こ
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極道黒社会 レイニードッグ
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三池崇史
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ゴジラ
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ローランド・エメリッヒ
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ゴジラ・モスラ・キングギドラ 大怪獣総攻撃
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金子修介
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ゴースト・オブ・マーズ
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ジョン・カーペンター
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ゴダールの映画史
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ジャン=リュック・ゴダール
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ゴダールの新ドイツ零年
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ジャン=リュック・ゴダール
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ゴダールのリア王
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ジャン=リュック・ゴダール
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子連れ狼 三途の川の乳母車
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三隅研次
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御法度
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大島渚
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殺し屋1
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三池崇史
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●極道黒社会 レイニードッグ
97 三池崇史(ビデオ)
黒社会第2弾。 雨が降っている。狭い路地に重なるように連なっている家の瓦を伝って流れ落ちる南方の雨。台北に一人残されたヤクザ、哀川翔は、雨の日には外に出ない。しばらくの間、逃げてきた台北にいつまでいるのか分からない。何でここにいるのかも分からなくなる。(何故か追ってきた刺客とメシを食ったりする)。街の顔役の仕事で殺しをすることもある。
路地を抜け、市場の喧噪の暗がりを延々と抜け、白昼の元で銃殺する。エドワード・ヤンのカメラマンの李以須の明暗を計算し尽くした撮影が素晴らしい。
しかし、何と言っても、ほとんど全編を覆う南方の雨が素晴らしい。
どこにも行き着くところがないヤクザ、「アンタの子よ」と押しつけられた捨て犬のような男の子。「この街が嫌い」と言い続ける娼婦。それぞれを雨が止めどもなく憂鬱にさせる。
ここでも三池監督は、感情の押しつけはせず、淡々とアップもほとんどなく状況としてシーンを成立させていく。タイル貼りの床の冷たさ。貧民街の立ちこめる生活の匂いが立ちこめてくる。候孝賢やエドワード・ヤンとも違う、台湾を描くことに成功している。
哀川翔の白づくめのコート姿が素晴らしく眩しい。格好良いのだ、ただひとつ残されたダンディズムとして決して脱がない。これが、彼の台湾に対するスタンスだと思う。蛇足ながら、メシを食うシーンが良い、旨そうだ。
思わぬ大金を手に入れた彼らの逃避行は、どう考えても成功しそうもないものだった。しかし、途中で海岸に埋まっていたバイクを掘り出し、海岸を疾走するときの解放感は何だろう。望郷の念とは違う、突き抜けた絶望とアナーキーさがそこには存在するような気がする。哀川翔の代表作と言っても良いんじゃないか。必見。
(角田)
●ゴジラ
98 GOZZILA ローランド・エメリッヒ
(新宿スカラ座)
何と言っても、画面が暗かったので細部がよく見えなかった。内容もまあ、そんなもんだろうって感じで安売りチケットで1200円で良いね、と言う感じだ。
というと投げやりだがどこを楽しめと言う感じの映画じゃないか。『インディペンデンス・デイ』もそうだったが、どこにも引っかからないんだよね。悲惨さがゲームというか、人間くさくないんだよな。どこかで見たようなシチュエーションがその通りに強引に展開して行くだけで観ている方は置いてけぼりを食らってしまう。逆に言えば、展開とゴジラの動くスピードが速すぎて、ストーリーが追いつかないんだよね。ゴジラの動きが(というのは=脚本を作る人間のアタマの構造が)先手を行きすぎて全然展開が読めてしまう。要するに脚本を書いたドイツ人2人組(監督と製作)の手の平の上でしか遊ばせてくれないような身が縮こまった映画に仕上がっている。これくらいで喜ぶのは、小学生か、アニメヲタクくらいなもんだろう。
シナリオが悪すぎる。何故という問いが無さ過ぎる事が内容を薄めていると思う。ゴジラを動物に見立てて解釈したことで単なる動物の本能で行動して失敗する米軍など、単なるアホにしか見えず、出てくる人間の行動にも何の必然性も感じられない。あれだけ動物っぽいなら近づいただけで獣臭があったりしてすぐに居場所が分かったりすると思うんだけどなあ。ジャン・レノの平田昭彦というより、宝田 明的存在感は笑えたから(それにしてもショボイ笑いだ)まあ許すけど、人間が間抜けな存在だけでゴジラが何だったのか、たまたまニューヨークに来ちゃいましたってノリで作られているとしか思えない、発想がセコイ映画だと思う。
やはり、ティム・バートンかアレックス・コックスに撮らせるべきじゃないのかな。いくらでも発想が広がるのに、こんな『ジュラシック・パーク』もどきにしちゃいけない。怪獣に少しは感情移入させてくれるか、破壊の快感を味あわせてくれよ。お前らの学生映画を見に来てるんじゃないの!
