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スティーブン・スピルバーグ
永遠と一日
テオ・アンゲロプロス
エヴァンゲリオン エンド・オブ・エヴァンゲリオン
庵野秀明
エヴァンゲリオン シト新生
庵野秀明
エスケープ フロム L.A.
ジョン・カーペンター
X-ファイル ザ・ムービー
ロブ・ボーマン
エルマリアッチ
ロバート・ロドリゲス
エンド・オブ・バイオレンス
ヴィム・ヴェンダース


●A.I
    A.I 01 スティーブン・スピルバーグ (ワーナーマイカル熊谷)

 いったいみんなスピルバーグに何を期待しているんだ。これはスピルバーグ映画ではない。スピルバーグによって追悼されたキューブリック映画 なのだ。だから、いくらスピルバーグがシナリオを書き直そうが、爽快な後味のある映画に仕上がるわけがない。キューブリックの映画を観て、鼻歌まじりに映画館を出たことがあるかね。まずそこを覚悟しなきゃいけない。
 じゃあなぜスピルバーグが映画化したかって?たぶんスピルバーグが映画にしなきゃ、ワーナーブラザースのことだから、知らぬ間に映画化して、「キューブリックの幻の映画完成」とか言ってビデオで売る積もりだったんじゃないか (『2010年』とか作ったことを考えればそうとしか思えない)。だからスピルバーグがすべてを買い取るのではなく、ワーナーの製作で映画化することで決着つけたのではないか。それで丸く収まるということで。
 スピルバーグが固執したのはなぜか。経歴をみるとキューブリックとスピルバーグのキャリアは似通っている ことがわかる。青年期からカメラを使い倒して、神童の名前を得る。メジャー・スタジオとの契約のなかで異色の作品作りで名を挙げる。登場人物よりもかれらが陥ったシチュエーションに興味がある。最新技術を使うために映画を作る。最も重要なことは、ハリウッドと言うシステムは否定していない。ヒット映画を作ろうとする、そのための努力は惜しまない。 ハリウッドシステムからはまったく外れていない。
しかし、映画のテーマへのアプローチが違うので、一見わからないが、この二人の映画に対する素養は似ている。もしかしたらスピルバーグ自身も気づいていないのではないだろうか。
 『A.I』では、毎回オープニングでは驚かせて、映画の世界につれて行く手法を今回は使っていない。いきなり真面目に「人間」について延々と語り始めてしまっている。キューブリックなら病院で眠っている子供からはじめるだろう。そしてそれを見ている主人公とね。この段階で映画はすでに失速する。
 キューブリックが、1950年代の犯罪映画で鍛えられた、そぎ落とした演出がいざというとき出来るのに対して、スピルバーグは、手抜きのシーンの省略法は出来ても、それ以上の思い切った登場人物の切り捨てはできない。だから結局だれもが良い人であり、まんべんなく描いてしまうから人物がぼやける。キューブリックの場合は、逆にそれは冷たいとなってしまうんだけどね。
 しかし、ヒトが壊れていくのを描かせるとふたりの立場は一変する。キューブリックが、狂気に至る過程を丹念にねちっこく描くのに対して、スピルバーグは、嬉々としてヒトを殺して行く。そこにはなんの躊躇もなく淡々としている。理由はとくにない。
 まあどちらも人倫に悖る表現だとは思うのだが、ハリウッド映画として公開されている。その(ハリウッドの)規制のぎりぎりで表現しているところも似ている。 スピルバーグが外面のタブーに対して、キューブリックは内面からの表現だ。それは最終的には社会に対するアプローチの仕方ということだと思うけれど。
それは、ヒット作を作るのがノルマとなった、ハリウッドの神童に課せられた使命だったのではないだろうか。さらに神性を深めるために、一方は寡作の完璧主義になり、もう一方は早撮りの王となった。
 人間不信の行きつく先を「絶望」として自分の世界を造るのか、それとも人間を拒否して自分の世界を造るのを「絶望」とするのか。前者を大人のキューブリック、後者を子供のスピルバーグとするのは早計だろうか。
  結局、『A.I』は同じところを指向していても、アプローチが違うので表現はスピルバーグなのだが、キューブリックが芯に残る後味の悪い映画になったといえよう。 スピルバーグでは「機械は人間になれるのか」だが、キューブリックでは「人間は機械よりも上等か」という問いになる。その解釈と視点が一致しない。これから観る方は、キューブリック映画のように、埒もない悲劇として観ると満足できるのではないかと思います。
(角田)


●永遠と一日
   98 テオ・アンゲロプロス(シャンテシネ2)

