映画2003


キル・ビル
クエンティン・タランティーノ
ワーナーマイカル熊谷

デビュー前のタランティーノの目標はビデオ公開されるようなB級な映画を作る監督になることだった。その夢は『レザボア・ドッグ』にハーベイ・カイテルが出資してメジャー作品になることで潰えた。『パルプ・フィクション』でカンヌ映画祭グランプリにアカデミー脚本賞を穫り、『ジャッキー・ブラウン』では大人のドラマも撮った。ハリウッドではいまだにダラダラなヲタク喋りで笑って人を撃ち殺すだけのタランティーノ現象が席巻していた。本人はどこかで見えちゃったんじゃないだろうか。「あーこのままどんな作品を何本撮ってもまたいつものタランティーノ映画だねえと言われ続け、何十年か後にアカデミー功労賞を貰うだけなんだろうな」と。だったら絶対に他人には褒められないような、自分のための自分の初心に忠実な映画を作ってやろうと思ったのだろう。
それがアナーキーすぎたので、みんな唖然としたと思うよ。ハリウッドがB級ビデオ映画に乗っ取られたんだもの。映画史ではありえないことだよね今まで。ロジャー・コーマンのところ出身のスコセッシらは、そこからいかに出ていくかが命題だったが、それを顕揚しようという人間はいなかった。いてもパクリじゃんで終わってしまった。ハリウッドでどんな企画でも通せるだけのチカラを持った男が選んだものが「これ」だというのは、はっきりいえば病んでいる。ただ商売にしてしまうハリウッドのカネとタランティーノのセンスは分けて考えなければならない。
ふと思うのだけど、この映画はオリバー・ストーンの『ナチュラル・ボーン・キラー』に映像のテイストが似ている。撮影監督と脚本家が同じというなのもあるけど。タランティーノの演出力はモンタージュのそれではない。だから過度に残酷シーンやフェティシズムの部分がイヤなほどに目立つのだ。表現がナマだということでもある(下手とも言うが…)。 その部分からは本気でカンフー、ヤクザ、マカロニが好きだと言っていると言えるだろう。問題はそのヘンなビデオばっか観ているだけでなく、センスの良い音楽も聴いているという部分だ。曲と合わせる場面の選択が素晴らしいのがタランティーノであってこれだけは他の誰にもできない。よく考えると音楽が鳴りっぱなしだったことに気付く。極端なことを言えば、タランティーノの好きな、へなちょこなアクション映画を再編集して音楽だけバンバンにリミックスしたらそれなりに観られる作品になると思うのだけど。そこまでいくと既に映画では無く単なる個人の趣味になってしまう。そうだね個人の趣味で映画を撮ったということだねえ、それがハリウッドという工場で作られているからわからないんだけど。「究極の個人映画、みんなが一度は妄想するができたものはいない」だと思うよ。

