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BAR(バール)に灯ともる頃
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エットーレ・スコラ
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バウンド
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ウォシャウスキー兄弟
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白痴
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手塚眞
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パダヤッパ・いつでも俺はマジだぜ!
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K.S.ラヴィクマール
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八月のクリスマス |
ホ・ジノ
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発狂する唇
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佐々木 浩久
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バッドテイスト
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ピーター・ジャクソン
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バッファロー'66
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ヴィンセント・ギャロ
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バトルロワイアル
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深作欣二
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はなればなれに
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ジャン・リュック・ゴダール
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パニック・ルーム
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デヴィッド・フィンチャー
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パフォーマンス青春の罠
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ニコラス・ローグ
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パラサイト
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ロバート・ロドリゲス
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バレットバレー
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塚本晋也
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パーフェクト・ストーム
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ウォルフガング・ペーターゼン
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パーフェクト・ブルー
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今敏
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ハンニバル
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リドリー・スコット
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●BAR(バール)に灯ともる頃
“CHE ORA E” 89 エットーレ・スコラ(シネマスクェアとうきゅう)
香港映画とイタリア映画は案外「家族もの」が多いが、この映画は「親子モノ」だ。
スコラ監督の「ラ・ファミリア」「パッション・ダモーレ」「あんなに愛しあったのに」のタイトルだけは聞いたことあったが、作品は初めて観た。マルチェロ・マストロヤンニとマッシモ・トロイージ(イル・ポスティーノ)という大物(いずれも既に故人だが)競演作だというのに、製作(1989年)から10年を経てやっと日本公開にこぎつけたのは、田舎町が舞台のオンナっ気の少ない地味な親子モノだからだろう。
物語はローマで弁護士をやっている成金で饒舌なマストロヤンニ演じる父がローマから100キロほど離れた港町、チヴィタヴェッキアで兵役中のトロイージ演じる、どちらかといえば寡黙だが、女にはモテモテの息子を訪れるところから始まる。「何時ですか?」という会話しか、まともに交わせない二人は、親子の絆を取り戻すことができるのだろうか?という
「父と息子の関係」主題の映画として観るより、イタリアの田舎風俗映画として観たほうが面白いと思う。たぶん、ローマとか一部の大都会を除いたら、イタリアの地方都市は、どこか薄汚れていて、地味で単調で寒々しい街が多いのだろう。ハーブ入りの「グラッパ」は身体の芯から暖まりそうだ。
(船越)
●バウンド
95 BOUND ウォシャウスキー兄弟
(ビデオ)
『マトリックス』のウォシャウスキー兄弟の作品。設定的にはわかりやすいフィルム・ノワールの骨格なのだが、ひねくれ者の彼らは、主人公をタフな女性にして、しかもレズで、マフィアの情婦とマフィアの三角関係にカネが絡む
と言った、一風変わった人間ドラマを作り上げた。凝りすぎるのが彼らの悪い癖で、完璧なまでにシナリオは素晴らしいのだが、設定が複雑なために、それを説明している分だけ、かったるく感じてしまう。『マトリックス』が長いのも同じように複雑なシナリオのためだと思う。でも、敢えて新しい物語に挑むのだから、そこはなんとかうまくなって頑張ってもらいたいと思う。それと較べるとやっぱ『スクリーム』シリーズの脚本家、ケビン・ウイリアムソンのホラー作品なんかスカスカに感じるものね。
(角田)
●白痴
99 手塚眞(新宿ピカデリー3)
えー、体調のせいかどうか分からないけど、やたら眠くてほとんど八割は眠りこけていたので、批評不可能です。ちょっと思ったことはあるけど、ビデオでもう一度観るまで保留した方が良さそうです。
でも、映画監督とかにこだわってない映像づくりというか、何にこだわって作っているんだか分からないところは、自主映画時代から変わってない
ような気がする。 さすがヴィジュアリストというところなんでしょうが………。
(角田)
●パダヤッパ・いつでも俺はマジだぜ!