 かつて一度でも自分に対して、強烈な映画体験をさせてくれた監督の映画は、何となくいつまでも追いかけてやろうという気になる。アンゲロプロスも最近生彩に欠ける作品を連発しているが、果たしてこの映画はどうなのだろう。カンヌで賞を取ったらしいけど、 それは政治的な配慮でしかないと思うし、今まで大した賞は貰っていないんじゃないだろうか。違ったかな?
  まあ、それはともかく、ストーリーを簡単に言うと、余命幾ばくもない詩人がアルバニア系難民の少年と出会い、一日を過ごす。そこに過去と現在が絡み合いながら進んでいくという構成だ。
  私たちにとって難しいのは、その政治状況の背景はもちろん、詩人という職業の位置であろう。詩人という職業が政治的な発言権を持たない日本では主人公として成立しないことは確かだけども、ヨーロッパでも成立するのか。文化人的な地位はあると思うけど、それは既に過去の産物となりつつあるのではないだろうか。そこに、祖国ギリシャの革命の為に詩を書いた19世紀の詩人が理想像として語られる。しかし、彼は今の政治情勢に対して何の答えも詩人に与えない。これは、象徴的であり、アンンゲロプロスの映画が低迷している理由はそこにあると思うのだがどうだろうか。
  彼の映画は、過去に対しての政治的状況の分析、寓話化は映像のワンシーンで何十年も時を飛ばす手法で見事に表現する事ができる。しかし、現実を眼前にすると、その効果は観客には急に色褪せてマンネリズム、あるいは逃げの美学にしか映らない。 混乱の極致にある世界を映画化することには勇気がいることだが、それは誰の手に余ることだと思う。現在を寓話にするために、難民の子供を出したり、詩人という職業を出したり、過去との交錯を行っているが、中途半端な印象を受けるのは、 映像の解釈を非常に曖昧にしすぎているためだと思う。それを効果として使うのではなく、観客に判断を委ねすぎる。これでは、観客を映画とは別の次元の、同情から来るスノビズムの増長にも繋がりかねない危険性をはらんでいる。 スタイルで、映画に何も語らせない、観客にとって「良い映画だね」と言わせる踏み絵のような効果をもたらせかねない。これこそが、曖昧な政治を映画に持ち込む最悪のやり方、国際舞台では受けるだろう手法だ。冷戦の季節が終わり、欧州の新たな統合のなかで模索する作家の中で(ヴェンダースがダメになったように)、大島渚に共感を覚える同世代人としてのアンゲロプロスが現代を描く手法がこのような形であるのは寂しいと思う。政治の季節以降の停滞でもあるともいえるが。アタマのなかで作りすぎながら、人に理解を強要しすぎる。
  技術的なことをいえば、屋外はほとんどノーライト。だが、現像処理が悪いのか画面に深みがない。『霧の中の風景』ではイタリアスタッフが参加していたからか、画面に艶があったのだが、どんどんひどくなっていく。あと、ドルビーを使う必要がない。ミキサーが下手なのか、無理に音を絞って変な素の沈黙の瞬間が多くできて興ざめしてしまう、目立つのだ。『旅芸人の記録』の頃に較べて機材は良いんだろうが効果が出てこない。お金が無いのだろうか。主役のブルーノ・ガンツの衣装にアルマーニと出てすごくがっかりした。
 (角田)


●エヴァンゲリオン シト新生
●エヴァンゲリオン エンド・オブ・エヴァンゲリオン

  97 庵野秀明(ビデオ)

 テレビ・シリーズを見ている人は一本目は見なくて良いです。総集編なんで。テレビ編の最終話を飛ばして、『エンド・オブ・エヴァンゲリオン』にいけば、テンションはつながります。2本目でやっとテレビの続きが始まります。……内容は別にして。別に書くことないや。
(角田)


●エスケープ フロム L.A
  ESCAPE FROM L.A. 96 ジョン・カーペンター(ビデオ)

 前作の『ニューヨーク1997』を、15年前に今は無き三鷹オスカーで観て、余りのつまらなさに途中で出た来てしまった(滅多にそんなことはしないが)嫌な思い出があるので、恐いモノ見たさにビデオをセットしたが、観ていて余りの脱力で早回しする気にもなれずに最後まで観てしまった。
 ジョン・カーペンターは、好き嫌いが別れる人だけど、『遊星からの物体X』以外はやっぱ、全滅の人なんだと思う。アイディアは悪くないのだが細部が弱いので真面目に作るほどアラが目立つという不思議な人だ。その辺にどこまで目をつぶってられるかがこの人
を観ていられるかどうかの差なんだと思う。
 まあ、前作も感じたんだけども、広いL.A.でなんで簡単に目的の人物に会えたりして話が進むのか?敵がこんなに弱いのか、無能なのか?そういうところがイライラしてくる。うーむ、どこを観たらいいんでしょう。
(角田)


