サウスバーク無修正映画版
トレイ・パーカー
さくや妖怪伝
原口智生
ザ・グリード
スティーヴン・ソマーズ       
サテリコン フェデリコ・フェリーニ
座頭市あばれ火祭り
三隅研次
サノバビッチ★サブ
松梨智子
ザ・ミッション 非情の掟
ジョニー・トゥ
鮫肌男と桃尻女
石井克人
THE PLANET OF APES 猿の惑星
ティム・バートン
           

●サウスバーク無修正映画版
 SOUTH PARK Bigger,Longer & Uncut  99 トレイ・パーカー (シネアミューズ)

 「観ろ」。ただそれだけしか言えない。何が面白いからと言葉を費やしても、そこからぼろぼろとこの映画の本質がこぼれ落ちてしまうような気がする。だからDVDが出たら即買うこと。鬼畜アニメ「サウス・パーク」が映画になると言ったらみんな引いてたけど、それはアメリカ人の作ったテレビアニメが面白いわけないだろうという、極めて普通の反応だったといえる。しかし、その予想を簡単に裏切ってくれる。 そこには、本当のエンターテインメントとはなにか、バッド・テイストとは何かを知った作者がいた。 センスとその裏付けとなるテクノロジー、アメリカエンターテインメント産業の技術力を駆使してテンションが上がりっぱなしの掛け値無のミュージカル、それもパターンを踏んで、さらに過激に作り替えている(パロディーというには完成度が高すぎる) 。 彼らの原点を観ているとここまで作れるのかと改めて感嘆する。
 (角田)


●さくや妖怪伝
  00 原口智生 (シネリーブル池袋)

 困ったちゃん。なにも絵コンテ通り撮らなくてもいいだろう。空間把握、造型の出来ない人は基本的に映画監督はしない方がいいです。俺も何を期待していったんだろうね。まあ、アニメーションならごまかせるんだけど人物も浅いし……。樋口氏のSFXを褒めても
なあ(ブツブツ)。
 (角田)


●ザ・グリード
 DEEP RISING 98 スティーヴン・ソマーズ(ビデオ)

 これは、いい。正当派B級映画。なかなかツボをおさえた設定・演出!登場人物が密輸船の陰のある若い船長(勿論主役)、彼の助手のオチョコチョイのエンジニア、その船に乗っている不気味な客。船長は「金さえ貰えば誰でもいい」と言うが、明らかに傭兵軍団。小型船は嵐の中、豪華客船にたどり着く、乗り込む傭兵達。成り行きで一緒に船内に入ることになった船長達はそこで、おぞましい光景を見る。たくさんいたはずの客がだれもいない、船内は滅茶苦茶。時折聞こえる不気味な音。生き残った美人女泥棒や船のオーナーや船長がタイプキャストを演じてくれてうれしい。イケイケって感じだ。
 ドラマの構成がしっかりしているので怪物の出てくる滑稽さも許される。拾いもんである。これはもしかしたら、ジョン・カーペンターの『物体X』のようなカルト映画になる可能性を秘めている。 それくらい近年にしては完璧に良くできているB級モンスターものである。人間が描けているのがいいね。
(角田)


●サテリコン
  SATYRICON 69 フェデリコ・フェリーニ(LD)

 フェリーニは「道」と「カビリアの夜」しか観た事が無いとカミング・アウトした所、強く非難されたので、態度を改めるべく近所のレコード屋で叩き売りのLDをゲット。
 帝政ローマ時代の英雄譚。それでも珍しい土産話と戦利品の小物を持って生きて帰れば充分だった時代。少々悪趣味で泥臭いけれど奇妙な開放感がある映画だった。
 絢爛豪華なローマの描写は結構当たり前。楽しみで人を殺す奴なんて今でもたくさん居るし、飽食や性の淫蕩な描写もおおらかな物。微笑ましくて好感を持った。
 それよりマーチン・ポッターを初めとした薄絹を身に纏っただけの美丈夫達を観て楽しむ肉市場映画として大変有効。主演の若者達は殆ど腰巻き一丁で逃げ回ってばかっかりで格好悪いけど、若さと美貌の御陰で醜悪にならずに笑える。恋の鞘当ての元となる伝説の美少年ジトーネ(一部ギトン表記)は、写真よりやはり動いている姿が可愛らしい。寿命が短そうなぽっちゃり型で食べてしまいたい。両性具有の白子である「神の子」は、乳房がばればれの作り物でちょっと興醒めだが、やはり危険な香りの美がある。自殺した貴族の家に残った黒人美少女も良い。それぞれ「あ、もっと観たい」と思わせる押えた露出度は御見事であった。もっとみせろ。
 これらの腰巻き軍団は、当然と言えば当然だが、一部の女優さんを除いてその後のフィルモグラフィーに恵まれていないようだ。やはり肉は古くなっては駄目ですね。
 音楽はバリ島の音楽が効果的に使われていた。ちょっと安易な点も有ったが、ポッターと牛頭の怪人が闘うシーンで使用されていたケチャは秀逸。
 (森山)


