回路
黒沢清
かさぶた
アボルファズル・ジャリリ
ガタカ
アンドリュー・ニコル
カタクリ家の幸福
三池崇史
カップルズ
エドワード・ヤン
神様の愛い奴(神軍平等兵の帰還)
神様
神様のくれた赤ん坊
前田陽一
神の子たち
四ノ宮浩
ガメラ3 邪神(イリス)覚醒
金子修介
唐獅子株式会社
曽根中生
カリスマ
黒沢清
がんばって、いきまっしょい
磯村一路
  

●回路 
  01 黒沢清(ヴァージンシネマズ・市川コルトンプラザ)

 映画は、商品なのか作品なのか。個人のものであるとしたら「作品」であり、金を取るとしたら「商品」だと思う。誰かにほめられるだけなら「作品」だけど、議論されるなら「商品」だ。
 企画:「インターネットのなかから幽霊がでてくる」 「『リング』の呪いのテープとどこがちがうの?」。まあ、シナリオのミスとか演出のミスご都合主義が、シナリオ学校レベルなので失笑するしかない けど、やっぱ黒沢清はシナリオが書けない。自分で書いたやつはぜんぶ最後にはストーリーが破綻していることを指摘したい。また、撮影もあいかわらずひどいので観ていて疲れる。田村正毅はさすがにきちんと撮れていたけど、その他最近のものは特にヒドイ。人物が背景に溶けこんで見えない。これって技術レベルの問題だよ。作品意図以前にさ。ディテールのない(風俗を描かない)ことが、映画が腐らないことと考えているかもしれないけどそれは明らかに間違えだ。ディテールにこそ意味がある。しかしおもしろくしようとしていない映画について書いても仕方ないと思うのだけど。ずっとおなじようなことしていくんだろうなあ。ジャンルをつくったりこわしたり、基本的にできないだろうから。 海外で賞でも獲らない限りはね。たぶん。
(角田)


●かさぶた
  SCABIES 87 アボルファズル・ジャリリ(シネ・ラ・セット)

 アッバス・キアロスタミだけじゃないんだぜ、とばかりに配給元の意気込みが伝わってきそうなイラン映画。「友だちのうちはどこ?」 と同じく1987年の製作。
  また「友だち〜」と同様、子供が主人公なのは政治的配慮(イラン・イラク戦争中だし、検閲とかもきびしそうだし)からかも知れないが、結局この映画は本国では 上映禁止になったらしい。
  「ヘンなタイトルだな」と思ったのが観てみようと思った直接の動機だが、内容はいたってマトモな「大人は判ってくれない」(つまり少年院もの)だった。
  「文盲」の主人公が「反体制的」チラシを配った罪で少年院に入れられる(なんちゅう不条理)オープニング以降、少年たちの「塀の中の生活」(労働・いじめ・けんか・懲罰)がドキュメンタリー・タッチで描かれる本作は、実際にスタッフが少年院に寝泊りして撮影を進めたらしい。確かに美しい映画でロベール・ブレッソンの映画を観たとき同様、心が浄化されるような印象を受けた。
  少年院という「小さな世界」でのできごとのなかにイランの当時の状況(政治・経済・教育)を垣間見ることはもちろん出来るのだけれども(実際、監督の意図は少年院の少年たちにイランの現状を仮託しようとしているのかもしれないが)そういった社会的・政治的側面よりも「職業俳優」ではない 「素人」の少年たちが 実に表情豊かに生き生きとしていることが最大の見所だと思う。特にプールに全員で駆け出していくシーンは忘れがたい。
  劇的な物語がなくても退屈しない映画は忘れた頃に現れるものだ。
  本作は「大人は判ってくれない」+ブレッソンだったが、同時上映の「7本のキャンドル」はパラジャーノフ+ブレッソンっぽい。あくまで予告を観た印象だけど。完全入替性なんで「かさぶた」しか観なかった。ちなみに「かさぶた」は少年院内で流行っている皮膚病のこと。
(船越)
 
●ガタカ
  GATTACA 98 アンドリュー・ニコル(ビデオ)

