青春の蹉跌
神代辰巳
関の弥太ッぺ
山下耕作
セシル・B・ザ・シネマ・ウォーズ
ジョン・ウォーターズ
セ・ブ・ン・ティーン
松梨智子
0課の女 赤い手錠
野田幸男
戦争のはらわた
サム・ペキンパー
千と千尋の神隠し
宮崎駿


●青春の蹉跌
  74 神代辰巳(ヴィデオ)

 長谷川和彦の脚本作品は主人公が破滅するものが多い。きわめてニューシネマの影響が大きいのではないだろうか。名シーンといわれているエンヤートットのおんぶも『恋人たちは濡れた』を観ていたので、それほどインパクトは感じなかった。
 でもオープニングのスケートはハッとさせられるし、桃井かおりの脱ぎっぷりも鮮やかだ。ただこのドラマツルギーの危うさは、時代の空気を孕み過ぎていることで、時代を越えられているものなのかは分からない。
 神代の演出はそこの部分をあっさりと描いていると思う。陰を含んだ演技ができたショーケンが素晴らしい。
 (角田)


●関の弥太ッぺ
   59 山下耕作(ビデオ)

 快楽亭ブラック師匠をはじめ、おおくの人が生涯のベストに推す、長谷川伸原作、中村錦之助主演の任侠ものの原点といえる作品だろう。
古谷伸の撮影が美しい。山下耕作のアクセントである花も、構図と物語の要所を締めるポイント として的確に置かれている。
  物語の構成については長谷川伸について語ることになるので、あまり触れない。映画と関係ないところで成立していると思うのだけど、ことがうまい。このことを差し引いても、映画の完成度は高い 。セリフは無駄がなく泣かせるし、キャラクターが運命に翻弄されていくのに、ホントウの悪人が誰も出ないところがすごい。ものがたりの進み方がほとんど不条理に近い、 ありえない設定なのに、みながその性格に合わせて演じきってしまうので、そのテンションの高さがものがたりの質を支えていると言える。涙を流したいときには観るとよいでしょう。 日本人以外にも絶対通じる作品だと確信する。
(角田)


●セシル・B・ザ・シネマ・ウォーズ
 CECIL B DEMMEND 00 ジョン・ウォーターズ (リーブル池袋2 ) 
 
 「革命の映画ではなく、映画の革命を」を叫んだゴダールは、誰の金だろうと金はカネだ。と嘯きながら誰も観ない映画をつくり続けるようになった。結局は “革命を唱えた”映画しかつくらなかったということだ。
 そして21世紀、誰もが映画への愛を語り、国際映画祭の話題やシネコンの繁栄など、映画産業の未来はいやとなるほど明るい。
だれもスプリングがボコボコになった座りごこちのわるい椅子に、アメの降ったブツ切れのフィルムを流す名画座なんぞなかったことになっている。そんな空間を薄いぴあを抱えて渡り歩いた銀縁メガネの顔色の悪いにんげんもいなかったことになっている。
 そんなフザケタ状況に天誅を下すのが映画製作集団「スプロケット・ホールズ」だ。名前の由来はフィルムの両側にある穴のこと。映画が好きだと言いながら、 『フォレスト・ガンプ』を良い映画だと言って、パゾリーニの映画を見に行かない奴。ポルノやカンフー、ドライブイン・シアターにかかる映画を下品だといって観ない奴、(そしてそういう映画を観ているにんげんを差別する奴)。すべてまとめて天誅だ!
 そうだ、『パッチ・アダムス』を観ている暇があったら映画を作るんだ。真の映画を。大予算を使った映画なんて、くやしいけどできないんだ。でもそんなことは問題じゃない。要は真の映画をつくろうとすることが真の目的なのだから。編集したり、上映したりするのはどうでも良いんだ。でもわれわれの革命的な映画の素晴らしさにメジャーの映画会社が「理解をして」、ハリウッドに招くというなら行かないこともないだろうけど。これこそ真の革命の達成といえるだろう。契約の条件として専用トレーラーと高級レストランでの会食も…。いやこれは 革命を成し遂げた芸術家に対する当然の権利であって、権力に取り込まれるのではない。 芸術的作品は単なる娯楽映画とは違うんだ。
 そして、われわれの作り上げた真の革命的映画は4時間を越えるモノクロ映画になるだろう。当然の革命プロパガンダとして、国際映画祭に出品して革命を世界に広げるのだ。賞を獲るためにはパーティーや審査員の買収も革命の勝利のためには仕方がない。おい、早く記者会見をセッティングしろ!日本人に先を越されるぞ。
 スタジオのボスとの会見に、キャラクター・グッズの版権料?これで敵の本丸に入り込む全面的勝利であり、フィギュアは労働者の創造物の権利を再配分するという、革命における富の再配分の実現である。え?それじゃジョージ・ルーカスやスパイク・リーと同じじゃないかって。 かれらはすでにわれわれの革命の実践者なのだ。かれらは革命資金の調達のためにキャラクターを生産し、政治的主張をわかりやすく長い映画にするのだ。
 さあ、きみも映画が好きなら、革命的な映画づくりをしてみないか。オレ?オレハまず借りてきたビデオの延滞料金を払うよ……。
(角田)


