アイアン・ジャイアント
ブラッド・バード
アイス・ストーム
アン・リー
アイズ・ワイド・シャット
スタンリー・キューブリック
I LOVE ペッカー
ジョン・ウオーターズ
アヴァロン
押井守
あかすり屋湯助
中野貴雄
アクアリウム
須賀健太郎
アードマン・コレクション
ニック・パーク他
穴 
ジャック・ベッケル
あ、春 
相米慎二
avec mon mari/アベックモンマリ 
大谷健太郎
アベンジャーズ
ジェレマイア・チェチック
阿弥陀堂だより
小泉尭史
雨あがる
小泉尭史
アメリ
ジャン=ピエール・ジュネ
アメリカン・ビューティー
サム・メンデス
アルマゲドン
マイケル・ベイ
アンツ
エリック・ダーネル/ティム・ジョンソン
アンドロメディア 
三池崇史
アンブレイカブル
ナイトMシャマラン
             
●アイアン・ジャイアント
   IRON GIANT 99 ブラッド・バード(ビデオ)

 ヲタク層絶賛の、冷戦下のアメリカの少年とロボットのおはなし。みんなが感じるのは、たぶんにノスタルジーであって作品の評価ではないだろう。 ここに描かれているのは、日本のアニメが捨て去ったモノ。あるいは捨てざるを得なかったモノ。日本のアニメが排除した「日常性」、「時代性」がここには溢れている。まあわかりやすい人物造型だけどね。
 敢えて類似するものをあげるとしたら「どらエモン」シリーズじゃないだろうか。手塚治虫&鉄腕アトムという、出来上がっている強力な日本アニメの世界から逃れるには、「ドラえもん」の方向性しかなかったのではないだろうか。しかし、話はアトムに近くなっているなあ。まあそんなに騒ぐモノではないと思うが。
(角田)


●アイス・ストーム
   Ice Storm 97 アン・リー(ビデオ)

 ニューヨークの郊外にあたるコネチカット州の小さい街の70年代、ニクソンが大統領の頃の冬の感謝祭を挟んだ数日間の物語。一つの家族の危機を描いた作品。近頃のアメリカ映画でこれだけ喋らない映画も珍しいくらい台詞が少ない。夫婦の危機、夫は隣人の妻と浮気をしているし、妻は小物屋で万引きをする。長男は大学の寮でマリファナを吸い、中学生の長女は、隣家の兄弟を誘惑する。
 物事の価値観がすべて崩壊していく時代に何が家族を一つにできるのか。セックスをはじめとして、すべてのモラルにノーということへの戸惑い。普遍的なことなど何もないと語りかけてくる人物達。 戻れなくなるところまで自分たちを追い込んでいく時代に抵抗するでもなく、ただ流されていく様子をその揺れる心理と空っぽな家庭を突き放した視点で描く。 逆に言えば、リアルタイムでは作れない作品かも知れない。遅れてきたアメリカン・ニューシネマだ。
(角田)


●アイズ・ワイド・シャット
   EYES WIDE SHUT 99 スタンリー・キューブリック(渋谷パンテオン)

 誰が言ったか知らないが、スタンリー・キューブリックは、完全主義者の巨匠と言うことになっている。果たして本当にそうなのか?映画界じゃ大体巨匠とか言われるともうダメだという印象があるがキューブリックの場合は『2001年宇宙の旅』の頃から言われているという事はそのあたりからダメじゃんということになる。遺作となった本作以降の作品はないのだからそのあたりをもう一度検証しても良いんじゃないのかと思うのだけど、特に彼が製作者も兼ね、イギリスで映画製作を始めた『博士の異常な愛情』、『2001年宇宙の旅』、『時計仕掛けのオレンジ』、『バリー・リンドン』、『シャイニング』、『フルメタル・ジャケット』そして『アイズ・ワイド・シャット』という作品群になるが、はっきり言って今も生き残っているインパクトのある作品は、『時計仕掛けのオレンジ』くらいなものだろう。現代のポップカルチャーの先見性という事で生き残っているという意味なのだけどね。
 そこで、キューブリックを解き明かすキーワードとして、“世紀末の通俗性”と言う言葉を導入してみたい。
 たまたま今年は世紀末前年だが、キューブリックは、『バリー・リンドン』、『アイズ・ワイド・シャット』の原作に於いて19世紀、『博士の異常な愛情』、『時計仕掛けのオレンジ』、『シャイニング』、『フルメタル・ジャケット』で20世紀、『2001年宇宙の旅』で21世紀のそれぞれの悲観的な世紀末を未来、過去を問わずに好んで描こうとしている。そこには、観客が感情移入できない、ある種の人間嫌いまで昇華された底意地の悪さが収まり悪くばらまかれていると思うのだが、絶対に心地よく映画館を後に出来ない、人間不信になって劇場を後にし、未来は過去は世紀末はこんな様相をしているのかとゾッとしながらも、不思議に次回作を期待してしまう様になる。それがもう一つのキーワード「通俗性」じゃないだろうか。
  キューブリックの作品群は、全部原作がある。オリジナル脚本はない。それを忠実に映画化した作品もないのだが……。そして、なぜか必ずハリウッド・スターがキャスティングされる。完全に世界マーケットを意識している映画製作者としての行動だと思うのだが。また物語の目玉も必ずあり分かりやすい言葉を提出しやすいようになっている。いわば、一作毎にキャッチコピーがあるようなものだ。「核の脅威」、「人類の英知を越えた存在とは」、「暴力の祭典」、「19世紀の再現」、「モダンホラー」、「人格改造」、「セックスの表現」、と非常に分かりやすい。こんなに分かりやすくて良いのかと思う。また、一作毎に変えて、作家として一貫して追及しているものはないのかと、真面目な批評家から怒られそうなウケ狙いが目立つ。そこが意識的な 通俗性と言える。
  巨匠伝説は、取り上げる題材じゃ無いことは明らかだ。じゃあ、作品なのか?確かに技術的にキューブリックが先駆者であることは多い。が今の眼で見直すと、例えば『バリー・リンドン』は、撮影の粗さは驚くほどいい加減だ。伝説は伝聞に過ぎないのでは無いかというのが一つの答えで、完全主義は何を基準にしているのかは謎だ。 キューブリックにしか分からないOKの基準があるとしか思えない。それくらい一本の作品の中でもムラがある。
  『アイズ・ワイド・シャット』についていえば、19世紀の性の冒険譚の原作を20世紀に再現しようと言うよりは、トム・クルーズとニコール・キッドマン夫妻が出るポルノではないかという期待を肩すかしを食わせることに興味を覚えた企画に過ぎないと今までのキューブリック作品を観ているとそう思う。一点気になったのがCMでもお馴染みの鏡に映った二人の絡みの場面がフェード・アウトしているのが腑に落ちない。あれは重要なシーンだと思うのだが、 ハリウッドスターの絡みをワザとポルノまがいに撮れば(それがキューブリックの今作の狙いだったと思うのだが)、最後まで衝撃は残ってどんな結末になろうとみんな納得したと思うのだが、それが抜けているため、あれは不自然なシーンだ。誰かの陰謀か?
(角田)