K.S.ラヴィクマール(銀座シネパトス)
スーパースター・ラジニカーントの文字が再びスクリーンいっぱいに広がる。『ムトゥ踊るマハラジャ』の時とまったく同じだ。
インドのある集落、パダヤッパ神の前で、結婚を誓うカップル、しかし花嫁は誓いの言葉を言えない。がっかりする花婿を前に、長老は言う「この村では、本人の意見にそむいて結婚を進めてはならない」と。過去に自分を偽って命を絶ったものがいたからだ。これで映画が結婚をめぐる騒動として展開することがわかる。
そこにボンベイで一旗揚げた長老の息子、ラジニカーントが登場する。仲間を引き連れ散歩すると、ある美人を見つけここでいきなり求愛のダンスを熱演。
こってりとした踊りの後、真っ赤な日本車のスポーツカーから降り立つのは、インドで大流行 (ウソ) の、ボディコンスタイルのケバイ高ビーな女
である。彼女は大学出のインテリで、アメリカへ留学していたという。なんかこの辺は、なまった英語とタミル語が混じってわかりづらいが、聞いてて推測するとナウい言葉は英語で表現されているようだ。そして、いきなりわたしにふさわしいのはあなたなのよと、高飛車に宣言する。しかしラジニカーントの心は揺らがない。でも、気に入った彼女は、政治に野望を持つ父を持つ高ビー女の家の召使だった。
そのあと、政略結婚あり、長老の急死あり、ラジニカーントが一家を支え事業家になり成功したり、次々に事件が起こる。そして、ある事件をきっかけに高ビー女は、ラジニカーントに復讐を誓う。
そして、なんと18年が一気に過ぎる。時代は子供の時代へと変わる。トラブルに巻き込まれ彼の娘が危ない。すると、メイクでひげを生やしただけの老け役のラジニカーントは、アクション全開で闘うのだ。そして、ひまな人間をすべて動員したラストの大群衆エキストラを含むシーンあり、
『特攻野郎Aチーム』かと思うカーアクションあり、『マトリックス』を越えたCG、ガンアクションとまったく飽きることなく、最後には、『ムトゥ』と同じテーマ曲が流れ、おお盛り上がりをする
。しかし最後までラジニカーントのままスーパースターは決めてくれる。3時間を越えるてんこもりの娯楽の王道に感謝。
(角田)
● 八月のクリスマス
98ホ・ジノ(シネマ・スクエアとうきゅう)
地味な韓国映画です。不治の病に侵されたカメラ店を営む青年と駐車違反取締官(?)の若い女性の切ないラブ・ストーリーです。贅肉が極力殺ぎ落とされた映画なので、主人公の病名は最後まで謎ですし、ラブ・ストーリーといっても主人公ふたりはついにキスすることも、もちろんセックスすることもありません。アジア的日常描写(縁側・スイカ・・・)の積み重ねの延長に「死」もゆっくり訪れます。押し付けではない控えめな描き方が、とってもうまいです。
声高に「新世紀のイブは・・・リンゴを食べません」と「愛の永遠」をテーマに掲げる野島某のTVドラマよりは素直に入り込めます。
アジアの「ラテン」韓国でこんな「切な系」の映画が作られるとは、少し驚きです。
(船越)
●発狂する唇
00佐々木 浩久(ビデオ)
折角築きあげたジャンルを破壊してしまうのは、仕方のないことだけど、商売としては如何なものだろうか。こういう商品以前のものを見せるのは納得出来ない。
『ゾンビ』がヒットしたから『サンゲリア』を作って見せるようなもんだ。自主映画のように「面白いでしょ」って見せるやり方は大林映画にでも任せとけばいい話で、いまさらやることじゃない。30年くらい前の怪奇コミックにあったパターンで、不幸さとグロテスクの羅列であって時代錯誤の大芝居だ。
三輪ひとみの使い方も全然ダメだ。被虐的ヒロインは徹底的に不条理に受け身でないと、観客のサディスティックな願望を満足させられないし、後半は、戦う女になってしまうと、スプラッター以後のアメリカンなヒロイン像だ。
(角田)
●バッドテイスト
BAD TASTE 87ピーター・ジャクソン (ヴィデオ
)
自主映画(最近はインディーズというらしいが)でエンターテインメントを求めてはいけないと誰が決めたのだろうか。南 半球の映画産業すらない国、ニュージーランドに新産業を作り出してしまったピーター・ジャクソンの第一作が、
