マン
脚本:フレドリック・M・フランク、フィリップ・ヨーダン
■ 『仁義なき戦いをつくった男たち』深作欣二と笠原和夫 |
Date: 2005-03-28 (Mon) |
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4140808543/qid%3D1112015401/249-3318585-1617934
うーんあまり悪口は書きたくないんだけど、「仁義なき戦い浪漫アルバム」との違いや熱さを思うとどうなんでしょうか。NHKがヤクザ映画を教育テレビで取り上げたという点だけで成立しているような気がするのだけど。
時代が求めているのは上記の「仁義なき戦い浪漫アルバム」のような本じゃないでしょうか。
内容的にほとんどどこかで読んだようなものというのが惜しい。山根貞夫の随所に出る概論も、「映画監督 深作欣二」にこれを挟み込めば良かったのにと思う論評なのだが。
たぶんに作り手たちはドサクサに紛れて笠原和夫の取材ノートを披露したかったのだろう。その再録の部分は確かにおもしろいが、でも「昭和の劇」で既にやっているよね。
このように天邪鬼に思ってしまうのは、私の興味のベクトルが異なるからかもしれない。普通におもしろい本ではあります。
■ プロデューサー金子正且の仕事―その場所に映画ありて |
Date: 2005-03-14 (Mon) |
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4898301789/qid=1110804622/sr=1-2/ref=sr_1_8_2/249-1449259-3689108
東宝のプロデューサーとして知られる藤本眞澄のもとで助手からそのキャリアをはじめ、99本の作品をプロデュースした。日本映画の黄金期にそのほとんどはあたっているので、有名な作品や監督も、無名な監督や作品も同様にある。残念ながら私はあまり東宝作品には縁がなく観ていないものがほとんどなので、本書の価値がよくわからないのです。でもこの本を読んで興味を持ち観てみたい作品がたくさん出てきた。そのときに読み返したいです。また銀座の名画座、並木座の代表取締も最後まで務めていた方でもあります。
金子正且の仕事
http://movie.goo.ne.jp/cast/90677/index.html
「時代風俗考証辞典」
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4309222528/qid%3D1110805003/249-1449259-3689108
昭和40年代にテレビで時代劇制作ブームがあったらしい。著者はそこで時代考証として現場に入り、なるべく確かな時代風俗を描くことを示唆するあまりに、シナリオのセリフ直しどころか、シナリオ書き、現場に張り付いて小道具、着物に目を光らせる役まで引き受けることになる。
それでも書斎派学者先生と違い、まあ面白く画面が映えるのならば、多少の嘘は良いんじゃないという姿勢は彼が大映撮影所で働いた過去があるからだろう。
ここで「映画なにするものぞ」という当時のテレビ人たちの意地が見えるのは、彼を関西でテレビの世界に引き込んだのが澤田隆治だったりするからだ。
それはともかく、いろんな知らないことがわかります。
座布団はプライベートなものだったので、客に出したり、客前で主人が座ることが無かった。
商家の看板で家の屋根に横書きで書かれるようなカタチのものは無く、通りから見えるように縦に書かれたり店の前の路上に置かれた箱型の看板だった。
燈籠鬢という浮世絵でよく見る女性の髪は江戸の後期のもので、それにより髱(たぼ)という襟足の部分が下がるために、着物が汚れるのを嫌い、着物の襟を後ろに下げる着付けの風習ができたという。なのでそれ以前の時代では襟はしめて着付けをしていた。
まあ時代劇はほとんど歌舞伎の美学の踏襲のような気がするし、言われなければ気がつかないものだろう。サブテキストとしても大変面白いです。
■ ビッグフィッシュ |
Date: 2005-03-03 (Thu) |
DVD。
しまった普通に良い映画を観てしまった。ティム・バートンのビジュアルの上手さもあるけど、まず原作アイディアとシナリオの勝利。死期の迫った父ともうすぐ父親になる息子の和解の話となったら、その時点でできた!ってもんでしょうね。そこにアメリカ民話というかホラ話が絡むんだからさ。これだけ揃った素材を一流の料理人が作るのだから、あと美味いかどうか感情移入できるかどうかはこっちの問題ですな。
バートンの映画から悪意の塊が消えて久しい気がするが、こういうカタチの監督になっていくのもありなのではないでしょうか。まさに正しいディズニー・スタイルだよね。
ラストシーンを観ていて、『8 1/2』を思い出すのでしょうが、昨日夜中テレビで放映した『オール・ザット・ジャズ』を観て、人生は走馬灯のようだとなるとこっちの方に近いのかなと思った。もちろん『オール・ザット・ジャズ』の面白さも再確認。
■ いろいろ |
Date: 2005-02-28 (Mon) |
「ハリウッド、危険な罠」「ハリウッド、葬り去られた真実」
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4594023215/qid%3D1109597005/249-0801348-1992337
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4594023010/qid=1109597022/sr=1-1/ref=sr_1_8_1/249-0801348-1992337
ハリウッドに在住したアイルランド人記者による「ハリウッドバビロン」の落ち穂拾いのような内容です。
ヴィッキー・モーガン (レーガン政権の要人の愛人、役者の卵) 精神病院に入院していた男により撲殺。
ロイ・レーディン (ニューヨークのB級芸能プロモーター。 コットンクラブ殺人事件の被害者) 何者かに砂漠に連れ攫われて射殺。
ボブ・クレーン (テレビ役者。自分と女友達のセックスビデオをコレクションする癖) 何者かにより撲殺。 ポール・シュレーダーが事件を映画化。
ギグ・ヤング (アカデミー賞俳優『ガルシアの首』『死亡遊戯』出演) 新婚の妻を射殺し、自分の頭を撃ち抜き無理心中。
ジョージ・リーブス (テレビのスーパーマン) 映画会社の重役の妻と長年不倫関係。頭を撃ち抜き自殺。
アルバート・デッカー (『ワイルド・バンチ』の鉄道の男) 隠れハードSMマニア 浴室で自分を縛り窒息死。
他にもナタリー・ウッド、ウイリアム・ホールデン、マリリン・モンロー、インガー・スティーブンス、ジェーン・マンスフィールドなど。
アカデミー賞の裏側、ハリウッドリベラルの暗躍、ストーカー被害、ラクエル・ウエルチは映画会社を訴え勝訴したが完全に干されたなど、知らなくても良い余計な知識がたくさん仕入れられます。
アカデミー賞発表
『アビエーター』は監督賞以外の技術部門はとりましたねえ。これってスピルバーグやルーカスの扱いに似ているなあ。ハリウッド第9世代の呪いか。いまだにスコセッシは若造扱いなのだろうか。やっぱハリウッドの内幕モノはダメなのでしょうか。
昨日からテレビ東京ではじまった『新必殺からくり人』の再放送(月〜木)気になったので調べたら、昨日と今日が工藤栄一だった。あーあ観損なった。でも明日からは野上龍雄脚本、蔵原惟繕監督だ。最終話(3月中ごろ)が森崎東演出なので要録画だ。
http://homepage1.nifty.com/edonokuroneko/program/11sinkarakurinin.htm
ネットで『セルラー』の監督が『デッド・コースター』の人と読んで俄然観る気になる。
■ 照明技師 熊谷秀夫 降る影待つ光 |
Date: 2005-02-19 (Sat) |
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4873762529/qid%3D1108814760/249-9625182-9715569
必読!!面白く興奮させられ一気読了する。
照明技師、熊谷秀夫は京都大映に1948年に入社。溝口健二、衣笠貞之助らの作品に照明助手としてつく。その後日活に移籍して技師として活躍。鈴木清順、舛田利雄、浦山桐郎、小沢啓一、ロマンポルノ時代には、西村昭五郎、田中登、曽根中生、フリーになって長谷川和彦、相米慎二、勝新太郎、和田誠、坂東玉三郎などなどと組む。最新作は『透光の樹』。
これだけでもお腹いっぱいだが、これらのフィルモグラフィからていねいに照明の仕事とは何かを具体的にていねいにわかりやすく語っていて、美学的にも技術的にも映画製作の秘密の一端を解き明かす、類書のない最適な書となっている。
ともあれ本屋でこの本を手に取り、222ページの長谷川和彦のインタビューを読んでほしい。思わず血が逆流してしまいそうな聡明すぎる彼の言葉を読むだけで、日本映画における長谷川和彦の不在をこれ以上待てない気持ちになり、同時に彼にこれだけ熱く語らせたくなるベテラン照明技師とは何か知りたくなるだろう。そして照明技師を通じて日本映画の歴史がどのようにいまに繋がってきているのか少しずつ見えてくる、そのスリリングさといったらない。これぞプロのカツドウヤの仕事だ。
しかし、熊谷秀夫が今の日本映画界を見て思うことはありますか、と問われこう答えている。
「単館封切りとかで、映画の本数は増えてますよね。ただ、作ればいいというものではないと僕は思うんですよ。作りたくてうずうずしてる人はたくさんいるでしょうけど、作るからには責任を持たなくちゃいけない。我々はプロですからね。映画はお客さんが入ってナンボというものでしょう。観てもらわないと意味がない。結論はそこですよ。まずお客さんを満足させるということですよね。俳優さんを綺麗に見せるということも、そこに結びつくわけですよ。作ればいいという形は、お客さんに対して無責任だと思うんです。そこを徹底しているのはアメリカ映画ですよね。いかに見せるかと言うことで徹底してるでしょう。日本ならこんなところに予算はかけないだろうというところに、アメリカ映画はかけるんですよ。それでお客さんを引きつけているんだよね。日本はどうも、頭のいい人ばっかりが映画を観て、頭のいい人ばっかりが映画を作るからね、よけいに無駄がわかっちゃうんだな(笑) (後略)」
…でもあとがきに書かれた熊谷の師であり、溝口、宮川一夫との名コンビの照明技師岡本健一の言葉が素晴らしいので引用する。
「いい映画を作るなら金を使え。金がダメなら時間をかけろ。時間もダメなら頭を使え。それもダメなら汗を流せ」
■ 映画雑感 |
Date: 2005-02-17 (Thu) |
* 三池崇史の『妖怪大戦争』はいつできるのかなあ。元キネ旬編集長映画興行成績マニアの社長と二番煎じでも売れちゃえばOKな会長の会社が作る映画だからねえ。
* いま日本で一番作家主義に当てはまる映画作家は誰か?私は水野晴郎だと思う。冗談ではなく、自分で好きなシナリオで、映画を毎年作り興行をしている日本の個人映画製作者がどれくらいいるのかね?しかも自分で映画館の経営をもしている。もし名前を隠して欧米人の独立映画作家がこれをやっているといったら芸術家の理想だ!と絶賛する人はいるだろうな。『シベ超』の新作シナリオも先々まで完成しているらしい。これだけの情熱と実行力だけでも賞賛に値すると考える私はひねくれ者なのかな。でも加藤泰の遺稿『好色五人女』を監督するのだけはやめてほしい。
* そういう意味で加藤泰ができなかった東映時代劇の続きをいま山田洋次がやっているのではないだろうか。…一本も観てないけどね。加藤泰は作家の映画じゃなくてさ、彼が私淑した伊藤大輔の昭和初期の傾向映画の時代から連綿と続く、カツドウシャシンのカントクの流れに位置していることがようやく理解できたような気がする。
* 戦前のドイツの撮影所、ウーファの本が出たがまだ読んでいない。書評を読むとオモシロそうだ。
http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/gakugei/dokusho/news/20050130ddm015070128000c.html
■ 猿飛佐助 |
Date: 2005-02-07 (Mon) |
ビデオ録画。
若き日のフランキー堺が目バリを入れたキリリとした(?)猿飛佐助。いやあ身体が動く動く。コマ落としで追いかけっことかするけど、芝居の呼吸とかコメディの部分の仕草とか絶妙だねえ。音楽も彼のバンドのシティスリッカーズが担当。そのモダンさに驚け。当時のアメリカの冗談音楽を取り入れたバタ臭さが気持ち良い。そのあたりについては小林信彦が書いているのでご参照。
井上梅次の職人技を堪能。充分センベイをボリボリ食べながら楽しめます。ホント、プログラムピクチャーなんだけどさ、面白いんだよ。歌あり踊り(舞踊)あり音楽ありもそうだけど、役者の演技の付け方とかさキチンとしているんだよね。的確といったほうが良い。曖昧な余計な演出はしない。大雑把ということじゃない。わかりやすいがきめ細かいのだ。どこかね根底にサービス精神がいつも見え隠れしているんだと思う。
最後に切ない別れのシーンがあるのだけど、フランキーの演技はペーソスがあって説得力があるなと感じた。『幕末太陽伝』ののん気で楽天的だけどどこか陰のある感じに通じるんじゃないでしょうか。同様に観客の気分を暗くはさせないが、どこか明るく能天気には終わらせることができない、どこかに哀しみを入れたい監督の(脚本も)井上梅次という人も不思議だなと思った。
■ 真田風雲録 |
Date: 2005-02-06 (Sun) |
ビデオ録画。
びっくり、すごいすごい。なんでいままで観ていなかったのだろうか。加藤泰とミュージカル、戯曲の映画化、60年安保風刺。いろいろな余計な情報がなにか先入観を持たせていたのだろうな。
それにしてもこれほど様式的なコメディ演出、心躍る歌のシーンがうまいとは思わなかった。カットが切り替わる粋な瞬間がまさにカツドウシャシンのタイミングでキレが良く一気にぐぐっと盛り上がってしまう。
役者がほとんど生粋の東映育ちでないのはなぜか?舞台版との関係があるのか?戯曲を読んで較べてみたいです。
様式的なセット撮影が、セットを意識させながらそれが逆説的に無限の空間の広がりを描き出す。演劇と映画が入れ替わり立ち代り現れては消えていく、はかなさと永遠さが交差する。それが加藤泰の映画の魅力だよと言われればそうだったねと思い出すが、この演出がこの作品のために考え出されたとしか思えない見事さ。様式と情念とオモシロさが合致している。
すぐリアリズムとローアングルでしか語られない監督だけど、こんなに柔軟でありながら確固としたスタイルを受け入れて楽しんでいるのに驚く。普通こんなことをやったら破綻するよ。たとえば時空間が交錯し歴史の事実を無視したストーリーの小劇場の舞台をそのまま映画化したら、デパートの屋上ショーと変わらないものにしかならないものだけど、これが突き抜けた作品として血が通っているものに仕上がっているのは奇跡としかいいようがない。
加藤泰のなかで異色の作品と切り捨てるのは簡単だけど、私は逆にこの作品から加藤泰を読み解くことができるのではないかと考えてしまった。いろんな意味でミッシングリンクじゃないでしょうか。この時代だから、この役者たちだから個々人の想いが重なり、しかも普遍性をも視野に入っている。立体的にも読み取ることができそうです。
それにしても最初の関が原の戦場を横移動するスローモーション撮影の美しさは素晴らしい。
■ 防備録 |
Date: 2005-01-27 (Thu) |
1月2月のNHK-BS2
http://www.nhk.or.jp/bs/guide/g_movie_bs2_n.html
1/27 木 後1:00〜2:36
国定忠治
1958年
〔監督〕小沢茂弘
1/28 金 後1:00〜2:24
風流使者 天下無双の剣
1959年
〔監督〕松田定次
1/31 月 後1:00〜1:57
自来也 忍術三妖傳
1937年
〔監督〕マキノ正博
2/1 火 後1:00〜2:38
猿飛佐助
1955年
〔監督・脚本〕井上梅次
2/2 水 後1:00〜2:10
忍術水滸伝 稲妻小天狗
1958年
〔監督〕松村昌治
2/2 水 深夜0:00〜1:41
ロシアン・ブラザー
1997年・ロシア
〔監督・脚本〕アレクセイ・バラバノフ
2/3 木 後3:00〜3:58
監督マーティン・スコセッシのすべて
2000年・アメリカ
2/4 金 後1:00〜2:41
真田風雲録
1963年
〔監督〕加藤泰
2/5 土 後7:30〜10:00
第62回ゴールデン・グローブ賞 授賞式のすべて
2/10 木 後3:00〜5:04
ロイ・ビーン
1972年・アメリカ
〔監督〕ジョン・ヒューストン
2/14 月 後1:00〜2:30
まらそん侍
1956年
〔監督〕森一生
2/15 火 後1:00〜2:15
ドドンパ酔虎伝
1961年
〔監督〕田中徳三
2/16 水 後1:00〜2:20
天下あやつり組
1961年
〔監督〕池広一夫
2/17 木 後1:00〜2:24
飛び出した女大名
1961年
〔監督〕安田公義
2/17 木 後7:45〜9:57
チャイナタウン
1974年・アメリカ
〔監督〕ロマン・ポランスキー
2/18 金 後1:00〜2:24
元禄女大名
1960年
〔監督〕安田公義
2/21 月 後1:00〜2:36
風雲児 織田信長
1959年
〔監督〕河野壽一
2/22 火 後1:00〜2:27
暴れん坊兄弟
1960年
〔監督〕沢島忠
2/23 水 後1:00〜2:28
大江戸の侠児
1960年
〔監督・脚本〕加藤泰
2/23 水 後8:00〜9:30
国際共同制作 追跡“第三の男”
2/24 木 後3:00〜4:39
暗黒街のふたり
1973年・フランス
〔監督・脚本〕ジョゼ・ジョバンニ
2/25 金 後1:00〜2:29
主水之介三番勝負
1965年
〔監督・脚本〕山内鉄也
■ 宇田川幸洋のオススメ映画館 |
Date: 2005-01-25 (Tue) |
映画評論家、宇田川幸洋の『カンフーハッスル』評
http://www.walkerplus.com/movie/report/report3205.html?identifier=whats4
宇田川氏といえば、大昔TBSラジオでメジャーになるまえのおすぎとピーコに苛められながら一緒に月間映画評をやっていたのを喜んで聞いてたなあ。
■ スターシップ・トゥルーパーズ2 |
Date: 2005-01-23 (Sun) |
DVDにて。
オーディオ・コメンタリーによると前作の5%の予算で作られたという、SFスプラッター。監督はSFX界の一人者フィル・ティペット。まあ日本以外はDVDスルーらしいです。撮影は全編ソニーの24Pカメラ。
新人監督がほぼ全部夜間シーンのみの撮影条件で、29日で全部撮ったのだから、それだけでも大したものだろう。あれだけ実績がある人なのに監督をやると毎日クビに怯えていたりするのはどういうことなのだろうか?
低予算で考えるとこういう話になるだろうなあという流れなのでどうだということもないですが、ひとつの場所で展開する砦に篭城ものです。結構手作り感があってCG合成の細かいところが良くやっているなと感心する。
パート2がこういう継子扱いされるのはなぜなのだろうか?ハリウッドがヴァーホーベンのやったたくらみに気づいてしまったからかな。
個人的には半端に気取った『ゴースト・オブ・マーズ』より好きだな。
■ あるがままに輝きて 映画俳優佐伯秀男 成瀬巳喜男監督に気に入られた男 |
Date: 2005-01-15 (Sat) |
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4898301673/qid%3D1105752966/250-2912787-9032257
ちょっと敬遠したいタイプの本だなと思っていたが、読み始めると面白い。
かつて日本映画が輝いていたころ、憧れの産業として機能していたころ、あるいは芸事というものに重きが置かれていたころの話。俳優にしろ、監督にしろ、日々の生活や遊びがイコール彼らの学校であり勉強だった。いかに良いものを食べ、呑み、着るのか。一流のレストランや料亭に自費で通いマナーを身につける。最新のブランド品をさりげなくそれでいて似合うように格好よく持ち歩くためにはどうしたらいいか。一流の人々とどのように交流してどのような話題で話ができるようになるか。その目利きがその人のセンスであり、勉強の成果だった。それは逆に言うと、どんな安いものを着て食べたとしても、どことなく佇まいがあり品性が出てくるようにみえる。それが俳優や人間としての風格というものだったのだろう。そういう時代を過ごしてきた人をみるとやはり敵わないと思うし年季が違うなあと感じてしまう。
昨今のチンピラ芸能人が仲間内で高価なブランド物をチャラチャラさせて喜んでいたり、グルメ番組で箸の使い方がへたくそだったりすると、「こいつ良いもの食ってないな」と、その人のお里が知れてしまうようなものだ。
この本の主人公、佐伯秀男も映画が豊かだった時代を駆け抜けた快男児だ。軍人の父を持ち東京赤坂で生まれ、大学時代にボクシングやモーターボートで遊び、演劇の世界に入り甘い二枚目として舞台に立つ。PCLにスカウトされ映画俳優生活をはじめる。エノケン一座に加わったり、灰田勝彦と巡業に出たこともある。戦後フリーで各社を渡りたくさんの脇役をこなし、一方でボディビルの一人者となる。その後もテレビ、CMでも活躍する。
映画史的にものすごい人だったり、証言があるわけではない。たまたま映画に俳優として携わったひとりの男の昭和がどれほど豊かな時間だったのかが語られるだけだ。当時の撮影がどのように行なわれていたのか。俳優の立場から見た撮影所の日常が詳しく語られている。この部分がとても面白かった。
編集の円尾敏郎の丹念なインタビュー・構成は冴えている。記録を残そうとする惜しみない仕事には頭が下がる。最後あたりにさりげなく彼の日本映画史を記録することに対する想いがあるので引用してみる。
――今の日本映画は、テレビもそうでしょうけど、面白くないプログラムピクチャーか作り手自身の夏休みの日記風映画か自分探し映画です。自分が生き残るために作っているとしか思えないのがほとんどです。長生きしている人が歴史を自分の方に引っ張っていくのと、お弟子さんが師匠を褒めたたえて映画の歴史をねじ曲げる。黒澤明さんは監督として影響を受けたのは熊谷久虎監督らしいのですが、山本嘉次郎さんを褒めたたえますよね、(後略)」
さいきんさ、新聞とかの書評で日本映画本が取り上げられたりするときに、資料として「映画渡世 マキノ雅弘自伝」が引き合いに出されたりするじゃん。私が近頃思うのは、あの本は自伝として面白いのであって、引用資料として使うのはいかがなものだろう。だって「自伝」だよ。政治家とかの「自伝」と位置づけは変わらないと思うから、立場の違いからの人の評価やヤバイことは書いていないだろう。そういう楽屋話が、書物になることで一人歩きをする。もちろん著者や編者の問題ではない。引用する側(アカデミズム屋さん)の問題だろうね。俊藤浩滋の「任侠映画伝」も出して良いことだけでヤバイことは書いていないらしい。
■ カンフーハッスル |
Date: 2005-01-05 (Wed) |
吹き替え版。
おもしろい、面白いんだよね、うん面白いのだろう…。でも好きだよ。楽しめます。
というのはテンポ的に入っていくまでやたら時間がかかったから。これがチャウ・シンチーの味なのかと言われても『少林サッカー』以外観て無いからよくわからない。製作兼脚本兼監督としては、アジアの芸能のリズムでずっと伏線とか張ってから徐々に自分が出て行く段取りを踏みたいというのはわからんでもないが、ハリウッド流エンターテインメントとしては観客がタイミングの間が取れず不完全燃焼でだいぶ待たされる。ギャグと本気の切り替えが観ていてあまり安心させてくれないのが気になるのかなあ(バイオレンスギャグの計算違い。たぶん笑えばいいんだろうが、引いてしまうのはメンタリティの違いか?)。
うーむ、ミラマックスのシザースハンドなら、あと15分はカットするだろうな。
それにしてもCGというかワイヤーアクションというかSFXというか見事だね、世界中でピーター・ジャクソンの次にセンスもいいし上手いと思う。黒スーツの格闘乱舞シーンなど『マトリックス2、3』など稚戯に思えるくらい楽しい。アクション映画としては最高ですわ。
■ 聞こえてますか、映画の音 |
Date: 2004-12-24 (Fri) |
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4898301762/qid%3D1103875260/250-7515685-9634632
録音技師、久保田幸雄の仕事を、劇映画、ドキュメンタリー、インタビュー、『酔いどれ天使』の音の世界の分析、という章立てで見ていく。
これを読めば日本映画における音はどのように考えられて、どのように録られ、どのように構成され、画と合わさり映画になっていくかがわかるようになっている。
久保田氏が記述する映画の現場の話は面白過ぎる。岩波映画からその映画キャリアがはじまり、そこから出てきた小川紳介、土本典昭らのドキュメンタリー、東陽一、黒木和雄たちの劇映画との仕事を通じて、いわゆる撮影所時代以降のロケーション中心で映画を撮る、いまの時代が映画製作のスタイルが活写されている。
基本的に現場にある音から発想をはじめて、そこから映画のテーマ、シーンとすり合わせながらどのように印象付けるか、音を拾い集めては捨てる、気の遠くなりそうな作業を丹念に繰り返す。それでいて必要以上に目立つと映画を台無しにしてしまうので、慎重に音を付けながら構成されていく。
また製作現場の悩み、録音と効果音の関係、作曲家、演奏家との関係、同時録音とアフレコの関係、ワイヤレスとブームマイクの違いなど、知り得なかった、聞き逃していた興味深い映画術の秘密を具体的に明かしている。
本人には書きづらい部分、それを補う円尾敏郎氏のインタビューも充実しており、時代を追いながら技術や機材についての解説、監督をはじめとする映画人について、まさに知りたいことを聞き出している。
氏による『酔いどれ天使』に使われる音についての考察は、それ自身が優れた評論になっていて、撮影所時代の録音、整音についてもわかって興味深い。
たいへんな労作であり貴重な証言が詰まっています。特に劇映画は好きだけど、ドキュメンタリーはねえと思っている人には是非読んで欲しいです。ドキュメンタリーを作るときにスタッフがどのように被写体に想いを寄せて、それを観客に伝えるためにどのように機材を駆使していかに作品に具現化していくか、その苦労とスリリングな行程を知ることで、縁遠かったドキュメンタリーがより身近に深く理解できるようになると思います。
久保田氏のフィルモグラフィー
http://movie.goo.ne.jp/cast/87466/index.html
■ そこに何が映っているのか? |
Date: 2004-12-15 (Wed) |
バブル以降、日本映画にはいまの日本の姿が映っていなかった。
カレンダーのような時間が止まった田舎の風景とか、住宅展示場かテレビドラマのセットのような押入れ収納が無い家具が少なすぎる生活感の無いマンションの部屋。あるいは小道具係がルーティーンで飾り付けたような安っぽいケバケバしい極彩色のオブジェがゴテゴテと並ぶ独身者のアパートだけだ。どちらにせよ映画専用のセットであって人間が生活している現実世界とは離れていく。
バブル以降のモノが溢れている消費経済社会における生活では、他人と自分を差別するのにどんなモノを持っているかで表わされるようになった。言い換えればどのような他人と違うモノを持っているかで、その人のことをすべて表わす時代に突入したのだ。
例えば、映画のシーンで部屋に雑誌一冊あったとすると、その雑誌が何であるかでものすごく意味を持ってしまう。生活感を出すための小道具としての雑誌ではなく、なんでこの家に住む人物はどんな趣味嗜好なのでこの雑誌を買うのかまですべて表わすことになってしまうからだ。それだけで登場人物を説明してしまうので、すべからく、それに沿ったカタチで彼が食べるもの着るものまで全部設定しなくてはならなくなる。もっと言えばその一冊の雑誌の選択が違和感があると映画すべてをブチ壊してしてしまうのですね。そこまで出来る映画というのはほとんどない。だから暗黙の了解として生活感を抜いていく作業をしている。これは旧態依然の昭和時代の映画美術のやり方であるので従ってそこまでの時代までしか描けないことになる。これほどモノが溢れている日本なのになぜかガランとした部屋のセットが多いのはそのせいだ。
それとともに生活感の排除がこの世代の合言葉のようにきれいな風景しか映らなくなってきた。メディアにおけるいまの日本では貧しい=汚い=生活感という方程式が成り立たなくなって久しい。
伊丹十三は、彼のセンスの好悪を別とすれば、生活感を食べ物や葬儀そして最終的には情報と置き換えることでバブル以降を描写して乗り越えようとした。また周防正行は、伊丹が定着させることの出来なかった風景を小津の意匠を借りて「情報」+「生活感」として現代に置き換えることに成功した。そこまで詳細に詰めることのできない映画は、
1.ハズしてみる なんちゃってと逃げ道を作っていることで、笑いに逃げたり、どんなことがあっても熱くなったアンタがバカだよと説教を喰らうことになるだけ。まともに観客に向かい合うことを避けて、観客に「これは映画なんですよ」と強要する。
2.そのまま(リアルに生理的に)描写する 描写力の無さをそのまま撮るだけで、音楽をつけたり演技をつけたりしないので、リアルに見える。昨今はフィルムや音響の表現力が高いので、意図的に表現したように見えてしまう。
3.人物(内面や生活環境)を描かない わざと押し付けず、しかし描ききるまで煮詰められておらず、いままで観たことのある映画の世界を参考にそういう世界にする。(例、なんでも小津調)
観客は映画の物語の展開を楽しむんじゃなくて、表現が昭和で止まったままの不思議な「日本映画」という勝手に限定された枠の中で切り取られた、映像の上っ面だけを観ることしかできない。北野武をはじめとする日本映画のひとつの傾向だと思う。
さて問題はJホラーなのだ。例えば、映画の中でこういうシーンがあったとしよう。大学生の女の子が遠い田舎の村に住む祖母の家を訪ねる。このシーンをどういう風な画にするのか思い描いて欲しい。その家は、まあ茅葺屋根でないかもしれない。しかし貧乏臭かったり、汲み取りであるような描写は無いよね、でも居間は整頓され仏壇はあっても、プラズマテレビやカラオケセットは置いて無いだろう、田舎を笑う下品なギャグで無い限りは。それが今の日本映画の暗黙の田舎の風景だ。
しかしである、これがJホラーというジャンルの括りがあると、居間にプラズマテレビやカラオケセット、通販で買った健康器具が置かれていても良いのである。ちょっと想像してみるとわかると思う。「何気ない日常の延長のドラマが描かれる良い日本映画」じゃなくて、邪悪な霊がその家を呪っている映画ジャンルとして規定された途端、今の小物でいっぱいの生活感が溢れる家であっても不思議なことに全然違和感が湧かないとは思わないか?どう?
あるいは月9のお前らのような遊んでいるサラリーマンがこんな広い部屋に住めるわけ無いじゃんというマンションと違い、古いコンクリートの壁にひびの入った公団アパートを舞台としても、過度の生活感が出ることもなく普通に現在の日常性が描けているのはなぜか。
これがゾンビ女優竹内結子が出るような「何気ない日常の延長のドラマが描かれる良い日本映画」だと家の中の布団とかUFOキャッチャーで取ったぬいぐるみとかドンキホーテで売っているような小物とか過度に生活感の出るものを全部取っ払っちゃうんだよね。なんで同じ部屋でもJホラーになると納得できるのだろうか?
主人公が好きなCDが浜崎あゆみか、ケミストリーかなどを、口にした途端にウソ臭く感じて脱力したりすると思うのだが、Jホラーになると気にならないし、そんなことどっちでもイイんじゃないのと納得してしまうのは私だけか?
反対から考えるとJホラーでしか、現在の日本は描けないという結論になる。
Jホラーが描く現代の姿に共感してしまうのは、そこに多くの真実や信憑性があるからだろう。それはジャンルに仮託したなにかだと思う。ホラー映画にしか今の私たちの時代が映っていないとはなんとも不気味なことではないだろうか。
Jホラーと規定されると、画面に生活感溢れるモノを置きたくなるのはなぜか?万物に八百万の神が宿るからか?実はバブルを挿んだ昭和と平成の断絶を結びつけるのにぴったりの仕掛けなんだと思う。薄っぺらい「今」という時代を描いてもその裏に必ずある闇の部分を表現できることで、置き去りに忘れられた時代の繋がりが表現されるのではないか。あるいは霊というスーパーナチュラルな存在を通して、世代とか友達関係を超えた繋がりのドラマが簡単に表現できるからではないか。「場所」や「人」に憑りつくことで、こまごまとしたモノの差異による人物の違いの説明というつまらないレベルを超えた、失われた近しい歴史感=生活感を獲得できたのではないだろうか。
はやりの近い昔昭和30年代ノスタルジーに於ける生活感は失われたものへの挽歌であり、それは陳列された博物館展示となにひとつ変わらない。こちらの日常に飛び出して来るものではない。
しかしJホラーが醸し出す生活感は、差異による個性の表現なんてものを無効にできる力を持っている。映画の表現をこちらに引きずりおろすだけの力を持っている。
ジャンルの持つ世界観が現代とピタリと合うのは、描かれている不安感がいまの世相と合うといえば済むんだろうが。しかしなぜこのジャンルだけが、現代の庶民性=生活感を表現できるのか?モノの記号化を無効にするほどの強い力を持っているのか?という部分が解決されていない。
(以降考察中…)
■ 香港への道 |
Date: 2004-12-09 (Thu) |
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4480873163/qid%3D1102555528/249-2898969-7643501
ようやく出ましたかという感想と、それにしては変わってないなという印象。でも雑誌掲載から15年くらい経つのだから、一度も読んでいない人には痛快なことは間違いないでしょう。個人的には新東宝時代の撮影技師と助手の系譜が面白かった。
香港映画(中国語圏)について、いつもの彼らの本の造りのような概論がきちんと付記されていればもっと立体的になったのにね。即席の注釈部分が興を削ぐなんだろうねあれは?撮影技術を通じての映画史なのに、なんで技術史の説明はあんなものなのかなあ、いつも思う。あれくらいの説明で照明とレンズ、フィルムなどの天然色映画黎明期の苦労や問題がわかるのでしょうか?
それにしても井上梅次のインタビュー本とか出ないかなあ。まだ時代の要請がそこまで追いついていないのだろう。
「芸術=カルトだからイイ」という歪んだ昨今の映画回顧鑑賞事情では、明確職人歌謡監督の入る余地は無いのだろうね。裏話は滅茶苦茶面白そうだけども、難しいのかな。
まあこの本も映画祭に便乗してようやく出せましたという感じがするのだけども。
■ The Criterion Collection Holiday 2004 Gift Set |
Date: 2004-11-29 (Mon) |
おカネが余っている人はこういうオトナ買いはいかがでしょうか。プレゼントのおねだりをすると張り倒されるでしょうが…。
http://www.amazon.com/exec/obidos/tg/detail/-/B0006A05RM/ref=ase_aintitcooln07-20/104-6656111-0425529?v=glance&s=dvd
<リストのタイトル翻訳>
『三人の女』;『三十九夜』; A CONSTANT FORGE(ジョン・カサベテスのドキュメンタリー);『自由を我等に』;『女は女である』;『こわれゆく女』;『アレキサンドル・ネフスキー』;『恐れと魂』;『天はすべてを許し給う』;『アルファビル』;『アマルコルド』;『素直な悪女』;『そして船はゆく』;『アンドレイ・ルブリョフ』;『アルマゲドン』;『秋のソナタ』;『誓いの休暇』;『はなればなれに』;『アルジェの戦い』;『ビスティ・ボーイズ』;『美女と野獣』;『家庭』; BIG DEAL ON MADONNA STREET(イタリア映画1958年アカデミー外国語映画賞);BILLY LIAR(イギリス映画 未);『黒水仙』『黒いオルフェ』;『マックィーンの絶対の危機 (ピンチ) 人喰いアメーバの恐怖』;『詩人の血』;『賭博師ボブ』;『殺しの烙印』;『ブラジル』;『逢びき』;ブラッケージによるアンソロジー;カール・テホ・ドライヤー・ボックス・セット;『恐怖の足跡』;『シャレード』;『チェイシング・エイミー』;『天井桟敷の人々』;『5時から7時までのクレオ』; CLOSELY WATCHED TRAINS(チェコスロバキア映画1967年アカデミー外国語映画賞);コクトー・オルフェ三部作ボックスセット;『軽蔑』;『とどめの一発』; COUP DE TORCHON(フランス映画1982年アカデミー外国語映画賞);『鶴は翔んでゆく』;『叫びとささやき』;『怒りの日』;『悪魔の金』;『悪魔のような女』;『小間使いの日記』;『田舎司祭の日記』;『ブルジョワジーの秘かな愉しみ』;『ドゥ・ザ・ライト・シング』;『心中天網島』;『ダウン・バイ・ロー』;『麦秋』;『8 1/2』;エイゼンシュテイン・トーキー時代ボックス・セット;『エレメント・オブ・クライム』;『恋多き女』;『顔のない眼』;『フェイシズ』;FAT GIRL(フランス女流監督の映画);『ラスベガスをやっつけろ』;『顔のない悪魔』;『火事だよ!カワイコちゃん』;『FISHING WITH JOHN』;FOR ALL MANKIND(アポロ計画のドキュメンタリー);『フレンチカンカン』;GENERAL IDI AMIN DADA(アミン大統領のドキュメンタリー);GEORGE WASHINGTON(サンダンスな映画らしい 未);『ゲアトルード』;『ギミーシェルター』;『お早う』;『大いなる幻影』;『大いなる遺産』; GREY GARDENS(ギミーシェルターの監督 未);『ハムレット』;『ハーダー・ゼイ・カム』; HAXAN(『魔女』未);HEARTS AND MINDS(1974年アカデミー賞長編ドキュメンタリー賞);『ヘンリー五世』;『隠し砦の三悪人』;『天国と地獄』;『24時間の情事』;『ハネムーンキラー』;『ホップスコッチ』; HORSE'S MOUTH(イギリス映画 未);『私は好奇心の強い女』;『続私は好奇心の強い女 〈ブルー版〉』;『木靴の樹』;『渦巻』 『青春群像』;『生きる』;『イル・ポスティーノ』;THE IMPORTANCE OF BEING EARNEST(イギリス映画 未);『花様年華』;『終着駅』;イングマール・ベルイマンの映画 ;イングマール・ベルイマン三部作;『インソムニア』;『イワン雷帝 第一部 第二部』;ジョン・カサベテス五本組ボックスセット ;『ジュビリー』;『魂のジュリエット』;『殺人者たち』;『水の中のナイフ』;『怪談』『道』;『レディ・イブ』;『バルカン超特急』;『最後の誘惑』; THE LAST WAVE( ピーター・ウィアー 未);『情事』;『仁義』;『密告』;『ブーローニュの森の貴婦人たち』;『ル・ミリオン』;『穴』;『山猫』;『老兵は死なず』;『ローラ』;『長く熱い週末』;『蝿の王』;『カタリーナ・ブルームの失われた名誉』;『逃げ去る恋』;『ブロンドの恋』;『どん底』;『ぼくの伯父さんの休暇』 ;『魔笛』; MAITRESSE(バーベット・シュローダー 未);『マンマ・ローマ』;『ありふれた事件』;『ぼくの伯父さん』;『モナリザ』;『モントレー・ポップ』;モントレー・ポップフェスティバル・ボックスセット;『ライフ・オブ・ブライアン』;『猟奇島』;『マイ・ライフ・アズ・ア・ドッグ』;『襤褸と宝石』; MY METIER(ドライヤーのドキュメンタリー);『裸のキス』;『裸のランチ』;『極北のナヌーク』;『夜と霧』;『愛の嵐』;『SOSタイタニック』;『カリビアの夜』;『オリバーツイスト』;『鬼婆』;『オープニングナイト』;『あるじ』;『オルフェ』 ;『裁かるるジャンヌ』;『血を吸うカメラ』;『望郷』;『拾った女』;『ピクニック・アット・ハンギングロック』『エロ事師たち』『霧の波止場』;『ピグマリオン』;『犯罪河岸』; ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー西ドイツ三部作;『羅生門』;『ボクと空と麦畑』;『赤ひげ』;『赤い靴』;ルノワールボックス・セット「舞台と見世物」;『リチャード三世』 ;『男の戦い』;『ゲームの規則』;RULING CLASS(イギリス映画 未);『天才マックスの世界』; SALESMAN(ドキュメンタリー); 『シシリーの黒い霧』; 『宮本武蔵』;『続宮本武蔵 一乗寺決闘』;『宮本武蔵・決闘巌流島』;『椿三十郎』; 『恋のページェント』;『ある結婚の風景』;『スキゾポリス』; SECRET HONOR(ロバート・アルトマン 未);『七人の侍』;『第七の封印』; 『アメリカの影』;『ショック集団』; SHOP ON MAIN STREET(チェコスロバキア映画1965年アカデミー外国語映画賞);『悪魔のシスター』; SLACKER(リチャード・リンクレイター 未);『夏の夜は三たび微笑む』;『惑星ソラリス』;『スパルタカス』;『夜霧の恋人たち』;『浮草』;『浮草物語』;『野良犬』;『サリバンの旅』;『旅情』; TANNER '88(ロバート・アルトマン 未);『桜桃の味』;『怪人マブゼ博士』;『オルフェの遺言』;『欲望のあいまいな対象』;『大人はわかってくれない』;『黄金の馬車』;『チャイニーズ・ブーキーを殺した男』;『マリア・ブラウンの結婚』; 『ロイヤル・テンバウム』 ;『沈黙』;『第三の男』;『蜘蛛の巣城』;『鏡の中にある如く』; 『タイム・バンディット』;『ブリキの太鼓』;『東京流れ者』;『東京オリンピック』;『東京物語』;『トラフィック』;『極楽特急』; トリュフォーのアントワーヌ・ドワネルの冒険 ; TUNES OF GLORY(イギリス映画 未);『ウンベルトD』;『巴里の屋根の下』;『冬の旅』; THE VANISHING(フランス映画 未);『寄席の脚光』;『ベロニカ・フォスのあこがれ』;『ビデオドローム』; W.C.フィールズ 6短編集 ;『恐怖の報酬』 ;『美しき冒険旅行』;『白い酋長』 ;『野いちご』 ;『冬の光』; WITHNAIL AND I(イギリス映画 未); 『風と共に散る』;『用心棒』
途中で書くのヤになったけど、これで241本という計算は合わない気がするが。私は77本観てました。
■ よしなごと |
Date: 2004-11-13 (Sat) |
NHK-BSで『海辺の家』なんていうのがやっていて、オープニングで屋外と室内を往復するヘンなキャメラの動きがあって、オッと思ったら撮影監督にヴィルモス・ジグムンドの名前を発見してつい観てしまう。
いい人っぽいケヴィン・クラインがいつキレるのかなあとか、ヘイデン・クリスヘンデンが不良少年なんで、やっぱりこいつダークサイド・キャラだなとか、メアリー・スティーンバ−ゲンって全然スタイル変わってないなあとか、いやストーリーはまあ感動モノなんでそれなりに楽しみましたが、演出はアーウィン・“ロッキー”・ウィンクラーですからね大雑把。
それよりもジグムンドの撮影が見事。このとき71歳だよ。よく考えると、海の崖っぷちに建つ家なのに朝日と夕日が同じ方角から昇り沈む不思議さは、太陽光線を操る繊細な匙加減で気づかない。全カット太陽の位置と光線を計算して設計しているからベタなありふれたつまらないカットがひとつも無い。コントラストの強い昼間から、夕日が沈んだ柔らかい光線まで自在に使っている。演出と絡まないところが痛いのだけど。わからないようにトレードマークのフォグ・フィルターも使っているようだったね。それだけじゃないだろうけど。
室内の細かすぎるライティングは素晴らしいです。たぶんに照明を最小限にして、細かい陰影が美しく表現しているので自然光なのかどうか迷うほど。と同時に色温度の違うランプの光線を画面に配置して、肉眼では感知できない美しさをあえて作り出す。テレビで観ていて電気信号のレベルが低すぎてノイズが走るほど、明るさを落として微妙な光線で画面を作っているんじゃないでしょうかね。DVDで確かめたい。
基本的にハリウッド映画は商品なので、昔からシャープなレンズで撮って、たっぷり照明を当てて、露出を絞ってピントが来るようにする。なのでテレビやDVDでも普通にキレイに観られるようになっていることが多いのだけど。いわばアンチハリウッド調だ。あとフジフィルムを使っているとあった。なぜその選択をしたのかも知りたい。
インタビュー読むと、彼は劇映画の照明で一番大切なのは「詩的リアリズム」だと言っている。
次回作はデ・パルマの『ブラックダリア』だ。『ミッドナイトクロス』よ再び!