●I LOVE ペッカー
   PEKKER 99 ジョン・ウオーターズ(恵比寿ガーデンシネマ)

 単なる悪趣味と「バット・テイスト」は違う。みのもんたが司会をするような番組のあからさまな弱いものをイジルのが、単なる悪趣味であって、かといって権力にただ逆らうだけの硬直した叫び声もエンターテインメントとしても二流だ。結局は世の中全部見せ物になっていてその中で楽しんで生きてくには、まとめて笑ってやろうという気持ちがないと、それがどんなクズであろうとも意味を見出すことでその人にとっては良いんじゃないと思いたいが、一方ではやっぱクズはクズだよなあという平衡感覚が働き“電波系人間”でないすれすれのところを歩いている。
  前置きが長くなったが、世の中がぐちゃぐちゃになればなるほど、生来「バッド・テイスト」と呼ばれていたジョン・ウオーターズの映画は、規範的にならざるを得ない。といっても道徳的というのではなくより巧妙にいわゆる良識の概念をひっくり返し混乱させることがむき出しになりすぎている現状に反抗するように、まるでルイス・ブニュエルの映画のように見える人にしか分からない爆弾を仕掛けている。それは、たぶん時代が彼の映画に追いついたところでようやく爆発するに違いない。
  あからさまなボルチモアに住むホワイト・トラッシュ(貧乏白人)一家。(リサイクルショップと言いながらゴミを拾って売っている)息子が手に入れた中古のカメラで撮ったスナップがニューヨークのアート界の話題を呼び、あっと言う間に天才としてもてはやされる。しかし、基本的に周囲の人たちの反応がそれほど変わらないのがおかしい。単純なサクセスストーリーにはなるはずはなくシナリオも見事に伏線が見事にきいてハッピーエンドを迎える。あまりにストーリーテリングが上手すぎてあからさまに「バッド・テイスト」がわかるかどうか、楽しめるかどうか、 観る人のリトマス試験紙になる映画です。
(角田)


●アヴァロン
   Avalon 01 押井守(立川シネマシティ)

 『攻殻機動隊』以降、どんどんダメになっていく押井守を見ているのはつらい。実のところ、ここで「ヴァーチャル・ボーイ、ミーツ、2次元ガール、アット、サイバー・スペース」として、押井守から、青山真治までが抱える薄っぺらな事象について、書こうと思ったのだけど、それは改めて書く、かも知れない。
 今作でも相変わらず、欠点は直っていない。シナリオに対する妥協。キャラクター造型に対する甘さ。同じくセリフなど、脚本家の責任が大きいのだけど、今回、それ以上に痛かったのは、 構築すべき「もうひとつの世界」をRPGに置き換えたところだろう。あまりにもそのシステムに寄りかかりすぎて身動きが取れなくなってしまう過ちを犯した。
 押井は、『うる星やつら ビューティフル・ドリーマー』から、見える世界のもうひとつの局面に魅せられ続けていた。その答えが、パトレイバーという世界であり、その心地よい空間で、メディアミックスのなかでコミックス、OVAとも違いながら交差する、いわば外伝の『パトレイバー』2作を完成させられた。近未来の東京という架構された世界で十分遊ぶことができた。
 それを推し進めたのが『攻殻機動隊』で、原作のセリフをそのまま使ったが、意味を全部違え、原作者の好むようにはしなかったと言っているように、換骨奪体することにしか興味のなかったため、内容がまるでなく途中で空中分解してしまう。
 そして、『Avalon』。はじまって数分、戦車がヨーロッパの旧市街地を疾走し、ぼこぼこ人が吹っ飛んで行くシーンに、驚きを覚える。ヲタクなら撮りたかった夢のような映像だ。しかし、映像はもとより、ストーリーが単純なRPGだということに気づき出すころには、ものがたりは失速し始める。そこで、観客は、ポーランドで撮影しながらも、どこの国のどの時代といってないため、観るポイントをも失う。虚構と現実を弄ぶことで成立していた、押井ワールドの崩壊である。 一方に仮託すべき現実があればあるほど、虚構が輝くのは真実である。この作業を止めた途端に、映画という虚構自身の存在が疑われるのだ。それをさせないためにも、細部にこだわるのが普通なのに、意味も無く細部のみにこだわるヲタクの弱点が露呈したといえよう。(その点で『ファイナルファンタジー』の映画もダメだと思うけどね)
 ここで、もうひとつ驚く点を上げるとすれば、実写なのに、カメラワークはアニメとまったく同じなのだ。いくらデジタルエフェクトをかけるとはいえ、極端過ぎる。そのままアニメにしてもまったくおかしくないカット割なのだ。押井がインタビューで言っている「今度はカメラマンを世界に派遣して、撮った背景と人物を合成して映画にしたい」というのは、まったくアニメ監督の発言だ。実写をアニメ化する失敗作の『赤い眼鏡』と同じことをまだ考えているのかと愕然とし、この人変わらないなと感じた。
 いわば、この人の演出は、前景と背景しかないということだろう。その間を埋めるものを必要としていない。アニメーションというデフォレメされた遠近感の中なら良いけど、情報量があるすぎる、実写の3次元では、薄っぺらくなるだけだ。
ものがたりは失速したまま、RPGの法則に従ったまま、腰抜けなラストを迎える。くそゲーである。
THX対応劇場でしたが、サウンドもあまり感心するほどではなかった。
(角田)



