大怪獣ガメラ
湯浅憲明
大爆笑問題2

たたり
ロバート・ワイズ
弾丸ランナー
SABU
ダークシティー
アレックス・プロヤス
ダークエンジェル
ジェームズ・キャメロン製作
TAXI
ジェラール・ピレス
ダンサー・イン・ザ・ダーク
ランス・フォン・トーリア


●大怪獣ガメラ
 65 湯浅憲(ビデオ)

 ガメラの旧シリーズの第一作はモノクロだった。シナリオは滅茶苦茶だが、演出でメリハリをつけ特撮もここまで!というほど頑張っているんで驚いた。今考えると凄いが、 北極に現れた、国籍不明のジェット機(たぶんソ連)をアメリカ軍が撃墜すると、そのジェット機には原爆が積んであってそれが爆発してガメラが蘇るなんて、どういう感覚だ。
 ガメラがよたよた歩いているとかえって愛嬌があり、別な意味でリアリティーがある。船越英二が古生物学者として活躍するが、対比してカメ好きの少年が出てきてやたら「ガメラは悪い奴じゃないんだ」を連呼する。その辺の荒唐無稽なところが子供心に訴え、ガメラが身近かに思えたところじゃないだろうか。
 ガメラって、炎を吸ってエネルギーにしてたんだね。知らなかった。なるほどなるほどと感心して観れました。無敵のガメラをどう倒すか、それは観てのお楽しみ。ちなみに「ガメラの歌」は出てきません。怪獣映画の基本と王道を(『ゴジラ』のという手本があ
ることはあるが)一気に作り上げたことに改めて驚きました。人類の進歩と協調の時代の産物でもあるね。さあ、次はギャオスだ。
 (角田)


●大爆笑問題2
  (ビデオ)

 借りたはいいが、60分の割にはネタが少なすぎ。別に放送禁止になるほどのネタもなく、テレビ東京で深夜やっている番組の方が『珈琲刑事』なんかおもしろいなあ。こういうのを見ると竹中直人がやっていた『東京イエローページ』のしょーもなさがあれはあれで良かったんだと思い出される。(なんのこっちゃ)
 (角田)


●ダークシティー
  Dark City 98アレックス・プロヤス(新宿東急)

 『クロウ 飛翔伝説』でブランドン・リーをCGで甦らせた男の最新作。冒頭のナレーションが分かりにくく、わざと謎めいて語られているが、ネタはほとんどバレているに近い。どう考えても「ゆうばりファンタスティック映画祭」でみたら面白かったと思う。
  非常に設定とか美術とか雰囲気とか黒に色調を統一したりと凝っているんだが、スタッフの賛同が得られなかったらしく、美術がスカスカなとことが辛い。ジュネ&キャロだったらもっと密室になったのに惜しいなあと思った。悪夢にしては分かりやすい設定で、オチが分かっちゃうけど、そうなりながらも結構楽しめます。これこそ、日本のアニメのまたは古き良きSFを良く観ているなあと微笑ましくなってしまいます。サム・ライミだったら、もう一ひねり力技があったかなと思うけど、予算のせいか手堅くまとめています。ジェニファー・コネリーとキーファー・サザーランドがいい味だしています。B級SFとしては大いに楽しめますのでちょっと拾いものの小品。
 (角田)
 

●ダーク・エンジェル  第1話
 00 製作総指揮ジェームズ・キャメロン テレビシリーズ(FOX)

