菊次郎の夏
北野武
喜劇・あゝ軍歌
前田陽一
喜劇・命のお値段
前田陽一
喜劇・昨日の敵は今日の敵
前田陽一
喜劇・右むけエ左!
前田陽一
鬼畜大宴会
熊切和嘉
キッスで殺せ(ディレクターズ・カット)
ロバート・アルドリッチ
ギャラクシー・クエスト
ディーン・パリソット
キューブ(CUBE)
ヴィンチェンゾ・ナタリ
キリング・ゾーイ
ロジャー・エイヴァリー
金融腐食列島[呪縛] 
原田眞人


●菊次郎の夏
 99 北野武(渋谷ジョイシネマ)

 2時間たっぷりのテレビ・ドラマを観たといってもいい。これが映画である必然性がどこにも最後まで感じられない。彼自身の出てこない映画でも、『あの夏一番静かな海』や『キッズ・リターン』のように面白い作品があるのに、北野武が出てきてなんとか作品になっているという寂しいというか厳しいモノだった(初日でガラガラだもんね、騒いだのはスポーツ新聞くらいなもんだろう)。
 子役に何の魅力も感じられなかったというか、完全なミスキャストのために演出のリズムがガタガタになっている。長回しの演出も今回、大人と子供のために、二人を入れると中途半端なサイズになるし、子供との切り返しでは子供が緊張して演技にもなっていないため何の感情移入も出来ない。
 脚本と大きく関わってくるのだが、ギャグ・シーンがほとんど思いつきで撮られているとしか言い様のない、登場人物たちの設定の必然性の無さと、関係性の薄さ。最後まで名前が付けられず、「デブ」、「ハゲ」と呼ばれるのが気になる。また『みんなやっているかい』と同じく、ギャグと展開があまりにも読めてしまうのだ。何のひねりもなくテレビのコントの延長の笑いでしかない。
 主人公の少年にも母親に会いに行く、という一大決心の不安と期待の気持ちが見えず、黙って菊次郎についていくだけだし、主人公の遊び人、菊次郎に至っては存在の必然性が感じられない。一応何をやってもダメな割に威張っている設定はあるのだが、誰とも絡めず一人芝居になっている。そのために、 普段の映画ならその透明感が、「何を考えているか分からない日本人」的な不気味さを増すのだが、ここでは主人公がただ、子供を親の元まで連れていけば良いだけの話なので、ダラダラとした時間の経過しか見られない。たけしの話芸でつないでいるトークにしか見られない。ギャグも焼き回しのモノが多いし、新しさが何も見えない。
 浅草を出たら、後は一体どこを歩いているのかさっぱり分からない。『3-4×10月』、『ソナチネ』のような南国の画があれば持つのだけど、全然田舎の風景が描けていない。これもしかしたら、すごく予算が無かったんじゃないかと思わせるほどスケールを感じさせない。それと、『HANA-BI』以降顕著になった、如何にも日本風の浅草や夏祭りの描写はやめて欲しい。外国人が撮った、観光写真みたいだ。 しね。
 「ねらいで全てやりました」と確信犯的な作りをして逃げている部分が多々あるが、子供との距離の取り方が決定的に欠如している。最後のクレーン・ショットは高さが足りねえぞ!物語は90分で終わっているのに、なぜ30分もつまらないエピソードを伸ばしたのかわからない。コンクール用にしたとも考えられるが、シナリオの計算ミスだと思う。
 構図にしても、雑で太陽光線の計算も投げやりで、ピントが合っていない部分がある!(劇場のせいじゃないと思うけど、確かめて下さい。非常に特に後半、望遠ロングショットが甘いのです)。
 ロード・ムービーというか股旅モノというか、このジャンルでは、旅の動機、目的地までの距離感、登場人物が仲間意識を持っていく展開と旅の達成感や失望感、が気迫だと成立しないと思う。
 結構シーンを撮影していて、カットしたところが多いのだろう。繋がらない部分が多いし、唐突なシーン、カットが多い。シリアスに行くと、股旅ものになるからそれを避けようとして失敗しているとしか思えない。
 結局、北野武のナルシズムいっぱいの夏休みの話でしかなかった。
(角田)


