四月物語
岩井俊二
死国
長崎俊一
地獄
石井輝男
シーズ・ソー・ラヴリー
ニック・カサベテス
シックス・センス
M・ナイト・シャマラン
シド アンド ナンシー
アレックス・コックス
死人の恋わずらい
渋谷和行
ジャンヌ・ダルク
リュック・ベッソン
住民が選択した町の福祉
羽田澄子
続『住民が選択した町の福祉』問題はこれからです
羽田澄子
呪怨
清水祟
呪怨2
清水祟
出発
イエジー・スコリモフスキー
修羅の狼 蜘蛛の瞳
黒沢清
修羅の極道 蛇の道
黒沢清
シュリ
カン・ジェゲェ
少女ムシェット
ロベール・ブレッソン
少林サッカー
チャウ・シンチー
昭和侠客外伝 無頼平野
石井輝男
女囚さそり 第41雑居房
伊藤俊也
JOKER 疫病神
小松隆志
新宿黒社会 チャイナ・マフィア戦争
三池崇史
地雷撤去隊
室賀厚
白 THE WHITE
平野勝之
新唐獅子株式会社
前田陽一
シンク
村松正浩
新 仁義なき戦い
深作欣二
新 仁義なき戦い 総長の首
深作欣二
シンドラーのリスト
スティーブン・スピルバーグ
シンプル・プラン
サム・ライミ
シン・レッド・ライン
テレンス・マリック
人狼
沖浦啓之
      

●四月物語
 98 岩井俊二 (ビデオ)

   私的には、岩井俊二はのれるのとのれないのは二つに分かれる。前者はコミックか出来るような設定や画面に思きをおいたもの、『Undo』、『PICNIK』、『FRIED DRAGON FISH』、『スワロウ・テイル』。後者には『Love Letter』とこの『四月物語』が入る。
  ま、それは、趣味の部分があるから一概にどれが言い悪いは言えないが、どうも青春映画の残滓みたいな映画はどうも好きではない。好き嫌いで語ると不公平だから別の方向からみると、ノスタルジーを語る、たかだか30幾つの人間が語る大学生活についてとか、高校時代の話なんてどこにも出口のない甘いだけの菓子のようないい気なもんだ映画(近頃40くらいでもそんなことしている映画もあるけど)、近過去を美しく描くなんて今の日本じゃそんなに困難な作業じゃないし、選ばれた東京の風景が東京である必然性でもないし、どこでも景色がきれいなところであればいいんだというほど匿名性に満ちている。要するに、まさしく上京者の視点な訳。
  画になりそうなところを切り取った東京の景色は美しくない。美しいと思ったあなたはCMの見すぎだ。たかだか40分程度の短編に目くじらをたてることはないんだけど、気になるんだよね、街の匂いのしない(特に東京郊外の武蔵野にこだわるのならもっと撮れる画はあるぜと言いたい)いい気なノスタルジーは、8ミリで撮れ。
  というか、岩井俊二は批評もんから無視されているんだけど、映画はいっぱい撮れるはずだから、撮ればいいのに。巨匠ぶって何年も企画暖めても仕方ないだろうと思う。つまらなくても良いからたくさん撮るべきだと思う。キネマ旬報から無視されようと。 ポニーキャニオンなんか潰してもいいから。誰かがやらないと面白い映画の流れは生まれてこないぞ。
(角田)


●死国
 99 長崎俊一(新宿ビレッジ1)

 一本じゃ足りないから、仕方が無い『リング2』の併映作品を決めなきゃね。ということで製作サイドから、角川書店原作で、ミス・東京ウオーカーを使えなどの縛りありきで、最後にじゃあ監督はどうするなんてことで始まったんじゃないのか。
  本気で参加している人間がいるとは思えないんだけど。撮影の篠田昇(岩井映画でお馴染みの)だけ狂っていて、映像が手持ちのクレーンありのフィルター、スモーク、高感度現像ビシバシのほとんどカメラのテストフィルムかと思いました。長崎俊一は何をしていたのか?何もしていないように思えたのはボクだけか。
  というか怪奇、ホラー映画の基本が分かっていない人間にいくら撮らせても無駄だよ。と思う。こういうスプラッターじゃない路線を新角川映画は敷こうとしているのだろうか。でも観客もバカじゃないからすぐに退屈さを見破って飽きてしまうと思うよ。質的に『CURE』、『リング』、『死国』は観客に対して同質の恐怖を与えていると思う。悪くはないがバリエーションが無さ過ぎると思う。それは=ジャンルに対する偏愛、解釈が稀薄だということだ。
  『死国』は演出のダメさは仕方ないにしても、脚本としてファンタジーとしても成立していない。ラストへ至るカタルシスの積み重ねが足りないんだよね。普通だったら驚かしとか、ハッタリを噛み合わせたり、生きている人間の嫌らしさを誇張したりして観客を不安にさせて畳み掛けるようにしてもっていくのだが、この内容じゃ誰も納得しないね。  原作だと転生がファンタジーとして描かれるから許されると思うのだが、それを画にするには説得材料が足りなさすぎる。最後までそんなことどうでもいいじゃんと思わせてしまったところは罪だ。
  中川信夫とは言わないが、嘘でも良いから市川昆みたいに忘れられない画を一つくらい撮って、「まあ、いいんじゃない」という感想を引き出せるくらいにしなきゃ、 この路線ジャンルは死にます。頼むから『プライベート・ライアン』じゃないんだから音でごまかすのはやめてくれ。(『CURE』のパクリだ、音の使い方に関しては)やっぱ、映画は短編を脚色した方がいいんじゃない。想像力を使うところがない。ちなみに原作は読んでませんが、四国の人は怒らないのだろうか、これを観て。
 (角田)
 

●地獄
 99 石井輝男(ニフティーサーブ配信)