●あかすり屋湯助
   95 中野貴雄(ビデオ)

 5年ほど前に、照明助手さんに呑みながら、今面白い新人監督はいるのか?と尋ねたら即座に瀬々敬久とこの中野貴雄を上げた。ふたりともピンク映画でバリバリだった頃の話だ。まだ見ぬ中野監督の『海底強姦』=『海底軍艦』のパロディー。『女体渦巻滞』=石井輝男の『地帯シリーズ』のパロディー。などに、おおっ見たいと思っていたがなかなか見られなかった。そうしてやっと見られた本作品、推定予算200万円、撮影日数3日間。しかし、この面白さは突き抜けて尋常ではない。全編ビデオの70分の作品なのだが、 全てがぎゅうぎゅうに詰め込まれ爆発しているのだ。そこにはスカした映画理論も何もない。オモシロイことだけに賭けた潔さが充満しているのだ。
 番組じゃなくて、作品はとある女風呂から始まる『時間ですよ』のような脱衣所のシーンがあって、黄金の腕を持った“あかすりの名人”がいると言う話になる。突然話が変わって浅草は花屋敷の地下にアジトを持つ“赤サソリ団”の本部と言っても三人しかいないのだが、アカスリとアカサソリを間違えるべたな間違え電話ギャグを挟んで、アカスリの順番を決めるので揉める女風呂での乱闘(もちろんサービスカット満載)。そこに現れるのが、大和武士の扮する“あかすり湯助”(全編気が抜けた脱力した演技が本気なのか、嫌気がさしているのか分からないところがすごい)、そして子分のオカマ(一本木蛮が素晴らしく良い)。全員をそのゴールドフィンガーであかすりをしてしまうという序盤の展開。合間に、フランスでロケしたパリジャンの湯助の評判のウデについてのへのコメントが入るというギャグがある。
 そこに、国防省の女指令や外国スパイ、浅草のスリ。下宿の未亡人が絡んできて(物語上だよ)、物語は意外性もなく、ばかばかしいほど、『スター隠し芸大会』か『笑って笑って60分の「哀愁学園」』の様なご都合主義的オフビート展開をして、謎の財宝をめぐる展開へと移動する。ショーモないギャグが繰り返されて、最後には赤サソリ団の秘密兵器のロボットが登場したりして、一気に東映戦隊ものに突入したりするが、このあっけない展開は新東宝末期の因果応報の強引な物語を終わらせるためのシナリオのようで、これは後は笑うしかないというところまで追いつめられる。
 しかしこのカタルシスは物凄く気持ちがいいのだ。それだけは保証します。95年という年にこれを作った見せ物根性を見習え!(なんせ冒頭のスチル構成でオウム事件や阪神大震災がでてくるのだ。これだけやった作品があったかい?)ちなみに主題歌が『仮面の忍者赤影』風になっているところにも爆笑。 ちなみに歌詞は

   ♪シュッシュシュシュ シュッシュシュシュ
    肌をこすって あかすり野郎がやってきた
    美容を助け 健康守る
    みんなが待ってた奇跡のエステ
    その名は あかすり あかすり湯助
                 (レコードは朝日ソノマラから出てます)
 見終わった後、幸せになれる一本デス。(俺だけか)
(角田)


●アクアリウム
   98 須賀健太郎(中野武蔵野館)

 水族館の魚と交信が出来る女の子の成長記。
 参った、してやられた。コミック原作の映画化の難しさを何一つクリアできていない、シナリオと演出の方法論の無さに唖然。自主映画でも近頃ないよなというほど、何も仕掛けも工夫もない。デジタル加工しようが何しようが、結局は、 コミックの映画化は原作者と喧嘩するくらい、解体して再構築しないと話も雰囲気も出せないんだよな。シナリオ、切通理作。
  1年ほど前に少女マンガ原作の映画化のシノプシスを作っていたときにそれは、つくづく感じました。コミックの方で映画化(アニメ化も含む)を想定して描いていないと、ストーリーは解体してしまう。まあ、日本人的に行間とモノローグを読むのが少女マンガの特徴でもあるからね。何一つそれを補完する説明が台詞でもなかったからなあ、話自体、わかんないや、雰囲気だけだ。ああ、びっくりした。
  デジカメで撮った素材をコンピュータ上で編集して16ミリにキネコ変換した方法論も、苦渋の選択だなあ。あまりきれいじゃなかった。
(角田)



●アードマン・コレクション
   Aardman Collection 1987-96 ニック・パーク他(ラピュタ阿佐ヶ谷)

