TOKYO EYES
ジャン・ピエール・リモザン
TOKYO  FIST
塚本晋也
ドグマ
ケヴィン・スミス
どこまでもいこう
塩田明彦
毒婦マチルダ 松梨智子
突撃隊
ドン・シーゲル
富江REPLAY
光石富士朗
どら平太
市川昆
ドーベルマン
ヤン・クーネン


●TOKYO EYES
 TOKYO EYES  98ジャン・ピエール・リモザン(シネスイッチ銀座)

 ピーター・グリナウエイ、ジム・ジャームッシュ、ダニエル・シュミット、ヴィム・ヴェンダースと日本資本で作るヨーロッパ監督が多いけど、ジャン・ピエール・リモザンもその一人に名を連ねたか。確か第一作目の『夜の天使』を10年ほど前に見に行って前評判倒れでがっくりした記憶があるのだが、今回も大して演出が変わってないのに愕然とした。
  「東京」ということを置いといたとしても、即興じみた長回しのダラダラした演出。やたら顔のアップの多用(ビデオになったらどうすんだろう)、赤色を服やベッドのシーツと画面の中に入れたがるクセ。登場人物がビデオを持って撮影しあったりたりする。登場人物の感情の経緯がさっぱりわかんねえ。なんとなく、こう感じろという傲慢な脚本が気にいらんね。
  拳銃を持ってムカツいた街の大人に発砲する少年が、何もかにも興味の持てない美容師見習いの女の子と出会って恋に落ちる。女の子の兄は刑事でこの事件を追っている。その数日間をだらだらと追っているんだが、 どこで何がどうなったから関係が盛り上がってこうなったのっていうのがさっぱりわからん。品の良いアイドル映画じゃねえの?フランス人が見ても分からないと思うけど ね。
  ついでに言えば「東京」「下北沢」である必然性も何にもない。「東京」と言う街に関してカメラを引く度胸はない人だね。ありのままを受け入れているとも、黙示録的に描くこともしない。それは日本人も同じだけど。(唯一ダニエル・シュミットが『描かれた顔』で舞踏家の大野一雄を竹芝桟橋のフェリーターミナルの噴水で踊らせたのには戦慄が走ったが)まあパチンコ屋の描写が出てこないだけで少しは許せるかなくらいで、あとはTOKYOの何の切なさもこわれようも見えない。まあお伽噺と思えば腹は立たないけどね。
  見所は美術と衣装に絞られる。今回僕自身は、吉川ひなのと武田真治を見に行ったからね。武田真治はグッドだね。何でも出来ますよ。良い役者です。吉川ひなのが良かったのはラフな自由な演出プランだったからだろうね。即興も入れながらのペースで役作りをしていった感じがする。ワンショットでアップで喋るとボルテージが下がるのがちょっとね。あと、二三年すると映画女優として開花するかも知れないな。テレビドラマで消耗しなければその可能性はあると思う。枠に収まっていない感じがして期待は出来ます。
  あ、ついでに北野武はオマケですのであんまり関係ない役(ヤクザというかチンピラ)です。
  ということで、ここまで出来ると言う部分とこんなモンだよねと言うのを確認する為に足を運ぶのは如何でしょうか。
 (角田)
 

●TOKYO FIST
 95 塚本晋也(ビデオ)

 痛さを追求する、東洋のパンク映画監督塚本の今の所最新作。『BULLET BULLET』は公開が決まったのだろうか?商業映画『双生児』は撮影が始まるようだし、海外の評価が高いというか、その分日本という変な国を独自の視点から見ている(それが自主映画だから特に色濃く出る)のが、見ていてこの人のアタマの中はどうなっているんだろうと考えてしまう。描きたいことを素直に出せないシャイさと、直接フィルムを引っかくように撮影していく執拗さはどこから来るのだろう。バイオレンスという衝動がどこに眠っているのだろう、それは表面的な評価かも知れないが見たことのない映画が展開されることは確かだ。
 結婚を控えた平凡なサラリーマンが、偶然に後輩のボクサーに出会い、婚約者を奪われ復讐の意味を込めてボクシングに挑戦していくと言うのが表面だったストーリーだ。しかし、ストーリーは口実に過ぎず、登場人物全員が何かに憑かれたようにただただ肉体の痛
みを伴う改造に邁進してそれはエスカレートしていく。虚空の空間となった東京の街で感じられるただ一つの生きている実感を確かめるように身体を痛めつける。どこまでも過剰に行われている。それは、自作への主演、撮影、照明、編集と成し遂げている塚本の姿と
ダブってくる。彼はまだ、何かを信じて確信犯的には映画を撮っていないと思う。その試行錯誤が痛みとして迫力として見ている方に伝わってくる。
 今の所の商業作品の『妖怪ハンター ヒルコ』はお馴染みのコマ落とし撮影とかあるけど、確信犯的に作られていて痛みを感じることはできない。今後も自主映画と商業映画を両立する監督となれれば面白い存在になれると思うのだが。
 (角田)