●サノバビッチ★サブ
   00 松梨智子(中野武蔵野ホール)

 うーん、きついなあ。というのが正直な感想。敗因は一つ、きちがい女・松梨が主役じゃないことだ。だから彼女が出ている前半だけがおもしろく観られるんだ。基本的に確信犯的な悪趣味・妄想は彼女が画面に出てはじめてインパクトを持つ。だから他の誰かが狂気を演じていても、それは松梨のフィルターを通した面白さであって、肉感的にこちらまで届いてこない。
 今回の場合はインモラルな登場人物たちが遭遇する出来事がかなり読めてしまってツライ。おいおいオチはそこかい何か普遍的だなあ……、ずっこけました。
 ちょっといきなり自主映画の世界だ(もともとそうだが)。毒が効かないんだよお。笑いが並列なんだよな。主人公が絞り気切れてないのもなあ。あと、スプラッターねたは、『モンティー・パイソン&ホーリー・グレイル』ですでにやっているのでぜひ観るように。
 もともと時空間処理はめちゃくちゃな人で、それは演劇的で別に良いんだけど。今回は物語の時間配分に失敗していると思う。物語の中で数年たつとするときには、そのシーンも長くなり、繰り返しをいれることで時間経過を示しているのだけど、そのシーンのなかに飛躍がないので、映画のスピードが停滞してしまう。ちょっとそれが多すぎたんじゃないの。
 今回の問題は、いかにもコンピュータで編集しましたという感じの編集。入門書に「こういう風にはしてはいけません」というのを全部やっている。テロップの入れすぎ、エフェクトの使いすぎ。
 あと、音楽、音響の処理のまずさ。『毒婦マチルダ』は音楽のインパクトが作品を引き締めていた。今回は音楽がうまくはまってない。
 撮影はお金のないのは分かるけど、もう少し出来る人に頼んだ方がクオリティーあがるよ。バカコメディーで画面が見えず、セリフが聞こえないのは致命的だと思う。
 一年に一作撮るのは大変だと思う。しかし僕はきちがい女優監督、松梨智子を観たい。
(角田)


●ザ・ミッション 非情の掟
 Cheung fo The Mission 00 ジョニー・トゥ (ビデオ)

  さりげなく観たら傑作なのだけど、ちょっと外した作風は王道の香港アクションがきちんとしていればしているほど輝くと いう、脇の渋いオイシイ位置を占めている。この手が主流になっちゃうとキツイのだけども、登場人物の作りとか事象の 省略などタケシ、タランティーノ以降の作風だなあと思う。
  ただストーリーの単純(直線)化をするだけで大抵の物真似は失敗するのだけども、この映画の場合は、登場人物や 設定のディテールが豊か なので観客も含めて映画を補うことができる。そのセンスがPVやCM出身の「過剰さ」を豊か さでありスタイリッシュを履き違えている凡百の監督とは一味違う。なにをどう削り整理するかも映画演出のようそなの だよ。リーダーが美容室を経営していて、一言も喋らずに舎弟の話を聞いていたり、殺しの店で麺を啜っている部分の 時間の流れ方は異質であるが、ひとつの方向性ではあるなと思う。エレベータの銃撃戦のところの一瞬人間がっぐ ちゃっと交錯するのだけど、各々がはっきりと役割をわかって動いているのでものすごくカタルシスがある。人物造型か らストーリーを組み直していく手腕が並大抵のものじゃないなと感じる。ジャスコの銃撃シーンはやり過ぎの感はある が。佳作です。
(角田)


● 鮫肌男と桃尻女
 99 石井克人(シネセゾン渋谷)