(角田)
●ゴジラ・モスラ・キングギドラ 大怪獣総攻撃
01金子修介 (新宿東宝)
いきなり、宇崎竜道 新山千春がトップ二枚看板で大いにコケる。えー、他に無いのかいなあ。主役ふたりのあまりに も滑舌の悪さに閉口する。宇崎のいちいち貯める演技や新山の訛りを隠すための変な発音、だれか直してくれえ。
これで金子修介ってホント、役者に演技をつけることに興味ないことがわかった。役者がアニメみたいに動いてくれ るのが一番の理想なんじゃないのかねえ。キャラクターもウルトラQじゃないのだから、類型的過ぎるんじゃないでしょう
か。ということと関連すると思うんだけどさあ、今回 無意味なバイオレンス・シーンが多すぎると感じた。何の感情も 乗らない暴力シーンは、ガメラのときも感じたけれど、今回はまったくどこに感情移入していいのかわからないかった。
ストーリー上の問題は怪獣マニアに任せるとして、怪獣を護り神にするなら、誰をなぜ守るのかをはっきりさせないと 意味無い。抽象的な戦後日本では今が足りない。結局はゴタク並べただけでいつもの着ぐるみショーでしかないと思う。
(角田)
●ゴースト・オブ・マーズ
John Carpenter's Ghosts of Mars 02 ジョン・カーペンター (
DVD)
いつもアイディアはオモシロイのだが、観ているうちにそれが空回りして観ている方が醒めてしまい後悔してばかりい る。ジョン・カーペンターについてはそんな印象が付き纏う。基本的にサスペンスの人じゃなくショッカーの人の癖に、最
初はサスペンス演出をして、それが破綻するといきなり身も蓋も無い残酷シーンへと移り、ウソだろと思うくらい簡単にラ ストに至り、主人公が格好つけて終る。なーんかそのパターンばっかだな。どうもその体温の低さがダメなのですよね。
本気で褒めている人がどれくらいいるのかホントにわからない。黒沢清がたぶん気に入っているのは彼自身の映画を 観ればなんとなくわかるのだが(でもその一方でトビー・フーパーとか言っているしなあ…)。
カーペンター自身が思っ ているほど、友情みたいなものってうまく描けていないんだよねいつも。登場人物が最後まで成長しないしなに考えて いるかわからない。その点で誰が敵だかわからない『物体X』
が監督の意に反して傑作になったんではないでしょうか。 DVDの副音声コメンタリーの監督と主演女優の駄バナシは面白いです。禁煙、ドラッグ、暴力についての意見が聞け
る。メイキングもよくできていたし、アンスラックスとの音楽録音風景もチープな感じがアメリカ映画?と思えます。
(角田)
●ゴダールの映画史 第一部
第1章=1A「すべての歴史」第2章=1B「ただ一つの歴史」第3章=2A「映画だけが」第4章=2B「命がけの美」
●ゴダールの映画史 第二部
第5章=3A「絶対の貨幣」第6章=3B「新たな波」第7章=4A「宇宙のコントロール」第8章=4B「徴(しるし)は至る所に」
HISTOIRE(S) DU CINEMA 98 ジャン=リュック・ゴダール
(ユーロスペース)
僕にとって、ゴダールってのは、難解な映画を引用をちりばめる意地悪爺さんというイメージではない。ゴダールの天才なところはあまりにも独創的すぎて、同時代には理解できないことだ。だから陳腐な形でそれが広く受け入れられるときには、そんなとこはもうとっくにやっているじゃんとなる。
要するにファッションデザイナーの位置にあると言える。先鋭的に発表されるコレクションは、その時点では奇抜でそのままは受け入れられないけど、何年か後にはそれがファッションとして、着られるものとして一般に出回る。
彼の映画はそのエッセンスだけで出来ている。その驚きだけを受け入れれば良いのでは無いだろうか。無理して理解しようとはせずに。きっとそのトッポイところは、数年あとにハリウッドの新鋭監督か、CMまたはPVが盗用するに決まっているんだからさ。
ゴダールについては、もう一つデビュー以来“B級映画”しか撮っていないことを忘れないことだ。あるいはB級映画の精神で作っていることを。単純明快で予算以内で目一杯つめこんで妥協するところはして、自分のやりたいことをする。予算超過までして自分のエゴを押し通す巨匠とはそこが違う。まさに、低予算の映画作りだ。やろうと思えばヒットする映画の作り方などワカッテイル(はずだ)。