『ジャージーガール』(監督:ケヴィン・スミス)も早く公開して欲しい。
海辺の家
http://www.allcinema.net/prog/show_c.php?num_c=237117
ヴィルモス・ジグムンド・インタビュー(英語)
http://www.theasc.com/magazine/oct04/vilmos/page1.html
■ シネ・ミュージック講座 |
Date: 2004-11-04 (Thu) |
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4845998882/qid%3D1099572286/249-2062644-9359567
映画についてあれこれ書いていますが、私は映画音楽について記憶力が極端に悪く、映画館を出て余韻に浸ろうとしてサントラを思い出そうとしても、さっぱりアタマの中から出てこない。つい10分前に感動的なエンディングテーマが流れていたとしても全然メロディを反復することができない。『ポルターガイスト』の印象的なジョン・ウィリアムス(←まちがい、ジェリー・ゴールドスミスのはず。こんな程度の記憶力です。11/7修正)の曲を帰りの電車の中でリフレインしようとしたが、どうだったかわからなくて愕然としたことがあったなあ。
えっと、そんなこととは関係なく、映画音楽の歴史があります。これがまた芳醇で猥雑で次々と固有名詞が現れて結びつくのが面白い。
100年前に生まれた映画という新しい芸術形式に音楽家たちが引かれた理由がふたつあるという、ひとつは録音した音を使って作曲ができる点。オーケストラにすると消えてしまう小さな楽器を強調したりバランスを変えたりして、生演奏ではできない音楽をつくることができる。もう一つは連続した時間芸術である音楽に対して、映画音楽はわずか数秒の音楽をも求める。このシーン、カットのための音楽という題名すらない音楽が要求されるという。この形式に魅了され多くの同時代の作曲家たちが挑んだという。幾人かのクラッシックの大家も映画音楽を書いているが、クラッシック音楽の世界から、その仕事は無視されていると著者は嘆く。
私が興味を持ったのは、現代音楽家たちの映画音楽の仕事が丹念に紹介されている部分であり、現代音楽家としての彼らのタッチが映画音楽がどのような作品を生み出したか、また日本の作曲家たち(現代音楽家)もその中できちんと位置づけられ、何気なく聴いていた日本映画のサントラも、急に現代音楽として聴き直したくなる。
映画音楽史から見た映画史が本書の講座の中心だ。サイレント時代では伴奏音楽が作られた。この時代にはクラッシック作曲家のサン・サーンスやエリック・サティも映画のために書いていたという。トーキー時代になり対位法など様々な技法が開発される様子。テルミン、オンド・マルトノなどの電子楽器をどのように誰が使い始めたのか。50年代からの新しい映画の波と同時期に映画音楽でもジャズが導入されたことの指摘。アニメーションと映画音楽の実験(昔はアニメーションといったら、個人映画であって実験アニメーションのことだったものだが)。ミニマル・ミュージックと映画の相性の良さをマイケル・ナイマンからはじめて伊福部昭まで辿り着く展開という大胆なこともしている。
大の映画ファンの武満徹(「近頃はあまり観ていないですよ、年間150本くらいかな」と言う)との対談も濃い内容。
武満の選んだ映画音楽ベスト5も楽しいし、その解説も素晴らしく映画音楽へ誘ってくれます。
アラン・ロブ=グリエ『不滅の女』 ミシェル・ファーノ
溝口健二『近松物語』 早坂文雄
アントニオーニ『太陽はひとりぼっち』 ジョバンニ・フスコ
アラン・レネ『二十四時間の情事』 ジョバンニ・フスコ、ジョルジュ・ドルリュー
メリアン・C・クーパー、アーネスト・シュードサック『キング・コング』マックス・スタイナー
この本の良いところは、講座講義形式であって、読んだあと巻末のディスコグラフィーにある、CDを併せて聴けば、そこから映画の方にも音楽の方にもいくらでも広がっていくことが可能なところだ。
こういう本こそ、DVD化してほしいですねえ。
■ 防備録 NHK-BS2 13:00から |
Date: 2004-10-24 (Sun) |
10/25(月)1:00〜2:27
番場の忠太郎 1955(S30) 新東宝
中川信夫監督 出演 若山富三郎 山田五十鈴
http://movie.goo.ne.jp/movies/PMVWKPD24261/index.html
26(火)27(水)1:00〜2:21、1:00〜2:15
弥太郎笠(前後篇)1952(S27) 新東宝=新生プロ
マキノ雅弘監督 出演 鶴田浩二 岸恵子
http://movie.goo.ne.jp/movies/PMVWKPD23555/index.html
28(木)1:00〜2:32
清水港に来た男 1960(S35) 東映
マキノ雅弘監督 小国英雄脚本 出演 大川橋蔵 丘さとみ
http://movie.goo.ne.jp/movies/PMVWKPD23164/index.html
29(金)1:00〜2:32
木枯し紋次郎 1972(S47) 東映
中島貞夫脚本監督 出演 菅原文太 伊吹吾郎
http://movie.goo.ne.jp/movies/PMVWKPD19725/index.html
とりあえず映画はやっぱ一時間半だね。
■ 遊撃の美学 |
Date: 2004-10-19 (Tue) |
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4898301738/qid%3D1098187348/250-0819669-1283449
中島貞夫ってほとんど観てないんだよね(いつもこんな言い訳ばかりしている気がする)。
発見はなんで倉本聡が『くノ一忍法』のシナリオを書いていたのかというのと、監督と同窓生だったからなのか。なーんだ。
いまも残っている作品が多いということは普通に面白いということなのだろうな。
実録路線を支え、ピラニア軍団を売り出したといっても深作欣二ほどの印象が残っていない。しかしながら実録路線は、それまでの任侠路線でアタマを押さえつけられてきた、三四十代連中が一気に爆発した勢いの産物だということがわかる。
インタビューを読んでいても、笠原和夫が言っていることお互い都合の悪いところは180度証言が違ったりもするので、脚本家と監督は永遠に和解できないものなのだなとも思う。どっちもエエカッコしということなのですがね。
竹中労との『浪人街』リメイク騒動については、ほーそうなんだと事実が露見する。竹中労は映画のアジテーターだけど、映画の作る側の人じゃないことがよくわかった。
読後の感想としては「この人は頭のいい人なんだなあ」です。たぶんに映画監督にならなくともやっていけるタイプの秀才だと思う。たまたま東映という映画という商品を作る会社に入ったということではないか。その意味では狂気はなく理性が勝っていてバランス感覚を持っている人なのでしょう。その意味では監督自身が強調する、シーンの演出は役者の「アンサンブル」を大切にするという言葉にすべては集約されるのでしょう。
プロデューサー的な感覚を持っていると思うのですが、アカデミズムの方に行ってしまっているので残念。
もう少しビデオで観てから色々書いてみたいと思います。
最後に時代劇映画について語った部分がわたしの最近考えていることと妙にシンクロしていて驚いた。
■中島 (前略)最後っ屁としてはね、時代劇やってみたいなってのはあるんですよ。特に京都映画祭をやってみて非常に強く実感したのは、時代劇が何で駄目なんやというときに、やっぱりおっさんが臭い芝居をしてんだというのが一つのイメージになっちゃっている。第一期黄金時代なんかでも、たとえば『長恨』(26)ね。伊藤大輔さんも大河内傳次郎さんも二十歳代、十何分立ち回りやってます。それから錦ちゃんの十何本並べてみた。若いやつに受けたのは何だと言うと、大作じゃないんですよ。沢島さんのものとかね。たとえば『殿さま弥次喜多』シリーズ(58-60)だとか、それから『薄雪太夫より 怪談「千鳥ヶ淵」』(56)だとか、こっちは若いやつに受けてんだよ。拍手湧くんだから。錦ちゃん二十歳代よ。結局ね、おっさんじゃないやつが、やっぱりエネルギーを発散させてる。ドラマツルギーなんて変わりゃしないんだから。むしろ肉体をとことんぶつけていくといったら、時代劇チャンバラに敵うジャンルはないです。あらゆる映画のなかでね。つまり自分の感情と、情念とアクションってのが本当に同一化して画面のなかで暴れ回るってのは、よう考えたら、ほとんどないですよ。(略)モーションとエモーションの同一化みたいな。そういう見せ方をやっぱり作る方が本気になって、そうだと思い込んでやれればね。ただ役者を探すのが凄く難しいと思うけれども、素材ってのは幾らでもあるような気がするな。(略)たとえば、新選組の下っ端だと、武士階級じゃないけれども、新選組、面白そうやから、ふらっと入っちゃったと。使い走りやってんだけど、刀振り回しちゃったというような設定だったらね。あるいは股旅物って難しいけれども、そういう設定だったら、チャンバラなんかきちっとしたものじゃなくてもいけるわけでしょ。そういうことで何か出来ないのかなというね、非常にまだ茫然としてるんだけど。
■ 森崎東 レトロスペクティブ |
Date: 2004-10-18 (Mon) |
http://homepage3.nifty.com/showcine/koya/imageforum.htm#morisaki
11月1日から12日まで。
全監督作品とテレビ作品もいくつか(こっちを観たいな)。もしいままで一本も森崎東を観ていなくて、この時期に時間があれば、ぜひ回数券を買って通ってください。
松竹映画は小津とか松竹ヌーベルバーグとかはよくわかんないけど誰かがホメたから観るけど、山田洋次や喜劇路線とかは泥臭くてヤだなとか思っている人には是非に行って欲しい。弾けるようなエネルギーとテンションの高さと物語と語り口の面白さに悶絶して絶対に中毒になるって。続けて通うと、館内が暗くなって松竹マークの次にシネスコ画面に黄色の殴り書き文字のタイトルがバーンと出て、そこに山本直純の音楽が大音響でかかるだけでワクワクしてしまうようになるのだ。
20年ほど前に文芸座で特集をやっているときにかなり観たんだけど、ただ新宿芸能社シリーズだけは、東京に降った記録的な大雪のために行けなかった悔しい記憶がある。
とにかく観ると元気が出ます。笑いあり、歌あり、涙あり、格闘ありで、ああ映画って楽しいな面白いなと足どり軽く映画館を後にできるのです。
ご参考までにわたしの観ている分だけお薦めの解説を書いてみます。
■喜劇 女は度胸
下町の貧乏な家庭、ダメな父親と働き者の母親、威勢の良い兄と気弱で勉強のできる弟。そんな堅物の弟が恋をした。相手は深窓の令嬢。やがて二人をめぐってみんながてんやわんやの大騒ぎになる…。こんな山田洋次の原案を森崎東が監督すると、全員が最初から最後までくんずほぐれつのケンカに明け暮れ、隙あらば相手をこのバカ野郎、オタンコナスと罵りぶつかり合う、いささかの斟酌も無いガチンコの修羅場となる。そんな馬鹿げた様子を大笑いしつつも、登場人物の大らかでセコくて生きている姿にこちらもいつの間にか感情移入している。これが森崎東の映画の真骨頂です。
■男はつらいよ フーテンの寅
山田洋次と演出力の差が歴然とわかる作品。だけど山田洋次が路線を修正したからこそこのシリーズは残ることができたんだけどね。それほどチンピラでアナーキーな寅さんになっていている、びっくりするよ。
■喜劇 男は愛敬
倍賞美津子がパンパンにはちきれそうな顔をして元気が溢れ「若い!」としかいいようがない鑑別所帰りの不良少女。寺尾聡の情け無い弟とアクの強い渥美清の兄のドタバタが最高に笑える。
■高校さすらい派
森田健作を主役に据えたマンガ原作だったかな。学園不良反抗路線ものなのだが、ちょっと空振り。1970年、そういう時代のもの。
■喜劇 女は男のふるさとヨ
未見。森繁久弥が社長の新宿芸能社と住み込みのお座敷ストリッパーたちを中心にしたドタバタ事件が起こる。
■喜劇 女生きてます
未見。
■生まれかわった為五郎
ハナ肇主役の北茨城のコンビナートを舞台にした土方とヤクザが戦う糞尿譚。ただただアナーキーな破壊力に驚け。
■喜劇 女売出します
未見。
■女生きてます 盛り場渡り鳥
未見。
■藍より青く
NHK朝ドラの映画化。テレビドラマよりは面白い。
■野良犬
黒沢明の同名作のリメイク。ここでは犯人像により焦点を当てて、ハードな社会派ドラマに仕上げている。
■街の灯
堺マチャアキ主演、栗田ひろみに笠智衆といった不思議なメンバーが集まり、東京上野から筑豊炭田へと彷徨っていくうちに彼らの人生が浮き上がってくる喜劇ドラマ。不覚にもラストに泣いた。
■喜劇 特出しヒモ天国
未見。これ久々にやるんじゃないのかな。関本郁夫がやるはずの映画だったらしい。山城新伍主演。松竹から出て東映で撮った唯一の作品。
■黒木太郎の愛と冒険
ATG作品。低予算モノクロ。田中邦衛が主役。森崎の観念性と反天皇制が突出している作品。今の時代のほうが受けるかもしれない。
■時代屋の女房
村松友視の直木賞小説の映画化。夏目雅子主演というところに今となっては価値があるような。不思議ちゃん話なのでバブル初期の生活感のない時代だっただけにノリが悪い。
■ロケーション
傑作です。ただし記録的な不入りだったので2週間で打ち切り。
ピンク映画の撮影をしていくうちに現実とフィクションが交錯する過程がスリリング。竹中直人の助監督の熱演が素晴らしい。このときの縁で竹中と彼の父(元共産党)についてのテレビドキュメンタリーを撮った(今回はやらないが)。柄本明、西田敏行ら80年代の役者たちの演技合戦も妙。美保純、イブちゃん出演(脱ぎあり)。
■生きてるうちが花なのよ 死んだらそれまでよ党宣言
名古屋の独立プロで撮った作品。原発ジプシーを扱ったためか、完成してもなかなか配給するところが見つからなかった。話の面白さ演出、演技の素晴らしさは絶品ですね。森崎映画の集大成。最新作の『ニワトリはハダシだ』はこの続編という位置づけ。「アイちゃんですよ。ごはん食べたぁ?」
■塀の中の懲りない面々
手堅く楽しいのだけど、ちょっともう古いカンジがある。権力側対囚人の対立構図が冷戦以前だ。男映画なので女性を描かせるとうまい監督としては外れた題材だったか?
■女咲かせます
松坂慶子が美しく撮れている女スリ映画。これは結城昌治原作、野村芳太郎監督の「白昼堂々」のリメイク。森崎節が味わえます。原作の裏にどういうテーマがあるかわかっている人には森崎映画として納得できます。
■夢見通りの人々
小倉寛久が主役という段階で…(以下省略)
■釣りバカ日誌スペシャル
この作品あたりから森崎が森浮ノなったような気がする。うーんこれはね…(以下省略)
■美味しんぼ
未見です。
■ラブ・レター
浅田次郎の泣かせ小説が原作。中井貴一と山本太郎のチンピラがなんともいい。 これも結構トリッキーな話で、短編小説なら持つのだけども、それを演出の力でねじ伏せて成立させるなんて並みの監督ではできません。
■ 狂おしい夢不良性感度の日本映画 東映三角マークになぜ惚れた!? |
Date: 2004-10-11 (Mon) |
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4878922664/qid%3D1097470981/249-0398776-3482746
ここに書かれているのは、70年代半ばから80年代初めにかけての東映を中心とした日本映画のクロニクル、別名プログラムピクチャー衰亡記だ。東映実録ヤクザ路線がはじまり廃れ、一方でエログロ路線の模索、撮影所の合理化とともに映画製作本数が激減して、やがて大型投資メディアミックス型大作、角川映画の登場とともに、二本立て興行から一本立てへの流れ、と同時に自主映画畑からの新規監督たちの参入。そして長谷川和彦率いるディレクターズカンパニーが旗揚げする頃の時代。
そのなかで生粋の撮影所育ちの東映助監督たちが、新人監督として悪戦苦闘しながら出てくる様子を、ひとりの映画ファンとしての著者が限りなく優しいまなざしをもって描いている。
近頃の、公開当時の文脈をまったく無視して、プログラムピクチャーを現在の視点からのみ語り、バカ映画と呼んで持ち上げて喜ぶ風潮に私は非常に不快感を持っている。バカ映画カルト映画と騒いでいる連中は、結局のところ高所から映画を見下していて、「ポーズとしてバカやっているんですよ、これが分かって笑えるオレってアタマいいなあ」、という卑小なナルシズムの成れの果てであって、間違っていても、こんなバカ映画を見て語っているんだからやっぱオレってバカなんだよなあとは露とも思っていないところに虫唾が走る。
著者の姿勢はそれと正反対であり、とにかく観客として封切り館に潜み、当時の空気を最大限に含んだプログラムピクチャーをわくわくして楽しもうとすることを選ぶ。当時の東映のキャッチフレーズなら「不良性感度バツグン!」な映画だ。
地元の薄汚れた東映直営映画館でオールナイトを観たあと、睡眠不足のまま隣の喫茶店に入る。映画館と同じ経営者によると思われる狭い店は、インチキなヨーロッパ調のシャンデリアとこげ茶の木目の壁、硬い木製の椅子にガラスのテーブルの内装。熱いおしぼりと水を銀の盆に載せて、化粧の濃い無愛想なお姉さんが注文を取りに来る。モーニングセットを食べ、一息ついてそのまま昼までねばる。ぼそぼそと話題は尽きることなく延々と日本映画について語り合う至福の午前中。
その延長にこの本はある。ここに書かれているのは、自ら発刊したミニコミ誌「マイノリティ」に書かれたものを中心にしている。やっと人気が出たピラニア軍団のテレビ進出、お茶の間タレント化を諌め、スクリーンへの回帰を熱望する檄文を書き、関本郁夫にインタビューをしに京都まで出向き、デビューした澤井信一郎からは本音を聞きだすような熱いインタビューをものにする。当時蓮実重彦が澤井の処女作である松田聖子主演のアイドル映画『野菊の墓』を絶賛して、ある種の映画批評界に衝撃を与えたのだけど、著者のインタビューは澤井自身のなかでもそれと並ぶほど印象深いものだったという。
また当時の空気を知るにも適書だと思います。ぴあ・オフシアター・フェスティバル(当時はこう言った)の8mm映画監督に対して行き詰っていた大手映画会社がどう動いたのか。そういう状況の中から助監督という下積みを経ずに、大森一樹や石井總互がデビューしたのが、どれだけ衝撃的だったか、もういまやわかんないだろうね。
私たちが、ビデオで追いかけネットで調べてようやく言及できる東映プログラムピクチャーについて、リアルタイムに追いかけた者だけが語れる、話の広がりはまさに豊饒としかいえない。
硬直したコピペ知識の羅列やアカデミズムの検証ではなく、安い呑み屋でパッとしない先輩がほろ酔い加減で話してくれる、饒舌なるB級映画への偏愛に当てられ、酒に酔うのか話に酔うのかわからない、不思議な陶然とした時間を過ごさせてくれる本です。
■ ギフト |
Date: 2004-10-09 (Sat) |
サム・ライミのやつね。
『スパイダーマン2』の評でやたら「多いなる力には大いなる責任が伴う」というキャッチフレーズと今のブッシュ・アメリカを結び付けて云々というのをやたらみかけたけど、なんか納得いかなかったんだよね。だって史上最大規模の制作費を使いながらも、『呪怨』の清水祟の映画を製作するという相変わらずのヲタク番長が、そんなストレートな球を投げてくるはずが無いのだから!
『ギフト』を観て確信したのは、サム・ライミ映画の「力」というのは、行使する権力(power)じゃなくて、自分では制御できない力なんだよね。そういう運命に対してどう葛藤するかがストーリーの骨格なわけ。
そのあたりがすべてをpowerで解決しようとする最近のアメコミ映画の主人公の浅墓さと違って、ライミや彼らの世代の持つSFやコミック世界観、たとえば、デヴィッド・クローネンバーグやデヴィッド・リンチ、ティム・バートン(ちょっと違うかな?)らの持つダークな世界観の根底に流れるものに繋がるのだと思う。
最近の大量生産アメコミ・ヒーロー像は、抗し難い運命というストーリー・テリングの定番の肝をスルーして、彼らの異形な様をそういうものだと性格のひとつと位置づけて、彼らがすぐにキレる様子を描いて物語を進める作品が多いような気がする。
まあ敵を殺しすぎるヒーロー像というか、被害妄想気味の主役といったところか。
そしてお子様観客動員のために、暴力が適度に暗喩化されたPG(大人同伴)レートと相俟って「検閲済みの戦争のテレビ映像」と同じレベルの刺激を放出する。それはすでにアクションではなく大量殺戮でしかない。
大味と同時に幼いという感想が出てくるのもそのためじゃないかな。
超能力、この映画では予知能力だけど、その力を持った者が幸福なのか不幸なのか、それがもたらす吉凶は自分がどう動こうが抗することはできず、結局は運命として受け入れるしかない、その葛藤がヒーローもののドラマじゃないだろうか。
ハナシを単純化するに、ただキチガイや畸形が跋扈するだけの狂った社会にしてしまうのは簡単だ。『バットマン』シリーズなどはわかりやすい例だろう。まああのシリーズの場合は「疎外」という別のテーマがあるのだけどもね。ともあれ彼らの完結した世界で善と悪の戦いをしていればいいのだから。
サム・ライミの場合はそこを、矮小化した世界に回避することなしに徹底的に現在形で描こうとする。いまの現実社会風俗のなかでどういう立場に彼らがいるのかを丹念に描写する。『スパイダーマン』でも主役の生活環境が細かく美術小道具を駆使して執拗に描かれているし、『シンプルプラン』や本作でも田舎町での貧しい生活ぶりが視覚的にリアルに描かれている。それは主人公がどんなクルマに乗り、どんな服を着て、どんな家に住んでいるかまで丹念に生活を覗き見でもするかのように強調される。そのレベルで観客は登場人物への共感嫌悪感を選択させられる。そこを土台としてのリアルなダーク・ファンタジーを築き上げるのだ。
『スパイダーマン』をはじめとする娯楽映画が肯定するアメリカンドリームの価値観には、「チャンスは平等にあり、正義を持っていればいつかは夢が叶う」といった希望や楽天性が表面的にはあるようにも見えるが、実は絶対に叶うはずがないのだという醒めたトーンがいつも見え隠れしているように思える。『スパイダーマン』の主人公もヒロインも成功を目指しているが、自ら進んで暗い闇の世界(含貧乏)に突き進もうとしている(ラストの暗さを思い出せ)。『シンプルプラン』にしても成功(金持ち)への道が破滅への片道切符のように描かれる。登場人物たちの社会への絶望というよりは、彼らと現実社会との間には、絶対にわかり合うことの無い「断絶」がいつも横たわっているように思える。
識り過ぎることで少しずつ心が冷めていく悲劇としてのヒーロー、ヒロイン像が常にサム・ライミの作品の中にあるのではないか。そして彼らはその環境から絶対に逃れられない。その力を濫用することは身の破滅になることを自認している謙虚な主人公でもあるのだろう。しかし自分が行動することは皆を不幸にしてしまう。間違えば地獄行きという重い十字架を背負っていることも分かっている。それが故に慎ましい生活を送ろうとする。しかし運命はそれを許さない…。そのジレンマの繰り返し。それを宿命というのだろう。サム・ライミの根底にはスコセッシやヒッチコックのような厳格な宗教の影響があるのではないだろうか?撮影現場にもスーツを着てくる、いまや珍しい監督でもあるのだから。
それにしてもケイト・ブランシェットの演技のうまさに唸る。いやべつに私が言うことでもないだろうが。あれだけの最小限の動きで豊かな情感を出せるのは大したものだなあ。あと聖なるキチガイの扱いの見事さ、演出だけど計算が行き届いているし、それがゆえにラストに向かって収束して行く深い無常感にも納得が行く。シナリオ的にもハリウッド映画の王道なのだけど、それを堂々とやってもこれだけ風格のあるものになるのだから大したものだ。
あと気づいたのは、往年のテクニカラーへの憧れだ。照明にしても色彩設計にしても意識してやっている。特にラストの屋外の絞り切った露出で影はあくまで黒く、画面の深度を深く設定して硬い画面を作っている。それでいてきらびやかな非現実的なトーンを醸し出している。『スパイダーマン』でも登場人物の昼間のスキントーンをいまのリアルな皮膚感ではなく、わざとのっぺりとしたエアブラシで書いたような明るい色調にしている。その一方で夜の照明の設計も、人物の内面の微妙な息遣いを表すような丹念な陰影を作り出していて、その芸の細かさに唸る。
■ あれこれ |
Date: 2004-10-06 (Wed) |
NHK-BS2の今月来月の映画ラインナップが充実してんなあ。
http://www.nhk.or.jp/bs/guide/g_movie_bs2.html
『月形半平太』(マキノ雅弘 S36)を観たんだけど、自伝によるとこれを2週間で撮ったということに驚き、この年6本監督しているという事実にさらに驚愕する。
一度きちんと分析しないとわからないが、キャメラの置く位置の順番がほとんど予測がつかないけど、観ていて気持ちがいいのだから、滅茶苦茶なところには据えていないことがわかる。しかしある種の法則性がないと早撮りというのは絶対にできない。でも全然わからない。それが演出でありほんとうの職人芸なのだろう。
じっくり観ていると、シーンまるごと抜けていて話が飛んでいるところがいくつかあるので、ここらは間に合わないし、飛ばしてもなんとかなるでしょうと撮影しない潔さが見て取れる。それでも面白くしたるわ!というカツドウヤの意地かもしれないが。
それでいて手抜きになるか簡潔になるかのギリギリのラインで、すっ飛ばす語り口の妙がマキノ映画の魅力であることは確かだろう。これほどどんな条件下でも映画の質が変わらない監督も珍しい。
それを支えたスタッフ、観客の共通の下地には、歌舞伎、新国劇、浪曲、講談の定番の物語や所作のお約束事が、娯楽=大衆劇=大衆文化としてあり、その延長上に時代劇映画もあったのではないだろうか。当たり前のことかもしれないが。
だから同時代的に互いに「理解できるベースが既にある」ことを前提にして、野暮なことは説明しないで作ることができたのではないか。
映画を当たり前に娯楽として身体で面白がるんじゃなく、まず芸術としてアタマで理解しなくちゃいけないと洗脳されて、
その辺の基本が入っていない私たちが観ると、ただもの凄いスピードで物語が転がっているように思えるのだろう。たぶんにそういう「あたりまえの常識」がいまでは「必要な知識」に変わってしまっているのではないか。
表面にあるものだけを観て喜んでいるのもいいけど、その奥に控えているもっと豊かな時代劇映画の時代を識る愉しみもあってもいいのではないかと思う。
京都映像文化デジタル・アーカイヴ ―マキノ・プロジェクト―
京都の撮影所を中心とした映画事情がまとまっています。
http://www.arc.ritsumei.ac.jp/cinema/
若山富三郎先生の部屋
これは凄い。武術からみた役者、若山富三郎の魅力の紹介
http://www.yuushin.org/12_wakayama/00.html
アルバート・ピュン・マニアックス/Radioavctive Heaven
ご存知の方はご存知でしょうが、私はうかつにも知りませんでした。細部への目の行き届いたこだわりのある(ヲタクな)批評が読み応えがあります。
http://www.geocities.co.jp/Hollywood/7544/
■ 日本映画を創った男 城戸四郎伝 |
Date: 2004-09-30 (Thu) |
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4404028008/qid%3D1096470943/249-5821859-7053928
ワイドショーで当たらない犯人像をプロファイルする作家、小林久三(松竹出身)が描く、松竹映画のドンであり、「大船調」を築いた城戸四郎についての評伝です。
「エリート=権力者=性格が歪んでいる=だからいくら叩いてもいい」という史観で全体が描かれているので読んでいて小気味良い(まあそれはこちらの僻みだろうが)。
いわゆる市井のホームドラマをサラリーマンや地方の都会に憧れる客層に合わせて作り上げた功績は大きいのだけど、なんやかんやいって最終的に城戸が認めた大船調は、小津と山田洋次だけだったんじゃないだろうか。城戸の擁護があったから彼らが映画を撮り続けられたことは事実だろう。
松竹という会社を語るとき、城戸がスター中心の映画作りではなく監督第一主義を掲げ、彼らに絶対的な権力を持たせ、閉鎖的な組織作りをしたため、外からの影響をあまり受けず自家中毒を起こした一方、変わり身の遅さがブロックブッキングや松竹っぽさが最後まで残したことも確かだ。
では松竹らしさというのがどういうものなのか、実ははっきりいってよくわからない。
まあ例えば東映のアクション路線と一線を画するのかといわれるとそうでもないと思う。加藤泰は山田洋次や野村芳太郎と仲が良く、彼らにシナリオを書いたり、後年松竹で監督もする。また『男はつらいよ』を山田と共作していた宮崎晃は『トラック野郎』を名前を出さずに書いていた。日活で活躍した浦山桐郎も松竹に入社するはずが病弱のために入れなかった。彼の作品自体、日活的なのかどうか悩むが、同じく松竹から移籍した西河克己の作品の質も松竹っぽいのかもしれないし、それを言うと鈴木清順の大正ロマンの底辺にも松竹らしさがあるのではとちらりと考えてもしまう。
うーん本当のところメンタリティとしての松竹らしさは日本映画のいろんなところに根づいているのではないだろうか。どこがとは指摘できないのだけども。
■ 映画美術 擬景・借景・嘘百景 |
Date: 2004-09-22 (Wed) |
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/489830172X/qid%3D1095861964/249-2272087-3865134
美術監督の木村威夫については改めて紹介することもないだろう。鈴木清順をはじめとする幾人もの監督と組んだ美術で独特の世界観を映し出しその刻印を必ず映画に残す人。彼にインタビューして映画美術の秘密を解いていくはずの本です。
『刺青一代』で清順と撮影所の旧態依然のマニュアル通りのリアリズム作法を打ち破ろうとする作業についてこう語っている。
「(前略)そんなことは他の監督がなさって満足していればいい。こちらはそれまでの映画手法を墨守することは厭だという気持ちが生半可なことでなく強かった。リアルな光線もヘチマもあるものか、ドラマの勢いが要求する高揚したものを探ろう、通俗ドラマにみる前後のつながりもどうでもいい、ある内的なものがズバリ高次元のカタチになっていればいいというわけ。」(一部表現は編集しました)
あのビミョウに詰まったような遠近感のセット。「平面図を見せるとその秘密がわかってしまうから、ここには載せない」ときっぱりというのでいろんなところで曖昧な表現があるのだが、
木村のルーツには舞台美術があり、そこから来る舞台ならではの遠近感の嘘を映画に適応することで、新たに別の制約が出るが、そこから生まれてくる形式が木村マジックの一部を形成していると思う。
現実の建築物の延長のリアリズム美術ではなく、はじめから映画が虚構の世界であることを前提の約束として、逆にそれを強調しながら現実にはあり得ない、映画独自の表現の美しさをどこまでも追求するのがこの人の手法ではないだろうか。
ただその精神だけをどこまでも追求してしまうと、『東京流れ者』のラストの何もないキャバレーまで行き着いてしまう。アンチリアリズムの極北だよね、やり過ぎとも言うが…。
他の美術監督の本と読み比べるとその独自性がよくわかります。
いろいろ面白いことが書いてあるのだが、しかしながら読みづらいことこの上ない本だ。
インタビュアーが肝心なことをいくつも聞き出せていないし、(木村が謎かけをしているのにもかかわらず無視するし)余計な意見をしゃべりすぎ。木村より長く全体の半分以上はあるぜ。しかも内容がほとんどない自己のナルシズム解釈ばっか。編集も座談の言葉をそのまま書き起こしただけのしゃべり言葉で、内容も編集されていなくて話が整理できていない。なかなか内容がアタマに入らなくて困った。
こういうしゃべり言葉って一見読みやすそうな易しいカンジに思えるけど、実は滅茶苦茶集中できないんだぜ、これは編集の常識じゃないの?
この手の映画本で一番ムカツク作りだね。
■ 帝国の銀幕―十五年戦争と日本映画 |
Date: 2004-09-22 (Wed) |
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4815802637/qid%3D1095778037/249-2272087-3865134
大変な労作です。500余ページあるんですが、面白くて一気に読めちゃいました。日中戦争から太平洋戦争へと至る15年戦争の時分を軸に映画界ではなにが起きていたのか。いかにして国策国威高揚映画はできたのか。それを映画作品、係わった映画人、映画評論家、映画法を草起した検閲官僚らの発言を含む徹底的な資料の読み込みと内容整理によって見事に論証している。
いままで断片的なエピソードでしかなかったり、戦中の行動をぼやかしていた部分が繋がり、いかに小津溝口黒沢も例外ではなく、戦後書かれた書物では、いかに彼らが反戦厭戦を唱えて軍部に反抗していたかなど言われているが、この本から鳥瞰すると、映画人らが当時の国策の流れに巻き込まれて政府の意図に従った映画を作ってきたかがわかる。
たとえば黒沢明の場合『姿三四郎』は戦争とは関係の無い娯楽作品ではなく、時流に合った精神主義がテーマにあり、『一番美しく』は工場の増産奨励を目指す政府の指示のあった時期に作られた。『虎の尾を踏む男たち』は敗戦間際の空襲で疲弊した、国民の精神的苦痛を和らげるために出された、娯楽映画を作れとの命令に従ったものの一本だったので、なぜあの時期にエノケンのコメディが作られたということがよく理解できた。会社からの企画と出来あがった作品とは別という意見もあろうが密接な関係があることも確かだろう。
原節子にしても戦後のお嬢様のイメージしかないが、戦時中にかなりのプロパガンダ映画に、ヒロインとして出ていることがわかる(ちなみに義兄はバリバリの戦争協力映画監督、熊谷久虎)。
太平洋戦争期の精神主義映画はいつも同じパターンを持っていて(a)未熟な初心者(b)修行者(c)卒業者(d)武士とその神聖な任務(e)死による成就という展開になっている。それは、なにも知らない初心者が、軍隊で揉まれ修行し卒業して一人前の軍人となり、任務に就き戦場で死んでいく、という構成を持つ。
うぶで無邪気な男が、非情な現場の現実に出会い成長して、任務に忠実な大義のために戦うマシンとして死地に赴く。このお馴染みの展開は、いまでもアニメとかゲームとかマンガとかの、いわゆる幼いヒロイックなストーリーで見られるものだよね。
そのとき主人公に敵対する現実主義者がいて、それに対して主人公は「やればできる」という根拠の無い精神論で立ち向かい、みな一丸となって最終的には奇跡的な勝利を収める(神風ですね)。その間に男女のチョコチョコっとした恋愛話が入ったりする。これってさあ、いまも「プロジェクトX」をはじめとする感動バラエティの常套的な作り方だよね。日本人の心性なのかなあ。ぞっとしない?
映画法にしても映画界が自ら進んで巻き込まれて行った感も否めないと指摘する。それは河原乞食と揶揄され、社会的に相応の位置を与えられていなかった映画界が、この法律により国家のお墨付きをいただき、映画人が登録制度により、地位と雇用の安定を得たのが大きいという。まあ日本社会全体が翼賛体制によりすべての国民が組み込まれていった時代ではあったが。
著者は戦前と戦後を分けて考えるから、物事が見えなくなるという。確かに15年戦争からいままでをひとつの流れにしていくとその中で変わったもの消し去ったものとして転向や戦争協力の否定、変わらないものとして官僚のモノの考えが浮かび上がってくるのがわかる。その連続性は現在に通じるイヤなものがある。
さいきん外国映画の輸入制限(クォーター制)とか政府による助成金とかで国が介入して日本映画を保護しろみたいなことも言う人があるようだけど、(井筒がテレビ喋っているのを見たが)わたしは反対だね。
そんなことをしたら役人が出てきて碌なことにはならない。官僚は一度掴んだ既得権益は絶対に手放さないし、カネを出す(クライアント)なんだから、どう考えても口出ししてきて事前事後検閲するに決まっている。どーせ公序良俗映画しか許可されないようになっていくんだからね。そこらは昨今はやりの自治体ヒモ付き観光映画(あとはなぜかアニメね)をみればわかるでしょ。役人の考えるイイ映画の定義とはそんなものですよ。昔も今も。
ちなみに数々の戦争映画を作らせ検閲を合法とした、映画法の第一条も、立派なものでした。
本法は国民文化の進展に資する為映画の質的向上を促し映画事業の健全なる発展を図ることを目的とす(原文カナ)
■ パンク侍、斬られて候 |
Date: 2004-09-15 (Wed) |
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4838714904/qid%3D1095252038/249-2272087-3865134
大体私が未読だけど評判の作者の本を読もうかどうしようか悩んだときには、その本を手に取り読まずに、ぱらぱらページをめくり、漢字とひらがなの割合、改行が多すぎないか、句読点のリズムは、なんてことをまず見ることにしている。そのバランスの良さか、文体の濃さを基準に読むかどうか決めている。説明できないが書籍の艶みたいなものと理解していただきたい。
なのでどんなにネットで良い良いと騒がれていようが、きちんしただけの色気のない読書感想文のような優等生文章文体は、まず却下するし、やたらスカスカですぐに読み終わりそうな平易というのもおこがましいものベストセラー類もダメだ。
そのあたりを軽くクリアして、その上筒井康隆が一番滅茶苦茶だったころのような話だと聞けば、これを読まずにいられるか。
オモシロイ!やぁ、一見通俗時代小説(伝奇小説ですなあ)のカタチを使っただけなのかと思ったら、あれよあれよという間に饒舌文体が、登場人物たちを複雑怪奇に絡めて仕上げていくうちに、どう考えてもありえないけったいな物語が次々に飛び出し一気に明後日の方角に疾走していく。どこまでも具体的に丁寧に省くことなく描き過ぎなほど描いて、ぐにゃぐにゃに曲がりくねりながらも、いつの間にかそのこと自身が魅力となって、さらに雪ダルマ式に膨れ上がって収集がつかなくなっていき、読み手が呆然としてしまう様は、いままでの彼の小説でお馴染みのものだ。話言葉が時代劇なのに、無茶苦茶現代語とチャンポンにされて、しかも数ページにわたって展開する。それもほとんど無駄話。この味わいのおかしさは表現できません。出てくる人物が全然時代劇っぽくなく、イマドキな感覚で物事を論理的に考えたり、藩士がすぐにサラリーマン的に保身に走ったりする自己を正当化して他人を貶めまくる。そんな偉そうに、他人にムカついている輩も、じつは同じ穴のムジナだったりする、嫌味の玉手箱のような町田康脳内世界の右往左往が長編のカタチで見事に成立している。堪能しましたごちそうさまでした。
■ 野中広務 差別と権力 |
Date: 2004-09-13 (Mon) |
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4062123444/qid%3D1095044666/249-5043436-5522701
きわめて刺激的。自民党一党独裁政権終了による55年体制崩壊後、いつの間にか権力の場にあらわれ、影の総理とまで呼ばれ、そのチカラを見せまくった政治家、野中広務。
マスコミに登場する姿からは、タヌキ親父としかわからないその実態を見事に映し出し、同時に彼を中心にこの10年ほどの永田町政治に一体なにが起きたのかを検証している。
野中のバックボーンにあるものについては本書を読んでいただきたいのだが、彼の辿った政治家としての歩みは田中角栄と似て、叩き上げの現実主義者であり、そのためか小沢一郎、小泉純一郎などの理論派二世議員とは反りが合わない。
また彼は政治の潮目をみる人間だといわれる。そのため、保守派として京都の町長からスタートしたが、京都府議になると革新知事に取り入り、自民党の衆議院議員になるとあっさりと、また保守に鞍替え。田中角栄と親しくするも、例の竹下クーデターに加わる。
細川内閣で野に下った自民党政権時代、社会党と手を組み自社さの村山内閣を仕掛け、官房長官となる。
次に公明党に近づき、いまの自公保のカタチを作り上げる。
ここで浮かび上がるのは、政権(システム)を維持するためには、理念をも捨て去り、昨日の敵と手を組む現実主義者の姿だ。
それを見て取れれば、社会党との連立(社会党側の田辺誠一も立場は違えど、野中と同じような時代に同じように叩き上げで国会に登りつめた男で、その意味で同じ釜のメシを食った55年体制組ということ)、公明党とは選挙協力する現状が理解できるだろう(小選挙区のためいまや学会票が自民党候補の結果をも左右する)。結果自民党が自民党である必然性が無くなり、結果、古くからの自民党員の反発が、小泉が出てくる流れを作ったといえる。それは過度に保護をしてきたシステムに逆襲された皮肉とはいえないだろうか。
このように見てくると彼が有能だったのは、時局を見る目があったからで、理想を語らないが故に、混迷の時代だからこそ必要とされた人物だったかもしれないが、それは調整役としてであり、理想(グランドデザイン)を持つべきはずの政治家としてのチカラとはまた別のように思える。
もし後年の歴史から俯瞰したら、彼の業績は二大政党時代の到来を遅らせた人物として語られるのではないだろうか。
■ 小型映画についても覚書 |
Date: 2004-09-09 (Thu) |
↓の本を読んだので久々に小型映画情報を調べたくなった。
デジタルヴィデオの世界ではこの秋HDV(高精細デジタル?)規格という新しいものが出てくるのだけど、まだどんな画質になるのかはまったくわからないのでいまのところ何も言えない。
http://www.watch.impress.co.jp/av/docs/20030930/hdv.htm
ただ今の段階でヴィデオがフィルムに代わるものかは、
http://seigo.com/cinema/jp/top-menu.html
の「cinematographer's TIPSの“アナログとデジタルのゆくえ”」や他の記事の中で詳しく考察されているのでご一読ください。こちらのサイト大変勉強になります。
で、実際フィルムを使う場合、どんなことになっているかと検索するとこんな16mmカメラが出ていたのね。
<AATON A-Minima>フランスのメーカー、スーパー16仕様。
http://www.sei8404.com/camera/aaton/a-minima/top.htm
専用のカートリッジ付き(?)フィルムも販売されている。
http://wwwjp.kodak.com/JP/ja/motion/products/negative/aminima.shtml
うーんこんな最新の機材は使わなくても持っていられたらいいなあ(手元不如意につき不可能)。でもスーパー16なんて規格はもはや終わったと思っていたが。そうか、ヨーロッパのテレビ番組用にはいまだにフィルムが多いし、ハイビジョンというか高精細放送規格用なのだろうね。それにドキュメンタリーだとスローモーションなどのコマ数変換が美しくできるのはやはりフィルムなのだろう。
あとは低予算映画市場を狙っているのかしらん。Vシネのような状況が世界中で起きているのだろうか。公開用のプリントは1本だけ作り、あとはビデオにするから16mmでいいと…。
HD24pのカメラの性能が疑問視を持たれているいまなら、AATON A-Minimaなどのスーパー16の方がテレビ番組や35mmブローアップとしては最適と売り出して、隙間市場を作りたいんだろうなあ。
でもさ、一方で16mmだとこんなカメラの使い方もあるんだよねえ。
<ボレックス>
http://wwwjp.kodak.com/JP/ja/motion/newsletters/inCamera/jan2004/planetsP.shtml
ゼンマイ仕掛けのモーターでスーパー16に改造しているって、格好良いなあ。
こーんなカンジで入手も可能だ。
http://www.m-camera.com/etc/movie.html
使い方もこんな風に解説あります。
http://www.mediajoy.com/movie_club/bolex/index.html
この機種なら学校や公民館の倉庫に必ず眠っているはずだから、その気になれば探して使えるはずでしょう(メンテナンスがいるかもしれないが)。
オマケ。こんなカメラもあります。
http://film.club.ne.jp/item/used_16mm2003.htm
とは言っても、実際にはフィルム代と現像費でこれくらいはかかるようです。
最終的に上映プリントを作りたいのか、ビデオ仕上がりでいいのかで価格が変わると思います。
http://www.sutv.zaq.ne.jp/ttworks/a3.8.html
こちらのサイトも大変勉強になりますのでトップからご一読を。
結論としては、カネがあればフィルム、無ければヴィデオ、以上!(んなこたぁ、端からわかってるって)
■ いかにして100万円でインディーズ映画を作るか |
Date: 2004-09-08 (Wed) |
ヨコハマBJブルース
工藤栄一プラス松田優作なんだけど、実は最大の功労者は脚本の丸山昇一ではないか。
見事なまでのレイモンド・チャンドラーの換骨堕胎。探偵がどこまでも愚かで醜い人間たちのうごめく様を見つめているうち、いつの間にか渦中に巻き込まれる。ただそれだけで余分なものは、なにひとつ足しも引きもせずに簡潔に描いている。
そしてヨコハマを舞台に、ほとんど夜と気怠い夜明けの風景だけを切り取った仙元誠三のキャメラワーク。小品としては申し分ない。
いかにして100万円でインディーズ映画を作るか
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4845904586/qid%3D1094643672/249-5043436-5522701
映画製作における困難の99.9%はカネの問題であり、残りの0.1%は運とかそんなもんだ。ようするにカネがあれば映画は難なく撮れる訳で、逆に言えばカネがなければ、どんなに素晴らしい構想であろうが才能であろうが具現化するこたぁ無いというのが現実です。まあそんなことは書いても気が滅入るだけなので、この本を紹介しよう。
ここには友達家族信用仕事を失くしても、映画を作ろうというヒトには最適な実践的な映画づくりのノウハウが書かれている。しかもどこまでが法に触れず、この一線を越えると刑務所行きだという親切丁寧な助言付きだ。
著者はジョン・ウォーターズの映画を地で行くような映画キチガイ。低予算で自主映画を作り映画祭にも出すがいまだに全然売れず無名のままという経歴だ。そんな彼が徹底的にユーモア溢れる辛口で書いている。
たとえば「あんたのような典型的な低予算フィルムメイカーに撮影可能な映画は2タイプある。インディペンデント映画祭用の作品とBムービー売りの作品だ。このふたつは天と地ほどかけ離れているって印象があるけど、それは間違いだ。じつは、この二つ、ほとんど同じモノだと考えていい。両方とも、セックスや暴力の探求をする」
映画祭で受けるタイプ
1.21世紀版にアップバージョンしたウディ・アレン風のクレバーでキレる台詞を喋りまくる系の映画
2.名詞重ね合わせタイトル映画 (『ガス・フード・ロジング』とか 『恋人たちの食卓』Eat Drink Man Woman なぜかいつも愛情を失ってしまったカップルが他人の訪問を受けることで自分たちをまったく新しい角度から見直すという内容が多い)
3.昔のノワール系映画をアップデート、もしくはずうずうしくマネして現代的なものに作り変えた映画
4.ゲイのインディ映画
5.「私はこの映画をデジタル・ビデオで照明も三脚も使わずに撮り切りました系」映画
具体的には10日の撮影で16mmフィルムを使い、ビデオで仕上げるまでの費用が、100万円。もちろんノーギャラ。映画祭等での上映プリント代は入っていない。まあそのあたりは配給会社に売れたり、映画祭上映が決まってから考えるということなのですね。その予算の配分とかいかにまわりを(騙して)協力を得るかとか、現像所との交渉の仕方や安く機材を借りるためのちょっとした駆け引きとか、監督らしい帽子(キャップ)は「オークランド・レイダース」か、それとも「ニューヨク・メッツ」がいいか、ドーナッツを喰うのは学生映画で大人の映画人はクリームチーズ入りのベーグルにする。ベーグルのいいところは電子レンジでチンするだけで翌日も食えることだなど役に立つ情報が満載だ。
でも結構マジメでもある。自主映画で一番大切なパートは音声で、これがダメだと撮影や演技が多少下手でも許してくれる観客でもちょっとでも台詞が聞き取れなかったりするともう観てくれないとか。すべてのショットを登場人物が入ってくるところからはじめ出て行くところで終える(「ウォーク・イン」「ウォークアウト」というらしい)と編集で最悪でもどうにかなるとか。