●喜劇・あゝ軍歌
 70 前田陽一(ビデオ)

 諸般事情でビデオにて観ることとなったが、劇場で観てもよかったなあと、いま思っている。アタマの中では軍歌が次々と未だ鳴り響いている。観てない人にどう説明したらいいのか、要約不可能な細部だけで出来ているトンデモなくエネルギーに満ち溢れている傑作だ。
 戦後25年、いまも戦死した英霊を奉ってある御魂(みたま)神社。(靖国神社とは言ってない)そこに遺族を連れてついでに東京見物させるのが、フランキー堺と財津一郎の会社「紅観光」の仕事だ。二人は戦友で、 戦時中はキチガイのふりをして精神病院で敗戦を迎え生き延びた男たちだ。
 ある日、御魂神社をお参りした老婆が、思い残すことが無いから自殺したいと言うので困り果てて、自分の家に連れ帰るフランキー。この家は東京湾の埋め立て地の一角にあり、まわりは雑草が茂り廃バスが置いてあるような見捨てられた土地。貧乏くさいのだが、良くできたセットです。一方の財津は「生活を変えたい」というヒッピー青年を木箱の貨物に詰めてアフリカ行きの貨物船に乗せようとするが失敗、彼もフランキーの家に居候をすることとなる。他にもフランキーを逃げた亭主と勘違いするパチンコ好きの四国の女と、妊娠中の17才のこれもヒッピー世代の娘も現れて、あっという間に血の繋がってない家族が出来上がってしまう。
 その先は、前田映画お得意のある作戦が繰り広げられるのだが、ストーリーを追うことだけにこの映画の面白さは無い。軍歌が何曲も流れるのだが分かりやすい反戦とか、厭戦とかいうメッセージは見えず、ひねくれて見方によっては軍国少年的な勇ましく思えるだが(軍歌のオンパレードでアタマにこびりついてしまう)、実はどんなことをしてでも生き延びてやるという、戦争の善悪についてなどという簡単なメッセージでは解けないように人間臭く観念的でなく作られている。
 ラストにはもっとトンデモない不埒なことを計画してアッと言わせます。「炭坑節」など歌を巧みにリフレインして意味を二重三重にして、効果を倍増させている。
 湿っぽくとか、硬派でとか作れる題材を斜に構えながらも力技で喜劇まで引き上げてしまうのは、ものすごい力量だ。渇いていながらも鋭い、才気に満ちた作品だ。(ああ、もっとストーリーとネタについて書きたい。)
(角田)


●喜劇・命のお値段
 71 前田陽一(ビデオ)

 映画祭にあわせてアップしてましたが、今回は済みません遅れてしまいました。
 前作『喜劇・あゝ軍歌』と同じ格好をした、財津とフランキーが刑務所から出所するところから映画は始まる。いよいよ堅気になろうとするが何をしたらよいのか分からない。偶然、故郷の島で子供の病気を治したフランキーは自分に医者の才能があることに気付
く。再び、財津と組み(公文書偽造の天才で医師免状も作ってしまう)横須賀でニセ医者を開業する。
 何故横須賀かは分からないが、基地の匂いが濃厚という設定があったのだろうか。彼らは騙されて、朝鮮戦争で怪我人や死人を扱った経験があり、そこから抜け出せないようだ。この過去から逃れられないトラウマになっている人間はいつも前田作品に現れる。
 冷や冷やのところで、毎日ニセ医者を務めるフランキーのところに食品公害の問題が持ち上がる。相手の企業の社長はかつて彼らを朝鮮に騙して送った手配師だった。そこで一か八かの賭けに出る二人。汚い横須賀の海辺に座りながら、「東京の靴磨き」を歌う二人。突如朝鮮戦争の画がモンタージュされる。 いつも、作品のなかで男達が歌いだしたらもう後には引けないんだよね。それからのドタバタは笑って下さい。
 あ、それから唖の(もちろんニセ)バーのママの役の岡田茉莉子はきれいだった。ああいう、色気と可愛さのすれすれの役が出来る役者っている?
(角田)