 レトロ・フューチャー、懐かしき未来図。小松崎茂のイラスト、どこかで一度は見た世界がそこには広がっている。宇宙への憧憬。遺伝子による人種差別。ちり一つ無い透明な巨大な建物。無表情に動く人々。
 そんな端正な世界に、劣性遺伝子を持った宇宙飛行士志願の青年が、闇の契約で優性遺伝子を持つが身体障害者に成りきり、ガタカという会社に入り土星を目指す。そこで殺人事件が起きて、いつ正体がバレルかというサスペンスもあるが、この映画の楽しみは、ア
メリカ映画にしてはものすごくゆったりとしたテンポで、ほとんど近未来を感じさせないロケ・セットで、逆に郷愁を感じさせるような画面造りをしていることだ。何度も出てくる、主人公がガラス窓越しにロケットの発射を眺めるカットはとても美しい。
 テンポが遅いためにストーリーに説明不足の感は否めないが(主人公の兄弟の葛藤、恋人との関係)、映画のリズムの統一は見事だと思う。現実感を歪ませようとフィルターを多用しているのが少しうるさいが、静かにスタイリッシュな映像はなかなか格好良い。
 ケレンのある演出がいくらでも出来る素材なのに、それを排除していってSFとしてシンプルに表現するところに新鮮味を感じた。サイバー・パンクな未来ではなく、『アルファビル』、『ラ・ジュテ』に通じる、SFXに頼らない、SFマインドを堪能できる作品だ。
 アーネスト・ボーグナインとアラン・アーキンが出ているのが嬉しい。でも、活躍してくれないのが残念。
(角田)


●カタクリ家の幸福
   01三池崇史 (リーブル池袋)

 いまの日本で一番おもしろい映画を連発する監督の作品が、これほど次々と観られるのはなんと幸福なことか。一作 を観終わって、次作を渇望すること無いなんてことがあり得るのか。あらゆるうるさ方を唸らせながら問題作ばかり作っ てしまうアタマの中はどうなっているのだろう。
 この映画は韓国映画『クワイエット・ファミリー』のリメイク。この映画のリメイク権を誰が買ったのだろうかというハナシ もあるが、これを三池に振った松竹もようワカラン。これをオペレッタというか歌謡ロックショーに仕上げる三池監督もよ うワカランなあ。ただどんな映画でもおもしろく作り上げてしまうテクニックを手に入れたことで暴走度はますます加速し ている。
 このテクニックが果たしてどこから来たのかをずっと考えているのだけど、まったく予測が出来ないけれど抜群の安定 度と納得度を持ったカット割りは映画を観たりしているだけじゃ出来ないよなと思う。現場を知り尽くしていないと生まれ ない。
 誰にも似ていないが、これが三池カットだ、というのも無い。省略と豊饒を一度に画面に納める。予算と時間が限られ た現場で最大限の効果を出す。かと言って安直などこかで観たカット割りに逃げない。
 これって映画の手法よりは、テレビの自由さではないかと思う。テレビ映画の現場に何本も付いていたこともあるだ ろうが、35ミリフィルムの感度がヴィデオよりも、実は遥かに自由度が大きいことを監督はよく分かっていると思う。それ を実現する撮影・照明チームもいままでの映画製作現場の思考パターンに囚われていないのだろう。普通は恐くてもっ とカットを割るのをワンカットで撮ったり、逆に、こんな即物的なアップは入れないよと言われるのを平気で入れて、短い 数秒のカットとして成立させる。ワンシーン・ワンカットも手法としてだけではなく、現場の効率と効果を一挙に解決するこ とを旨としている。
 かれの一見ごちゃごちゃに見えるフィルモ・グラフィーを家族、家庭の共同体への執着をキーワードにして解き明か せるだろうか。三池映画の登場人物は、いつも 共同体とその周辺にいながら、はじかれているハグレ集団の中で の諍いを描いているように思える。
 それは、デビュー作からチャイニーズ・マフィアと中国残留孤児の子供たちという合わせ鏡のような登場人物を配して いることからも明らかだ。『殺し屋1』にしても、イチと垣原を考えてみればわかるし、『DOA』シリーズの力と翔もそうだ。 おもしろいことに対立していても必ずどちらかは大組織で一方は小組織なんだよね。それも外からその集団を壊そうと する相手には徹底的に戦うという、いわばチンピラの疑似家族の世界が根底にあるのではないだろうか。登場人物の 対立軸はすぐには分からないが、次第に日本人(アジア人)にはしっくり来るもの任侠なので受け入れられるようにな る。ヤクザ映画の世界だね。
 大体いつもアタマに人がゴチャッと出てきてその関係がなかなか分からないんだよ。そこでは既に映画の前の設定段 階で出来上がっている役割分担で動いているので、彼らにとっては自明な関係なのだけど、映画では観客には分から ない。『DOA』の1も2もそうだ。いわば裏設定が既に監督のアタマのなかでは出来ているということ。それを説明すること には興味がないんだろうね。
 話が動き出すのはその内部においての諍いから起きる対立からで、それもその外側にいる巨大な敵の出現を待つま でだ。それが疑似家族を呑み込もうとすると死にものぐるいで戦う。その様がいつも泣かされる。そこには犬死にと崇高 な犠牲が必ず交互に現れるが、そこには救いは無い。必ず、 誘惑されて仲間から裏切り者が出てきたり、女が虐待 されたり、過度な残酷シーンも、共同体を抜けようとしたり、守ろうとしたりする過度の動きだ。ただそれらはすぐにもっと 大きなものに呑み込まれてしまう。主人公に平穏か和解が行われようとすると、その相手が死ぬことが多い。
 ラストの結論は常に恣意的ケレンなので感情的な話は、大体その前にヤマを迎えて終わる。最後は映画的な面白 さ、カタルシスに持っていく。そこがタガが外れた風に見えるのだろうね。いわゆるケレンのラストシーンがそうだ。そこで はすべてがチャラにされるのでマジメな人は怒るんだろうね。まあそれは正しいけど。そこまで来ると監督の意図はスト ーリーラインに沿ったところから逸脱して映画の画としてここまではいけるよなと暴走するようだ。『DOA』のCG、『アンド ロメディア』の海辺の桜、もそうだろう。
 こう考えると『DOA2』を監督が大好きなのもよく分かる。ふたりの仕事や生まれ育ちを通じた関係性やユートピア 感、共同体の在り方が監督の理想だと言うことが考えられる。
 でもさ、ヤクザ映画の典型の展開といえばそれまでなんだけど、三池映画の映画の感情の起伏の流れが似ていると 感じるのはこの辺だろう。逆に言えばどの脚本もこのラインに作り直してしまうのだろうと思う。
 『カタクリ家の幸福』のこのラインに近い気がするけど。家族愛というか共同体への監督の考える偏愛は本気だと思 う。
 馬飼野康二の音楽も歌謡曲していて、沢田研二の唄にうまく乗せることができている。HD24pでの撮影もまだ未完成 な機械をうまくボロがでないように、速いカメラの動き、過度のアップ、照明のコントラストの差が無いようにと工夫してい る。