『キルビルVol.1』について、つまらないというのは簡単なことだ。なぜならこの映画の元になっている映画的記憶(死語!)は、知らなくても良い映画史の知識な訳であって、逆にこんなこと知っていると趣味の欄に躊躇無く"映画鑑賞"と書ける映画大好きじゃなくて、映画秘宝しか読まぬヲタクとバレてしまうだけだ。
別の言い方をすると、「やっぱさ、タランティーノはB級だけど新しい才能で最高だよね」などと誤魔化しても、「元ネタは良く知らないけど映画的に面白くはないね」と評論しても、その人がどういう映画とビデオを観てきたかがすぐに分かってしまうというオソロシイ踏み絵なのだ。
でもホント徒花映画が好きだよねえ。まさかこんな映画を嬉々として作る人間が出てくる日が来るとはねえ。敢えて書くと、元ネタの70'映画群って、作り手たちが作りたくて作っていた映画じゃないのに、出来上がったらオモシロカッタという、偶然の(やけくそともいう)作用みたいなものだと思う。だから子供の頃にはじめて観たらびっくりしてトラウマになるが、オトナが冷静にいま観直しておもしろいかというとそんなことはないだろう。さらに言うと、それらの元ネタは作り手(タランティーノ)の楽しみにはなるが、観客のたのしみになるとは限らない。監督はココロザシがものすごく低くて、自分のオリジナリティなど何一つ考えていない。期待しているタランティーノ印はどこにも存在していない。それでも映画は出来ている。これをなんといえば良いのか?タラの新作か、単なるパクリか、それとも妄想なのか。
この映画を成立させているのは、ある時代の徒花映画の再現であり、個人の短い年代の映画のトラウマ体験の再現だけなのです。 これは最初から何一つ新しいことをしようとしていない、最初から行き詰まっている映画なのです。そのことを前提として作っているため、評論も作家性も拒否している映画なのです。もっと言えば、大衆娯楽である映画の一般性を否定しているのです、と書くとまた話は戻って、これは映画なのか?という問題に行き着くのだけど、感じる過去のブルーな時代を思い出させるイヤーな映画らしさは何に起因しているのか。私と違う世代はどう感じるのでしょうか、気になる。
もし、レンタルビデオを自分の好きに繋いで、音楽を勝手に付けたら、こういう感じになるのか?才能は別として個々人のトラウマキルビルはできるのだろうか。
なにはあともあれ、これは"映画"なんだよね。そういう匂いがプンプンするの。映画のふりをしているなんか別の大きなDVDみたいなのが多いなかで。これだけ、CGだPVだの誘惑があっても、環境としての映画館を意識して作れたのは大したものだと思う。それは舞台が日本だから邦画チックな部分が多いのでそう感じるのだけなのか?タラの他の作品じゃ全然そんなこと感じなかったからね。


インファナル・アフェア
アンドリュー・ラウ/アラン・マック
ワーナーマイカル熊谷