●毒婦マチルダ
 99 松梨智子(中野武蔵野ホール)

 『流れ者図鑑』を観て、この作品のチラシを見て、「インディーズって言っても自主映画だろう。しかも、主演、監督。独りよがりの思い込みの作品じゃないだろうなあ」と思いつつも、『流れ者図鑑』の印象がどこかアタマの中に残っていて、「じゃあ、観てやろうじゃないか」と映画に行くには珍しく固い決意で望んだ。予想に反して、会場は満員。お陰で立ち見になってしまった。まあ、70分の上映時間だから良いだろう。定刻となり監督の簡単な挨拶に続き、本編が始まる。ん、ビデオ、しかも、デジカムじゃないか。まず、 ここで ボクの中の自主映画概念が崩れ始めた。劇場で限定レイトショーとはいえ、やっぱ、撮るなら借金してでも16mmでしょー。の展開が裏切られた。
  国会議事堂が映り、笑顔にボブヘアーの松梨が黄色のスーツで闊歩する背景に、ナレーションで「私の名前はマチルダ。国会議員なの。何事もポジティブに生きなきゃだめなの」と、心地よいリズムのカット割りとともに語られる。と思う間もなくどこからか銃声が響き、撃たれ血まみれになるところで、音楽が入りメインテーマが流れる。しかも、オープニングはいきなり廃虚での銃撃戦。次々と役者が紹介される。格好良すぎるカッティング。既にここで、「何が始まるんだろうか」という疑問符だけがアタマを駆けめぐっていた。それにしても、こりゃ、アクション映画なのかい?
  シーン変わって、夜中の豪雨の中、喚く天才バカボンのパパのような父親。主人公のマチルダの誕生だ。しかし、この子は女の子であったために、巨人の星にしたかった父親は、勝手に男の子として育て名前も押忍華留(オスカル)と名付けられる。 リアリズムなんかなにも考えていない狂気の世界がはじまり、役者のテンションの高い早口の、それでいてテンポの良いリズムであっけなく物語?は進んでいく。 自分が女と言うことに気付く押忍華留。その時、母親は北朝鮮のスパイであることを父親に喋ってしまい、突然現れた北朝鮮の殺し屋にふたりはあっけなく殺される。ここでなぜ、こんなにも早く殺し屋が来れたかという理由を、唐突にCGを使った図で全く説得力を持たない解説で科学的に納得させるのだ。ちょうど、その場に帰ってきた押忍華留は、アパートの隣の部屋に助けを求める。どこかで観たシーンだと思ううちに、隣の部屋の男に助けられる。 男の名はレオン。職業は殺し屋。その日から押忍華留はマチルダとなった。と、パロディーをなるのかと思うと、画面にテロップが出て、「色々、殺し屋の訓練を受けるのですが、そういうシーンは撮影が難しいのと、長くなるのでありません」となる。次々とこちらを裏切る展開を呆気無くやっていく。と、オープニングの廃虚で銃撃戦のシーンとなり、レオンはマチルダに対しての一瞬のスケベ心で、隙を見せてしまい、殺し屋ジョンに撃たれてしまう。
  ここで、シーンは第二部へと変わり、北朝鮮に拉致されたマチルダの話になる。もう、全く先が見えないと言うのか、なんでも詰め込んであるというのか(こういうのは好きですが)、更に滅茶苦茶な展開になる。あらすじだけ書いても、殺し屋ジョンと金○成は、ホモの関係(ちゃんと、バスルームでの濃厚な濡れ場を撮っている。セットはどこかの高級ビジネスホテル)。息子の金○日(ちなみに親子は一人二役)はマチルダと結婚するが、革命が起きて、殺されてしまう。飢餓の世界に取り残されたマチルダは、死んだ金○日をバーベキューする。なんていう発想なんだ。