  現在ニッポンにおいて、映画という表現はオシャレなのだろうか。否、設問が違うな。映画はオシャレに作れるものなのだろうか。世の中には、黙っていても面白い映画を作ってしまう人とどうあがいても無理だ、という人がいる。
 平日の昼間の渋谷シネセゾンは若い人で7割くらいの入りだった。何を求めて観に来ているんだろう。確かに仕掛けに抜かりは無い。浅野忠信主演、望月峯太郎原作、CMを撮っている映像や衣装へのこだわり、照明へのこだわり。音響効果の細かさ。若人あきら、島田洋八などのキャスティング。チラシへのアートディレクションの細かさ。話題性は抜群である。
 しかし、上映中ずっとノレない違和感を感じていた。それは、全てが借り物であるところに一因があるんじゃないだろうか。如何にもオモシロイでしょうという部分が多すぎる。おいしいとこ取りといっっても良い。センスの問題かも知れない。『ソナチネ』で、チャンバラトリオのリーダーを殺し屋として出すのと、若人あきらを出演させるのは、明らかに映画に対する監督のセンスの違いを示している。(分かるかなあ)。浅野忠信はキクチタケオを着た浅野忠信にしか見えないし、北野映画で浮いている寺島進が一番浮いていない演技をしているとは、如何に全員にこてこての演技をさせているのかが分かる。
 それがオモシロイとこだわりだと考える監督は、映画に対する勘違いをしていると思う。細部へのこだわりがCMなのかも知れないが、映画の細部へのこだわりとは別のもの と考えられる。 映画のダイナミズム、力技は15秒と90分の違いだと思う。ある種の大胆さが無いと90分間、嘘をつき通すことは難しい。 それが映画を撮るものに必要な技術だと思うのだが。
 確かに、細部にこだわり、お金をかけることは重要だと思うし、ただ貧乏くさいもの、いつの時代の映画だ?というのを見せられるよりは野心に満ち溢れて頑張っているのだが、映画が弾まないんだ。パクリを露骨にやりすぎているというか、細かいところに凝りすぎている、全編凝っているので映画のテンションが満遍なくなってメリハリがつかないんだね。そう、画面が、エモーションで埋まっていないんだ。美術とかでは、埋まっているけどね。それは、映画とは関係ないところのオハナシなんで………………。
 なんか、タランティーノ、北野武以降、映像で物語とか登場人物の感情を語ろうとする新人監督がほとんどいなくなったんじゃないのだろうか?タランティーノは別の意味で頑張っていると思うのだが、まあ、ジム・ジャームッシュ以降としておこう、オフビートでカメラを長回しすれば映画になるというか観客にオモシロイでしょと言っている映画が多すぎる。確かに、カメラ、フィルム、照明技術は上がったのでよりナチュラルなシャープな映像が得られることで画面だけを観ていても持つ部分もあるけど、映画として成立させるにはどうすればよいか、その戦略に欠けている映画が多すぎるのではないだろうか。いわば真のエンターテインメント性が見えて伝わってこないのだ。
 そういう意味では、物語を成立させるのが困難な時代とは言えるが映画って単純さが集まって結果、複雑に出来ていると、かのフランスの監督も言っているが、名言だと思う。演出ってある種の想いだと思うんだけどね、センスを伴った(これ重要)。
 今後、CM、MTV関係出身の監督が増えると思うけど、ストイックにシナリオ段階からチェックできるプロデューサーがいないと、監督がしっかりしていない限り、同じ間違いはいつでも起こる。
(角田)


●THE PLANET OF APES 猿の惑星
  THE PLANET OF APES 01 ティム・バートン(新宿文化2)

 あまり書くことないというのが正直なところだけれど、ティム・バートンにはアクション映画は無理だった ということかな。もともと彼のつくる映画には簡潔という言葉からは程遠く、ねじれたユーモアをじっくりとひとつひとつ置いて行くというのが特徴だ。そこにはまったく物語を進めることとは無縁の所作しかなかったと思われる。そういう意味では、シーンのスペクタクル化が表現できる点で現代作家ということができる。
しかし古典的なハリウッドスタイルの時間の節約方法を押し付けられた結果、自身と物語のどちらを優先するかというジレンマに陥ったために映画が混乱した。まあ普通こういうのは作家の初期に起こることなのだけど、 バートンの場合はいままでその個性を放っておかれていた。デヴィド・フィンチャーの場合、『ゲーム』での惨敗がこれに相当するといえる。いわばかれらは、切り替えしの画面の積み重ねで物語を語ることができないのだ。
 だからアクションの基本である、逃げる追うのニ点の距離感による緊迫感が演出できないといえる。だからかれらの村からの逃走や、人間対猿の戦いのシーンなど、距離感が「うそジャン!」ということになる。『スリーピー・ホロー』のアクションシーンのときも同じことを感じたけれど、サスペンスがでないのね。箱庭的なセットをうその空間つなぎして見せることにまったく興味がないのだろう。そのあたりは、うその空間の広がりに命を賭けているテリー・ギリアムとは対照的だ。
 ものがたりのことは書かないけれど、これでわかったのは、ティム・バートンは、映像によって物語をねじ伏せる、ヒチコック、ロン・ハワードに至る系譜ではなく、どちらかというと、 NY演劇界出身のシドニー・ルメット、ノーマン・ジェイソンなどに近いと思う。ようするに、ワン・セット内での演出の充実ということだ。尤もそのなかでの映像処理が卓越していることはバートンの特徴なのだが、その演出の保守さ加減が今回は足を引っ張ったのではないか。
まあこの物語とシーンのスペクタクルの両者を解決しているのは、ポール・ヴァーホーベンくらいで、その次にキャメロンとスピルバーグが並ぶかどうかだな。
(角田)