映画の話法における電話の居心地の悪さは、電話が同時間に離れた空間にいるというサスペンスをカットバックという手法で無効化してしまうことにある。現実では見えない相手との距離がサスペンスを作り出すが、映画ではモンタージュで空間が繋がるために、そこには安堵感しか表れない。逆に言えば映画では電話はむしろ繋がらないあるいは出られないという状況がサスペンスを作り出す役割であった。瀕死の男が電話をするが、なかなか相手が出ないという引き延ばされた時間が緊迫感を生み出す電話の役割だった。
しかし現実はそんな映画製作者たちの悩みを無視して、携帯電話というものを作り出した。いつでもどこにいても繋がってしまう、時間と空間の不在を埋めてしまう不届きな代物である。これによって、距離を越えたサスペンスというものが成立しなくなってしまった。観客は映画館で「ケータイでアポとりゃいいじゃん」という身も蓋もないツッコミをするだけで良くなったのだ。
描くのが難しいから現実にあるものを無視するというのは正しくない。この作品が画期的なのは、携帯電話を映画の物語の中に深く位置づけることに成功した希有な例だからだ。その周到なタッチをこれでもかと畳みかけるのには唸ってしまう。
オープニングの麻薬取引の部分をどういうサスペンスで描くのかと思っていたら、あっさりと互いの敵方に内通者がいることを明かしてしまう。これには驚いた。最近の映画では、みえみえの潜入捜査なのになぜか相手に気付かれない、そんな作品ばかりなのに。ここで大胆にネタ明かしから入るとは、シナリオの完成度に対する自信の現れを見せつけられる。しかもネタ割りから入るので、観客は徹底して、互いの内通者に感情移入することが出来、また彼らの知恵比べを楽しむことができる。このシーンで重要なのは、アンディ・ラウとトニー・レオンは互いの存在を知らずに、その場所を動かないままに片方はモールス信号、片方はパソコン通信を使って、相手に決定的なダメージを与えようとする。伝言される間接的な情報を基に刻々と変化する状況を打破していく。ものすごい知的なゲームだ。
また互いに運命から逃れられず、鏡合わせの存在となった二人が唯一自己証明できるのが、匿名ではあるが確かに存在する方法、それが携帯電話なのだ。
故に携帯電話が物語を進める重要な要素となり、もうひとりの主人公格を得る。そのおかげでいくつかの不自然な設定、着信履歴を見れば、アンディ・ラウが裏切り者だということがバレるはず、などは気付かない。
しかも恐ろしいのは、電話で話した相手と会って一気に距離を縮めたとしても、それが何の解決にもならなかったりするところだ。逆にそれにより互いに自分に対する引き金を引くことになる仕組みさえ持っているのだ。
さらにシナリオが巧妙なのはそれぞれを操る者が介在することで、彼らがゲームのコマとして消費されることがはじめから観客に理解されるところだ。彼ら自体が携帯電話のように使われ、やがてどうあがいても行き止まりな運命しか与えられていないことに気付くというすごいシナリオなのだ。このストーリーは如何にして自分が破滅していくのを回避して遅らせることができるのかというふたりに仕組まれたゲームなのだ。
 そしてそれを支える役者たち、あえてスターというが、彼らの存在があって映画が成立する、その説得力を未だに持ち続ける香港映画がうらやましい。