 ジェームズ・キャメロンにより、映画は徹底的にまったく別のものになってしまった。 彼の映画のありとあらゆる細分化されたカットは、単純に読み取れるような意味を構成しなくなり、映像情報の奔流のなかにすべて叩きこまれた。
 1950年代までの古典的な映画作りでは、効果的なモンタージュで物語とともに情動を語ることが旨とされていた が、実はその二つはその時点での技術と拮抗せざるを得ないすることを、多くのハリウッド映画監督は体現しながら、一方では技術と演出については無視していた。
 ヌーヴェル・ヴァーグの影響を受けた、ハリウッド第8世代(コッポラ、ボグダノヴィッチ、フリードキン)、ハリウッド第9世代(スピルバーグ、デ・パルマ、スコセッシら)は、優秀なキャメラマン(ビルモス・ジグモンド、ラズロ・コヴァックス、マイケル・チャップマンら)や技術スタッフとともに、より完璧な映像を求めて 最新の技術を駆使し始めた。
 イーストマンコダックの高感度フィルム、パナビジョンキャメラ、スティディカム、ドルビーステレオ、HMIライト、ヴィデオモニタ、VFX、レンタルビデオの普及。これらが映画の作り方を一変していった。平たく言えば、 誰でもどこでも映画が作れるようになったということだ。
 それまで、映画にはこの条件では映らない、音が録れないという技術的な制約があり、それが独特の映画文法を発達させていった。それらが無くなったという事は逆にいえば、これまでも、サイレントからトーキー、モノクロからカラー、スタンダード画面からワイド画面へと技術により映画のカタチが変わるたびに文法は変わっていった。今の状態はそれにも匹敵するものだろう。
 その先陣を切ったのは、スピルバーグの『ジュラッシック・パーク』であったことは確かだ。だれもが言った「これは映画ではなく、アトラクションだ。…でもおもしろい」
 この時点では、それぞれの技術と物語、情動のレベルはバラバラだった。だからこけおどしとしか評価は得られなかった。しかし、ハリウッドのプロデューサーや監督はこう考えた。「同じ技術を使えば同じものが出来るはずだ」と。
 実際、同じものがたくさんできた。CGだらけで、爆発、ドルビー音響がスタンダードになっていった。キャメラもスティディカムに載せられ、街中を滑るように人物の周りを駆け巡り、荒い鼻息の音をも拾う音響の再現性が当たり前となり、それを観客も認め出した。
 それもそうだ、一番リアルに捉えられているのだから、なんの訓練もいらない。観たままを感じれば良いのだから。 デジタルに変換された画と音が、加工されてデフォレメされて、目と耳に届く。最早、自然界には無いものを感じさせられるのだから、五感は容量オーヴァーになるために、防御として、脳を停止してそのまま受け入れるしかない状態に追いこまれているといえよう。
 それをそのまま使っているのが、ジェフィリー・ブラッカイマー、ディズニーアニメ、ジャパニメーションだろう。これらは、プロデューサーが歯止めを外しているとしか思えない悪質な確信犯。
 反対にプロデューサーが歯止めを掛けているのが、ジョージ・ルーカス、スティーヴン・スピルヴァーグ。かれらの内なるディレクターが危険信号を出している。古典的な素養が、これ以上情報を入れてはいけないと言っているようだ。『プライべート・ライアン』での行き過ぎに気づいたのではないだろうか。
 さて、キャメロンであるが、かれはあくまで確信犯側だと思うけど、彼の場合はスピルバーグでさえ混同している、 「物語を語る」、「情動を喚起する」、これらのモンタージュをいまの状況に巧みに織り込んでいる ことだ。 この映画100年の蓄積の技法を入れ込むことで効果的な映画づくりを操るようになったといえよう。
 『ターミネーター』、『エイリアン2』、『ターミネーター2』、『タイタニック』と見てみるとその様子が歴然とする。(『アビス』、『トゥルー・ライズ』は繰り返しの要素が多いのでここでは除く)
 古典的なSFアクションに忠実な『ターミネーター』では、そのモンタージュも古典的な、追い追われるのワンシーンの中での2点カットバックを基本としている。ここでは、アクションをきちんと捉えようとしている丁寧さが見られる。
 『エイリアン2』では、基本的設定の宇宙のヴェトナム化という、隠れた敵との戦闘という部分が必ずしも成功しているとは限らない。(いわゆるヴェトナム戦闘物で成功した描写のものは無いので仕方ないのかもしれないが)。また極度の顔のアップや、暗闇での戦闘の模様が判別つかない点で技術的な失敗が看て取れる。またこの時点では、銃撃のモンタージュも撃つ撃たれるの単純カットバックで成り立っている。キャメラの動きもまだ限られている。