●喜劇・昨日の敵は今日の敵
 70 前田陽一(中野武蔵野ホール)

 世紀末、大して楽しいことがないところに、こんなに無責任な滅茶苦茶な爽快な映画が今観られることは幸せなことだと思う。だから検索エンジンにも引っかからなくても人様の掲示板にも乱入してでも、「面白いものは面白い!」と連呼し続ける。
 ただギャグ映画の場合どこまでばらすのかが微妙なところなんでね。ほとんどギャグが集まって重なり合ってストーリーを作っていくといった不思議なモダンで現代的な全然古びていないのが特徴の映画。観て唖然、呆然する事間違いなし。
 東京の三流大学らしい城南大学、入学シーズンで新入生の獲得に忙しい。応援団長のなべおさみと小松正夫は、なぜか堺正章に目をつける。しかし案の定、マチャアキは軟派なバンド活動に参加してしまう。その名も『ハッスルズ』。
 そして舞台は、突然、伊豆箱根小涌園となる。温水プールを備えた大型ホテルで話は進行する。なぜか、応援団とバンドが同時にバイトに来たりする。(応援団はボーイを、バンドはマチャアキの『さらば恋人』を演奏)。そこに氾文雀率いる城西大学空手部と勝負をしたりするハメになったりしてバイト生活が過ぎていく。
 ある日やってきた、立派な身なりの男(平田昭彦)、とそのお付きと美少女の四人。なべおさみを感服させ、小涌園で我が物顔に振る舞う。そして、ついに今の世を憂い、ここに『箱根独立構想』を宣言するのだ。 失敗した場合は小涌園を爆破するという。(前田監督は爆破させるのが大好きのようでしばしば出てきて、爆弾が絡むと俄然面白くなる)その尖兵を応援団が果たし、着々と計画が進むように見えた。
 しかしそこには、とんでもないドンデン返しがあった。ここからは、ナンセンスの極みとしか言えないシーンがオンパレード。笑い死にます。余りのバカバカしさに。なぜか、いつもなぜかなのだが、サスペンスが最高潮に達したときに布施明が出てきて一曲歌うという、とんでもないシーンがあり椅子から転げ落ちそうになりました。これ以上は書けません。あとは、劇場でね。あ、「ゴールデンハーフスペシャル」も歌い踊ります。
(角田)


●喜劇・右むけエ左!
 70 前田陽一(中野武蔵野ホール)