  シーンは変わり、新宿の地下道で、「私の詩集」を売っている男の話になる。お金にならないが夢を売っていたという男はある日、突然金儲けに走り、歌謡曲で大ヒットを飛ばし 名音楽プロデューサー小西となる。ある日偶然、(そればっかやなあ)場末のマジックショーに入ったら、そこにはバニーガールとしてマチルダがいた。一目惚れをした小西は、マチルダの為に曲を書く。シーンはアイドル、マチルダのプロモーション・ビデオになる。糞真面目に撮っていて、スローモーションとか、最後に曲名とレコード会社のテロップが出るかと思うほどだった。小西は 恵まれない子供たちのための遊園地、マチルダ・ワールドを作るとマ○ケル・ジャクソンのようなことを言う。完成した遊園地には(どっかのビルの外で撮影)マチルダの巨大黄金像(本当に金粉を塗って、アオリで撮っている……バカだあ)。しかし、小西は、株主訴訟で社長の座から降ろされて、無一文となってしまう。家計を助けるために働くマチルダ。ある日偶然、(そればっかやなあ)死んだ筈の母親が現れ、思い出話をしていると、母親は結核で喀血して、死んでしまう。その体験を小説にして、すばる文学賞を取る。成功を収めたマチルダの野望は、国会議員になることに向けられた………。と選挙カーに乗って、新宿アルタ前で演説したりしているうちに映画は終わる。
  観終わって我に返って呆然として、なんなんだこれは、という疑問がグルグルしていた。全く観たことのない映画体験だったと思う。演技とかは、ほとんど小劇場のノリに近く。オーバーアクション、ハイ・テンションは当たり前。しかし、それが全然浮いていないし、面白いでしょうと押しつけがましく全然ない、センスの良さは抜群だ。 撮影はどちらかというと保守的で、単純な切り返し、カットバックで構成されている。ようするに、この気違いじみた世界を語りたかったんだな。その手段としてのビデオというメディアだったんだなと思う。 インディーズと言っても、テレビドラマと同じクオリティーを持って作られているから余計に突出したおかしさがが出てくる。主張とか表現したいことが、映像に託すとか、主人公に託すんじゃなくて、 自分を中心とする自分たちでも出来る世界を作るための手段なんだよね。
  だから、野望とかプロの監督になるとかそんな嫌らしさがまるで見えないエンターテインメント。でも、出来ることは全部やるよ。手は抜かないからね、と言う相反するプロらしさに徹する潔さがこの作品の魅力だと思う。自主映画の世界は暗いとかうざったいとか、思っていた僕にとってものすごい刺激になった。でもよく考えたら、テレビではデジカム使って放送しているんだし、音楽の世界じゃ、プロ。アマ機材は変わらないんだから、映像世界もそのレベルまで来ている証拠だと思う。
  つけ加えれば、セックス・ギャグなどきわどいのもいくつかあって、インディーズだから表現できるフィールド幅を感じた。だから芸術やリアリズムにデジカムの世界を乗っ取られる前に(日本人はまじめだからな)、マチルダ・ワールドを作ろう。その方がおもしろいじゃん。そう言うのが観たいんです。もしかしたら、 絶滅したプログラム・ピクチャーの系譜なのかもしれませんね。それを個人的にやるということ。資本がなくても映像表現はできるということを示してくれた(ただおかしくて爆笑しただけかもしれないが)。
  松梨智子は、良いです。観ているうちに慣れてくる顔ですね。(市川準の『トキワ荘の青春』にも出演しているらしいが)。そのうちにテレビドラマにも登場してくるでしょう。テレビで稼いで、インディーズ・ビデオを作るようなスタンスの人になれば面白いのになあ。
(角田)