 『ターミネーター2』になると、まったくそれまでの制約から逃れ、キャメロン演出全開になる。製作会社のカロルコ=パイオニアLDCの呪縛がどこまであるかは分からないが、ヴィデオソフトとしては十分なくらいに、照明がまんべんなく当てられている。その画面の再現性は夜のシーンに限りなく発揮されている。どう見ても夜に見えないのだが、全部、夜のように照明しなおしているサイバーダイン社でのアクションシーンや、それに続くハイウェイのアクションシーンなどの開き直りとも言える約束事(夜の照明)を駆使している。
 この映画になると、スチディ・カムによる回り込みの画面がやたら使われるようになる。ただし、手持ちのかわりではなく、あくまでシーンのモンタージュの一環としてである。それを証明するように手持ちの次に短いアップのカットがすぐに入るなど、そろそろシーンの情動をキープするためのカットつなぎが顕著になる。どんどんカットが変わるために余計なこと考えずにドキドキできる仕組みを効果的に使い、そのまま最後まで突っ走るキャメロンの手法の集大成と言える。
 音楽と音響効果も分厚く、画面の音を全部拾っている。ここまでいくと体感映画に近づいてくる。シーンの情動の持続も計算ができてきた(『トゥルーライズ』では失敗して、コメディーシーンやロマンティックなシーンがアクションのように撮られていた)。映画全般のリズムをコントロールできた最初の作品といえるだろう。ハードの性能を最大に引き出す手法を手に入れた作品というのが適切な言葉であろう。
 そして『タイタニック』。これまでの我流を通せば、観客と映画をコントロールできるレベルは計算できたのだろう。 キャメロンは『タイタニック』をパート2・続編映画として演出したのではないだろうか。自らの『ターミネーター2』のヒットを、分析しまくった結果から出た自信がその底辺にあるのだろう。結末の見えている映画とフラットな主人公をどうしたら描けるのか。
 ここでは、『ターミネーター2』と同じく画面の情動だけで描ききってやろう。そのための効果的な方法はなにか。「観客を船に乗せて一緒に沈めてやることだ」。 みんな3時間の悲愛の物語を見たと勘違いしているが、実は3時間のタイタニック沈没アトラクションを体験したに過ぎない。だから観てへとへとになっても、尻は痛くならなかっただろう。
 もはや、ここではストーリーを語るモンタージュは存在せず、そのシーンを描くカメラの位置と音響のリアルさだけが追求される。 キャメロン特有の回り込むスティディ・カムと、それを分断するようなカットの連鎖。肉迫するカメラと情動を喚起するカット割りが、そこのシーンに立ち会う観客を盛り上げながら続ける。ドキュメンタリーのリアルさと、モンタージュによる効果をうまく掛け合わせている。
 それだけなら凡百のB級アクションと変わらない。キャメロンの場合はここに無意味な短いワンカットのアップを挿入するのだ。聞こえないけど効果音としてのアクセントと同じ効果をもたらすカットだ。たとえば、だれかが逃げる時、まずかれの全身をフォローして一緒に走るカットがあり、普通なら、その足元、顔のアップでつなげるのだけど、その間に短く上半身だけのカットが入ったりするのだ。
 観客はそれまでのリズムには慣れているけど、ここに余計な(でも、なにが映っているかはわかる)カットが入るために、無意味に情動だけが盛り上がる。ここに音響が入れば一気に体感率が高まる仕掛けだ。
 そのリズムをキープしながら、随所に時間や空間を処理する古典的なモンタージュを差しこむために全体の速度は落ちない。 ふつうの体感アトラクションが失敗するのは、このモンタージュを効果的に使えないからだ。リアルになる過ぎる点をモンタージュで切り抜け、逆にモンタージュで退屈になる部分をリアルなカメラの動きで切り抜ける。そして全体(特にアクションシーン)をリズムで編集する。音響はカットレベルではなく、シーンレベルで統一して聞かせ臨場感を出す。これがキャメロン映画の特徴ではないだろうか。
 いわば、映像と音響を一度すべて情報に還元して、それをより情動を喚起するようにさらに組替える作業をするのだ。
もはやキャメロンの前には、いままでの映画文法だけでは成立しない、70年代以降の映画テクノロジーの歴史が刻み込まれた集大成ではないだろうか。
 で、『ダーク・エンジェル』なのだが、相変わらずキャメロンの作品の男は弱いなあ。全然格好良くない。かと言って主役が上手いと言うこともない。なにしろアクションがヘタレだ。でも、この手のSFをマトモに作れる製作者もそういないのでストーリー展開に期待。
(角田)