 画質が悪かったので細部がわからなかったから、もう一度公開後に観て感想を書き替えるかも知れないことを最初に断っておきます。これで話題になればこういう公開(?)方法もいいんじゃないかとも思いますが…CM代わりとしてね。
  しかし、石井輝男の変態ワールドが全開してぶっ飛ぶというか、スキャンダラスな部分に一瞬絶句した後、狂喜、大爆笑となります。
  本来なら、プログラムピクチャーで、封切りが迫っているから何でも良いから作れというノリに近く、企画としては思いつくがプログラムピクチャー絶滅の今となっては誰もやらないことを敢えてやっていることに拍手を送りたい。三度目のリメイク作品で、最近の犯罪事件(宮崎勤、オウム)の再現をやるなんて、みんなが観たくてもテレビでもここまではやらないよな的、台詞まで忠実に再現してあるあざとさ。その徹底ぶりに観ている方が乗ってくるという、ほとんど確信犯的、見せ物小屋感覚映画。でもなんか腑に落ちないラスト(笑ってしまった)、他はエログロはツボを外さない演出。低予算の中、これだけのスケールのあるプログラムピクチャーを作れるなんて、若手は絶対かなわない世界を築いて、しかもだれでも楽しめて面白い。このサービス精神、娯楽映画の王道です。やはり石井輝男はすごい。
(角田)


●シーズ・ソー・ラヴリー
  She's so lovely 97 ニック・カサベテス(ビデオ)

 脚本が故ジョン・カサベテスと書いてあったので、借りてみた。やっぱ息子は才能無いね。膨らますことの出来る素材をしぼませてけちくさい、陳腐な映画にしてしまった。
 20代のカップルがいて、愛し合っているのに夫(ショーン・ペン)の暴力癖が直らないために、つい精神病院に連絡してしまう。妻は後悔したが、夫は救急隊員を撃ってしまう。そして病院送り。10年たって妻は別の男(ジョン・トラボルタ)と再婚し、子供も出来た。退院してきたもと夫は妻を求めて、今の夫と対話をする。最後は妻の選択に任せる。とダラダラと続くし、ドラマの核がどこにもない。登場人物の壊れ加減もきちんと描けていない。たぶん、ジョンはラストまで書いてなかったのではないか。納得がいかない。
 ジョン・カサベテスだったら狂気のちょっとはずれた人をもっと絶望と希望が交錯するのを暖かい視線で描けたのに、無い物ねだりはやめといたほうがいいね。
 角田)


●シックス・センス
 THE SIX SENSE 99 M・ナイト・シャマラン(渋谷シネフロント)

いやー、見事に騙されましたわ。ドンデン返しがあると聞いていても、最後まで分からなかった。ルール的には反則ぎりぎりというよりも、大反則だあ!そりゃわからんわ。これ以上バラすと結末が分かってしまうかも知れないんでこれくらいで。
  全体的な作りが非常にオーソドックスな撮影、演出がなるべく目立たないようにして観客を安心させといて、いきなり幽霊を現実と同じレベルのリアルさで出してきて、恐ろしさ満点のホラーに一瞬にして映画を変える。これは、『ブレア・ウイッチ・プロジェクト』とは正反対の手法だけど、ボク的には『シックス・センス』の方を買うなあ。きちんとしたスリラーを現代的に解釈した分だけ、素人のまぐれ当たりの『ブレア・ウイッチ・プロジェクト』よりは全然いい。
  幽霊の出し方にしても、照明や息が白くなったりして、「出るぞ出るぞ」と思わせてそれ以上の衝撃を与えてくれるからねえ(げろ吐き少女には参った(笑))。ホントにありとあらゆるホラーからスプラッター、ショッカーを研究して、さりげなく作り出した、丁寧な作りだと思う。だからロングランするし、人に薦めやすいんだろう。
(角田)


●シド アンド ナンシー
 SID & NANCY 86 アレックス・コックス(ビデオ)

 主人公が、泥沼にはまって人生最悪まで行く映画って嫌いじゃないので、ほとんど息苦しいまでの夜間と室内ばかりの舞台の中でダメ人間達がどんどんダメになっていくのが哀しくも切ない。アレックス・コックスはそこに音楽とか、余計な感傷を持ち込まず、最初からダメになってくに決まっている二人をそのままに描いている。だからそれが観ている方に何のエクスキューズを与えてくれないので苦しい。たぶん予備知識があった方が楽しめるのだと思うが知らなくても取り残されることはない。アレックス・コックスのお得意の幻想シーンも冴えている。特に『マイ・ウエイ』を歌いながら拳銃を乱射してブルジョアどもがくたばるところは大いに笑える。
 (角田)


●死人の恋わずらい
 01 渋谷和行 池袋文芸坐

  邦画のビデオ販売用作品としては、AV機能に力を入れるところからはじまっている。コダックフィルムで発色を良くして、ライトの当て方もポートレイトを撮るかのように背景から浮き上がるようにしている(カメラはスーパー16による)。音響のミキシングが、コンサートのように派手なだけでメリハリがないので、却って印象に残らない。あと同時録音で音がこもっているのは、録音技術の無さ。劇伴音楽もひとつしかなく、どんな場面でも同じ曲が使われるので、怖いシーンも興ざめする。
 しかしながら、問題なのは、なぜPVやテレビ出身の新人監督は高校生ものを撮ろうとすると、みんな大林宣彦になっちゃうんだろうか。この作品では、田舎の水郷と古い建物があるコジャレタ町が、千葉県佐原市にロケされている(ここは『うなぎ』や『月光の囁き』でも使われている)。『うずまき』では、長野県上田市でロケされたりと、大林の尾道状態になっている。それでなぜか自転車二人乗りのシーンが必ずある。また主人公の家も和洋折衷の住宅だったりする。なんか地方都市出身のルサンチマンが感じられるんだよね。というか、 映画で一番大切なものはイメージなハズなんだけど、それをパクってきてなんとも思わない感覚が、PV、テレビ出身って思ってしまう。演出や編集の下手なところは置いとくが、勘違いしてんじゃないか。まあ、タレントをきれいに撮ることだけはほめられるけど、役者としては扱いきれてないね。後藤理沙はオブジェ同様だ。三輪明日美が芸達者なのには驚いた。そういえば『いきすだま 生霊』でも良かった。わかりやすくいえば、小林聡美クラスのうまさだ。
 SFXというか、CGI合成シーンがビデオ画面になるのには参った。合成の失敗だろうか、効果だと言われてもうまくいってないと思う。
(角田)