●ドグマ
 DOGMA 99 ケヴィン・スミス (シネマスクゥエア東急)

 ケヴィン・スミスはよほど世の中、世間に恨みがあるみたいで、いかにして自分の都合の良い、フマジメな世界を作るかに全精力を傾けているとしか思えない 。 マット・ディーモンとベン・アフレックスが悪魔で、それを退治するのが、堕胎専門の女性産婦人科医
に黒人のキリスト、そしてサイレントボブと相棒ジェイだ。彼らは、『ブルース・ブラザース』のように天の言葉によって行動する。とんでもない罰あたりな言葉を吐きながら。ぜひ突っ込みを入れながら観て欲しい。結構、笑いのIQ高いです。
 (角田)


●どこまでもいこう
 99 塩田明彦(ユーロスペース)

 映画においてのリアリティーって何を指すのかと思うことがある。分かりやすく言えばドキュメンタリーっぽく撮っているアッパス・キアロスタミでさえ、画面を横切るニワトリの足にヒモが見えたときには幻滅したものだ。絶対に画面の外では子供をつねって泣かせているに違いないと思ってしまう。そういう状況まで作りながら子供でも追いつめていくやり方もあるが、そうでなく思った型にはめていくやり方もある。子供は動物と同じで何かで釣らないと演技しないと確信している私としては、この映画の子供たちまたはそれを見ている監督の視線が気になった。
  どちらかというと、今の子供を描いているように見えながら、仕草や視線は大人の役者と変わらないものを求められていると思った。子供というか子役を使うのでは無いとすれば、フレームからはみ出そうが、予想外の仕草をしようがそれを受け入れることが子供が出演する映画を豊かにする方法だと思うのだが、どうしてもフレームの中に入れたいようで、移動撮影が多いのにも係わらず窮屈な印象を受けるのはそのせいじゃないだろうか。また、女の子の視線や振り返り方が無造作、あるいは無防備ではなく構えたもの、明らかに大人の目線に近いのがイヤだったなあ。男を意識しているような視線や仕草が意識的すぎて、それも大人(監督)が考えたものだと明らかに分かってしまうのが、 「だったら大人の話にすりゃいいじゃん」と思ってしまう。
  転校してきた悪い子供や、友達のいない離婚した母親の元で育てられている男の子の描き方や、喧嘩して仲直りするところなどがあまりにもステレオタイプな役割分担で窮屈すぎる。逆に言えば説明過多じゃないのだろうか。
  子供の成長を見つめたものではなく、状況を語ったものにしか届いていないので、主人公たちの内面にも入れないし、大人のノスタルジーの世界にしかなっていないと思う。映画のスタイルよりも、子供が見えたい。
 ロケット花火をするときに、窓ガラスを外すのは反則です。
(角田)


●突撃隊
  Hell is for Heroes 62 ドン・シーゲル(ビデオ)

 第二次世界大戦のヨーロッパ戦線。疲れ切った兵士達がアメリカへの帰還命令を待っている。しかし、彼らを待ちかまえていたのは最前線への進軍命令だった。
 『プライベート・ライアン』でスピルバーグが描ききった残酷性を何のトリックなしに描き切るこの冷徹さはどこから来るのだろうか。スローモーションなし、全編カットつなぎだけで戦闘シーンを瞬間のうちに何の感情を交えずに描く。そこにはスピルバーグが
苦労して撮った残虐シーンから出てくるトリックの世界とは全く無縁だ。ドン・シーゲルはモノクロのB級戦争映画の枠を目一杯利用して、逆にそこから最大限に汚れて疲れて残酷な記録的映像を作り上げリアリティーを増す方法を選んだ(コンバット的にね)。
 ドン・シーゲルの映画って、律儀なカットの切り返しでかっ飛ばしていくテンポの良い演出と、ドキュメンタリー的に長回しをしてわざとその中で何かが起こるという緊張感の高める演出とを巧みに使い分けるのが特徴だと思う。だから、 凝縮した時間の中でのストーリー展開が圧倒的に上手い。最前線に出た、はぐれものの元軍曹で今は一歩兵のスティーブ・マックインを含む少人数の中隊だけが残され、一つの要塞を挟んでドイツ軍と一晩対峙する。どちらが仕掛けるか。何のセンチメンタリズムもないし、ただプロの兵隊となって戦う。罠を仕掛けたり、仕掛け返されたり、その緊張感が闇の中に展開する。一瞬遅れただけで殺されてしまう、あまりにも早すぎて何が起きているのか、敵、味方が交錯して戦う細かいところは素早くて把握できないくらいだ。(でも映像的には的確に捉えている)。本当に銃弾に当たったら死んでしまうかと思うくらい緊張感のあるシーンの連続だ。
 マックインの最期もわずか2カットで処理してしまうなんて今のだらけた映画では考えられない。思わず呆気にとられてしまった。昼間の大戦闘シーンも大迫力です。『プライベート・ライアン』とは比べる映画じゃないけど、併映で観ることをお薦めします。
 (角田)


●ドーベルマン
 Dobermann 97 ヤン・クーネン(ビデオ)