技術についても機材とかフィルム、ビデオについての解説も充実していて下手な日本の解説書を読むより参考になる。ただまったく基礎知識が無いとちょっと難しいかもね。でも自分にわかるところだけ読んでも充分に面白いしなによりも日本もアメリカも自主映画の現場ではそんなに変わらないんだなあということがよくわかる。
■ 工藤栄一とヒッチコックのレビュー |
Date: 2004-08-30 (Mon) |
泣きぼくろ 1991
工藤栄一 ヴィデオ
日本の風景は画にならないとか、日本は狭いのでロードムービーが撮れないとかいって、いつの間にかバブル以降の「いま」の日本の姿はないことにして、未だ持ってちょっと懐かしい高度成長期や古きよき日本という、昭和の幻影を描くことしかできない日本映画。いったい現在はどこに映っているのか。
おっと思わず一般論から入ってしまったが、それでも崔洋一と浜田毅が切り取ったハードボイルドの風景やその前に村川透、工藤栄一らと組んだ仙元誠一が作り上げた都会の闇の画があったことは忘れてはいない。要は作り手の意識だろうね。
この作品で藤沢順一が監督と作り上げた日本の風景、都電の通る下町の商店街、ベンツの走る国道、海の見えるドライブイン、取り残された東海道本線の駅前、バブルで様相の変わった名古屋駅。広大な田圃の真ん中を新幹線が通り過ぎていく。当たり前にあるのだが意識せずに通り過ぎているいくつもの風景が息づき、いまの空気が横溢し呼吸をはじめる。匂いが暑さが風が感じられる。まさにいま同時代を生きている私たち観客と同調し伝わってくる。それは昨今はやりの「写りもしない、透明な空気感がみごとに描かれている日本映画」なんていうのとは無縁のものだ。
そこにいつの時代にもいるダメな奴らがあらわれる。少年院帰りの木村一八が一応主役なんだが、出所したときには組が解散していた叔父のヤクザの、山崎努がイイ。すっとぼけた不良中年の破天荒さが工藤作品のコメディタッチとよく合っている。そのままのトーンで泣かせ場に突入し、あれよあれよのうちに去っていく風来坊の姿を格好良く格好悪く演じている。もうひとりの旅の道連れ、元ボクサーで北海道の農夫を演じる、大滝秀治にオーバーアクトをさせながら、アップが最後にひとつしかないのはさすがだ(これは観客がテレビでお馴染みのあの人だとわかるから逆にそのキャラクターを利用した計算ではないだろうか)。
大体いつまでも古びず観られる映画は、すぐに古びる同時代の風俗がきちんと描かれている、抽象性に逃げるスカした映画は結局のところ残らないものなのさ。現在という時代の新しい袋に、相変わらずの人間のドタバタ劇という古い酒が入るのが、オモシロイ映画の必須条件だと考えてるんだよね。
久しぶりにすげえものを観ているとわくわくしてきたねえ。大した話じゃないよ、でもひとつひとつていねいに撮ることで見えてくるものに、最後にあっと驚かされじーんとくる。そんな小品(プログラムピクチャー)です。松田優作の主題歌はいまひとつ思い入れが強いのだろうが合っていない気がした。
野獣刑事 1982
工藤栄一 ヴィデオ
夜、人気のない造成中の郊外住宅地のバス停。しきりに雨が降る中、一台の自転車が停められ通り過ぎる車の逆光のライトに照らされている。やがて終バスから一人の女が降り、赤い傘を広げる。うーんこれだけでお腹いっぱいだ。
工藤栄一は人間全体、全身を捉えようとする。テレビの続きのようなつもりでビデオを見ていたら、ほとんどアップが無いので、くたびれた。工藤スタイル(たぶんにテレビ番組作りの制約から生まれた)が歴然としてあるのにキチンと映画とテレビを別物として演出している。シナリオの構成がバラバラで緒形拳の役がどんどん小さくなっていったのが不思議。泉谷しげるが後半あれほど重要な役になるとは思わなかった。途中でシナリオが変更になったのだろうか。それならいしだあゆみがいなくなったところから、緒形、泉谷、子供の話にしたほうが面白かったと思う。川沿いのアパートの風景に対して、郊外の新興住宅地を配したのは良いが生かしきれていない。川沿いの家が火事になり黒煙が上がり、消防車がサイレンをけたたましく鳴らし、その奥で飛行機が落ちてくるように着陸する異様な日常の光景の方が印象深い。どちらかというとはみだし刑事ものにも食傷ぎみな時代だったと思う。架空の反権力物語の時代が終わり、現実の狂気の物語がテレビから飛び出してくる時代に移行している時期の空気がうまく捉えられているように思える。
赤と黒の情熱1992
工藤栄一
ヴィデオ
野沢尚の脚本の、いかにもバブルの頃のドラマ作りの残滓が見え隠れする。彼のドラマの人物っていつも薄っぺらいんだよね。分かりやすい類型的なのとはちがう。好人物なのに実はキチガイとか、都合良く記憶を失うとか、ありえない人物を説得させる要素がないと思う。『その男凶暴につき』なんかはそれが逆に殺伐とした人物たちの登場となり、演出とも合ってうまくいったんじゃないだろうか。
工藤栄一とは基本的に人物の捉え方がちがう。この場合は無理矢理なミステリー仕掛けというかサスペンスで、上記のいい加減な精神医学としての記憶喪失が使われている(まあそういうものが流行った時代ではあったが)。なのでその縛りがあって物語がまったく弾けないし登場人物たちの本音も分からずにラストまで進んでいく。陣内孝則がチンピラにしては偉そうにしすぎて興ざめする。工藤映画では若さのない偉そうにしているのは、いつも敵で、年老いても偉ぶらないものが若者として溌剌と描かれているように思う。
影の軍団 服部半蔵 1980
工藤栄一ヴィデオ
工藤栄一の作品を観ていると、主人公が登場するシーンでは、いつも全面的にその人物を肯定するシーンから入っているような気がする。
まず彼がどんな設定でどんな人物であろうが、それ以前に彼をまず受け入れるべき人間として描いている。これは明朗東映時代劇調の流れなのだろうか。否応なしに観客は彼の存在を何の警戒を持たずに好ましく受け入れてしまう。そのためのフルショット、縦の構図での演出がいつも素晴らしい。
無残な死に方をしていく若者たちの姿を描くシーンは良いのだけども、これは新人が多く出てきた角川映画の時代の影響だろう。戦いのシーンがカットが足りず、延々と続くのには参った。
江戸城に潜入してから最後に至るスペクタクルシーンの裁き方はさすがだと思わせるものがある。これを観ると、もし角川春樹が工藤栄一に撮らせていたら、面白かったのになとしきりに思う。(インタビューによると角川春樹と会ったときについ失言をしてしまったという)
やくざ対Gメン 囮 1973
工藤栄一 ヴィデオ
パクられた麻薬売人のチンピラ松方兄いを脅して、潜入捜査をする麻薬Gメン梅宮兄いが麻薬組織の元締めを探すという、組織からはみでた二人のグタグタなところで面白くなりそうなハナシなのだけども、どうも脚本がグズグズで辻褄が合わずに無茶苦茶さだけが残る。
二人にしても東映のなかでは若いんだろうけど、若さのかけらもみえない。当時、松方弘樹31才、梅宮辰男35才に対して、萩原健一は23才で水谷豊は21才だった。そういうものだといってもいいけど、同年には『仁義なき戦い』シリーズが作られているんだよねえ。まあ映画のなかのコマとして面白く動くのが深作欣二としたら、コマが人間になったところで映画が動き出すのが工藤作品じゃないかな。その意味ではヤクザ映画が好きではなかったのは分かるような気がする。
十一人の侍 1967
工藤栄一 ヴィデオ
シンプルで力強いストーリーを、ディテールの描き方で肉付けをしていったおかげで、現代的な説得力を持った作品になった。集団というには個々人にそれほど魅力のない侍十一人が隣国の暴君大名の首を取るまでの暗殺劇を追っている。
なんのかんのいって壮絶な雨と霧にけぶる風景の中での延々と続く殺陣が凄い凄い。『十三人の刺客』の小技で膨らませた部分を取り払い、ただただ殺す殺す殺すに徹したシーンで最後まで緊張しっぱなしだ。あれを一日で撮影したというのだから唖然とする。
潮路章が儲け役です。西村晃も『十三人の刺客』の続きのような役をさらにパワーアップしている。こっちの方がいいなあ。
あと新婚の夏八木勲が柿の木から下りられなくなった妻を抱えて下ろすシーンがうまいなあと感じた。これは工藤のうまさでもあり東映時代劇の持っている雰囲気でもあったのだろうなあ。
『大殺陣』が観たい…。
日本暗黒史 血の抗争 1967
工藤栄一 ヴィデオ
上映時間は短いのに、やたら長く感じた。ひとつひとつ丁寧にエピソードを追っているんだけど、それが物語を進めるんじゃなく人物を描くのともちょっとちがう。怖いものみたさ、本当の安藤組はこうだったんじゃないだろうか、と観客の興味を満足させるような覗き趣味の部分はよく出ているし、警察が適度に介入し、悪は滅びるという教訓話にもなっていてバランスは取れている。いまの目から見ると物足りないのだろうが当時は画期的だったのではないかな。いまひとつ現代劇として弾けていないのは東映時代劇の枠がはまっているのではないだろうか。でも『十一人の侍』も同年なんだよね。あの殺陣の自由度とこの映画の硬直した銃撃戦の違いはなんだろうか。
十三人の刺客 1963
工藤栄一 ヴィデオ
名作と言われ続けているが、私はヴィデオが普及していなかった時代の隠れた名作であって、いまとなってもそうかといわれると、『十一人の侍』の方がいまの時代に合っていると思う。
確かに明朗東映時代劇の時代、または『七人の侍』まで行かなくとも凄い集団アクション時代劇が観たいと思っていたら、これに出会ったという衝撃は記憶に残るだろう。
十三人もいるので、途中が端折られ人物が描き足りない部分がシナリオの欠点になっているし、片岡知恵蔵が主人公たり得ているかも疑問な部分がある。幕府の命で大名殺しをやるというえげつないテーマを救ったのは、内田良平と西村晃の存在だ。また脇にまわったアラカンが知恵蔵よりもキツイ役をやっているので、知恵蔵が冷酷な大名殺し役人として浮かず、切れ者の策謀家としてもみえないようにしている。対照的な内田良平の必死な形相と妙に醒めたナレーションのトーンががこの映画を支えていると思う。
忍者秘帖 梟の城 1963
工藤栄一 ヴィデオ
よくわからないのだけども、大友柳太郎はなんであんなに主演作品が多かったのだろうか。表情が乏しいし、セリフも棒読みだしね。
柳太郎と大木実が昔の友で明日からは敵という最後の晩に寺で会い語らうところに、工藤作品らしい調子が出ていた。そのほかはああいうものですから、それなりなお話にまとまってました。
さそり
伊藤俊也 ヴィデオ
伊藤俊也の第一作目は好き放題やってみたという部分が前面に出て潔い快作になっていた。鈴木清順のスタイル影響があるように思えるのに、政治的に左か右かという問題だけがずっとこの人には付きまとっているように思える。当時の時代の気分にピッタリと合ってしまったのが一因じゃないだろうか。
あの日の丸君が代も面白いから入れてみたくらいの感覚で受けたから良いんじゃないという遊びだったと思う。でないと梶芽衣子の血が白地に広がり日の丸に見えるなんて表現をするのだったら、夏八木勲の最期は、はためく旗の影だけでキレイにまとめるのではなくて血染めの日の丸に包まれなければならない。
スタイルでいえば歌舞伎調といわれるパターンだけど、あれは隈取であってなんの歌舞伎でもないと思う。清順様式美に対抗したいんだけどどうしたらいいのか、そっかカブキだ!というくらいな考えじゃないでしょうか。これも受けたから続けようと…。
伊藤俊也の本質はノリ易いロマンチックなスタイリストだと思う。様式美を取り込むことができる舞台作りがあれば右だろうと左だろうと関係ないという、東映体質を体現したような人ではないだろうか。
引き裂かれたカーテン
アルフレッド・ヒッチコック DVD
映像特典に入っている没となったバーナード・ハーマンのスコアが素晴らしい。これを使わなかったことが二人を決別させた動機になったことは事実なのだが、この映画のテーマとして頭に残るのはどちらかというと軽快なとぼけたテーマ曲だ。
救いのない冷戦とスパイという現実の世界をハリウッドコードに焼き直すとどうなるのか?複雑な現実世界をお得意の事物の単純化で描く矛盾と本心がわからないスパイの心理を描くということの矛盾。自らになにかを課すことで作品の質を高めるヒッチコックとしては、制御不能な要素はまったく排除したかったに違いない。だがどうやってもドツボにはまるだけだ。
その結果が「逃げとしてのコメディ(笑えない)」になったのではないか。まるでブレーク・エドワーズのように…。よくみるとどう考えても、ありえない世界なので苦笑するしかない。シリアスに考えるのにはバカバカしすぎる。そのあたりをどっちつかずの態度で作っていたので混乱したのではないだろうか。
かといってこの作品の場合、コメディとしての大嘘がなく、適度にまとまっているところが却って作品の弱さを露呈している。『汚名』のプラトニウムのようなマクガフィンが、ミサイルの数式というのは面白いが、コメディにするならそのあとの大仕掛けがいるはずだ。バスのシーンを膨らますとか(のちに『フレンジー』のトラック、『ファミリー・プロット』の坂道でコメディとして部分的にやり直したと思う)、派手なスペクタクルシーンがないと、日々、新聞で読む現実の冷戦という生々しさ(核全面戦争の恐怖)には対抗できなかったのではないだろうか。その意味では時代の要請には応えられなかったし、応える気がなかったのではないか。
トパーズ&フレンジー・メイキング
アルフレッド・ヒッチコック DVD
メイキングのなかでの指摘「ヒッチコックはヨーロッパ映画のようにしたかった」というのは面白い。彼がアントニオーニの『情事』を観て嫉妬したことは伝記にも書いてあるが、いわゆるハリウッドコードから逃れている欧州映画の新しい流れは、先駆的実験的なことが昔から大好きな彼を刺激しただろうことは容易に想像ができる。
ただし『ロープ』の頃と違ったのは、彼の実業家(プロデューサー)の部分と体力だったのだろう。このふたつをクリアできたのなら、若々しい作品ができたのだろうが、残念なことにこの作品はなじみのないヨーロッパ人俳優たち(アメリカではまだ無名ということ)が、ハリウッド近郊で冷戦スパイごっごを繰り広げる、古めかしいお手軽な作品にしかならなかった。
この失敗から立ち直るのには『フレンジー』まで待たなければならなかった。『フレンジー』ではまったく無名の舞台俳優を使い、低予算で、現在のロンドンだが、実はヒッチコックのアタマの中にある往時(第二次大戦前)のロンドンを舞台にしているため現代的じゃないという非難も乗り越え、余計なプレッシャーから逃れ心地よく演出ができたはずだ。言い方を変えれば『サイコ』で行った実験(低予算、ショッカー演出)を、場所を変えてやり直したということだ。
『トパーズ』に戻るともうひとつの実験、スター不在でどの人物も等分に描こうとする、当時の硬直したスターシステムへの嫌悪が噴出していると思う。その実スターがいないと興行的な見返りもないこともわかっているというジレンマがひねくれた思考に行き着き、さいごには主演はヒッチコックで、ヒッチコックの名前があれば、他はいらないという強烈なエゴが表面化したのではないか。
■ 楽天楽観 映画監督 佐々木康 |
Date: 2004-08-18 (Wed) |
m@stervisionさんhttp://www.ne.jp/asahi/hp/mastervision/のところで立川の映画館について書いてあった。懐かしい。自宅からチャリンコ漕いで30分のところにあった立川駅北口の映画館はよく通いました。小汚いボロボロの名画座とは違い、家族向けにきちんときれいにしている映画館だった。書き加えることがあるとしたら、「立川セントラル」と「立川中央」はいわゆる二番館で、ロードショーが終わった作品が3ヶ月から半年くらい遅れで洋画二本立てで興行されていた。料金は学生で1000円だったかなあ?「ぴあ」を持参すると、チケット売り場の箱の中で、ポンと日付の入ったスタンプを押してくれて200円引きになった。二本立ても二本とも好きな作品になることはないので、好きなのから観て一本は我慢してもう一度観るか、はずれの二本目を(もったいないので)、観てとぼとぼと帰るかは、そのときの意気込みで決めていたような気がする。確か入れ替え制ではなかった。ただ盆と正月は大作一本立てをロードショー館として興行するので、その間は二本立てはやらず観る映画が無くつまらない思いをした記憶がある。
(もはや誰もついてきていないだろうが続ける)
『テンタクルズ』と『ビッグマグナム77』『遠すぎた橋』は一本立て興行。『グロリア』と『殺しのドレス』『ジョーズ2』が怖かったのでもう一本記憶無し『コンペティション』と『レイジングブル』『サイレントムービー』と『ピンチクリフ・グランプリ』『十戒』と『世界の空軍』(一本が長かったのでこれは短編)『アルタードステイツ』と『アメリカンジゴロ』『オール・ザット・ジャズ』と『ミーンストリート』…。かなり記憶違いがあるがまあこんなカンジ。
メシとかどうしていたんだろうか?場内で食うなんてことはほとんどしなかったし、そういうことを軽蔑していた。ましてや買い食いなぞ乏しい小遣いのなかからひねり出すことはできなかった。その分はパンフレットにすべて費やされていたはずだ。m@stervisionさんの描写が詳しいのはきっと通いつめてたに違いない。立川の三つの映画館のラインナップは都内の二番館でも充実度はNo.1だったと思う。まだ名画座で旧作映画の追っかけを始める前の中坊にとっては、ちょうど良い作品がいつでもやっていたんじゃないかな。
楽天楽観 映画監督 佐々木康
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4898301606/qid%3D1092706496/249-1631839-7793140
またまた開いてはいけない箱を開けちゃった感がある。
佐々木康は戦前の松竹でメロドラマ、音楽映画のヒット作を連発。戦後第一作『そよかぜ』は忘れられても主題歌の「リンゴの唄」はご存知の通り。またGHQの指導による接吻第一号映画『はたちの青春』もこの人。例のフルムーンCMの高峰美枝子のイメージも彼の作品からだ。
マキノ光雄に乞われ東映に入社後、明朗時代劇チャンバラを撮る。どんなシナリオでもスターでも早撮りで作り続け、劇場用映画は168本を監督する。テレビに活躍の場を移してからは、『銭形平次』のメイン監督など約500本のテレビ作品を手がける。
いつもながらプログラムピクチャーの監督の功績に光を当てようとする編集者の円尾敏郎らの仕事には頭が下がる。佐々木康の家族らがインタビューでそんなに優れた監督じゃなかったんでしょ、というのに対して訥々と娯楽職人監督の演出力の凄さについて語る熱さが素晴らしい。
松竹で清水宏、小津安二郎の助監督をしてきて、さあ自分も芸術的な作品を作ってやるぞと意気込んだら、撮影所長の城戸四郎に「おまえをいままで養ってきたのは、小津のような芸術作家を育てるためでない。もっと興行的に当たる写真を撮らせるために育ててきたんだ。こんな、批評家相手の映画は絶対に許可しない」と言われる。
それで当たる映画を作り続け会社を潤し、日本映画の黄金期を実質的に支えたのだから、そこには大衆に支持されるものを作り出す手腕があったということだ。時代を作品から切り離す批評家目線からだと単なる職人商売監督ということになるのだろうけど、小津が何人いたとしても、決して日本映画の黄金期は訪れなかったはずということは、当たり前だが指摘しておきたい。親の世代は次々と二本立て新作を毎週のように、映画館でお煎餅ポリポリ齧って観てたんだから敵わないねえ。いまそんな彼らを本気にさせて足を運ばせる映画がどのくらいあるのだろうか?
なーんて知ったかぶりをしたけども、まったく意識して観たことがないんで本当は何も言う資格すらない。
西川克己監督の松竹という会社の当時の雰囲気についてのインタビューが面白い。工藤栄一がよく佐々木監督宅を訪れていたということも書かれていた。その辺りについてももっと知りたかったなあ。
まだまだ何にもわかってないなあ、オレ。…渡辺邦男、松田定次、河野寿一……先は長いです。
伊福部昭の映画音楽
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4948735809/qid=1092706515/sr=1-2/ref=sr_1_2_2/249-1631839-7793140
映画を語る以上に難しいのは、映画音楽を語ること。本書はこれに成功していると思う。ドキュメンタリー、アニメーションを含む伊福部の映画25本を選び、時代別、ジャンル別に分けて徹底的に一本一本考察するねちっこい作業と日本映画界の時代的技術的な流れを丹念に追いかけることによって、作曲家伊福部昭の全体像が見えてくる。
伊福部によると映画音楽のできることは4つしかないという。それを映画効用四原則と呼んだ「1.映画が表す感情を音楽でエクサイトさせること。2.場所と時代の設定をできること(時代場所を表す音)。3.シークエンスを表す(ここからここまでがひとつのドラマだと音楽を流して示すこと)。4.フォトジェニー(映像それ自体が何か音楽的なものを要求する。薔薇の花をハイスピードで撮って、ゆっくりと花が開くところに音をつけるとか)」。これ以外は無駄な音楽という。
新藤兼人監督『原爆の子』で、投下の瞬間から時計の秒針の刻む音だけになり、爆発の瞬間に無音に絞られ、被爆者の姿が映るころに静かにコーラスが入る。これっていまでは普通のテクニックとしてよく使われるけど、伊福部がオリジナルだったのか!
いわゆる現代音楽家が自作を作曲し発表する場所は、ある時期、映画しかなかったわけで、その意味では現代音楽の考え方についてまでも踏み込んでいる。
映画を音楽から観て、やがて作曲家に辿りつく本書は、映画音楽からみた戦後日本映画史としても充実している。労作です。
■ サイン |
Date: 2004-08-16 (Mon) |
DVDにて。
『ヴィレッジ』公開前に観とかなきゃと借りてきました。えーみんなこれ好きじゃないの?私は好きだなあ。なんか期待が大きすぎたから、アレレと思ってしまうのかもしれないけど、こういうハッタリを別のものに変えていくのに語り口だけで最後まで引っ張るのにはチカラが要るよ。だってやる気のないC級SFホラーの脚本と何一つ違いは無いのだから、最初にシナリオを読んだ人たちは戸惑ったんじゃないだろうか。でもこのまったく信じられない物語を別ななにかに仕上げた奇跡を見たメル・ギブソンは『パッション』を撮る決意を固めたのではないか(妄想)。
それはともあれ判じ絵のように観客と登場人物たちが何をどう信じるかによって全然見えてくるものが変わってくる仕掛けにはぞくぞくさせられる。全能の「神」の視点が、実は個人が見たいと思っている事象の投影に過ぎず、個人的な偶然が、実は大きな必然に繋がっていたりする様が浮き上がってくる時は感動的ですらある。スティーブン・キングの良いときの小説のような印象がある。逆にキングの映画化で足りないのは、画面のケレンではなく、語り口のケレンの部分ということがよくわかる。
最後の晩餐が典型的なアメリカ人の料理だったりするのはギャグなのだろうか。現実の悪魔の使者の役を監督が演じたのは、非白人という見かけの典型的な悪役を自らが演じることで、言われなき非難を一挙に封じる意図があったのだろうか。これも判じ絵だと思う。
■ 近松物語 |
Date: 2004-08-10 (Tue) |
溝口健二。やっぱわからんオッサンですなあ、ホント。
青臭く若者ぶって「モンタージュがワンシーンワンカットが、演技が、キャメラが、大映美術が…」いくら声高に叫んでも、叫ぶほどに足元を掬われ地面にアタマをぶつけるだけだ。
定説神話としては、厳然と映画に関して自らを律し、それに基づいて作品を作っていく。「ワンシーンワンカット然り、リアリズム演出然り」と言われている。純粋さを求める映画青年たちは心酔し神のようにミズグチを褒め称えるのだ…という風に思われているんだけどね。
実はそこら辺はヒジョーに建前で、繋げるためにはアップを入れたり、カットを平気で割る。顔のデカイ長谷川一夫が主演だったり、芸術祭参加大作といっても2時間なかったりする。ひとことで言ってしまえば大人な映画なのですな。頑固親父だけどもさいごのところで「まあ色々あるけどこれもオトナの事情ということで、まぁどうにかしましょう…」と清濁をのんでまとめる見事な腹芸のおかげで、いまも普通に観ておもしろいし、青年や研究者を惑わせるんだと思う。
映画を語ったり研究するということは、映像言語を分かりやすく文字や話言葉に置き換えることであって、それには分類するために一貫したスタイルのようなものがあると分かり易い。一途に純粋なものを求める方々にはそれで宜しいかと思われるが、そこからこぼれ落ちるものを無視したり、無理やりにレッテルを貼り分類する所業は観客にとっては有難迷惑至極。
ということで一貫して言われる溝口のリアリズム演出というのも眉唾ものと考えている。日常の延長や反演劇的なるものをリアリズムというのであれば、溝口演出は違うと思う。ただ確実に他の映画演技演出と違うのは、伝統的劇場演技(含歌舞伎新劇等)の延長にいまもある役者芝居を排除しようとしているところだ。
要するに芝居という形態の制約によって生まれるカタチ、所作だけで人物の感情や状況の説明を演じることを止めさせるということだ。その一方で自然な演技といわれる素人風な仕草も排除する。それは日常であって(お金を取って観客に見せる)映画ではないから。
両者が持つ相反する不自然さを排除して映画を成立させる演技とはなにか。
出演するプロの役者が、彼らが持つ鍛錬された精神と肉体を使って(フォトジェニーな美男美女であったり、優れた表情を出すということは、卓越した顔の筋肉の変化させる運動で観客を納得させられる技術のこと)、その場に相応しい感情を作り出す(映画のシーンという架空の場所架空の設定の中での登場人物の姿)。これが溝口映画のリアリズムというもので、一般的なリアリズムの解釈とはまったく違う。彼の映画の中にしか存在しない日常(リアリズム)なのだ。
要するにキャメラのために作りこまれた映画独自のリアリズム様式なのだ。ということは本当はリアリズムではないのではないか?
どちらかというと、文学でいえば自然主義派の流れではなく不条理に近い。溝口作品を観てすごいすごいと思いながらアタマが変になってしまうのは、このありえない世界でのマトモな感情の奔流に圧倒されてしまうからではないだろうか。
その意味ではオーソン・ウェルズの映画世界に似ているし、溝口が目線のモンタージュをしなかった部分でも二人は似ている。ウェルズの映画も目線で切り返さない不可解なモンタージュのシーンが圧倒的に面白く説明的なシーンは退屈だ。溝口が映画を撮り続けることができたらウェルズのようなモンタージュ世界になったのではないだろうか。
■ 必殺!V 裏か表か |
Date: 2004-08-05 (Thu) |
工藤栄一監督。1986年の作品。(ビデオ)テレビシリーズはほとんど観たことがないんで、レギュラーメンバーとかの顔見世の面白さは全然わからん。
オリジナル脚本(野上龍雄、保利吉紀、中村勝行)が良くできていて、物語と人物の描きこみの上手さと、両替商≒銀行な目線がきっちりと出ていて、当時のバブル社会への皮肉も利いている。そのあたりの現代劇では、生臭くて仕方ない部分を見事に料理して、時代劇ならではの痛快さを充分味わせてくれる。
それにしても松坂慶子が素晴らしく良い。悲劇のヒロインであり、悪役という、ほとんどありえない無理な設定の人物なのだけども見事に演じている。伊武雅刀もわかりやすい悪ではなく、複雑な陰影のある役どころ。でこのふたりの過去の関係を具体的に何もセリフにしないで、明け方の川辺の再会のシーンで、一瞬手を繋ぐだけの数カットですべてを語ってしまう巧みさに唸る。これは演出かシナリオにあったのか。
成田三樹夫が悪だけどちょい脇に回っているのが残念。岸部一徳もこのころはまだ小心者の役どころなのがご愛嬌。いまは悪といったらこの人なのが時代の流れを感じる。
工藤栄一強化月間、当分この項続く…(結構ビデオなっているのね)
■ NTERVIEW映画の青春 |
Date: 2004-07-30 (Fri) |
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4873762162/qid=1091198592/sr=1-9/ref=sr_1_10_9/249-8657724-3787546
なんかよく理解していないまま読み終わる。
金森万象、仁科熊彦、市川歌右衛門、嵐寛寿郎、稲垣浩、牛山虚彦、五所平之助、田中絹代、衣笠貞之助、宮川一夫、伊藤大輔。彼らに行ったインタビューテープ(昭和46〜50)を起稿したもの。聞き手滝沢一、奥田久司、岸松雄、水谷憲司、加藤泰。
アタマのなかで年表ができていないので、事象がひとつひとつ孤立して人物相関図が繋がっていない状態。整理するのに作ってみるか?
しかし若い。往時の映画人の若さもさることながら、高齢となってからも彼らはまだまだ熱くどこまでも若い。
だって市川歌右衛門なんか20歳で歌右衛門プロダクションを作っているんだから。寛寿郎の寛プロは26歳。稲垣浩は23歳でデビュー、107本を監督。伊藤大輔は25歳でデビューして91本監督。
無から日本映画を作ってきた彼らが、既になんでもやってしまっていることを痛感する。
技術的な制約を乗り越え、国家による検閲を乗り越え、がむしゃらにひたすら面白い映画を作ろうと格闘していた姿勢は、今もなお学ぶことが多いと思う。
■ 無題 |
Date: 2004-07-28 (Wed) |
さりげなくこそこそと上半期分の更新を進めてます。ここに書いたものをコピペするというのも芸が無いし、このblogモドキ形式だと書き言葉じゃなく中途半端に読み手を意識している話言葉なので、以前の文章と比べ明らかに内容が薄くなってしまっている、もう一工夫します。そのうちアップの予定。
あとはヒッチコックと工藤栄一の観てないものを何本かボチボチと。
『引き裂かれたカーテン』『トパーズ』『フレンジー』『ファミリープロット』『十一人の侍』『影の軍団 服部半蔵』『野獣刑事』『安藤組外伝 群狼の系譜』
やっぱねえスクリーンで観ないとわからん、本当の面白さは。東映が昔出したビデオはシネスコがビスタにされているし…東映スコープが泣くよ。
■ 波瀾万丈の映画人生―岡田茂自伝 |
Date: 2004-07-21 (Wed) |
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4048838717/qid%3D1090375411/249-6692331-8124338
内容はまったく「悔いなきわが映画人生―東映と共に歩んだ50年」と同じです。まあ自伝がころころ変わるもんでもないしね。歴史は生き残った勝者が作るんで労組問題、社内政治、誰の手柄か?は眉唾ものですが、やはり現場叩き上げからのし上がる部分は面白い。ホンネは見えないけどね。
奥付を見ると、協力――黒井和男とある。なんで?出版元は角川書店だし、これはなんらかの手打ちなのか?両社の配給興行の動きに注目しよう。
■ スパイダーマン2 |
Date: 2004-07-16 (Fri) |
近所に(といってもまあ近くは無いが)新しくシネコンが出来たので懲らしめに行くことにする。
CINEPLEXって日本ヘラルドがやっているのね。ショッピングモールの一角にあるので見過ごしてしまいそうな地味な作り。ロビーも劇場内も良く言えば実質本位で遊びが無い。悪く言うと期間限定のイベント会場のようで新しいけど3日もあれば更地になるような仮設感がある。ただし音は良かった。観たものがそういうものだからかもしれないが、重低音が結構キタねえ。スクリーンも大きかったし、なだらかな傾斜も疲れなかった。騒がしい外資系シネコンよりこっちが好きだな、今んとこは。
http://www.cineplex.co.jp/index.html
で『スパイダーマン2』。前作はあまり好きじゃなかったんですが、その後いろんな人が書いているのを読んで、ヒーローものとして楽しむよりトビー・マクガイアのボンクラに感情移入できるかがポイントだとわかりました。
今回はサム・ライミ節が炸裂していていいですね。一番良いのは爆発シーンがひとつもないところだ!!前作は爆発しすぎだったからなあ。ダークな部分をあからさまに描くのではなく、さりげないシーン、カットの中に紛れ込ませるところに円熟した演出を感じます。Dr.オクトパスの最期のシーンのアップなどは気合を感じます。
あとあのラストカットの不気味さは何でしょうかねえ。好きだけど。キルスティン・ダンストについては登場シーンは前作に続いてノー・メイクだけど、舞台デビュー・シーン以降はメイクをキチンとしているので最低限ブスには映っていない。
音楽はどうなんでしょうか?ダニー・エルフマンは相変わらずだけど、他の選曲はピンと来ないです。
エルフマン繋がりでどうしてもサム・ライミとティム・バートンの違いを、お互いにバッドマン、スパイダーマンを撮ったらどうなったかを想像してしまう。二人とも善悪では割り切れない影のあるヒーローを描いているが、ティム・バートンの場合は見た目はフリークスなんだけど、どこかで他人から受け入れられるんではないかと心の底では思っている実は楽観的な人物たちに対して、サム・ライミは人物たちは定められた運命を絶望的なまでに受け入れることからすべては始まる。運命に抗することができるなど最初から考えていない。その苦悩する姿がアクションになり葛藤になって物語を進めていく。ティム・バートンの人物がどこかで自分の異様さに気づかされて、存在が受け入れられることがないことがわかると元の世界に身を引くまでの冒険譚なのに対して、サム・ライミの場合は全員ががんじがらめの運命共同体となることで道連れになって滅んで行かざるを得ない。その違いがダークな部分の救いがあるかないかの違いじゃないかなあ。ということで今後ますます不幸の度合いが深まるのだけは確かでしょう。
■ みこすり半劇場 |
Date: 2004-07-15 (Thu) |
http://www.tmc-ov.co.jp/oscar/008/
DVD。
中野貴雄監督の新作。岩谷テンホーのネームバリューなのかビデオレンタルチェーン店に堂々入荷されていた。ご存知の小エロ四コママンガをどう料理してんのかなあと思ったら、ハゲ、チョビヒゲ、メガネお父さん一家の話と痴漢電車話、クノイチ話などを交互に出してきて、張らなくてもイイ伏線を張って、回収しなくてもイイのに律儀に回収したりするいつものようにサービス精神満載。
なんといってもこの作品の目玉は、これらのエピソードに挟まれた(ほぼ本編とは関係の無い)『チク・ビル』!!なのだ。タランティーノはこれを観て『キル・ビル』を思い付いたに違いないというほど、本家よりも本質をついているのです。ユマ・サーマンのダサいジャージ姿ではなく、主演のみゆ譲(素晴しいッス)の黄色のビキニ(巨乳)に黄色のホットパンツにドンキホーテで買った日本刀という 、政治的にも正しい姿を見るだけでOKですね。白い着物を着た敵役がリューシー・オリュウだったり、片目の女が着ているコートが書いてあるだけだったり、目つきの悪い女子高生がゴーゴー・25だったり、何で青葉屋でクレージー99が何度も死んだはずなのに出ているのか、あの血糊はやりすぎだとか、障子の向こうがなぜ雪景色なのか、などなどの突っ込みどころをさらにさらにギャグとして捻って『キル・ビル』の下らなさと面白さを再確認させながら自分の世界にググッと引き付けた中野監督のセンスに拍手。
■ 光と影 映画監督 工藤栄一 |
Date: 2004-07-13 (Tue) |
三池新作『IZO』。「どーせヘンなSFチックな時代劇なんだろう」とあんまり関心無かったんだけど、予告編を観てブッ飛ぶ。なんだこりゃあ期待大。
http://www.izo-movie.com/
光と影 映画監督 工藤栄一
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4898301339/qid=1089646120/sr=1-2/ref=sr_1_8_2/249-8587455-4369116
「必殺からくり人血風編」を観て映画秘宝「男泣きテレビランド」を読み返して、無性に読みたくなって買いました。おもしろいなあ。もっともっと読みたい。
なんというか自分のなかで、青春ドラマの基準というのは全部この人が作ったんじゃないかと思う。なにをおもしろいドラマとするのかは知らぬ間にこの人に叩き込まれていたんじゃないだろうか。いまとなって色んな理屈をこねてもこねるほど、ああ所詮俺は工藤栄一からなにひとつ抜け出していないなと再確認するしかないのかとも思う。立ちはだかる大きな壁ですな。それでいて「傷だらけの天使」「探偵物語」って一本もまともに見たことがないんだよね。というアンバランス。なんでかなあ?でもいま観るのがすごく怖いんです。深層心理を掘り起こされるようで。
本当に怖いと思っていることは、影響を受けたのが工藤栄一じゃなくて、恩地日出夫、蔵原惟繕 出目昌伸、渡辺祐介、帯盛迪彦、江崎実生だったことがわかることなんじゃないだろうか。この本を読んで観ていない映画を観たい気持ちと観たくない気持ちが半々というのが正直なところ。必ずオモシロイと思うに決まっているんだけど、その代わり叩きのめされることも確実。
本としては、細かい部分で著者校正が足りないような気もしますが、それは自分で資料をかき集めて補うしかないでしょう。映画だろうがテレビだろうが面白いものを作ればそれでいい。その考え方はいまも自分のなかの原点でもあるしそれをブラウン管を通じて教えてくれた監督には改めて感謝しています。
工藤 日本映画では、いわゆるプログラムピクチャー、B級作品というものが、段々なくなって来ている。低予算でも、アートの方に走っちゃっているでしょう。そうじゃなくて、B級でもきらめくような映画が絶対出来るはずだと。それが年十本から十五本ぐらいあれば日本映画は、凄くなると俺は思っているんだけどね。そこが完全に欠落している。要するに前売りをガンガン売りつけるA級映画と、一気に自主映画とこうなるわけだよ。いい時代ってのは映画会社が、人間を育てたでしょう。今は学校で教えているったって、テクニックばっかり教えているんだもんな。昔は小道具でも衣装でも、美術関係はデザイナーが皆んな仕切るわけだ。「何でこんな衣装着るんだ。俺の方はバックはブルーで行くんだから、こんなブルーの着物取っ替えてくれ」っていう風だったんだ。クロスオーバーで、イメージつくりを皆んなでやったんだよ。今は「ああこれ衣装部のセクションだ」って、よそのセクションに関して口出して行く奴はいないわけだ。だからつまんなくなっていくんだ。この映画のときも、クロスオーバーしろって言ったんだけど、実際に経験してないから遠慮深くて、歯がゆくてしょうがない。後で「あの時、気がついたんですけど」って言う奴が出て来る。「何でその時言わないんだ。終わってから言う奴は悪人だ。悪者だ。去れ!」って(笑)
■ ダーク |
Date: 2004-07-12 (Mon) |
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4062115808/250-1010391-0709046
桐野夏生のミロシリーズは「顔に降りかかる雨」を読んでいたが、まあそういう感じの女性探偵が活躍するハードボイルドなもんだった。
しかしこの続編はどうしたものだろう。救いのない悪漢小説。だれにも感情移入できない非情さに読後しばし呆然とする。その世界観は「OUT」に近い。
ある事件をきっかけに義父を死に追いやり、わずかな借金のために信じていた友に裏切られ命を狙われる。韓国に密入国して犯罪の片棒を担いで生き延び、ヤクザの大物に一人で立ち向かうはめになる無茶苦茶な38歳の女探偵。
大切な主人公を敢えてこのような境遇(?)に放り込んだ作者の意図はどこにあるんだろうか。説明しようと思えばフェミニズムとか母性という簡単に解決できる便利な言葉はいくらでもあるけど、そのような甘い言葉を退けるようにこれでもかと不幸と殺戮と裏切りのアジアへと駆け抜けていく。もしかしたら「性(さが)」という言葉がぴったりなのかもしれない。いま現在の日本ではまともに信じ成立させることのできない世界。有効射程距離は70年代東映映画かもしれない。
ここで繰り広げられる世界では登場人物(キャラクター)が物語を演じるというような安直な言葉でまとめられるようなものとは程遠く、過去と愛憎が深く複雑に絡まり底が見えずにもがく人物たちの呟きがどこまでも広がり、断末魔がいつまでも消えずに聞こえてくるようだ。生ぬるい現代日本での一人一人の大人を覆う柔らかい肌、チンケなプライドがあっという間に裸にされ無防備なままに崩壊していき、最後に残った無様な本音の姿だけしか残されない。誰も裁くことをせずにここまで描ける作者のチカラに感嘆する。
ぜひ映画化をしてほしい。これを映画化できたら『キル・ビル』よりすごいかもしれない。
■ 映画美術の情念 |
Date: 2004-07-06 (Tue) |
夏カゼにてダウンしておりました。年々治りが遅くなるのは体力の低下のためか、いや単に歳のためだ。うーむ早めに治そうよな早めに。…ツライのは自分ばかり也(お粗末)。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4947648074/qid%3D1089114349/250-1010391-0709046
美術監督の内藤昭は、大映で溝口健二の美術監督水谷浩につき、その後最盛期の大映京都の時代劇現代劇の美術を担当。その後勝プロ、東映、独立プロで仕事をする。本書の聞き手の東陽一監督とは『橋のない川』で組んだ。
いくつかのエピソードはすでに別の本でも読んだことがあったが、大映のプログラムピクチャーについての話が特に面白い。定番定型のプログラムピクチャー、まあ眠狂四郎とか座頭市シリーズなどをいかに変えていくか。それもまったく変えられるわけではないので、シリーズを踏襲しながら、より個性的によりストーリーとキャラクターを深めるようにするにはどうしたらよいか。内藤が出してきた答えがどこまでシンプルにできるかだった。『眠狂四郎勝負』のスチルと絵コンテが掲載されているが、夜の外景は黒バック、隅に燈籠、手前端に枯れ木数本、全体に薄く流されたスモークで攪拌された光が唯一の光源。これが映画の美術なのか?これを普通のプログラムピクチャーでやっていたということにのけぞる。
逆に東映に行って深作欣二の『華の乱』をやると、とにかく空いている空間を隙間無くいろんな小道具で埋めまくられたという、美術が見えないほどに。ちなみに撮影は木村大作。
ここまで行くと演出も分かるのも当然で、『斬る』ではさらに大胆に白と黒のコントラストを前面に押し出し、オープニングのコンテも内藤が切っている。映画を観ていないのでどこまで活きているのかはわからないが、三隅研次についての本でもこのシーンを褒めていたりするので、これは本当は誰の作業なの?ととりあえず確認をしたい。大映の監督についても三隅については、撮影の段階でアクションをダブらせて撮らず編集段階でさらに時間と空間を省略するという。一方、田中徳三は森一生の影響でアクションは完全に繋がるように撮り繋ぐ。さらに三隅は同じ方向への普通なカッティングはせずに必ず逆に入るか、変な方向に入る、その方が画としてショッキングだからという。なるほどねえ。
他にもスケールの大きい話、焼け跡を作るために何件も家を建てて焼いたが一軒が消火が遅れて全焼してしまった。同じ場所で二件の家という設定にするため家のセットごと持ち上げて向きを変えて違う家に見せる。などアタマの体操にもなりそうな発想が満載されていて、こういう知恵が日本映画を支えてきたんだなあとわかります。
■ PRIDE of PACIFIC 2004 Project |
Date: 2004-07-03 (Sat) |
http://prismatica27.hp.infoseek.co.jp/pride.html
<サイト記事より転載>
1949年の誕生以来55年・・・数々のドラマの舞台となったパシフィックリーグ。パシフィックリーグはその中で独自の野球文化を育んできました。その素晴らしさは・・・パリーグ1年生の新庄が言い放った「プロ野球の存在意義は、その街の人々の暮らしが少し彩られたり、単調な生活がちょっとだけ豊かになることに他ならない。 ある球団が中心で物事を進ませるセ・リーグにはない野球くささをパ・リーグはもっている」この言葉に集約されていると感じます。近鉄・オリックス両球団合併による球界再編の動きの中でパリーグはその存亡の危機に立っています。巨人渡辺オーナーに追随しパリーグ各球団オーナーが1リーグ肯定発言を繰り返す中、パリーグは「救済」という名のもとセリーグに吸収合併されようとしています。55年の間、選手とファンが一体となり育んできたこのパリーグ文化の灯をこのような形でファンの声を無視し然したる議論もないまま消してしまっていいのでしょうか?
今こそ、我々パリーグ各球団のファンが一体となり・・・その素晴らしさをアピールしていくとともに存続を訴えていくべき時だと感じ、ここにこのプロジェクトを立ち上げます。
■ マーニー |
Date: 2004-06-30 (Wed) |
DVDにて。ヒッチコックの観ていないもの強化期間第一弾。…って昔ビデオを借りて観たことあるじゃん。で、つまらないので途中でやめたんだっけな。うーむ、今回は「ヒッチコック ――映画と生涯」を読んでいたから、ショーン・コネリー=ヒッチコックということがよくわかった。
これはヒッチコック版『マイフェア・レディ』なのね。ジョージ・キューカーではなく彼が撮っていたらこうなっただろうということ。ピグマリオン伝説を露骨に性的抑圧と絡めて本音で描いたらこうなるという見本みたいなもの。レックス・ハリスンがヘップバーンに対して×××なことを××するということなのだっ!
『マーニー』(1964)にせよ『マイフェア・レディ』(1964)にせよ、男はマトモで父性を持つ保護者的な存在になり絶対者として、欠陥を持つ女に接して彼の世界観を受け入れるように治療をしていく。レックス・ハリスンの場合は英国植民地主義者的な彼のナルシズムが、女を変えていく原動力として前面に押し出されている構図に対して、ショーン・コネリーは一見彼が絶対者のように振舞うように思わせながらも、実は彼の趣味性癖だけを理解できる女に変えていこうとする、ナルシズムというよりはある種のコンプレックスを感じる。谷崎潤一郎の後期のいくつかの作品で、本能のままに生きている女を矯正しようとするが、逆に男が女の虜になってしまうのを思い浮かぶ。
そういう奇形的な恋愛模様の場合にはサディズムとマゾヒズムの戯れが現れてくるのが必然なのだが、ジョージ・キューカーは賢明にもその辺りの性的事象を回避してうまくキレイ事に逃げた。しかしヒッチコックは得意とした寓話的に昇華させたエロチック・サスペンスにすることもなく、まともに衝突コースを進んだ。
慎ましやかなビクトリア朝人間であったはずの男がその奥底から出してくる生々しい衝動。ち密なソフィスティケーションは影を潜め、単なる悪趣味な画面が延々と続く。特に母子関係のあたりはもうやめてくれというほど露悪だ。もはやそこには観客の視線が入り込む余地はない。ただ監督、いやヒッチコック自身の視線があるだけだ。なのでプライベートフィルムとしては、『フレンジー』と並んで不快感満載でイヤな気分になることができる。
ここで思ったのは、敢えて寓話形式にしなかったところにヒッチコックの精神分析理論に対する前面肯定、前面依存があったのではなかろうかということ。というか精神分析理論そのものが彼にとって心地よい寓話だったのではないか。未知の人間の心理を単純に行動様式から分類できる、ヒトを理論によって支配できるという夢のような世界を好んでいたのではなかろうか。
『白い恐怖』にせよ『サイコ』にせよ、登場人物たちの心理の奥底にあるものは非常に単純かつ明快である。すべての作品ではあれほど観客の心理と登場人物たちの心理を細かく操作しているのに、このヒトは実はこういうヒトでなぜならこういう過去があったからだという割り切り方が大雑把である。映画のドラマの綾による人物造型よりも精神分析理論の解釈を優先している。ヒッチコック自身は本気でそう思っていたのだろう。ヒトはそういう生き物だと。そして自分もまた精神分析に当てはまっていると思っていたに違いない。そのあたりの過剰な盲信が何本かの作品を陳腐なものにしていることは否めない。
ヒッチコックは人物そのものを描くことに興味がなく、ただ人物の陥ったある状況での苦悶を描くことだけが密かな楽しみだったのではないだろうか。
ただ新婚旅行に出かけるふたりを見送る人々をワンカットで撮った玄関のシーンの芝居のつけ方はさすがと唸ってしまう。あと全体に散りばめられていた黄色の使い方について誰か書いていたような気がしたが記憶違いかな。ヒッチコックの登場人物が決意をしてなにか決定的な悪事を働くときに表情が見えない微妙な俯瞰のカメラ位置になり、額だけが印象に残るカットをよく撮るが、あの不思議なカットは誰も撮らないよね。
■ 必殺からくり人血風編 |
Date: 2004-06-29 (Tue) |
お昼どき、テレ東でなんとはなしに時代劇の再放送がやっているなあと途中から見出したら、これがやたらおもしろくて止められない。70年代ドラマツルギーと映像演出が五感にビンビン染み入るってくる。ようやく終わりクレジットが出ると、脚本・神代辰巳、監督・工藤栄一だった。わぁー!!