花弁の忍者桃影 忍法花ビラ大回転
中野貴雄
ヴィデオ

「里見光太郎がまだ水戸黄門だった頃、江戸では万華教と呼ばれる邪教が流行っていた…」という脱力する素晴らしいナレーションに、江戸城をバックに大蝦蟇が現れ、勇壮な音楽とともに物語ははじまる(いや、単に手にはめたカエル人形なのだけどね…)。
網タイツにバニーガールの耳という何の必然性もないが、こーでなきゃいかんというひたすら正しい、くノいちコスプレ。明らかに現代であるのだが、江戸時代の設定の東京ロケで、忍び込む相手の館のオフィスにはパソコンが導入されており、密書のデータをフロッピーにコピーして持ち帰ると言う、定番の指命を果たさんとすると、やっぱり敵のセクシーなくノいちが現れて、くんずほぐれつな世界に入り、もう物語はどっかに行ってしまうのだが…。とりあえず、なぜかビデオなのに、CMタイム前の♪「花弁の忍者〜桃影」というよくあるポーズ入りのワンカットが挿入されたところで、いきなり場面は変わって行く。やっぱ忍者といえば、オッチョコチョイな後輩やデキルあこがれの先輩がいるのは、赤影やカスミ伝でのお決まりなのでそこら辺もフォローされている。痛いところに手が届くサービスなのだ。もちろんエロの期待にそぐわず、物語の流れを止めても入るという正しいつくりになっている。
何があろうが、中野作品の好きなところは、どんなにベタな定番なことをやろうが、それが半端なパロディとか、なんちゃってのスカした態度ではなく、きちんとやればまだまだ奇天烈な話を展開できることを信じているところなのです(きちんとというのはクソまじめということではない)。まあその匙加減がセンスなのだと思います。



チェチェン・ウォー
アレクセイ・バラバーノフ
ヴィデオ

すごく渋い派手さの欠片もない戦争アクション映画。
チェチェン紛争で捕虜となったシベリア出身の若い軍曹と人質になった男女のイギリス人。身代金を作るために女を残して彼らは解放されるが、政府の非協力となかなかカネが集まらないままに日にちが過ぎ、最後は二人だけで完全武装で敵陣に乗り込んで行く。
淡々としてモンタージュも音楽もまったく誇張もなくひたすらエピソードで進んでいく。そのひとつひとつがリアルなのかはわからないが、まったく観たことがないのは確かだ。いくらでも誇張して派手に描けるのに確信的にそうしていない。
チェチェン人ゲリラのクルマを襲撃するシーンの暴力の度合いはものすごくキツい。あと捕らえた地元のチェチェン人羊飼いを殴打するシーンなども。描き方のエグさでいえば、ハリウッド製のほうが派手だけど、それとも違う怖さがある。ただただ描かれているんだけど緊迫感が溢れている。なんでしょうなあ。様式美や映画なんだからという検閲コードからはみ出ている恐ろしさなのかな。北野武のようだ。いや、海外配信ニュースで見られる眼を背けたくなる映像のようだ。
最初から最後まで非情なシーンだけで出来ていて、だれも英雄然とした行為は取らないし、打算的だ、何の救いもない。ただ殺伐としている。
テッド・ポストの『戦場』とか、あの辺りの暗さといえばお分かりいただけるか。
個人的には、攻撃ヘリMi-24ハインドが何機も低空飛行したり、曳光弾の描写や手榴弾爆破のリアルさとかが豪勢で良かった。
監督がずっと観たくてしかたがないロシア版『仁義なき戦い』らしい『ロシアン・ブラザー』の人だと見終わって調べたらわかりました。あと『フリークスも人間も』撮っている若手監督。
未公開ビデオ・スルーにはもったいない。ロシアでは大ヒット作だったらしい。