 「ウォレスとグルミット」シリーズで有名なイギリスのクレイアニメ工房「アードマン・アニメーションズ」の短編コレクション。一番古いピーター・ガブリエルの「スレッジハンマー」のプロモーションビデオから1996年の作品までの全14作品。 確か「スレッジハンマー」のビデオは「トリート・オブ・クロコダイル」のクエイ兄弟も手を貸しているハズだから、80年代にはイギリスのパペットアニメ界(?)の才能のある人々は出揃っていたことになるのかもしれません。
  10分間の作品を作るにしても1秒24コマ*60*10=14400コマですから、優秀なアニメーターが分業で取り組んだとしても気の遠くなるような作業量になることでしょう。CG全盛の世の中にまったくのローテクで挑むとは恐れ入ります。と、同時にCGの弱点と課題も見えて来るような気もします。
  日本でも最近「アードマン」あるいはニック・パークに影響を受けたと思われるアニメをNHKなどで目にしますが、なかなか寡黙だけど目の表情やしぐさが豊かな犬(グルミット)には敵わないようです。おそらく放送までのタイムスケジュールがまるでちがうからでしょう。日本では何年も掛けて一本作るようなことはしないでしょうから。ちなみに今回の短編集にはニック・パーク監督作品はありましたが、「ウォレスとグルミット」はありませんでした。
  阿佐ヶ谷ラピュタ、はじめて行きましたが、なかなか雰囲気の好い映画館でした。
(船越)


●穴
   LE TROU 60 ジャック・ベッケル(シネ・ラセット)

 脱獄モノは、なぜ、面白いのだろう。「抵抗」「大脱走」「アルカトラズからの脱出」「勝利への脱出」(あ、これはだいぶ落ちるな)想いつくままにいくつかタイトルを挙げてみても、傑作ばかりではないか。
 さて本作、数ある「脱獄モノ」のなかでも頂点ともいうべき伝説的傑作だとは聞いていたのだが、ボクは未見でした。で、どうだったかというと、これが 本当に緊張感あふれる傑作だった。 同じ脱獄モノでフランス映画の傑作「抵抗」(ロベール・ブレッソン・1956年)は感情のクライマックスを意図的に省略するような演出だったが、本作は、ハラハラ・ドキドキの連続で、まさに「全編クライマックス」。 脱獄モノが好きで、未見の人は今すぐレンタルビデオ屋にGO!
 ラ・サンテ刑務所のある一室に収容されている4人の男たちは、脱獄計画を練っていた。ある日、妻殺しの容疑で、若い男が新しくこの部屋に収監されることになった。この男を脱獄の仲間にいれるべきか、それとも…
  実際の脱獄事件に関わった人物をそのまま俳優に起用しているというのも驚きである。
(船越)


●あ、春
   98 相米慎二(テアトル新宿)

 これが正月第二弾かなにかで、三宅裕司の『サラリーマン専科』とかと併映で見られると、とっても得して「やっぱ、相米はすごいよ!」と吹聴して回れるんだけど、正月映画で、しかも単館ロードショーというのが個人的には気になるなあ。まあ、年齢層広く観客もまあまあ入っていたからそれはそれで良いのだろう。
 と納得しながらも、立川名画座で15年前の正月映画として、『姉妹坂』と並んで『雪の断章 情熱』を見た時の興奮は忘れられない。なので、正しくは、 2本立ての1本として封切られるべき映画であることは確かだ。
 そう、松竹映画(!)として小市民ドラマの典型的パターンとして、死んだはずの父親が突然現れ家族が混乱する様を描いている。
 演技は、相米組の役者が総出演で、斎藤由貴がなかなか頑張っているさりげない仕草が、世間ずれしていない箱入り娘の証券マンの妻というキャラクターに厚味を持たせている。他の人物が一癖も二癖もある屈折した過去のあるキャラクターだから、バランスとして救いとして静謐なキャラクターとして描かざるを得なかったとは思うのだけど、その分逆に、愛情が感じられない感じの良いだけのキャラクターになってしまっている。富司純子の佐藤浩市の母役は、安食堂の女将という意外な役どころで上手くこなして型から外れた演技が艶っぽくて安心して見ていられる。
 脚本通りに撮られた中での役者の演技と芝居は満点をつけても良いが、カメラが感情を伴うはずの相米映画はここには無い。ラストの病室のシーンでもなんであんな単純に寄っただけなのか分からない。しかも、ヒヨコという大切な小道具にピントが来ていないことにも不満が残る。だって、『セーラー服と機関銃』の同様のラストの渡瀬と薬師丸ひろこのキスシーンの複雑なでも必然的なクレーン・ショットに比べてなんの感動も感じられなくて残念だった。
 演出巧者による良質なホームドラマは見られます。………でも映画の世界の職人芸と言う世界への傾斜は正しいのだろうか、もっとスペクタクルなハッタリ(狂気)が映画の魅力ではないのか?伝統芸を見に来てるんじゃないと思うのは俺だけか?その辺は『踊る大捜査線THE MOVIE』を見て考えてみたい。
(角田)


●avec mon mari/アベックモンマリ
   98 大谷健太郎(シネアミューズ・イースト)


 2組のカップルがいる。編集者の妻と食えないカメラマンの夫。カメラマンの友達の若い女とその恋人の編集者の上司。混乱した四角関係が美術に凝った部屋を背景に台詞の芝居でまるで舞台劇のように淡々と進む。そこには、感情の吐露は冗談めかしてあるが、激昂や喧嘩とはほど遠い静かな世界に包まれている。丹念に計算された台詞と役者の動きが違和感なく、シーンを途切れさせずに同居する。それらが醸し出す雰囲気は日常を越えた倦怠感、いや、 カメラが捉えた(切り取ったではない)風景として定着していく。それが観客に弛緩と心地良さを同時に与えているのだと思う。そのシーンが終わらないでいつまでも続いて欲しいと言う気持ちになってくるから不思議だ。
 台詞や演技だけではなく、現在だからこそ、観たい映画がそこにあるからという証明なのだろう。本当にあるかどうかは分からないがあってもおかしくない世界が、そこに淡々と繰り広げられている。その日常性が今までの邦画の中では見つからなかった。非現実的なものか、流行・現実におもねるものの二つしかない世界に少し風通しを良くしてくれたのかなと思える作品。
 主題でいえば、今を描いた(風俗や文芸とか簡単には分類できない)独自の世界、展開の面白さではプログラム・ピクチャー並みの伏線を張って、小市民的な笑いが絶えない設定。こじんまりとしているのが、良い言葉か悪い言葉か分からないけれど、最後まで見せてくれる作品です。逆にひとつの世界が出来上がっていて、これが海外で通用するかは分からないけれど、 リアルなお伽噺と言ったところでしょうか。
 しかし、上手く行かない若い結婚カップルの話が、今の日本映画じゃ多いと思うのだが何故だろうか。作者がその年齢なのか、身近なスペクタクルなのだろうか?
(角田)