このシリーズは知らなかったけど、アタシらが子供の頃って何気なく浴びるようにこんなドラマを毎週毎日テレビに噛り付いて見ていたんだよなあと再認。なんで生理的に「おもしろいなあ」と感じる基準がそこでできあがってるんですな。だから生理的ではなくアタマで理解セヨというものには拒否反応があるのです。
必殺からくり人血風編 視聴メモ
http://www80.sakura.ne.jp/~agua2/film/c118.html
「花と爆弾」
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4163658300/250-7258604-8064212
小林信彦の週刊文春コラム集の最新版。前年のはあまり面白くなかったけど、今年はまとまっていてこれぞコラムというものを堪能できます。
映画、エンターテインメント評もさることながら、私が結構気に入っていてうまいなあと感じるのは、食べることに関しての記述なんです。食通録みたいなものではなく美味いものを食べる日の朝からの心構え、店でのささいな出来事を通して(店内の雰囲気がどのようか)どんどん期待を膨らませる。そして眼の前に出される一皿。食事のあとあまりのうれしさに財布の紐が軽くなり、ついついつまらない買い物をしてしまう、でも仕方ないなとひとりごちて家路に着く。その描写がたまらなくいいんですな。「ホワイトアスパラの季節」は絶品だと思う。気に入ったら「大統領の晩餐」を探してぜひご賞味あれ。
■ シルミド |
Date: 2004-06-23 (Wed) |
わたしはこういう映画にあうためだけに映画を観続けているような気がする。
この作品を観ると韓国映画に勢いがあるというのは頷ける。こういうときはどんな映画でもなぜかすべて面白く出来てしまい、ジャンル全体の水準が相互には何の関係が無くともとてつもなく上がってしまうときがある。それが黄金期ということなのだと思う。
途方も無くめちゃくちゃで、弾けていて、ベタだけども、それがナニカ?こういう映画さえも日本ではすでに撮れないのだよね。大杉漣と市川雷蔵を足して3で割った主人公のひとり――あの顔が日本のどこにいるのか?どうやったらあんなキャスティングができるのかね、韓国だって「冬ソナ」(見てないけど)っぽいああいうドラマの役者の顔が主流なのだと思うけど、どこから連れてきたのか聞いてみたいものだ。物語を信じさせる登場人物たちの強さまたは豊かさだけで充分に堪能できるのがイイ。
それよりもね歌なんですよ。彼らが歌を何度も何度も絶叫するとき、これはホント敵わんなという気になった。仲間たちと歌と言えば、森崎東、前田陽一の雑多な登場人物たちが彼らの出自を乗り越えて団結していく瞬間、それまでの感情が頂点に達するとき、誰とはなく発せられる呟きがやがて広がり大きな歌声になっていくシーンが思い浮かぶ。
歌に想いを乗せて画面に出す。そういうシーンを不自然だとか格好悪いとか鼻で笑うのは簡単だろう。しかしこれを実際に演出するのには度胸と技量がいるんだということを忘れてもらっては困る。劇中で誰が何の歌をいつどこで唄うのか、それは作り手側のセンスとそのシーンに対する情熱だけが、正当化してくれる。そこでは否応なしに観客に物語に参加を強要することになる。登場人物たちと彼らの感情と正面から向き合うことを強いるのだ。だからカラオケボックスのようにおざなりに拍手していれば聞き流せるのとは違う。逆に言えば、観客は瞬時に受け入れるか受け入れないかを決めてしまう恐ろしい瞬間でもある。うまくいけば観客と一気に盛り上がれる関係を作り上げることができるのだ。歌が上手いだけじゃダメなんです。ここまで堂々とやられると参ったとしか言えないですね。
撮影も最近のオシャレっぽいキレイな色づかいではなく、時代を出すために60年代後半のフジカラーっぽくしているんじゃないでしょうか。緑と茶色が強調されていると思う。近頃あんな玉のような汗をかく映画をみたことがないですわ。
たぶんに近頃の日本映画ではだれも歌わないんじゃないでしょうか?わかんないけど。
いま公式サイトを見て、隊長がイ・チャンホ作品の常連、安聖基だったことを知り魂消る。
http://www.silmido-movie.jp/
■ パターン・レコグニション |
Date: 2004-06-16 (Wed) |
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4047914681/ref=sr_aps_b_/250-0118175-1255436
ウィリアム・ギブソンの新作ですが、これをSFといったら、すべての小説はSFだということになってしまう。どういう小説かというと1980年代にW村上が書いていてもよさそうな、ちょっとトリッキーでセンチメンタルな読み応えがある風俗小説といったところ。
今回は未来ではなく現代が舞台であり、ある能力と過去を抱えた女性主人公が、ネット上に現れた<フッテージ>と称される映像の作者を探しに東京=ロンドン=ネットを彷徨う物語。
隠喩直喩として911の影が、いままでのギブソンの作品のなかではレトリックとしてしか使われていなかった、サイバー空間と現実社会を繋ぐキーとしてうまく機能している。そこから現れてくる謎がおなじみの雑多なクセのある登場人物たちを結び付けていく。なのでこの作品は電脳空間で成立する近未来や不思議都市トウキョーを描くというよりは(まあその部分もあってそれも面白いんだけど)、
「ありえたかも知れない過去」とそれによって「あったかもしれない未来」のディテールを描き信じさせることで「現在を寓話にする」ことに成功していると思う。
なので途中からカート・ヴォネガットの小説を連想した。まあそこまで悲観的な小説ではないです、ギブソンだからね。ただネットやそれを取り巻くグローバリズム等々の現象について、また911やイラク戦争が衛星生中継により全世界に配信され、歪んだパースペクティブが形成されている時代の人々の感覚を、既存の文学言説に逃げ込むのではなく否定でも肯定でもなく「あるものはある」と逃げずに取り組んでいるので読んでいて気持ちが良い。
■ これって常識なのか?私だけが知らないことなのか… |
Date: 2004-06-14 (Mon) |
「ハマーフィルム ホラー&ファンタスティック映画大全」
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4896916891/qid%3D1087137573/250-6565505-8046649
デヴィッド・リンチの映画のなかでどうしても『エレファントマン』は収まりが悪かった。が、この本を読んだら撮影のフレディ・フランシスはハマーで怪奇映画の監督、撮影をいっぱいやっていたことがわかった。えーそういうことなのか。あのビクトリア朝と怪奇の雰囲気は。四方田センセイは「『エレファントマン』にはRKO時代のジャック・ターナーの記憶がある…」とか書いてあったんでずーっとそう信じていたよ。ちがうじゃん。(>他人のせいにするな!)でも『ストレイト・ストーリー』の撮影も彼なんだよねえ、リンチ何考えてんだかやっぱわからん。
「月形龍之介」
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4898300197/qid=1087137433/sr=1-1/ref=sr_1_0_1/250-6565505-8046649
戦前の日本映画地図がまったくわからないのだけど、永田雅一の本やフィルムセンターの展示などでいままでぼんやりとしか理解していなかったことがまた少しはわかってきたような気がする。
書き手の愛情溢れる本ですね。月形自身の魅力を余すところ無く丁寧に描き出している。私は月形だからと分かっていままで彼の出演している映画は観ていないので全然なにも言えないのです、ホントのところは、ハイ。
『鴛鴦歌合戦』のちょんまげボーイズの一人に深見千三郎(ビートたけしの師匠)がいたというネタに驚く。さらに深見が美ち奴(「あぁそれなのに」「うちの女房にゃ髭がある」の歌手)の弟というのもさらにオドロキ。「映画渡世」読み直すことにしようか。
友人宅で、『荒野の決闘−特別編−』
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B0001ZX1E6/qid%3D1087138109/250-6565505-8046649
特典映像のドキュメンタリー 「非公開試写版の復活」がオモシロカッタ。ジョン・フォードの作った試写版をダリル・F・ザナックがどのように公開版へと作り直したかを発見された資料で検証したもの。ジョン・フォードの作家性を充分に理解しながら、より良い商品へと変えるためにプロデューサーの仕事をしたザナックの手腕が見事にわかる。20世紀フォックス時代のフォード作品がなぜ今も見直せる質の高い作品なのか、その理由の一端を推測することができる。もっともフォードはそれでもフィルムを弄られたくなかったので、『怒りの葡萄』では溶暗の作業もキャメラで行ったらしいが。
■ ドーン・オブ・ザ・デッド |
Date: 2004-06-07 (Mon) |
へとへとになるほど久々に疲労困憊した、やあオモシロかった。充分楽しめます。アトラクション・ムービーとしては最良の出来。劇場を出たら何も残らないところは娯楽の王道。
褒めているように思えない?カット割りがしっかりしていて、最近のCMMTVっぽいパカパカしているくせにまったくわからないような違和感のある不自然な繋ぎが全然なかった。ドラマをきちんと撮っている。非常に人物設定が安っぽいけど、薄っぺらい定番人物たちがきちんと彼らの役目を果たす映画って好きなんです。もうちょっとああだこうだはあるけど、あのスピード感を生かすにはあのくらいでよいのではないでしょうか。というかまったく説明をすっ飛ばしてアクションだけで突っ走った潔さがイイ。いくつもの俯瞰がすごく利いている。いまやわざと手持ちにしたり画面を汚くするよりも、フィルムの再現力表現力が向上しているのでまともにきちんと撮った方がリアルに見えるように思える。郊外住宅地の火事を背景にクルマで逃げるワンショットなんかすごくイヤな気分が出ていた。ヘリコプターのローターでアタマが吹っ飛ぶくらいに…。
ついでに言うとこれは『ゾンビ』のリメークじゃないんだよね、『ジョーズ』のリメイクなんです(あの爆発もだし、CJはロバート・ショーだよなあ)。というかスピルバーグの裏の顔ゴア演出を徹底的に勉強して作っている。『激突』『ジョーズ』『インディー・ジョーンズ魔球の伝説』『ジュラシック・パーク』『プライベート・ライアン』これらのアクションというか残酷シーンの演出の部分だけを効果として意識していると思う。キャメラがCM的に意味もなく重層的に撮っているので気づきにくいが、スピルバーグ演出のようにかなり手抜きに近いシンプルかつ効果的なカット割りやシーン演出をしている。くどさが足りないところはロメロのやり方を踏襲しているのかなあ。技術レベルは映画のスケールで出来ているけど、シナリオ部分はテレフィーチャーの作りなんだよね。その辺りがうまく溶け合って薄っぺらいけど適当に満足できるということなんでしょうね。コケオドシ命なので、テレビモニターで観るとどうなんでしょうというかんじもするので映画館行きをお勧めします。
『スター・シップ・トゥルーパーズ2』はぜひ観たいです。人形つかいフィル・ティペット初監督作品。世界に先駆けて日本公開。…っていうのが気になるけどねえ。予告編がカッコ良い!
http://www.sonypictures.jp/movies/ST2/
フィルムセンター常設展「映画遺産」
7階のワンフロアを使って、寄贈されたありったけの倉庫にあった資料を展示したってカンジなもの。全部展示を読んで映像を見ると3時間くらいかかる。ただね、ここにくれば「日本映画史」がわかるってもんじゃないという態度が見え隠れするのが問題だ。確かに学術的に貴重なものも多いのだろうが、モノの説明だけの近視眼的で時代背景等を鳥瞰できるほど展示ができていない。一体誰が見て楽しいかなにがわかるのかが不明。たぶん展示をしている方々が一番楽しいんじゃないでしょうか。高校の文化祭と同じですな。見せる工夫が足りない。予算が無いですべてが収まるお役所仕事はこんなものでしょうね。近くに来て時間があるときに寄ると良いです。
■ KILL BILL UNCUT |
Date: 2004-06-04 (Fri) |
Ain't It Cool Newsで見つけたんだけど、カンヌで『キル・ビル』4時間版(休憩入り)が試写されたらしいです。(本気かよネタじゃないだろうな…)
http://www.empireonline.co.uk/site/features/special/killbill/default.asp#killbill
■ ネタが無いわけではないですが |
Date: 2004-06-01 (Tue) |
どうも文章にならヌので保留してみる。
先週今週と「水戸黄門」をちらちらと見ていたんですが、撮影がいままでのVTR録り(いわゆるベーカム)じゃなくて、格段に画面の解像度が高くなっている。これってバリカムで撮っているんじゃないの?提供もナショナルだし。たぶん当たっていると思うんですけど、どうでしょう。と検索…。
http://panasonic.biz/sav/reports/digipro/mitokoumon/mito.html
明朗時代劇だから、影の出方がイマイチだけど質感はVTRとは思えませんね。(難を言えばシャープすぎる)藤田まことの出るような池波正太郎ものの工藤栄一チックな夜間の照明ができるのならば、少なくともテレビ時代劇はフィルムからこちらが主流になるんじゃないでしょうか。
時代劇といえば、こちらのサイトが面白くて拝読しています。まだ少ししか読んでいませんが、ただただすごいなあです。映画三昧日記帖がおすすめ。
http://homepage1.nifty.com/bikenshi/index.html
あと、こういう視点から映画を観ることもできるのですね。私にはまったくの死角。
http://homepage2.nifty.com/cineyoso/index.htm
■ きょうは無題 |
Date: 2004-05-23 (Sun) |
竹中労の「日本映画縦断=1 傾向映画の時代」を読んでいる。ここしばらく自分の中でうつうつと考え答えを探していることの底流に、この中座したシリーズと外伝の「鞍馬天狗のおじさんは 聞書アラカン一代」があったことに気づく。「鞍馬天狗のおじさんは 聞書アラカン一代」はこの世の中でもっとも美しい本のひとつなので未読の方はぜひに(筑摩文庫)。いまのところ私の日本映画史の知識が全然追いついていないのだけど竹中労の本はその辺が二重三重構造になっていて、読み物としてもちろん面白いし、周辺知識があればより深く理会できるようになっている。
伊藤大輔 「(前略)今日は想い出話だけ、しかし人を傷つけまいとすると、なかなか真実のことはいえないものですね、勇気がいる。」
毎回たのしみにしているコラム「日本映画遺産」。このページの一番下に、フィルムセンター「展示会 映画遺産」の紹介があった。ぜひ行ってみたい誰か行かないかなあ。
http://channel.slowtrain.org/movie/column-isan/index.html
フィルムセンター
http://www.momat.go.jp/fc.html
浅草東宝オールナイトのラインナップ。すごいなあ。観逃した『野獣狩り』だけでも…。
http://www.rakutenchi.co.jp/cinema/asakusanight.htm
先日NHK-BSで『ブーメランのように』。たぶん昔テレビで観たと思うが記憶にない。ただ70年代チックなストーリー展開になぜか馴染みがあった。主人公が権力に貶められ、あがいてあがいてキレテまっしぐらに突き進むというやつ。
フランスの安部譲二ことジョゼ・ジョヴァンニの演出に惚れ惚れする。少ないカット数ながら、カメラはゆるやかに室内を動き回り、人物を丹念に捉え、彼らの感情を切り取り的確な構図を作っていく。カメラが露骨に主張することも無く物語に沿ってシーンを淡々と刻んでいく。人物たちは激昂することもなく最小限の表情の変化だけで、すべてを語らせるうまさ。端正でありながら、こじんまりとせずきちんと商業映画としてのスケール(カーチェイス、エキストラ、美術)もこなしている。
暗黒映画監督としてジャン=ピエール・メルヴィルがヌーベル・バーグの関連で言及されることが多いが、ジョゼ・ジョヴァンニの簡潔で力強い娯楽作品の演出の評価がもっとあっても良い気がする・
あ、あとサイト内検索機能つけました。最近あちこちに書き散らばっているのでご利用ください。(なんの履歴も残りませーん)
■ 60年代アメリカ映画 |
Date: 2004-05-17 (Mon) |
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4872950763/ref=sr_aps_b_/249-0754860-3278733
いささか生硬な印象を受ける本なのだが、読み始めると様々な固有名詞が絡み合い消え去り、またこんなところにひょっこりと出てきたりして驚くとともにこう繋がるのかと半ば呆れたりもする。
いわゆる映画史と名付けられアカデミズムによって消費されるものは、実のところ偶然といい加減さの連続なもんで「何々チャンこんど仕事しようよ」なノリが積み重なっただけの産物なのだ。しかしそこには結果としての必然が隠されていることも事実。それは個々人の腕が優れていたり、そのときの時代の要請に応えられたりするということ。さいきんその辺りが見極められるものがあまりないなあとも思っていた。表面の映っているものを思いつきで組み合わせて論じるものか、エクスプロイテーション映画を過度に持ち上げたりするのは、まあ教科書的な映画史に対する反動ではあるが、それが映画論の王道になるのは変なハナシだと思う。木を見て森を見ずというやつですな。自説を通すために実に豊かで馬鹿馬鹿しい映画の歴史の事実を無視するのはどんなもんですかね。ここには作家主義だけでは見えてこない流れが丹念に並べられている。
本書は60年代という仮の枠組みを作り、その中で特筆すべきアメリカ映画の傾向を固有名詞を軸に展開する。
ブラック・リスト映画人の復権(ドルトン・トランボ、エイブラハム・ポロンスキー、ウォルター・バーンスタイン、べン・マドウ、リング・ラドナーJr『スパルタカス』『シンシナティ・キッド』『刑事マディガン』)
検閲制度(プロダクション・コード)の撤廃(オットー・プレミンジャー、シドニー・ルメット『ロリータ』『ねえ!キスしてよ』『質屋』『欲望』『去年の夏突然に』)
史劇の終焉(ウォルター・ウェンジャー、サミュエル・ブロンストン、ダリル・ザナック、フィリップ・ヨーダン『キング・オブ・キングス』『ローマ帝国の滅亡』『クレオパトラ』『史上最大の作戦』)
人的交流(テリー・サザーン、ジョゼフ・E・レヴィン、ウォルター・ミリッシュ『ラブド・ワン』『卒業』)
技術的革新(ラズロ・コヴァックス、ハスケル・ウェクスラー、アーヴィン・カーシュナー、ジョン・フランケンハイマー、モンテ・ヘルマン『夜の大捜査線』『アメリカ・アメリカ』)
他にも「AIPの六〇年代」サイコと流血描写、スローモーションと黒沢映画の暴力、西部劇の変質、人類滅亡ものについてなど多角的な切り取り方で読み応えがある。
スペインのサミュエル・ブロンストン・スタジオの実質的支配者の脚本家のフィリップ・ヨーダンはなぜ赤狩りで追われた脚本家たちに匿名でシナリオを書かせ続けたのか。『卒業』のプロデューサー、ジョゼフ・E・レヴィンがなぜ『軽蔑』『8 1/2』を作っていたか。大型史劇がみなコケたのに、超大作戦争映画『史上最大の作戦』がなぜ成功し、いかにしてダリル・ザナックが復活したかの考証は面白い。それぞれの項目に見え隠れするスタンリー・キューブリックの存在もスキャンダラス題材好きが60年代をどう横断したかも興味深い。
タンバ先生の本を見かけた。ぜひ読もう。「大俳優丹波哲郎」とはすばらしいタイトルじゃないか。共著はダーティ工藤。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4898301703/qid=1084759988/sr=1-1/ref=sr_1_10_1/249-0754860-3278733
ドン・シーゲル・ページをどうしようかと考えてます。自伝もほぼ半分訳したんで、いまの分は近日中に削除してから残りの部分を少しずつ訳していって、自分なりに情報を加えて、一本一本について解説を書いて行きたいです。キネ旬の世界の映画作家シリーズより詳しく書ければいいなと思っています。同時に観ていない作品ヴィデオを入手したい。あとスチュワート・カミンスキーのインタビュー本(絶版)がどこかに出ていないかな。
そういえばカミンスキーのミステリー「トビー・ピータース・シリーズ(文藝春秋社刊)」にシーゲルが出ているのは知っているよね。読み直していないのでアレなんだけど、確かワーナー・ブラザース時代の若き日のシーゲルが特別出演で活躍していると思ったが。結構出回った本なので古書店や図書館で手に入るはず。まあミステリーとしてはおもしろくないのだけども、ハリウッド・バックステージものとして楽しめます。
■ ゴッド・ディーバ |
Date: 2004-05-15 (Sat) |
エンキ・ビラルの新作。舞台は2095年のニューヨーク。
いやあスゴイ、スバラシイ。はじめの数カットを観ていて久しぶりにゾクゾクしたよ。あまりにも画面が素晴らしくて、じっと見つめていたら字幕を読むのを忘れて、ストーリーがなかなか把握できなかった。というか普通に観ていても欧州映画によくあるパターンの説明不足ぎみなハナシはよくわからないので、先にストーリーを入れておくと良いです。テレ東深夜アニメを見ているのならあれくらいの物語展開のカッ飛び方にはついていけるでしょう。
『バンカーパレス・ホテル』、『ティコ・ムーン』を観た方なら、エンキ・ビラルの技術的芸術的なセンスと監督としての技量がよくわかっていると思うのですが、今作はさらにその精度がアップしています。なんと画面に彼のバンド・デシネ(フランス製コミック)の登場人物たちがそのまんまCGキャラクターで出てきて生身の人物たちと話すんですな。それがまったく違和感が無い!普通2Dを3Dにおこすとポリゴンのボコボコなのっぺりしたゲームキャラのようなものになるのが、繊細な作りこみと彩度を落としながら照明をきちんと設計して、CGをまったく強調することもなく劇映画の手法の中に溶け込ませているので、一瞬でも「あれCGか?特殊メイクか?」と思わせるほどのリアルかつ幻想的な画面が延々と続きます。またよくハリウッドやその亜流にある、CGの質量感を出そうと衝突などで画面をブラすような下品なことはまったくせず、効果としてセットとして世界としてCGを使っている。
というか、いわば脳みそで考えて手で描くものの延長上に映画があって、まったくの手作りというか思ったままがカタチとして表現されている、しかもそこには作者の手触りであり刻印であり技法がすべてそのまま現れている。ホントに彼の世界を映画として作り出しているのに成功している。なので勘違いしないように、彼のバンド・デジネの世界がCGで表現可能になったから作ったのではない。彼の世界を映画にするためにCGを使ったのだ。もしCGというものが存在しなくても彼はこの映画を作っただろう、CGは結果ツールとして選択されたものに過ぎない。そういう確固たる意思が映像から伝わってくる。
新しい技術を使って、遊んでみるとその効果だけが強調され結局遊ばれてしまっている映画と映画人が多いが、それは監督が現場をコントロールできず、また説得できるイメージを持っていないことに繋がるのだろうが、その中でじっくりとその技術を手中に飼いならし、自らの手でデフォルト設定な技術を自分の世界に作り変えていく人がエンキ・ビラルだ。あとは大友克洋くらいしか思いつかない。(テリー・ギリアムやティム・バートンはちょっと違う)。
■ リモート・コントロール |
Date: 2004-05-13 (Thu) |
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4042790011/qid=1084418831/sr=1-1/ref=sr_1_10_1/249-5002397-0481944
↓の本に触発されて読みました。久しぶりに寝不足になるまでやめられなかったのでいまも目が血走ってます。やぁ傑作ですわ、これを知らなかったのは不覚不勉強としかいいようがない。これを読んじゃうと、これ以前の冒険小説が古めかしく感じてしまうほど現代的だ。ストーリーはそれほど新しくない。元SASの男がアメリカに住む元同僚のところに行くと、一家は惨殺されていた。生き残った7歳の娘を連れて、慣れないアメリカの都会で彼の特殊部隊時代の技術をすべて使い追っ手を倒していきながら、背後にある大きな陰謀を暴いていく。
しかしディテールの描写のすごさは、元SASだけあって読ませる(ヒトを殺したことがないとこういう描写はできないんじゃなかろうか?)。ただそれだけなら、殺戮数10人20人は当たり前!というカメラ量販店のような安っぽいアクション小説でもできるかもしれない。しかし著者の場合は、確実に主人公たちをこれでもかと危機的な状況に放り込み、そこから如何にして彼らのプロフェッショナルな行動と勇気によって脱出するかをきちんと書いている。さらに出てくる人物みなに血が通っていることだ。ただの冷酷な殺人マシーンや出てきて足手まといになるだけの女性などのありきたりなキャラクターになりそうなところを、見事に描き分けられて愛すべきキャラクターたちに仕上げている。その辺りの書き込み方は新人とは思えない。ストーリー・テリングの巧みさは初期のドナルド・E・ウエストレイク(スターク)や、デズモンド・バグリィを思わせる。
検索したら、著者のアンディ・マクナブはマイケル・マンの『HEAT』のテクニカル顧問をしていたあった。
http://w-colle.hp.infoseek.co.jp/Platform%204/text.htm
あの映画のねちっこいアクションのディテールの源はここにあったのか。それと『レオン』が好きな人にもお勧めです。
■ 「襲撃待機」「弾道衝撃」「偽装殲滅」 |
Date: 2004-05-09 (Sun) |
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/search-handle-url/index=books-jp&field-author=ライアン%2Cクリス/249-5002397-0481944
元イギリス陸軍SAS隊員による冒険小説。やっぱ冒険小説はイギリスだなあ。どうしてもアメリカ人だとマッチョで大雑把な感が前面に出るが、イギリスだと女王陛下の下僕といった口実が物語上使えるのであまり私闘じみた展開にならずに済む。なので主人公も脇も孤高な存在に立てるので読んでいてどんな悲惨なストーリーとなろうが救われるような気がする。
このシリーズは、著者自身の湾岸戦争従軍の経験を綴った「ブラヴォー・ツー・ゼロ孤独の脱出行」という凄まじいノンフィクションを併せて読むと、じっさいどこまでがフィクションなのかわからないほどディテールに満ち溢れている。特に北アイルランド潜入、コロンビア麻薬マフィア殲滅、カリブ海上襲撃、リビア軍事基地暗殺、モスクワ人質救出、チェチェンテロリスト襲撃などの作戦の準備と実行部分については、まさに1分1秒1センチ単位でその詳細が描写される。まあストーリーテリングと人物造型の方は稚拙なので、ギュッとサスペンスとか浪花節で楽しみたい(内藤陳ファンのような)人には不向きだ。どちらかといえば船戸与一の殺伐とした世界に近い。途方もない汚い作戦が国家公認のもと粛々と進められるさまには正直戸惑ってしまう(正義を声高に叫ばないのもイギリス冒険小説の特徴だ)。
湾岸戦争時同じイラク潜入チームのリーダーだった、アンディ・マグナブの冒険小説も面白そうなのでこちらも読んだら書きます。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/search-handle-url/index=books-jp&field-author=アンディ・マクナブ/249-5002397-0481944
「市川雷蔵とその時代」
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4195552370/qid%3D1084073202/249-5002397-0481944
映画会社大映についての証言集。かなり本音の部分もあるし、現場と製作側という立場が違うとこんなに見方が違うのかというエピソードが満載で読んでいてちょっと胃が痛くなる。語っているのは、【俳優】勝新太郎、【監督】市川崑、田中徳三、池広一夫、井上昭、【脚本家】星川清司、【撮影】森田富士郎、【美術】西岡善信、内藤昭、【撮影所長】鈴木晰也、【企画部長】土田正義、【労働組合役員】真田正典、【宣伝課、脚本家】中村努。それぞれの方のフィルモグラフィーの細かいところは検索してください。外から来た監督には篤く、子飼いには厳しかったという現場の意見に対して、製作側からは、最高学府出なんか取るから理屈ばかりで手を抜くことばかり覚えるんだ。そのぬるま湯から出なきゃ駄目だという。難しいですな。その頂点には良いも悪いも永田雅一というワンマン社長がいたことは確かだろう。あと技術にはカネを掛けるのを惜しまなかったことから出てきた現場の技術の高さが作品の質と大映カラーを支えていて、逆に言えばそれから抜け出せなかったこともまた確かだろう。市川崑が映画を取り続けられるのは政治力があるからということがなんとなくわかる。本書は雷蔵を軸とした大映京都撮影所の模様なので、東京の事情やいわゆるいまもヴィデオで残っているものから抜けたエログロを中心としたプログラム・ピクチャーについての言及はない。のでこれだけで大映がわかった!とかは全然思わないし、さらなる証言を読んでみたいと思う。
■ サワリーマン金太郎 |
Date: 2004-05-05 (Wed) |
DVD。中野貴雄監督のソフトなオリジナル・エロ・ヴィデオ作品。
じつは先に間違って『サワリーマン金太郎2』をさきに観てしまったのだよ。こっちもオモシロかったんだけど、なんかおかしいなあと気づいたころにはもう観終わっていた。同じキャスト、同じ低予算(実質3日くらい)のビデオ撮りでもさ、やっぱちがうんだよねえ。
中野作品って、細かいクスグリが多く、もちろん元ネタを知っていると数倍楽しめるんだけど、知らなくてもいつもなんかやってくれるという期待感があり、それが裏切られることがない。映画の娯楽のツボを知っているのがよくわかるし、それに加えてテレビの面白さ、具体的にいうと久世光彦水曜9時TBSの一連のドラマの作り方壊し方がきちんと入っているのだろうねえ。ただそれを遊びとして使うんじゃなくて、丹念にシナリオの構成のなかに忍びこませる技をもっている。普通はそのようなアクロバティックな構成は考えないし、たとえ作ってみたところでバラバラなグシャグシャな得体の知れないものになるのだけども、落としどころを計算しているので観ていて見事にカタルシスを与えてくれる。久世ドラマが9時43分頃になると急にドラマの速度を落として泣き落として、ドラマの解決を図ったように、それをテレビの偽善的ではなく、映画のラストへ向けての盛り上げとかオチとかに変えていく手腕(チカラ技とも言うが…)は大したもんだと思うよ。例にあげて悪いが、流行のクドカンとかの順列つなぎの構成の仕方と違い、映画の起承転結という古典的な構成をわかって、でもそれを大胆に外さずにはいられない(含む予算の問題も)悲しい性が中野監督作品だと勝手に思っているんだけどね。だから観終わって、ショーもないギャグがどんなに羅列されようが、一本の映画を観た満足感がいつも残るし、予算のある娯楽作品を作ったらどうなるんだろうかと、ワクワクしてしまうんですよ。
フォックスの投売りDVD、999円で『フューリー』を手に入れるべきか。でもリマスターでも無さそうだしなあ。吹き替えとか特典もねえ…。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B0001N1LJ0/qid=1083734262/br=1-7/ref=br_lf_d_6/249-2714439-0854758
わたしのオールタイム・ベストの一本なんですよねえ。デ・パルマファンでこれが好きだというと大体バカにされたもんですが、デ・パルマ好きを称した者は『ファントム・オブ・パラダイス』、『キャリー』、『殺しのドレス』の順番は大体決まっていて、変わり者は『愛のメモリー』、『悪魔のシスター』が入り、『スカーフェイス』はデ・パルマ作品には入っていなかった。そのなかで『フューリー』は失敗作として徹底的に無視された記憶がある。最近はどういう評価なのかは知らんがね。
この作品は、まず出演陣がすごい!マイケル・ダグラスそっくりのカーク・ダグラス、カネのための出演だろうが、悪役が身についているやりすぎなジョン・カサベテス、スピルバーグと結婚する前のエイミー・アービング、シリアスな演技をするチャールズ・ダーニング、スタッフに撮影は、リチャード・フライシャーの70年代作品を担当した、リチャード・H・クライン、音楽は、まだワーグナー調の浪花節オーケストレーションをする前の、単音だけで構成する音楽をやっていたころのジョン・ウィリアムズ。
この『フューリー』(78年製作)が70年代政治とビデオで遊んでいたJ・L・ゴダールを嫉妬させ商業映画に復帰させたことをご存知だろうか。自身が第二の処女作という『勝手に逃げろ/人生』(79)のスローモーションは、『フューリー』のあの名シーンに触発されたことは明らかで、ゴダールの発言(「「アメリカン・ニューシネマの息子たち」)にも書かれている。「ぼくは、ブライアン・デ・パルマの<フューリー>にたまたま使われているスローモーションが唯一の良い使い方だと思う。小細工として使われているのではなく、ひとつのシークェンス全体にわたって使われているのからね」長らく本格的な映画を離れていたゴダールを本気にさせた映画なのですよ。
■ 続編2本 |
Date: 2004-05-02 (Sun) |
『呪怨2』と『ターミネーター3』DVDにて。
いや、充分に面白いんだけどね、両者とも若手監督で娯楽映画の演出に長けていて、何の不満も無いはずなのだが…。うーむなんかヤッテルネというのを確認するために観ているような、のめり込むような部分は無く、かといって余裕で安心して何も考えずに楽しめるというのとも違うような。一言でいうと「大変だったろうけどガンバッテイルね」なのかなあ。
『ターミネーター3』のカーチェイスは素晴らしくキャメラの位置も編集も見事なものだったけど、キャメロンの胃もたれするようなこってりとした演出と違い、あっさりめのモストー演出が損をしている。観客をへとへとにさせるようなクドさが無いのは『U-571』『ブレーキダウン』でもよくわかってたが、シナリオに書いてあるものを広げていく粘着質なタイプではない。良い言い方で職人なのだろうな。シュワちゃんの扱いもどーなのかねえ、最近のハリウッド映画続編に多い、つまらないセルフ・パロディの度が過ぎているカンジがする。ここまで築き上げてきた「殺人マシン・ターミネーター」のキャラクターを、「シュワルツネッガーの唯一の当たり役としてのターミネーター」というスクリーン以外のところでウケルようなネタで、シュワちゃん自身を笑うような安易なテレビバラエティのようなギャグは白けるばかりだ。こういう内輪受けは映画の持つ神話を破壊するだけでなんの想像力を喚起しない。キャメロンは『ターミネーター2』で、一見第一作のパロディみたいに思わせながら、すべてをひっくり返すある意味SF魂全開なアクロバットを行なって、その荒唐無稽さを正当化するために徹底的にキャラクターと物語世界の細部を描きこむやり方を選んだ。『ターミネーター3』の場合はその世界観に安直に乗っただけであって、それを弄ることだけで成立させている。あのオチで『T4』を作ろうとする製作側の意図はみえみえなのだが、本来はもっとキツイ局面まで追い込むべきじゃないだろうか。不可避不可能状況をどう切り抜けていくのかが、ターミネーター・シリーズの醍醐味だったのだが、これではターミネーターがすぐに助けてくれる、ヒト型ロボットの「ドラえもん」にしか思えない。
『呪怨2』はなぜオリジナル・ビデオのPART2の方向に集約していかなかったのだろうか。あれこそ映画のスケールでやったら説得力があるしぞっとするのに。シーンのアイディアがあって、それから逆算してストーリーを作っていった感が強い。なので各エピソードの有機的なつながりが弱い。ほどんど不条理なのだが、そんな片っ端から死ななくても…と絶句してしまうことが多々ある。清水監督は品が良いので暴力的に殺してカタルシスと殺伐とした印象を作り出すことはしない。しかし、ひとつひとつ丹念に見せていく割には、観客が登場人物に拠っていこうとすると、突然死んじゃったりするので取り付く島がない。しかもその死ぬシーンを撮り方のアイディアの実験にしてパターンを作っているだけなので、キャメラワークだけが気になり、人物の感情はどーでも良くなってしまう。のりピーがなに考えてるんだか最後まで全くわからない!まあ上手いのですよ、ホント、でもそれだけで観終わったらそれで終わりなのですね。時間と空間の入れ替えなど面白いんだけど、それがどうしたのと考えると何の意味も無い。怪奇現象ですから不条理なので説明はできませんと言われてもなあ困るよ。それだったら映画じゃなくともいいじゃん、稲川淳二にでも任せた方がいい!でもそれが実はビデオ版の怖さでもあった訳だけどもね。
説明をするかしないか、そのジレンマに早くも行き当たったようだけど、これを回避していくのか、ぶつかっていくのかは清水監督がどういう映画を作って行きたいかによるんじゃないでしょうか。
■ てなことを言いながら… |
Date: 2004-04-29 (Thu) |
**一応ネタバレはしてませんが、観終わってから読んだほうが良いです**
『キル・ビルVol.2』のことを考えると、どうしても『キル・ビルVol.1』のことを考えないとならなくなる。だって『キル・ビルVol.2』で一番良かったのは、最後の登場人物紹介のシーンだったものね。
『キル・ビルVol.2』を観て思ったのは、『キル・ビルVol.1』が画期的だったのは、映画をリミックスした点だけではなかったということだ。映画が与える「効果自体」を徹底的に「新しい商品」と変えたのだ。
いわゆるプロモーション・ヴィデオ世代がワンカットを短く認識できないほどに切り刻んでサブリミナルな衝撃として、視覚に訴え情動を起こさせようとしても、そんなものには1コマよりは短く出来ないので限界があるというのは自明の理であるが、そんなこととは全然離れてタランティーノが『キル・ビルVol.1』でやったことは、眼の前でスクリーンに映っている部分はほんのわずかなのに、その一瞬の間に観客にいままで観てきた映画・テレビの情報と記憶を
一挙に引きずり出してぶん回しへとへとにさせるという、脳に直接訴えかけるやり方を仕掛けたことだ。ひとつのシーン観てひとつの音楽を聞いただけで、自分の脳内の映画の抽斗がかき回され、次の瞬間にものすごいスピードで映像の欠落部分を埋めるべく自ら積極的に参加していく。ものすごい勢いで酩酊するその快楽は、短いカットでパカパカするだけの子供騙しとは比べものにならない、その数百倍のスピードの刺激を生み出すといえる。
これは、JGバラードの作り出した濃縮小説の映画版、いわば濃縮映画(コンデンス・ムービー)だと思う。
ただこれは個人のセンスと偏愛の賜物なのだけどね。
追記:さらに言えば、ゴダールがすでに40年も前からやっていることなんだよね。
■ キル・ビルVol.2 |
Date: 2004-04-27 (Tue) |
**一応ネタバレはしてませんが、観終わってから読んだほうが良いです**
仲間内でワイガヤとショーもないビデオを繋いで音楽をつけて遊んでいたら、突然ヘンなメガネの秋元康と奥山.Jrが現れて、これはオモシロイから続編はワタシたちがプロデュースして商品化すると言い放ち、映画会社や広告代理店をたぶらかし、前売り券を大量に捌き、テレビスポットをバンバン打って、出来上がってきたものが『パ★テ★オ』だったりする…。
なにはともあれ、オトナのジジョウなのか、Vol.1のDVD発売に合わせた公開はなぜなのか、今回はサントラが間に合わなかったのはなぜか、単にVol.1でチカラ尽き果てたのか。総体として仕上げのデキが甘い。あと本当は半年は必要じゃないか。とにかくシナリオの通りに繋いでみましたという感じが強い。余計なシーン、カットが多過ぎる。まず音楽の乗り方が違うなあ。単なるセンスのある劇伴に過ぎない。それを聞いてもなんの感情も喚起しない。編集にリズムが無いから、音楽の無いシーンだと無音がものすごく気になる。
まあVol.1の落ち穂拾いな部分も否めないから、どうしてもバランスが悪いのは仕方がない。もしVol.1があと90分長く一本の作品として完結していたら、オールタイム・フェイバリットに確実に入っただろう。
既にタラはアニメ版やVol.3の企画にアタマが行っているんだろうなあ。その意味じゃVol.2はもう通過して戻る必要はないポイントなんだろうね。タラ自身の方向性はVol.1で大きく花開いたのだから、いまさら以前のスタイルに戻ることはないのだろう。これは好意的な見方なのだけどね。だからVol.2は、悪いけど自分の中では終わってしまった消化試合なんだろう。Vol.1とは較べることもできない。
しかし『マトリックス・レボリューション』のような商法はヤだな。せめて『キル・ビル(リミックス・スペシャル・エディション)』を作って欲しい。
タランティーノのメタ・フィクション的物語の構造を支えるのは、登場人物たちの無駄口であり、そのことでキャラクターが立ち、観客は変わった人物だなと興味を持つ。ただ、物語が進むにつれ、キッチュなキャラだけでなく、人物の内面を描こうとすると元々が薄っぺらいんで、最初と整合性がとれず一気に失速していく。彼の映画がいつも後半に進むに従い印象が無くなるのはそのせいだ。(だから時制を入れ替えて目くらましをしているんだと思う。)今回もブライド、バド、ビルがどんな人物かわかってくるとガクンとそれまでの人物の魅力のテンションが下がってしまう。その意味でもVol.1の薄っぺらい部分だけで徹底的に疾走しきったのは正解だと思うし、この方法で成功したタラは今後そういう方向にしか行かないと思う。だからVol.2はVol.1以前のタランティーノ映画に属する。それなので私には今のところVol.2については語れない、Vol.1とVol.3と新たなアニメ・パートを加えたリミックス・スペシャル・エディションが完成したときにはじめて新たに語ることが出てくると思う。
■ リベンジャー |
Date: 2004-04-25 (Sun) |
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B00013F5RY/qid=1082900637/sr=1-1/ref=sr_1_8_1/250-8659771-9529801
DVDにて。
懐かしいなあ。月刊ぴあを隅から隅まで読んで、とりあえず観たい映画を片っ端から蛍光ペンでマークしても、INDEX欄にいつまでも残っていて、いつか観られるだろうと思っていて、そのままロードショーから、二番館三番館やがて新宿ローヤルに落ちても、結局行かなかった映画がいくつもあるがこれもその一本。
映画ってこれでいいよ。スター、銃撃、カーチェイス、爆発、オトナの豪快さ、男たちの友情、陰謀、裏切り、ちょっとのお色気、渋い脇役、ワクワクする劇伴。いつもながらストーリーに新しいアクションのアイディア。
どこで歴史は間違ってしまったのだろうか?
■ 近頃考えたことですが |
Date: 2004-04-22 (Thu) |
デイヴィッド・J・スカルの「モンスター・ショー」を読んでいてある記述にぶつかり、あっと思った。大体こんな意味だった。“優れて成功したアメリカ小説はみな同じあるカタチを採っている。「いつまで経っても大人になりきれない現実社会では役に立たずにバカにされている男が、現実にはありえない得体の知れない世界の事件に巻き込まれていくと、その無垢さを武器にして戦い乗り越えようとしていく物語」だと”。
どう?なにか浮かばない?わかりやすいのだとスティーブン・キングの小説はみなこの構造を持っている。いつまでも売れない小説家が怪物やエイリアンなどが出てくる異世界の事件に巻き込まれていくが、彼にしかその正体はわからない。「IT(イット)」などわかり易すぎるよね。他にもアメリカン・ハード・ボイルドと称される小説はみなこれじゃないかな。うらぶれているが孤高の私立探偵が巨大な陰謀が渦巻く事件に巻き込まれて一匹狼の掟に従い解決していく。
さらに時代を遡るとサリンジャーやアップダイク、カポーティもその変奏にあると思う。舞台が南部や東部の名家のハナシになったりするが。もっと言えば失われた世代はモロそうじゃないかな。ヘミングウェイ、フォークナー、フィッツジェラルド!そして最後はマーク・トウェイン「ハックルベリー・フィンの冒険」まで行き着くのではないか(読んでないけどね…)。
まあ青年が社会の壁にぶち当たり挫折するというのは古今東西、小説のモチーフ殿堂入りNo.1なことは確かだけども、「大人になりきれないコドモ」というのがポイントだ。欧州の場合は「教養小説」という青年が試練に遭いながらそれを乗り越えて大人になっていく様を描くジャンルがある(あった?)よね。でもアメリカの場合はいつまでも大人になれない(ならない)=無垢というトンデモない方程式が成り立っている。この構造をスカルは「ゴシック・ロマン」の形式に則っていると喝破する。ここでいきなり物語の枠組みが中世を舞台とした御伽噺に飛んで行っちゃうのです。単純に言っちゃうと、「無垢な若者が悪者や怪物たちの支配するおどろおどろしい世界を冒険する物語」なわけですな。そんなバカなと思うでしょうが、このメンタリティがアメリカ人のどこかに巣食っているのではないかと思う。
ただね、この「アメリカン・ゴシック」の形式をちょっと反転してみると、実は西部劇の世界になるのですね。理想に燃えた無垢な青年が西の荒野に向かい得体の知れないインディアンや無法者たちを相手にやられる前に殺るアメリカの神話の世界。
実は「アメリカン・ゴシック」と「西部劇」の両者は互いを補完してしていると思う。無垢で傷つきやすいが故に正義で守られている永遠の若者。被害者意識と加害者意識の混在。無垢という優しそうな言葉の裏には、「免罪」というものが隠されている。つまらん例えで申し訳ないが、ロバート・B・パーカーやミッキー・スピレーンのように敵対する相手は何人殺そうと構わないが、愛犬が死んだら涙するという世界観はまさに一致するように思える。
イーストウッドの映画とくに『ミスティック・リバー』の曖昧さが日本人にはわからないのは、その辺りがあるのだと思う。ハリウッドが世界に発する自由で明るいアメリカから離れて、まともにアメリカ社会を描写しようとするとものすごく暗くおどろおどろしい世界に突入してしまうのは、ホラー映画の影響だけではなく、元々文化のなかに含まれている「ゴシック」的な土壌のためではないだろうか。連続殺人鬼やXファイルの世界と相性が良いのも単なる都市伝説との関連だけでなくここら辺に下地がありそうだ。
またハメット=チャンドラー=マクドナルド・スクールが初期の短編の手荒いドンパチから、次第に長編では陰鬱な化け物じみた金持ちたちの話に移行していくのもこの「アメリカン・ゴシック」の様式美がどこかで深くかかわっているのではないだろうか。要はアメリカ自体を描写しようとするとこのような形にならざるを得ないということ。
その一方で子供の無垢を売り物にするスピルバーグやキングが、どんなに金持ちになろうと変わらずジーンズを脱がないポーズをしていないと許されない社会。逆にマイケル・ジャクソンというモンスターが許される社会のメンタリティがある(これは一般市民がどうこうということではなく、アメリカ版東スポの「ナショナル・インクワイラー」がどうゴシップを報じているかというレベルのこと)。
というわけで表面(メディア)の帝国としてのアメリカでは、大人になっていく儀式は注意深く忌避されているような気がする。逆に言えばそれがクリアされればいつでも冒険は成立する仕掛けになっている。それを最大限に生かしているのがどんな荒唐無稽も許されるハリウッド映画の魅力でもあるわけだけど。
うーんかなり粗い論考だなあ。バカハナシとしてはおもしろいと思うけど。もうちょっと考えますネ。
■ ペイチェック |
Date: 2004-04-17 (Sat) |
ジョン・ウーがPKディックの原作をベン・アフレックとユマ・サーマン主演で、カナダロケで撮影した作品。としか言いようが無く他に付け足すことが何ひとつないなあ。
カー・チェイスのシーンは『マトリックス・リローデッド』の1/100の予算だろうがさすがに圧巻で手に汗握る達者さで、延々と続くお馴染みのガン・アクシンもいつものように堪能させてくれる。
さてその他は低予算カナダ産のいつもの映画のいつものように、ああそんなものなのねですばやく納得してしまう。どうやら下敷きにしているらしい『北北西に進路を取れ』が透けてみえてユマ・サーマンがエヴァ・マリー・セイントに見えてくるから不思議。ベン・アフレックがケーリー・グランドかというとビミョウなところでありまして、また敵がジェイムズ・メイスンとマーティン・ランドーでないのが痛い。
アクション・シーンの中でのサスペンスは上手いけれど、物語の流れとしてのドキドキのサスペンスはいつものように上手くない。なのでヒチコックというよりもデ・パルマだったりする。『愛のメモリー』から『ミッドナイトクロス』のカンジ。もう少し人間関係がディックの現実崩壊のサスペンスがあっても面白くなったのにねえ。誰が味方かわからない部分でもう少しミス・ディレクションをしても良かったんじゃないかな。
ジョン・ウーの世界では敵味方が曖昧でそれがサスペンスとして物語が展開するよりも、とりあえず白黒はっきりしていないと成立しないような気がする。あとで裏切ろうがこのシーンまでは味方、ここからは敵とわかりやすく登場人物を色分けしないとダメみたい。そういえば『M:I-2』が『汚名』といわれても納得できなかったのもそこら辺に原因がありそうだ。サスペンスの捉え方が違うんだと思う。『ウィンド・トーカーズ』や『フェイス・オフ』だけでなくほとんどの作品の場合、サスペンスというよりも二人の主人公の葛藤、友情と裏切りを軸にしているので、その揺れ動く関係性を追いかけるサスペンスにはなっていないのだと思う。もしかしたらみんな勘違いして彼はサスペンスが上手いと思っているのかもしれない。本人も。その意味ではやはりデ・パルマ寄りなのかもしれない。濃い人間たちが出てくると生き生きするのも似ている。ただその辺りに気づいてしまうとデ・パルマが失速したのと同じようになってしまう気がする。
それでも映画としての職人芸は十分に味わえます。消化不良の自称若者向け映画よりもきちんと物語を語るために編集や音楽が奉仕している映画の方は安心できて気持ち良い。
■ 龍頭 ドラゴンヘッド |
Date: 2004-04-13 (Tue) |
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4047914657/qid=1081819851/sr=1-1/ref=sr_1_10_1/250-3310717-1774656
中国マフィア組織「大圏仔」のボス、ジョニー・コンの半生を、アメリカ人ジャーナリストが12年かけて取材したノンフィクション。混乱の戦後の上海から抜け出し、香港で毛皮商として成功し、ベトナム戦争で米軍にコネを作り、やがてヘロインなどの麻薬ビジネスに手を染めて、タイ、シンガポール、日本を経てアメリカ本土に進出していく。
肥大化するカネと組織とアウトローたちの愛憎劇が『ゴッドファーザー』だ。部下となる元紅衛兵の連中とかギラギラしたチャイナマフィアの描写が振興成り上がりヤクザそのもので、そこで縄張りと面子を巡り、内部抗争になっていく様は『仁義なき戦い』だ。
ただ作者の視点が西洋人なので東洋人とその倫理性(義理人情)についての思考回路が掴めていないところがいくつかあり、ちょっと白ける部分もある。そのあたりは終わりに書かれた宮崎学の解説が補っている。まずそこを読むとわかりやすいと思う。
観たい映画が多いのだけど、とりあえずジョン・ウーの『ペイチェック』に行かなきゃ。そういえばあまり評判を聞かないなあ。コーエン兄弟の『ディボース・ショウ』もね。アメリカじゃ次の作品がもう公開されているようですが、最近不義理している。決して嫌いじゃないヒトたちなんだけど。もっと『ファーゴ』のような笑えない殺伐としたコメディが観たいですなあ。ジョー・ダンテの『ルーニー・チューンズ』は朝しか上映してないんで行けない!