●X-ファイル ザ・ムービー
  THE X FILES FIGHT THE FUTURE 98 ロブ・ボーマン(新宿アカデミー)

 『X-ファイル』の魅力は、アメリカの都市伝説と政府の陰謀と宇宙人のフォークロア(トンデモ)とテレビならではの、CMが入れば場面転換が素早くできる利点を使ってシナリオの不整合性をごまかせるというテレビにしてはスタイリッシュな展開がヒットを呼んだと思うが、さて、映画である。
  *ネタバラシしますのでご注意下さい。
  いきなり3万年前のテキサスで度肝を抜くが、フォローがなく現代へ来て事件が始まる。3万年の間エイリアンは何してたんだろうか?オクラホマでビル爆破事件が在ったからといってパクって数体の死体を吹っ飛ばさなくてももっと合理的な死体処理方法があったんじゃないのかね?態々、目立つようにしなくても良いじゃないのかと思うが。その先はテレビでもお馴染みの密告者が出て来るというパターンだが、今回は多少話を進めないとならないので、動きが派手である。が、ウイルスを培養するにも施設が派手じゃないか。場面をポンポンと変えていくのに追いつくだけでも大変なのに、やっていることがほとんど007状態というか超人としか思えない。そんなにFBIって勝手に動けるの??
  映画だからと言うことを誤解している。ただスケールが大きいのであれば良いんじゃなく。もっと、奥行きのあるストーリー、キャラクターを出して欲しかった。
 これはテレビシリーズを見ていない人出も楽しめると言うよりは、テレビシリーズってこういうものだよと知らせるのにちょうど良いテレフーチャーの特別版になった感じだ。
(角田)


●エルマリアッチ
  EL MARIACHI 93 ロバート・ロドリゲス(ビデオ)

 100万円もかけずに作ったといういわくつきの怪作。ただロドリゲスはこれ以後、自分のイメージのセルフ・パロディーのみに終始している様な気がする。『デスペラート』までは何とか自分の色を出せたと思うのだが、『フロムダスク・ティルドーン』(なんちゅう題名だ)ではタランティーノに引きずられ、『フォールームス』では中途半端に上手くなってしまった(といってもオムニバスの中では一番面白いけどね。後はオープニングアニメーションだけだ)。
 ボクはなんとも安っぽいし、一番無理してないこの作品が好きだなあ。ロドリゲスって基本的にはワンアイディアの人だと思うのだが、後先考えずに作ったらいつの間にか出来てました。と言うのが良いみたい。ハリウッドで構え過ぎちゃったんじゃないかな。タランティーノとつるんでないで、滅茶苦茶な爆発連発のアクション映画でも撮ればそこそこ化けるんじゃないのかな。
(角田)


●エンド・オブ・バイオレンス
  THE END OF VIOLENCE 97 ヴィム・ヴェンダース(ビデオ)

 済みません。早送りしてしまいましたんで、本来書かないほうがいいのかなあと思ったけど、興味があっても観てない人も多そうだから印象を記します。
  一応昔のヴェンダース・ファンとしては、『夢の果てまでも』で決別というか、生理的に耐えられなくなってしまい、『ベルリン天使の歌』なんか初日に行って、激憤して帰ったけど映画はヒットしちゃったということもあって、「もう、違う人になっちゃったんだ」と思いつつ、『リスボン物語』にはアタマを抱えてしまったりして、なんやかんや言いながら付き合って来たようだ。
  50歳を過ぎ、自分でも何がやりたいのかわかんなくなってしまったというか、急に無邪気という言葉を失ってしまいそれでも映画を作るにはどうしたらいいのかと言うときに勝手に自分の妄想に逃げ込んでいくというダメになったパターンをリピートしていてちょっとグロテスクな気分になった。
  テーマとしての映画の暴力と現実の暴力とそれを監視するカメラ、メディアがあって、そこに映画プロデューサーを中心とした人間が巻き込まれていくという、ストーリーは面白くなりそうなんだけど、いかんせん、語りがトロく、カメラも安定していないし(安易な切り返しと長回しにやる気が感じられない。画調と構図が決まってない、どうしたんだと思うくらいダメ)、誰が何を考えて何をやってるのだか良く分からない。思い込みと観念が突っ走ってるのだけど、ストーリーだけ三文小説という構造。単純すぎるぞ90年代の映画としては。どう考えても「パソコン、ハイテク苦手です」オヤジ的な視点が見え隠れしている。
  122分我慢できる人、観念的な映画を観ても眠らない人なら観てみて。ダメさを確認するのは悲しい。
(角田)




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