 時刻は夜の7時半。微妙な時間だ。待ち合わせの、相方に目で合図を送る「どうする?」。相方も「どうするかだな、呑む時間としては充分あるが、デキあがっちゃ元も子のない」とその目は告げていた。が、そんなことを言ってたら、雨上がりの中野北口ブロードウエイでは凍え死んでしまう。お構いなしに、手近かの居酒屋に入り、ビール、熱燗とセーブをして呑む。時間は9時に近づく。
 品の良い酔っぱらい状態で、場内に入る。雨のせいか、それとも日曜日のせいか、観客の入りは4割と言うところだ。9時20分、何度も観た『新唐獅子株式会社』の予告編に続いて、ワイドスクリーンサイズに画面が切り替わり、東宝の会社のマーク、そしてワタナベプロ製作と出る。原色のバックにモノクロ写真のコラージュを切り絵のように散りばめてタイトルが流れる。音楽は「大きいことは良いことだ」でお馴染みの山本直純先生。2曲しかないテーマソングを景気良くならしながらナベプロの黄金期のスター総出演で物語は始まる。
 とある下着メーカー(タイアップでワコールなのだが、看板は出るがワコールとは一言も台詞に出ない)のファッションショー。今やすっかり芸能界の隠し芸男と化した堺正章が、ガリガリの身体でお調子者の長髪のサラリーマン、マチャアキを演じドジを踏んでばかりいる。それをカバーする筈の上司の犬塚(クレージーキャッツ)弘課長は、昼行灯でただ一人部下のなべおさみにだけ何故か慕われている。そんなある日、会社に海外部が出来、パリ、ロンドン、ニューヨーク行けると思って集められたのが、先程のボンクラ社員7名達(小松政夫のオカマ演技が笑える)。彼ら全員、 社長訓辞で 根性を入れ替えるために習志野の自衛隊に体験入隊させられるハメになる。昼行灯課長はかつてこの駐屯地にいたことがあり、制服に着替えると、俄然人が変わったように生き生きとするのが戦後25年の実感だったのだろうか。
 鬼軍曹?左とん平に鍛えられていくうちに、(誰も自衛隊批判、文句を言わないのはこれもタイアップだろう。)犬塚課長の過去が明らかになる。ここで かつて課長は、スパイ容疑をかけられ殺されそうになったのだ。 その理由は、本土決戦に備え、予備の資金を駐屯地に埋める話を聞いてしまったと思われたからだ。真相を知った彼らは、身代わりに殺された同僚のためにも、自分たちのためにもその金を頂こうとして計画を立てる。しかし、埋めてあるところは立入禁止区域だ。
 そこに偶然ライバル下着会社の女子野球部も体験入隊していた。もうお分かりであろう、女風呂のぞきでてんやわんやの騒ぎとなり、ライバル会社の監督、若かりし、いかりや長介登場。野球大会で決着を付けることとなる。そこに現れた助っ人があっと驚く人(元プロ野球選手・・なんで出演したんだかわからないけど)。犬塚課長は、ライトを守り、立ち入り禁止地域に入り込んだボールを探すフリをして埋蔵金のありかの見当をつける。
 突然、GSメロディーがかかり、ザ・タイガースが、戦車の上で一曲演奏するサービス。というラブ・アンド・ピースな展開で、若い岸部兄弟やジュリーが観られます。そのまま、夜のパーティーシーンになり、ナベプロが売り出し中のオリビア・ハッセーとの結婚前の布施明が熱唱。井上順もエリート自衛官として登場。太り気味の和服姿の吉沢京子や木の実ナナも参加する豪華シーン。
 埋蔵金発掘計画は、演習日ぼどさくさに紛れてやることになり、これから先は自衛隊全面協力の迫力満点、抱腹絶倒の大アクション・ギャグが満載です。ラストにたどり着くまで、息が途切れないまま90分、楽しませてもらいました。 センチにならない集団劇の細かく観れば、いろんな芸を一人一人やってるんだがそれをさりげなく撮ってしまう贅沢さ。これはカルトでっせ。思想とか、言いたいこととか、スタイルとか求めちゃダメ。一言で言えば、「んなバカなの連続コメディー!」。
 終わって時計を観れば10時50分。終電までにもう一杯だけ。安い店で呑みましょうか。
(角田)

●鬼畜大宴会
 98 熊切和嘉(ユーロ・スペース)

 『プライベート・ライアン』にも匹敵する、ヴァーチャル・リアリティー体感映画が現れた。35ミリ、スタンダード、役者・スタッフは無名。噂によると“ぴあフィルムフェスティバル準グランプリ”に選ばれながらも、事務局がびびって上映さえなかったといういわくつきの映画。その描写によりどう考えても映倫は通らないね、通ってもX指定だわこれは、というシロモノ。
 ストーリーは、70年代の新左翼活動らしい(台詞が少なく、固有名詞がでてこないので推測するしかないが)グループが、内部分裂を起こしやがて破滅していく様子を淡々と撮っていく。普通この手の自主映画にはイライラさせられることが多いのだが、一人一人、裏切り者を捕まえ、執拗にいたぶり殺してく有り様を、リアリズムで描きながらも、不快感という意味では全く政治とかストーリー・テーマが欠如しているので、見せ物として楽しめる。いつか訳のわからん自主映画の世界に帰るのかと思ったがそんなことはなくプロの作品以上に丁寧に作り込まれている。人の頭を猟銃で吹っ飛ばすことに全力をかけている、そのパワーに上品さまで感じてしまう。映像に全てを託している意味ではとても志の高い映画です。どこまで、本気で作っているのか、シャレなのか判別が出来ないと言う点でも『プライベート・ライアン』のようだなあ。
 人殺しスプラッター映画だけど、妙に透明感があるんだよね。観たこと無い映画です。
(角田)