なにはともあれ『キル・ビルVol.2』でしょ。ネット上の予告編でネタばらしをやっていて、思わずコケた。でも確信犯でやっていると思うんで楽しみ。ウタダダンナの映画も別の意味で楽しみ、たぶん観ないと思うが…。『クレしん』もブラック師匠が褒めているらしいが、でもああいう設定をこれ以上いじれるのかしらん。テレビで「特報」を見てちょっと心配だ。
ここ一ヶ月ほど、新たにオモシロイことをはじめて、どうやらイケるんじゃないかとカタチになってきたんで、そのあいだ映画鑑賞もサイト更新もどうでもいいやという気分だったですが、一息ついたんでね、またボチボチと行きますわ。
実生活でお付き合いのある皆様には、そのうちにご連絡が行くと思いますんでそのときはよろしくです。<以上意味不明私信>
■ さすらい |
Date: 2004-04-06 (Tue) |
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4104504017/qid=1081134355/sr=1-6/ref=sr_1_10_6/250-6717735-5283456
無意識過剰俳優(命名、大滝詠一)、小林旭の一人語り自伝。宍戸錠の自伝「小説日活撮影所」や大滝詠一が企画監修したCDが出るのにあわせた出版だったのだろうか。まあまあな内容で30分で読めました。下積みからはじまる既存の俳優たちとはまるで違う登場をした裕次郎と大部屋出身だった旭の違いの分析が、本人の視点から語られると説得力がある。まあ本人の言だから差し引いたとしても、彼のオープンで醒めた部分には都会者の照れや育ちのよさが窺える。裕次郎=都会のアンちゃん、旭=田舎のアンちゃん、という分けた売り方が実は会社(日活)の意向だったことがよくわかる。なので今も裕次郎派か旭派かというのは、当時の作られたイメージを基に語られているということなのだろう。私も「昔の名前で出ています」はわかるにしても、なぜ『春来る鬼』を監督したのかがピンと来なかった理由がわかった気がした。いつまでも田舎のアンちゃんのイメージがどこかにあるんだろうね。
美空ひばりとの短かい結婚のところはきちんと語っているようでもなんかすっきりしない部分があるねえ。田岡組長との会談をさらりと書いているのもすごいといえばすごいが。スタントマンを使わずに死にかけながらもアクションをやる潔さはすごいの一言。あと書かないけど、ある意味日本、いや世界のアクション映画史がひっくり返ったかもしれないあっという秘話もはじめて語られています。
日活がロマンポルノに移行した時代については「映画の斜陽化は一気に加速していったと思うよ。そして、日活が出してきた結論というのが、ロマンポルノだ。最悪中の最悪のエロ映画だった。」こう切り捨てているのも、日活を背負ってきたと自負と会社の裏切りが許せない気持ちがそういわせるのだろう。
日活アクションがアジアにマーケットがあり盛大な人気を誇っていて、チョウ・ユンファのような旭のそっくりさんがいたたことはよく言われるが、旭もいまもっとアジアに進出しなければ、日本は単なるアメリカ映画の輸入市場に終わってしまうと警鐘を鳴らす。それは自らが製作会社を作り世界進出を図ろうとした経験から語るもので説得力がある。
もし映画を撮るとなったらの問いに、「東京を舞台にしたタイムトライアルアクションだ」と、そのシーンをこと細かに語る、そして「これは偽りのロマンなんかじゃないよ。やる気になりさえすれば、いつだって出来ることだ。ただ賭けることもしないで、大きなことを期待するのは間違いだよ。そんなことを考えるていると、多少“眠りかけていた”俺の身体の中に流れている血が騒ぎ始めたよ。昭和という時代を生き抜いてきたエネルギーが呼び戻され、蘇ろうとね。」
■ ザ・メイン・エネミー |
Date: 2004-03-30 (Tue) |
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4270000082/qid=1080609636/sr=1-2/ref=sr_1_2_2/249-3448688-2934710
CIAとKGBの両方からみた冷戦とその裏側を描いたスパイ・ノンフィクション。著者はCIAのエリート畑なのでアフガン戦争、ベルリンの壁崩壊の最前線にいたので当時の事情が細かく書かれている。また大半のスパイマスターたちが冷戦が終わるという時代の変化について来られず、双方とも相変わらずのスパイ合戦をしていた事を指摘する。モスクワで保守派によるゴルバチョフ軟禁のクーデターが起こったときに「それみたことか冷戦は簡単に終わらない」とCIA職員たちが興奮したという不思議な現象が紹介されている。もともと彼らの本当の役割は冷戦を終わらせるためだったはずなのに。
あとKGBとCIAの間に“ガヴリロフ・チャンネル”というホットラインが開設されていたことにも驚く。東西緊張の象徴のベルリンが、双方の監視が厳しすぎたので、まともにスパイ活動ができず、実際は新米スパイを教育する安全な場として「ベルリン幼稚園」と揶揄されていたという。スパイ小説とは違うズッコケの事実。
しかし本書でメインに書かれている、二重スパイの摘発が一番面白い部分だ。通称もぐら狩りは、たとえばCIAがモスクワやワシントンでKGBの職員を協力者(スパイ)にする。ここまではいいとして、問題は彼がアメリカに協力するふりをして実は祖国を裏切おらず反対にこちらの情報を流していないかどうか、要するに三重スパイなのかということだ。
スパイを勧誘して実は逆に相手に勧誘されたりするというウソのような話も出てくる。また逆にCIA職員がソビエトに情報を漏らすと、KGBにCIA協力者の身元がバレてしまい、CIAのスパイ網が壊滅して、二重スパイが捕まるまで再構築ができなくなる。
誰が二重スパイかわからないために部下すら信じられずに、局内の活動が何年も停滞してしまう凄惨さ、裏の裏の裏を読む世界は不条理劇のようだ。
いつの間にかプロ野球シーズンがはじまった。今年こそは試合をたくさん観戦したい。
今年こそは………http://www.marines.co.jp/
■ 岡田桑三 映像の世紀 グラフィズム・プロパガンダ・科学映画 |
Date: 2004-03-29 (Mon) |
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4582282431/qid%3D1080562481/249-3448688-2934710
1903年、岡田桑三は横浜の裕福な商家に生まれた。その人目を引く顔立ちは祖父がイギリス人のためだった。母がキリスト教会の活動に従事して、早くから文化的な人間が集まる環境にいたからか、演劇に興味を持ち、舞台美術の勉強にワイマール時代のベルリンに行くことになる。
洋行の船上で渋沢栄一の息子で財界人であり民俗学の在野の研究者でもある人物、渋沢敬三と知り合う。
彼の地ではダダイストの村山知義と友人になる。
帰国後その美貌で日活、松竹に男優としてスカウトされ、山内光として幾本の映画に二枚目役として出演する。俳優時代に知り合ったソビエト逃避行でスキャンダルとなった女優岡田嘉子との親交は一生続く。
またその頃同時に共産党的映画活動、プロキノに携わり、のちの映画評論家の岩崎昶とも知り合う。右翼に暗殺された労働農民党代議士山本宣治の葬式いわゆる「山宣告別式」を自ら撮影。松竹撮影所でこっそり現像する。ちなみに35mm手巻きカメラは東宝東和の創始者、川喜多長政から借りる。
そのフィルムを持ってモスクワに行き、エイゼンシュタイン、プドフキンに会う。
その後ロシアアバンギャルド、ライフ誌、報道写真の影響を受けながら広告宣伝写真の仕事を経て、幻のグラフィック誌「FRONT」の創刊を写真家木村伊兵衛らととも行う。
太平洋戦争時に、天然色フィルム技術者育成のために満映に行き終戦を迎える。しばらくは内地に帰れず、騎馬民族説を唱えた学者江上波夫とともに生活をする。
帰国後、渋沢敬三人脈で南方熊楠全集の刊行を行い、熊楠の再評価を仕掛ける。
1950年代に科学映画の製作会社、東京シネマを設立し、数多くの作品をプロデュースする。
うーん何だこの人は。まず絶句。日本映画の表に出ない流れ、いわゆる俳優が出るフィクションとはまた違う映画も存在するわけで、またマルクス主義の影響を受けた時代の映画の流れも存在したわけで、その両方のキーパーソンのひとりであることは確かだ。個人的にミッシングリンクになっていた、プロキノと文化科学産業映画の繋がりが少しわかってなるほどねえという部分があった。
映画云々というと敷居が高いかもしれないけど、ある男の二十世紀の話としてはべらぼうに面白いです。きれいでまじめな竹中労の「大正水滸伝」みたいなものかなあ。本の作りもていねいでさすが平凡社です。周辺の歴史的情報も懇切に書いてあるので映画だけでなく近代史に興味のある方も、楽しめると思います。
■ ハリウッドとペンタゴン − 親密な関係 − |
Date: 2004-03-24 (Wed) |
http://www3.nhk.or.jp/omoban/main0323.html#05
NHK BS-1。
ハリウッド製の戦争を扱う映画・テレビ番組が、いまペンタゴンとどんな関係になっているかを調べたフランスのドキュメンタリー。
かつて『プラトーン』や『ア・フュー・グッドメン』の場合は軍部批判のために軍は一切協力をしなかった。
しかし反対にジェフリー・ブラッカイマーの食い込みぶりの凄さに唖然とさせられる。その関係は『トップガン』にはじまり、『ブラックホークダウン』でリドリー・スコットと一緒に言われるがままにシナリオを書き直したので、ペンタゴンが動いて当時軍事協定がなかったロケ地のモロッコに、米軍人員と兵器を受け入れさせることに成功する。要するに大統領並に軍を動かしたようなもんだ。さらにブラッカイマーはアフガン戦争のときに、ペンタゴンに番組の企画を提出する。特殊部隊の活動に密着する『Profiles From the Front Line』だ。 http://abc.go.com/primetime/profiles/もちろん戦闘の激しさや戦争の愚かさを描く番組ではない。生身のひとりの兵士、誇り高きアメリカ兵を描くものだ。気を良くしたペンタゴンはこの番組の成功の経験を基に、イラク戦争へのメディアの同行取材を決めたという。彼らを御せる自信がついたということだろう。
さらにペンタゴンはハリウッドに訓練用シミュレーション・CGソフトを作らせ、開発したソフト技術はゲームなどに使わせるということが行われている。
しかし『ウィンド・トーカー』の場合、軍部に隠された影の歴史の部分(暗号を守るためにはナバホ兵を暗殺せよとの指令)が明らかになるのを嫌がりシナリオを検閲をしたが、ジョン・ウーとシナリオライターは逆手にとって、明確に上官にその指令を言わせずに仄めかさせ、暗殺のシーンではセリフにせずに視線のやりとりで観客にわからせる演出をしたために印象深くさせることに成功したという。確かに言われないと分からない、そうかだから協力が最終的に得られないので戦艦や戦闘機がCGだったのね。
あとペンタゴンに協力的な監督としてスピルバーグが挙げられていた。
再放送の折には録画を。
■ レジェンド・オブ・メキシコ/デスペラード |
Date: 2004-03-14 (Sun) |
LINKに「モニターの中の映画館」を追加。TaRaGaさんのページです。こういう文章は書けそうでなかなか書けないのですよ。私と同世代の方なので読んでいて話の飛び方が理解しやすいです。
http://taraga.at.infoseek.co.jp/
ブリトニー・スピアーズの「Toxic」のPVはエロくてあたま悪いカンジで良い。
http://www.mtv.com/bands/az/spears_britney/artist.jhtml
でロバート・ロドリゲスの原題『Once Upon A Time in Mexico』ってセルジオ・レオーネが考えていたタイトルじゃなかったっけ?
観に行った目的のひとつは全編HDカメラでの撮影と聞いたからだ。そうだとしたら顔のアップの時の肌質感が見えちゃうくらいで、激しいアクションでも付いてきたし、『スター・ウォーズEP2』の頃に較べたらまったくフィルムと区別がつかなかった。本格的に実用段階ではないだろうか。本作はロドリゲスが撮影もやる聖林自主映画なので、どこまで撮影の質を高められるかはまだ未知数。
まあすべてひとりで全部やりたいというのはわからんでもないけれど、この人は一作ごとに雑になるように思える。もっとスタッフに任せた方がきちんとしたモノができると思うんだけどさ。アクションシーンの編集なんぞ、速すぎてなにがなんだかわからん。きっと一人で小さいモニターだけを見て編集したのだろう。ステディカムも自分でやるから、フォローのBカメが撮れていないからアップばかりで繋がりが強引だ。
そういうことはあるけど、非常に志が低い続編アクション映画ということを前提にして気にしないで観に行くことをお薦めします。二本立ての二本目と考えて頂ければよいと思います。シナリオの縛りが「続編」+「マリアッチ」だけなのであとはなんでもありという楽しい世界。
ジョニー・デップがどう考えても冒頭の5分でいなくなるような役なのに、勝手に膨らんでいって、最後にはほとんど主役になってしまう。そのことによって映画の構成はめちゃくちゃになるが、彼のリラックスした演技だけでも楽しめる。普通好んでバカに見える役はやらないけども彼はエライ!なぜか若造マリアッチにエンリケ・イグレシアス、相変わらず幸薄い悪人にミッキー・ロークが良い味出してます。もうちょいと浪花節でロマン溢れるハナシにもっていけるのになあ。やはりそのあたりの大衆性を押し出すにはまだまだ若いのだろうか、ロドリゲス君(1970年生)。どちらかというと革命と暴力のメキシコ(レオーネ、シーゲル、ペキンパー)よりもシュール・レアリズム(ブニュエル、ホドロフスキー、コックス)のメキシコの方が好きなのかもね。
ニューズ・ウィークの記事
http://www.nwj.ne.jp/public/toppage/20040310articles/SA_sup.html
■ ステディカムを作る |
Date: 2004-03-12 (Fri) |
滑らかに移動するキャメラをコントロールする機材。もうみんな知っているよね。初めてその名前を知ったのは『シャイニング』。あれはなんだということで調べてようやく雑誌「小型映画」でその姿を写真で見て感動したよ。当時は日本でレンタルすると1日200万円だという噂もあったほど高価なものだった。いまはかなり良いお値段になってはいますが…。
ということで、自作してみました。こちらのHPを参考にさせてもらいました。読み物としてもオモシロイです。
http://kamiya1.hp.infoseek.co.jp/index1.html
http://www.acc96.com/top_report/artemis/index.html
DVカメラが載るくらいのチープなのが、ホームセンターと100円ショップめぐりで集めた材料で見事に完成しました。製作費約3000円(ただし使わない余計な部品を買い込んだりしたので、結局完成品だけの実費だと1500円くらい)。製作時間4時間くらい。
バランスを取って階段を昇ったりすると、なんかそれっぽい。カメラがオジギせずに動いているようだ。実のところは画面の揺れが手持ちとそれほど変らないような気もするが、それはこちらの問題。キャメラのオペレートが意外と難しい。手持ちだと無意識のうちに腰を軸に腕へと体重移動して、誰でも滑らかなパンができるのだが、ステディーカムは基本はヤジロベエの原理なので、支点をいかに動かさずにキャメラを操るかになる。体重移動が手持ちとは全然ちがうので慣れないので腕がしびれる。
これをマスターできれば、人をフォローして階段の移動撮影などをするのにはDVレベルなら全然OKでしょう。テスト撮影をしてみます。
詳しくはまたレポートしますわ。
■ クイール(試写会) |
Date: 2004-03-11 (Thu) |
13日公開の崔洋一の新作。
…犬、カワイイじゃねえか。主演のクイールさんが素晴らしいのですよ。泣きどころもものすごく押さえていて、それでいて押し付けがましくなく淡々としたユーモアを交えてしみじみとしていて良いのです。役者ももちろんみんな安心してみていられるし、ロケーションを通じての季節の移ろいがきちんと表現されている。
ただただ人と犬が歩くだけでわかっているんだけど感動してしまうのです。
『刑務所の中』にハマッタのなら、期待は絶対に裏切られません。
他に書くことがあるとするならば、いまや崔洋一は風俗映画の語り部として、川島雄三と同じように論じられるべきだということ。
尖った題材を斜に構えて撮ること命だったものが、けれんを外して自然に肩の力が抜けて、いい感じになってきた。
もともとそういう資質があって『月はどっちに出ている』で掴みかけていたものを『東京デラックス』で迷走をはじめてしまってなかなか出口がみえなかったように思えた。『刑務所の中』でようやく開き直って自分のやり方を見つけたようだ。
『クイール』を観ていると『刑務所の中』の語り口をさらに磨きをかけてきたように思える。
■ ↓ |
Date: 2004-03-09 (Tue) |
一晩経って冷静になってみると、もしかしたら私の聞き間違いかもしれないし、だとするとそれ以降の文章が意味を為さないなあ。聞き逃してはいないと思うのだが…。まあそもそもテレビ番組に突っ込むのもなんだし、それ以上に『ロスト・イン・トランスレーション』は観ることはないだろうから、更にどうでもいい事に気づいた。(>なんだこの結論は)
先週のロバート・ワイズのドキュメンタリー番組はつまらなかった。ヨイショだけで内容が無さ過ぎ。(…って突っ込んでるじゃん)
ただこの人の異様なリアル感追及というのが良く分かった。リアリズムではないんですよね。要するに痛そうとか恐ろしそうに見えるようにモンタージュなどで工夫して撮るんじゃなくて、物理的にこれはどう考えても痛いだろう怖すぎだろうと、徹底的に撮って観客をへとへとにさせるタイプの監督ということ。
■ アカデミー賞抜粋編 |
Date: 2004-03-08 (Mon) |
なのかNHK-BS
順当過ぎる結果は周知の通りだったが、ビリー・クリスタル主演(?!)のオープニング・ムービーと替え唄メドレーに唸る。さすがハリウッド、本気だすと凄いなあ。これだけで大満足。
『ロスト・イン・トランスレーション』の作品紹介のところで、ビル・マーレイが外タレCM撮影しているシーンが出てきたんだけど、セリフのどう考えても「サントリー」と言っている部分が消去されていた。いいのかね、これは??
1.式がはじまる前、レッドカーペットでファッション・チェックしていて、ドレスやアクセサリーのブランド名が連呼されている。
2.そもそも映画、しかも公開前や公開中の映画の抜粋を番組内で紹介すること自体が、宣伝に荷担してんじゃないの。
3.なぜ音声だけ消すか。それなら画面に映っていたウィスキー「響」や、テレ朝放映の「Matthew's Best Hit TV」の扱いはどうなのか?
みなさまのNHKによる私企業の名称虐殺事件だと、「真っ赤なポルシェ」が「真っ赤なクルマ」に変えられたことは有名な話だが、それは緩和されたはずだったと思ったけど。地上波でなく、有料のBSで映画の内容に勝手に手を入れることはありなのだろうか。
…あとソフィア・コッポラを画面に出すのもやめてほしいものだ。
■ 興行師たちの映画史 |
Date: 2004-03-02 (Tue) |
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4791760972/qid%3D1078226696/250-6219044-1848205
同世代でまともな映画評が書ける柳下毅一郎の、ある意味興味の集大成をなしていて、ようやくこういう映画本が出てくる状況になったかと喜ばしいことこの上ない。というところが対世間的、対日本映画批評界(そんなもんあるのか?)な部分ではうれしいのです。
が書物としての出来としては、?な部分が多いなあ。まとまってはいるけども、引用内容がこれって別の本で読んだよというのが多かった。その割には映画好き以外には敷居が高く、エクスプロテーション映画が巻き起こした影響がどれほどのものかを知る目安となるはずの当時の社会状況や映画の状況が書かれていなかったりする。(そのあたりのフォローと読み易さは編集の問題かもしれんが)これが新書だったらもっと素直に喜べたと思う。
ちょうど著者のインタビューが出ていて読みましたが、http://media.excite.co.jp/book/interview/200402/この人の生真面目で正統アカデミズムと映画ジャーナリズムとの距離の置き方の下手さが、そのまま実直に現われていると思う。青土社だから仕方ないのかもしれないが、ざっくりとした内容過ぎて、書き急いでいる感じが読み取れてしまう。特に最後は走りすぎている。
著者は蓮実と違うと語っているが、実は著者ほど蓮実のやれなかった(やらなかった)(やるつもりはなかったがあえてやれなかったように装っている)部分を自覚的に継承している映画評を書いている者はいないと思う。映っている画面や書かれた文章(「みんな知っていることを、そういうこれまでの映画史からはずれた新たな文脈に置いた」)だけで構成していこうとマジメに取り組もうとしている。でもね本家蓮実自身がそういう相対的な映画評を装っていても、実は彼ほど自分がリアルタイムにその映画を観ているとか、個人的な交友があることを前提として特権的なモノの言い方をしていることで、自分の書いていることに権威付け(武装)をしていることをもっと指摘してもいいんじゃないだろうか。(話が外れた)
一番の気になるのは、興行師を山師ではなく、芸術家や作家に位置においているところだ。あるいは作家主義的に解釈しやすい人物を多く取り上げているところ。興行師はまずなによりもプロデューサーだろう。だれも芸術的意義に燃えてエクスプロテション映画を作るわけじゃない。でなぜこの興行師という人種が滅亡しないか、それはてっとり早く儲かって日銭が入るからだろう。カネの話ではなく、ここではメジャーの外側にいた人たちが、過激で特異なことを追求していった系譜があると曖昧に定義付けられている。また対比すべきハリウッドというものが皆様ご存知のという風に解説されていないから、興行師は検閲を逃れて自由に映画を作ったので、それがいまは芸術として見られるという文脈になっていて、敢えてほとんどの映画が今(当時も)見るとヒドイ代物だということも省かれている。
章の割りかたはオモシロイのだが、果たして取り上げられる者たちがこれで良かったのか疑問も残る。キャノン・フィルムやカロルコなどビデオバブルについての言及は必要ではないだろうか。あとジョン・ヒューズはマストでしょう(まあ見世物という文脈には入りませんが)。メリアン・C・クーパーがCIAの前身のOSSで出会ったジョン・フォードと独立プロを立ち上げ、芸術映画を作りたいフォードを説き伏せ、絶対にウケる騎兵隊三部作を作らせたことは見世物映画史と関係無いのかなあ。
もっとも重要で生臭いカネと人間の部分を端折って、芸術とか歴史、状況のキレイごとに持っていく。そこが現在の著者の限界だと思う。それは連続殺人犯の書物でもその距離感と視点は変らないと思う。興行はいかがわしさがあっての世界なのに、それに対して書かれるのが最終章でそれもほとんどまともに書かれていないのが残念。
あとヘンな断言と誘導にあれと思うところが何箇所かあった。例えば、
「『アメリカン・バイオレンス』の脚本を書いているのが、アメリカの病理を描こうとした劇映画『タクシー・ドライバー』のポール・シュレーダーの兄レナードだというのも興味深い事実である。」
なんだこれは。レナード・シュレーダーは『太陽を盗んだ男』のシナリオを書いていて、そのプロデューサーが『アメリカン・バイオレンス』の山本又一郎であって、他には『男はつらいよ 寅次郎春の夢』『ミシマ』なども書いている。このことを著者が知らないわけがない。知らないとしたらその方が驚きだ。第一、弟が『タクシー・ドライバー』の脚本を書いているからといっても血縁関係以外にアメリカのバイオレンスに共通の興味がある証拠などどこにもないだろうが。これは単に知り合いの山本プロデューサーから来た仕事だったということしか言えないじゃないの。
『エレファントマン』と他の障害者映画を較べて、「感動ドキュメンタリーでは「文部省特選」の文字が教育的意義を強調する。」と書かれているが、国際障害者年に公開された『エレファントマン』も文部省特選だったことも付記してもいいんじゃないか。『エレファントマン』も感動ドラマだった事実のことは逆に強調すべきことだと思う。http://member.nifty.ne.jp/cyaoks/movie/tomo/kai0007.htm
著者には書誌学的ハスミイズムよりも山根山田の聞き書きなどの取材モノを挑戦してもらいたい。でないとヨモタ先生のようになってしまいます。
■ 暗黒街 |
Date: 2004-02-29 (Sun) |
BS放映の録画したのを観た。面白いねえ、サイレント、70分でかっちりとまとめてあって、ギャング映画の原型がすべて詰め込まれている。最近の映画よりも演出がきっちりとしていて楽しめるというのはどういったものなのだろうか。CGとかドルビーとか大規模予算よりも、モンタージュと良く練れたプロットがあれば、なにも新しくならなくていいんじゃないか?
この映画をハワード・ホークスが気に入ったのがよく分かる。二人の男と一人の女を取り合う話だもん。というかこれを観て世界中の映画人が、「これは絶対に受けるし、自分たちも作れるぞ」とパクリまくったと思う。
3/4(木)NHK‐BS2 18:00〜19:00ロバート・ワイズのドキュメンタリーが放映。気になっている監督なんでいいタイミングだ。派手さは無いが確実な作品は、DVD時代になって、年月を経ても古びずに残る映画を作ってきた監督のひとりになったのではないでしょうか。(いわゆる再評価ちゅうやつですか)と当て推量で書いてますが、詳しくは番組を見たあとでまた。
■ 映画撮影とは何か キャメラマン四〇人の証言 |
Date: 2004-02-25 (Wed) |
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4582282350/qid=1077719352/sr=1-1/ref=sr_1_2_1/249-0644502-1729966
映画は様々な光学等の技術を駆使して作られているのに、批評は相変わらず作家主義か抽象的な画面の印象をそのまま書いているものが多い。まあ映し出されたものがすべてだからいいじゃんというのも正論です、ハイ。
しかし、例えば鈴木清順の独特の画面がどう作られているか、『カポネ大いに笑う』『夢二』のキャメラマン藤沢順一が語るとこうなる。「人物を浮きだたせるために天空の倍絞り、アンダーネガにして人物だけノーマル光量を当てる絵作りが多く、そのため、背景に紗をかけます」。うーん、ロケであれだけくっきりと人物だけが浮かび上がるのにはこういう仕掛けがあったのか、それにしても背景全部に紗をかけるとは…。
また北野武映画の柳島克己がキタノブルーがどのように生まれたのか、フィルター効果が具体的に詳しく語られている
などなど、撮影所の時代からピンク、ドキュメンタリーを含むキャメラマンの撮影エピソードが真摯に語られている。ただデジタル以前の話なのでハイビジョンで止まっているのと、撮影監督システムについての是非が、キャメラマンが照明もやるのかという問題とキャメラ・オペレートをするかが混同されているようだ。
ただ、これを読むと映画の観かたが豊かになると思います。「マスターズ・オブ・ライト」、「キャメラを持った男」と併せてお薦め。
「パートタイム探偵2」
キル・ビルのシーンとりあえずやってみましたなところに笑った…。特に佐藤佐吉。あと田中要次とか出てたらオモシロかったのにね。
■ 女と愛とミステリー松坂慶子スペシャル |
Date: 2004-02-24 (Tue) |
「パートタイム探偵(2)あの主婦探偵が復活!殺人犯はワインの香りセクシー(秘)七変化危機一髪!」
明日25日テレビ東京系20:54から、三池崇史演出。前作を見逃したのでこんどこそは。噂のトラックスーツ姿を拝めるのだろうか?
■ フルタイム・キラー |
Date: 2004-02-22 (Sun) |
菜々子ダンナことGTO反町が有頂天だったころに撮った映画。香港旅行のときに上映してたんで行ってみた。そしたらびっくり、これはネタばれにならんと思うけど、ほとんど日本語映画なんだよねえ、これ。しかもものすごく寒い、ルーシー・リューの「ヤッヂマイナ!」よりも寒かったりする。それをクリアできれば(?)、わたし的には非常に楽しめました。アクションのアイディアも多かったし、銃撃戦も爆発もきちんとしていたし、女の子は可愛かったし。いろいろあるけど、まあ劇場を出ればすべて忘れてしまうほど素晴らしい娯楽作品です。(暇つぶしに観た映画には怒らない人にお薦めですよ)
と観終った後に、テレビをつける。
TBS深夜映画枠の「ダイヤモンド・シアター」ってあるよね。そこで宮内鎮雄アナが自分でたぶんナレーションも書いていると思われる新作映画紹介コーナーが冒頭にあるんだけども、そこで本作の予告編を流していた。でさ、その画面がシャープでものすごくキレイなんよ。劇場で観たほうは、細部がポヤポヤで白味が飛んだりしていて、「ああこんなものなのかな」と思っていたんだけど、全然違った。なんだこれは!?どういうプリントを作っているんだ。(ちなみに劇場はワーナーマイカル板橋)
きちんともとのネガから起こしてないんじゃないか?これじゃビデオで観た方がいいってこと?映画館に来る客は好事家だから、とりあえずのものを見せておけばいいという考えなのか。こっちはでっかい画面のビデオの代替品じゃなくてさ、フィルムの表現力を観に行くんだよ。この状況はどうにかならないものか、ホント。
■ 映画監督 深作欣二 |
Date: 2004-02-20 (Fri) |
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/489830155X/qid%3D1077287975/249-6174796-6451563
まあ類書が無いので労作なのだろうが、全体的に漂う体温の低さはなんだろうか。平たく言えば、深作の発言も面白くないし、山根のインタビューの内容もとりあえずなカンジで刺激が足りない。これならいままでの雑誌などに書かれたものを再編集したものの方が、鳥瞰的にも細部にわたっても深作映画の魅力の秘密に迫れたのではないだろうか。なんか最初から深作はこういう監督という結論ありきで、多面的な切り取りがされていない気がするなあ。
アカデミー賞監督賞候補者座談会(イーストウッド、ジャクソン、コッポラ、ロス、ミンゲラ)
http://www.nwj.ne.jp/public/toppage/20040218articles/AE_acd.html
■ 王の帰還 ふたたび |
Date: 2004-02-17 (Tue) |
こんどこそは行ってきました。日本語吹き替え版のレイトショーが初日二日目で終わってしまって残念だった。なんかいっぱいしゃべっているからさあ。
観ているときにはいろんなことを思ったりしたげど、それはそれで半年くらいあとに書きますよ。
ただ今は三部作を三年間リアルタイムで観られて良かったというのが正直な感想です。
■ タイタニック ジェームズ・キャメロンの世界 |
Date: 2004-02-16 (Mon) |
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4789713245/ref=sr_aps_b_/249-6174796-6451563
キャメロンはロジャー・コーマン・スクールの出身だ。要するに監督業だけでなく、美術からキャメラ、照明まですべて分かって、予算を減らすことも出来なきゃならない。まあそうはいってもそこまで出来る人はそんなにいない。アタマの中でコンテの繋がりと電卓を同時に操作出来る監督などそうはいない。
低予算SF映画出身者の強さはそこだ。カット単位で画面の効果と予算の兼ね合いを考えることができる。まず映画を「エンターテインメント第一」に徹しているので、どこまでが妥協できる点か、これ以上は映画のスケールダウンになるかの分岐点がわかっているのだ。
彼の完全主義は、技術への理解に基づいて映画をコントロールしているのが特徴だ。だから照明の指示をしたり、複数キャメラを廻すときは一台を担当したりもする。
『タイタニック』では自らノンリニア編集機を操作し、ダビングではルーカスサウンドの技術者と一緒にコンソール卓に座って音響の作業をした。あらゆる音響効果を集めたルーカス自慢のサウンドライブラリーが入ったメインフレームコンピュータもこれほどまでの酷使は想定していなかったので、しばしばハングアップした。それくらい細かい作業を延々としたという。最終的な色調の統一感のタイミングも1フレーム単位で技術者と調整して理想の画調を求めていく。また彼はB班を認めない「画家が弟子に背景の隅を塗らせるのかね?」
映画作家としては極めて当たり前のことをしているよね。ここまでやっているハリウッド、非ハリウッドの映画作家はどれくらいいるのでしょうか?大規模予算を潤沢に使えるからキャメロンは映画作家じゃないとか思う前に、みんなもっと真剣にキャメロンを論じるべきじゃないのかなあ。
本書はちょっと持ち上げ過ぎなんで、バランスのとれた別のキャメロン本を読みたいです。後半のメイキングは面白いが、前半のタイタニックの海底調査の部分は退屈だった。
一応、私の書いたことはそれほど外れてはないと思うので付記します。『ダークエンジェル』の項参照してね。
https://ryotsunoda.tripod.com/moviefile/ta.html
『オール・ザ・キングスメン』
ロバート・ロッセン監督(1949)。ビデオにて。観逃していたのとドン・シーゲルB班監督ということもあったが、それ以上に素晴らしいエンターテインメントで興奮する。
州知事に成り上がった男と取り巻く人間模様を地方政治の泥臭さを軸に人間のエゴと権力の魅力、それに憑りつかれると誰もが潔白ではなく灰色に染まっていく様子を安易に裁くこともなく、大人の色恋沙汰も過不足なく入れこんで描ききっている。
シナリオがものすごくよくできている。普通こんなに冷酷に登場人物を書けないよなあ。個々人の倫理の基準になる男女、家族などの愛情、名誉、プライドが政治権力の前に非情に押しつぶされて行く様は戦慄ものだ。しかも押し潰される者たちも一皮剥けば権力に魅了されているので救いが無かったりする。いわゆる映画的な偽善的な造型の人物がひとりも登場しないのだ。
ワンカットに複数人が入って演技するドラマの緊張感。簡潔で力強い演出は溜息モノだねえ。逆にいまこれだけのものが作れるかの方が疑問。
■ 『ロード・オブ・ザ・リング 王の帰還』 |
Date: 2004-02-14 (Sat) |
に行ったがシネコンの3スクリーン全部完売だった。くそぉ最近冴えないんで盛り上がろうと思ったのに…。
で、
『ゼブラーマン』。
なんか負のテンションだけが上がったような気がする。エンドタイトルに出てくる、日本で大手のテレビ、映画、出版、広告代理店のメディア企業の名前を見ていると憂うつになる。いま日本で一番発言力のあるシナリオライターが恐らくは企画会議で出したのであろうワン・アイディアをそのまま最後まで、なんでみんな通したのだろうかというのが不思議。百人以上はこの映画に携わっていると思うが、この脚本でOKなのでしょうか。
それがもっとも気になるところですが、その他にも撮影と照明がひどすぎる。役者の顔が前のブツで見えなかったりガタガタのズームはするし、屋内の照明も影がもろバレだったりする。なんだこれは?
演出もチグハグでコメディなのかシリアスなのかわからん。芝居の間がヘンだ。意味なくロングでワンカットだったりする。SFマインドは『アンドロメディア』のときから進歩が無い。Jホラーのパロディをやって誰が喜ぶのか。スカッとせんのよ。
官九郎のシナリオは、アイディアと設定だけで登場人物や物語のまわりを固めていないから、途中で勢いがなくなり展開できずに失速してそのまま元に戻らない。まあ小劇場芝居やテレビドラマなら良いんだろうけどね、途中でCM入るし、正味40分くらいだから。んーでも『ドラッグストア・ガール』を観てまで確かめに行くというのもねえ、そこまで付き合う気はないなあ。
しかし、こんなに撮影にカネをかけていない映画も久々だ。結構16mmで撮っているんじゃないの、画面の荒れ具合から見ても。Vシネよりももしかして実写の予算が無いんじゃないか?(どこにかかったのかはネタバレになるので書きませんが)それって映画として、本末転倒じゃないだろうか。「映画」百本主演作品なのでしょう。この一週間ほどテレビの哀川翔の露出は凄かった。まあ訳のわからんブームを作って売らんかなは良いけれどさ、ホントみんなこれでいいのか?
■ コーネルの箱 |
Date: 2004-02-13 (Fri) |
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4163224203/ref=sr_aps_b_/250-7342459-1891464
詩人のチャールズ・シミックがジョゼフ・コーネルの作品に触発されて自由に綴った幻想的なエッセイに、箱の写真が15点挟まれている。たとえ読み返すことがなくともいつまでも手元に置いておきたくなる本。
ゲーテ、アンデルセン、ルイス・キャロルはみな自分のミニチュア劇場を持っていたという話をどこかで読んだことがある。そうした劇場が、世界にはほかにもたくさんあったにちがいない。我々は当時の歴史や文学を研究する。でも、ただ一人の観衆のために上演されていたこれらの劇については何も知らない。(104頁より)
コーネルは好きですねえ。箱はもちろんだけど、彼の映画作品というのを観たい。1930年代のハリウッドメロドラマを物語に関係なく彼の好きに繋いだ短編『ローズ・ホーバート』はシュールレアリズムの隠れた傑作と言われていて、上映の際にサルバドール・ダリが「俺のアタマの中のアイディアを盗んだな」と掴みかかったらしいが。
映画が夢の論理でできているのなら、さらにそれを編集して自分だけの夢に変えてしまう究極のレディ・メイドだよなあ。この人とかヘンリー・ダーガーとかタランティーノとか通じるものがあると思う。伝統的な流れの芸術作品を作る技術は無くても、そこらへんに転がっているガラクタを組み合わせのセンスと偏愛だけで芸術作品に変えてしまう不思議なチカラを持っている。みなが「自分の夢を盗まれたかの如く」ハッとするが、でもどこかいびつで殺伐としたよそよそしさに「どうしても埋められぬ距離」を感じてしまう作家たち。まさに20世紀のアメリカなんだよなあ。などいろんなことを考えてしまう。
・こんな映画らしい(一番下)。
http://www.kyoto-seika.ac.jp/fleur/2001/joseph/
・さらに詳しく。
http://www.cmn.hs.h.kyoto-u.ac.jp/CMN7/cornel-japanese.html
■ プレイグランド |
Date: 2004-02-12 (Thu) |
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4093564213/qid%3D1076575120/250-7342459-1891464
すげぇオモシロ過ぎる。なんの情報も持たずに読み始めたんだけど一気に読んでしまった。いやあ満腹です。久々にエライものを読んだ。
冷戦時の東西ドイツを舞台にしたスパイスリラー。1970年代の西ドイツに、公式には存在しないことになっている対東ドイツ工作部隊があった。GSG9(対テロ特殊部隊)とは違い、破壊、暗殺、亡命援助なんでもあり、選ばれた9人は「エリートコマンド・オスト」と呼ばれた。ベトナム戦争後の世界、デタント(緊張緩和)の空気の中で、汚い戦争をする彼らは、いわば国家公認のテロリストなのだ。
まずメンバーが集まってくるところからグッと引き込まれる。それぞれが射撃、空手、ロシア語、爆発物などのエキスパートで、出身も資産家の息子から孤児までとばらばらだ。皆が陸軍から秘密裏に選抜されアメリカで特訓を受けて任務につくことになる。上司にはアルコール依存症の偏屈者だが切れ者のクラウゼ大佐。武器庫の番人でその手の話ならいつまでも話しつづけるヴァルター老人。この個性豊かな登場人物が、生死を分かち合う戦友として男臭い友情の世界を通じてきちんと描かれている。モロ「ワイルドセブン」の世界だよ。
ストーリー展開も次から次へと事件が起こって、ハードアクションが最後まで高いテンションで続く。ディテールの圧倒的な描写もすごい。計画の立案の詳細な様子から、プラスティック爆弾の仕掛け方、国境線の監視の目をかい潜り地雷原を突破するところを延々と描いている部分にはこちらがへとへとになるくらいの濃密さがある。大傑作です。大味なJ・C・ポロックでは不満足な貴方にぜひお薦め。
あ、言い忘れましたが、これは一応ノンフィクションなんですわ、本当にあったことと思うと戦慄度二倍増し間違いなし。
■ 読了 |
Date: 2004-02-10 (Tue) |
<B-B枢軸>極秘ルート
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4042617018/qid%3D1076413302/250-7342459-1891464
BOOKOFF某店の100円コーナー書棚より回収する。(なんかジョー・ゴアズの「ダン・カーニー探偵事務所」みたいでカッコ良いな)
作者のイブ・メルキオーは第二次大戦中アメリカの諜報機関に勤めていて、その経験を活かして戦後スパイ小説を書いている。何冊か読んだと思うが、まったく内容は記憶に残っていない。ただ最後まで読んだのだからそれなりに楽しめたのだろう。本書も然り。
ただ細かい事実情報をこれでもかと入れてくる部分に、そういえば冒険小説の楽しみってそういうところにあったよなあと思い出しました。ナチ親衛隊の戦後逃亡ルートでは「オデッサ」が有名ですが、この本のタイトルになっている「B-B枢軸」(ベルリンからイタリアのバリ)というのも本当にあったというし、ドイツの町々で全市民にナチの残虐行為の記録映画を強制的に見せた、これを〈ミッキー・マウス・フィルム〉と呼んでいたなど、当事者ならではのネタの豊富さが冒険の絵空事をもっともらしくする手法であり魅力だったよね。最近ではどうなのかなあ。
マイ・ファースト・ムービー
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/484590232X/qid%3D1076413261/250-7342459-1891464
1984年に公開された『ブラッド・シンプル』は衝撃的だった。作品がそうというのではない。無名の素人がメジャーに対抗できる娯楽作品を自主製作するという、いままでの常識では考えられないことをしたからだ。それまでは個人で製作費を捻出する映画は既存の配給ルートに乗らない個人的なまじめな芸術映画か、低予算ホラーのようなきわもの映画のどちらかだった。自分たちのエンターテインメント作品を完全にコントロールするために独立映画を作る、そのねじくれた思考回路の映画と同時に彼らの資金調達方法も伝わってきた。個人投資家に映画への出資を依頼してかき集める、それはジャック・ブキャナンが身振り手振りで金持ち連中を煙に巻く『バンドワゴン』の1シーンを思い出させた。そしてさらなる神話はロバート・ロドリゲスだ。23歳7000ドルで作られた『エル・マリアッチ』(1991)をめぐる物語はぜひ「ハリウッド頂上作戦」を読んでいただきたい。
本書では、16人がはじめて監督をしたときにどんなドタバタがあったのかをインタビューしたものだ。まじめに語られている部分が多いが、劇場用映画だろうがビデオだろうが直面する問題はおなじようなもんだろうね。私が興味のある人のエピソードをいくつか取り上げてみます。
コーエン兄弟の『ブラッド・シンプル』では、35mmで2分の予告編を作りセールスして、1年半かけてひとり5000から1万ドルの投資を求め、最終的に75万ドルを集めた。ちなみにかれらが手本としたサム・ライミ(『死霊のはらわた』)はスーパー8で予告編を作り、最初に9万ドルを集めたという。これはエクスプロテーション映画ではよくやる方法だそうで、「パートナーシップ(部分的共同製作)」というらしい。撮影のバリー・ソネンフェルド(のちの『MIB』監督)は長編の経験がまったくなく、ラッシュを見ていたときに緊張のあまり吐いたという。
ケヴィン・スミスは『クラークス』を作るのに、バイト先のコンビニに店長に成りすまして、クレジットカードを作りまくり、(カード会社から勤め先に照会が来るとバイト仲間が「彼は年商5万ドルですよ」と言う)2万5000ドルを作った。生フィルムを手に入れるときフィルム会社コダックの、学生15%割引を利用するためにかつて通った専門学校の1日コース「子豚のローストの作り方」に50ドル出して申し込み、学生証を手に入れフィルム入手後に申し込みをキャンセルした。もちろん50ドルは戻ってきた。
ペドロ・アルモドバルは8mmで劇団仲間とあらゆるジャンルの映画をつくっていた。当時のアンダーグラウンド映画はウォホールみたいなものしか認められておらず、物語は否定されなければならず、まじめで退屈な(安直ともいう)映画しかなかった。しかし彼はB級的人材を使ってB級的物語を作り、それも遊び気分で楽しく語ることを続けた。
ゲーリー・オールドマンは『ニル・バイ・マウス』の撮影前にクリント・イーストウッドから監督業について「おもしろいぞ、楽しくてやめられなくなるぞ」言われた。そしてひとつのアドバイスを耳打ちされた「俳優たちより多く睡眠をとることだ」。これこそが過酷な肉体的精神的な作業に対する金言ではないだろうか。
『ミスティック・リバー』について、以前にイーストウッド西部劇だろうと書いたが、新たに恐ろしいことにふと気づいた。これは裏『荒野のストレンジャー』だ。
あの作品は見捨てられたイーストウッドが亡霊になって街の人間に復讐する話だけど、『ミスティック・リバー』は少年のときに殺されて(または見殺し)にされたティム・ロビンズがあの事件をきっかけに甦ってきて街の人間に復讐するという構造を取っていないだろうか?