●ジャンヌ・ダルク
 99 リュック・ベッソン(ヴァージンシネマズ市川コルトンプラザ

 ベッソンによるコスプレ超大作。「フィフス・エレメント」の頃よりは格段に「女優」になっているので、ミラ・ジョヴォヴィッチが好きじゃないヒトは、ますます嫌いになるだろう。あの声でオーバーに怒り、泣き叫ばれたら、たまったものじゃない。
  映画監督が自分の恋人を主演に据えて映画を撮るのは別に珍しいことでもないが、その作品のスケールが大きければ大きいほど、その監督と主演女優の恋愛は破綻へと向かわざるを得ないのは何故だろう。ま、いずれにしても自分の恋人を使って 2時間半ものコスプレを撮れるというのは、うらやましい限りだが。 
(船越)


●『住民が選択した町の福祉』  97 羽田澄子(BOX東中野)
●続『住民が選択した町の福祉』問題はこれからです
 99 羽田澄子(BOX東中野)

 NHK-BSで、羽田、土本典昭、松川八洲男、それに文部官僚評論家、寺脇研の出たシンポジウムがやっていた。終盤、観客席から質問が飛んだ。「ドキュメンタリーにおいてビデオの可能性についてどう思われますか?」出席者一同は、それまでの(良く見るドキュメンタリーの意義について語る作家)の勢いとは違って、あいまいな笑みを浮かべて言いよどんだ。 「確かに、フィルムにはこだわっているが、ビデオは、長く回せて融通が効くし、安い」というようなことを次々と述べた。それは、否定とも肯定とも言えない歯切れの悪い回答だった。 そこには、テレビに対する優位性、フィルム=映画へのこだわり。上映という手段で動員することが、テレビという不特定多数を相手にするものとは違う、「運動としての映画」を生み出すという信念だろう。
 このようなテクノロジーに対する敗北、戦略の無さが、岩波文化人(市民)に消費される映画になり、興業としても、生活の手段としても成立しなくなる悪循環を招いているとも言える。対する権力もなく、そこに共感する観客も作れなくなった現在、ドキュメンタ
リーの存在意義は問われ、情報ニュース番組と境界はますます曖昧になる。もっと、テクノロジーを活用するべきだと思う。それが作家の武器ではないだろうか。
 ビデオだから映画だからというのは、問題を対立にしか持っていかず、何一つ本質的な問題を訴えることはない。(もちろん、だからといってテクノロジー史上主義がいいとは言わない)
 僕流に言えば、平野勝之の作品が面白く、『A』がつまらないのはそこの問題をどう捉えているかの差なのだが。
 ドキュメンタリーの手法も世代交代があるべきではないだろうか。サティーの曲に、女性ナレーションに、愚直なまでのインタビューは、もう流行らないのではないか。水俣、三里塚の「ドキュメンタリー=運動」から古屋敷、そして羽田澄子の「ドキュメンタリー=記録」の時代を経て、次の時代に行こうとしている。誰もがビデオカメラを持てる時代、作家は何をすべきか、まさに問われていると思う。
 (角田) 


●呪怨
●呪怨2

 00 清水祟(ビデオ)

 だれもが連想する「新耳袋」。現代の怪談といってもよいが、本作品はその映像化とともに、今の観客の中にある、「ショートケーキハウスの怪」をめぐる心理をぎゅっと鷲掴みにしている。数年前「学校の怪談」が流行ったのも、日常の中にある恐怖が観客と作り
手に共通の認識としてあったからだと言える。“誰もいない、学校って恐いよね”“うん、そうだね”。これだけで映画を取り巻く皮膚感覚は成立したといえる。それが、いまはテレビに映させる猟奇事件、その舞台が郊外のなんでもない建て売り住宅だった
りする。そんな日常性がリアリティーとして成り立つようになったので、このストーリーも成立したといえよう。
 なにが恐いって、なんにも起きないのだけど、なにか起きそうだ、という間と、狭い空間なんだけどその見えない空間に絶対何かいる!と思わせる隙のある空間の作り方が非常に上手い。
 また何かが、出てからはこれでもかというくらい、観客を恐怖のどん底に陥れ安心させないねちっこい演出。普通あそこまで行くと笑っちゃえるんだけど、笑うという逃げも用意してくれない。
 『呪怨2』まで行くと、ちょっとやりすぎだと思うけど、変質者やお化け屋敷じゃない、本質で言えばショッカーに近いテイストを持った作品に仕上げられた ことは評価すべきことだろう。 『ブレア・ウイッチ』の百倍マジ恐いっす。
 (角田)


●出発
  le depart 67 イエジー・スコリモフスキー(渋谷パルコPART3)

 すべからく、青春映画というのは、恥ずかしいものだ。10年前に熱狂した映画を見直してどこが面白かったんだろう。ママゴトじゃんと見直して思う映画がある。それは30歳をはるかに越えた奴の遠吠えであって、20代の奴等は観なければならない。大人になって、この映画をオシャレとかいって売り込もうとする奴は信じるな。青春映画はだいたい情けなくて恥ずかしい幻影的なもの。それを自分の良い様に解釈して、秘かに楽しんでいれば良いんだ。
  ストーリーは美容院で働く、自動車ラリー狂のジャン=ピエール・レオが、何とかして金を工面して、ポルシェを借りてレースに出ようとするが、金がない。そこで出会った元モデルの娘と金を工面しようとしていろんな手を(詐欺紛いも含む)使う3日間のお伽噺。ほぼ、即興としかいいようがない演出と小気味よいカッティングで若いなあと思わせてくれる映画だ。個人的にはいくつかの幻想的な現実何だか夢何だかわからないシーンが突然挿入され、ビジュアル的に強烈なので物凄く印象に残ってしまうので好きだ。ラストの解釈もどう考えればいいのかなあ。
  しかし、99年に渋谷でスコリモフスキーが観られるなんてなんと贅沢な体験だ。『早春』はいつ再映されるのだろうか。
(角田)
 