●たたり
 HAUNTHING 63 ロバート・ワイズ(ビデオ)

 未見なのだが評判は良くないヤン・デ・ボンの『ホーンティング』のオリジナル。ホラー映画なのだが、幽霊も血の一滴も出てこない。それでいて観ているうちに背筋が寒くなってくる映画。確か同時期に『ねじの回転』の映画化があって、数年前に深夜テレビで放
送していたのだが、子供の幽霊や、不快な音楽のあまりの怖さに観るのを止めてしまった記憶がある。
 幽霊屋敷ものは、屋敷で起こる怪現象の怖さをどれだけ共感できるか、それまでの伏線をどうやって巧みに敷いていくかがポイントだと思うのだが、この映画の場合は、幽霊屋敷の謎を解こうとする博士と、実験に協力する霊感の強い女性が、女性の思い込みで博士
に想いを寄せていくのと、それに感応するように屋敷で怪現象が起きる様子が描かれ、彼女の妄想なのか、怪奇現象なのか曖昧なままにされてある時、登場人物に感情移入していると耐えきれなくなるくらいの怪奇現象が起きて恐怖にたたき込まれるというか、ゾッと
させられる。直接的な恐怖じゃないけど、間接的な恐怖の味わいも悪くない。
 (角田)


●弾丸ランナー
 95 SABU(ビデオ)

 疾走する映画って観ちゃうんだよね。サブの映画はカタルシスがある。安っぽいシナリオ、撮影なんだけど、それを通り越して走り出す快感がにじみでてくる。 ダメな男達が走り続けることで(理由は大したことでない)、何もかも笑い飛ばし、いい顔になっていく。ただそれだけが撮りたかったんじゃないかと思わせる作品。些細なことで追って追われる活動写真の醍醐味というか原点。それを感じさせてくれる。
 (角田)


●ダンサー・イン・ザ・ダーク
  DANCER IN THE DARK 00 ランス・フォン・トーリア (熊谷マイカル)

