肉の蝋人形
アンドレ・ド・トス
20世紀ノスタルジア
原将人
虹をわたって
前田陽一
2001年宇宙の旅
スタンリー・キューブリック
日本黒社会 LEY LINES
三池崇史
ニンゲン合格
黒沢清
 

●肉の蝋人形
 HOUSE OF WAX 53アンドレ・ド・トス(ビデオ)

 いまや忘れられた作家らしいのだが、日本じゃ知名度低し。今世紀の初めのニューヨーク、ビンセント・プライスが気 が狂った蝋人形館を営む芸術家 。蝋人形館が人の処刑されたり殺されたりする歴史上の場面で構成されているとい うが、実は死体置き場から死体を盗み出して蝋を被せて蝋人形にしているという設定。あとはヒロインと芸術家の卵の そのボーイフレンドに警部というお馴染みの人物たち。蝋人形の本物さと地下の工房のセットがなかなか楽しめる美術 セット。演出が上手すぎてエグくないのでカルトにはならない残念な作品。数本借りたときに観るとちょうどいい一本で す。まさに添え物…。
(角田)
●20世紀ノスタルジア
 97原将人(ビデオ)

 賛否両論分かれている映画なのですが、私的には全然駄目だった。理由は“団塊オヤジの撮った私映画なんてみたくないぜ”に尽きます。悪口を言うときだけ生き生きするのは良くないとは思いますが、最近気になっている「ビデオ映画」について敷衍していくことでその辺は許してもらいましょうか。
 まず、劇映画として形にもなってない。
 オヤジの妄想(1) 突然現れた謎の電波系転校生と、宇宙人の地球滅亡についての会話をビデオ越しにされて恋してしまう高校生の女の子がどこにいるんだ。
 オヤジの妄想(2) それで一緒に東京中と言っても湾岸地帯お手軽な半径10キロ圏内を撮影して映画を作ろうなんてのに一夏過ごす娘がいるのかね。
 オヤジの妄想(3) 描いている風景も描いている被写体も全然楽しそうじゃない。歌も何もかも気恥ずかしくなる狂い方で尋常な神経とは思えない。
 オヤジの妄想(4) 直接は分かり合えないけど、映像を介してなら分かり合える人間関係。
 オヤジの妄想(5) 分かれても愛し合う話の分かる両親。
 オヤジの妄想(6) やっぱ地球は滅亡しない、自然を大切にしよう。

 ………要するに自分に都合の良い私映画なのだ。そこに広末がまぶしてあるからみんなごまかされてるだけなんだよな。ただ、カメラを介してしか何にも言えないだけじゃないか。それに何かを良いわけにしてテープを回すのは止めなさい。もったいないから。カメラを取れば、団塊世代オヤジが描く都合の良い自己投影した良い子どもじゃないか。自分たちの若い頃のことはどっかに埋めて隠して、 子どもに強要する親が見た「子どもらしい姿」の典型じゃないか。気色悪い。ビデオであろうと、フィルムであろうと何を映そうと
そこには、現在も映っていないし、監督しか映ってない。だから団塊野郎の映画はダメなんだ。時代時代に都合の良いことしか映そうとしない。目の前のことに目を瞑り勝手な解釈しかしない。 ビデオである必然性が何もない。敢えて言うなら取りあえず回して都合の良いところを取り出し、編集でこれも都合の良い結末を出す。映したものに対する敬意に欠けているとしか思えない。結構、勝手な作りの映画だ。なんも新しくも、爽やかでもない。不愉快である。
 (角田)


●虹をわたって
 72前田陽一(中野武蔵野ホール)

 前田陽一映画祭、最終兵器の登場です。カミングアウトすると筆者は、天地真理と沢田研二のファンなんで、非常にワクワクして始まるのを待っていた。勿論ナベプロ+松竹の製作である(本社売却も時代の流れか)。
 舞台は、何の不自由のない暮らしをしていた横浜山手のお嬢さんである真理が、やもめの父親が連れてきた若い母親に反発して、家出をする。高台を下り、行き着いたところが横浜の水上生活者が集まる船上宿「蓮花荘」。そこには、日雇いの港湾労働者や、おわい
船、だるま船の船長、インチキ易者が集まり、酒を呑んでは「いつかは陸に家を建てるぞ」と言っては、競艇で日銭をスる。
 真理はそこに泊まり込み、昼間は、働く男達に弁当を配る船上食堂を手伝う。ここらの描写がのびのびとしていて解放感があっていい。いろんなシーンの間に名ヒット曲がほとんど脈絡が無く入るのだが、ファンとしては非常にうれしい。
 水上生活者も全然卑屈に描いていないところがいい、気取ってない。生活者の目の高さでアイドル映画なのに描いているんだぞ!後半にはジュリーも出てきて歌を披露するという、歌謡映画としても、テレビを見ている一般客にもサービス満点の作品。 前田映画は、集団劇と歌が出てくると俄然良いです
 (角田)