●神々の愛い奴(神軍平等兵の帰還)
 98 神様(新宿ロフト・プラス・ワン)

 老いて群れから取り残された獅子をハイエナ達が遠巻きにして弱るのを待っている。上空にはハゲタカも。でもまだ手は出せない。
  高齢と病気、長年の独房生活でパラノイア気質が悪化した奥崎謙三を主演に迎え、本職でない根本 敬(自称被差別未開放漫画家)や湯浅 学(音楽評論家、幻の名盤開放同盟)等により背筋が寒くなるようないい加減で情の薄い態度で作られた作品。
  ここでは書けないような非道な行為を何とかなだめすかしてやらせようとするスタッフと奥崎の綱引きがスリリングで、ありとあらゆる悪条件にも関わらず、面白いが、そう思う事が恥ずかしくなるような気まずい映画。
  奥崎謙三の瘴気爆発。ご機嫌取りの為行われるスタッフの土下座の回数としょっぱさは記録的。
  1月2日、「芸能界ドリーム・チーム」vs「プロ野球名球界」の軟式野球試合をテレビ観戦。往年の名選手も老いては体が思う様に動かない。広瀬はベースランニング中に足が縺れ、長島は三塁線ファールに一歩も動けない。キャッチャーを勤めた松原は二塁までボールが投げられない。ドリームチームのスピードに塁を盗まれまくっても、老練狡猾さと顔で、互角以上に戦っていた。ドリーム・チーム監督たけしの毒舌も明らかに名球界チームへの愛情がこもっっており、観ていて和んでしまった。それにしても山田と北別府と村田の投球は凄味が有った。
  p.s.奥崎の怒り狂うシーンも凄かった。
(森山)
 