 2000年のカンヌ映画祭は、日本国内では『御法度』の出品。日本映画二本コンペに上がるとか話題になっていたけど、そんなローカルな話は叶姉妹が現れたのと同じくらいどうでも良い話で、 実は、グランプリは決まっていたという。ランス・フォン・トーリアが、「グランプリをくれないなら出品しない」と事務局を脅したらしい。結果、グランプリと主演女優賞は、リュック・ベッソンの手からデンマーク人とアイスランド人に渡された。時代は、アカデミー作曲賞、衣装賞授与者の参加した映画や、3時間のモノクロ映画など相手にしてなかったのだ。
 その頃、この作品が“ドグマ95”にのっとり、デジタルビデオカメラで撮られたとの情報が入ってきた。すぐに連想したのが、にっかつロマンポルノの最後に、ビデオで撮った?ロマンX?なるキネコ作品だ。まあ、正直な話観てられない、走査線が気になって目がちかちかした。ああ、今度もコンセプトが先行してるのかと不安になった。
 果たして作品は、ものすごく良くできたビデオの特性を生かした非ハリウッド映画の中では一番進んだ形に仕上がったのではないだろうか。ビデオの持つ、極端に肉薄した表現。生々しさが上手くフィルムに乗っている。画質も全然問題ない。ちなみに撮影監督は、ロビー・ミューラー。ヴェンダースやジャームッシュの作品でお馴染みだ。ただしカメラオペレータは監督自身がやっている。
 映画は、前奏が終わると、いきなりブレブレの画面にかろうじて映る、メガネをかけたビョークが素人劇団ミュージカルで‘MY FAVORITE THINGS’を歌うところから始まる。素人カメラマンが撮ったように、ブツ切れの編集で状況が分かるようには撮影せず、ただ雰囲気が伝わってくる。そこにいるのは、主人公のセルマか?それとも演じているビョークか?観客は不安定な状態のまま物語に入っていく。音楽が楽しみで、眼が見えなくなる恐怖にどこまでもおびえるチェコ移民。アメリカとミュージカルという憧れへの絶対に届かない絶対的な距離、届かないが故に想いが募る。それに対する現実は貧しい。と二重三重に夢想(アメリカンドリーム?)と現実、いや映画と現実がビデオという細い線で一本に繋がる。そこにビョークの唄が吹き込まれ、より強い力を映画に与えている。
 全編、ヨーロッパで撮影されたアメリカの風景。ミュージカルの撮影の仕方も、へたくそだ。話も平凡だ。しかし、映画の完成度よりも、ビョークを選択した監督は正しい。 ビデオだけが撮れたもうひとつの現実だろう。そう、カメラが歌い踊っているといっても過
言ではない。大袈裟と言うなら、二度目の‘MY FAVORITE THINGS’を歌うシーンの緊張感を思い出すが良い。あそこからラストまで一気に持って行かれてしまった。
 ミュージカルのシーンなら、裁判所のシーン。絶対踊ると思ったけど、やられたあと思った。あの奇妙な美しさはなんだろう。あのタップは忘れられない。
 音響もドルビーサウンドが素晴らしい効果を上げていた。これは、ヨーロッパからのアメリカへの挑戦状じゃないだろうか。「映画にとって本当に重要なのは…………」だとね。世界の貧乏人映画作家に勇気と絶望を与えてくれる。要は志だね。
 (角田)


●TAXI
 TAXI ジェラール・ピレス(新宿ジョイシネマ2)

 監督の名前より、製作・脚本のリュック・ベッソンの名前が大きいというシロモノ。だから、面白かったとも言える作品。ハッタリが何もない正攻法のみで作られたといえる。設定そのままの世界が繰り広げられたフランス・マルセイユでアメリカ映画撮ってみました、すごいでしょう。と自信過剰のリュック・ベッソンの顔が見えるようだ。
  抜群のテクニックを持つ改造タクシー運転手と運転免許が取れないマザコン刑事がドイツ人の強盗団を捕まえるまでの物語。うん、何にも考えさせてくれない分、潔いんでこの映画は口コミでヒットするでしょう。
  そういえば、ベッソンの映画ってみんな口コミで認知度が上がって評判になるパターンが多いね。多分、見たヒョーロンカたちは映画が気に入っても、「これ好きっていっちゃ恥ずかしいんじゃないの」と思わせるヤバさとクサさが同居しているのがベッソンの映画の特徴だと思う。簡単に言えば、映画少年の発想に近いんじゃないかな。
  でも、ある種のカタルシスはあるし、お手軽な感じで楽しい映画です。車だから『マッド・マックス』を求めたり、フランスギャングものだから、ジョゼ・ジョバンニの映画の雰囲気を求めてはいけません。何てったって、オープニング曲が『パルフ・フィクション』のテーマ曲と同じなんだもん。ノリが良けりゃいいじゃんという映画でした。
 (角田)