●アベンジャーズ
   AVENGERS 98 ジェレマイア・チェチック(新宿東急)

 予告編は文句無しに格好良い。でも本編は……。テレビのリメイクの雰囲気を出そうとレトロっぽくしたり、シャレタ会話をするところがすべて外している。撮影したは良いが長すぎて切り刻んでいる内に、どこが面白いところか良く分からなくなってしまったと言う感じの映画。
 説明不足と説明過多でまどろっこしい部分が交互に来てアタマがこんがらがる。ストーリーは予備知識を入れておいた方が良い。ただ、レトロな雰囲気、セットの凝りよう、ユマ・サーマンの衣装は一見の価値はあります。ビデオまで待った方がいいね。
(角田)


●阿弥陀堂だより
   02 小泉尭史 (ワーナーマイカル大宮)

  豪華な映画とは大規模予算の映画だけではない。いかに時間を掛けて製作をしたのかがフィルムには全部写ってし まうから怖いし、観客もそれを感じてしまうので恐ろしい。そこにある濃密な時間というのは、いま生きている時間と同調 する瞬間を持っているかもしれない。そう感じ取れることでより豊かな時間を愉しむことができるのだろう。
  いわゆる癒 しというキーワードで括ることもできる。アロマキャンドルを立てて、さあ癒されましょう、というカネを出すだけ癒される対 処療法ではなく、もっと静かに手探りで進んでいく。長野の四季を追いかけながら自然の美しさよりも、そのなかに 遍 在する日本人の死生観を示そうとしている。『雨あがる』もそうだが、監督は何も押し付けない人なのだよね。そこがい わゆる邦画としては珍しいので違和感を憶える人も多いだろう。常に画面に現われる空気感のようなものをずっと求め ている。その時間が観ている側の警戒を解いてしまう。
  「在っても良いファンタジー」を追いかけているように思う。 設定がうそ臭いとか登場人物が偽善的だというのは簡単だ。ただ樋口可南子や寺尾聡が既製服を着て歩いているだ けでホッとするし、彼女が病院に初出勤する朝、坂を下りその後姿を追っていると、野良仕事に出かける老婆たちと挨 拶を交わすさりげないカットが素晴らしく強烈に感じる。セリフもね、結構思ったことや感じたことを口にしているのだけど も、言葉として良いものがたくさんあって、これもファンタジーだと思っちゃうし、その世界観が良いね。
  大人が観ること ができる(大人の鑑賞に耐えるという意味ではない)、息の長い映画になったのではないでしょうか。樋口可南子はイイ 。なんで映画に出なかったのかなあ。糸井重里のせいか?
(角田)

●雨あがる
   00 小泉尭史(新宿武蔵野館)

 これは、いわゆる時代劇というジャンルで解釈してはいけない。黒澤明という日本映画の一時代を築き上げた監督のクロニクルの終わりとして観なければ何も見えてこない。
 今、“時代劇”と呼ばれるコスチュームプレイは、非常に偏ったジャンルとしてしか存在していない。いわゆる一時間の勧善懲悪のワンパターンのチャンバラとしてしか想起されないと思う。また黒澤明の評価も“巨匠”とか“大仰な”という言葉で括られている。  しかしこの作品を観ているうちに、時代劇というジャンルのそもそもの豊かさに包まれている作品だと思い始めた。山中貞雄があり、伊藤大輔、マキノ雅博ら、戦前から時代劇を撮り続けた監督の作品は、決して硬直したチャンバラだけがメインの活劇とは限らなかったと思う。いまも多くの人が「時代小説」を読むように、時代劇に託して描く方法は決して間違っていないし、そうでなければ描けない題材もあるだろう。そんな寓話として観ていく方が楽しめることに気付いた。
 晩年の枯れた境地の脚本としては、無性に懐かしく感じられるひとつの世界を描ききっている小品としてキチンと評価すべきであろう。三船史郎のバカ殿様も、明朗な闊達な愛すべきキャラクターとして狂言回しであり、単純に演技云々を言ってもそれは的外れな指摘だと思う。確かに彼の存在は、黒澤明自身が作り上げた“リアリズム時代劇”からは、遠く外れているようにみえる。もう黒澤時代劇=リアルの枠は外してあげようじゃないか。「黒澤だから」というので厳しく求めすぎているものが多すぎると思う。
 それよりも、三船も含めた作品世界を、その空気とリズムを楽しみたい。といいながらも、これほどシナリオの骨格の太さで勝負している作品は、やはり黒澤明だなあと感じさせてくれる。最後に彼は、活劇映画ではなく、映画自身の活劇という、娯楽を通して映画の豊かな世界に忠実な作品を残せたのではないだろうか。
(角田


●アメリ
   AMERI 01ジャン=ピエール・ジュネ (ワーナーマイカル大宮)

