めし
成瀬巳喜男
メリーに首ったけ
ボビー・ファレリー&ピーターー・ファレリー


●めし
  51 成瀬巳喜男(NHK-BS)

●浮雲
  55

●流れる
 56 

 小津、溝口、黒澤、そして第四の巨匠として名前の挙がる国際的監督、成瀬だが、単なる国際映画界的策略によるものだと思う(話題とスターと発見が欲しいだけさ)。スタイルの一貫性というより、いかに東宝の撮影所が安定したスタッフを抱えていたかの証明に過ぎないと思っているけどな。はっきり言って三作品ともそれほど、感銘は受けなかった。題材がすごいと言うわけでもないし、スクリーンに緊張感があるとも違う(ただ高峰秀子はすごい役者だと思った)。
 今も、国際的に残っているのは、当時の風俗が丁寧に描かれているところに、アジア映画としての日本映画を検証する格好のテキストとしての価値があるのだと思う(それは先述した東宝撮影所の力かもしれないが)。
 『めし』では、大阪の船場あたりと、長屋の習慣が丁寧に描きこまれ、東京から転がり込んできた若い親戚の娘との世代の断絶が生活感の中に観られる。原節子の上原謙の女房像はどんな受けとめられ方するんだろう。従順でありながら、疲れて実家に戻るが結局
亭主と一緒に戻るということに誰が納得するのか。(ついでに言えばそこに映画としてのカタルシスはない。道徳、習慣的に処理されているだけだ。まあ、小津の場合も結局はそれに近いが、カタルシスは台詞か行動で作っているのが違いだ。だから、小津は映画が陰
にこもらない『東京暮色』は別かな?)
 『浮雲』は、名作の呼び声が高いが、これは選者のノスタルジーが大きいんじゃないだろうか。原作は、読み物として面白いので期待してしまうが、それを端折って作った感じが否めない。これも、闇市、伊香保温泉の風俗が丹念に描かれている。ドラマとしては今一つ乗れないのは、高峰秀子がなんで森雅之を捨てないのか、今では理解に苦しむからだ。しかも、当時はもしかしたら共感を得る一般性があったからかもしれないが、ほとんどふたりの内面描写をしていないので、ふたりの行動の動機が謎だ。
 『流れる』は、加山雄三と高峰秀子の心理描写が描けている。静岡県清水の小さな商店街にスーパーが出来て、加山の酒屋が没落していく世相の移り行く様がメロドラマのバックにあり、これは逆に現代にも通じる年齢差を越えた恋愛の形として共感を得ることの出来るモチーフだと思う。若大将の使い方も成瀬の視点が入っているためにしっかりしたものになったと思う。
 成瀬の映画は、ヨーロッパ人に1950年代に日本映画が黄金期だったことを教える手っ取り早い方法でしかない。でも、気取った欧州インテリ映画野郎に観せるよりも、アジアの新興国に同じような歴史を辿ってきた人の感想を聞きたいと思う。この三本はユーモアが少ないことが致命的だね。
 (角田)


●メリーに首ったけ

 THERE'S SOMETHING ABOUT MARY 98 ボビー・ファレリー&ピーターー・ファレリー (日比谷映画)

 やっぱ、こういう映画を観るとアメリカ映画の底力というか、パワーを感じさせられてしまう。みなさんどうぞ、20世紀フォックスの宣伝に騙されてオシャレな映画と勘違いして見に行って下さい 。期待しない分、唖然とするくらい楽しめます笑えます。動物虐待、ストーカー、フェティシズム、連続殺人鬼 とてんこ盛りに出てきて、画面を引っかき回す下ネタのオンパレード、ほとんど「ドリフの大爆笑」。もちょっと、上品に言うなら、作品のナンセンスさと楽しさは『ブルース・ブラザース』って感じの参加型楽しさ。見終わったら見てない人を騙して見に行かせましょう。(一生恨まれること間違いなし)。
  こういう、アイディアだけで(でも伏線が強引だけど、非常に良く効いている。それだけに全キャラクターが濃いんだけどね)出来ている映画が、作られる分、アメリカ映画ってバカというか健全というか、産業として成り立ってるんだね。アイディア勝ちの一本。ネタがばれないウチに劇場へ。
(角田)