バイオ・ハザード
ポール・アンダーソン
DVD

お薦めのコメンタリーのミラちゃんの暴走に爆笑でした。プロデューサーが「このカットはデジタル処理で…」と言っているのに、「そんなことより、私の乳首は見えた?」とか「映画を観てないで、コメンタリーを先に観たら、ネタバレされても当然の報い!」酔っぱらっていたのかね?
それにミッシェル・ロドリゲス姐のツッコミが冴える。「これは低予算で良くやっているけど、ハリウッド映画は余計なところにカネがかかりすぎるわ」「アメリカの芸能界の少女は毒されている」「マトリックスは『攻殻機動隊』以外にも「and the Truth shall set you free」って本の影響があるよ」
監督のポール・アンダーソンはヲタク炸裂で「ここはゲームと同じアングルにしている」「『CUBE』に目配せをして、シャレで賽の目切りにしたんだ」「これは不思議の国のアリスだよ」と本人の中で完結しているネタを得意げに言いまくる。ミラとはバカップルで良さそうですな。たぶん普通に映画の話をしたら楽しい人だと思いますよ。『エイリアンVSプレデター』は期待しない分だけ、期待を裏切らないものは作れそうです。
映画は、薄いけど元のゲームの好きな方の期待は外していません。それ以上でも無いけれど、そこがアンダーソンなんだけど。

ボーリング・フォー・コロンバイン
マイケル・ムーア
ヴィデオ

ドキュメンタリーがあるがままの事実を撮るだけとか、撮ったままをそのまま繋いでいるなんて信じているナイーブな方はいないと思う。
このような確信犯の映画を、どう思うかが第一の問題であり、それを是とするかが第二の問題。で描かれたことを観た己自身がどう思うかが第三の問題。この三つを同じと考えるのも良いだろうし、相対的な批評が好きな方は映画と事実は別ものだからと安全地帯からほざくのもよいだろう。
まあ良い映画でしたといえば済むことなんだけど、でも最後にチャールトン・ヘストンのところに行くシーンは要らないね。あそこがないと映画としてはオチがないことは確かだけど。無理矢理言わしているインタビューみたいでヤだった。あんなことをしなくとも、コロンバインの犯人たちの個人像に全く近づかずに銃社会についてアプローチ出来ているのにね。マイケル・ムーア自身が出演して進めていく構成が、ここでは逆に首を絞めたようだ。ユーモラスに進行するためのデブのオッサンだったが、ラストにどうしてもVS悪の象徴みたいになって、善VS悪みたいなハリウッド的なわかりやすさに陥ってしまったのは、策士策に溺れるというやつだね。
そんな分かりやすい構図や対立を煽るのがこの人のやり方じゃなかろうか。ケンカ殺法としてはオモシロイのだけど、非常に誘導的でもあるね。それに乗るか乗らないかじゃないのかな。私はあまり乗れなかった。ダラダラ描いていて最後にああいう風に持っていくのはねえ。そのために所々にライフル協会を小出しにする構成を作っているのは気に入らない。最初に結論ありきなところが正義漢めいている。いわばプロパガンダ映画の手法だよね。
どうしても取り上げている題材が過激だというところだけに目がいくが、これは典型的な欧米型のドキュメンタリーだと思う。マイケル・ムーアはアカデミー賞のスピーチでも、フィクションVSドキュメンタリーについてのレトリックなんかを使った内容を喋ったけど、ある意味まともで伝統的なアプローチの人だと思うよ。ユーモアにしても内容はともかく、センスがちょっと古いんじゃなかろうか。だってこの映画が1973年や1980年に作ったと言われても違和感無く納得すると思う。ドキュメンタリーの作りとしては新しさはない。NHKの番組とかに慣れていると、あの早さが特別に思うかもしれないが、アメリカだとあれが普通だと思う。余韻を残さない編集と音とうまくタイミングを合わせるところなど。
ロングランとかしちゃったから、細かい点が気になるのかもしれない。けれど911が無ければ、山形でしか上映されないんじゃないのか。それほど刺激的な映画を作る人ではないと思う。