●出発

 洋画、邦画を問わず、青春映画は、ちょっとせつない。フランスとオランダとドイツ(ポルシェで疾走するわけだし)に挟まれた、ボクにとっては「シメイ(ビール)」の国といった程度の認識しかない、ポーランドからの亡命監督によるベルギー産のこの映画も、やはり例外ではない。
  ポップでシュールな映像美はこの当時のヨーロッパの流行だろうか、「地下鉄のザジ」(ルイ・マル監督・1960年)とイメージが被る。主人公がジャン・ピエール・レオーというのも、ヌーベル・ヴァーグの系譜に入れてしまいたくなる要因か。
  粉々に割れた鏡が「逆回転」で元に戻るところなど、印象的なシーンも多い作品だった。「ポルシェ」から「女」に目覚めるラストシーンは新しい人生への「出発」というよりは「あきらめ」のように思えるが、後味は悪くない。
(船越)


●シュリ
 SHURI 98 カン・ジェゲェ(新宿ミラノ)

 広い劇場で公開されて良かったです。お陰で多少の粗さも気にならずに観られました。というかそういう風格、この時代には珍しく“マス”(大衆って言葉なのかなあ)に向けて作られた映画と感じた。早く言えば、世界の映画が冷戦終結と同時に“マス”に向けての口実としてのテーマ(多くの人が共感するという意味で)を見失って、矮小になるか敵がエイリアンになるかしかならなくなった状況で唯一残されたドラマが生み出されるところ、南北朝鮮問題にフォーカスを合わせながらエンターテインメントの要素を見事に取り入れたのが面白い一因だと思う。それと同時に、冒頭の北のスパイ養成や銃器の組み立て、扱いのリアルさ(ずっしりと重さが伝わってくる点)などの細部の演出が映画に真実味を与えている。
  ドラマとしての甘い点、恋愛とか済州島のシーンや情報部内部のドラマなどは、『踊る大捜査線』をはじめとする、日本のTVドラマの影響があるのではないか と勘ぐってしまう。センチメンタルさと、ユーモア、人物の対立から出てくるドラマとの割合がそう感じさせる。脚本家、君塚良一の世界が前記の三点のバランスが絶妙の人だ からね。
  『シュリ』の上手い点は、実はクライマックスであるはずのサッカー場のシーン前に、登場人物の感情の流れが観客に完全に整理されて未消化な部分が無いために、ハラハラドキドキじゃなく、結果は分かっているのだが、悲劇がどのように結末を迎えるか、そこに完全に観る側の比重が行くように仕組まれているところだ。だから、この映画の一番の名シーンは一発の銃弾で撃たれ、彼の顔を見つめながら死んでいく、あの崩れるように倒れていくところだったと思う。あの彼女の表情に全てが集約されて感情が見事に頂点を示した。サッカー場というスペクタルな設定を作りながらも、音楽とかアクションで単純にごまかすんじゃなくて、脚本が良くできているために観ていて未消化な部分がない。
  逆に言えば非常にお古典的な話が成立するのは、世界で一番ホットな所でしかあり得ないのかも知れない。
(角田)


●少女ムシェット
  Mouchette 67 ロベール・ブレッソン(NHK‐BS)

 ブレッソンは、つねに最低な条件で最高の効果を引き出す魔術師だ。素人しか使わない頑固さ。手元のクロースアップ。雑音に近い音声の繰り返し。ブレッソンだけは永遠の前衛であり、本質を引き出そうとする監督だ。小さな村に住む、親父は密造酒で生計を立て、母親は病気で寝たきり、しかも小さな赤ん坊がいる。貧しいみんなの嫌われ者となる、ムシェット。この子どもからこれだけの演技をどうやったら引き出せるのだろう。あまりに簡潔で効果的で衝撃を受ける。
 ブレッソンの映画は音、映像、オブジェとしての人間が全て映画に奉仕する。それをシネマトグラフというらしいが、その効果の強烈さにスピルバーグの『プライベート・ライアン』は、ただ忠実に追っているだけだな、なんてことも少しだけ頭をよぎった。それにしても、ラスト・シーンの鮮烈さにはかなわない。壮絶すぎる。それだけで観る価値はある。
 (角田)


●少林サッカー  
   02 チャウ・シンチー (Tジョイ大泉)

 なに一つ確かなことはない昨今だが、日本では2002年はW杯開催の年ではなく、少林サッカーの年として後年まで 語られることは間違いないだろう。
 少年ジャンプのかつての(いまは知らないが)三大要素として、「友情」「努力」「勝利」を入れる鉄則があった。常に 変化を生み出さねばならない消費社会の流れの中、会議ではマーケティングという統計のウソに踊らされ、いつ間にか そのテーゼは古いということになって、出来の悪いRPGのタイアップマンガしか読めなくなった。部数が伸びなくなったの は少子化や多様化のせいではない。そのことはこの映画が証明している。ただ 作り手が自分を信じられなくなったと いうことだけなんだろう。
 こんな話を、いま日本で会議に出したら間違い無くつぶされるだろう。キミはいまのトレンドがわかっていないね。どこ が新しいのかね、と。映画の企画をつぶすのは簡単だ。娯楽には芸術性を、芸術には採算性を求めればいい。だれも 観客の方を向いていない。いや自分が観客ですらない。 観客は本気にしてくれる映画を探している。斜め読みしな きゃならないような映画の蔓延に飽き飽きしている。
 この映画が素晴らしいのは、そんな条件のなか、退行的に安直な企画ものに安住せず(「少林」と「サッカー」の組み 合わせほど安直なものはないだろう)、ほんとうに観客に信じさせたいし、もちろん 自分たちが信じているこの物語を 語りたいという欲求が高度なテクニックの次元で結集しているのだ。でないと、あんなオープニングCGアニメの格好 良さや、ワイヤとCGの融合の超現実感(ハイパーリアリティ)は作れないと断言できる。細かいつじつまの合わない部分 を観客が無視して楽しんでくれるのも、これらの想いが伝わるから だろう。いわば作り手を観客が映画を共有するもっ とも幸福な時間を生み出しているということなのだ。
 バカバカしいというのは簡単だ。でもバカバカしいことに映画の本質があると思いませんか。その想像力が映画の魅 力と考えないですか。信じられるホラ話が無くなって楽しいですか。青いユニフォーム着てテレビの前で騒ぐのがそんな に楽しいですか。いますぐ映画館に行きなさい。そこにはもっと笑えてずっと幸せな気分にしてくれる映画が待ってます。
(角田)