 映画の可能性を信じていないとこの手の映画は失敗する。で、全体をコントロールすることに決めて徹底的にミニマル なかたちにしてのが成功している。
成功した監督じゃないと通らない企画だろう。シナリオ読んだだけじゃおもしろいんだかわからないだろうね。主人公が 何者だかわからないと言われるだろう。確固とした画として見えていないと作れない映画だ。
 まるで岡崎京子の短編のようにたわいもない話のなかから抽出された、シーンごとのエッセンスを並べた強引なストー リー展開。ストーリーのためのシーンではなく、シーンを充実させるためのシーン作りに全力を注いでいて、それをいか にも巴里的でコートしたんで雰囲気作りもうまくいっている。これは奇跡的なシーンづくりのうまさなのだが、 変人たち が裁かれることもなく変なことを堂々としている (ただ意地悪な八百屋はやっつけられるが)。その狭く完結した世界 が心地良く感じるような仕掛けになっている。 この楽しみは、小説を読む楽しさではなく、通販のカタログを読む楽 しさに似ている。小物の細部ってこと。かろうじてストーリーになっているけど、この世界に浸ったらラストはおまけみた いなもの。お菓子でもポリポリと食べながら観るのがいいです。
(角田)

●アメリカン・ビューティー
   AMERICAN BEAUTY 00 サム・メンデス  (ビデオ)

 それほどは期待してなかったけど、案の定「こりゃビリー・ワイルダーの艶笑喜劇じゃないか」 と思った。この程度がスキャンダラスなんて健全過ぎるんじゃないのともおもうけどね。
 監督が演劇のひとということもあろうが、どう考えてもシナリオも演出も演劇で、どぎつく一番効果を発するようにしかつくられていない。たぶんもともとは戯曲ではないか。限られたセット・アップ。つねに二点カットバックが、前景後景のごとく配置されていて同時に展開するドラマ。妄想シーンや男色疑惑の演出は 舞台なら非常に効果的だ。人物像の単純で硬直したキャラクターなぞ、劇でしか通用しないと思うのだけどいかがだろうか。おかげでソープ・ドラマに近づいたんで観客に受け入れられたのだろう。
 まあビデオカメラが出てくるのでギリギリ現代劇とわかるのだが、それを取っ払えば非常に古臭い話だと思うのだけど。人物の感情の動きが平坦で通俗的過ぎるね。なにも新しくない。
(角田)


●アルマゲドン
   ARMAGEDDON 98 マイケル・ベイ

 頭の悪そうなブルース・ウィルスや「白い粉」でも打っていそうなスティーブ・ブシェミに全人類60億人の明日を託さなければならない状況からして、既に人類滅亡は保証されているハズなのだが、もちろん滅亡はみごと回避される。 さすがはアメリカ映画だ。
 「週刊アスキー」によると「2年前に巨大彗星が地球にぶつかるかも知れない」というパニックがアメリカであったそうで(ボクには全く記憶に無いが)、この映画はそれがネタになっているそうだ。またアスキーの記事によるとハリウッドは2000年問題でも映画を2本作っている最中だそうだ。日本の平成「ガメラ」シリーズが自衛隊の全面協力ならこの映画はNASAの全面協力だ。
 パニック映画全般の不満としては「意外に」人は死なないし、建物が壊れないことだが、さすがに最近のSFXの進化には目を見張るものがある。森山氏も書いている通り、パリを筆頭にいくつかの都市は確かに壊れている。ただし、やはりあまり人は死なない。「プライベート・ライアン」のような悪趣味描写を観たあとのボクたちには、もはや内臓や目玉のひとつでも飛び出してくれないと「残酷」「悲惨」な状況だとは認識できない。
 荒唐無稽なハナシだからつまらないというのではもちろんないのだが、せめて荒唐無稽なハナシを物理学や生命科学や民俗学的説明でうまく「リアル」を感じさせる日本の平成「ガメラ」的手法で作ってくれたなら、もう少し面白くなったかもしれない。シナリオに工夫が無さ過ぎ。もう少し奇想天外なストーリーにはできなかったのだろうか? ひょっとしてこの映画、アメリカでは「子供向け」映画だったのだろうか?こんな映画でまさか「感動」するオトナはいるまい、と思っていたら、会社の同僚が「いやー感動しました」と言い出したのには驚いた。ひとそれぞれである。
(船越)


●アルマゲドン

「地球最後の日」、「メテオ」、「ディープ・インパクト」に続く小惑星激突物のオオトリです。
  時はなんといっても1999年です。我々が身を持って破滅を思い知るか、ノストラダムスが大嘘ツキか、ドキドキ物のまさにこの時代に生まれなければ味わえないスリルある世紀末。この話題性だけでも思いっきり後押ししている最高の映画的状況です。
  監督は「ザ・ロック」を当てたMTV出身の職人マイケル・ベイ。私は観てませんが、ヒットしましたし、大好きなショーン・コネリーが良い役で出ていたそうで、期待が持てそうです。
  予算はふんだんに使っています。ブルース・ウィルスを始めとした有名俳優が大挙出演していて否が応にも期待を煽ります。かの不死鳥ロック・バンド、エアロスミスが主題歌を提供 しているからロックファンの集客もバッチリです。グループのリード・ヴォーカル、スティーヴン・タイラーの娘で、若手有望女優として売り出し中のリブ・タイラーもスラリとしたシルエットと父親譲りのちょっとエッチな口元が可愛いですし、若者代表として、 「グッド・ウィル・ハンティング〜旅立ち」の脚本家として既にアカデミー賞を受賞しているベン・アフレックも出ていますし、なんといってもSFXに今をときめく主工房が大挙して参加しているのが大きな保険です。これだけでも見せ場が保証されたような物で、大船に乗った気分を抱かせてくれます。渋い所も忘れていません。最近大作には欠かせない怪優スティーヴ・ブシェーミは出ていますし、おまけに我が国代表として、松田聖子さんもカメオ出演されていますし(さあ、彼女は一体どのシーンで登場するのでしょう?はたしてセリフは有るのでしょうか?)、これで面白ければ、完璧です。前売券(ちゃんと購入した物です。金券屋さんじゃありませんよ)を握り締め、映画館へ出発です。
  映画館は大盛況です。なぜかカップルが多いのですね。6列で入場待ちする事約1時間。ああ、まったく並んで映画を観るなんて、久方ぶりですねぇ。でも御陰で前の方の良い席が取れそうです。やっほー。これも前日に上映時間と混雑具合をインターネットで検索しておいたからです。備え有れば憂い無しですね。無事席を確保したら、売店とトイレで上下のメンテナンスはO.K.売店にはなぜか親子連れも多くほのぼの。ブザーが鳴って、照明が落ちて、阪急東宝グループの死ぬ程退屈なコマーシャルも笑って許せる自分が誇らしいです。これ、映画が終わった後にやらないのは凄く頭が良いと思います。ドルビー研究所の映像ロゴが出て、さあ、いよいよ本編の登場です。この瞬間が堪らないのです。
 ここからネタばらしをしますので、御覧になる方は飛ばして下さい。つぎのマークが「ばらし」終了の目印です。

