エッセー、評論



J.G.バラードの千年王国ユーザーズガイドJ.G.バラード:白揚社:3200円

1960年代から95年くらいまでの書評を集めたものとちょっとしたエッセー集ですが、位置づけとしては「残虐行為展覧会」の続編と言ってもいいんじゃないでしょうか。
目次を眺めるとわかりますが、「映画」「伝記」「視覚芸術」「作家」「科学」「自伝」「サイエンスフィクション」「エトセトラ」と分けられ、書評なんだけどそれ自体がバラードの批評と警句とともに作品と化している刺激的な本です。紹介されている本の邦訳が思わず読みたくなります。




ブラッドベリがやってくる――小説の愉快 レイブラッド・ベリ:晶文社:1553円

これを読むとレイ・ブラッドベリが短編作家であることがよくわかる。彼の好きなことはアタマのなかにすでに存在していて、サーカス、バック・ロジャース、屋根裏部屋、図書館、闇夜、小人などなどが、ふとアイディアが浮かび机に向かうと、それらが無意識のなかから現れてが彼に書かせる。だから作家のテイストはいつも充分に味わうことができるが、言い換えればいつも同じと言うこと。都筑道夫が「独特の美文にさいしょは夢中になったが、じきに飽きてしまった」というのもわかるような気がする。だけど創作術について書かれた「禅と小説」はおもしろいので立ち読みでも。
「いまの時代でも、いつの時代でも、もっと「創造的な」作品が、書かれて、売れてもよいのではないか。思うにおもな原因は、私が論じたような仕事の方法を知らない作家が多いからだろう。「文学的」と「商業的」の二分裂で考える癖がしみついているせいで、中道路線にはレッテルを貼り忘れ、ろくに考えもしなかった。それこそが、誰にでも適当で、気取り屋も売文業者も、気持ちよくストーリーを生産していける創造プロセスなのだが。いつもの癖で、われわれは二つの名前がついた二つの箱に何でもかんでも押し込んで、それで問題を解決した(つもりになった)。どっちの箱にも入らないと見られたものは、どこにも行き場がなくなった。そういう頭の切り替えないかぎり、作家たちは自縛を解けずにいるだろう。」



魔術的芸術 アンドレ・ブルトン:河出書房新社:3800円

芸術家の「想像力」や「創造の源」は一体どこから来るのだろうか。芸術家の持っているのは神の手なのか、それとも悪魔の手なのか。ブルトンはその答えを古代の呪術に求める。現代で言うプリミティブ・アートは、荒ぶる神々を静めるための、呪術師だけが持つ魔力だった。神々を納得させるためには、美術品の完成度や美しさを作り出すためのチカラが必要だった。その技術を持った者が芸術家であった。各時代の流れから、埋もれている魔術的なチカラを持つ芸術家たちを復権していく試みが本書だ。
そこで取り上げられるのは、お馴染みの力強い古代美術品であり、ヒロニムス・ボス、レオナルド・ダ・ビンチ、アルブレヒト・デューラー、ギュスタブ・モロー、ポール・ゴーギャン、アンリ・ルソー、そしてジョルジュ・デ・キリコをはじめとするシュール・レアリストたちを彼らの末裔に挙げている。取り上げている作家はまさに、ひたすら超現実(=シュール・レアリズム)を描いているのがわかる。
ここで気付いたのは、キリスト教社会(ブルジョアジー=貴族)の「神VS悪魔」という図式を無効にしようとする試みが行われていることなのだ。西欧文明ではどんなことがあっても、たとえ芸術家は神の啓示を受けたとしても、モノを作り出す自らが神になることは許されなかった。というかそれは悪魔の仕業とされてきた。ローマ時代から、教会の審判に怯えるか、巧妙に裏を潜り抜け教会の庇護を受けた作家しか生き残っては来られなかった。寓話や聖書の話としてしか想像の世界(超現実)を描くことができなかったのだ。そこで出てきたシュール・レアリズムの無神論、教会破壊の与えた革命性は私たちには到底わからないだろう。ルイス・ブニュエルの『アンダルシアの犬』などへの攻撃を見ても、そのスキャンダルがキリスト教社会にショックを与えたことは想像できる。それでもブルトンは敢えて、芸術家は魔術師だという。もっと言えば、創造主(=神)だと言っているに等しい。まあそのこと自体は西欧文明だけで、本書で取り上げられていない、アジアの芸術、汎神論に対しては無力なのだけれどね。
また、シュール・レアリズムと同時期にフロイトが提唱した無意識を探るための「夢判断」が、ブルトンの論理とぴったりと裏表で繋がるのが面白い。
もうひとつ余計なことを言えば、印象派がありのままの自然や人間の卑俗さを題材としたことも、また反キリスト教だけれども、そこには超然たる魔術が無いので、結局は細かい内へ内へと自家中毒に陥らざるを得なかったということも、別の目線から言えるのではないでしょうか。(もちろん何人かの優れた絵描きは別ですが、全体の方向としてね)