●2001年宇宙の旅 
 スタンリー・キューブリック(ル・テアトル銀座)

 今回ほど、デジタル処理技術のすごさを感じたことはない。今回、キズひとつないプリントに、ノイズをほとんど消した音声とステレオで聞こえる『ツァラストラウスはかく語りき』が流れた時にはボーっとしてしまうくらいすばらしかった。
30年前にはじめて観た時は、なにがなんだかわからなくやたら長かったように思えたが、今回は細かい部分までよくわかり楽しめた。
逆に、ある程度ストーリーが入っていた方が、スクリーンに身を任せられるので良いのではないか。今回のサウンドの良さでそう思った。
 しかしシネラマってもっとスクリーンが横長かったような気がするけど、今回はワイドくらいの長さしかないんではなかったか?
単純に、スクリーンで観たことのない人にはお薦めします。観劇とはこのようなことをいうのではないでしょうか
(角田)


●日本黒社会 LEY LINES
 99 三池崇史(中野武蔵野ホール)

 黒社会3部作と言っても、全部独立した話で、何の共通点はない。あるとしたらやり場のない憤りが全編を覆う。日本人が誰もがどこかで感じていることをエンターテインメントの枠の中で映画として昇華しているところだろう。それが三池監督の手腕と言えよう。
  ストーリー、かなり、書いてしまうけど、是非見て欲しいです。
  主人公は、田舎の中国人帰国宿舎に住む20代の兄弟とちょっと足りない友達(田口トモロヲ)。パスポートを申請するが、保護監察中で無理と言われる。どこに生きたいというのではなく、ここにいるのがいやだと言うだけだ。
  盗んだバイクを田園風景の中、走らせると台湾映画のようだ。ベトナム人の故売屋から金を巻き上げると、彼らは新宿へ出ようとする。だが、怖じ気付いた何人かは残して。ここを数人の仲間が立ち尽くす中、電車が入ってきて主人公と悪友が乗り込むワンカットの手持ちカメラは、感情が押し詰まっていい。車内に座っている女子高校生が、普通のソックスをルーズソックスにはきかえるところが、艶かしくシーンの上手いブリッジになっている
 新宿に出た彼らは、娼婦に騙され有り金を取られる。ふとしたことでトルエン売りを始めることとなり、ヒモから逃げてきた娼婦と共同生活を送ることとなる。そこにはセックスも有りだが、陰湿にならず、あっけらかんと描かれているのは、ユーモアがあり(そう、さりげないユーモアが上手い監督でもある)女が強いのが最大の特徴じゃないだろうか。生き生きとしているのだ。 物語と主人公に過多の感情移入を誘うようなアップの撮り方はせず状況的に、フルショットで撮っているが、いつの間にか次第にこちらの方から感情的にのめり込んでいく のだ。
  やがて、彼らは、上海マフィアから金を奪い、日本から脱出しようとする。どこ行こうではなく、ここでは無いどこかへ行こう。これが、黒社会3部作を通した、メッセージのような気がする。ただ「その答えは無いんだけどね……。」とも言っている。 それがこの作品を支える魅力とアナーキーなパワーではないだろうか。
  奪った金をもって逃げるオートバイのシーンではちょっと涙腺が弛んだ。ちょっと足りない友達は死に、母親に金を届けるために故郷に帰る、3人。金を届けるアンバー系の茶のフィルターを意識的にかけた風景が不思議な世界を現わす。自転車の疾走シーンにも泣ける。近頃の日本映画は、一緒に走るシーンに手を抜きすぎていると思う。しかし、弟も殺されてしまう。帰りの2輛編成の電車の中、前方を凝視する主人公にそっと、手を回し抱きしめる女。
  ブラジルに密航する漁船に乗り込もうとすると、上海マフィアが待ちかまえていた。(竹中直人怪演だ)銃撃戦の中、海に飛び込むふたり。
  ラストは、美しすぎて切なくて、このために、この映画があったのかというシーン。いつまでも終わらなくても良かった。永遠と言う言葉が似合う。いや言葉にするには惜しすぎる。素晴らしい青春映画。大傑作だ
 最後に嫌だが、言っておくとたぶん映倫通す為にピーの音を入れたんだと思うのだが、ぶちこわしだ。それと、なんでこういう映画のパンフがないの?くだらねえのは高い金払わせて(買わないが)売ってるくせに。誰かが本気になって作ったりすりゃ良いんだよ。見て良さがわかんない奴は、映画の敵だぜ。
(角田)


● ニンゲン合格
   99
黒沢清(渋谷シネパレス)