  冒頭、いきなりスペース・シャトルが流星群に破壊され、ニューヨークに隕石が降り注ぐシーンが現れます。この当たりと小惑星を発見したNASAを描写するドキュメンタリータッチはまるでマニュアル通りの手堅い演出で、観てて安心極まりないです。 ここで無礼で成り上がりを目指すアフリカン・アメリカンの青年が飼っている躾のなってないフレンチ・ブルドック(または色白のボストン・テリア)のすぐ近くに隕石が落ちます。でも死にません。代わりにこの犬に悪さをされて困っていた善良なポリネシア系アメリカ人が蒸発してしまいます。これには大いに不満を抱きました。 「犬は死なない」の法則はそろそろ止めにしてもよいのではないでしょうか?「ワンダとダイヤと優しいやつら」以来英米映画で犬が死ぬシーンを見た事がありません。どなたか有ったら教えて下さい。 近日公開の「メリーに首ったけ」では全身ギプスの犬が出てくるというだけで動物に対するサディズムが有る私は観に行く気になってます(後好きなのは、 「炎628」で機関銃の曳光弾で牛が撃ち殺されるシーン、「モンキー・シャイン(モンキー社員では無いよ)」で主役のフサオマキザルが身障者に噛み殺されるシーン、 「ペット・セマタリー」でゾンビ猫が主人公に薬殺されるシーン、「バルダザールどこへ行く」で最初から最後まで主演のロバが悲惨な目に会う所、 「プライベート・ライアン」で、全編ヤンキーやドイツっぽの死にまくるシーン、あ、これは動物ではないか。e.t.c.…。皆さんもお好きな動物虐待シーンが有ったら教えて下さいね)。まあ、動物愛護委員会からの突き上げが有るなど、難しいのでしょうが。また 「小猫物語」の様な素晴らしい動物虐待映画を観たい物ですねぇ。
  熟練の掘削技術者で、筋金入りの反社会性精神病質者でもあるブルース・ウィルス一派と色気付いたリブ・タイラーが働く海底油田のプラントのシーンと、時間の無さから、NASAとアメリカ合衆国がどう考えても宇宙飛行には適さないゴロツキを世界救済のメンバーとして選ばざる得ない所なぞ、ブラックでなかなか脚本の狙いは良いです。なにしろ、ウィルス自身からして主演作 「ビリー・バスケイド」で自分を湖に沈める為に嬉々として働いていたブシェーミをメンバーに入れているくらいだから、成功の可能性なぞはなから無いようなもんです。誰が彼と一緒に狭い宇宙船に乗りたいと思いますか。京都大学霊長類研究所の スーパー・チンパンジー「アイちゃん」の方がマシです。アメフトチームの人選にフット・ボールの技量より凶暴性を優先させた「ロンゲスト・ヤード」 の様で、私の好きなシチュエーションです。旅の途中ではこの歪な一行に空ろな視線のロシア人宇宙飛行士(その名もアンドロポフ!)まで加わるのです。おまけに地表の具合なぞほどんど解からず、なおかつ周囲を流星群が荒れ狂う小惑星に、核爆弾とかつての不幸な爆発事故で私たちにも印象深い揮発燃料を大量に積んだスペース・シャトルで一発勝負の着陸を強行する訳ですから…。
  まったくもってハラハラし通しです。果たして彼らは無事任務を果たして再び地球に帰って来られるのでしょうか。その頃地球では本作戦の成功に疑問を抱いた軍部が大統領を丸め込み、NASA本部に乗り込んできました。すわ、内紛の兆し。もー、心臓はバクバクです。まるでわざとやっているようです。おまけに小惑星ではシャトルの一台が予想通り流星群に接触し、大破。かろうじて着陸できたもう一台も掘削機がいかれ…。本当に成功するのでしょうか。本当に成功するつもりがあるのでしょうか。
  そうこうする内に小さ目の隕石がヨーロッパの大国、新経済圏ユーロの一方のリーダー、フランスの首都、パリに落ちてしまいした。やはり米露の核軍縮政策を無視して核実験を強行した報いでしょうか(この前に上海にも隕石が落ち、5万人程死にますが、それは小さな事です)。神はやはり存在しそうで、ここから俄然宇宙の作戦は成功しそうな雰囲気になってきます。ハイホー。

さあ、最後はもう三遊亭円楽師匠の人情噺の様に涙が止まらないエンディングに向かってまっしぐらです。

 映画を観終わった後、とても痛いお尻と、凝った首が上映時間の長さと映画館の椅子の固さを物語っていました。一緒に観に行った船越君の目から、なぜか生き生きとした光が消えてしまっていました。彼はその後、ずっと不機嫌で、何時もの聴き分けの良さは何処へやら、むずがって私を困らせたのでした。
(森山)