仙人の桜、俗人の桜 赤瀬川原平:平凡社:1100円

解説の野坂昭如が書いているように、作者は素直に物事を見て旅をする。旅の楽しみ通俗性と言ったら昔から変わらず、てくてく歩きの物見遊山、温泉三昧、美味しいものぱくぱく、に尽きる。それを確実にオモシロがりながら、いささかも斜に構えずにまっとうに醍醐味に浸る(まあこれが一番斜に構えているのだが)。






にっちもさっちも―人生は五十一から 小林信彦:文藝春秋:1476円

恒例のコラム、今回はインフレなんかとんでもないの論調に終始する。映画の話だと、カサベテスがニューヨークで或る日本映画を借りて、『グロリア』を撮った。そのもとの日本映画は『子連れ狼』であった、がなるほどねえと感心。








コモンズ   ローレンス・レッシグ:翔泳社:2800円

副題がネット上の所有権強化は技術革新を殺す=B
 現実の世界では誰かが作ったり見つけたものを、改良していきながら新しいものを生み出すという、当たり前の技術・芸術の歴史があったが、ネットではだれもがすべてに対して所有権、著作権を主張するために、自由に新しいものを作る機会が、法律の解釈により規制され少数の企業に独占されつつあること に警鐘を鳴らしている。
 インターネットという世界最大のデータベースは自由に構築・アクセスできるはずなのに、いつの間にかコンテンツがすべて誰か(大体企業)のものになっていて、使用するのに許可がいるということ。著作権は作者を保護すると言うが、一番儲けているのは、企業だ。モノを作り出すことは単なる消費財のひとつになってしまった。最大限の情報と自由にあるはずの場所から何も生み出さないことになりかねない矛盾。極端に言えば、映画を撮るのにも画面に入るものすべてに著作権肖像権が絡まり、何も無い部屋か山奥でしか撮影できなくなる!それも出演者と揉めたら肖像権で上映できなくなる!こんなバカな世界が成立しているのだ。さあ、クリエーターになるなんてことは止めた方がいい。訴えられるだけだ。カメラも捨てよう。