●昭和侠客外伝 無頼平野
  95 石井輝男(ビデオ)

 これは、面白い。必見ですぞ。特に石井ファンなら、よりお薦め。昭和の浅草の街角を曲がればそこは石井ワールド。見始めるとぐいぐいと引き込まれて、ただ溜息をつくだけ………。絶対に損は致しません。
 時は、昭和という時代でいつかははっきりしないが、レビューが盛んだった頃だからたぶん、戦前。場所も特定されてないが、たぶん浅草(いろんなところでロケはされているが)。
 レビューのスターを目指す踊り子(岡田奈々がイイ)に惚れる狂犬のサブ(加勢大周だが、昔だったら健さんだろうな)の孤独な格好良さ。はっきり言って低予算だがそれを越える石井監督の演出の技が冴えている。下手なセットを作ってごまかすんじゃなくて、逆
手に取って無国籍な世界にしているし、かと言って細部が疎かになっているかというとそんな事ない。レビューと決闘のカットバックなんて、これだけ決まるのあとは井上梅次監督くらいしかいないでしょう。
 エログロあり、網走番外地の世界もありのサービス満点。肩に力の入ったよくある任侠もんじゃありませんぜ。一大エンターテインメントです。看板に偽りなし。
 (角田)


●女囚さそり 第41雑居房
 72 伊藤俊也(亀有名画座)

 ごめんなさい、一作目をまだ見てません。これは第2作目。しかし、梶芽衣子は「あんた、アタシを売ったね」と「死んでるよ」の台詞が二つというのはすごい。というか、存在感で主役やっていたとしか言いようがない。キャスティング的には渡辺文雄、戸浦六宏、小松方正の大島渚組に、早稲田小劇場の白石加代子(恐い)、日活の伊佐山ひろ子と各社乱れてごちゃまぜの濃さで各人いい味を出しているというか、監督は、演技には文句言わない人なんだろうなあ。随所に観念的な演劇的な演出が入って、照明がスポットライトに、御詠歌が流れ、女囚の因果物語の説明があったり、最後に、副都心が出来る前の新宿プラザの前の道路を女囚達がスローモーションで駆け抜けるというアタマを捻るシーンが続出するが、梶芽衣子がぞくりとするほど美しいので良しとしよう(甘いね)。
 (角田)


●JOKER 疫病神
 98 小松隆志(ビデオ)

 池袋を舞台に昔、東西に分かれて抗争があった。そこで相手のヒットマンを返り討ちにした男を萩原健一が演じている。時間は現在に戻り、渡部篤郎の演じる、通称、疫病神は、子供時代に母親から虐待され、高校の時に逆に母親を絞殺した過去を持つ。その時受けたストレスのせいか、数百メートル全力で走ると血管が切れて死んでしまう持病を抱えている。時折たわむれに走り「だるまさんがころんだ」と心の中で数えながら、「まだ死なないじゃないか」と呟く。そんな彼の商売はジャブの仲介人。
 ショーケンは出所するも、組には帰らず、姿をくらましてしまう。そして彼を庇って殺された女への復讐を狙う。ここら辺、あまり喋らないが、存在感がある。やがて、見つけられ組の歓待を受けるが、裏では再び組み同士の抗争と裏切りの準備が進んでいた。渡部はショーケンのボディーガードとして行動をともにする。閉館した文芸座や池袋の様子が巧みに描かれる。ショーケンに惹かれていく渡部。
 ついに、抗争の火蓋が切られ、ショーケンは邪魔者として殺されようとする。ラストの文芸座での銃撃戦が泣かせる。『レザボア・ドッグ』の影響か、全員が黒いコートや服を着ているところがスタイリッシュだったり、渡部が同棲している看護婦(片岡礼子が良い)の住むアパートが山手線のすぐ脇にあったりして、ロケ場所や小道具へのこだわりが随所に見られる。
 これは、たぶん、脚本の高田純の功績も大きいだろう。渡部とチンピラの後輩との関係や片岡礼子との、さりげないシーンがいいし、話の展開もスムーズだ。監督の小松隆志も上手くなったものだ。『はいすくーる仁義』の頃はどうなるかと思っていたが。渋い作品ですが手抜きはありません。
 (角田)


●地雷撤去隊
 98 室賀厚(ビデオ)

 東南アジア某国にリゾートホテルを建てようとする日本企業。しかし建設予定地には地雷原が横たわっていた。工事は期日までに終わらせなければならない。そこで、刑務所から減刑をエサに囚人を志願させ地雷撤去に携わらせる。一癖も二癖もありそうな奴等、ア
メリカ人、中国人、そして日本人犯罪者が命を張って地雷原を進む。
 ロバート・アルドリッチの『地獄まで10秒』やジョゼ・ジョバンニの確か『ラ・スクムーン』と同じ様な設定だけど、過度に力を込めていなく淡々と地雷との戦いを描き続ける。見ていて結構はらはらする。実際にカンボジアでロケしただけあって迫力も満点。裏切り、裏切られるなど、定石な流れだがB級映画としての心意気が見える佳作。音楽のトルステイン・ラッシュが全編盛り上げています。映画音楽家としていい線行ってます。彼らについて情報を下さい。
 (角田)


●白 THE WHITE
 99 平野勝之(BOX東中野)

 『由美香』、『流れ者図鑑』と来て最終作はまさかひとりで厳寒の北海道を旅するとは思わなかった。旅を続けるものが見えなかった。今回は、旅に映画が呑まれてしまった感があるんだよね。監督のこだわりが一体どこに行ったのか、最後まで掴めなかった。ベクトルは“旅する自分自身”へと向かい続けたのではないだろうか。
  しかし、掘り下げて行くほどのものは無かったと思うし、そんなヒマも無かったのではないだろうか。記録者でも観察者でもない演出家は一体何者なのだろう。ゴールに向かうにつれてその意味がどんどん曖昧になり、風の音と車輪の音だけしかしなくなったのは、監督の映画に対する敗北ではないだろうか。もっと人間を撮って欲しかった。
(角田)