 カッチョイイ映画なんです。こっちがフランス映画だろ、バイオレンスだろ、などと色眼鏡で見ようとすると、ことごとくぶっ飛ばしてくれる痛快無比な映画デス。オープニングクレジットでいきなりドーベルマンの力(リキ)の入った3DCG。特に意味は無いんだが意気込みと心意気が伝わってくるシーンでぶちかましてくれる。
  暗黒街というか、ヤクでラリったキャラクターが素晴らしく非現実的で小粋だね。アメリカ映画がやるともっとぐちゃぐちゃになるんだが若さでその辺を逃れている。生まれたときから拳銃を放さないリーダー。唖の義妹との奇妙な関係(近親相姦か)。女が下品でロケット弾を撃ちまくり銀行強盗をする。サポートするのは、自称牧師の手榴弾魔に気の短いすぐ撃ちまくるプッツン野郎と個性的というかいい加減というか無茶苦茶というか、派手だけど慎みのある(センスがあるってこと)ギャングものを見せてくれる。これに対抗する非常のゲシュタポの異名を取る警部が非情な手段で強盗団を追いつめていく。結構、出てくる奴等がみんな悪いやつでいい顔をして、人間っぽくってそれでいて、ストーリーの中に上手くはまっています。呵々と大笑いしながら楽しんで見るのが正解。
 (角田)
 

●富江 re-birth
 01 清水祟(池袋文芸坐)

 いままで、ビデオ作品しか撮っていないのに大抜擢だと思うが、そのフットワークが和ホラーというジャンルを支えているのだとも思う。こんなに誰にも似ていない映画を作る人は久々の登場だ。正統派の作り手でありながら、『発狂する唇』の佐々木浩久、『リング0』の鶴田法男、また黒沢清や脚本家の高橋洋などには影響されながらも、独自の作品になっている。
 どこが良いのかというと、基本的にアクションのつながりで物語を進めていくことに、ちゃんと神経を使って演出していることと、カメラの置く位置や動きが的確であって、長回しだと気づかない。これは巧みな職人芸に近い。室内の役者の動きとか、美術、小道具なども全然手を抜いていないのでリアリティがある。それでいながら、「これは映画です」という逃げ方はしない。まだ稚拙な部分もあるけど、上手な監督になりますよ。
 ただ、自然光による撮影がいまひとつで画面が暗く見えない。ロングショットの使い方など、そこら辺、黒沢清の影響がいくらかあると思うのだけど、抜け出て欲しい。音楽もゲーリー芦屋なので、全然問題は無い。それを使いきっている。『呪怨』のときも感じたけど、階段の撮り方が滅茶苦茶上手い。どこがって指摘するのはむずかしいんだけどな。
 題材が人間心理を生かし切れないので、説得力があるものにはならないが、『富江2』と比べたら、基本的には同じ話なはずのに、最後まで観せる力が全然違う(富江はジェイソンと同じ役回りだから)。ホラーの人物のテンションは現実とは別物なのでわからないけれど、たとえば他の題材でも撮れるのかと言うと、個人的なこだわりの部分が見えないのが、ちょっと気になる。
(角田)


●富江REPLAY
 00 光石富士朗(新宿東映)

 つらいなあ、低予算。それをカヴァーする何かを最後まで見つけられなかったんだろうなあ。前作も観てないんで何とも言えないけど、どーゆー映画なのかついに分からなかった。別に宝生舞じゃなくても良いじゃないかと言うのが最大の疑問。人面疽の設定も謎だ。山口沙弥加もあんな使われ方じゃ可哀想だ。最も画面が暗いのも良くない。アイドルを使う意味がない。結局、ドラマもホラーも中途半端。演出に強引な力ワザがあれば違ったろうが、監督はホラーが好みじゃないみたいだ。頼むからどこか面白いところを作って欲しかった。
(角田)


●どら平太 
 00 市川昆(熊谷シネプラザ21)

 市川昆には、まったく期待してないし、役所だって決して上手い役者とは言えないだろう。だからシナリオが良ければなんとか観られるだろうと思ったが、甘かった。ロートル監督四人にはもう面白いシナリオが書ける力は無かった。というよりも、黒沢活劇以外に四人の中で面白い時代劇撮った人いるの?と聞きたい。ふーむ。
 クロサワ活劇もさ、近頃疑い出しているところなのよ。橋本(『幻の湖』)忍は別において、小國英雄が気になっているいるんだよね。彼って、東宝のなかでも取締待遇かなにかになっているくらいベテランで何本も時代劇、マキノ雅弘とかと組んでやっている訳じゃない。それが、クロサワと複数人で組んでやるなんていい気分じゃないと思うよ。実際、クロサワは『赤ひげ』以降、復活出来なかったじゃない。時代劇活劇のシナリオの技に関しては、小國がかなり書いているんじゃないかと勘ぐっているんだけど。
 『どら平太』?テレビで見るとちょうどいいサイズだよ。
(角田)