過日、池袋文芸坐のオールナイトで観た日本の学園アイドル・ホラーの三本立てはいろんなことを思わせて興味深かった。
「これほどの日本映画ができるというのは、新しいジャンルが形成され全盛期を迎えたように思えるが、じつは日本映画の製作形態がまったく機能せずに瓦解していることを示している例ではないだろうか。これからもこのジャンルは定着するのだろうか」
この疑問をいままで観てきた「和ホラー映画」に則して考えてみた。
まずはその三本ですが、
■『いきすだま 生霊』
(2001 東映ビデオ) http://www.toei-video.co.jp/home/flm/ikisudama.html
■『死びとの恋わずらい』 (2001 アートポート)
http://www.emovie.ne.jp/movie/shibito/
■『富江 re-birth』
(2001 大映) http://www.daiei.tokuma.com/tomie/html/index1.html
ちなみに『案山子 KAKASHI』は見逃しました。
さて、どこからはじめるか。いうまでもなく、これらの作品は映画館で観るためというよりは、ビデオで売るために作られたことは確かだ。したがって予算もシビアであることがわかる。
撮影シーンやSFXの量からみても、予算の順では、『死びとの恋わずらい』>『富江 re-birth』>『いきすだま 生霊』 と思われる。(それに、役者のグレードも併せてるとね)
音響も同様にみると、『いきすだま 生霊』は、全編アフレコで、音響もモノラル。『死びとの恋わずらい』では、同録、ドルビーステレオだった。『富江 re-birth』は同録だけど、ドルビーステレオじゃなかった。
これらの差をどう乗り越えるかが、映画の質を決定するので興味深いところなのだけど、ひとつひとつみていくと、
『いきすだま 生霊』
フジフィルムを使い、フィルターワークとラボの処理で全体の色を押さえ、モノトーンに近くして、現実感を微妙に無くしている。これは、撮影条件が悪いときに天候を統一する苦肉の策でもあるのだけど。池田のような映画育ちだと、間を持たせるために、カメラの回り込みなどが多くなる。下手な役者の演技を持たせるときや、時間経過を稼ぐためによく使われるが、いまやテレビドラマの定番のカメラの動きなので、観ている方が予感してしまって、古く感じて間が持っていない。恐怖演出も、SFXが限られているので、血みどろシーン等控えめだ。重厚な音で驚かせる方法が、『リング』、『CURE』で確立してしまった今では、物足りない使い方になっている。
ドラマの構成が一直線で、恐怖以外の情緒を排除している。いわば身も蓋も無い話ってやつです。中篇二本立てなので、各々それなりの緊張感が出ている。これ以上時間を長くするには、もうワンアイディアが必要なため適当な長さだ。
『富江 re-birth』
ビデオしか撮っていないのに大抜擢だと思うが、そのフットワークが和ホラーを支えているのだとも思う。こんなに誰にも似ていない映画を作る人は久々の登場だ。正統派の作り手でありながら、『発狂する唇』の佐々木浩久、『リング0』の鶴田法男、また黒沢清や脚本家の高橋洋などには影響されながらも、独自の作品になっている。
どこが良いのかというと、基本的にアクションのつながりで物語を進めていくことに、ちゃんと神経を使って演出していることと、カメラの置く位置や動きが的確であって、長回しだと気づかない。これは巧みな職人芸に近い。室内の役者の動きとか、美術、小道具なども全然手を抜いていないのでリアリティがある。それでいながら、「これは映画です」という逃げ方はしない。まだ稚拙な部分もあるけど、上手な監督になりますよ。
ただ、自然光による撮影がいまひとつで画面が暗く見えない。ロングショットの使い方など、そこら辺、黒沢清の影響がいくらかあると思うのだけど、抜け出て欲しい。音楽もゲーリー芦屋なので、全然問題は無い。それを使いきっている。『呪怨』のときも感じたけど、階段の撮り方が滅茶苦茶上手い。どこがって指摘するのはむずかしいんだけどな。
題材が人間心理を生かし切れないので、説得力があるものにはならないが、『富江2』と比べたら、基本的には同じ話なはずのに、最後まで観せる力が全然違う(富江はジェイソンと同じ役回りだから)。ホラーの人物のテンションは現実とは別物なのでわからないけれど、たとえば他の題材でも撮れるのかと言うと、個人的なこだわりの部分が見えないのが、ちょっと気になる。
いまこのジャンルでは、高橋洋ラインと、伊藤潤ニマンガラインがあるような気がする。そこから派生するのが、海外ホラーを演出の基とする路線。黒沢清、中田秀男、鶴田法男ら。手本に忠実になろうとするあまり、怖くなくなっちゃったり、パロディーにしかならなかったりして来ている節はあるが。
もうひとつは借り物路線で、原作マンガのイメージや大林宣彦の身近なところから持って来る、自称<映像派>。海外の技術動向には詳しいが、自分の語るべき映像言語を持っていない。プロモーションビデオ、CM、TV出身に多い。
こういうのってバブルの頃の異業種監督と同じで、他分野からのセンスをいれて違うのを作りたくて依頼するのだけど、逆にガチガチに真面目でどこかでみた映画が出来上がった例に似ている。
では、これらが多様性としてジャンルを形成しているといえるのか。たとえばピンク映画のように絡みがあれば、あとはどのようなドラマの展開をしてもよいという、自由度とは違い、この「和ホラー」は、制約がありすぎて、端的に言えば「恐怖の感情」以外を、納得いくように描くことはものすごくむずかしいことだと思う。そこに更に、ストーリーテリングや作者の想い(特質)を乗せることは困難だ。だから未だ持って、恐怖の不条理さは表現できても、人間の不条理さまでを描けている作品はない。
しかも、予算が無くても恐怖だけで、ヒット映画ができることを示してしまった『リング』以降、新人の起用は定番になっている。登竜門としてのこのジャンルで要求されるのは、突き詰めると「映像の表現」のみになってしまう。「映像表現」ではない。職人芸としての映画の語り方ではなく、作家芸としての映像の造型を求められるのだ。
映画監督個人に求められるのは、もはや映画として成立しているかではなく、映像商品として特徴(売り)があるかということなのだ。そこには映画が物語を楽しむものではなく、シーンと映像を楽しむものへと、観客の巷にあふれる映像への理解の仕方が変わってしまった背景がある。
他映像業出身(CM、PV、TV)監督が求められるのも、その流れだろう。しかしながら、彼らの映像に物語や感情の流れをねじ伏せるだけの力量は無いのも現状だろう。ただ彼らの持ち込む映像表現の水準については受け入れるところは大いにある。いつまでも旧来の映画表現技術(いわゆる邦画の貧乏臭さ)ではだれもが古臭く感じて見ないということを忘れてはならないだろう。
そのなかで、映画としてのエンターテインメントを表現できる人物(プロデューサー、脚本家、監督)を探すとともに、いまの映像技術を使いこなす人物からも刺激を受けていく幅と多様性を持つことが、商業的に大きな流れとしての「和ホラー」として、世界的に生き残れる方法ではないだろうか。