無意識の被害者であり加害者であり探偵であり犯人でもあるということ。運命と因果が動き出すとそれは加速度的に悲劇を引き起こし最期まで止まらなくなっていく結末には苦いものしか残らない。無情なミステリー小説がいくつかアタマに浮かぶ。
ふーむその意味だと、悲劇の土台はできていたのだから、シナリオは半端なミステリー仕立てにせずに、徹底的に彼ら3人の感情のガチンコのドラマにすべきだったのだろうなあ。
■ ウディ・アレン バイオグラフィー 映画評論の時代 |
Date: 2004-02-08 (Sun) |
ウディ・アレン バイオグラフィー
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4878934700/qid%3D1076209332/250-7342459-1891464
ウディ・アレンの映画でいままでにちゃんと観たのは『バナナ』『アニー・ホール』『インテリア』『マンハッタン』『スターダストメモリー』『カイロの紫のバラ』『世界中がアイ・ラブ・ユー』だけ。ニューヨーカーのエスプリを描き、粋なセリフでインテリ層のご用達と呼ばれる監督の映画が、なぜにヨーロッパとアジアの興行がアメリカを上回ることでしか製作費を回収できず、いまやユーロマネーとアジアへのプリセールスが無いと彼のアメリカ映画が作れないという状況になっているのか。なぜアメリカ人いやニューヨークっ子の一部にしか理解できない風俗を、英語もできない外国人がよろこんで観に行くのか?その謎は実は本書を読んでも解明されない。
作者のジョン・バクスターはスピルバーグの伝記のときも思ったけど、徹底して対象者を普通の俗人に仕立て上げる。それほどきついゴシップネタも無いし、かといって彼らの創作の神秘に触れることも無い。よく言えば公正、悪く言えば退屈だ。
興味深い点は、アレンは映画界に入る前の上昇志向の強い人嫌いのテレビスターの変人だった実像を、神経質で繊細なダメ男だけどユーモアのセンスで結局は女にモテるという愛される変人の虚像にすり替えていったということ。そして彼のやっていることはまったくチャップリンと同じということ。浮浪者から放浪者チャーリーへと着替え、完全主義者の監督となり、ロリコンで国を追われるハメとなる経歴。また彼以前のコメディアンのマルクス兄弟やボブ・ホープらは、映画ではユダヤ人であることを前面に出して笑いを取ることは無かったという指摘はおもしろい。すべてを晒しているようにみえるが大衆(インテリ)の嗜好に合わせて巧みに姿を隠しているアレンの映画は、作家の映画というよりも、虚像の分裂気質のメガネキャラが生み出す偽自伝的映画なのだろう。まさにチャップリンと同じく、その「キャラクターが観客に飽きられない限りいつまでも反復せざるを得ない」というジレンマに陥っているのではないだろうか。いつアレンが『殺人狂時代』を撮るかが楽しみだ。
映画評論の時代
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4905943523/qid%3D1076209362/250-7342459-1891464
個人的には、佐藤重臣のアングラ指向とか大島渚らの政治的アジ文章とかは好きでない。いまの人は信じられないかもしれないけど、私が映画を観て雑誌や本を読み始めたいまから25年ほど前で70年代の終わり頃って、そういう暗い、胎内回帰とかパレスチナとか状況論とかしか書いていない映画評論ばかりだったのです。小林信彦の文章なんかは例外中の例外だった。なので映画について語るには政治とか運動とかわからないと書けないんだと思ってた。まじめに公民館やホールでしかやらないようポーランド映画とかにも行って、高校生のアタマでも東欧のソビエトの圧政の下の自由は…とか考えたりしなきゃ、映画についてはなにも書けないような雰囲気があったのです。そういう風に映画は語らなきゃいけない映画評論とはそういうものだというのが普通だったのですよ。
編集長だった佐藤忠男の「昔は(相手を否定するのに)女を知らないって言い方は巨大な権威があった。それが芸術の真髄であるかのように思われていた。もうひとつは労働者を知らないという言い方のふたつしかなかった。だから多用な見方をする人を集めた」という当時の編集方針が語られ、なるほどと思った。中原弓彦森卓也長部日出雄などなどに書かせたわけが理解できた。
書かれている評論はほとんどが古びていると思うが、現場の人たちの話はやはり面白い。黒沢明と彼の助監督たちの座談会では、ヌーベルバーグ前夜のフランスに行った黒沢が歓待されたり「評論家が映画をつくるんだよ」という事実に、現場の助監督たちはアタマをひねっているのが時代だなあと感じる。彼らには撮影所の映画産業システムしかないわけだから、素人評論家が映画を作れるという理屈がわからないのだろうが、それはそれでまともな感性だと思う。それ故に『勝手にしやがれ』の衝撃は凄かったんだろうなあ。
映画を撮っていない時代の中川信夫は、インタビュアーに「君になにか要求してほしい。ぼくに対する要求を」と言い、インタビュアーの語る抽象的な要求に「もっと厳しいことをいってほしいな」と淡々と語る。
また虫明亜呂無の『東京オリンピック』を語った格調高い文章の美しさには相変わらずほれぼれとする。やはりスポーツを描くとさすがですね。
資料的にも優れているし、1950〜1975年までの時代を鳥瞰して読むのには格好の書ではないでしょうか。
1974年8月号の特集ドンシーゲル研究は読みたい。森卓也の「男一匹!ドン・シーゲル」だって!
■ ジョゼと虎と魚たち |
Date: 2004-02-07 (Sat) |
ぅおおおっ、こんなところにまだ潜んでおったか、妖怪80年代自主映画!
坂道を望遠で撮ったり、とりあえず二人乗りしたり、海に行って手持ちキャメラで波打ちぎわを歩いたりするのは法律で禁止してほしい。
映画のシナリオも画面のつくりも全部マンガじゃん。しかもかなり古い少女マンガ。
すべて雰囲気だけで曖昧に物事が進み、なんの葛藤のドラマもないままに、やたらものわかりが良い人物たちが、物語が要求する通りのその場限りの感傷を垂れ流す。
人物はまったく成長しないし(ん?成長しているって、そう受け取れって観客に強要しているだけだよ具体的になにひとつ描いてない)、その関係性もまったく変らない。
こんな都合の良いだけのもんでいいの?現実感の無いまま、生活感のあるヘビーなところは全部端折って、恋愛事象を中心にほかのことは大した事ではないかのようにキレイ事だけで進行する。『タイタニック』と同じ話法の構造だよ。大枠はわかりやすい事実で埋めて、そのなかで身分違いの色恋沙汰をするという。
確かに80年代自主映画は暗くてダサくて汚くて生活感が充溢する70年代日本映画へのアンチテーゼで出てきた。ただそれだけだと、結局は感性と生活感が学生くらいで止まっている人にしか通用しないというのも事実だと思うがね。
物語は「すけこま」クン妻夫木の「ぼ、ぼくは“やれること”はすべてヤリました」青春探訪記だよな。池脇千鶴も故ミヤコ蝶々が憑依したような熱演だけど、本当は「おもしろうてやがてかなしき」にならないとねえ。最初から最後までトーンが同じだもん。決定的なのは乳母車の最初の出会いが、なぜ妻夫木のリアクションショットから入るのか?そういうところだけマトモな繋ぎにならないようにするというのはなんだかなあ。
ほかにも書きたいけど虚しいので止めます。
■ ロード・トゥ・パーディション |
Date: 2004-02-04 (Wed) |
ちぇっNHK-BS国会中継でスタンバーグの『暗黒街』放映しないでやんの。録画したのにさ。どちらが重要なことかというのはいうまでもなく…。
ついでに明日4日(水)は『大統領の陰謀』。お話はダイジェストであれなんですけど、撮影のゴードン・ウィリスの画期的だった蛍光灯照明を、プリントの状態が良ければ堪能できるのではないだろうかと思います。
で上記作品をDVDにて。
コンラッド・ホールの撮影に痺れまくり。どうしたらこんな画面ができあがるのだろうか。シンプルな光線でありながら、それが複雑な陰影を生み出し、登場人物と物語とが合致してさらなる美しさへと連なる。照明は最小限で、さらに余計な光は遮断され、画面の一部にしか当てられず、人物は白く飛ぶ光のハイライト部分と黒の厚い影、その中間のぼんやりとした明るさの中に色彩が浮かび上がるように設計されている。その大胆かつ微妙な光のバランスが素晴らしい。逆にいえば普通にきれいに写るノーマルの明るさが存在しないのだ。そして部屋のライトなどの光源を画面に映り込ませる構図の妙。このていねいな芸術家の仕事にため息の117分。
え?映画はどうかって、それはむにゃむにゃ…。ただ笑わないポール・ニューマンの存在感はスターとか俳優とは別のなにかだね。生きている神話とでもいうのだろうか。
■ 岸和田少年愚連隊 カオルちゃん最強伝説 番長足球 |
Date: 2004-02-02 (Mon) |
不覚、こんなオモシロイ作品を見逃していたなんて久々に不覚です。これほど登場人物全員に体温を感じる映画は最近では観たことがなかった。でくの棒の突っ立ったまま喋るだけの自主映画演技やテレビのクドイ演技じゃなくて、ひとりひとりが役柄を楽しんでいるのが伝わってくる。
宮坂武志の演出も余計なことをしないで無駄が無いし、友松直之のシナリオもセリフが生き生きしているし(プロットにちょっと穴が…ま、いいか)、それに応える役者の顔がみんないいんだよねえ、のびのびやっているのがすごく感じる。音楽もマカロニチックで盛り上がる。
なんにも考えずにラストまでげらげら笑って観ちゃいました。低予算だが、連続物のノリを活かしたプログラムピクチャーならではの一番良いところをすべてやってくれていて大喝采です。
中村愛美を、あるシーンできちんと可愛く撮っていて、ああわかってるじゃんと思いました。伊佐山ひろ子は伊佐山ひろ子だけどいいなあ。やっぱ竹内力はすごいなあ。
さあこのシリーズ、とっとと制覇しようっと♪
■ 読んだ本 |
Date: 2004-02-01 (Sun) |
『フリークス』を撮った男―トッド・ブラウニング伝
http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/489176404X.html
フレッド・ジンネマン自伝
http://bookweb.kinokuniya.co.jp/guest/cgi-bin/wshosea.cgi?W-NIPS=9930658394
大した感想ありません。作品をほとんど観ていないのでゴシップ的な興味だけ。レオ・マッケリーはトッド・ブラウニングの助監督からはじまったとか、ロン・チャニーの変態さ加減とか。撮影監督のカール・フロイントは嫌なやつだったとか。
ジンネマン自伝の最後には、伝説の1950年アメリカ映画監督組合が行った非米活動に対するアンケートや理事会への反論の電報などが載っている。
しかしながら両書とも、固有名詞の間違いが多いのはどうしてかねえ。最低限映画好きにちょっと校正させればいいものを、その作業を怠っている。あと撮影・編集用語も自分が原書を読むようになったから、こいつはわからなくて直訳している、とわかってしまうのですよ。
■ まだ先ですが、2月東京の夜に観られるもの |
Date: 2004-01-26 (Mon) |
いつのまにか、近所のやる気のないビデオ屋がつぶれていた。しまったまだ借りたいものがあったのに。スチュワート・ゴードンの『ドールズ』『フロム・ビヨンド』『ペンデュラム/悪魔の振り子』、メルヴィルの『影の軍隊』などなど。ロマンポルノもかなりあったな。またどこにも置いてなくて誰も借りないビデオを延々と探す旅に出なければならんじゃないか。ま私も新しいビデオチェーン店にしか行かなくなったので偉そうなことはいえないが…。
浅草東宝オールナイト 2/28(土) 【和製007の夜 都筑道夫+1 特集】
『殺人狂時代』
『100発100中』
『100発100中 黄金の眼』
『国際秘密警察 絶体絶命』
『子連れ狼 三途の川の乳母車』
http://member.nifty.ne.jp/shimo2/showcine/asakusatoho.htm
『100発100中』の主題歌(布施明だが、加藤賢崇のカヴァー・バージョンもいいッス)は私のフェイバリットです。カラオケで見ないのが難。オールナイトに行く体力があるかどうかだなあ。
自由が丘武蔵野館レイトショー 【大怪優 三谷昇】2/21(土)〜27(金)
『野獣狩り』
http://member.nifty.ne.jp/shimo2/showcine/jiyugaokamusashino.htm
君塚良一が絶賛していた須川栄三作品。『野獣死すべし』も面白いらしいので観たいなあ。
■ リベリオン |
Date: 2004-01-24 (Sat) |
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B0000C4GMN/qid%3D1074952047/250-3993324-2207439
DVDにて。
感情を押さえられた近未来でレジスタンスを始末する処刑人が、良心に目覚め大衆とともにその体制を破壊するというよくある話ですが、処刑人が操る銃の武術、ガン・カタ(型)がカッコイイ!!ひたすらそれだけでこの映画は殿堂入りでしょう。逆にそこだけなのですが…。アクションの振り付けを考えた人に何かあげたいです。ほとんど少年キングで3回打ち切り確実な荒唐無稽な絶対ありえないと全員が思うガン・アクションなのだけど、エクスタシーを感じるほど素晴らしく決まっている、決まりすぎ。主演のクリスチャン・ベールもあの複雑な動きをよくやったと思うし、あれをスローモーションで撮らなかった、スタッフに拍手だ。ジョエル・シルバーもガン・カタの権利を買って、マト2、3を作れば良かったのにね。というか本当にアイディアが勿体無いので、全然関係なくてもいいんで続編希望、監督、ジョン・ウーでね。頼むぜヤンデボン。
陰謀の世界史 コンスピラシー・エイジを読む
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4163587705/qid=1074951828/sr=1-1/ref=sr_1_10_1/250-3993324-2207439
なんで海野弘は次々に私のツボな本を書いてくれるのだろうか。メル・ギブソンが電波なタクシー運転手をする『陰謀のセオリー』という映画があったよね。陰謀史観のことを(コンスピラシー・セオリーConspiracy Theory)というからその直訳だったようですね。
ここに出てくるのは、おなじみのフリーメイスン、ユダヤ、ロスチャイルド、CIAのみならず、フェビアン委員会、外交問題評議会、アレン・ダレス、連邦準備制度、ヴァチカン、超古代史、エイリアン・UFO、ナチ・第四帝国など。それらを真面目な現代世界史の一般的な事実としての紹介と、陰謀史観本(含とんでも本)の世界から見た場合にどのようなものになるかをバランス良く紹介しているので、ニュースでしかしらない上記の組織や歴史上の位置付けがわかって興味深い。
たとえばアメリカ連邦準備制度は、グリーンスパン議長が云々とか世界経済を動かすとニュースでよくいわれるが、この組織は中央銀行のような国の組織ではなく、アメリカの主要銀行の代表数人が集まり、国の経済の行く末を決めるという、民間が国の政策を決めて、それに国が口を挟めないという不可思議な組織だ。なので陰謀史観では少数のエスタブリッシュメントが世界を牛耳っているということになる。またアメリカ大統領のなかでもっとも謎が多く電波さんが好きなのはブッシュパパだという。ブッシュ祖父は、ナチと取引をして大儲けしたし、パパは、イェール大学の秘密結社「スカル・アンド・ボーンズ」、石油会社、外交問題評議会、CIA長官、という陰謀好き涎唾のエリートコースを歩んでいるのだ。
電波さんのセオリーには共通点があり、「この世のすべてのものはつながっていて、現在になんらかの影響を及ぼしている陰謀なのだ」という。まあちょっと突つけば友達の友達を辿れば有名人に行き着くようなもので、歴史を遡ってやられたらみんな歴史上の重要人物に繋がっちゃう。でも一方では一部の名家エリート集団が、数少ない世界の重要なポストを占めていることも事実だ。それを考えるのが東スポを読むのと同様に面白いというのはこの時代の必然だろう。とんでも本を馬鹿にして読まないというもの見識だけど、何が書かれているかを理解するためにはネタ満載の格好の書です。
■ 昭和の劇―映画脚本家・笠原和夫 |
Date: 2004-01-21 (Wed) |
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/487233695X/qid=1074688705/sr=1-10/ref=sr_1_10_10/250-3993324-2207439
面白い、これをおもしろいと言わないで読む本があるのか?と思わせるほどいろんなものが詰まっている。昭和の劇というのはうまいタイトルだ。映画マニアだけでなく昭和史マニアにもお薦め。
本書は東映に入るまでの半生記を綴った笠原の自叙伝「妖しの民と生まれてきて」のあとを引き継いだ形で始まる。
シナリオを書き映画が出来るまでのドタバタや映画人たちの人間模様もさることながら、まず映画化されなかったシナリオの「実録・共産党」「昭和の天皇」の話に心惹かれる。これができていたら日本映画史なんぞいまとはまったく違ったものになっていただろうなあ。
これらを含め、作者はシナリオを書く際に徹底的に文献を読み、生き証人たちに会う取材する。そこから出てくる正史には載らない裏の日本史を書き上げるのだが、それがまさに事実は小説よりも奇なりだ。それ自体笠原による推論解釈はあるが、実に映画的でドラマ的だ。ほかにも226事件や太平洋戦争の裏側にいた、腹にいちもつ持つ男たちの行動なんぞは下手なノンフィクションより断然ひきこまれる。『実録・東京クーデター』であり、『仁義なき8月15日』なのだ。
取材にはドラマのネタ探しのあるが、同じ事件を複数の人間に聞いても分からなかった歴史の空白、「なぜこんな風に行動したのか、その裏にはどういう意図があったのか?」という藪の中をいろんな角度から埋める作業が延々と続く。その集大成が『仁義なき戦い』というのは確かだ。事実を最大限利用するのだけど、「ここから先は想像による創作であるが、こういうのもありだろう」というリアリティを背景にしているので骨格がしっかりしているのだ。
『福沢諭吉』のときも、諭吉の父親が自殺したことを突きとめ、それが彼にどのような影響を及ぼしたかを考え、諭吉とは正反対の身分の家老の息子を置いて対立のドラマを作り上げていく。おもしろくない人物からドラマを抽出する技、そういう発想に唸る。
古典的なドラマ作法は、東映に入ったときにマキノ満雄から仮名手本忠臣蔵と円朝と松竹新喜劇を読めと言われ研究したり、マキノ雅弘からドラマのアヤを学んだというのが大きいのではないか。
「海軍」「ヤクザ」などの笠原ワールドを読み解くキーワードについても、すでに本人が冷静に分析しているところがまた凄いですね。
笠原「今の若い人は、そういうアヤというものをほとんど考えないでしょ。ひとつの筋書きの中で、逆転だとか、人間的な意外性を出すという職人的なうまさがね……。(中略)アヤがないドラマを一所懸命撮るというのはリアリズムじゃなくて、単なる日常の模写でしかないわけだよ。それは昔からそうなんであって、ひとつの仮定、仮想があって、そんなバカな話があるわけないだろうと言われるところを、いや、あるんだよ、と見せる手立てがリアリズムなんだよ。だから現実的なものをポッと撮るのはリアリズムでもなんでもない。」
封切り当時は右翼映画といわれて行かなかった『二百三高地』『日本海大戦』『大日本帝国』を観たくなりました。
「映画撮影術」
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/484590229X/qid=1074688774/sr=1-9/ref=sr_1_10_9/250-3993324-2207439
昨年末のレビューにも書いた「デジタル映画撮影術」の姉妹編。同じ著者によるフィルムによる映画撮影法です。
映画美学について書いてあるのではなく、いわゆるプロの撮影監督になるための撮影技術入門書です。キャメラとフィルムの仕組み、撮影から現像、プリントにするまでの光学理論と実践方法を解説しています。こういう作業や技術があって映画が出来ていることを知ると、より映画を観るときに楽しめると思います。
個人的な興味としては、ビデオとフィルムの表現力の違いが面白かった。人間の目は、最暗部(黒)から最明部(白)を感知できる限界が7絞り分(128諧調)ということだ。ようするに明るさのディテールを128段階に分けて感知できる能力があるということ(わかるかな?)
いまの映画館のフィルムは、7絞り分のラチュードはあるが、一方かなり精度の良いモニターでもテレビ画面は5絞りだということだ。ということは、劇場用プリントは128諧調あるのに対して、ビデオDVDでは32諧調しかないらしい。もちろん理論値なのだが、実はそれくらい表現力に違いがあるということだ。画面の大きさだけじゃないのだ。ホーム・シアターなんぞ言っても映画館の1/4の情報量しかないということだね。というかやはりTSUTAYAではなく劇場に足を運ばないと行かんことがよくわかった(…ちょっと反省)。
■ はてなアンテナ――おとなりページ |
Date: 2004-01-20 (Tue) |
というのに補足されているんで覗く。似たような傾向のサイトが出てくるというのですが、一度も行ったことの無いページが出てくるのが不思議。どういう基準なんでしょうか。
わたくしとしては渋いサイトのつもりでも、類友ということで、他人様から見れば違うのでしょうね(苦笑)。
なにかの参考までに(>ならねえよ!)
http://a.hatena.ne.jp/map?https://members.tripod.com/ryotsunoda/
このように検索や更新状況などのエージント機能(スパイですよね)がだいぶ充実してきたんで、最初のころのダイヤルアップ全盛期の内容を直すことも考えています。
こんな極北のサイトの、何年も前に風に向かって叫んだ「バカヤロー」が一発で発見されちゃう時代がまさか来るとは本気にしていなかったから、勢いで書いているものもあるからね。中身については変えるつもりないけど、表現や個人の私的情報はぼやかしたいと思ってます。
■ ミスティックリバー追記 |
Date: 2004-01-19 (Mon) |
観たことを前提に書くのでご注意ください。
どうもすっきりしないなと思いながらハタと気づいたのだが、物語の大きな枠が第二次大戦後のいわゆるニューロティック(異常心理)西部劇に近いのではないだろうか。アメリカの時代劇としてのウェスタンやマカロニ・ウェスタンの作り物の破天荒さというよりも、病んだ人物造型のリアリズム西部劇のようじゃないか。
西部の小さな町、かつてのおたずね者の殺し屋ショーン・ペンは元北軍の脱走兵の義父から雑貨屋を引き継いでいる。町の雑役夫でインディアンを妻に持つティム・ロビンズにある事件の疑いがかかる。やってきたのはかつてこの町で暮らしていた保安官のケヴィン・ベーコンと助手の黒人、ローレンス・フィッシュバーン。ベーコンの妻は東部出身で愛想を尽かしていまは帰ってしまっている。三人が子供のころインディアンにいたずらをしてロビンズが捕まり、頭の皮を剥ぎ取られそうになった過去があった。陰惨な事件が起こりペンは無法者の従兄弟たちを使って官憲を出し抜き私刑を行おうとする。この流れで観ていくと最後まで西部劇の論理で繋がるような気がします。だからショーン・ペンの妻のセリフ「あなたは町の王様なのだから…」とパレードでペンとベーコンが視線を交わすのに意味が出てきて効いてくるのだろう。
現代の大都市ボストンを舞台にしているので分かりにくいが、これってホントは『荒野のストレンジャー』、『許されざる者』などの張りぼてのような西部の町と同じなんだよね。
西部の田舎の論理を東部の都市で展開するという荒業じゃないか。イーストウッドが原作に心惹かれた部分もこのあたりではないだろうか?
「サムライ ジャン=ピエール・メルヴィルの映画人生」
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4794965931/qid=1074519211/sr=1-12/ref=sr_1_2_12/249-2995057-9934734
ここに書かれたいくつかの断片はすでに「世界の映画作18犯罪・暗黒映画の名手たち」(キネマ旬報)の「メルヴィル小伝と作品回顧」に取り上げられていた。本書に書かれていない河原畑寧氏のメルヴィルインタビューも読めるので併せて読むことをお薦めします。
メルヴィルについてもっとも大切なことは、フィルムノワールの旗手だとかヌーヴェル・バーグの精神的叔父ということではなく、自分の映画のために撮影スタジオを作ってしまった世界でも稀有な独立映画製作者だということだ。なぜそんなことができたのかは、本書では明らかにはなっていない。まあいくつかの推測はできるが、メルヴィルと名乗った理由を含めてもう少し傍証が揃ったら書きます。
読んでいてわかるのは非常に大人な発言をするねえというのが第一の感想。聞き手の若い映画評論家のシネマテーク史観を1930年代のアメリカ映画からリアルタイムで観ているキャリアで吹き飛ばす。「アメリカ映画について君と私の意見が対立したとしたら、正しいのは私だよ!」彼の映画と映画作りに対する率直な意見はいまもまったく古びていない。
もう少しフランス映画や現代史についてきちんとした解説があるとよりわかりやすくなったのに、昔ながらの短い原註と訳註の列記だけなので、もう少し工夫が欲しい。半端な対談などを載せる前に。
■ ミスティック・リバー |
Date: 2004-01-18 (Sun) |
カゼだったので、きっとシンドイに決まっていると思って今日まで引き延ばしててきました。
イーストウッドの演出とトム・スターンの撮影を楽しみにしていたのですがねえ、なんというか逆に気になって集中できなかった。『ブラッドワーク』であれほど西海岸の光をうまく使っていたのに、なぜこんな出来なのか?プリントの問題なのか、上映状態なのか。この作品がDVDになるまで意見は一応留保したいです。どう考えていても細部がつぶれているのが照明技師出身のキャメラマンとは思えん。ショーン・ペンとティム・ロビンズが屋外でふたり椅子に座っているシーンなど、結構微妙な演技指導しているとは思うんだけどよく見えない。あそこでなぜキャメラが微妙に寄るのか?窓越しの夜間の照明がやたら明るかったり、屋内でも光源の設定がよく分からなかったりするのはロケセットのせいか、移動がレールじゃなくすべてステティディカムだったり、予算がなんでこれほど無いのかと首を傾げてしまう。特に人工光がコントロールされていない。もしかして最初モノクロで撮ろうとしたんじゃないかしら。屋内の白の飛び方とかそれっぽいし、ワーナーのロゴも白黒だったしねえ。
まそれは冗談として、イーストウッドの演出の冴えが無いなあ。泣きの浪花節演出が『バード』のときのようだ。あと最後のパレードはいらないよね。意味が無い。後味の悪さが増すよ。小説ではあそこは処理できるのだろうが、映画では難しいんじゃないの。各人の落とし前がついていない。あれなら最初もパレードからはじまるべきじゃないの。話を循環説話にするためには。
ブライアン・ヘルゲランドの脚色っていつも無意味に小説のしっぽを残すよね。映画のなかで整理されていない、原作を読まないとわからない部分があるので蛇足だったり説明不足になったりする。
もちろん堪能はできたんだけど、もうちょっとどうにかできたのではないかと思うんですがね、このようなリアルさが前面にでる作品がイーストウッドに合っているのかというと、ちょっと疑問です。どちらかというときちんと映画にするベクトルの方が強い人であり、演出でリアリズムとか役者の演技を押さえているのに(職人的な語り口と役者の演技の自然さを引き出す演出方法のこと)、今回はそれが中途半端な気がする。だから人物造型がよくわからなかったり、映画のリズムがぎくしゃくしているようだ。いつもだったらもっとショーン・ペンの悪さと弱さやケヴィン・ベーコンの刑事らしさをきちんと強調しているはずで、妙に迷いがあるように思えた。
三人の妻たちの存在が裏主人公な役割もあるとは思うのだけど、きちんと描写されていないためか機能していないなあ。だから全員の行動の動機がすべて唐突すぎて、観客の置いていかれる気がする。そこを泣きの演技で持っていこうとするんで…。
どちらかというと、シドニー・ルメットやノーマンジュイソンが撮ったほうがずしりとくる映画になったように思いますね。イーストウッドに東海岸は似合わない。
まあイーストウッドを政治的に云々な発言も出てくることでしょうが、私はドン・シーゲルのこういう意見を信じます。
https://ryotsunoda.tripod.com/donsiegel/clintus.html
■ クライヴ・バーカーのホラー大全 |
Date: 2004-01-13 (Tue) |
http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/4887215312.html
BBC番組のClive Barker's A - Z Of Horror(97)を基にして構成したものですが、切り口が良く中身が濃くて面白かった。アルファベット順にテーマを決めてあり情報がたっぷり入っていて結構マニアックです。ちょっと書き出してみると、
・アメリカンサイコのA(エド・ゲイン)
・カオスのC(HPラブクラフト)
・肉体のF(HRギーガー)
・気味の悪い話のG(グリム兄弟)
・リンチ集団のL(ブラックエクスプロイテーション)
・夜の女王のM(バーバラ・スティール)
・ナイトメアのN(エルム街の悪夢)
・痛みのP(トム・サヴィーニ)
・静かなる男たちのQ(ヴィンセント・プライス、ボリフ・カーロフ、ピーター・ローレ)
・女魔術師のS(シャーリー・ジャクソン「くじ」「山荘綺談」)
・ウィンドウのW(EAポー)
・宣伝のX(ウイリアム・キャッスル)
・ゾンビのZ(ナイト・オブ・ザ・リビングデッド)
ひとつのことから次々と敷衍していくので情報としても詰まっている。ドラキュラの場合だと、吸血鬼伝説の実話650人以上の若い女性の血を求めて殺した、ジェーベト(エリザベート)・バートリ伯爵夫人。血みどろの女流モダンホラー作家ポピー・Z・ブライト、現代の吸血鬼としての連続殺人鬼、それらあいだに映画史家デヴィッド・J・スカルのコメント、映画のポスターやスチルもたくさんコラージュされている。
なぜかスティーブン・キングについてあまり取り上げていないのはクライヴ・バーカーに遠慮したんでしょうかねえ?
番組はこんなカンジみたいです。
http://www.clivebarker.dial.pipex.com/a2zhorror.html
EAポーのところで紹介されている、写真家サイモン・マースデン。怪しい写真がいっぱい。
http://www.marsdenarchive.com/
■ 推理作家が出来るまで |
Date: 2004-01-09 (Fri) |
http://www.e-hon.ne.jp/bec/SA/Detail?refShinCode=0100000000000030778301
わたしにとっての小説のグルは小林信彦でして、その次に現れた指南役がこの本の著者、都筑道夫だった。もともとはミステリーマガジンにずっと連載していてそのままいつになったら一冊にまとまるのだろうかと思っていたら、いつのまにか上下巻で出版されていた。彼の書いたものを読んだ人ならわかると思うが、まったく自分のことを語るような人ではない。が本書に書かれているのは生まれ育った、目白、早稲田界隈の昭和初期の風景、それが東京大空襲ですべてが焼き尽くされ(このあたりの描写は圧巻)、戦中戦後の人間のエゴ丸出しの姿。それにひたすら背を向けるように、入り浸った映画館、寄席、舞台の記憶。やがてカストリ雑誌の編集者になり、講談のダイジェスト読み物を書くことから、職業作家への道がはじまる様子。高校中退でまったく英語がわからなかったのに、ミステリ短編の翻訳を任され間に合わなくなって、後半は創作したというエピソード。「エラリークイーンズ・ミステリーマガジン」編集長時代、ライバル誌の「ヒチコックマガジン」の中原弓彦(小林信彦)のことは、センスはあるが若い、とほとんど相手にしていなかったことにふーんと思う。その自負はキャリアの差だったのでしょうな。初期の小説の映画化。「紙の罠」が『危いことなら銭になる』(中平康監督)。「三重露出」は『俺にさわると危ないぜ』(長谷部安春監督)。「飢えた遺産(なめくじに聞いてみろ)」は『殺人狂時代』(岡本喜八監督)。『百発百中』(福田純監督)のオリジナルシナリオ。ほかにも「キャプテンウルトラ」の監修に、「キーハンター」の原案も行っている。
わたしの好きな「猫の下に釘をうて」が実在の人物たちとどう重なるかを知り、だから生々しかったのねと思った。
そして、この本は、戦後日本推理小説界の金字塔「謎と論理のエンターテインメント」である物部太郎三部作と評論集、「黄色い部屋はいかにして改装されたか」が書かれようとする前で終わる。
著者に興味がない方は、何度もわざと資料を見ないで書いているので話が前後したり、繰り返して同じエピソードが語られるとイヤになるかもしれないです。そんなところは飛ばして読んでも一向に構わないでしょう。これに手を入れていないのはたぶんに単行本にする意思がなかったのだと思いますがどうなんでしょう。都筑道夫マニア限定のお薦めです。そうでない方はまずは小説からどうぞ。
「オドロキ! これが未来の生き物だ」NHK教育
http://www3.nhk.or.jp/omoban/main0103.html#09
正月3日に放映していて見逃した方も多いと思うが、アホなタイトルと異なり、ドイツZDF制作のサイエンス番組「The Future is Wild」です。
http://animal.discovery.com/convergence/futureiswild/futureiswild.html
人類滅亡後の500万年、一億年、二億年後の地球にどのような生物が出現するかをシュミレーションしてCGで描くというエンターテインメントものです。まあご存知のように生物の進化には偶然が大きく作用するのでどうあがいても科学的裏付けというのはほとんど意味がないんですが、描かれる想像上の生き物がよくできている。CGと実写の合成がよく出来ていて驚きます。ハリウッドとは違うヨーロッパ調リアリズムというのでしょうか、某国営放送のちゃちな説明用のいかにもCGとは全然こころざしが違います。二億年後にはタコが地上で群れをなして生活したり、空を飛ぶ魚が出現するとか、40メートルの巨大イカなど想像力のリミッターをぶっちぎったような表現が次々CGで描かれるのでわくわくします。新しい人類はタコなのかねえ、そうか、だから火星人はタコの姿をして……。再放送の折にはぜひに。いまのCGを使った科学番組のレベルがわかります。
■ マスターズ・リーグ |
Date: 2004-01-03 (Sat) |
於:東京ドーム
正月二日だということで行ってきました。引退したプロ野球選手たちの草野球かと思って敬遠していたんだけど、なかなかの真剣勝負。
神様仏様稲尾様の率いる福岡ドンタクズ対江戸っ子土橋率いる東京ドリームス。
元日ハムの西崎は130キロの球を投げるわ、元阪急の松永も打撃爆発の猛打賞だったりして、それで中継ぎが顔見せだけじゃなくて、
59歳の安仁屋宗八が白髪の髭面で100キロ以上出して、元日ハムの河野も連打浴びると降板したり、チャンスに自ら三塁コーチをやっている稲尾監督が、ライト前ヒットで無理矢理に二塁から本塁に突っ込ましたら、名捕手大矢が落球して決勝点になったり、ゲームも見応えがあった。観客がなんと3万人も入っていたのよ。口コミなのかなあ。ファールや練習ボールを全部くれるので子供がグローブ持参でたくさん来ていて賑やか。鳴り物や応援団が無いので、静かだけど、場内で試合を盛り上げるベテランスポーツアナウンサーが、丁寧に選手プロフィールを教えてくれたり、拍手や笑える野次とそれに応える選手で、球場全体がとても気持ち良い雰囲気でした。」往年の選手たちの勇姿に、オーバー・サーティファイブのみなさんが子供より楽しんでいるのがいい。
試合前にはロビーに出てきてサインしてくれたり、入場料も安いし、プロ野球好きにはお薦めですよ。
http://www.89master.com/
■ マカロニ大全 |
Date: 2003-12-29 (Mon) |
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4896913779/ref=sr_aps_b_1/250-4508704-7682668
これって、20年前のキネ旬で一番浮いていた連載の「イタリアン・アクションの誇りと栄光」だったのね。知っていたら早く読んだのにさあ。と言いながら私に読む資格があるんだろうかと悩む。なぜならここに載っているマカロニ・ウエスタンをはじめとする映画をほとんど観ていないから。なんでかなあと思ったが著者の説明で、はっと思った。
わたしなんかが映画を意識的に見始めたのはやはり、『ジョーズ』、『タワーリングインフェルノ』『未知との遭遇』『スター・ウォーズ』の70年代後半あたりで、イタリアン・アクションはその前の時代なのですね。アメリカ映画がヘイズ・コード(検閲)のせいで時代遅れになり不調な時期でもありながら、実はみんな西部劇を観たかった。そこで本音の西部劇が出てきて世界中が吃驚したのがマカロニ・ウエスタンだったということ。それが60年代中後半。
もうひとつはその頃の洋画の公開数を観ると、アメリカのアクション映画と同様に普通にイタリアン・アクションも封切られていた。その後も名画座でも三本立ての一本として延々と回っていたりしてね。アクション=アメリカ映画という図式ではなかった。いまはほとんどビデオスルーでしょう。
さらに言えば、アクション=ハリウッド超大作は、『ジョーズ』『スター・ウォーズ』以降の現象だということ。もともとアクション超大作といえば西部劇と戦争映画くらいで、あとはB級アクション映画。アクション映画=低予算だったんじゃないかなあ。低予算娯楽映画といえば「ホラー」「エロ」「アクション」が三大ジャンルだった。低予算を逆手にとって、作り手たちはハリウッドなにするものぞと各国でこれらのジャンル映画に磨きをかけていった(パクリとも言うが…)。だからマカロニ、ハマー・ホラー、香港アクション、AIP、任侠、ロマンポルノなどなど、それぞれのジャンルで傑作が生まれてきたのだと思う。
また観客もそれを普通に受け入れていたと思うよ。パチンコ行くのと同じ感覚で。何本かが受けて量産されないとジャンル(ブーム)はできないからね。
でもそれにトドメを刺したのは、やはり『ジョーズ』(76年)なのだろうね。ジャンル映画をハリウッド予算で作り、大規模公開するというやってはいけない禁じ手で世界のジャンル映画を滅亡させたと思う。いままでは「ドンパチやっているアクション映画ならなんでもいいや」と言ってたヌルい客に、「やっぱ映画はハリウッドだよな」と洗脳したのだろうねえ。ちなみにこの年に邦画と洋画の興行収入がはじめて逆転した。そして企画はますます万人(子供)向けで暴力描写だけがエスカレートして、大人の渋い(またはどうしようもない)アクション映画は消えていった。
ニコラス・レイの評伝を読んでいる。個人的には日本人でベルイマンとレイがわかると言っている奴は信用できないと思っている。それはともかく、「彼は才能があったが、撮影所のプロデューサーをはじめとするカネの亡者たちが彼を押しつぶしたのだ。しかしそれでも彼の刻印はどの映画にも存在する」という紋切り調はそろそろやめにしません。
映画作りってもっとドタバタだし、そもそもだれかがカネを出さないとなにもはじまらないし、その人物が口を出すのは当たり前のことなのだから。作家純潔主義は、映画学徒の妄想としては美しいかもしれないけれど現実的ではない。
そんなことを思うのもまたぞろ『キル・ビル』について考えてしまったからだ。バカ映画、映画以前といわれてもいるが、あの映画を作るということはものすごい勇気がいることだよね。進んでバカをやるなんて間違えば自身の映画監督生命を断たれる危険もある綱渡りだと思うよ。予算の額が半端じゃないんだから。
その賭けに出られたのは何故か?彼のなかにあるプロデュース能力だろう。ハリウッドが撮影所の叩き上げのプロデューサーから、数字しか読めないプロデューサーの世界になってしまったいま、企画ができて、シナリオが書けて読めて、製作をコントロールして、宣伝までこなせるプロデューサー=監督がどれだけいるのか。タランティーノ、ロバート・ロドリゲス、リチャード・リンクレイター、ケビン・スミス、ピーター・ジャクソン。彼らをいままでの映画監督の延長に置くと理解できなかったが、こうすれば分かりやすくならないか。
「映画監督をミュージシャンという比喩で考える」。
ミュージシャンにはどんな固有名詞をいれてもいいけど、自分の世界があり、自分で作詞作曲演奏ができて、自分の商品能力がわかっていて、なによりも音楽が好きでそのためには広くなんでも首を突っ込むことができる。決して目標は紅白出場では無い。好きに時間をかけて自分が納得したアルバムを作り、完成したらツアーに出る。そんなアーティスト(むず痒いがこの言葉を使う)をイメージしてください。
では、業界を生き抜くためにはどうするか。自分でプロデュースする、あるいは信頼できるプロデューサーに依頼する。もちろん時間をかけて曲作りはできるし、必要な音源を見つけることもできる。参加ミュージシャン選ぶことができる。もそれだけの音楽について知識の積み重ねがある。もちろんまわりも一流のメンバーや機材があるに越したことはないが、なければ自分でなにもかもやってしまうし、できるように規模を縮小したりもできる。それでも質には影響を出さない。それだけじゃ商品価値が足りないと思うと、ジャケット宣伝やツアーも積極的に行う。音楽が好きだから他のニュージシャンのレコーディングやツアーにも参加したりする。そういうお遊びで自分の価値が下がるとか思ったりしない。
どうですか?これを上記の監督たちに当てはめてみては。類似点がたくさんみつかると思います。同世代でもウォシャウスキー兄弟のように、プロデューサーのジョエル・シルバーによってブロックバスター化された監督もいる。もっとも彼らにプロデューサーの暴走を押さえる演出・製作力があったかというと別問題だけど。ある意味一発屋ですな。
これまでの世代は、撮影所に雇われた監督で、芸術のためなら湯水の如くカネを使い編集権を賭けて一歩も引かないで、うまく行ったら俺の手柄で失敗したらプロデューサーか観客のせいという、小説家や職人の延長だったと思う(いまもこういうのだけを芸術家というかどうかは見解の問題ですが)。
つまり時代とともにどう変わったかです。ハリウッド第9世代、映画学科出身の世代で最初に撮影所に入ってきた者たちですが、彼らに共通する部分だけをとらえたなら、縁故でなしでハリウッドに潜り込んで、メジャーで自分の好きに大作を作ることが自分の監督としての成功だという概念。これが既に古いということですね。スコセッシがいい例でしょう。NYで自主映画を作り続けた映画ヲタクがハリウッドに取り込まれて、もう小さい規模の映画は作れなくなってしまったということ。完全な自家中毒でしょう。時代に流されたまま解散後も何度も再結成するロック・グループみたいに思えるし、スピルバーグは、マイケル・ジャクソンみたいなものだ。
うーん、うまくまとまらないが、まず映画産業が音楽産業に似てきた。映画の売り方が変わった。映画監督の位置づけが変わった。映画がもっと個人的なものに変わった。別に芸術家だけが個人的な映画を作れるわけではない。映画産業のなかでも個人的な映画を作れ売る時代になったと言うことなのだろうなあ。(ちょっと違うかな?)
■ 更新しました |
Date: 2003-12-26 (Fri) |
半年ペースだけどなんとか続いています。この日記ともつかないものに加筆修正したものが多いですが、採り上げていないものもあります。
あまり新鮮味が無くてすまぬ。
■ ドリームキャッチャー |
Date: 2003-12-24 (Wed) |
DVDで。
…いやあ、これおもしろいんだよね、おもしろいはずなんだけど、あれですよ、まあなんというか、うーむ困った。キングの小説ぜんぶとここ20年のハリウッド製のホラーやSF映画の要素を袋に詰めて、くしゃくしゃにしてゴミ箱に捨てて、まんま底の方でぎゅーっと押しつぶされたモノを取り出してみたらこんなになりましたというカンジなでしたねえ。
キングの映画化がほとんど全部がダメというのはわかっていたんだけど、ローレンス・カスダンのテレビっぽい演出で、ウィリアム・ゴールドマン御大の脚色ならイケるのではと思った私が悪うござんした。
キングが交通事故後にリハビリも兼ねて書いたので気軽なネタを使ったのかなあ。
それにしてもインタビューでもみんなが言う、トイレが云々というのはピンとこないんだよね。『サイコ』ではシャワーだったが、この作品ではトイレを使ったんだどうだって言われても、西洋人と東洋人の糞尿譚に対するメンタリティの違いなのでしょうね。
ビールでも飲みながら観るのには良いです、まあそんなにマジメな映画じゃないですから。
「JGバラードの千年王国ユーザーズガイド」
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4826990367/ref=sr_aps_b_/250-4508704-7682668
1960年代から95年くらいまでの書評を集めたものとちょっとしたエッセー集ですが、位置づけとしては「残虐行為展覧会」の続編と言ってもいいんじゃないでしょうか。目次を眺めるとわかりますが、書評なんだけどそれ自体がバラードの批評と警句とともに作品と化している楽しい本です。紹介されている本の邦訳が思わず読みたくなります。
■ ふとおもったこと |
Date: 2003-12-20 (Sat) |
生誕100年とうるさい小津安二郎なんだけど、特集上映に唯一の伝記映画だった『生きてはみたけれど』がどこにも見あたらないのはなぜ?