さて、「映画史」だけど、なんか欧州知識人の系譜に連なるような難解なことやっているのかと思ったらさ、アリモノのフッテージにナレーション、相変わらずのノイズ(この場合は、タイプライター)、クラッシック音楽を混ぜ合わせて、盛り上げたり、下げたり
と挑発的にやってくれます。
だから映画史といっても目新しいフィルムや、歴史を語るようなフッテージは出てきません。予算の関係からか、フィルムの代わりにスチルを使ったりと低予算というのが見え見えです。しかも、最初一本60分が、後半は一本30分になる。まさにB級映画。十年かけるならもっと予算はあるだろうが。というかこの「映画史」テレビ局内の位置づけがそのくらいなモノなのだろう。内容はサブテキストを読んでも良く分かりません。出てきたモノがすべて分かっても繋がらないこと間違いなしです。だから「ゴダールの映画史」という売り方は正解なのです。「映画史」じゃないんですね。
しかしゴダールがいま再びビデオを撮る必然性がどこにあるのだろうか。70年代に始めて、あきらめたんじゃないのか?そのあたりがあきらかになっていない。
あと90年代ヨーロッパを意識しだしてからのゴダールは特につまらない。ヴェンダースもそうだが、東が無くなり、欧州統合が進むと、急にアイデンティティ崩壊したようにダメになってしまったのはなぜか。ソ連のスパイだったのか?
ソニーのセールスマンと化したヴェンダースと違い、ゴダールにはこじんまりとしたものではなく、アナーキーな、どきどきする訳のわからん映画を撮って欲しい。
(角田)
●ゴダールの新ドイツ零年
ALLEMAGNE ANNEE 90 NEUF ZERO 91 ジャン=リュック・ゴダール
(ビデオ)
いつの間にかゴダールの作品には「ゴダールの」という枕詞がつくようになり、とともにますます不明瞭なイメージの洪水の世界へと向かい出しているようだ。
ここには映像化されるイメージが何一つない。未来へ向かうベクトルが何一つ見つからない。かと言って過去を振り返るベクトルもない。空中分解したまま、年老いたスパイ、レミー・コーションが取り残された過去を取り返す冒険(決して新しくない)への旅立ち
なのかも知れない。
しかしそこにはもはや、美女も強敵も現れない、年老いた自分の姿と壊されたベルリンの壁の残骸しかない。
どこに向かうでもないこの閉塞したドキュメンタリーは、ドイツの状況に対するゴダールの痛烈な答えかも知れない。新しいドイツなどどこにもないと。その喪失感だけで成り立っている。もはやスパイも探すべき物語もドキュメンタリー映画監督も必要ない。それがドイツに対する彼の意見ではないだろうか。
(角田)
●ゴダールのリア王
KING LEAR 87ジャン・リュック・ゴダール(三百人劇場)
ゴダールの1987年作品です。当初は確か89年公開予定だったハズですが、永らくビデオのみのリリースだった問題作の登場です。
80年代以降のゴダール作品のほとんどがそうですが、ストーリーを語ることはほとんど意味がありません。リア王もコーディリアもシェークスピアの末裔も登場するので、過不足はないでしょう。相変わらず美しい「ゴダール的」迷宮映画です。
ドルビー・ステレオというオモチャを手に入れたこの映画の凄い所はやはり、音と映像と言葉の交錯する瞬間です。まさにかつてない新鮮な「映画的」体験が得られます。本当にゴダールというヒトは永遠に「恐るべき子供」です。ちなみに劇中では映画を発明する教授役をゴダールがドレッド・ヘアーで怪演。その教授の助手が、これまた「恐るべき子供」レオス・カラックス(「汚れた血」の監督。新作「ポーラX」も99年公開予定)が寡黙に演じてます。
「右側に気をつけろ」とほぼ同時期の作品なので、見比べてみるとこの当時のゴダールの音と光と言葉のメディア・ミックス的戦略を窺い知ることが出来るかもしれません。
「タイタニック」を好きだというヒトには是非みてもらいたいものです。たぶん、寝てしまうことになるでしょうが、とても心地好く眠れるはずですから…
(船越)