物語の体操 みるみる小説が書ける6つのレッスン 大塚英志:朝日文庫:560円

「物語消費論」の作者らしく、あくまでも小説を消費されるカタチとして構造から作り上げて行くための極めて実践的な実用書。ここに書かれているのは、 「何の根拠もないがわたしは小説を書くために生まれてきた、まだ1作も書き上げてはいないが…」と確信している人たちに、小説を書き上げられる≠アとができるようにしてくれるノウハウだ。 村上龍の小説のプロットのアイディアを盗作して、自分で味付けして書き直してみる。つげ義春の短編マンガをノベライズしてみる。などカタチやストーリーの構造を作り上げる事から入って小説を書けるようにしていく試み。
 このやり方自体、作者が自作のゲームやマンガの小説化で実践しているわけで、もはや物語や創作には神秘性は要らない、だれでも構造を知ればだけでモノは作れると言った持論を証明していく再確認をしているわけでもある。
 このやり方はモノを書きたいがどうしたらいいのか、わからないときのウォームアップには最適な方法だと思う。机の前で意味無く唸っているだけで白紙のままでいるよりも、ともかく前に進むためのヒントがたくさんある。
 誰でも書けると嘯いているが、それは商品として成立して消費されていく事を前提としたものであって、必ずしも個性的であったりオモシロイ作品ということと必ずしも一致するわけではない。適度に刺激的で適度に通俗的で安心して読め売れるためのちょっとした仕掛けがあるもの、いわば寄せ集め(リミックスともいう)であり、それは語られていることは全くのテクニックでしかない。
 この事自体は全然否定はしない。まあモノを作って売る仕組みはあるわけだし、様々なジャンルの出版市場もある。しかめっ面した暗い本しか読まない文学青年にしか特権的に小説が書けないわけじゃないし、文芸誌で新人賞を取らないと出版できないわけでもない。 自分もどうやって書いたら良いのかホントはわかっていない講師に教えられて授業料をボラレルよりはいい。
 しかし作者は、明確には言っていないが、だけどこの先も自分の個性でオモシロイ小説を書くようになれるのはアナタ次第だよ、という立場を取る。
 そこら辺はアプローチがまったく違うが、橋本治とそっくりだ。橋本の場合は、小説(あるいは社会)と言うものの構造を人に教わらずに自分で解きほぐして発見しなさい。そうすれば自然に自分の小説が書けるようになるよ、と突き放す。常に彼の書くものはそのための啓蒙書だ。物事を根本から現代の作者の視点から別の方向から解き明かして行く。
 ともに戦後民主主義の申し子と自認するふたりがそれぞれ正反対の方から同じことを言っているのが興味深い。


モダン・デザイン全史  海野弘:美術出版社:3800円

どんなきれいな写真のインテリア雑誌に載っているものも、ホームセンターで廉価で売られるペラペラな中国製の家具も、そのデザインは絶対にどこかから影響を受けている。(パクリという言い方もあるが。)だからカーテンはいつまでたってもウイリアム・モリス調だし、椅子はエームズ調の流線型だ。建物はバウハウスから中々抜け出せない。そんなことを考えながらインテリアや建物を見るのもまた面白い。すべてについてデザイン売れるためのデザインの大合唱が行われる中、各々の源泉について思考する機会は少ない。
本書では、モダンデザインが社会改革運動と連鎖して、様々な形で芸術家や職人のコミューンを形成し、互いに影響を与えながら変化していったことが読み取れる。ただ芸術家はいい加減なので大体その理想は崩れる。
あと、ふと思ったのは、ヨーロッパは行き詰まると必ず他文化から持ってくる。アフリカの文様がプリミティブアートとして定着したのもそのひとつだ。日本の浮世絵が印象派に影響を与えたので、日本の文化はエライという論調もあるが、 欧州人は日本が進んでいるとは考えず、未知のプリミティブアートとして江戸文化を捉えていたのではないだろうか。
また本書の成立の動機を綴った冒頭の部分が挑発的でスリリングです。
J「新しいデザイン史のために」より抜粋――
「おどろいたことに、モダン・デザイン史はまだ書かれていない。これまでに、書かれたものは、新しい状況のために通用しなくなっている。新しい状況というのは、一九六〇年以後にあらわれたもので、六〇年代の前と後では歴史が断絶してしまっている。そのことがはっきりとわかってくるのは、九〇年代に入ってからであり、私たちはやっと、モダン・デザインを全体的に見渡せる地点に達した、といえるだろう。(中略)
 では、ばらばらになった現象をいかにまとめたらいいのか。歴史は再構築できるのか。とりあえず二つの方法があった。一つはこれまでの歴史に固執し、六○年代以後も強引にその延長と見なすアカデミックな美術史である。(中略)ともかく、五○年代までの内容のまま、現代史と称している。
 もう一つの方法は、通史や体系をあきらめて、好きなもの、面白いものだけをとりだすか、並列してしまうやり方である。歴史は放棄されるが、アカデミズムを壊し、これまで埋もれていたものを発掘するのには有効であった。アノニマスな街のデザインが発見されるのもその成果である。キッチュやポップなど周辺的なデザインの研究が八○年代にまとめられてくる。
(中略)
 断片にとどまることは、断片を自立的な統一体、閉ざされた小宇宙として祭り上げてしまい、その小宇宙をこえる異界については判断を停止してしまうのではないだろうか。(中略)
断片にとどまってはならない、しかし、頼るべき大きな歴史はない、というのが、現代の批評が置かれている危機的状況なのだ。」