●新唐獅子株式会社
 99 前田陽一(中野武蔵野ホール)

 原作の小林信彦と同様に乾質のユーモアを描ける監督だった。プログラムピクチャー精神というものをどこかに持っていた人。そんな想いがする。
  製作がGAGAではっきり言って低予算。赤井英和も良くおさえられたと思う。役者もほとんどいないので喜劇として見せ場が少ないというか芝居をそこら辺を呼吸で見せてくれないと見せられる方はちょっとつらい。細かいくすぐりはたくさんあって笑えるのだけど、積み重なってこない。逆に、Vシネ的な安っぽさが見えてくるのがつらい。脚本の練り方にちょっと無理があるかなと思うけど、どうしてもカラッとしない。画が狭いというか、そこら辺 あっけらかんと開き直って撮影すればよいのに気を使いすぎている。スケールがでないんだよね。大阪でロケは出来なかったという話も聞くけど、もっとセットとか上手く使えなかったかなあ。
  テレビの視聴率に対する皮肉とオチ(考えオチだね)は良くできてたと思うが。ちなみに山本竜二は良い役者です。
(角田)
 

●シンク
 97 村松正浩(BOX東中野)

 1人の女の子と2人の男が、相互にテレパシーで絶えずコミュニケーションを撮りながら日常生活を過ごしている。その有り様をドラマチックさもなく、淡々と描く。ビデオ作品。
  ビデオでダラダラと長回しをして、良い間違えても、言葉に詰まってもNGだか、分からない画面がつながれていく。それは、それなりに快感がある、というのはウソで、たぶんこの作品が最後まで見ていられるのは、二つの理由があって、一つは、センスの良さというか 自主映画の王道の貧乏臭さをクリアしている点だろう。出演者の自然さ、衣装のセンス(オレンジのダッフルコートは決まったね)、小道具などが、まあ90年代しているから、生活感無いから、ファンタジーとしてまた、現在の青春映画として成立している。カメラがグチャグチャ安定しない分、テレビの深夜枠ドラマには無い生々しさはある。もう一つは音の良さで救われている。風によるノイズは無いし、ビデオ特有の些細な呟きまで捉える繊細さが作品を引き立てている。結構、そこに気を使っていると思う。音楽へのこだわりも自然であり好感が持てる。
  編集では、岩井俊二の影響か唐突にインサートが入ってビジュアル・ショックでまあ、ダラダラをごまかしてる部分もあるけどね。
  ビデオの特質なのか、作品の特質なのか分からないけど、悲しいくらい淡泊な3人の関係、他人への不干渉、双方的に見えて、実は一方的なコミュニケーション。カメラは3人の物語の中に入らず、回りをなぞっているだけ、そのシラケ具合が独特さを生んでいた。一つのやり方だとは思うけど、そこに監督の刻印が見えるかというと分からない。同じ方法は2度出来ないだろう。商業路線には乗らないだろうがそれはそれで良いのかな。ちょっと長いので覚悟してみるべし。90年代の一つの側面が見えるかも。
(角田)
 

●シンク

 内容については、上記の角田さんの欄を見て想像して頂くとして、さて問題はこの作品について何も語ることが出来ないことだ。どこが面白いのか全く理解できないのだ。
  テレパシー女が仲間を探すプロセスを描いた話だと勝手に想像していたボクもいけないのだが、あっさり3人が知り合ってしまった時点でもう観るのを投げてしまったような気がする。あとは3人それぞれの人生がどー平行線を辿ろうが、シンクロしようがどーでもいい。
  どうも「現実に負けている」という気がするところが、つまらないと思う最大の要因かも知れない。「テレパシー」を巡る人間ドラマよりも「伝言ダイヤル」や「テレクラ」や「インターネット」を巡る人間ドラマのほうが遥かに刺激的 なんだもん。
  いやーそれにしても本当にこの作品苦手だ。「死んでも続いてたらどうする?」というオチ丸わかりのセリフもイヤだし、主人公の女がコルク抜けずに悪戦苦闘するシーンをダラダラ映して「男の不在」もしくは「孤独」を描くというやり口も好きじゃない。クライマックスの3人がシンクロする舞台が「海」というのも…
  ぴあフィルムフェスティバルでグランプリ取ったのは、ノンリニア編集機も使わずによく1時間半近い作品を作ったと言うその「長さ」が評価されただけなのではないか?と密かに思っている。もちろんこんな事を好き勝手に言えるのはボクが撮る側の人間ではないからに他ならない。別に映画に努力のアトなんか観たくないんだもの。
(船越)
 

●新宿黒社会 チャイナ・マフィア戦争
 95 三池崇史(ビデオ)