追伸:「ムトゥ踊るマハラジャ」のコメントについては、是非「みんなくれぐれも自分で本当に面白いと思ったところでだけ笑うなり拍手するようにしましょう」という一文を載せて欲しい(^^;
●子連れ狼 三途の川の乳母車
72 三隅研次(ビデオ)
脚本の小池一夫か、三隅研次のアイディアかは、定かではないが次々と時代劇活劇をひっくり返すような、ほとんど「場外乱闘流血の会場!」と東スポなら書きそうな、チャンバラとは言えない、時代劇=人殺しの合法化の極北に行ったような作品だ。手足がちぎれ飛んでほとんど芋虫状態となって死んでいく有り様が克明に描写されるが、ギリギリの美意識を持って作られているので不快感は免れている。(まあ血飛沫が辺り構わず飛び散るのを別とすればだ)。マカロニ時代劇と言ったところか。その劇画感覚を楽しむのが良いのだろう。
(角田)
●御法度
99 大島渚(ヴァージンシネマズ市川コルトンプラザ)
心理学を学ぶ奴はブロークン・ホームに違いないし、ホモ映画を撮る監督は絶対ナルシストに違いない、という偏見が僕にはある。だから大島監督はナルシストに違いない。
この映画は「セックス」と「バイオレンス」という大島監督好みのモチーフに加え、監督好みの美少年(もと美少年)たちが3人(松田龍平・武田真治・浅野忠信)も出演している。ここまで監督の趣味が前面に押し出されてはいる作品も珍しい。話も相変わらず弁証法的で判りやすいし、夜のシーンが多い映像も綺麗なので復帰第一弾としては、申し分ない。たぶんスタッフが優秀なのだろう。個人的には松田龍平より武田真治の方が色気を感じたし、大島監督には、こういった行儀のいい変態映画じゃなく、次作ではぜひ破綻した快作を撮って欲しいとも思う。
(船越)
●殺し屋1
01三池崇史 新宿
ちょっとこの映画を評する言葉をいま持っていない。三池崇史が日本で抜群の演出力を持っている監督であることは 間違いない。ただ近作を観るとエネルギーだけが膨張して、
映画の方向性を見失っていることも否めないと思う。三 池が映画に求めているものがどんどん変質していっていることは近作を観るとよくわかる。昔風の言い方をすると、スト
ーリーを解体する方向というのだろうね。例えば 80年代の寵児であった森田芳光などが『家族ゲーム』でアンタッチャブ ルの存在になり、『そろばんずく』、『ときめきに死す』などで、どんどん観客を突き放した映画を撮ってドン詰まって、『そ
れから』でまた再びストーリーに帰ってきたように、アンタッチャブルな存在になった三池は、いまは物語とは一番遠い方 向に突き進んでいる、表現者としての必然の道を辿っているとも言えよう。
抜群のシーンの演出力により、断片化された映画の各シーンは暴走し、より充実していく。ワン・シーンの情報量と 説得力は世界一じゃないだろうか。同じ条件で撮っても一方はVシネにしかならないのに、三池ではスペクタクルにな
る。
しかし以前はストーリー展開にも考慮していて丁寧に時間を緩やかにして観客を置き去りにしていなかった部分(ある いは感傷的な部分)を、どんどん捨ててきて映画を成立させる方向へとシフトしてきた。編集の巧みさ(暴力的なつなぎ)
がどんどん浸食してきたと思う。それは音と画の共演とも言える。北野武が簡潔にして暴力的な効果を上げてきたもの をさらに徹底し、シーンのつなぎを加速してきた。
いまはマスコミ的に突拍子もないシーンの飛ばし方をすればするほど客が喜ぶんで、ケレンで行っているけれど、結 局は感情がついて来れない部分が残ってしまう。
『漂流街』のラストはもっと泣ける、いや泣きたいのだけども、アタ マのシーンでああいう風に納得をあきらめて客を選んでいるので、感情がついていけないんだよね。『DOA2』も同じ。観
客は未消化に終わる。監督はそこまでついて来て欲しいんだと思うのだろうが、ちょっと無理じゃないのかなあ。
本作のラストの子ども、SABU、浅野、塚本の各人の映画のけじめのカタルシスが崩壊しているのも同じだと思う。そこ ら辺が吹っ切れない三池自身がいるのだろうと思うけど。
わたしとしては、ラストで感情の頂点に達するほどのエクスタシーを持つ作品を作る方向へ早くシフトして欲しい。あ あ、それから大森南朋いいなあ。かれをうまく使う映画アリだと思うのだが。
(角田)