●キッスで殺せ(ディレクターズ・カット)
 KISS ME DEADLY Director’s Cut 55 ロバート・アルドリッチ (シネセゾン渋谷)

 観終った後の正直な感想は「確かに緊迫感はすごいけど、ただの安っぽい出来そこないのB級じゃん」でした。ロードアイランドの名門一族出身のこの映画監督にはカルトなファンも多いのでやたらなことを書くと怒られるかもしれないので、先に白状しておくとボクは「攻撃」と「何がジェーンに起こったか?」しか、まともに観たことありません。熱心なファンの方、ごめんなさい。
 さて「キッスで殺せ」ですが、まず人間関係が良く判らないし、主人公のハマーが敵を一撃で倒したという「必殺技」も見当がつかないし、国家機密が絡んでいるみたいなのですが、その正体(パンドラの箱=原爆?)もよく判りません。というのも原作のスピレーンのマイク・ハマー・シリーズを一度も読んだことがないボクには当然のことかもしれません。原作は早川から出ているだろうから(「燃える接吻」かな?)、今度チェックしてみます。また、この映画が製作された1955年当時のアメリカの社会風潮が良く判らないので、この映画の全編にみなぎるただならぬ閉塞感と緊張感は社会を反映したものかどうなのかも判りません。
 ただ、この映画の閉塞感・緊張感は圧倒的で後の作品群にも繋がるものがあります。マイノリティー趣味もアルドリッチらしいといえるかも知れませんが、作品的には、やはり失敗作でしょう。
 印象的なのはオープニングのタイトル・ロールでデヴィッド・リンチの「ロスト・ハイウェイ」のオープニング・ロールはこの作品のパクリかと思わせるほどのカッコよさです。あれ、そういえばこの作品と「ロスト・ハイウェイ」とは結構共通項ありそうだな…自動車修理工が出てくるし、敵か味方かよく判らない女が出てくるし、画面暗いし、小屋は爆発するし、元も子もない映画だし…
(船越)
 

●キッスで殺せ(ディレクターズ・カット) 
  (ヴィデオ)

なぜ今、この映画を観なきゃならないのか良く分からないが、赤狩りでハリウッドがガタガタになったあと、自分のプロダクションで白黒B級映画を作ろうとしたのはなぜか。
 原作のマイク・ハマーはもっと格好良く強く、やたら拳銃をぶっ放すが、映画では、秘書を使って離婚の調査をするしがない私立探偵として描かれている。その時点ですでにヒーロー像から逸脱している。冷戦時代のリアルと映画の中のちんけなリアルとのどっちがウソくさいんだと観客に突きつけている。
 かなり挑発的であり、夢も希望も無い絶望を前面に押し出している。アルドリッチはその絶望を乗り越えていくか、または挫折するか、どちらかの人間しかいつも描いていない。まあ、どっちでも彼のなかの興味としては構わなかったのだろうがね。観客はえらく面白い映画を見て満足して帰るか、梯子をはずされて打ちのめされて帰るか、どっちにしても中途半端じゃ済まされないのがアルドリッチ映画だと思う。前者には『特攻大作戦』、『ロンゲストヤード』、『カリフォルニアドールズ』。後者には『攻撃』、『傷だらけの挽歌』、『北国の帝王』、『クワイヤーボーイズ』、『燃える戦場』、『ハッスル』などがある。
 だから、『キッスで殺せ』になにかを求めようとしちゃアカンのよ、(傑作とか)。アルドリッチの仕掛けた幾つもの罠を楽しまないとつまらないよ。主人公が情けなく、やることなす事が滅茶苦茶で、探偵だから探偵をする、悪役だから悪役をすると言った、ご都合主義でただみんなステレオタイプの役回りをして死んでいく。そんなひねくれた映画なんだからさ。いまから40年前のハリウッド内アンチ・ハリウッドだと思いなさいよ。
 (角田)

● ギャラクシー・クエスト
 Galaxy Quest 99ディーン・パリソット(ヴィデオ)