これっていろんな分野に当てはまるよね。まあキネマ旬報的映画正史が崩れたあと、アニメやヲタクをひたすら顕揚している状況などわかりやすいです。断片を見出すだけでなくそれをさらに横断して行くことを示唆しているところは、現在におけるすべての批評や感想、ものの考え方について指標となるものだと思います。本文ではこのあとその具体的なモダンデザイン全史の並べ方が展開されるのだが、この章だけでも読む価値はある。

さらに文献の言葉として引用されたトドメの一撃。「正当的な問いとは、現実を危機に置きつつも己れ自身をも絶えず危機に置きうるような批評をいかに計画=企図(プロジェット)するかというものである」(ターフリ『球と迷宮』パルコ出版)


アホでマヌケなアメリカ白人 マイケル・ムーア:柏書房:1600

  アメリカには昔から、ユーモアエッセーという分野がある。いわゆるちょっとイイ話だ。新聞・雑誌のコラムニストが書いたり、著名人のものもある。本書もその位置付けだろう。著者はユーモアの棚に並べるなと言ってはいるが。実用書でおなじみの書かれていることを実行するにはどうしたら良いかについても懇切丁寧に書いてある。いまの政策に不満ならば、ともかく民主党の議員に連絡しろ、果ては大統領選挙に立候補しろまでやはりユーモアをもって書かれている。

 アメリカにおける希少種である左翼を公言するドキュメンタリー映画作家である著者は、 2000年の大統領選挙では第3の候補、ラルフ・ネーダーのスタッフだった。70年代から企業告発をしていたネーダーは、著者の師匠(でも一度はクビにされた)。結局、大統領はブッシュとなり、あんなことやこんなことになっている。

 でケチョンケチョンに貶したらブッシュ政権から発禁されそうになったり、 911があったりもしながら、宣伝もしないのに売れてしまったらしい(ここらをもっと強調して売ったほうがいいのにね、日本版はユーモアも半端だ)。ブッシュ個人について、あなたはアル中か?失語症か?コカインをやっていたか?と公開書簡を出したり、政権のスタッフがいかに企業の利益を代表しているか、彼らの会社役員歴を書き、クリントン政権の置き土産のさまざまな社会保障法案を数ヶ月で廃案にしたかを羅列する。非常に鬼気迫るものがあるね。ただ語り口がユーモアだからね良い。日本でも同じ事をしたら面白いだろう。濡れたモップ髪の首相はなにをやったのかとかね。

 この種の現代風俗本はできるだけ細かい訳注があったほうがおもしろい。固有名詞はもちろん、社会システムの比較紹介や統計、貨幣価値の換算も必要だと思う。いまひとつ誰に読ませたいのかわからなかった。楽しい本なのに。
 


追悼の達人 嵐山光三郎:新潮文庫:819 

 陰気臭く黴臭い古本や雑誌に囲まれ、人様の告別式にこそこそと現われて聞き耳を立てる。そんな居心地の悪さと死人は反ばくはしない という極めて当たり前な事実に基づいて、書かれた近代文学文壇を別の角度から光を当てた作品だ。まさにアカデミズムには書けない著者ならではの独壇場だ。


 




生きるよすがとしての神話(キャンベル選集 2)  ジョーゼフ・キャンベル:角川書店:1940

時を超える神話 (キャンベル選集 1)

野に雁の飛ぶとき (キャンベル選集 3)