SFバイ オレンス・スプラッター・コメディの本作だ。
ここでも確信犯的に映画をうまく作る術を駆使している監督は『ロード・オブ・ザ・リング』なんか軽いものだろう。この作 品ですでに数年がかりの映画をとっくに作っているんだからね。
(角田)
●バッファロー'66
Baffalo '66 98 ヴィンセント・ギャロ(シネクイント)
こんなオシャレじゃない映画をオシャレで売って良いんだろうか。あざといというかホント分かってやっているのかねえ?なんか確信犯的な褒めかたが気に入らないなあ。みすぼらしい才気ある破滅型バカが撮ったショボい恋愛ドラマの自主映画じゃないのか。映画ジャーナリズムが仕立てたマスコミ・ヒステリーを感じる。観ないと話題に乗り遅れるってノリだけじゃん。
リバーサル・フィルムで撮ったような画質。90年代の終わりを永遠の終わらないノスタルジーとして定着させること。時間をどこかで止める事をしたかったために、わざと古ぼけた70年代の映像を再現したのでは無いだろうか。主人公のビリーにとって時間はいつも混乱している。未来に飛んだり、過去に飛んだり、最後までそれはまるで悪夢を続けてみているようにも思える。
その中であがく自分を突き放さないのが、サブタイトルのA LOVE STORYと、誘拐されたレイラの存在ではないか。レイラだけが現在と未来を生きてビリーの救いとなる。それが目覚めかもしれないが。
そこにたどり着くまでのディテールがたいしたことじゃなくても、その全力疾走ぶりがこの映画の魅力となっている。どんなに下らないことでも突っ走ることで映画となり得ている。そのしょぼくれた男の意地に感情移入してしまうことで好き嫌いは分かれるだろうなあ。
映画を撮ったことが無くても、映画を知っているギャロの思い込みの力ワザに一本あり!。
(角田)
●バトルロワイアル
00 深作欣二(新宿東映)
深作は、「15才のとき戦争で友達が爆撃でどんどん死んでいくのを見た。だから私にはこの映画を撮ることが出来る」と語る。政治屋は「未成年は判断力がないから暴力的な映画は大人が規制する権利がある」と言う。17才は「僕らも人を殺したことがあるから観る権利がある」と言うだろう。俺らはなんだ?いまさらガキの気持ちがわかるなんてナイーブな子どもぶってどうしようもないだろう。あ、そんなことばかりいうとオヤジ狩りされちゃう。そう、
俺たちはターゲットなんだよ、もう。だから、ガキには観せるな!!俺たちが狩られないためにも。それでも擁護するかい、立派なみなさんは民主主義なんかのためにさ
。
議論のズレは、キネ旬が『仁義なき戦い』をベストワンにさせないために、斉藤耕一の『津軽じょんがら節』を選んだのとやっていることはよりナイーブに政治的になり(形だけだが)、より映画自体から遊離していく。
ストーリーは端折っているところが多いので、原作を読んでから観ると分かりやすいです。映画は別物に仕上がっているから問題ないです。まあ、一連の深作映画を観ている人は驚きません。深作ならこれくらいやるだろうという期待には応えています。
深作映画を観たことのない、良い子や政治屋のおじさんたちに教えてあげるとね、基本的にこの映画は集団抗争モノになるんだ。仁義なき戦いシリーズを踏襲するパターンなんだ。だから、主人公は人を殺さないけど、実は狂言回しで、美味しいところは、柴崎コウ、安藤政信、山本太郎にもって行かれちゃうんだよね。藤原君が絶叫しても浮いちゃうわけ。
だけど、一番興味深かったところは、中坊の殺し合いじゃなくて、キタノの描き方なんだ。ここに深作監督の罠がある。キタノは悪役だが、単純な悪役として描いていない。簡単に悪い大人代表として描けばR-15層からは喝采を浴びるだろがそうはしていないところが、監督の実に意地の悪いところだと思う。