 円谷プロも、新しいウルトラマンばかり作ってないで、こういう映画作ればいいんだよな。って思い出したけど、「ウルトラマン・ティガ」の第49話 ウルトラの星の回で、ウルトラマン誕生の前にタイムスリップして、円谷英二と話すという洒落た話があったな。
 近年まれに見る、シナリオがきちんとしたコメディなんだけど、演出がコメディでないのでつらいなあ。ヲタクの夢が幾層にもなって、にやりとさせられるところがたくさんあって楽しめる。
 定番の部分を全部出し切っていてくれて、心地よく進んでくれるけど心地よすぎて「?」という箇所もある。キャラクターのこの設定を信じすぎるところなどが、飛躍するための、もうワンエピソードあって信じれば納得できるのだけども、いまひとつ決心して行動に向かう動機が、全体的に弱い。もうちょっととッ散らかったコメディ調が良かったんではないか。
 まあ、ヲタクねらいなら細かいこといわないとは思うけど。さいごまで安心して観られる一本です。小品佳作です。
(角田)

●CUBE
 CUBE 97 ヴィンチェンゾ・ナタリ(シネ・ヴィヴァン六本木)

 クローネンバーグにも通じるカナダの新鋭監督。寒い季節の長いカナダはこの手のホラーを生み出しやすいのか。「JM」の絵コンテ、アニメーションも手がけていたそうです。
  内容は単純な映画です。男女6人が何のためか閉じ込められた正立方体の部屋(その正立方体がさらに巨大な立方体を構成している)から仕掛けられた「トラップ」を回避しつつ暗号を解き明かしながら逃げ出す、それだけです。ちょうどルービック・キューブの「内側」に閉じ込められたようなものです。ルービック・キューブを自力で完成させられなかったボクには到底出られそうにありません。
 いかにもデジタルゲーム世代の作品でそのままロール・プレイング・ゲームになりそうです。そのうちどこかのゲームメーカーが出すかもしれません。この監督はきっとゲーム・デザインを手がけても優秀でしょう。幾何学的装飾とCGのすばらしさは見所のひとつです。低予算映画ということを逆手に取ったアイディアの勝利です。最後まで黒幕の存在も目的も良く判らないところも好感がもてます。観客に閉塞感・緊張感を与えることだけが、目的なのかもしれません。
 10月31日よりナタリ監督の短編作「ELEVATED」を併映してますが、「CUBE」がこの「ELEVATED」のパワーアップ版だということが、良く判ります。
(船越)
 

●CUBE
(ビデオ)

 短編アイディアを引き延ばしただけで、ぼんやり観ていても非常に分かりやすいので、90分なんかすぐ過ぎてしまう。この程度のネタじゃコミックにもならないし、人物造型に甘いSF界だから通用する映画なのだろう。観客を置き去りにして困難に直面すると「実は私は……」と出てきて問題を解決するなんて、シナリオとしては一番拙いやり方だと思うが。ワンセットで作っているなんて舞台裏がバレるようなことを売りにしちゃイカンでしょう。ゲームのムービー観たいんじゃないんだから、これは12歳までのお子さま向け映画。
 (角田)

●キリング・ゾーイ
 KILLING ZOE 94 ロジャー・エイヴァリー

 監督の名前より、製作総指揮のクエンティン・タランティーノの名前が大きいというシロモノ。だから、面白かったとも言える作品。(角田さんごめんなさい、まるまるパクリました)
 エリック・ストルツ主演。1993年のアメリカ+フランス映画ですが、ほとんどの撮影はアメリカで行われたようです。(一応舞台はパリなんだけど)
 物語は、冒頭20分が「トゥルー・ロマンス」と同じパターンで、娼婦と主人公のラブ・ラブ・ロマンス、続く30分がドラックきめまくりラリラリバッドトリップ大会、そして最後の40分が銀行襲撃マシンガンバリバリ乱射パニックの豪華三部構成からなる快作。
 狂暴でホモでエイズでジャンキーのエリック役のジャン=ユーグ・アングラードが切れててイカしてます。アルバイトの娼婦役のジュリー・デルピーも魅力爆発。もちろんキッチリ脱いでます。
 いやーでも考えてみると最近のアメリカ映画のアメリカ人監督でちゃんと「活劇」撮っているヒトって、ロバート・ロドリゲスとかのタランティーノがらみのヒトしかいないのかもしれませんねー。TAXIもノリはアメリカ的だけどアメリカ人監督じゃないし…
(船越)