●神様の愛い奴

 こわれている筈の奥崎謙三は、生きていた。そう『ゆきゆきて神軍』で刑務所に入った奥崎は、娑婆に帰ってきた。AV に出演するために。 彼を取り囲む若いスタッフ。特殊漫画家根本敬を始めとするスタッフは、いきなり奥崎の途切れない話のペースに巻き込まれる。ここでスタッフは甘かった。AV 出演を受諾した段階でエロ爺いだと多寡を括っていたと思う。しかし、神軍二等兵は死んでいなかった。その強力なパワーは、若いスタッフでは抑えきれなかった。原一男も逃げ出したアクの強さは健在だった。
 全ては自分を中心に世界は回り、自分の世界の中でどこまでも完結する正気と狂気の狭間を生きる男は、既に自分がカメラを通した虚像なのか、実像なのかも不確かなところまで自分を追いつめてしまっている。だから、中途半端な見せ物として自分を描こうとすると突然激昂する。平身低頭で謝り、あたふたするスタッフを尻目に自分のペースを貫く。恐いモノなど無いのだ。自分の中の平衡感覚がぶっこわれている。刑務所の中で破壊された自己と(半生を刑務所で過ごしているから)、それでも生き残るために自らこれが自己だと思って、人に見せている自己のギャップの凄さ。それが多重人格のようにころころ変わるのが滑稽を通り越し奥崎謙三のみが突出してくる。
 だから、誰にも暴走は止められず監督はついに「神様」となってしまった。これは、作品なのか、それとも奥崎のプライベートの記録なのか、どちらなのか。
  今回の中には奥崎AVの部分は入っていなかったが、(別編集して出すらしいが)、一本の作品としたら傑作になったかも知れない。現場にプロがいずに、学生映画が奥崎にAV やらせちゃうんだもんな。構成、編集した藤原章は頑張ったと思う。現場の空気を見事に捉えていた。
  これと『ゆきゆきて神軍』は2本立てで見るべきだと思った。奥崎というスターの記録の果てに、映画がそんな、形式張ったモンじゃないと言うことがわかり、映画の敗北、解体していく様が見られると思うからだ。………………観念的過ぎたかな。ともかく、奥崎が映画を作品を浸食してしまっている。これって、単なるスター映画とどこが違うの?ドキュメンタリーじゃないよね。『ゆきゆきて神軍』の時も感じたけどね。
(角田)
 

●神様のくれた赤ん坊
 79 前田陽一(ビデオ)

 中野武蔵野ホールの『前田陽一映画祭』を観ようかどうか、考えていてプログラムを調べてみたら、ほとんど全部ビデオ化されていないことに気付いた。よおしと、景気付けに観てから考えようとビデオ屋の棚から抜いてきた。
 たるんだテレビとか、映画ばっかりに浸かっていてまあ、これで良いでしょうなんてこと言っていたが、今は無きプログラム・ピクチャーが画面からこちらに溢れ出ていてどぎまぎしてしまった。与えられた原作、役者、予算の中でお客を納得させる技、それが演出力と言うんだけど、桃井かおりの表情が、物凄く良くてびっくりしてしまう。渡瀬恒彦の飄々としたいつもと違った肩の力の抜けた演技がセンチメンタル過多になるところを避けている。
 「ねえ、私たちもしかして同じこと考えているんじゃない」という台詞のリフレインの効果的な粋な使い方、九州の当地を知っていると余計感じることがあるんじゃないかな。そのローカル色の豊かさが映画の豊かさになっている。日本映画にありながら、赤の効果的な使い方、衣装、車が素敵に見える。ゴダールがどうしたなんてほざいてる場合じゃ無いぞ。久しぶりに映画の豊かさを感じた。テレビドラマで満足しちゃイカンぞ。こりゃ、通うしかないなという結論でした。
(角田)


●神の子たち
   01 四ノ宮浩 (某所ホール 16mm映写)