それは、原作にはない、前田亜季の夢とその後のキタノが傘を持って登場するシーン。執拗に亜季の作ったクッキーを大事に食べるシーンが何度も出てくる。これは、何を意味するのか。誰かの願望なのか。まあ順当なところとしては、憎い敵役のキタノの幻想と見るのが普通だろう。しかし、ちょっと納得がいかない動きだ。もし、これが現実の回想としたらどうだ。
前田亜季がキタノの愛人で、援助交際をしていたとしたらどうだ。映画の中の唯一無垢な存在で、みんなが守ろうとしていた亜季がキタノの女なら、亜季が生き残った殺し合いの意味やキタノの死が別の様相を呈しては来ないだろうか。逆の意味で、キタノに代表される大人の裏の顔には、少女への無垢性への願望(都合のいい形でのね)が根深くあることが問題だと示してるんじゃないだろうか。(『いつかぎらぎらする日』で荻野目慶子が銀座で赤い風船を飛ばしたシーンを思い出せ)キタノの娘の声が前田愛!というのも暗示的ではないだろうか。敢えてどこにも描かれていない大人と子どもの性を介したズレを提示しているんじゃないだろうか。キタノは亜季に裏切られ死んでいったとも解釈できないだろうか。
上手くないティーンの役者も、発声練習をしてしごいたお陰か、ぎゃーぎゃーわめく演技にならないように演出されているのはさすがだ。ラストは原作の方が良かったな。最後にもう一度、俺たちは狩られる側だよ。
(角田)
●はなればなれに
ジャン=リュック・ゴダール(銀座テアトルシネマ)
20年前にこの映画が公開されていたら、日本の若者はみんなインフルエンザに罹ったように、『はなればなれに』と呟いていたはずだ。というほどここには映画の塑型がある。恋愛、ギャング、クルマ、拳銃、女、陰謀。
あなたが高校生や大学生だったら迷わずにいま見るべき映画だ。この年になって観ても遅すぎる。
ふつう、こんな映画をつくってしまったら映画監督は死んでしまうんだけど、ゴダールはいまも生きて映画を撮っている。
(角田)
●パニック・ルーム
PanicRoom 02デヴィッド・フィンチャー (ワーナーマイカル熊谷)
映画という形式にもっとも必要な要素は何だろうか。一人の監督でこんなにムラのある出来の人も珍しいと思う。大体かれの映画にはひとりとして感情移入できるようなイイ奴は出てこない。だれもが嫌な奴だ。しかもそれが人物像を脹
らましているかと言うとそんなことはまるでない。ひたすら平板である。だからいつどこで心変わりをするかわからない。 でもまるでドキドキしない。
映像についていえば、完璧に近いといえる出来だ。そこにはすべてがリアルでありながら、美しく不気味に映ってい る。文句はない。たぶんラッシュのときもそうだろう。
それが、モンタージュによって編集されてシーンとなると、映画としての輝きがまるでなくなり、失速する。ただ映像が羅 列されるだけだ。こうなっては救いようがない。音楽で盛り上げようが、SFXを駆使しようがますますテレビドラマのように
なっていく。あまりに紋切り、あまりに脱力、あまりにご都合的。
かれの映画は、その卓越した映像構成力を持つお陰で、映画構成力を犠牲にしているといえる。いわば素晴らし い映像カットを作るために、いわゆるサスペンスを生み出すためのつなぎのカット、シーンを切り捨てている。見せない
ことで盛り上がるのにすべてを見せ過ぎてしまうのだ。モンタージュによって積み重ねられることによって生み出される 緊張感を切り捨てるために観客は映画を冷静に見てしまう。しかも美学的に構成された画面の隅々まで見えてしまうの
で二重に白ける。逆説的に言えば、もはやそれは 観光風景写真の退屈さと変わらないのだ。 説明カットを入れない というか、説明カットの意味すらたぶんわからないのではないかと思えるフィンチャー映画の特徴は、古典的なモンター
ジュが必要とされないときに効力を発する。『セヴン』、『ファイト・クラブ』がそうだ。両者には古典的なモンタージュの緊 迫感がない。まあそれは他の作品も同じだけど。
しかし、2作品には映画全体が要求している雰囲気としてのモンタージュが存在する。『セヴン』ならば、カイル・クー パーのタイトルが弾みをつけたリズムだ。ひとつひとつの画面に痕跡がある、あの汚れと雨の雰囲気だ。そのつながり