じつはまだ観ていないのけれど、小津の映画ときいてみなが二の足を踏んでいたが、監督が井上和男ならとみんなが納得したというんじゃなかったっけ。
故人を含めいろんな証言がありそうなんだけどもねえ。
http://movie.goo.ne.jp/movies/PMVWKPD17380/comment.html
■ 脚本(シナリオ)通りにはいかない! |
Date: 2003-12-17 (Wed) |
映画が好きで、シナリオに興味がある、書きたいけど、ちゃんとベンキョーせんといけないんだろうなぁと怯んでいる人には最適です。
君塚良一は萩本欽一の弟子でドラマの人についた訳ではなく、ひたすら映画ばかりものすごい数を観ていたというのは伝説だ。
彼は、いままでのシナリオライターの金科玉条のテーマ主義、文学趣味をやんわりと退けて、徹底的に記号的な、あるいはハリウッド的なひたすら快楽的に観客がこう観られたらおもしろいはずだという視点からシナリオを書く。そんな彼独自のシナリオの発想方法とシナリオライターとしての映画の見方をじっくりと解説してくれる好書。
連載時の順番を再構成し、分かりやすくシナリオ論としても通用するように書き直しています。その時々の映画ばかりでなく、自分映画史からも出してきて(『野獣狩り』『約束』『静かなる決闘』『フランケンシュタイン対地底怪獣』『県警対組織暴力』『ピンクサロン 好色五人女』『鉄砲玉の美学』)、なるほどねと思わせる部分が多いです。また講演スタイルのシナリオ創作教室はあらこんなに気軽に考えていいのかしらんと目からウロコで必読。
割り切った視点と発想が君塚シナリオの魅力だと思うんだけどね。私自身は完成度よりは、パクリばかりのドラマの中で、孤独に実験的なシナリオを出してくるところが好きですね。それでいながら商業的なスタイル(泣かせどころ)も踏まえている。まあ彼が言っているほど、映画やドラマのシナリオが成功しているかを読み手がどう評価するかどうかなのではありますが…。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/487376243X/qid=1071667206/sr=1-5/ref=sr_1_2_5/250-0603448-0592228
■ ハワード・ホークス&ジャック・カーディフ |
Date: 2003-12-15 (Mon) |
「CIA 秘められた真実」NHK-BS1にて明日から再放送、録画してね。
「ハワード・ホークス―ハリウッド伝説に生きる偉大な監督」
分厚いんだけど、高橋千尋の監訳なので安心して読める。
映画といえばハリウッド映画、なんでも楽しく観ていたのに、ある日ハワード・ホークスの名前を知ってからは、監督によってこれほど映画のおもしろさが違うことに気付き、以前と同じように喜んで観ることができなくなった貴方にはぜひ読んでもらいたいです。
作家主義からも距離を置き、監督のホラ話にもまゆつばを付けながら、資料にあたりその実像に探りをいれた労作です。ホークスという人物は性格の歪みとか政治信条の偏りとかはあるが、それが作品にどう影響したというような安易な分析はしていない。
興業成績、撮影所のプロデューサーやエージェント、同業者の監督との関係。システムがすべての夢の工場のなかでいかにしてサバイバルをしてきたか。特定の撮影所には属さずメジャーはすべて渡り歩いている。セックスを暗示する表現での検閲との闘い、予算超過との闘い(必ず撮影日数が予定の倍はかかっている)。それらを伝説と事実を分けて、彼の実像である孤独なハリウッドの洒脱な実業家の姿を浮き上がらせている。
驚くべきは、ホークスはそれほど語るストーリーのバリエーションを持っていなかったという指摘だ。「危険な仕事に就くふたりの男が同じ女を取り合い、最後には片方が死ぬか、譲ることで終わる」。これを生涯繰り返していたというのだ。『リオ・ブラボー』三部作が同じというのは有名な話だけど、観客はそれに気付かないあるいは気にしなかった。なぜか?ひとつひとつのエピソードが面白く、演出が良いからだ。逆に言えば、ストーリー・ラインが浮かび上がるような、テーマが見て取れるような構造にはなっていないのからだ。
関連して興味深い指摘は、ある意味集大成であった『リオ・ブラボー』の出演者はジョン・ウェイン以外は、ウォルター・ブレナンを含む全員が当時のテレビドラマの人気者だったということだ。もちろんホークスはそれを承知でキャスティングをしている。
それで思い出したのは、『リオ・ブラボー』をはじめて映画館で観たとき「こんなに長い作品だったんだ」と気づき、テレビで観ても実は印象がそれほど変わらないことだった。ということはエピソードがいくつかカットされてもストーリーにはなんの影響が無いと言うことだ。その意味ではホークスの話法はテレビドラマに似て、エピソードの積み重ねや寄り道でキャラクターをふくらませて楽しませていくもので、だからキャスティングが弱いと作品自体がつまらなくみえてしまうことがあるのだろう。
その他にも、そのキャリアを自らが出資してプロデューサーからはじめるとい、う金持ちならではの掟破りなやり方だったり、彼が仲が良く監督の姿としてマネをしたのがビクター・フレミングだったというのには驚いた。
男性的で明るい映画しか撮らない印象があるが、実はヘミングウェイと同じ「失われた世代」ひきずっていて、モノクロ時代はやたら登場人物が自殺していたりする。第二の妻のスリムが離婚した後にNYの社交界に入り、トルーマン・カポティの短編「バスク海岸」で悪く書かれていたというのも発見。
なにはともあれ、そのキャリアで何度も頂点に立ち傑作を作ったことは間違いはない。そのような映画監督はないのだから。またその製作者としての嗅覚で観客の嗜好を嗅ぎ分けたのも確かだ。いまはスピルバーグがまったくホークスの真似をしているのはご愛嬌か、それともハリウッドの伝統なのか。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4845900033/qid=1071492436/sr=1-1/ref=sr_1_2_1/250-0603448-0592228
「マジック・アワー」
イギリスの撮影監督および監督であるジャック・カーディフのフィルモグラフィーは謎だらけだった。技巧の極致のマイケル・パウエルの『赤い靴』を撮ったと思うと、ジャングルロケの『アフリカの女王』リチャード・フライシャーと組むと、監督としてマリアンヌ・フェイスフル主演の『あの胸にもう一度』とかB級作品を作っていたりする。その謎が本書を読むとほとんど明かされる。それについてはここでは書かないが、サイレント時代からキャリアをはじめテクニカラー・キャメラの名手として名を馳せるようになる。彼が会った女優たちのポートレイトも素晴らしい。マレーネ・ディートリヒ、エヴァ・ガードナー、特にマリリン・モンロー!ほかにも出会った俳優、画家、監督たちのエピソードもイギリス人らしいユーモアを含んで読ませる。訳文がちょっとピント外れなところもあるが、あとテクニカラー・キャメラについて解説があっても良かった。
http://bookweb.kinokuniya.co.jp/guest/cgi-bin/wshosea.cgi?W-NIPS=997397123X
■ 芸術はバクハツだ!! |
Date: 2003-12-14 (Sun) |
で、行ってきました、川崎市岡本太郎美術館。小田急線向ヶ丘遊園駅から見える小高い里山が生田緑地で、そこを登っていくと途中に民家園とかプラネタリウムとかがあって(今回はスルー)、その間をさらに散策するとどんづまりに斜面にはめ込まれたように地形をうまく使った建物があり見上げると建物の屋上広場の奥に立像があるが、これが近くに行かないとわからないがバカでかいのです。岡本太郎だ!という感慨が改めて湧きます。
常設展示を見て思ったのは、タローって人は直感的な部分よりも、パリで民族学を勉強してそれを持ち帰り日本に当てはめて、土俗縄文沖縄を発見して…という流れが見えてくる。私にはどうしても太陽の塔と芸術は爆発だのイメージがあるんで、モダニストの流れなのかなとずっと思ってきたんだけど、けっきょくは西欧人には日本という古代文化(プリミティブ・アート)の継承者であるが、日本人には商業的(コマーシャル)に前衛芸術家という風に自分を見せていた(セルフプロデュース)のではないかと思ったね。どうも内面から迫ってくるモノがいまひとつないんだよね。
さらにその想いが確信に変わったのは、続きの企画展、「肉体のシュルレアリスム 舞踏家土方巽抄」の部屋に入った途端に感じた空間の気迫というか佇まいに圧倒されたからだ。単純に四角い部屋が4つくらいあるだけで、岡本太郎の凝った内装デザインとは全然違うのだけど、空間の想像力の濃密さがね、たとえば朝倉摂の舞台美術のシンプルだけど埋め尽くされた気迫ってあるでしょ、そんなカンジ(わからんかなぁ?)。
舞踏については門外漢なのでなにも言えないですが、往事のポスター、チラシ、土方の演出ノートなどの生々しさが、情報が横溢する時代の前、手に入る美術書の絵をこうじゃないかと独自に解釈したりして、限られた情報のなかで想像力をめいっぱいに使った果てにあらわれた表現が、独自のものに昇華されていたという偶然の作用であって、東北とか土着というのが、アタマのなかだけで考えられたものでない、肉体と思索が自らと不可分の存在になっていく過程がオモシロイ。
それに共鳴する同時代の芸術家たちが作り上げていく、舞台オブジェ、イラストレーション、小説とも渾然一体となっていく様が立体的な展示に拡がり興味深い。
個人的には土方に影響したという作品として展示してあった、フランシス・ベーコンの作品と、ハンス・ヴェルメールのプリント数葉がココロ惹かれました。
トータルで感じたのは、いろんなことを考えるにあたって日本の悪食文化というのを外してはいかんと思うのですよ。教科書には絶対に書かれないことですが、その思考回路を受け入れないとガイジンの目でしかモノを見ることができないと思う。
マンガが浮世絵の流れとかあるにしても、世界でも独自な存在であり日本人にしか作り上げられないモノに昇華していったという事実があるじゃん。あと西洋文化を目標にしたにもかかわらず、まったく日本的なものに変容した、ゾラとかありのままに見ることを是とした「自然主義文学」が、単に貧乏病気おんなの三大要素だけの「私小説」になってしまったり、インドの仏教が土俗宗教と繋がり神仏習合の独自のものに変化したりする。
やっぱタローとかの西欧史観者は純粋なものを求める、縄文が日本の源流だという風になるんだけど、ものごとってもっといい加減に偶然に雑多ですわな。
モノをつくる人間が、理論とか学者の部分が勝ると碌なことがない。そこら辺を全部引き受けた(もちろん極東の日本に生まれたということも含めて)、土方のほうが時代が一回りしたあと、時代のフィルターから解放され、逆にある種の透明感を獲得したことと大きく関係することは必然ではないだろうか。
もちろん「ドメスティック=インターナショナル」などという単純な図式のことを言ってはいるのではないけどね。かといって一方では「人類の進歩と調和」を「東北からの出稼ぎ」が万博を作ったこともまた時代の事実として視野にいれとかないとならないとは思うが。まあ見学者としての権利で勝手に妄想するだけのことですが…。
■ エイリアス(2重スパイの女) |
Date: 2003-12-10 (Wed) |
NHK BS-2海外ドラマ。
タランティーノがゲスト出演。セルフ・パロディで悪役をやっていた。今回は前編なので、来年(!)1月14日が後編らしい。
http://www3.nhk.or.jp/kaigai/alias/story/story_12.html
■ 本を読むとまた映画が観たくなる |
Date: 2003-12-09 (Tue) |
この無料サイトのサービスでは、一日と一時間単位でのアクセス解析(といっても何人来たみたいなもんで、IPアドレスとかはわからんが)が出るけど、今日はダルいなとか、陽気が良い日にはアクセスが少ない。逆にまったりとヒマな日には多くその変動ぶりが、自分のバイオリズムと同じでオモシロイです。
「サム・ペキンパー」 ガーナー・シモンズ 河出書房新社 3800円
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4309263402/qid=1070980187/sr=1-1/ref=sr_1_0_1/250-2096304-9177053
実は原書を持っているのだけど、読まないうちに邦訳が出てしまった。万遍なくちょっと離れた位置から書いているので滅茶苦茶な人としての神話度は低いが、ペキンパーの粘着質で疑り深い性格がよくわかる。作品の予算超過にしても、結局は逆説的にハリウッド・スタイルのやり方でしか映画を撮れない人なのだな、その意味ではまさにオールド・ハリウッドまたは滅び行く西部の男を実践していたことがわかる。
作品が完成して上映される前に興業成績に自信を失い、次の作品の契約をしたがり、結果として自分を弱い立場に置いてしまう悪循環の繰り返しと言うやり方。
『キラー・エリート』をアクション映画のパロディとしたと言ってもあの鈍さ加減ではね、やはり大イグアナな人だったんだろう。
読めもしない原書を買ったのは、本書358ページにも載っている写真が好きだったからです。
「剣 三隅研次の妖艶なる映像美」 野沢一馬 四谷ラウンド 1800円
http://bookweb.kinokuniya.co.jp/guest/cgi-bin/wshosea.cgi?KEYWORD=%8C%95+%8E%4F%8B%F7%8C%A4%8E%9F%82%CC%97%64%89%90%82%C8%82%E9%89%66%91%9C%94%FC
読み物仕立てになっているのですが、それほど気にならなかったのは三隅研次について思い入れとか無いしよく知らないからかな。
衣笠貞之助の助監督が長かったというのも驚いたし、血しぶきをやたら上げるのも勝プロの時代からであり、その一作目の『子連れ狼 子を貸し腕貸しつかまつる』の撮影中に大映倒産の報が入ったというドラマもすごい。だから東宝の配給なのね。
角川映画第一作になったかもしれない『オイディプスの刃』を監督したかもしれないというハナシや、『斬る』のアタマのシーンを新藤兼人のシナリオとできた映画を較べ、その解釈というか創造力を解読するところなど圧巻です。
またカラー、70mmと技術にものすごいカネを掛けまくった大映という会社についてもわかって興味深いです。
60本ちかくある作品群をまだまだ観なくちゃならん。
■ 県立図書館奇譚 |
Date: 2003-12-07 (Sun) |
いくつかある施設を統合したというのでHPを覗くと、ネット検索が出来るようになっている。とりあえず「映画」と放り込むと、4000件近く出るので、ほぉと思いクルマを1時間ほど走らせて向かう。
さいきんの新刊貸出屋と化したぴかぴかな市立図書館にくらべて広くはないが、図書館マニアの直感にぴんとくるものがある。明らかに自信のある雰囲気が、さりげなくきちんと並べられた背表紙群の佇まいからわかる。
開架書棚を眺めるウチに興奮してきて鼻息が荒くなる。すばらしい、久々に素晴らしい蔵書の図書館だねえ。
書店で欲しいけれどちょっと高い、あるいは値段に見合うのかしらん、で値段のわからん古書店に出たら買おうと思っているような本がずらりと並ぶ。とりあえず書棚から次々と抜き出し貸し出しカウンターに向かう。これで当座の楽しみが増えました、ほほほ。(まあ安上がりな男ですが)
<借りた本>
「サム・ペキンパー」 ガーナー・シモンズ 河出書房新社
「マジックアワー」 ジャック・カーディフ 愛育社
「剣 三隅研次の妖艶なる映像美」 野沢一馬 四谷ラウンド
「脚本通りにはいかない!」 君塚良一 キネマ旬報
「ハワード・ホークス」 トッド・マッカーシー フィルムアート社
「セルゲイ・パラジャーノフ」 パトリック・カザルス 国文社
「デジタル映画撮影術」 ポール・ウィラー フィルムアート社
「映画監督 増村保造の世界」 増村保造 ワイズ出版
「ストレッチングの実際」 (あ、しまったこれはちがう)
「ゾンビ映画大辞典」洋泉社 はなぜか参考図書で館外貸出禁止でした。…これって辞典扱いでいいのかなあ。
■ CIA 秘められた真実 |
Date: 2003-12-06 (Sat) |
NHKBS-1 ドキュメンタリー3回シリーズ、再放送で全部見られました。
CIAの歴史に沿って裏側から見たアメリカなのですが、
畳みかけるインタビュー、元CIA長官たちや元職員たちの証言でほとんどが構成される内容でものすごい情報量で堪能しました。
どこまでも「汚い戦争」を外交と戦争行為の間の国家が取る一手段とする諜報機関と、ホワイトハウスの関係がいまさらながら明らかになっていく。「もちろん大統領はすべて知っていましたよ」と言うセリフが何度も繰り返される。一方で組織を守るためなら、国民の代表である議会をも敵に回すことをなんとも思っていないスパイたち、それどころかオリバー・ノースたちを賞賛する。
冷戦崩壊をだれも予想できなかったことや、その後の予算削減、FBIとの対立が911を防げなかった要因だということ。
もっともいまの状態が、ワシントンとサウジアラビアの癒着=石油利権がらみだということも、自明のことと述べているのも興味深い。
フランスのTV局の製作らしく、ブッシュを徹底的に辛らつに描かれている。
そのうちもう一度くらいは再放送すると思うので、そのときにはどうぞ。
ボブ・ウッドワードの「ベール」を併読することもお薦めします。
<番組のHP(フランス語)> NHKもリンクくらい貼れよな。
http://www.arte-tv.com/dossier/archive.jsp?node=371331&lang=fr
<サウジアラビアとのあれ…> マイケル・ムーアの新作もこういうことなんしょ。
http://www.sankei.co.jp/pr/seiron/koukoku/2002/ronbun/10-r1.html
■ BIG FISH |
Date: 2003-12-05 (Fri) |
ティム・バートンの新作。予告編もなかなかです。アメリカ民話のほら話の実写化のようですね。大男の話とかいろいろ。
http://www.sonypictures.com/movies/bigfish/index.html
ついに、ワーナー・アニメ(というかルーニー・チューン)と実写の合成ドタバタ。…と言ったらこの人、アニメ番長ジョー・ダンテ。
また『禁断の惑星』のロビーくんが出ていたぞ。
http://www2.warnerbros.com/looneytunesbackinaction/index.html
『バイオハザード2』も作っているようですが、予告には内容がないイメージだけ。ミラちゃんは出ている模様。
■ 石井輝男のはやらないみたいだが |
Date: 2003-12-04 (Thu) |
ちょっと行ってみたいです、これも。 というかとっくにはじまっていたのね知らんかった。
川崎市岡本太郎美術館
<企画展>肉体のシュルレアリスム 舞踏家 土方巽抄
http://www.taromuseum.jp/index.htm
■ ちょっと変えてみました |
Date: 2003-12-03 (Wed) |
行間あけと文字を大きく色をちょいつけてみて、内容は変わらず、です。
芳林堂書店池袋店が年内で閉店らしい。在庫がきっちりしたいい本屋なのになあ。高田馬場店もという話もあるが、ふらりといって思いがけない本に出会うことはネットじゃ無理だからねえ。
小宮山悟投手、ロッテに復帰。
だからさ、プロ野球ファンをやめられないのさ。いいよねえこういう話は。ひとりで盛り上がっています。
■ 無題 |
Date: 2003-11-30 (Sun) |
なぜか毎月のはじめと終わりの休日にFTPの調子が悪くていらいらすること夥し。有料サイトに移れという嫌がらせなのか?
『アンダーワールド』観ようかなあ〜。ゲゲッ、130分もあるぞ。新人の映画をそんなに長くしちゃいかんぞ。
■ チェチェン・ウォー |
Date: 2003-11-29 (Sat) |
TSUTAYA100円デーなので。
すごく渋い映画だった。こういうのがいま観たかったのですよ。派手さの欠片もない戦争アクション映画。
チェチェン紛争で捕虜となったシベリア出身の若い軍曹と人質になった男女のイギリス人。
身代金を作るために女を残して、彼らは解放されるが、政府の非協力となかなかカネは集まらずに日にちが過ぎ、最後は二人だけで完全武装で敵陣に乗り込んで行くという話。
淡々としてモンタージュも音楽もまったく誇張もなくひたすらエピソードで進んでいく。そのひとつひとつがリアルなのかはわからないが、まったく観たことがない話なのは確かだ。いくらでも誇張して派手に描けるのに確信的にそうしていない。
チェチェン人ゲリラのクルマを襲撃するシーンの暴力の度合いはものすごくキツい。あと捕らえた地元の羊飼いを殴打するシーンなども。描き方のエグさでいえば、ハリウッド製のほうが派手だけど、それとも違う怖さがある。ただただ描かれているんだけど緊迫感が溢れている。なんでしょうなあ。様式美や映画なんだからという検閲コードからはみ出ている恐ろしさなのかな。いや、海外配信ニュースで見られる眼を背けたくなる事実の映像のような感じだ。最初から最後まで非情なシーンだけで出来ていて、だれも英雄然とした行為は取らないし、打算的だし、何の救いもない。ただ殺伐としている。
テッド・ポストの『戦場』とか、あの辺りの暗さといえばお分かりいただけるか。
個人的には、攻撃ヘリMi-24ハインドが何機も低空飛行したり、曳光弾の描写や手榴弾爆破のリアルさとかが豪勢で良かった。
監督がずっと観たくてしかたがないロシア版『仁義なき戦い』らしい『ロシアン・ブラザー』の人だと見終わって調べたらわかりました。あと『フリークスも人間も』。
未公開ビデオ・スルーにはもったいない。ロシアでは大ヒット作らしい。
http://www.allcinema.net/prog/show_c.php?num_c=241253
もっと非ハリウッドの娯楽映画を観る機会が増えないだろうか、それも外国人向けの映画祭用映画じゃなくてさ。きっと面白い作品がまだまだあると思うのだけど…。
■ 監督中毒 三池崇史 |
Date: 2003-11-28 (Fri) |
自分の書いてきた三池作品のレビューを読み直して、それほど外してはいないようだと安堵する小心者です。
この本を読んでも彼の映画作法は少しも解明されない、映画界に入る前の生い立ちや私生活についてもまったく触れられていないので、その方面から映画を解釈する方々には資料としての価値はありません。
ただ彼が一緒に仕事をしてきた映画人たちへの、愛憎が入り交じった視線の延長に三池作品があるのはよくわかる。彼が冷静な観察者だったと言っているのではない、そういう時代だったということだ。フィルム撮りの1時間テレビドラマや2時間サスペンス、Vシネから、劇場用作品を作ったことのあるベテラン映画監督たちが排除されていく最後の時代であり、最後の徒弟制度の体育会系が通用した時代。ちょうど浮かれバブルの終わりであり、何一つ新しくないトレンディ・ドラマという言葉が出てきた時代に、いろんなものを見てきたのだと思う。
テレビに乗れない監督たちやだれがどう撮っても変わらない連続ドラマ。それが良いとか悪いとかじゃない、仕上げなければ放映に間に合わないし、そういう仕事なのだから。ただ秘かにそれだけじゃダメでもっとやり方はあるはずだとは助監督として感じているだろうが。
三池はセカンド助監督としてものすごく優秀だったんじゃなかろうか。本人もそのポジションが心地良かったと思う。遊軍的な位置であり、製作における裁量も大きく、言い換えれば制作部としてのチカラも必要とされる。チーフ助監督のスケジューリングや監督の補助という仕事から逃れて、純粋に現場と立ち向かうことができる、それも長年やっていればいるほど手練れになっていく。
ある意味、三池の監督のやり方はセカンド助監督のフットワークの軽さで撮影を進めているとは考えられないだろうか。時間がなければどんどん撮影方法や、間に合わない小道具は映らないようにするし、現場で面白いと思ったことはどんどん変更していくやり方。それでいてどこまで冒険できるかを見極める眼。いつもそのぎりぎりのところを試しているように思える。自分が映画を作っているんじゃなくて、ただ自分は映画の現場で撮影を進めているだけだ。それがうまく行けば面白くなることもあるんじゃないのというスタンス。それは「自分が創造主であり、作家でありたい」という概念からは明らかにもっとも遠いところにいる。それを理解しない限りあらゆる評論は空を切ると思う。『牛頭』はそんな遊軍的スタンスの傑作だけど、反面そこまでやるとオモシロがるところはもう無いねという限界も一応は見えてきたのではないだろうか。次はプロデューサーとしての仕掛けを入れてくるのか、それともシナリオをもっと引きつけて撮るのか、どちらせよ、楽しみだなあ。『着信あり』と『ゼブラーマン』。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4835600711/qid%3D1070023414/249-0297351-8525979
■ エクスプローリング・ザ・マトリックス |
Date: 2003-11-18 (Tue) |
友人からまたキル・ビルミニ情報
「青葉屋には、モデルとなったお店があるようです。
先日のタランティーノ来日の折にも、スタッフと
飲みに行ったと「ぴあ」に書いてあった。
そういえば、去年だか小泉がブッシュを
連れて行ったのって、ここだったのね」
ということでチャットのときの、iwokさんの発言は正解だったわけですな。
客は口々に二階からヤッヂマイナと叫んでいるんだろうなあ。(>いないと思うが)
ぜひ、次回はここでオフ会を…、参加者は全員カトー・マスク着用のこと(いかん、まだ妄想が収まっていないぞ)
http://homepage2.nifty.com/natural2/gonpachi.htm
「エクスプローリング・ザ・マトリックス」
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4796880119/ref=sr_aps_b_/249-0144930-8783569
『マトリックス』についてSF作家やSF関係者が語る評論本。まーだからどうしたという内容。途中から斜め読みになっていったのですが、『マトリックス・リローデッド』の前に書かれていたようので、続編についての言及はなく絶賛の嵐ばかりで白ける。まさに便乗本だ。
しかしここまで、『マトリックス』を構成しているパクリを大々的に肯定するスタンスに立っているのに吃驚した。SFな人たちは基本的にヌルいと思っていたけど、ここまでなあ、画期的とか賛辞ばかり並ぶのもどうよ?難解さを引用して、ハードコアに仕上げているからイイみたいな論調はねえ。これが同年に封切られた『ファイト・クラブ』のB面だという指摘の欠片もなく、『スター・ウォーズ』は子供向けだけど、こっちはもっと深いみたいな調子ばかりだ。日本人はすでにエヴァ騒動を体験しているから醒めつつ読めるんだけどね。
興味深かったのは、ブルース・スターリングが『マトリックス』と現実社会の相似性の考察を、彼が参加した911直後のニューヨークで行われた世界経済フォーラムから紐解くエッセー。借り物のカッコいい外見が生み出す興奮と、それが消費されカネの成る木になることを浮かれずシビアに書いている。いわゆる『マトリックス』現象の本質をついていると思う。SF作家ケヴィン・J・アンダーソンは、『マトリックス』やゲームと現実の暴力との無関係さについての考察で、「暴力的な映画やゲームが犯罪を引き起こすと言うのならば、カード会社のCMは、カード破産に対して責任を負わなければならないはずだ」というのがおもしろかった。
■ ミラ・ヨヴォビッチ |
Date: 2003-11-15 (Sat) |
いまさらですが、『バイオ・ハザード』DVD。
お薦めのコメンタリーのミラちゃんの暴走に爆笑でした。プロデューサーが「このカットはデジタル処理で…」と言っているのに、「そんなことより、私の乳首は見えた?」とか「映画を観てないで、コメンタリーを先に観たら、ネタバレされても当然の報い!」酔っぱらっていたのかね?
それにミッシェル・ロドリゲス姐のツッコミが冴える。「これは低予算で良くやっているけど、ハリウッド映画は余計なところにカネがかかりすぎるわ」「アメリカの芸能界の少女は毒されている」「マトリックスは『攻殻機動隊』以外にも「and the Truth shall set you free」って本の影響があるよ」
監督のポール・アンダーソンはヲタク炸裂で「ここはゲームと同じアングルにしている」「『CUBE』に目配せをして、シャレで賽の目切りにしたんだ」「これは不思議の国のアリスだよ」と本人の中で完結しているネタを得意げに言いまくる。ミラとはバカップルで良さそうですな。たぶん普通に映画の話をしたら楽しい人だと思いますよ。『エイリアンVSプレデター』は期待しない分だけ、期待を裏切らないものは作れそうです。
映画は、薄いけど元のゲームの好きな方の期待は外していません。それ以上でも無いけれど、そこがアンダーソンなんだけど。同じシナリオでゲームかアニメにしたら、日本人の方がうまく作れるだろうね。ドイツ・ベルリンロケでいわゆる低予算の範疇だけど、日本人ならきちんと作れないのかなあ。まあまともにエンターテインメント指向なヒトっていないから、いても実写じゃなく、アニメ、マンガ、ゲームに流れているのですかね。
■ キル・ビル・チャット大会終了 |
Date: 2003-11-08 (Sat) |
楽しかったです。ご参加のみなさんお疲れさまでした。ありがとうございました。
次回はVol.2で…。
<追記>
いろんな方々と話しているうちに、新たなる発見とか自分の考えがまとまってきてスリリングな体験でした。
例えば、「ブライドの××××はなにか」、「タランティーノのヲタクな本質とオシャレな資質」、「青葉屋はカンフー映画の旅籠なので、佐藤佐吉と風祭ゆきは定番のダメ主人とやり手なかみさんキャラだった」などなど濃かったです。眼も疲れたけど。
掲示板も良いけど、チャットのだらだらなカンジもオモシロイね、当日までちょっと不安だけど(^^;)
こちらの日記には至極真っ当な意見が出ていて気持ちがイイ。当たり前だけど、Vシネをちゃんと観ていないとこういうことは言えませんね。
http://www006.upp.so-net.ne.jp/koi/index.html
■ キル・ビル 2度目 |
Date: 2003-11-07 (Fri) |
行って来ちゃいました。
今回は細かいところを観ていたり、音を楽しんでみました。
しかし、芸が細かいね、いろいろと。
やはり、沖縄の終わりから、青葉屋の章へと行くときの音楽の盛り上げで、一気にカァーっと体温が上昇するのは、前回と変わらずで、やっぱイイねえ。
最後の対決のはじまりで流れる音楽のタイミングもやはり鳥肌ものだった。
新たに謎がぞろぞろと出てきたので、うぅっ早く喋りたいです。
■ キル・ビル怒濤のネタバレ・チャット開催 |
Date: 2003-11-06 (Thu) |
えーと、上記なチャットをしたいと思います。
11月8日(土)14時からはじめるつもりです。
あまりにもヒトがいないと寂しいのでご参加お待ちしてます。
とりあえず前日までにもう一回観てきます。
■ 美術展二題 |
Date: 2003-11-02 (Sun) |
ジョゼフ・コーネルの作品がどっかで見られないかなあと検索したら二つも見つかった。
国立近代美術館
旅 ―― 「ここではないどこか」を生きるための10のレッスン
http://www.momat.go.jp/Honkan/traveling.html
テーマは面白そうです。
森美術館
ハピネス「アートにみる幸福への鍵」
http://www.mori.art.museum/contents/happiness/
展示作家が脈絡無いように思えるのですが…。作品も不明なのも気になる。
■ 『キル・ビル・チャットVol.1』 |
Date: 2003-11-02 (Sun) |
チャットを今週末の金曜か土曜の夜に開催をしたいと思います。
ROM歓迎。
元ネタとか引用とか細かいことはどうでもいいんで、とりあえず、この映画について、学校、会社、家庭ではヒトには決して話せないことを、勝手にだらだらと喋ってみませんか。
どちらの日が良いかリクエストを頂けたらうれしいです。
■ 鉤 |
Date: 2003-10-31 (Fri) |
ドナルド・E・ウエストレイク著。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4167661330/qid=1067614904/sr=1-4/ref=sr_1_2_4/249-9732143-4790724
今頃ようやく読みました。こんなこと書いて翻訳されなくなると困るんだけど、なんでこれを出版したのか不明だ。
アイディアも『見知らぬ乗客』で、二人の作家の話も古典的で「ダーク・ハーフ」なんていうのもあるしなあ。
ストーリーがサスペンスとして上滑りなのが気になる。
二人の作家が、時間が経って再び会うと成功者と失敗者に別れていて、成功者の悩みを解決して両者がともに利益を得るために悪魔の契約をする物語を、ある意味悪意とは別の幸運な悪魔の側から描くという試みは面白い。
しかし、本来話が展開していくうちに、登場人物たちの内面が変化していき、思わぬ方向に進むはずが、一方の登場人物たちの心境の変化が無いため、結果として、片方の人物だけが追いつめられるだけで読んでいる方はなんで?と納得がいかない。理屈としてそうすることでありきたりなサスペンスを回避したいというのはわかるのだけどもねえ。
珍しく観念的な作品でした。ふたりの人物を等分にそれぞれ描こうとしたのが、うまくいかなかった原因かもしれない。映像化なら良いかもしれない。ついでに言えば小説家というアイディアもうまく機能していないのですよね。二人の描き分けが今ひとつ…。
明日は1,000円デーなので『キル・ビル』をもう一度行くか?
なにはあともあれ、これは“映画”なんだよね。そういう匂いがプンプンするの。映画のふりをしているなんか別の大きなDVDみたいなのが多いなかでさ。
これだけ、CGだPVだのの誘惑があっても、環境としての映画館を意識して作れたのは大したものだと思う。それは舞台が日本だから邦画チックな部分が多いのでそう感じるのだけなのか?タラの他の作品じゃ全然そんなこと感じなかったからね。
でもホント徒花映画が好きだよねえ。まさかこんな映画を嬉々として作る人間が出てくる日が来るとはねえ。
敢えて書くと、元ネタの70’映画群って、作り手たちが作りたくて作っていた映画じゃないのに、出来上がったらオモシロカッタという、偶然の(やけくそともいう)作用みたいなものだと思う。だから子供の頃にはじめて観たらびっくりしてトラウマになるが、オトナが冷静にいま観直しておもしろいかというとそんなことはないだろう。と発言する私はオヤジか?
さらに言うと、それらの元ネタは作り手(タランティーノ)の糧にはなるが、観客の糧にはまったくならない。作者はココロザシがものすごく低くて、自分のオリジナリティなど何一つ考えていない。期待しているタランティーノ印はどこにも存在していない。それでも映画は出来ている。これをなんといえば良いのか?タラの新作か、単なるパクリか、それとも妄想なのか。
この映画を成立させているのは、ある時代の徒花映画の再現であり、個人の映画体験のトラウマの再現だけなのです。
これは最初から何一つ新しいことをしようとしていない、最初から行き詰まっている映画なのです。そのことを前提として作っているため、評論も作家性も拒否している映画なのです。もっと言えば、大衆娯楽である映画の一般性を否定しているのです、と書くとまた話は戻って、これは映画なのか?という問題に行き着くのだけど、感じる過去のブルーな時代を思い出させるイヤーな映画らしさは何に起因しているのか。私と違う世代はどう感じるのでしょうか、気になる。
もし、レンタルビデオを自分の好きに繋いで、音楽を勝手に付けたら、こういう感じになるのか?才能は別として個々人のトラウマキルビルはできるのだろうか。
NHKBS『孔雀夫人』。
http://movie.goo.ne.jp/movies/PMVWKPD2604/
ウイリアム・ワイラーのゴールドウィンのところで撮った作品は、黄金期のまじめな日本映画にものすごく影響があったんじゃないかと思った。というのはこの話はまったく今の日本でリメイクしても充分通用する内容だからだ。
テンポも昭和30年代の松竹映画みたいだった。たぶん脚本家は分析していたんじゃないでしょうか。私は木下恵介を観たことが無いので分からないのですが、小津の編集のタイミングやまじめで上品でものわかりの良い人物たちのドラマというのはまさに、ワイラーの世界のように思えるのですが。彼の作品がすべてそうだとは言わないけれど、巨匠ウィリアム・ワイラーの世界は、日本映画のある時代にとって目指すべきひとつの目標だったのではないかなあ。
■ まだまだ続くキル・ビル |
Date: 2003-10-26 (Sun) |
『キルビルVol.1』について、つまらないというのは簡単なことだ。なぜならこの映画の元になっている映画的記憶(死語!)は、知らなくても良い映画史の知識な訳であって、逆にこんなこと知っていると趣味の欄に躊躇無く“映画鑑賞”と書ける映画大好きじゃなくて、映画秘宝しか読まぬヲタクとバレてしまうだけだ。
別の言い方をすると、「やっぱさ、タランティーノはB級だけど新しい才能で最高だよね」などと誤魔化しても、「元ネタは良く知らないけど映画的に面白くはないね」と評論しても、その人がどういう映画とビデオを観てきたかがすぐに分かってしまうというオソロシイ踏み絵なのだ。
だから自分たちの時代が来たなどゆめゆめ思わずに、間違っても人前では「石井輝男!」などと連呼しないようにしましょう。
あー、ネタバレな怒濤のチャットでもしたいです。言いたいことは山ほどありそうだけど、反応してくれる人がいるのだろーか。
ネタバレでは中野貴雄監督のHPがさすがな論評を展開中です。
http://shinjuku.cool.ne.jp/n_tko/diary.html
・気付いたこと
後クレジット、アニメ・パートのオーレン・石井の声が、Ai Maedaと出ていたような気がしたが錯覚か?誰か確かめてくれないかなぁ?
■ やさぐれ映画『キル・ビルVol.1』 |
Date: 2003-10-25 (Sat) |
目覚めると陽は高く、家族はみんな出払って時計は正午を指している。仕方なしにテレビをつけて「笑っていいとも」を見ながら、メシを食う。でそのまま二光お茶の間ショッピングから、午後のロードショーへと突入して、ハナシがばんばん飛んでいくどうでもイイ、ホラーを見るが、睡魔が襲ってきて、寝てしまう。
うつらうつらしていると、三井奥様劇場のドラマの再放送が途切れ途切れに聞こえる。
ハッと目覚めると、陽は沈み辺りは暗い。今日も一日何もしなかったなあ、と独りごちて外に出る。
コンビニで弁当を買って、一通り雑誌を立ち読みして、チケット前売り誌になる前のぴあだけを買う。ついでにビデオを借りて家に帰りテレビをつけると、何度も見たアニメの再放送をやっているので、また見てしまう。
ぴあを隅から隅までながめながら弁当を食べていると、火曜ロードショーの時間になり、地獄の女囚コマンドー(三度目)を見る。途中で友人から電話がかかってきて、他人の悪口を30分にわたって言い合う。プロ野球ニュースをちらりと見たあと、スケベな番組がやっていないかをザッピングする。何もないとわかると、ビデオを見るが、途中で一度借りたことのあり、それも途中でやめていたことに気付く。仕方がないので積んであるマンガの一冊を読み出すが、面白くなり最初から全巻読みはじめる。そのうち夜も更けていき…(冒頭に戻る)
…このような80年代、90年代を過ごして来た方のみに送る映画です(限定)。
映画が進むにつれて、どんどん客席の温度が下がっていくという、久々のやさぐれ日本映画です。
大井武蔵野館の二本立てか新宿昭和館か文芸座地下の三本立ての邦画をシネコンで観ているという、豪華なんだか貧乏なんだかわからなくなってアタマがクラクラしました。
できることならば、街で一番古くてスクリーンの大きい、音の悪い劇場で観ることをお薦めします(無いよな〜そんなの)。
間違っても趣味の薄い人と一緒に行くことは止めた方がイイです。気まずい想いをします。
思っていたよりもこってりしていて、胃もたれをおこすので要注意。
■ 早射ち野郎 |
Date: 2003-10-24 (Fri) |
BSにて。
感化されてはじめて見たのですが、やあひっくり返ったよ。なんと本格西部劇。
マカロニ・ウエスタンよりも早く、(本作は61年、『荒野の用心棒』は64年)、どこかで観たことのある、ありとあらゆるハリウッド西部劇がぎゅうぎゅうに詰め込まれていて、全員が楽しんで作ったというのが一目瞭然。
ストーリーはダム建設工事で賑わう、未開の土地にやってきた流れ者、エースのジョー(宍戸錠)が、半人前の巡査と協力してダムの作業員の給料を狙う強盗団やその背後にいるボスを倒すというものなの。
とにかく開拓村のセットがスゴい。日活撮影所のオープンを全部使って、西部劇の街並を丸々再現している。なので決闘のロングショットがびしっと決まる。酒場もカウンターからホンキートンクピアノまで西部劇と寸分違わない。登場人物はみなテンガロン・ハットを被り、ライフルを持っている。女先生はいるは酒場の女はいるは…。
ジョーは黒ずくめで、歯を剥き出しにする仕草もすべて『ヴェラクルス』のバート・ランカスターそっくり。でも格好良さはランカスターより上だと思う。しかもなんと3曲も唄うのだ!
うーむ、ジョーの作品でも日活アクションのなかでも自分の中でかなり上位を占めるなあ、これは。
やー、こんな悪のりというか徒花のような作品を観ちゃうと、勢いのあるときの映画のチカラって大したものだと思う。
当時の戦後育ちの面々の共通認識が、アクション映画といえば、西部劇だったんだろうね。
そう思うと、『キル・ビル』のようなことはとっくにやられているんだねえ。
<参考>
http://www2u.biglobe.ne.jp/~kazu60/59371948/
■ シーゲルあります |
Date: 2003-10-19 (Sun) |
『突撃隊』がタイミング良く火曜の深夜BSで放映。
『殺し屋ネルソン』って観たことないんだよね。これを観ないでシーゲルの何を語れるかという映画なのだけど、まったくテレビでもやった記憶がない。というかいまやDVD取り寄せろよな…ということだね。
『Uボート』(1978)は『戦争のはらわた』(1975)作れたから、またハリウッドの監督呼んでさ、という西ドイツ映画事情だったのではないかしらん。キャスティングを夢想するのも楽しそうだね。ウォルフガング・ペーターゼンの映画は面白かったが長い。シーゲルだったら2時間以内に収まっただろうな。ただあの重厚感が出たかは分からない。
■ 秋の夜話 |
Date: 2003-10-16 (Thu) |
『キル・ビルVol.1』のサントラが聴きたいなあと思って出掛けて行ったら、16日の発売だった、あーあ。なるべく情報は入れないようにはしているのが仇になった。なんかわいわいとわかっている連中と行くのが楽しそうな映画だね。
こんな展覧会がやっていたのね。どーせ行けなかったけど。15年くらい前に練馬区で同じような企画がやったような気がしたが。成田亨のデザイン画と高山良策の彫刻も…、シンポジウムも面白そうだ。巡回はしないのだろうか。
http://www.pref.aomori.jp/museum/event/arttour2003/naritatohl.htm
山田宏一のこういう文章を読むと、背筋がしゃんとする。あまりタワケタことばかり書き散らさぬように心がけよう(あくまでつもりです)。
氏の素晴らしさは、書かれた文章を読むと絶対にこの映画を観てやろうという気にさせることだ。間違っても、「この映画はもう観なくてもいいや」という気にさせない丁寧でわかりやすくそして辛らつな紹介、批評文がすごい。
ネットや雑誌でも、たくさん映画紹介文は見るが、観たり書いている自分がいかに映画を知っているかを述べたり、取るに足らない誰にでも書ける感想の垂れ流しばかりで、読んだあとに映画館に行く気を起こさせる文章が少なすぎる(自戒)。
美文を書くのではなく、映画を観た興奮が読んでいる人にも伝わる駄文を書けたらいいな。
「感動こそ映画のすべてだ。見事な作品だと感心させられるものの、だからどうなんだろうと意気消沈させられてしまう映画がある。
もっとも素晴らしい映画は、それとはちがって、扉がひらかれるような印象をあたえる映画であり、そこから映画が始まるような感じをいだかせてくれるものだ。」 フランソワ・トリュフォー「わが人生わが映画」
映画を映画評に置き換えてもいいでしょうね。
http://channel.slowtrain.org/movie/column-eigasi/018/eigasi1804.htmlorg/movie/column-eigasi/018/eigasi1804.html
■ 小津安二郎周游 |
Date: 2003/10/10(Fri) 23:51 |
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4163651705/qid%3D1065794436/249-9459225-3722754#product-details
生誕百年ということで、神格化に神格化が重ねられている小津だけど、この本を読まずに語るのはモグリとしか言えない!そんな細かい趣向が山盛りの内容です。いわば小津をめぐるミステリーというスリリングな構成に唸る。いわゆる小津神話をもう一度徹底的に資料を掘り起こすところから作業ははじまる。
たとえば、海外から来た小津ファンが必ず訪れる、鎌倉円覚寺にある墓碑に刻まれた「無」という文字は無常の世界を描く小津が気に入っていた言葉である。−−−−−−答えはダウト。死後に兄弟が集まり相談して、戦地の中国から送られてきた手紙に書かれていた文字が「無」だったので故人の好みの文字だろうと推量して決めたということ。
その他にもいくつかのキーワードが出てくる。「野戦瓦斯隊」「ボクサー」「非常時と東京音頭」「月は上りぬ」などなど。著者は資料を紐解きながら、当時の時代や映画史も同時に解読して、小津のその時代の中での位置づけ、松竹や映画界での位置づけを再確認する。そして総体でいままでそこにあるのに見えていなかった、巨匠小津の姿を、時代に生きるひとりの人間であり映画監督を職業とした男として、彼の内面に迫ろうとする。そこに現れたのは、したたかであり、偶然も作用して(もちろん才能はあるが)、日本映画の一時代を担った人物が浮かび上がる。
そしてこれははじめてだろう、いままで誰も問題にしていなかった彼の従軍体験がどのような影響を与えたかだが、ドキッとするくらいの事実が発見されている。またいかにして大正のモダン・ボーイが長屋の喜八ものへと作風を変え、戦後は山の手のホームドラマを何度も作るようになったのか、その変化の背景、ミッシング・リンクが見えてきて、いままでバラバラだった作風がなるほどというくらい繋がってくる。
当たり前のことだけど、小津は1930年代から日本映画の巨匠であり、興行成績はいまひとつだが、往事のインテリ層(「大学は出たけれど」な人たち)にだけ受ける一貫して評価は高い監督であり、決して彼が理解されないとか不遇の作家であったことはない。もっと言えばそのローアングルだから評価されたわけでもない。作品が同時代の人間に訴えるものを持っていたということだ。一時期いかに小津が日本的でないかを、ドナルド・リチーの本を引き合いにして語られたことがあったが、「監督 小津安二郎」のような思いつきのキーワードだけで、いかに非日本的だから本当のところは理解されず、逆に汎世界的だから時代を越えて偉大なのだと書かれた本は、評論としてはちょっと面白いがあまりにも誘導的だと思う。
著者の姿勢はそれと反する。いかにして映画と映画人と観客が同時代を生きたか、その証を平たく資料を集め解読していく。そこから現代に通ずるものを見いだしていく。お陰で読み終わると関連した歴史の本や別の映画の本を読みたくなる。そんな遠近感の広がりを持っていて、読み手を泳がせてくれる。
■ ジャン・ユスターシュ、その全貌 |
Date: 2003/10/09(Thu) 22:15 |
日仏学院にて上映中。
http://www.ifjtokyo.or.jp/culture/cinema_j.html
「ぴあ」が前売り券情報雑誌になってからは、まったく購入しなくなってしまったので、こういう情報がいまも載っているか知らない。
もうはじまっているのですが、とにかく安いと思う。いまも当日で会員になれるのかな。学生さんは是非にでもどうぞ。感想を書き込んでいただけると、尚ありがたいです。一本くらいは観たいものだねえ。
今週末公開の『インファナル・アフェア』も、香港じゃ先週にパート2が封切られたとのこと。ストーリーをちょっと読むと、うーんそう来たかという展開。観たあとで読んでね、公式サイト。
http://www.infernalaffairs.com/2003/
■ 魔術的芸術 |
Date: 2003/10/06(Mon) 23:32 |
四次元怪獣アンドレ・ブルトンによる美術史。
芸術家の「想像力」や「創造の源」は一体どこから来るのだろうか。芸術家の持っているのは神の手なのか、それとも悪魔の手なのか。ブルトンはその答えを古代の呪術に求める。現代で言うプリミティブ・アートは、荒ぶる神々を静めるための、呪術師だけが持つ魔力だった。神々を納得させるためには、美術品の完成度や美しさを作り出すためのチカラが必要だった。その技術を持った者が芸術家であった。各時代の流れから、埋もれている魔術的なチカラを持つ芸術家たちを復権していく試みが本書だ。
そこで取り上げられるのは、お馴染みの力強い古代美術品であり、ヒロニムス・ボス、レオナルド・ダ・ビンチ、アルブレヒト・デューラー、ギュスタブ・モロー、ポール・ゴーギャン、アンリ・ルソー、そしてジョルジュ・デ・キリコをはじめとするシュール・レアリストたちを彼らの末裔に挙げている。取り上げている作家はまさに、ひたすら超現実(=シュール・レアリズム)を描いているのがわかる。
ここで気付いたのは、キリスト教の「神VS悪魔」という図式を無効にしようとする試みが行われていることなのだ。西欧文明ではどんなことがあっても、たとえ芸術家は神の啓示を受けたとしても、モノを作り出す自らが神になることは許されなかった。というかそれは悪魔の仕業とされてきた。ローマ時代から、教会の審判に怯えるか、巧妙に裏を潜り抜け庇護を受けた作家しか生き残っては来られなかった。寓話や聖書の話としてしか想像の世界(超現実)を描くことができなかったのだ。そこで出てきたシュール・レアリズムの無神論、教会破壊の与えた革命性は私たちには到底わからないだろう。ルイス・ブニュエルの『アンダルシアの犬』などへの攻撃を見ても、そのスキャンダルがキリスト教社会にショックを与えたことは想像できる。それでもブルトンは敢えて、芸術家は魔術師だという。もっと言えば、創造主(=神)だと言っているに等しい。まあそのこと自体は西欧文明だけで、本書で取り上げられていない、アジアの芸術、汎神論に対しては無力なのだけれどね。
また、シュール・レアリズムと同時期にフロイトが提唱した無意識を探るための「夢判断」が、ブルトンの論理とぴったりと裏表で繋がるのが面白い。
もうひとつ余計なことを言えば、印象派がありのままの自然や人間の卑俗さを題材としたことも、また反キリスト教だけれども、そこには超然たる魔術が無いので、結局は細かい方向へと自家中毒に陥らざるを得なかったということも、別の目線から言えるのではないでしょうか。(もちろん何人かの優れた絵描きは別ですが、全体の方向として)
個人的には映画に話を持っていくのだけど、ハリウッドをはじめとするスタジオ方式の人口美(夢の工場!)が、ヌーベル・バーグによって否定されたが、実は悪魔の子のゴダールだけが特異なのであって、結局、西欧映画界に残ったのは卑俗な貧乏人の話だったんじゃないかね。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4309265669/249-9459225-3722754
■ ニワトリはハダシだ = 党宣言2 |
Date: 2003/10/04(Sat) 15:01 |
あまりにも繋がらないというか、自分のサイトを自分で見られないというのはどうよ、ということでミラーを作って徐々に移動する予定。
東京フィルメックスというお祭りがあるらしく、そこで上映されるのが、森崎東の新作、なんと、『生きているうちが花なのよ死んだらそれまでよ党宣言』の第二弾なのだ。うれしいことにスタッフ、キャストが前作と同じだ!
配給会社も決まっているので、前のような宙ぶらりん状態はないだろう。なにはともあれめでたいです。
http://hadasi.jp/index.html
http://www.filmex.net/index-j2003.htm
■ インファナル・アフェア |
Date: 2003/10/02(Thu) 22:14 |
久しぶりに試写が当たったので行ってきました。すげえ面白いです。
詳しくは上映がはじまってから書きますけど、シナリオの練り具合がほぼ完璧で語り口も素晴らしい。観ている側にことごとくカタルシスを与えてくれる。先が読めないし、こちらの考えをどんどん(良い意味で)裏切り続けてくれる。もちろん役者の演技も見応えがある。それでいて1時間40分に収まっている。これは必見ですよ、お客さん!このシナリオだけでごはん三杯は食べられます。それくらい中身が濃く堪能できます。
*ただ、どうしても日本人には香港人の顔の区別がつかないので、最初のシーンがわかりにくいのが難。「映画秘宝」を読んでいたのでなんとなくわかってきたが、普通混乱します。そこに引っかかると物語に入るのが遅れてしまう。で敢えてそこの部分だけ説明します。ご覧になるまえに読んでください。ネタバレではないと思います。
警察学校で放校の目に逢うのは、それまで画面には出て来ていない若き日のトニー・レオン。それを見送るのが同じく若き日のアンディ・ラウ。ここでふたりははじめて出会います。それが分かればあとは混乱しないはず。
http://www.infernal.jp/
「カール・テホ・ドライヤー上映会」(ここの副題はどうよ?)