 ドキュメンタリー映画は常に何かを突きつけられる瞬間を持っているのだけれど、その様子も最近は声高に政治・社 会不正を叫ぶものから生活している人々を写していく 静かなスタイルのものが多くなっているようだ。ひとつには政 治形態が右左では無くなった事、もうひとつにはビデオやテレビニュースショーの広がりがあるのではないだろうか。簡 単に見られるテレビの特集、終わった途端に司会者が「では CMです」としか言わないものが表面的に単純にしかなぞ らないことに対する無言の答え。ただこれらは日本のドキュメンタリーのみに言えることのようだ。ナレーションも無く、加 藤登紀子のギター伴奏の歌が挿入歌として延々と流れるのには辟易するが、(そこら辺を 作品として成立させたいの か、見せる運動にしたいのかハッキリしない。 たぶん両方だと思うが。子供にはナレーションがないとわからないし、 その点では説明不足だ)。
  フィリピン、スモーキーマウンテンの隣町にできたごみの山。それが崩壊して生き埋めにな る人々。ごろりと並ぶ死体の山。それも目を背けなければ逆に受け入れることができる感覚の不思議さ。そう思うとハリ ウッド製のエンターテインメントの無意味な暴力に不感症になっている自分に気づく。いくつかの家族を並行して取材す るのだが、なぜか食べるものに困ってもテレビは売らない。電気はどこから来ているのだろうか。貧しい=悲惨の図式 にも、貧しさ=だけどどっこい生きているの図式にも乗らない、淡々した日常、生命の誕生と死。水頭症の赤ん坊が最 初は表情も無くハエにたかられながら寝ているのを見るのも苦痛だったが、それが数ヶ月経って笑顔を見せるとこちら までホッとする。その事実の力はただただ強い。
(角田)


●ガメラ3 邪神(イリス)覚醒
 99 金子修介(ニュー東宝シネマ)

 「ガメラは人類の敵かもしれない」という疑惑は怪獣ものには当然つきまとうものである。そもそもギャオスやレギオンを何十匹殺しても心痛めないような亀がなぜ、子供ひとりの命を守ろうとするのか、同類のギャオスやレギオンと結託してなんで「人類」を破滅させないのか…「生物兵器」だとか何だとか、前作、前々作とそれなりに「科学的」「民俗学的」説明をしていたような気もするが、根本的には納得できない。
  「善意」としての「ウルトラマン」というのがあるが、「ガメラ」も物凄い「善意」の亀である。腹に穴あけたり、腕を切り落としてまで、住処どころかエサすら与えてくれない人類のために、イリスやギャオスと戦う必然性など、どこにもない。この「不幸な」亀に比べれば前田愛の一人や二人死んだって、どーってことない。 やっぱり 金子修介ってロリコン趣味なのか?!
  実は「ガメラ」のエサは「人類」でその「ガメラ」の縄張りをイリスやギャオスが荒らしに来たので仕方なく戦っているというなら話は別だが、それにしても命を賭けてまで戦う必要はない。
  第一作(怪獣使いの美少女もの)、第2作(自衛隊戦争シミュレーションもの)ともに面白かったので、今回も期待したのだが、イリスが「エヴァンゲリオン」状態で空中を飛ぶシーンや「憎むべき」新京都駅の破壊シーンは楽しめたが、ストーリーはもうひとつでした。前田愛をイリスと完全に融合させて「切り離せない」状態にしてくれたなら、もう少し違った展開になっていたかも…
(船越)
 

●ガメラ3 邪神(イリス)覚醒
  (新宿オデオン座)