●セ・ブ・ン・ティーン
 97 松梨智子(ビデオ)

 『毒婦マチルダ』の毒に当てられて、つい買ってしまった前作のビデオ作品。
 高校生のDJ(といっても放送部)の主人公、イサナは、髪型のことで文句を言う女教師の言うことを聞き流している。「何が言いたいんだ、この女。べらべら喋りやがって。そうか、自分の保身の為にオレにこんなこと言っているんだな」と逆ギレして、夜、帰宅す
る教師を公園で待ちかまえてレイプする。そこに軽快な音楽とタイトル『セブンティーン』が重なる。
 相変わらず、リアリティー無視のテンションの高い役者の演技で、全員高校生に見えないし、教師もそれらしく見えない。そんな中、朝礼でブスの女教師(カツラを被った男が演じる)がレイプ事件を全校生徒にばらす。被害者の教師はそのあと首を吊って死んでし
まう。イサナは、自分のまわりの爽やかさとかが全て気に入らず、今度は放送部の仲間に復讐しようとする。復讐の相談相手は自分の部屋にいる等身大の人形(これも人間が演じている)J君。イサナはウサギを飼い、そして自分で絞め殺して、クラブの仲間が餌をやらなかったためと騒ぎ、彼女を奪う。その姿を見た彼氏は騒動を起こし退学となる。
 しかし、奪ったはずの彼女には、事細かにセックスの回数などを書かれたプリントを部員に配られ、彼氏を退学にするために彼女を奪ったことがばれてしまう。次第にその胡散臭い性格が明らかになるが、爽やかな部員に助けられる。イサナの逆恨みは終わらない。
 ちょうど修学旅行で広島に行くことになり、原爆ドームに千羽鶴を捧げようと言う話で、イサナは、残りの鶴を折るために爽やか部員と徹夜する。そこで、タバコの火の不始末と称して、千羽鶴に放火をして、爽やか君の寝タバコのせいにする。しかし、爽やか君はめげずに、逆にそれが彼の恋の手助けとなる。
 そんな、自分の性格を変えようと、J君を捨て、原爆ドームの前で誓いを立てるイサナ。この先は滅茶苦茶な展開で書きようがないので、観て下さい。
 監督は、ただ悪意を爽やかな青春映画の世界の偽善にどこまで持ってこれるか、詰め込めるか、それしか考えていない。語り口、ギャグのテイストと毒が画面いっぱいに拡がって感染する世界観。癖になりそう。
 (角田)


●0課の女 赤い手錠
 74 野田幸男(ビデオ)