 三池 崇史は、状況しか撮ろうとはしない。情緒ある演技の表情は、切り捨てられたように映されない。そこから醸し出される光景はリアルと言うのは簡単だが、やるせない抜け出せない現状を空気として捉えようとしているように思える。
 彼は何も日本社会を告発するというのではなく、映画として描ける許容量をいつも試しているようだ。タブーな世界を押し広げていこうと言う方向性は、崔洋一が目指す汎アジア的なものとは一線を画している。三池の方向は、黄金時代と高度成長期を過ぎた日本映画と日本人自身に、“邦画を面白く見られるか”という職人監督としての問いを絶えず観客に突きつけ、繰り返しているように思える。その問いかけを勘違いすると、ただ真面目な映画、暗い邦画と思いこんで見ない人間が多いと思う。毒気のあるユーモアとアウトローの格好良さ、映画の持つテンポの良さを見落としてしまうこととなりかねない。
 黒社会第1弾のこの作品は、シリーズ化を考えていたかは分からないが、馳星周の「不夜城」の影響下にあることは確かだろう。(と思って調べたら「不夜城」は96年で1年遅れだった!)しかし、決定的に違うところは、主人公の椎名桔平が、新宿署の刑事というところだ。彼自身、父が日本人、母が中国人の残留日本人孤児で、この国で生き残るために刑事になることを選んだ。そして彼の弟は弁護士を選ぶ。椎名が、最初ガサ入れで登場するところでは、悪役か、何者か分からないが、歌舞伎町の空気を知り抜いている男が歩いているという緊張感に溢れた空気を漂わせ、単純な警察対極道の対立構図にしていない。そう、単純な図式が割り切れない人間を描いていくことで、物語が深まっていくのが、三池ワールドの魅力でもある。そこを、家族、仲間、裏切り、信頼、暴力と言った世界が取り囲んでいる。
 セックスに対する、特にホモセクシャルのストレートな描写も彼の特徴じゃないだろうか。あまりにさらりと描かれ毒々しくなく、間抜けで、権力構造に取り入ろうとか、野心が見えない、無償の(と言っても金は取るが)行為として描かれているのが多い。ありき
たりの描写のひとつとして割り切っているのだろうか。それに対する女とのセックスは暴力的だ。相手は中国人だが関係なく扱われている。が、彼女らのバイタリティーはそんなことに拘泥しない。義理とか人情じゃなく、「あなたとのが良かったから」と言って男を
助けたりする。
 物語は、署内でも嫌われ者の刑事、椎名が、歌舞伎町のチャイナ・マフィアとヤクザの間で地下に潜った殺し屋、王(田口トモロヲ怪演)を探す内に、彼らの仲間となった弟を見つける。家族とは違う道を歩むという弟。最後の家族で集まったところは、何気ないシーンだが静岡に引っ越しする両親が最後に訪れたところが皇居二重橋。(撮影は難しいところだけど、上手くつないである。)そこまでして撮りたかったシーンだろう。そこには声高な主張は見えないが、さりげなく映画の深さと矛盾が提示されている。
 途中、台湾に渡り、捜査を進めて行くところがあるが、日本人の刑事ではなく、残留日本人孤児二世の目から見ると違うのだろうが、これが、凍てつく中国の北であったらドラマは膨らんだだろうなとは思うけど、言いたいことは良く分かる気がする。
 ラスト、全てを一人で被り、暴力で解決した虚しさ。スーツを着て、食べ物に不自由せず新宿を歩いていても、所詮は異邦人という目線がしっかりと出たのではないだろうか。そう、家族の中で泥を被ってまで日本で生きるのは俺一人で良いと、見えない誰かに向かって振り返るストップモーションは語っている。
 (角田)


●新 仁義なき戦い
 74 深作欣二 (ビデオ)

 『仁義なき戦い』5部作は遥か昔、ぎゅうぎゅう詰めのオールナイトの小屋で一気上映で、あの主題曲と手持ちカメラにとてつもない衝撃を受けて 18年ほど。それ以外の実録ものはあまり見ないで、渡 哲也が怪獣と化す『仁義の墓場』という傑作や、『北陸代理戦争』くらいしか見ていなかった。
 ある種、現代に近づきすぎた題材、(神戸の方との関わり合いもあるのだろう)それから離れるために、再び時代は昭和25年の呉に戻る。もう一度、スケールの小さい第一作のリメイクと化している。東映の体質なのかどうかわからないか、一度適役が決まった役者は他の役が出来ないようだ。そういう安定性がシリーズのダイナミズムを削いでいる。ゲストの若山富三郎は今一つ実録ものに乗り切れていなかったようだ。
 (角田)


●新 仁義なき戦い 総長の首
 75 深作欣二 (ビデオ)

 シリーズのマンネリ打破に向けて狂言回しの菅原文太を風来坊の旅人に設定した。舞台は下関。ここでも地方ヤクザのシノギを削る同じ組の中で分裂裏切り合いが行われている。
 いい加減、シナリオで人間関係を作るヒマがなかったのか、あまり魅力のある人間の葛藤がない。ただ二代目候補、今はヤク中の山崎努の演技が恐いほど凄惨だ。
 (角田)


●シンドラーのリスト
 SCHINDLER'S LIST 93 スティーブン・スピルバーグ(ビデオ)

 手抜きの帝王、スピルバーグが撮る、良心的な素材、ユダヤ人虐殺をテーマとした、アカデミー賞狙い(実際に取ったが)の映画をちょっと敬遠していたけど、前に同じ狙いで作った『カラー・パープル』があまりにもひどかったんで、今回も『ジュラッシック・パ
ーク』の次がこれかよ、と思ってたんで長らく観る気にならなかった。
 が、しかし滅法面白い作品に仕上がっていて、スピルバーグもここまで出来るのかというよりは、デビュー作品の『激突』や『ジョーズ』の頃の感覚に戻ってきたんだなあと感じた。それは、『プライベート・ライアン』で効果的だった残酷描写。よくよく考えれば、『激突』の頃から ずーっと生理的恐怖感をこの人は追求していたように思える。『ジョーズ』の怖さなんかもそれに類するものであることは明らかだ。だから『シンドラーのリスト』でも同じく、ユダヤ人の虐殺、特に人が後頭部を撃たれて死ぬシーンの人の倒れ方など感嘆するほど恐ろしく見えるように演出されている。それを観るだけでも価値はあると思う。『プライベート・ライアン』と『ジョーズ』を結ぶ線はここにあったんだなあと確信した次第。
 (角田)


●シンプル・プラン
 A Simple Plan  98 サム・ライミ(新宿武蔵野館)

 サム・ライミがブランクを経て、新しいスタイルで現れた。というよりも、今回のスタイルは彼がテレビシリーズ『アメリカン・ゴシック』などを手がけていたせいなのか、ストーリーを簡便に語る方向を全面的に押し出している。
  というのは、脚本が素晴らしく書けているので、敢えてカメラワークで心理の表現や観客の感情を揺さぶる必要がないと判断したためだろう。原作者による脚本は、人物配置、葛藤がアメリカ映画の定石のひっくり返しで反モラル的な一般人を描き出している。壊れた兄弟愛、貞淑だが欲深い妻、善人だが悪党になる男。彼らを運命の必然に追い込んでいく演出が冴えているし、役者が素晴らしい。大仰でなく、雪深い貧乏な田舎町にひっそりと住む人間の心理を丁寧に、切り返しの積み重ねだけで描ききっている。余計なカットが全くないミニマルな傑作だ。
(角田)