 平成ガメラは、どれかお好きですか。私は1ですけどね。あれが一番単純で分かりやすいアクションだった気がする。G3は、その前2作を観てないと楽しめない構造になっている。まあ、なんとか補足は部分部分でされているけど、ちょっと悪ふざけしすぎじゃないかなとも思うが。
  えー、シナリオ。伊藤 和典は押井 守作品なども書いている、アニメーションのシナリオライターだ。私はどうもこれが引っかかっている。構成の核となる部分を取り違えている様な気がする からだ。 そのためにいつも腰くだけのシナリオになっている。日本にも邪神がいて少女の意識とつながり顕在化する。 だから何なのか?勾玉とかゲームMANAとかキーワードがいっぱい出てくるが結局は消化されてない。山吹千里はなんだ?いつの間にか消えてしまった。ゲーム作家はなぜ死ななきゃならないのか?アニメーションによくある、詰めの甘い展開が今回も起きてしまった。
  最大のネックは、前田愛を死なすことが出来ないことだろう。政治的に使わないきゃならないキャスティングとは思えないので始めから想定された役柄だと思うが、「わたしはガメラを許さない。」と言ってもドラマが成立しないじゃん。イリスと融合するなら自分もそれなりの代償を払わないと(死ぬということ)納得しがたい。そこに誰も気がつかないのか。昔のゴジラと同じで、ガメラを災害、厄災としてとらえるのなら、犠牲を払わないと収まらないはずだ(その辺の甘さは『もののけ姫』も同じだ)。誰も犠牲を払わないでガメラと街が破壊されていく………なんてことやっていると平成ゴジラのような人間不在の新しいビル壊すだけになっちゃうぞ。(あ、既に京都でやっちゃったか)。カタルシスで考えると、京都じゃなく、渋谷をクライマックスに持ってきた方が盛り上がったと思うのですが、どうでしょうオタベさん。
  特撮は、頑張っていて観ていてもっとやれというか、やりすぎというか某ロボットアニメーションの影響があるなあとも思う。イリスの飛ぶシーンとか、イリスを森で攻撃する自衛隊のあたりとかね。
  コンテの切り方がアニメと同じなので空でのチェイスの部分が分かりにくい。目線、客観の切り替えが上手くいってないので混乱する。でも職人芸としてはたいしたもんです。
  客席にはヲタクな人が多く、年齢層が高く、埋まってましたが、ガキんちょに観せたいね。
(角田)
 

●唐獅子株式会社
 84 曽根中生(ビデオ)

 『新唐獅子株式会社』の予習と、『天才伝説 横山やすし』の復習ということで観てみましたが、鈴木清順一派の日活路線(ナイトクラブの世界)と東映ヤクザ路線(キャバレー、ドブ板の世界)のセットや雰囲気の作り方の違いが出ていたり、横山やすしをどう売り出すかに四苦八苦してシナリオを書いたか(桂千穂、内藤誠)など舞台裏が今だからか、新鮮に見えるプログラム・ピクチャー。
 日活にしても東映にしても主人公(アウトロー)を描くのに、格好良く描こうとするが、曽根演出は、東映ヤクザ路線のパロディーは、真剣に東映くさくやらないと、おかしくないという基本の最大のポイントを外してしまった。逆に日活アクションの世界を引きずって半端なモダンさをおかしさの軸においてしまったところに問題がある。そのために、細部が疎かになり、組の事務所や、大親分の応接室、キャバレー、テレビ局などのセットが無機質な世界で、ヤクザの役をやっている役者たちが芝居をしているといった、結構寒い仕上がりになっている。
 最後までこれがシャレであることがわかっていたのは、大親分の丹波哲郎と、兄貴分の伊東四朗だけじゃなかったろうか。(この二人ともテレビのテンポを知っていたから互いに相手を食わず、食われずに自分の役柄を演じ切れたのだと思う)逆に、横山やすしは、映画にのめり込んでしまい、普段の自分のテンポを見失っている。監督も大切に扱っているのが良く分かる。センチなシーンは、格好良い台詞や舞台をちゃんと用意してある。が、しかし、やすしは主役じゃなく、群像劇のなかで狂言回しをしなければ成立しない役柄だとおもうのだが、ピンで立とうとしてかえって浮いてしまっている(小林信彦の原作では上手く主人公を一人称のハードボイルドの手法を使い目立たなくさせ、群像=シチュエーション・コメディーに成功している)。コメディーの筈が監督のねちっこい演出のお陰でテンポが出てこないし、シナリオでその部分も解消されなく消化不良となってしまった。
 3年ぶりに、刑務所から出てきたら間違えられて対立している組の若いモンに拉致されるのを、逃れるまではなかなか、ええテンポなのだが、組がいつのまにか株式会社になって雑誌を出しているところが最初の面白いところのはずだが、ノーリアクションで、やすしの偽物の島田紳助(!)をぼこぼこにするギャグでごまかされている。大親分の応接室で、大親分の息子のフランス料理を食わされるところも、シナリオで読むと面白いのかもしれないけど、長回しで延々と撮っていてアクションがない。
 中盤の大親分のオンナの甲斐ちえみを「唐獅子芸能社」で歌手デビューさせようとしたシチュエーションが現れてからようやく物語が動き出す。しかし、これ以後もあまりギャグというギャグが無く、やすしがストイックな古典風のヤクザを演じているだけで映画に飛躍がない。真面目すぎるのだ。ただやすしを売り出そうとして盛り上げようとしているところには共感が持てるが、ヤクザ映画のパロディーとしてきっちりやるか、(その点では『静かなるドン』シリーズも同じような間違いをしているし、Vシネマ『ヤクザ物』の多くがその呪縛から抜けられないでいる。それを逃れるには、テレビ・バラエティーのスケッチ方式のようにギャグが物語を作るか、役者がもっと動くかじゃないと面白くはならないんじゃないだろうか。
 前田陽一監督はその辺りをどうクリアしたのだろうか。
(角田)