 映画を観た後に思わずその劇中の印象的なセリフやシーンをマネしたくなることがよくあるが、この監督の「CURE」を観た後「あんた誰?」というセリフや指でエックスを作るシーンのマネを連発していた女の子とこの映画を観にいったら 予想通り「ボクはここに存在した」というセリフを…言い出しはしなかった。ゆえにこの映画を観た直後の感想としては「女の子と観に行ってはイケナイ」映画だったかな?という程度のものだった。別に難解な作品というわけではないのだが、実につかみどころのない作品なのである。キャスティングから観ると黒沢版「うなぎ」かとも思わせるのだが…監督自身のコメントによると「無謀にも、他の何にも似ていない映画を撮る羽目になった」とのことだ。
  それにしても主人公役の西島秀俊は本当に影が薄い。役所広司より薄い役者というのも凄いものだ。演技なのだろうか?
  「ドレミファ娘の血は騒ぐ」の印象があまりに鮮烈なためにひょっとしてボクたちはこの監督のことを過大評価しすぎているのではないだろうか?それともボクの映画読解力が低すぎるのか?永い眠りからさめて云々というハナシでは「デッドゾーン」や「パリでかくれんぼ」の中の一遍のほうがボクの好みにはあってるようだ。
(船越)


●ニンゲン合格

 観終わった映画について何か書くことは生産的な作業だろうか。果たしてそれがどこに届くものなのだろうか。批評として機能するのか、それとも紹介文としての役割なのか。前者であれば、議論する場、あるいは産業としての場が存在して、興業、世評的に反応が期待できる市場があると言うことでそれも健全なことだと思う。後者であれば話は簡単で感想文を書けばいいだけのことで自分の生理でキーボードが叩き出したものを載せればいい話だ。
  なぜ、これから書こうかどうか悩んでいるのは、態々書くこともないしそれが誰のためにもならないことがほとんど分かっている場合だからだ。だからといって感想文にする気もないし、衒学的な「記号」でそれらしく書くのも反則だと考えている。何が言いたいかというかというと、 観客を想定していない映画について何か書くことは虚しい作業だと言うこと。
  映画は妥協の産物であるが、そうであるが故にやることがあるんじゃなかったのか?が最初から最後までの疑問。これは、最近の監督作を何本か観ていて思うこと。明らかに戦う場所をずらしているのか、逃げているのかどちらかだと思うが、要するに批評を封じているのだと思うが(これはスタッフにも問題があるだろう)。シナリオについてリサーチをしているとは思えない細部の稚拙さが、細部のリアリティ、ひいては 現代を描くことに何一つ通じていない。だから、どこまで行っても無国籍な映画設定であり、語られる台詞に重みがなくイライラさせられる。現実的じゃ無さ過ぎるなあと言う部分が多すぎる。寓話と開き直ればそれはそれで良いんだけどね。アメリカ映画じゃないんだから、その辺はクリアしなきゃならないだろう。ストーリー展開は、小説ならばプロの領域にまで達しているのだろうかと疑問を感じる。別のシナリオライターに書かせても良いと思うのだが。淡々として逸脱がなく、画面のつながりが単なる説明不足だけじゃないかと思うけど、そう言うところが良いという人もいるだろうから追求はしないがね。
  ストーリーの行動や動機付けがなんであろうと構わないが、そんなもの考えれば考えるほどウソ臭くなっていくものだし、10年間の植物ニンゲンから甦り、バラバラになった家族の存在を探す、というのは俗耳には分かりやすいが、そこに一つもドラマはない。80年代以降家族は「崩壊」し、「再生」するのが物語性としての普遍性を持っているけど、ここにはエピソードはあるが物語はない。それが最大の問題だ。無くても良いのか?じゃあ、誰に見せる映画なんだ、という堂々巡りでしかない。一体、いつまで反復するつもりなんだろう。形やスタイルの中に、観客に迫る真実があれば良いが、都合の悪いところは、「これは映画ですから………」と言い続けている。映画自身の魅力と可能性ってもっとあるし、それを監督自身かつて信じていたような気がするのはボクだけだろうか。その信じる力が観客に伝染して、「んな馬鹿な」という展開も画面も全てがスリリングだったんじゃないだろうか。
  演じる役者としたら、こんな自由が与えられたら楽しくて仕方がないだろうな。役者はよいのだが、ミスキャストが目立つ。役者の年齢の幅が無さ過ぎる、それ自身がドラマの広がりを押さえているとも言えないだろうか。その後の是非はともかく伊丹十三が『スウィート・ホーム』を撮らせたのはボク的には正解だと思ったのだが、どうでしょうか?
  全然、批評になってないな。演出的にはVシネの時と何も変わっていません。家族も主題ではありません、物語を進めるための手段です。そこには映画の枠組みさえも欠落しているのではないでしょうか。それをどう観るかは、それぞれの人の判断です。
 「家族再生」のドラマと言うよりは「地球に落ちてきた男」の前半部分が延々と続き、「生」を観念的にとらえて映像化しようとしたが、そこまでこなれてなかった、未熟児です。観念は映像になりません。
  二週間くらいで終わってしまうのでお早めに劇場に行って下さい。画面のシャープさと音響の細かい設計は堪能できます。
(角田)