●金融腐食列島[呪縛]
 99 原田眞人(新宿東映)

 角川映画、東映系公開で、おおっ、80年代の再現か!とも一瞬思ったが、そうではないしたたかなマーケティング的な映画な様な気がした。それが良い悪いじゃなくて映画的なダイナミズムに欠けているのが、悪くはないが物足りない最大の原因だ。
  それは何かというと、映像と脚本の問題じゃないだろうか。“金融パニックムービー”のコピー通りに物語は進んで過不足はないのだが、深みに欠けるのは映像と脚本の仕掛けに欠如している部分があるからだろう。
  映像において一番問題な点は、観客は、テレビや新聞で報道されていない部分を観たいわけで、これは脚本にも通じることだが、結局観られるものがテレビドラマセットの様な会社の室内セット。おまえらこんなところでホントに毎日働いているのかよと言うくらい無機質なオフィスと、張りぼてのような役員室(料理の鉄人かと思った)。まあ、要するに細部の工夫が見えないわけでホテルの部屋も会議室も意味合いに於いては変わらないので、時間、空間の緊張感が全く出ない。
  同じく、撮り方もテレビのニュースで見たカットと全く変わらない画が多くて、これを臨場感だと思っていたら監督はアタマ悪いんじゃないのと同情するしかない。逮捕されて地検に入っていったり、地検が銀行に入っていったりする部分もテレビニュース以上の物が何一つ出てなく、編集もワザと粗っぽくするとかアメリカ映画のようにカットを短くしても同様の効果しか上げていない。
  困ったのは主人公たちも同じ様な撮り方だから一向に感情移入できないし、物語を語る狂言回しに過ぎないし、個人の判別もつきにくい。自殺する重役もどうやって死んだのか、まったくハッキリしない。死に方にひとつの会社の裏を背負った男のケジメみたいなものを表現出来ると思うのだが(これは演出の問題か?)、単なるカメラの遊び(しかも失敗。デパーマの『スネークアイズ』の方がまだ効果的だ)に終わっている。シンプルな撮り方した方が効果が出るのに。死ぬのを観客に分からせる分からせないの、どちらを選ぶにせよあの撮り方は間違っている。学生映画じゃないんだからさ、客は置いていかれるよ。
  しかし、問題なのはやはり脚本で三人もいながら(うち一人は原作者)、骨の無い脚本はどうしてだろう。早い話が、これは第一勧銀事件をモデルとしたその裏側を描いた暴露物の筈が、正義の味方勧善懲悪の時代劇にスリ変わっている、会社万歳の忠臣蔵でストーリーとしても、情報としても決定的に古いのだ。それをどう新しくするかが課題であって、結局その入口で終わっているし、何の意外性もないし、はっきりいうとドラマが無いんですね。だから人物もステレオタイプだし(だから分かりにくい)、あんな絵に描いたような悪役重役がいるとは思えないし、勧進帳ひとつで全てが解決するなんて事は分かりやすすぎて、客は、その勧進帳に書かれたどろどろした部分や、政治家とのつながりとかそういうスキャンダラスな部分(ようするにフィクション)を観たいわけで、それらについて何一つ答えを出していない。
  対立のドラマがどこにも存在しないから、ストーリーを進め、解説するために、女性記者の存在が必要となる、それがストーリーがどうしようもないから必要以上に大きくなって、視点が第三者的なストーリー展開になってしまう。シーンづくりでも個人の生活や性格を映していないので個人個人が何を考えているのかよくわからん。普通だったら内部から裏切り者が出てくるとか、非常にエキセントリックな人物を出すとか膨らませようがあるのだが、 単なる会社だけの話で終わって不況で困っているお父さんにはだから何なんだ!としか思わせない内容になってしまっている。予定調和のエンターテインメントモドキでした。
(角田)