●アンツ
   ANTZ 98 エリック・ダーネル/ティム・ジョンソン(新宿オスカー)

 アメリカじゃ、アニメーション大作映画が近頃やたら封切られているけど、これは単にディズニー・キャラクター経営戦略が上手くいっているだけの真似であって(といっても本家は今経営的にコケているらしいが)、別に製作者側がアニメーションそのものに対する何かがあるという訳じゃないだろう。だってディズニーの昔から、世界中の童話、神話をパクってバーレスクとアメリカ万歳主義の暗さの微塵もない平板なストーリーに換骨奪胎しているだけじゃない。要するにアメリカ人の考えるアニメーションというのは如何にリアルにお伽噺を語るかという、健全な家族向けという幻想で成立しているところが大きいと思う。
 日本の場合はヲタクが積み上げてきた文化だから文脈が違うんだよね。日本の場合、アニメというのは不思議なメジャーでありマイナーでもあるという一種独特の文化圏にあると思う。
 さて問題はアメリカだ。近頃CGの発達のお陰でそれを売り物としてアニメーションが作れるようになってきた。要するにテクノロジーを操れる世代が作れるようになってきたということだ。そう、 彼らの世代はアニメは軽蔑される文化にあったに違いない。アニメ好きは変人扱いされていたに決まっている。(これはゲーム好きも同じ扱いだと思うが)。ティム・バートンがディズニー・スタジオに合わなかったように 彼らは暗いのだ。
 重役会議では3CG映画すごいの作りまっせとごまかしても、『アンツ』も『トイ・ストーリー』も暗い。(『トイストーリー』の悪ガキの部屋のシーンなんか最高のホラーじゃないか)アニメーターの怨念が炸裂しているのだ。ボクの予想では『BUG'S LIFE』もたぶん暗いと思う。だからジャパニメーションは浮世絵と同じで別の文脈でみないと、アニメは世界を結ぶ言葉なんて簡単には言えないと思うよ。
 と言う意味で、出来上がった作品を見てドリームワークスの連中は焦ったと思う。だってアリの世界では旧ソ連の様に階級制度がひかれ、労働と戦争に明け暮れ楽しみは無く、ひたすら死ぬまで生きている虫の生活が描かれている。そこから抜け出す冒険だって巣から半径500メートル以内という狭い狭い世界。全編に陰鬱さが漲っている。プロデューサーはアタマを抱えたと思う。だから、声優が豪華キャストで埋められたんだと思うけどね。話題で救うにはこれしかない!と。
 アニメーション的難点で言えば、演出的に本来3Dなのに、表情が2Dアニメーションのデフォレメした表情を使っているので、非常にグロテスクに見える。3Dアニメーションにおける表情の文法が出来ていないのはゲームも含めて既に分かっていることだが、表情について考えていかないと、既存のアニメの決まったいくつかのパターンと取ってつけた様なデフォレメされた演技様式しか出来ずそこで進化が止まってしまう可能性がある。難しい課題だけどね。3Dアニメーションはどこかで独自の道を見つけないと、ならないと思う。それはリアリズムではないだろう。昔ワーナーでナンセンスアニメーションを作った テックス・アヴェリーのような天才を待つしかないのだろうか?
 (角田)


●アンドロメディア
   98 三池崇史(新宿松竹)

 天下の『SPEED』が出ている映画を観ないわけにはいかない。誰に何と言われようが良いんです。でも、映画の出来は良くなかった。所詮は中学生だなあ、と言うのが印象。シナリオにも救いがないし、訳分からないとしかいいようがない。誰が映画を信じているのか?監督は信じていると思うけど、役者がなあ。それはいいんだけども!他の作り手達が子どもを食い物にしているようで気持ち悪かった。売れるウチに稼いでおこう。という今も昔も変わらない体質。子どもダマシをしていちゃダメになると思う。
 ちょっと、書いていてヤな気分になったので、この項は改めます。しばらくお待ち下さい。
 違う側面から書いていこうか。アイドル映画ではなく、ヴァーチャル・ワールド=サイバー・パンク映画としてどうだったのかと考えると、サイバー・パンクもので成功した映画ってないもんね。スタンリー・キューブリックの映画がやろうとしていることがそれに近いかも知れないなあ。人間の脳細胞を破壊しまくる狂気だけを追い続けている映画を撮り続けていると言う意味で。新作のいつ出来るかわからない『AI』(人工知能)には期待しちゃうなあといって、おっと『SPEED』でしたね。 中途半端なS・F(エス・エフ)と言った解釈まで何とかたどり着いたところで終わっちゃっているんだよね。大林宣彦レベルなんだ。だったら、塚本晋也に撮らせるプロデューサーは居なかったのだろうか。書いてるだけでワクワクしますが、どうでしょう。
 頑張っているのだが、そのダメさ加減を観に行くのも一興か…な。
 (角田)


●アンブレイカブル 
   UNBREAKABLE 00 ナイト・M・シャマラン(熊谷ワーナーマイカル)

 映画の魅力はどこにあるのだろうか。確固としたストーリーを経て、ちょっとした「センス」がそれを決定的にする。『アンブレイカブル』はそんな映画である。今回のトリックはわかろうがわかるまいがどちらでも良いと思う。そこに引っかかると最後まで愉しめないおそれがある。
 ただただ、いろんなところに驚き、声をあげることお薦めする。
最後まで声を荒げず、にこりともしない演技を続ける、ブルース・ウイルスとサミュエル・L・ジャクソンの2人の素晴らしさにドキドキしよう。
 静謐でありながらも、大胆な演出をする監督にワクワクしよう。これを『シックス・センス』と比べて…というのは愚問だ。
ただ、論理と倫理のあいだを行き来するストーリーのエンターテインメント性にため息をつきながら、続編について想いをめぐらすのも良いかもしれない。
 こんな話、なかなか作れるものじゃない。
(角田)