角川から出ている3冊のうちでは「生きるよすがとしての神話」が一番まとまっているので読みやすい。特に仏教の解説が非情にわかりやすく目からウロコが落ちる状態になる。 これを読んでからインディアン神話やギリシャ神話に飛んで行くのが良いだろう。

ここで紹介される仏教と神話の関係はアジア人には馴染みのものであって、それを再認識するのにも良い、そこには仏教世界の豊かさがキリスト教文化圏の作者から丁寧に説明される。作者も仏教世界に深く共鳴しているし、講演をまとめたものなので内容がこなれている。
 


情報エネルギー化社会現実空間の解体と速度が作り出す空間  ポール・ヴィリリオ:新評論:2400

 本書は著者のものとしては古く、またインターネットの普及前なので、その記述はもちろんない。湾岸戦争からの考察に多くが費やされている。そこにはメディア化による情報操作の歴史が書かれている。
 「メディア化はコミュニケーションの対極にある」という発言にあるように、メディアに対面して情報を多く取得すればするほど、コミュニケーションとして人と向き合うことが少なくなると言う。
 実はインターネットやメールはコミュニケーション・ツールのように思えて、実はメディア化のツールではないだろうか。作者の定義するメディア化の進化の形としてはそう分類するしかないと思うのだが。メールなど相手に電話すれば済むことなのに、メールにするのは、コミュニケーションをメディア化しようとする心理の流れではないだろうか。深層にはコニュニケーションは成立しない、ただメディア化することによってしか、人とは繋がりあえないという、ねじれた想いがあるのだろうか。うーんよくわからん。
 
 
 
 
 
 


武満徹著作集3   遠い叫び声の彼方へ 時間の園丁 夢の引用  新潮社:5000

 この人の映画作曲家としてのデビュー作は『狂った果実』。やたら映画が好きでかなりの本数を観ていたらしい。映画について岩波の「世界」で連載されていた記事があるが、直感的にわかっているのだが、言葉にすると硬直したものになる文章がある。 1980年頃のものだが、蓮実用語が使えたらもっと自由になれたのにねといまは思う。
 かれの映画作曲の考え方は、音楽を付けていくのではなく、音を減らして行く。セリフや現実音を生かし音楽が邪魔しないようにするという。ワカッテイルではないか。
 すべての通俗性を廃し、何をか生み出そうとして行くかれの文章はやさしい。しかしどこかで戦後日本作曲家の代表となり、政治的発言を繰り返さねばならない部分があったのだろうとは思うが、そういう発言はつまらないのが多い。
 残念なのは小沢征爾型というよりは大江健三郎型に分類されてしまうことだろう。文章を観読む限りはワカッテイル人なのだが、かれも冷戦以降を乗り越えられなかったのだろうか。
 
 


小沢昭一的東海道ちんたら旅 小沢昭一 宮腰 太郎:新潮社:629

 東海道も‘のぞみ’で行けばわずかに2時間。しかし天下の偏屈モノ小沢氏は各駅停車で参ります。名所はパスして脱線して忘れ去られた歴史や伝説の跡を巡ります。もちろんアッチの方面の名所旧跡も忘れずに。旅のお供に鉄道唱歌と古い東海道のガイドブック。お馴染みラジオの小沢昭一的こころ活字版。クスリと笑わばまた楽し、ワハハとなれば電車内では気味悪がられるのでご注意あれ。
 
 
 
 
 
 
 
 
 


小沢昭一的流行歌・昭和のこころ 小沢昭一 大倉 徹也:新潮社:1,700    

 藤山一郎にはじまりひばりに終わる昭和の歌。湿っぽい理屈の唄は歌いません。いまやただただ明るいこんな唄は無いとは言いませんが、気軽に口ずさむという感じじゃありませんな。灰田勝彦の野球小僧なんて名作だと思うんだけど。プロ野球も大リーグの真似して “TakeMe Out To The BallGame”ではなくこの曲をぜひ7回裏の攻撃のときに流して欲しいです。
 
 
 
 
 
 
 
 
 


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