によって映画はフィクションを保っている。『ファイト・クラブ』の場合は、ハイパー・リアリズムに近い照明によって生み出 される消費社会の薄っぺらい品々の数々。それらがカット毎に自己主張することで、映画の雰囲気が確立する。モンタ
ージュも良く観るとものすごく強引につないでいることがわかるだろう。それがこの作品の場合は魅力となっている。
また、映画は一秒間に24枚の写真からなっているのだけど、その意味で一枚一枚充実させることは、いままでみんな 考えるけどもうまく行くはずがないことは、経験的に理解していたし、画面がきれいだからと言って映画が良くなるのとは
意味が違うとしていた。フィンチャーはここに 現代アートという即物的な評価のラインを導入することで、映画を一枚 ずつの写真で構成し、ストーリー優先の映画から離脱しようとした。それが一部スパークしたのが『セブン』だ。
まとめると、デヴィッド・フィンチャーの映画では、基本となる雰囲気を映像とストーリーで作れるかが勝負なのだ。 それを堪能することがかれの映画の楽しみ方であって、いたずらにストーリーを追いかけ始めると、そこには演出が存
在しないので感情移入という古典的な映画としての最低ラインを外してしまう。
だから彼の映画はストーリーを追いかけるものではなく、映像の力で見せるという異形の映画と認識した方が良いだ ろう。どこかコマーシャル・フォトやCMに近い感覚なのかな。プロモーション・ヴィデオの普及でそういう映像・映画も私た
ちのなかに許容できるレンジができたのだと思う。映像の力だけでも映画を楽しめる時代ということなのでしょうな。
(角田)
●パフォーマンス/青春の罠
70ニコラス・ローグ(ヴィデオ)
カルトすぎてぶっ飛ぶニコラス・ローグ節全開。この美術や耽美映像は一見の価値あり。あと美青年のミック・ジャガーもね。
銀行強盗が逃げ込んだ場所が引退した伝説なロックスターの退廃の館だった。というストーリーは古典的なゴシックホラーのカタチ。主人公がどんどん壊れて行く様は完璧なプリントで観たい。
(角田)
●パラサイト
THE FACULTY 98 ロバート・ロドリゲス(東劇)
ハリウッドに進出して、すぐに特徴がなくなっちゃたロドリゲスだけど、この一作はB級魂が生きていてSF学園ホラーというジャンルをこなしている。
ストーリーは宇宙人の侵略者。『ボディ・スナッチャー』と同じ設定だけど、舞台が高校。そこで教師も生徒も乗っ取られていくのをカメラ小僧、学校新聞の編集長(ヒロイン)、フットボールの花形、SFヲタクの黒ずくめのパンク少女、謎の転校生、手作りヤクを売りさばくが(これが小道具として生きる!)アタマの良い不良。彼らが侵略する宇宙人をやっつけるのだが、彼らの中にも乗っ取られた奴がいるかも知れないサスペンスが上手い。
娯楽の王道を行くハッタリの無い正当演出で作っているところにも好感が持てる。心地よいカッティングも良い。破綻しがちなストーリーを軟着陸させた演出を堪能すべし。
(角田)
●バレットバレー
00 塚本晋也(渋谷シネアミューズ)
塚本作品に隠された過度の暴力。過激であればあるほど、それは様式に行き着き、暴力の持つ肉体性、隠喩から離れていく。『TOKYOフィスト』は、そのギリギリまで行った作品だと思う。その先に行くのであれば、暴力から意味をはぎ取るしか無くなると思う。しかしそれは、もう現実が追いついてしまった。しかもつまらない形で。
バイオレンスは誤解されている。メディアによって肉体がはぎ取られていく。塚本の中で消化されていない苛立ちや暴力の昇華はそんな方向では、なかったはずだ。暴力を描く作者としてレッテルを貼られることは本意ではないだろう。
今までの失われた肉体を取り戻す過程で暴力という手段を使うモチーフは一貫しているのだが、そこに真野きりなの持つ「死」という現実的かつ観念的なモチーフを対立させることで、肉体の復権に息を吹き込むことが出来た
。 冒頭の恋人の死は真野と二重写しになる。主人公は肉体の復権を拳銃を通じて見いだす。