 野田幸男っていつの間にか死んじゃっていたんだね。フィルムセンターの追悼上映で、この映画がやったときには見たかったなあ。今、シネスコで東映映画が見られる所って、新宿昭和館以外にあるのだろうか。
 ボクの中じゃ、テレビ番組『大激闘 マッドポリス80』の印象しかなく、幻の映画だったけど、見ておいて良かった。これはすごく面白い面白すぎる映画だ。誰もいま本気でこういう映画を撮ろうとしないからつまらないんだよ。
 内容は、色々書かれているから省略。ただ、どの登場人物も狂っていて何の工夫もなく、現金を強奪しようとする。(この辺の脚本の弱さはどうしようもないが、演出の力技でカバーされている)基地の街横須賀が背景にあり、ドブ板横町が汚く大泉撮影所に再現されている。いかにも貧乏くさい世界に繰りひろげられるマカロニウエスタン的人間関係、誰が裏切った、そうじゃないというやりとりが続く。そんな中で、杉本美樹だけが超然としている。赤いペラペラのコートに、赤いブーツ。赤い警察手帳に伸縮自在の投げ輪のような赤い手錠(ワッパ)。そんなハイパー・テンションの世界を駆け抜け、堪能できる希有な映画。
 こういう作品を見るとプログラムピクチャーに変わるものが無い今は不幸な時代であると断言できる。こわれた変な映画ってないもんな。
 (角田)


●戦争のはらわた
 THE CROSS OF IRON  76 サム・ペキンパー(渋谷シネアミューズ)

 今見直すと、案外とこじんまりとした低予算な映画だったことが分かった。初見の時はすんごいスペクタクル戦争映画で、「境界線!」がクライマックスで延々とあった気がしたけどそうではなかった。でもそんな事は関係なく、ただただ泣ける映画には変わり無かった。画と音、音楽の編集の細かさがペキンパーの映画の中じゃ一番凄いんじゃないだろうか。劇場のスピーカーの音量が最大になっていたにもかかわらず、全然うるさいとか不快に感じず、逆に緻密な職人芸を感じた。
  ドイツ軍の軍服を着た西部劇だと言うことが、相変わらずのペキンパー映画に出てくるアウトローの男達の登場でよく分かった。『ワイルド・バンチ』とそっくりだもんな、登場人物たちの美学が。観よ、男達のバカ騒ぎを!
(角田)


●千と千尋の神隠し
  01 宮崎駿(シネマメディアージュ)

 別にひとさまが喜んでいるもんに文句は言いません。不思議の国、鏡の国のアリスのパクリが多いなぞとは言いません。ただ指摘しておきたいのは、 宮崎駿も、ストーリー重視の時代から、体験インパクト映像の時代に移行した なということ。
 もともとインパクトのある映像を作るのがうまい人だったけれど、どこかで東映動画出身の性か、シナリオはきちんとしないとならないという考えがあったと思う。本来はシナリオの構成が下手にも関わらず、ストーリーを転がそうとして失敗ばかりしていたことにもわかる。『風の谷のナウシカ』はその最たる例だろう。自分がコントロールできるようになって、できるものがなんでも入っていすぎてパンクしてしまった。
 他の作品をみても分かるが、基本的にかれは自分のイメージの再生産をするのが好きなタイプだ。物語を進めるためにはめ込んで行くのではなく、イメージをはめ込んで行くためにシーンを作って行くタイプだろう。だからどうしても物語の流れが毎回似たものになる。まあ『もののけ姫』でまたやっちゃったと言う感じで同じストーリーにしかなっていない。その限界に気づいて一度引退なんて言ったんじゃない。
 今回はそれがほとんど払拭されている。イメージの羅列が優先されることが夢の論理として正当化されるので、物語のつじつまが甘いだろうが、やりたいことができる。 これが結構受けたので引退を撤回したんじゃないだろうか。
 それにしても今回も、最後の盛りあがるところでいつも、登場人物を二手に分けてしまい、それぞれを描く時に片方が単なるモブシーンとなるパターンが多く。それが 物語を散漫にする癖は治らないものかね。電車のシーンは戻るための手段でしかないんで物語のテンション下がるよな。
(角田)