全長編と短編7本だって。行きたいなあ。『吸血鬼』が35ミリプリントで観られるんでしょ。
私のアタマん中では、「フリッカー、あるいは映画の魔」の映画監督、マックス・キャッスルのモデルはドライヤーなんだよね。
どうしたらあのような突拍子もない光と影の織りなすアヴァンギャルドな画のアイディアと、それを凌駕する完璧な構図を作れるのだろうか。
たぶんプリントの善し悪しで全然印象が違う人だと思う。12月まで細々とやっているからねえ。上映の条件を調べてから、なんとか全部行きたい。その価値は絶対にある(>ってオマエが言うな)
キリスト教的な部分はどうでも良いのだけど、あの強烈な魔術としての映画には圧倒されます。
http://www.acejapan.or.jp/artg/filmg/fes/dreyer/index.html
■ 電波 |
Date: 2003/09/30(Tue) 23:40 |
近頃、CIAの手先だと判明した隣の犬に監視されていて、動きが取れず、ケンタウロス星からの指令を妨害しているのは衛星放送の陰謀であり、電磁波攻撃を受けているためだと思ったら、昨日無線LANを接続するのに2時間ほどセキュリティを切って繋いでいると、あらびっくり名前の知らないアプリケーションさんが2つも入ってきました。
検索したら有名なスパイウェアでした。簡単にこんなものが混入するとは、久々にサイバー・スペースの戦いなんて言葉を思い出した。
注)エロサイトをのぞいているからでない…と思う…
ご参考
http://www.fukumi.co.jp/tips/net_access.htm
■ マトリックス・レボリューションズ |
Date: 2003/09/29(Mon) 00:46 |
新しい予告編、繋がらないんだけど誰か観た?
http://whatisthematrix.warnerbros.com/rv_cmp/revolutions_trailers.html
追伸:んで、ダウンロードしたんだけど、何でこんなに高画質でサクサク動くの?それが一番の驚き。smallでフル画面にしてもきれいだし。
■ ボーリング・フォー・コロンバイン |
Date: 2003/09/25(Thu) 23:48 |
この間の大河ドラマで、巌流島でマトリックスばりのタイム・バレット(苦笑)があったそうだ。再放送を見てみよう。
どうでもいいこと
映画をほめるのに、単なるパクリを何でもオマージュとか言うな。
今では、ドキュメンタリーがあるがままの事実を撮るだけとか、撮ったままをそのまま繋いでいるなんて、まさか信じているナイーブ(莫迦)な方はいないと思うけど。
このような確信犯の映画を、どう思うかが第一の問題であり、それを是とするかが第二の問題。で描かれたことを観た己自身がどう思うかが第三の問題。この三つを同じと考えるのも良いだろうし、相対的な批評が好きな方は映画と事実は別ものだからと安全地帯からほざくのもよいだろう。
まあ良い映画でしたといえば済むことなんだけどさ、でも最後にチャールトン・ヘストンのところに行くシーンは要らないよね。あそこがないと映画としてはオチがないことは確かだけど。無理矢理言わしているインタビューみたいでヤだった。あんなことをしなくとも、コロンバインの犯人たちの個人像に全く近づかずに銃社会についてアプローチ出来ているのにね。マイケル・ムーア自身が出演して進めていく構成が、ここでは逆に首を絞めたようだ。ユーモラスに進行するためのデブのオッサンだったが、ラストにどうしてもVS悪の象徴みたいになって、善VS悪みたいなハリウッド的なわかりやすさに陥ってしまったのは、策士策に溺れるというやつだね。
そんな分かりやすい構図や対立を煽るのがこの人のやり方じゃなかろうか。ケンカ殺法としてはオモシロイのだけど、非常に誘導的でもあるね。それに乗るか乗らないかじゃないのかな。私はあまり乗れなかった。ダラダラ描いていて最後にああいう風に持っていくのはねえ。そのために所々にライフル協会を小出しにする構成を作っているのは気に入らない。最初に結論ありきなところが正義漢めいている。
どうしても取り上げている題材が過激だというところだけに目がいくが、これは典型的な欧米型のドキュメンタリーだと思う。マイケル・ムーアはアカデミー賞のスピーチでも、フィクションVSドキュメンタリーについてのレトリックなんかを使った内容を喋ったけど、ある意味まともで伝統的なアプローチの人だと思うよ。ユーモアにしても内容はともかく、センスがちょっと古いんじゃなかろうか。だってこの映画が1973年や1980年に作ったと言われても違和感無く納得すると思う。ドキュメンタリーの作りとしては新しさはない。NHKの番組とかに慣れていると、あの早さが特別に思うかもしれないが、アメリカだとあれが普通だと思う。余韻を残さない編集と音とうまくタイミングを合わせるところなど。
ロングランとかしちゃったから、細かい点が気になるのかもしれない。けれど911が無ければ、山形でしか上映されないんじゃないのか。それほど刺激的な映画を作る人ではないと思う。
■ ピストルオペラ |
Date: 2003/09/21(Sun) 23:06 |
DVDにて。
冒頭いきなり、ふっくらとしたジュリーのアップが、画面いっぱいに。「ああ、スタンダードじゃないか」とちょっと驚く。映画館に行かなかったのは、予告を観て『カポネ大いに泣く』の記憶がよみがえったからでして…。でもDVDで観た本作は面白かった。ただ劇場だったらいたたまれない気分になったかも知れないなあ。
その意味じゃ鈴木清順はまさに撮影所付き巨匠なのだろう。自分のやりたいこともわかっていて、セットの作りやキャメラの位置も読めてしまう。ただ予算が無くともそれを誤魔化し回避する術を使わない頑固さがある。
だから観客は、必然的に日活以後のすべての作品に対して、日活の撮影所のシステムを使って作ったらどうなっているかを想像しながら観なくてはいけない。ロケセットであろうと、ホリゾントだけのスタジオだろうと、そこに木村威夫が作ったであろうセットを想って観ないといけない。これは観客の義務なのです。ありとあらゆる画面に日活時代のあの硬いフジカラーで日活スコープを幻視しないとならない。そういう意味じゃDVDは七難隠すちいさなスクリーンですな。
前田米造の色の濃さと昔ながらのシャープな照明は良かったです、被写体のテカリ具合が人工的でなかなかヘンな感じが良く出てました。
江角マキ子のタッパがあるので映えますな。清順映画のヒーローの格好良さとヒロインの強い部分がうまく溶けあって、無国籍な感じが出てたと思います。続・殺しの烙印にしては宍戸錠がでていなかったのが不思議です。なぜ足の短い平幹二郎だったのか。
やー『カポネ』は観直したらおもしろいのかな?
「ドラッグは世界をいかに変えたか―依存性物質の社会史」
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/439348522X/ref%3Dpd_sim_dp_1/249-2424796-2165904
ドラッグというものを広く読みとると、アルコール、コーヒー、タバコ、茶、コーラ、チョコレートも含まれる。これらのものはなぜか西洋に受け入れられたものだけが世界に広まっていくという歴史を辿っていた。その依存性の強さと流通の不可解さを社会学の方面から読んでいくものだが平易な内容として書かれているので、読み飽きることはないです。
そもそも少数民族の秘薬として使われていた依存性物質が、西洋人に発見され栽培され(ただ大半が土地をダメにするほどチカラの強い植物)、はじめは非合法に広まり次は合法になって代わりに税を課されるようになり、そして大企業が乗り出し、人口に膾炙するために甘味を加えられたり、広告で格好良さをあおられて、人々をさらなる依存性の高い物質へのと導く(強いべつのドラッグへの抵抗を無くし手を出しやすくする)。
依存性の物質は、社会的に学習しなければ摂取しないものだと言う。麻薬同様アルコールやタバコにしても好奇心がないとやらないし、習慣性を持つこともない。その伝だと、朝の出勤前にコーヒーを飲んだり、紅茶に砂糖を入れて飲みやすくするのも、健康やリラックス云々というが、単なる依存のバリエーションに過ぎない。
この例に習うと、いずれプロザックやいわゆる合成麻薬も、依存性物質として認知されていくに違いないと思われる。逆にタバコの次にアンチドラッグの標的になるのはなんだということにもなる。
そして、いまのグローバリズム経済体制のなかでは、新しくファースト・フードという高脂肪食品への依存があるだろう、作者は「近代資本主義の奇妙でいやらしい特質は、ある種の商品やサービスで私たちの感覚を欺き、次には損傷に対処するために別のものを売って、そもそも問題を起こした原因をさらに消費させる能力にある」と看破し、さらに他の文献からの引用で、「ダイエットこそ高度に完成した消費形態なのだ」と述べる。うーん。あのMc社ともうひとつのMS社が思い浮かぶ。両者は依存資本主義においては同一なのね。
今どきなキーワードの「癒し」は、実は依存症に置き換えると、また別の様相が見えてきて興味深いです。
■ ストーカー |
Date: 2003/09/18(Thu) 23:09 |
犬は出てきません。
DVDにて。
ロビン・ウィリアムズが悪役をやったという作品。監督はPV界の有名人らしいですな。40歳代で70年代の暗い映画にしたかったと言っていた。
郊外にあるスーパーマーケットの一時間現像の孤独な店員のロビ公は、裕福で幸せな家族をストーカーする。
家族の色彩はカラフルで標準レンズ、マーケットは、白く虚しく明るく広角レンズ、ウィリアムズのまわりは暗く、孤独を示すために望遠レンズにしたというが、公式的すぎる、確かにマーケットの照明はおもしろい(『ファイトクラブ』と同じ撮影)。だがこの公式から外れた屋外の撮影は悲惨、フィルターでつぶして非現実感を出そうとしているのだが、よく見えないだけ。んならはじめからシナリオでシーンを変えれば良いのにねえ。
家族のスナップ写真がカラフルすぎて気色悪い。色がたくさんある=楽しい=幸せ、という公式はどうかと思う。ケバケバしいPV的な発想だ。で思ったんだけど、このレインボーカラーの使い方はゲイ関係の人じゃないかなあ。どこにも書いてないけど、ヒゲ面で黒い襟の無い服だったり、プロデューサーが『ベルベット・ゴールドマイン』『ベドウィック・アンド・アングリーインチ』なんだよねえ。
ロビ公もねえ、ロビ公で無くてもいいんだけども、ロビ公がやるから映画として商品価値が成立するようなものだし。喜劇人が悪役やればそれなりにおもしろいのは自明だし、それ以上の捻りが欲しいところ。まあ最後に理に落ちる卓袱台ひっくり返しがあるし…。(それが彼が悪役を受けられた理由だけどね)
でも観るとおもしろいです。なぜか日本のアニメやキャラものがたくさん登場したり、金持ちはMacG4でベンツ乗ってブランドもの着ていて、ロビ公は銀縁めがねでダウンタウン(下町)のぼろアパートで中古の日本車というベタな描き方の、風俗描写が正しいかどうかは別として細かい部分が結構好き。
照明をマーケットの白い壁に合わせ、ウィリアムズのメイクをレッドネックの赤ら顔にしたのは、大したものです。スターをこのように撮るのは普通これはタブーじゃないのかな。
http://www.foxjapan.com/movies/onehourphoto/home.html
■ KILL BILL Vol.1 |
Date: 2003/09/14(Sun) 14:03 |
観ましたあ?新しい予告編。前のやつよりビミョーに水増ししてます。
GOGOユーバリの腰の入ってないアクションあり。
http://movies.yahoo.com/shop?d=hv&id=1808404742&cf=trailer
■ ブラッドワーク |
Date: 2003/09/13(Sat) 17:53 |
近所の郊外型電機店が閉店となった後に、一ヶ月経たないうちにレンタルビデオ屋になったので懲らしめに行く。二階建てでレンタルビデオ、CD、ゲーム、中古販売、新刊本、ハード機器など買い取り販売、……うーん私の行動範囲のかなりをカバーしているなあ。昔からあるなぜかスチュワート・ゴードンが全部揃っている、いつ行っても店主のオヤジが備え付けの麻雀ゲームをやっている、やる気のない店が無くならないか不安。早く借りなきゃ。ということで開店記念で一泊二日一本10円セール中なので、せっせと借りて、とりあえず個人使用目的で××する(〜♪)。10円なら借りてもいいかなというのを選んでいるので、何を借りたかはナイショです。
とは言いながら、
『ブラッドワーク』DVD。
特典のメイキングはネタバレしているので、本編を観終わった後にどうぞ。
おそらくハリウッドで、ということは世界中でと同じことだが、一番自由に映画を作っているイーストウッドの選んだ美学は、役者の顔に影を落とすことで、作り物のウソくささを回避する画面作りだった。
それはアメリカではインディーズ映画、一度は映画の黄金期を迎えたことのある国では、リアリティの追求として当たり前のことだけど、メジャー映画会社の重役が見たら「顔が見えんじゃないか!」と卒倒するだろう、彼らの地位とアイデンティティを崩壊されるに十分な爆弾だ。
かつての撮影所システムとしては常識ですけど、このようなアホらしいことが、現在ふたたびハリウッドでは起こっているような気がする。ようするにきれいに照明を当てて、露出を絞ったシャープな映像を作らないと商品にならないということ。まあそのお陰でいまも黄金期の映画をDVDで美しく観られるわけではあるが。もっともその反発がアメリカン・ニューシネマへと行き着いたわけで。
ヨーロッパ型自然光照明がハリウッドをも席巻したのは、ネストール・アルメンドロスやヴィットリオ・ストラーロなどが輸入された1980年代だったが、シネコン、DVDソフトの普及やCGとの合成やCM、PV出身の商品撮影に長けた者たちの進出によって再び、映画=商品価値(コンテンツ(笑))の考えが幅を利かし出したように思える。
イーストウッドは映画の完成度のために照明の数を減らした。(低予算のためではない、…たぶん)。
撮影にいつものジャック・N・グリーンではなく、彼の照明技師だったトム・スターンを抜擢している(これがデビュー作で次作の『ミスティック・リバー』も担当)のにも理由がありそうだ。調べるとグリーンとのコンビは解消したようです。
いまのイーストウッドの求める暗さは、『ペイルライダー』のころのブルース・サーティスがつくり上げた闇とはまた違う。外光と区別がつかないほど自然なライティングを駆使したものだ。それでいながら画面がのっぺりしないのは、役者の顔に影を落としているためだ。その試みはほぼ完成したように思える。また廃船のシーンでの暗闇の照明とも、違和感なくうまく繋がっているようにも思える。さりげなく美しい画面を作れるセンスは、他に誰も思いつかない。
まあ老齢のために走れないので、アクションシーンはカット割りが細かくなり、リズムが性急になるという難はあるにせよ(スタント・コーディネーターは懐かしや、子分のバディ・ヴァン・ホーンだ!)、クルマを散弾銃で撃つシーンは、あまり興味のないはずのアクション描写も少しは巧くなったのねと思えた。
またマーケッティングのために、人口の多いヒスパニックを取り入れたりする潔さもあいかわらずだ(特典映像でヒスパニック系の役者によるスペイン語のインタビューがある)。商売人と政治家と映画監督と俳優のバランスが取れている珍しい人だねえ。
相変わらず卑怯に突然、相手の背中から撃つし。基本的に受け身なのだが、それでいて相手を必ず出し抜くゼッタイに正しい男だしね。イーストウッドと誰かが会話するときの切り返しでは、目線の切り返しではなく自分の背中を入れ込むという謙虚なんだか出たがりなのだかわからないカットが目立つ(要するに後ろ姿が多いのです)。
そんなことはどうでも良い。ドーナッツをむさ苦しい三人の男たちが食べるシーンを、こんなに魅力的に描ける人を私は知らない。役者の演技を引き出す無駄のない演出力は観ていてうっとりとする。特に引いた構図で複数人が演技するときなど、「映画だよこれが」と当たり前のことを再認してしまう。手の動き、ちょっとした仕草や間の取り方で、一歩間違うとステロタイプになる貧乏さや黒人、メキシコ人、アジア人の描写が、それを奥行きの深いものに変わる手腕に唸る。
原作本の『わが心臓の痛み』を先に読み終わっていたけど、映画の方は後半ストーリーが変わっています。良き脚色だと思います。
メイキングでは、本編にない会話が出てきていたので、かなり無駄口をカットをしたよう模様です。それでも2時間あるのですなあ。ストーリーを追いかけられるぎりぎりの省略ですね。映画で意味がわからなくなって、あっさりと描かれすぎているなあと感じる部分は、ちゃんと書き込まれています。FBIプロファイラー対連続殺人鬼というちょっと前の流行りの設定であるけど、後半に明かされる非情なテーマのお陰で陳腐さを免れています。
■ ウインド・トーカーズ |
Date: 2003/09/11(Thu) 01:11 |
レンタルDVD。
おもしろいです。公開当時は反戦厭戦ムードでなんとなく観に行かなかったけど、まぎれもなくジョン・ウー映画。戦闘機も戦艦もCGなのだけど、派手な爆発、血まみれのバイオレンス、M4カービン・ライフル銃でなくM1トンプソン・サブマシンガンとコルト・ガバメントでやたら撃ちまくる格好良さ、まさにジョン・ウー印が満載です。
最近の戦争映画では久しぶりに、小隊のメンバーの顔と性格が描き分けられているのを見たよ。ってレベルの低いハナシですね。出撃前のポーカーの試合のシーン、わずか5分ほどの尺だけでさらりとやってのけるところが頼もしい。シナリオはあまり分かり易くなくメリハリが無いです。それに手を入れ、演出でドラマチックさを失わないように持ってきたのは大したものです。登場人物たちの葛藤と友情、対立と和解、そして次の対立という古典的なドラマツルギーがすこしも古くなっていないことを改めて証明してくれます。
『MI:2』が無かったことにすれば、ジョン・ウー健在です。戦闘シーンの丹念なカット割りはいつも通りの職人芸ですが、他のシーンは時間が足りなかったのでしょうか、ちょっと急ぎ足で撮っている感があります。距離の離れた場所のカットバックがいまひとつピンとこないのですね。なので戦争映画に欠かせないスケール感がでてこないのです。
撮影は、黒味を強調してカラーを派手にして艶を落とし画面をざらつかせる、当時のカラー記録映像を巧みに再現しています。『プライベート・ライアン』のただキタナく彩度を落としただけの映像とはひと味違います。
クリスチャン・スレーターは儲け者のオイシイ役です。ニコラス・ケイジの人物設定は難しすぎるねえ。演じられる人はそういないだろうね、説得力をもってよくやったと思うよ。『PayCheck』はちゃんと劇場に行きます。
■ アカルイミライ |
Date: 2003/09/05(Fri) 01:45 |
ヴィデオにて。
ごめんよ、わかってて観る私がすべて悪いのです。しかし安い映画だなあ。その安さを隠そうとも努力しないところが、客をナメとんのかという代物。
すごい低予算というのはもわかるけど、そのために同時で回して、アップ用にDVの画をはめ込むというのは如何なもの。一体全体どこにカネがかかっているのかわからん。レンズに水滴がつくようなカットをNGにもせず、人留めのスタッフの映り込むタイトルバックを延々と流したりするのはどうなのかねえ。撮り直しもせずに、そんなところで時間を稼いでみても仕方ないのに。ビデオは回してなんぼのものだろうが。
これなら16mm撮りでブローアップしても、フィルムレコーディングとカネは変わらんと思うんだけど(まあキャメラ、テープ、ポストプロダクションがタダというのならハナシは別だが)。
レンタル・ビデオで観てもキタナイ映像だなあ。劇場で観なくて良かった。
素晴らしく陳腐で退屈で抽象的で唐突で、登場人物が自分の思っている観念と感情をセリフで説明してくれるしてくれるシナリオ。「君たちを許す」ってなんだよ。
アラン・レネかと思ったよ、ホント。
相変わらずリアリティが無いよねえ。刑務所でバイト仲間が接見できたり、椅子や○○があったり(ストーリーばれになるので書かないが)、百歩譲っても、2時間サスペンスじゃプロデューサーに絶対に突き返される都合の良いウソが多すぎ。アイディアが足りないというしか無い。それを回避するのがプロの仕事だろうが。
『ニンゲン合格』とおなじく平坦な筋の運び。普通のプロデューサーだったら、時間をバラバラにしてサスペンスを中心に全体を組み直すと思う。最初の10分で客は帰るよ。
あと私はオヤジだけど、大学、高校生がこれを観てどう思うのかを知りたいね。こんな風にサラリーマン週刊誌のように、断罪されて腹立たないのか?
あれでしょ、最後の藤竜也は、オダギリジョーが歳を取った姿でしょ。前のシーンでは○○なので、でなきゃ辻褄が合わない。
象徴はあれこれ解読するのは馬鹿馬鹿しい(というか破綻している)。
ただ今回観ていて、黒沢清映画の「指示する者」と「指示される者」の関係で物語を動かそうとする構図がはっきりしてきた。
「指示する者」は虚ろだがカリスマ性、誘惑する力があり、世界の法則を変えようとするが、自滅するマッド・サイエンティスト。「指示される者」は、だいたいがまじめで無垢な学徒。で最後に彼が指示する者を引き継ぐ。平行して彼らに反発して隠れて独自に世界の法則を解こうとする者たち(集団)がいて「指示される者」を誘惑する。彼らはだいたい最後までうまく絡まないので、途中で構図を読み解きながら観ていると物語がわからなくなる(そうでなくともか?)。
そして一番周縁にいたと思っていた「指示される者」が実は中心人物であったというのがオチなわけで、彼らの行動の規範は「指示する者」が「指示される者」から指示されるというのが、「指示する者」の「指示される者」への指示なわけで、そのように、どちらとも取れるダブルミーニングとして作ってあるので、彼らの論理の中で突如ヘンな方向に物語が進んだりするので注意がいる。
さらに複雑なのは、登場人物の役割が、なんの説明もなしに途中で突然入れ替わり、急に人格が変わってしまう。それは言い換えれば人物造形、性格設定をしていないから成り立つのだが。あるいは、みんな操り人形で、同じ人格だったりするからだったりもする。
まあ最後までその調子なので、当然観客にはカタルシスは訪れない。訪れるのは監督だけだ。
わかります?
つまり、コインを投げて勝負を決めるときに「表が出たら僕の勝ち、裏が出たら君の負け」と言っているようなものです。
■ わたしじゃない |
Date: 2003/09/03(Wed) 10:40 |
繋がらなかったのはサーバ元のせいです。
新たにblogがタダで作れるようになったみたいだけど、工事案内のメールも来てなかったし…。
まー大した更新もしてなかったんで、ご寛恕ください。
■ 昨今の見もの読みもの |
Date: 2003/09/02(Tue) 00:42 |
「ブラッドベリがやってくる−−小説の愉快」
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4794962568/qid%3D1062430389/250-5161227-1539454
これを読むとレイ・ブラッドベリが短編作家であることがよくわかる。彼の好きなことはアタマのなかにすでに存在していて、サーカス、バック・ロジャース、屋根裏部屋、図書館、闇夜、小人などなどが、ふとアイディアが浮かび机に向かうと、それらが無意識のなかから現れてが彼に書かせる。だから作家のテイストはいつも充分に味わうことができるが、言い換えればいつも同じと言うこと。都築道夫が「独特の美文にさいしょは夢中になったが、じきに飽きてしまった」というのもわかるような気がする。だけど創作術について書かれた「禅と小説」はおもしろいので立ち読みでも。
「いまの時代でも、いつの時代でも、もっと「創造的な」作品が、書かれて、売れてもよいのではないか。思うにおもな原因は、私が論じたような仕事の方法を知らない作家が多いからだろう。「文学的」と「商業的」の二分裂で考える癖がしみついているせいで、中道路線にはレッテルを貼り忘れ、ろくに考えもしなかった。それこそが、誰にでも適当で、気取り屋も売文業者も、気持ちよくストーリーを生産していける創造プロセスなのだが。いつもの癖で、われわれは二つの名前がついた二つの箱に何でもかんでも押し込んで、それで問題を解決した(つもりになった)。どっちの箱にも入らないと見られたものは、どこにも行き場がなくなった。そういう頭の切り替えないかぎり、作家たちは自縛を解けずにいるだろう。」
よく見に行く、本読みHPの読みもの「新潮文庫の100冊を選び直す」が大笑いです。私もやってみようかしらん。
http://www.ne.jp/asahi/ymgs/hon/yomimono_folder/yomimono16_shincho100.htm
NHKの語学番組は、先物買いアイドルを眺めるだけじゃなく、あまり見られない来日した英語圏以外の映画俳優、監督のインタビューがあったりする。
中国語講座で『藍色夏恋』の主演の男女がインタビューを受けていた。青年は台湾のジャニーズ系な顔立ちだけど、話していることがしっかりしていて、長髪でどこか野性味のあるところがよかった。映画も観たくなりました。再放送とかあると思うので興味のある方はどうぞ。
http://www.natsukoi.net/
■ 少しは外で運動しろよな(自己レス) |
Date: 2003/08/28(Thu) 01:23 |
最近、書き込みがオヤジの繰り言めいているけど、開き直って続けます。
NHKBSで『明日に向かって撃て!』のオープニングだけ観る。(まだちゃんと全編観たことはない)プロデューサーにポール・モナシュの名前。…誰だっけと検索してみると、ああそうか『キャリー』のプロデューサーか、と思い出した。で、フィルモグラフィを読むとすげえヘンな人。
テレビ初期の大ヒットソープオペラ『ペイトンプレイス物語』を書いていると思うと、1958年にはドン・シーゲルの未公開作品の『GunRunner』(『脱出』のリメイクのリメイク)とオーソン・ウェルズの『黒い罠』のシナリオ。『スローターハウス5』、『フロントページ』、『ゴースト・ハンターズ』の製作、テレビシリーズではトビー・フーパー(キング原作)の『死霊伝説』、宇宙人モノの『V』も書いている。うーん。
http://us.imdb.com/Name?Monash,+Paul
また過日BSで『浪花の恋の物語』最後だけだが思わず観入ってしまった。「終」が出たあとで、そのままスタッフキャストの紹介が無く次の番組へと変わってしまって唖然とした。
だって、中村錦之介、片岡千恵蔵、田中絹代、監督・内田吐夢だぜ。どーゆーことなのかねえ。日本映画は年寄りだけが懐かしがってみれば良いのか?ま、今回だけなのかな。
自分のゆがんでいるのは性格だけだと思っていたのだけど、どうも骨盤の位置がズレているらしいことが判明。いまの状態が普通だと思って40年近く身体の異変がわかっていなかったことに愕然とする。疲労しやすいとか体調面で当てはまる節が多いことにあらためて気付く。ストレッチに励む日々。皆様も気をつけて。…性格も歪むからね(>そりゃ逆だろうが)
http://health.lycos.co.jp/library/3000/w3000452.html
■ 泳ぐひと |
Date: 2003/08/27(Wed) 12:12 |
録画しておいたのを観る。アメリカン・ニューシネマの本を読むと必ず『イージーライダー』『明日に向かって撃て』『卒業』『俺たちに明日はない』『バニシング・ポイント』と並んで出てくるのだが、一向に上映されない一本だった。
やー久々に文学している映画だったなあ。教科書通りの直喩暗喩に図式的な人物像の配置と科白。まじめな映画とはこういうのを言ったものだけど、奇を衒うやり方もまじめ。悪いことではないけど古いよね。
こういう流れがあって、映画の表現が崩れていく方向に進んだわけだけど、今は別にそんなことを知らなくても良いのだから、ニューシネマ自体が、逆にキャンプユーモアに感じてしまうのではないでしょうか。
モンドDVDブームをみているとそう思う。
昔はニューシネマが日本に来るとATGになっちゃう訳だから、まあそれほど状況は変わらないかな。
いまの感覚だと、バート・ランカスターは××××から××してきて、あそこに現れたとしか思えないのだけど、当時はエトランゼが偽善を暴くという評価だったんじゃなかったかな。
その辺りが郊外の崩壊であったりヒッチハイカーの絶滅だったり、放浪者あるいはホーボーのとらえ方の変化が興味深いです。または疑似家族としてのコミューンとマンソン・ファミリーの衝撃か。
あと××××が70年代までは無辜の人間を抑圧する施設という神話がまかり通っていたと思うが、(これ以上はネタばれになるのでやめます)。
観ていないのですが『成功の甘き香り』を揶揄していたりするんでしょうか。同じ主人公だし、経歴も似ていそうだけど。
あと字幕で「妻がヴァッサー出身」と出ていたのはワルシャワのことでは?ポーランドと言っていたし、違うかしらん。
■ 納涼シーゲル大会 |
Date: 2003/08/24(Sun) 13:17 |
『スペインの出来事(未)』、『テレフォン』の訳をしました。
原作の「テレフォン指令」(早川のソフトカバーのノベルズ)も結構面白いと思うんだが、ウォルター・ウェイジャーは名プロデューサーとは別人。『ダイハード2』『合衆国最後の日』の原作とか、二見文庫でよく見かける人。アイディアはなかなか工夫している人です。
シーゲル本人から言われるとそう思うんだけど、絶対に設定に無理があるよね。でもふつうはバカ映画になるのだけど面白くなるところが演出力ですな。この手のストーリーについてこれない人は映画を観てはいけないと思う。なんか他のことでもやった方がいいです。ブロンソンとレミックが謎解きをしながら遠くから歩いてくるのを望遠レンズを使ってワンカットで捉えたシーンには痺れました。ドナルド・プレザンスも憎々しくて良かった。未観の方ぜひレンタル(あるいは中古)ビデオで。
個人的には、スパイや秘密組織、超能力や不条理に人を操る能力が出てくる映画や本が好きなんですな。『スキャナーズ』、『フューリー』、『炎の少女チャーリー』…。あとなんかあるかな。お薦めがあれば教えてください。(『北京原人』はどうなんだという考えもあるが、ありゃコメディだからなあ)
こんなメールマガジンの記事を読んだ。イラクの後方からの支援物資は経費削減のために入札民営化で企業が委託して運んでいるが、それが治安悪化のために機能していないというという。自衛隊はアメリカの企業の下請けをやるのだろうかね?
http://tanakanews.com/d0823iraq.htm
■ paycheck |
Date: 2003/08/21(Thu) 23:58 |
ジョン・ウーの新作はPKディック。主演、ベン・アフレックとユマ・サーマン。公式ページは無いけど、予告編は転がっているので検索してください。でも予告編つまんないんだよね。
どう考えてもちょっとなあな企画ですよねえ。うまくアクション映画になっていればいいんだけども。
ジョン・ウーが冷や飯食わされるハリウッドってどーよ。彼以上の濃いアクション映画撮れるアメ公(註:差別発言)はいないのに、なんで大作担当にされてしまうのだろうか。たぶんウーの企画は通らないのだろうな。ジャッキー・チェンもね。アメリカ人の口に合う、テイクアウトのチャイニーズ・ヌードルの料理人とでも思っているのだろうか。
せめて『ブロークンアロー』とか『フェイスオフ』のような、葛藤のあるストーリーならいいのになあ。ちなみに小説は短編で日本語題は「報酬」だそうです。
そういえば、彼を呼んだのもサム・ライミだったよね。
ユマ・サーマンもニコール・キッドマンが下りたテリー・ギリアムの『グリム兄弟』に出るらしいじゃん。よく働くねえ。というかニコール・キッドマンって、次々と映画をキャンセルしているんだけども、なんでバッシングを受けないのかな。マドンナやジェニファー・ロペスならめちゃくちゃに言われるじゃん。
トム・クルーズごときに捨てられたというのが世間の同情を買うのでしょうか。
■ ズーランダー |
Date: 2003/08/18(Mon) 10:30 |
ヴィデオ、日本語版吹き替えにて。オマケの特典映像、主役のファッション・モデル、ズーランダーについてのフェイクドキュメントをテレ東の「流行通信」チックに遊んでいるのが面白かった、以上。
…では芸が無いですのでちょっと書くと、男性スーパーモデル、デレク・ズーランダーが、黒いファッション業界の利益のために、子供たちを廉価な下請け労働から守ることを公約に掲げたマレーシアの首相を暗殺するように洗脳される。モデルは殺し屋としては最高なのだ、なぜなら彼らは有名人に近づきやすいし、言われた通りにしか動かない、もっとも重要なことは彼らは何も考えないバカだということだ。
というアイディアはちょっと惹かれるでしょ。でもさあまりにゆるゆるで泣けてきたよ。全然笑えないの、(悪のファッションデザイナーの前歴はちょっと笑えたが)、ホントこんなんで良いの?とゆーかさ、これはApple社の予告編サイトに死ぬほど転がっている、日本では絶対に公開されない類のアメリカの典型的なファミリー向けコメディじゃん。素晴らしく、登場人物たちが状況と展開を全部説明してくれるので予想が付きすぎて笑うタイミングもない。しかもこんなオイシイ状況なのに下ネタもホモネタもないのだ!まあアメリカ人ならこれで良いのかもしれんかもなあ(註:差別発言)。
思うんだけど、さいきんの米国製喜劇って、主役が格好良く知恵遅れ的幼稚な設定(だけど正義感あふれるイイ奴で純情なので最後にはすべてうまく行く)、敵は単なる間抜け、という構図が多い気がするんだけど。つまんないビートたけしのギャグにお愛想笑いするたけし軍団のようで気持ち悪い。コメディの主役は、バカで子供のように邪悪で破壊的じゃないとアカンのよ。お子さまの一面しか捉えてない偽善的なキャラばかりでさ、しかも自分は全くカラダを張らないし、芸を見せない(持っていない)とんねるずのようなもんだ。客に「バカだねえこいつは」と笑わせるんじゃなくて、「おバカやってるんだわ!笑わなくちゃ損よ」と笑わせてもらうんだというフザケタ価値観を植え付けた奴は誰だ!
どさくさまぎれに書くけども80年代音楽の使い方も最悪、面白くも何ともない。好きで使っているのかバカにして使っているのかさっぱりわからない。ジョルジオ・モロダー、シンセサイザー・サウンドの千本ノックを受けて来い!
『マトリックス3』の公開が、水曜で日米同時って、↓の陰謀説が真実味を帯びたと思いませんか?
■ ジョン・レノンの僕の戦争 |
Date: 2003/08/14(Thu) 21:39 |
ふと夜中に眼をさまし、ああそうだと思いNHK−BS2をつけたは良いが、最初の1時間を見逃していたからなのか、あまりにもどぎつくシュールなので魂消た。
ストーリーは小林信彦の「世界の喜劇人」でわかっていたけども、それを越えていた。うーん笑いの救いのない風刺だけのモンティ・パイソン(しかも絶対にテレビ放映できないモンティパイソン)でした。
例のペンキを塗っただけの兵士の幽霊もすごい。あんな極彩色とは思わなかった。それが淡々とクリケット場をつくるために無駄死にする部隊に無言で自分が死んだのも知らずについてくるのだから、なんとも言えない。しかも編集がぼんぼんシーンが飛ぶし、突然登場人物がキャメラに気づいて「撮るんじゃない」と叫んだりするわ、ドイツ軍とイギリス軍の下士官が友好的にお茶を飲みながら両軍の戦闘を眺めてお喋りしたり…。半覚醒のまま、とりつく島もなくとりとめもなく映画は終わった。おかげでバッドトリップで、いまも調子悪いのです。ちゃんともう一度観なきゃ。
リチャード・レスターの作品は職人芸には唸るのだけど、気合いの入った『ナック』もなんか寝ちゃったし、ストーリーをわざと放るときがあって、そうなるとついていけない部分もあるなあ。いやスゴいんだけどね。戦争を題材にしていまもあれだけ論理的、倫理的にめちゃくちゃできる人ってそうはいないよ。でもDVDも出たばかりなのに放映するというのはどうなのかなあ。私はありがたいが。頑張って売る方は痛手じゃないだろうか。まあ見逃した方はDVDでどうぞ。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B00009AUVK/ref%3Dd_bb_1_90/249-1149819-1022743
■ マトリックス陰謀史観&「エンパイア」 |
Date: 2003/08/11(Mon) 22:56 |
どう考えても納得のいかない、『マト2』だけど、これってさあ、マイクロソフトのOS戦略みたいなもんじゃないの。ようするに、新しいOSといいながらその実は前作のバグフィックス版にしか過ぎないってこと。今回のだって、無理矢理アップデートしたつなぎのwindows2000みたいなもんじゃない。本当はクライマックスにはザイオンの大虐殺シーンがあったのだろうが、ジョエル・シルバーは『二つの塔』のオープニングを観て、『マト3』のアタマにつけようと決めたと思うね。だから今回のは『マト1.5』で次が本当の『マト2』だということ。統合するといいながら肥大していくwinOSのように、爆発とバイオレンスは増えるが、『リーサル・ウエポン』シリーズのような無神経な殺人コメディ路線にはいかないだろうから、『ソード・フィッシュ』のようなアタマデッカチな尻つぼみなカックン映画になるんじゃないかねえ。汎用的なLinuxのごとき『ロード・オブ・ザ・リング』には対抗できないでしょうしね。まあ古いソフトとの互換性がないAppleのOSXような『スター・ウォーズ』シリーズにも困ったものだが。
「エンパイア」http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4163591001/qid=1060607474/sr=1-31/ref=sr_1_2_31/249-1149819-1022743
バブルの時代、アメリカのシンボルが次々と売り出された。そのときエンパイアステートビルの所有権という不思議なものも売り出された。これは、テナントの賃借権とは別のもので、手元にはカネは入らず、ただ「このビルを持っているんだぜ」という一種の見栄なもの、ゴルフ会員権のようなものといえばわかるでしょうか、そういう商品なのだ。さてそれを手に入れたのは誰か。横井英樹だった。それも異端の金持ちはこっそりと買ったために、バブル崩壊後その権利の売買を巡って実子庶子を含む一族の骨肉の争い、ドナルド・トランプをはじめとするニューヨークの不動産王たちとの争いが始まる。多大な犠牲とカネと時間を費やしたこの闘いの終わりは虚しいものだったことだけは書いておきます。
これはノンフィクションであり、半端なフィクションよりはるかにオモシロイ。途方もないエゴの固まりの人間の剥き出しの争いは壮絶です。筆もニュージャーナリズム的ではなく、すべての登場人物に距離を置いて取材しているので、日本についても経済社会情報についても的確だ。それにしてもすべての騒動の種であり、彼のカネの出所はあのホテル・ニュージャパンの土地というのはなんとも象徴的ではないか。そして融資元は潰れた千代田生命。911のあとふたたびニューヨーク一高いビルとなったエンパイアステートビル。驚くことにテナントのほとんどは小さな会社事務所の集合する雑居ビルだということ。結局変わらなかったのはそれだけだという皮肉な事実。
そういえば横井英樹を見たことがある。夏の軽井沢プリンスのラウンジで、悪名高き千円のティーパック紅茶を飲み終え出ていこうとしたら、有閑マダム然とした女性と話し込む蝶ネクタイにオールバックの小柄な老人がいた。少し経ってから気付くほどその印象は薄かった。ちょうどそのころは裁判の公判中だったと思う。まあ彼の執念の人生と人柄についても詳しく書かれているので「つわものどもが夢のあと」な話が読みたい人にはお薦めです。
■ 『続・荒野のガンマン』 |
Date: 2003/08/10(Sun) 00:51 |
初見です。タランティーノのオールタイムベストテンに『リオブラボー』と並んでいつも入っている作品。昔、イーライ・ウォラックを知らなくてバカにされた記憶が鮮明にあるのでいままでなかなか観なかった。
オモシロイ。長いけど良くできている。ストーリーも登場人物も練られているし、現代的だ。ハリウッド西部劇が古く見えてしまうのは仕方がないか。まあ今がそういう時代なんだろうね。
■ 「グリーン・ファーザー」 |
Date: 2003/08/09(Sat) 00:28 |
副題、インドの砂漠を緑にかえた日本人・杉山龍丸の軌跡http://www.hikumano.co.jp/booklist/list_bungei.html#16
RKB放送でドキュメンタリーで放送したらしいが、実は杉山龍丸とは夢野久作の息子です。戦前の右翼、玄洋社の頭山満の片腕の、杉山茂丸は息子の久作に福岡郊外に四万坪の土地を買わせ、杉山農園を拓いた。これは、欧州の植民地から独立したあとのアジア各国の人たちに農業技術を学んでもらおうと意図した遠大な計画のひとつだった。久作の多くの作品もそこで書かれた。その後一族は没落していくのだけども、戦後、インド政府から招かれ龍丸は、砂漠の地に作物を育て飢餓を無くすために、ユーカリの木を植えに行く。その課程を龍丸の息子が辿るというものです。大河ドラマのように壮大で感動的な話。中学生にも読めるようにふりがなもあります。
夢野久作大好き人間としてはぜひ一度福岡は訪れたいところですね。ちなみに杉山農園は龍丸の活動資金のためにほぼ全部売り払われてしまった。
■ 夏バテにはエロで |
Date: 2003/08/08(Fri) 00:13 |
『花弁の忍者 桃影 忍法花ビラ大回転』。http://www.tmc-ov.co.jp/taboo7/018/(一応18禁よ)。書くまでもなく中野貴雄監督作品。やっぱ好きだなあ、しょーもないギャグセンス。同世代としてワクワクするのです。細かいところを手を抜かないのがツボでひとつも外さないところがすごい。あれを数日で撮っているというのが驚異ですねえ。
もう一度観てネタバレすれすれレビュー書きます。
なぜかエロチックコーナーというところにありました。にっかつロマンポルノや『バブルと寝た女』とかが置いてある、AVとは違うところだったので、女子も可。(ですがね…)
あとピンク映画、01年の作品のビデオを観たけど、うーん作品の選択が違ったのかなあ。ほぼ20年近く観てなかったから一本だけではなんとも言えないのだが、ここで、私が書くことではないようです。
■ 『フィアレス』 |
Date: 2003/08/06(Wed) 00:18 |
お薦め映画&TSUTAYA半額だったので借りました(笑)。
公開当時に何も知らずに観たら驚いたろうなあ。M・ナイト・シャラマンの方を先に観ちゃったからね。でもオープニングの静かさにぞくぞくしたし、ジェフ・ブリッジスがジプシー・キングス聞きながら窓から顔を出して深呼吸をする辺りも良いな。イザベラ・ロッセリーニも母親譲りの美しさでした。結構微妙なバランスの演技の積み重ねで展開していくので、伏線とか感情の動きを勘ぐりすぎて素直になれなくて損したなあ。事故をフラッシュバックのみにして思い切って音を消したのも大正解で、リアル以上の効果が出てましたね。物語の救いは観る人によって割り切って理解しても良いし、割り切らなくとも良いし、ただそこを淡々と演出したところがニクいなあ。まあ登場人物像がわかりやすすぎるというのはあるけれど、逆に臨死と宗教を曖昧にしたから、神のポジションが前面に出ずに物語として成立したんじゃないかな。
でもブリッジスだと『スターマン』とか連想しちゃってさ、『アンブレイカブル』なことが起きないかとひやひやしたのも確か(>そーゆー映画に侵されてますな)。
J・G・バラードの「無限会社」のことをちらりと思いました。こちらは入り江に不時着したセスナ機のパイロットの話なのだけど、ものすごく美しい幻想小説。もっと寓話的です。
ピーター・ウィアー、アラン・パーカー、オリバー・ストーン、ミロッシュ・フォアマン、スパイク・リー(?)とかなかなか観ないのです。観たらネタがおもしろいんで以外と楽しめるのだけども。映像的に云々というより、描きたいことがあるためには美学的なバランスを壊しても良いと思っている人たちなので、映画としてのカタルシスが得難いから余裕がないと観ないのですよ。(社会派ということですかね)
実は以外と観てない映画リストも作れそうだ。
■ 知ったかぶりでした |
Date: 2003/08/05(Tue) 12:45 |
ハリーハウゼンのドキュメンタリーおもしろかったです。私がエラソーに書いていたことがかなり違っていたことが番組の中できちんとやってました。反省して「モンスターメーカーズ」をちゃんと読みます。
そういえば『死霊のはらわた3』ではガイコツ戦士は出てたね。
■ 梅雨明け暑い、バテてます |
Date: 2003/08/03(Sun) 21:38 |
吉祥寺に出掛けたときに、ライフワーク(?)のあまり見かけない古書の捕獲調査および保護に乗り出して、昔とちっとも変わらない商店街の古本屋数店を探査。並木鏡太郎監督の「京都花園天授ヶ丘 マキノ撮影所ものがたり」http://www.emc.ehime-np.co.jp/books/a072/を発見。ちょっと買いたかったが断念。でもこういう本があることをわかってよかったです。
明日からNHK−BS2にて17時より一週間レイ・ハリーハウゼン特集。実はダイナメーションはよく水曜スペシャルとかで外国の特撮映画というと必ず『シンドバッッド虎の目大冒険』が出てきて、カクカクした動きのモンスターと異常によくできた合成が怖くて観ていないんですよねえ。今回はドキュメンタリーもあるから、レイ・ブラッドベリも出てくるだろうなあ。(アッカーマンは?)
「霧笛」が書かれたのとふたりの交遊はどちらが先だったっけ?ストップ・モーション映画をガレージで作る話も良かったのがありましたね。
でも、SFX映画の時代にストップ・モーションは古くさいと嫌われ、どの監督も使わなくなって、『帝国の逆襲』でゴー・モーションが開発され画期的と言われたが、いまやウチのパソコンですら残像効果付きのCGアニメーションは作れるからね。そうなるとまた職人芸のストップ・モーションの技術と魔力が見直されてくるかもね。
『マーズ・アタック』はちょっと狙いが違うような気もするんだけど。あるいはネライ過ぎだったか。
■ 8月からの模様替えです |
Date: 2003/08/02(Sat) 09:38 |
一応予定通りに、表紙を替えました(中身は同じです)。
更新は、以前掲示板等に書いたものを書き直したり、直さなかったりしたものです。あと久々ドン・シーゲルも。
この形式が良いかどうか、皆様の書き込みお待ちしています。
で、『過去のない男』、吉祥寺ジャヴ50。相変わらず観難い劇場。一番前に座っちゃったよ。
カウリスマキはそれほど観てないんだけど、『浮き雲』を観た時から気になっていたのは、視線で繋いでシーンを作る巧みさ(というか健気さかな)、もさることながら、手の使い方がものすごく上手いことですね。画になるのです。タバコを持つ手、土を掘る手、人に触れる手がすべて格好良いのですね。これに比類するのは、ハワード・ホークスかドン・シーゲルでしょうね。シーゲル映画で男たちが歩く時の手のぶらぶらさせかたは、例外なく格好良い。『ダーティ・ハリー』のイーストウッドと『テレフォン』のブロンソンが同じ後姿だったので「こりゃ演出だな」と思いました。
ハナシが外れましたが、手といえばロベール・ブレッソンになるわけですが、ブレッソンの手はただヤらしく、即物的なんですね。極端にいえばポルノのようなもんです。観察記といったほうが無難かな。
そこが、似たようなスタイルと言われているが、観た後味の差なのだろうかな。
ストーリーはシンプル。やー久々にSFX以外で女性の皺くちゃ顔を観たよ。その伝でいえば、ハリウッド映画に侵されているなと感じたわ。若者は出てこないし、カネのかかったものは何もない。それにも既に違和感を感じる自分がいてしまうことも確かだね。まータキシード着てこれに賞をあげるカンヌも偽善の最たるものだろうけどね。
クレジットで撮影機材アリフレックスBLU、録音ナグラ、編集スタインベックという、アナログ機械が並んで、唐突にスシが出たのと同様に、ちょっとびっくり。
「ハワイの夜」もそうだけど、あまり画と音のシンクロに力入れてないね。音楽は後で選ぶんだろうか。画のリズム優先の人のようですな。ちょっと気になる。
関係無いけど、やたらみんなタバコを吸うけど、食べ物にも困っているのにそんなカネあるのかなあ。それでもクスリに手を出さないのは何故か。値段の違いなのか。誰か教えてください。