ピーウィーの大冒険
ティム・バートン
DVD
いま観ると結構、ポール・ルーベンスはアブナい。どう見てもやっぱ変質者にしか思えない。ティム・バートンも危うくルーベンスの磁場に引き寄せられそうになったのではないか。永遠の子供の無垢と残酷さを備えたオトナはどう考えてもヤバい。昔はピーター・パンで済まされていたものが、いまじゃマイケル・ジャクソンだからだ。
それが犯罪に行くか、エンターテインメント(芸術)に行くかの分かれ道は時間の問題だったのだと思う。バートンが抜け出して、『ビートル・ジュース』、『バットマン』へのメイン・ストームを大人との和解を擬態することで進んだのとは反対に、ルーベンスは刑務所へと行くはめになる。
望まれずこの世に生まれ見捨てられたまま大きくなってしまった子供というのが、バートンの変わらないモチーフだとしたら、スクリーンのなかだけでなく実世界でも体現してしまったのが、ピーウィー=ルーベンスだったのではないか。そんな彼には敵わないと思ったバートンが、成人映画館で下半身露出していたルーベンスを警察に通報したに違いない。バートンは彼に嫉妬とともに恩義を感じて、自作に再び出演を乞い映画界への復帰を手伝ったのではないだろうか。


ブラッドワーク
クリント・イーストウッド
DVD

特典のメイキングはネタバレしているので、本編を観終わった後にどうぞ。
おそらくハリウッドで、ということは世界中でと同じことだが、一番自由に映画を作っているイーストウッドの選んだ美学は、役者の顔に影を落とすことで、作り物のウソくささを回避する画面作りだった。
それはアメリカではインディーズ映画、一度は映画の黄金期を迎えたことのある国では、リアリティの追求として当たり前のことだけど、メジャー映画会社の重役が見たら「顔が見えんじゃないか!」と卒倒するだろう、彼らの地位とアイデンティティを崩壊されるに十分な爆弾だ。
かつての撮影所システムとしては常識ですけど、このようなアホらしいことが、現在ふたたびハリウッドでは起こっているような気がする。ようするにきれいに照明を当てて、露出を絞ったシャープな映像を作らないと商品にならないということ。まあそのお陰でいまも黄金期の映画をDVDで美しく観られるわけではあるが。もっともその反発がアメリカン・ニューシネマへと行き着いたわけで。
ヨーロッパ型自然光照明がハリウッドをも席巻したのは、ネストール・アルメンドロスやヴィットリオ・ストラーロなどが輸入された1980年代だったが、シネコン、DVDソフトの普及やCGとの合成やCM、PV出身の商品撮影に長けた者たちの進出によって再び、映画=商品価値(コンテンツ(笑))の考えが幅を利かし出したように思える。
イーストウッドは映画の完成度のために照明の数を減らした。(低予算のためではない、…たぶん)。
撮影にいつものジャック・N・グリーンではなく、彼の照明技師だったトム・スターンを抜擢している(これがデビュー作で次作の『ミスティック・リバー』も担当)のにも理由がありそうだ。調べるとグリーンとのコンビは解消したようです。
いまのイーストウッドの求める暗さは、『ペイルライダー』のころのブルース・サーティスがつくり上げた闇とはまた違う。高感度フィルムの特質を生かして、外光と区別がつかないほど自然なライティングを駆使したものだ。それでいながら画面がのっぺりしないのは、役者の顔に影を落としているためだ。その試みはほぼ完成したように思える。また廃船のシーンでの暗闇の照明とも、違和感なくうまく繋がっているようにも思える。さりげなく美しい画面を作れるセンスは、他に誰も思いつかない。
まあ老齢のために走れないので、アクションシーンはカット割りが細かくなり、リズムが性急になるという難はあるにせよ(スタント・コーディネーターは懐かしや、子分のバディ・ヴァン・ホーンだ!)、クルマを散弾銃で撃つシーンは、あまり興味のないはずのアクション描写も少しは巧くなったのねと思えた。
またマーケティングのために、人口の多いヒスパニックを取り入れたりする潔さもあいかわらずだ(特典映像でヒスパニック系の役者によるスペイン語のインタビューがある)。商売人と政治家と映画監督と俳優のバランスが取れている珍しい人だねえ。 相変わらず隠れていて突然、卑怯にも相手の背中から撃つしね。基本的に受け身なのだが、それでいて相手を必ず出し抜くゼッタイに正しい男だしね。イーストウッドと誰かが会話するときの切り返しでは、目線の切り返しではなく自分の背中を入れ込むという謙虚なんだか出たがりなのだかわからないカットが目立つ(要するに後ろ姿が多いのです)。
そんなことはどうでも良い。ドーナッツをむさ苦しい三人の男たちが食べるシーンを、こんなに魅力的に描ける人を私は知らない。役者の演技を引き出す無駄のない演出力は観ていてうっとりとする。特に引いた構図で複数人が演技するときなど、「映画だよこれが」と当たり前のことを再認してしまう。手の動き、ちょっとした仕草や間の取り方で、一歩間違うとステロタイプになる貧乏さや黒人、メキシコ人、アジア人の描写が、それを奥行きの深いものに変わる手腕に唸る。
原作本の『わが心臓の痛み』を先に読み終わっていたけど、映画の方は後半ストーリーが変わっています。良き脚色だと思います。
メイキングでは、本編にない会話が出てきていたので、かなり無駄口をカットをしたよう模様です。それでも2時間あるのですなあ。ストーリーを追いかけられるぎりぎりの省略ですね。映画で意味がわからなくなって、あっさりと描かれすぎているなあと感じる部分は、ちゃんと書き込まれています。FBIプロファイラー対連続殺人鬼というちょっと前の流行りの設定であるけど、後半に明かされる非情なテーマのお陰で陳腐さを免れています。