●シン・レッド・ライン
 The Thin Red Line 98 テレンス・マリック(新宿ミラノ座)

 G島における攻防戦を描く作品を作り上げることを選んだ、テレンス・マリックには確たる映像のイメージが、イメージのみがあった。美しい映像を作り上げる作業は20年前に『天国の日々』で、既に完成させてしまった。次に作り上げるのは、 、「映像自身が美しく映画を語る映画」として存在できるかどうかの実験だった。美しい日没の寸前の農場の暖色の映像ならどんな陳腐な話でも受け入れられていく。そこだけが評価されたことでマリックは落胆して姿を消したのではないだろうか。
  20年後その正反対の条件、太陽光線の直射日光が、鋭い光を差し込み自然の力に委ねられたまま生い茂る緑の雑草と、対照に織りなす濃い黒い影のコントラスト、そして倒れ行く兵士の血と、砲撃の火、立ち昇る黒煙、白煙の世界。生と死が、夜明けから日没までの時間のなかで最大限に引き延ばされ、そのなかで生き延びるしかない兵士たち、ドラマは単純だ。饒舌な言葉と、兵士のモノローグと、断末魔の悲鳴は同等な一つの世界を型どるオブジェであり、要素だ。砲撃と銃声が感傷をかき消し、雑草を渡る風の音がスクリーンを覆いつくす。
  何も削ぎ落とさず、表現できるものは全てスクリーンに現わす。ものすごく豊かな映画なのです。興行的には惨敗するだろうし、誰もが沈黙して無かった事にしようとする映画だろう。
  しかし、観るのなら、画面に現れたイメージを全部吸収しながら観るしか観る方法は無いのです。全てを画面のイメージに晒して、途中で何かを決めつけて観るものではないのです。映像詩という楽な言葉がありますが、ここでは、 映像だけではなく映画全体を詩に変えようとする試みがなされているのです。しかも、50年以上前の戦場を舞台として。戦争映画を撮ろうとしていないとか、人物像が紋切り調だ、いや複雑すぎるとどちらでも解釈できるように曖昧さ(それこそ、戦争の不条理を体現したものではないだろうか)を構造的に持たせ、他の戦争映画が作り出す、スペクタルと残酷描写とは違う、監督自身が生み出すリアリズム世界を作りだしている。
  繰り返して言うが、戦争映画になっていないとか、退屈だ、という批評は的外れだ。これは、物語を語ることが映画という狭い考えを捨てさせ、映像とイメージの織りなす記録を映画という世界で表現しているのです。 映画の可能性をどこまで拡げられるかに挑戦している闘っている過激な映画なのです。
  多くのハリウッド映画が、物語とSFXとマーケティングに安住した、世界共通のパッケージ製品を提供している中、ハリウッドの持つ世界随一の技術を使い、全く別のものを作り上げていく確かな演出を堪能するべきなのです。画面の隅々まで、何十キロ先の立ち昇る煙にまで神経を使い構築する完璧な画面。丘を登る兵士を背後から狙うクレーンショットの動きの計算され尽くした完璧さに酔っていいだろう(こういう映画のメイキング本が世みたい)。
  終わらない悪夢のように続く、延々と続く戦闘シーン。そこには何のカタルシスもない。『プライベート・ライアン』が疑似体験なら、この映画は極限体験に置かれたもっと居心地の悪い体験を提供してくれる。普通の映画なら、進むストーリーも停滞して、誰が誰だか分からない登場人物達と雑草の茂みに延々と隠れていなければならないのだ。映画の中のリアリズムじゃなく、リアルな映画の記録、それが詩に昇華されていく過程を一緒に体験することなのだ。
  多分に文学性の未消化の部分はあると思うし、それほど効果を上げていないアイディアもある。典型的なフラッシュ・バックや、日本兵の描き方などは納得がいかないが(アメリカ兵の撃つ時は百発百中なのはおかしい)、映画の可能性を拡げてくれたことに、これがハリウッドで作れたことは大いに賞賛に値する。たぶん、また早すぎた映画を作ってしまったのだろう。
(角田)


●人狼
 00 沖浦啓之(テアトル新宿)

 誰が押井守を必要としているのか。アニメをアートに加えようと、記号的に作品を読みとることは、彼の術中にはまることになるのに。庵野と同じく、押井もダブル・スタンダードを駆使しているのでどんな攻撃にも耐えられる。逆にどんなにまじめに語ったところですっぽりと手の中から抜け出てしまうのだ。押井は庵野ほど、露骨なことはしないけど、彼も作品を読みとろうとするものを拒絶する。
 彼の作品作りは、あらかじめ「どのように読みとられるか」というところから発想が始まると言っても過言では無い。「うる星やつら」にしても「パトレイバー」にしても「甲殻機動隊」も、原作の読み変え作業から始めている。どうしたら別の面から別の物語が語れるか?それが第一歩だと思う。設定をいじるというやり方で、アニメの脚本ではよくやることだ。
 これは藤原カムイと組んだ「犬狼伝説」が原作だが、映画では、大胆にホンのサブキャラクターだった警官を主人公に据えている。いわば外伝を書いていることになる。そこにわかりやすい“赤ずきん”を持ってくる。この撒き餌にみんな食らいついてくるが、押井にとっては、どうでもいい口実なんだよね。日本のアニメーションの人は借り物でみんな武装しているんだ。庵野の場合は開き直っちゃったけど、押井は、巧妙にもう少し難解なレトリックを持ってきて評論家転がしをしている。押井にとってアートの擁護なんか必要じゃないんだ。そこをクリアして、細部で遊ぶ。徹底したIFの戦後を再構築して楽しんでいる。
 技法として、影を一段落ちにして、立体感を強調していない。いまのテレビアニメ、OVAになると、二段、三段は普通だから、これは珍しい。監督の意図だろうか。昭和30年代の邦画のようなライティングを意識しているのだろうか。時代性を出すために。確かに細部にこだわる描写のために評価が高いのは分かるけど本質的じゃないよね。ホントのオリジナリティのある日本のアニメ作家は大友克洋だけだと思う。
 (角田)