暴力と死を通じて、互いはふたたび少女とオッサンに戻る。それこそが「生の復権」まで肯定的に捉えた瞬間ではないだろうか。そのエネルギーに溢れたラストは感動的だ。
(角田)
●パーフェクト・ストーム
Perfect Storm 00 ウォルフガング・ペーターゼン
(有楽町シネリーブル)
制作費が回収できないので、DVDの発売日を早めたという歴史に残る一作。目が疲れました。というのは、シネスコ画面にCGの嵐が目一杯広がって、つくりものだから、全部ピントが合ってどう考えても遠近感おかしい画面になるわけ。良くできていても目の反応は素直だから、容量オーバーして頭が付いていかない。
すごいとかなんとか映画として感じる前に、 目がすごいすごいと画を判断しちゃうわけ。だからその情報を処理するだけでいっぱいになって、最後には「もうどうでもいいや」になっちゃう
んだよね。 『スター・ウォーズ エピソード1』も同じく感じた。
『ジュラシック・パーク』では、スピルバーグがそこら辺を計算して、モンタージュで息抜きさせてくれていた。そういう意味じゃ、編集粗いなと思う。全体に長いし、全部使っただけで公開に間に合わせただけだろう。陸のシーンも意味無く長いし、もう一人の女
船長との関係も良く分からない。出航のシーンが盛り上がらないのも、人物がよく描けてないからだろう。あと、ヨットのシーンはいらんだろう。ヘリのシーンの伏線とはいえ意味が無さ過ぎる。ペーターゼンはもともと冗漫な人だけど、『Uボート』撮ったんだから、も少し海の男描けよな。船の乗組員、みんなアタマ悪過ぎ。特にジョージ・クルーニーは単なるバカ船長にしか見えん。しかし、DVD発売しちゃったからディレクターズ・カット版は出ないかもね。
(角田)
●パーフェクト・ブルー
97 今敏(ビデオ)
公開前は、色々話題に(一部で)なったけど、いつの間にか公開されてたなあ、と言った感じだった。一つのアニメの可能性としては、まあ良いんじゃないのと言う程度かなあ。作画のレベルは高いしね。でもこれを実写でやらない意味が分からない。アニメにしても実写にしてもたぶんに中途半端なものになるだろうがね。アイドルを脱皮して女優となる女の子につきまとうもう一人の自分というストーカーものなんだけど、結構、シナリオがいい加減だから、アニメの勢いじゃないとふざけるんじゃないと言うことになりかねない。幻想シーンの処理に狂気が無く、ありきたりなんだよね。これくらいでいいかという部分が見える。もう少し理詰めで、書いても良かったんじゃない。ウエス・クレヴィンくらいにはさ。想像力が欠けてます。
まあ、アイドルか女優かの選択で悩む設定自体が別に共感得るモンじゃないよね。そこにストーカーの味付けするなら、多少は人間界のドロドロも加えても良かったんじゃないかな。アニメの人はその辺興味ないから薄い設定になっちゃう
んだよな。
(角田)
●ハンニバル
HANNIBAL 01 リドリー・スコット
(ヴァージンシネマズ・市川コルトンプラザ)
いくらなんでもここまで心のこもってない映画が撮れるというのもそれはそれで才能ではないだろうかと思える。こんなに現場が低予算なのにそれらしく出来るのは大したものと思う。だから見終った後に、虚しさが残るはずだ。
まず撮影がぜんぶフィルターをかけているために、画面が非常にフラットだ。まあ、天気のつながりをごまかすためだと思われるけど画面作りが粗い。
同様に、セット、ロケセットを含めて数が少ない。ロングは、B班を使って効率的に撮っていると思われるが、役者のありなしでの画の作りがちょっと違いすぎるし、夜間や暗い室内の照明が単純すぎる。
脚本や演出のミスが多いけど、それを持ちなおすことができないのがリドリー・スコットだと思う。うまくいかないときは、とりあえず仕上げちまえ。そんな姿勢が一貫している。たぶんこの人は、役者に対する演出に興味ないのだと思う
(カット単位でしか) 。
そこが『羊たちの沈黙』のジョナサン・デミとの違いだろう。できる役者かロボットのように動ける役者でないと彼の映画は成立しない。スターは必要ないんだよね。
(角田)