ストーカー
マーク・ロマネク
DVD

ロビン・ウィリアムズが悪役をやったという作品。監督はPV界の有名人らしいですな。40歳代で『タクシードライバー』のような70年代の暗い映画にしたかったと言っていた。
郊外にあるスーパーマーケットの一時間現像の孤独な店員のロビ公は、裕福で幸せな家族をストーカーする。
家族の色彩はカラフルで標準レンズ、マーケットは、白く虚しく明るく広角レンズ、ウィリアムズのまわりは暗く、孤独を示すために望遠レンズにしたというが、公式的すぎる、確かにマーケットの照明はおもしろい(『ファイトクラブ』と同じ撮影監督)。だがこの公式から外れた屋外の撮影は悲惨、フィルターでつぶして非現実感を出そうとしているのだが、よく見えないだけ。んならはじめからシナリオでシーンを変えれば良いのにねえ。
家族のスナップ写真がカラフルすぎて気色悪い。色がたくさんある=楽しい=幸せ、という公式はどうかと思う。ケバケバしいPV的な発想だ。で思ったんだけど、このレインボーカラーの使い方はゲイ関係の人じゃないかなあ。どこにも書いてないけど、ヒゲ面で黒い襟の無い服だったり、プロデューサーが『ベルベット・ゴールドマイン』『ベドウィック・アンド・アングリーインチ』なんだよねえ。
ロビ公もねえ、ロビ公で無くてもいいんだけども、ロビ公がやるから映画として商品価値が成立するようなものだし。喜劇人が悪役やればそれなりにおもしろいのは自明だし、それ以上の捻りが欲しいところ。まあ最後に理に落ちる卓袱台ひっくり返しがあるし…。(それが彼が悪役を受けることができた理由だけどね)
でも観るとおもしろいです。なぜか日本のアニメやキャラものがたくさん登場したり、金持ちはMacG4でベンツ乗ってブランドもの着ていて、ロビ公は銀縁めがねでダウンタウン(下町)のぼろアパートで中古の日本車というベタな描き方の、風俗描写が正しいかどうかは別として細かい部分が結構好き。
照明をマーケットの白い壁に合わせ、ウィリアムズのメイクをレッドネックの赤ら顔にしたのは、大したものです。スターをこのように撮るのは普通これはタブーじゃないのかな。


ピストルオペラ
鈴木清順
DVD

冒頭いきなり、ふっくらとしたジュリーのアップが、画面いっぱいに。「ああ、スタンダードじゃないか」とちょっと驚く。映画館に行かなかったのは、予告を観て『カポネ大いに泣く』の記憶がよみがえったからでして…。でもDVDで観た本作は面白かった。ただ劇場だったらいたたまれない気分になったかも知れないなあ。
その意味じゃ鈴木清順はまさに撮影所付き巨匠なのだろう。自分のやりたいこともわかっていて、セットの作りやキャメラの位置も読めてしまう。ただ予算が無くともそれを誤魔化し回避する術を使わない頑固さがある。
だから観客は、必然的に日活以後のすべての作品に対して、日活の撮影所のシステムを使って作ったらどうなっているかを想像しながら観なくてはいけない。ロケセットであろうと、ホリゾントだけのスタジオだろうと、そこに木村威夫が作ったであろうセットを想って観ないといけない。これは観客の義務なのです。ありとあらゆる画面に日活時代のあの硬いフジカラーで日活スコープを幻視しないとならない。そういう意味じゃDVDは七難隠すちいさなスクリーンですな。
前田米造の色の濃さと昔ながらのシャープな照明は良かったです、被写体のテカリ具合が人工的でなかなかヘンな感じが良く出てました。
江角マキ子のタッパがあるので映えますな。清順映画のヒーローの格好良さとヒロインの強い部分がうまく溶けあって、無国籍な感じが出てたと思います。続・殺しの烙印にしては宍戸錠がでていなかったのが不思議です。なぜ足の短い平幹二郎だったのか。 やー『カポネ』は観直したらおもしろいのかな?


過去のない男
アキ・カウリスマキ
吉祥寺ジャブ50

カウリスマキはそれほど観てないんだけど、『浮き雲』を観た時から気になっていたのは、視線で繋いでシーンを作る巧みさ(というか健気さかな)、もさることながら、手の使い方がものすごくうまいことですね。画になるのです。タバコを持つ手、土を掘る手、人に触れる手がすべて格好良いのですね。これに比類するのは、ハワード・ホークスかドン・シーゲルでしょうね。シーゲル映画で男たちが歩く時の手のぶらぶらさせかたは、例外なく格好良い。『ダーティ・ハリー』のイーストウッドと『テレフォン』のブロンソンが同じだったので「こりゃ演出だな」と思いました。
ハナシが外れましたが、手といえばロベール・ブレッソンになるわけですが、ブレッソンの手はただヤらしく、即物的なんですね。極端にいえばポルノのようなもんです。どうぶつ観察記といったほうが無難かな。
そこが、カウリスマキが似たようなスタイルと言われているが、観た後味の差なのだろうかな。
ストーリーはシンプル。やー久々にSFX以外で女性の皺くちゃ顔を観た。その伝でいえば、ハリウッド映画に侵されているなと感じたわ。若者は出てこないし、カネのかかったものは何もない。それにも既に違和感を感じる自分がいてしまうことも確かだね。 後クレジットで撮影キャメラがアリフレックスBLU、録音機材がナグラ、編集機がスタインベックという、アナログ機械が並んで、唐突にスシが出たのと同様に、ちょっとびっくり。
「ハワイの夜」もそうだけど、あまり画と音のシンクロに力入れてないね。音楽は後で選ぶんだろうか。画のリズム優先の人のようですな。ちょっと気になる。
関係無いけど、やたらみんなタバコを吸うけど、食べ物にも困っているのにそんなカネあるのかなあ。それでもクスリに手を出さないのは何故か。値段の違いなのか。