●カリスマ
 00 黒沢清(テアトル新宿)

 黒沢清の映画は、いつも「映画」を観るだけではなく、「映画」の体験を観客に余儀なくさせることだ。
  適当な言葉がないが純粋映画という言い方は好きではないが、ジョン・フォードの『捜索者』が西部劇映画を遥かに越えた美しい映画を体現したように、口実としてのストーリーやテーマを簡単に脇においてしまう映画を作るときに一番スリリングな映画となる。
  久しぶりに訳の分からないと呼ばれるだろうし、エコロジー映画と勘違いされる要素を多く含んだ意地悪い解釈も出来る本作は、『ドレミファ娘の血は騒ぐ』以来と言って良いほどスリリングで挑戦的なスタイルだ。
  言っておくが、これは1970年代のアメリカB級アクション映画なのだ。そのスタイルを緩用しながら独自の映画世界を築き上げていく試みだ。だから、主人公はピストルが必要なために刑事であるし、放浪するダーティーヒーローの為に失職するし、得体の知れない森は、まるでペキンパーかイーストウッドかドン・シーゲルの西部劇の舞台になるような僻地だし、謎の農業研究所職員は傭兵集団だし、彼らの樹を巡る争いは『ジョーズ』の漁師、警官、研究者のタイプキャストの色分けを使っている。(パロディーシーンもある!)
  彼らの行動原理をアクション映画の登場人物と考えれば、ひとつひとつの行動、身のこなし、カメラの位置、光の美しさが理解できる。何度も言うがストーリーは口実である。観る側とのギリギリの対話を映画を通じて行おうとしている、その様子がアクション映画のように美しく、格好良いのだ。
  冬の自然光が良いとは思えないが、独特のアクセントを作品に与えていることは確かだ。またカメラもパンするときに安易に広角レンズを使ってないので、背景がブレて流れショックのある画が出来ていて突き放した感じが良く出ていたと思う。音響効果の設計もドルビーで無いのにそれ以上に、緊迫感がある音の使い方になっている。
  是非、「映画」を体験して欲しい。
(角田)


●がんばって、いきまっしょい
 98 磯村一路(新宿東映プラザ)

 湖水を滑るように進むボート。高校時代という時間。自分が自分でしかない悔しいもどかしい時。その一瞬一瞬がスローモーションのように思い出される映画。(ここら辺キネマ旬報っぽいな)
  ナッちゃんこと田中麗奈が進学校にやっと入って始めたのはなぜか女子ボート部。何の説明もないままに淡々と時間が流れ、あるのは年に一回の県大会。ここら辺の仕掛けが製作の周防正行らしいが、しかしこれも盛り上がりもなく弱い新参チームは負ける。日常生活を挟んで(瀬戸内海の伊予の海が綺麗だ)途中から入った東京から出戻りのやる気のないコーチ(中嶋朋子が良い!)やボート部の女子部員の友達連中との間の抜けた、狙いではない、独特の間の会話が可笑しい。合宿の深夜の花火なんか、恥ずかしいけどイイヨねって感じのシーンも見所かな。
  アップがほとんどなく、監督も無理に凝ったカットを撮ろうとせず、ミディアムのショットで女の子たちと四国、伊予の浜辺の空気と共に捉えられる。ただひたすら好感の持てるホッとする映画で、こんなさりげない映画は近頃珍しいなあと思う。勿論最後に向かって盛り上がって行くんだけどそれさえも淡々としています。
  今風にギャグを入れたシーンも撮ったと思うけど(『あさってDANCE』の監督だものね)、リズムを大切にしてカットしたと思うよ。女性がどう見るのかが感想を聞きたいもんだ。観客層も口コミで広がっていく感じで老若男女が観に来ていました。ロングランで11/27までやってます。久々のうれしい邦画の小品。
(角田)