ズーランダー
ベン・ステーラー
ビデオ(日本語吹替)

オマケの特典映像、主役のファッション・モデル、ズーランダーについてのフェイクドキュメントをテレ東の「流行通信」チックに遊んでいるのが面白かった、以上。
…では芸が無いですのでちょっと書くと、男性スーパーモデル、デレク・ズーランダーが、黒いファッション業界の利益のために、子供たちを廉価な下請け労働から守ることを公約に掲げたマレーシアの首相を暗殺するように洗脳される。モデルは殺し屋としては最高なのだ、なぜなら彼らは有名人に近づきやすいし、言われた通りにしか動かない、もっとも重要なことは彼らは何も考えないバカだということだ。
というアイディアはちょっと惹かれるでしょ。でもさあまりにゆるゆるで泣けてきたよ。全然笑えないの、(悪のファッションデザイナーの前歴はちょっと笑えたが)、ホントこんなんで良いの?とゆーかさ、これはApple社の予告編サイトに死ぬほど転がっている、日本では絶対に公開されない類のアメリカの典型的なファミリー向けコメディじゃん。素晴らしく、登場人物たちが状況と展開を全部説明してくれるので予想が付きすぎて笑うタイミングもない。しかもこんなオイシイ状況なのに下ネタもホモネタもないのだ!まあアメリカ人ならこれで良いのかもしれんかもなあ(註:差別発言)。
思うんだけど、さいきんの米国製喜劇って、主役が格好良く知恵遅れ的幼稚な設定だけど、正義感あふれるイイ奴で純情なので最後にはすべてうまく行き、敵は単なる間抜け、という構図が多い気がするんだけど。つまんないビートたけしのギャグにお愛想笑いするたけし軍団のようで気持ち悪い。
コメディの主役は、バカで子供のように邪悪で破壊的じゃないとアカンのよ。お子さまの一面しか捉えてない偽善的なキャラばかりでさ、しかも自分は全くカラダを張らないし、芸を見せない(持っていない)とんねるずのようなもんだ。客に「バカだねえこいつは」と笑わせるんじゃなくて、「おバカやってるんだわ!笑わなくちゃ損よ」と笑わせてもらうんだというフザケタ価値観を植え付けた奴は誰だ!
どさくさまぎれに書くけども80年代音楽の使い方も最悪、面白くも何ともない。好きで使っているのかバカにして使っているのかさっぱりわからない。ジョルジオ・モロダー、シンセサイザー・サウンドの千本ノックを受けて来い!


アカルイミライ
黒沢清
ヴィデオ

ごめんよ、わかってて観る私がすべて悪いのです。しかし安い映画だなあ。その安さを隠そうとも努力しないところが、客をナメとんのかという代物。
すごい低予算というのはもわかるけど、そのために同時で回して、アップ用にDVの画をはめ込むというのは如何なもの。一体全体どこにカネがかかっているのかわからん。レンズに水滴がつくようなカットをNGにもせず、人留めのスタッフの映り込むタイトルバックを延々と流したりするのはどうなのかねえ。撮り直しもせずに、そんなところで時間を稼いでみても仕方ないのに。ビデオは回してなんぼのものだろうが。
これなら16mm撮りでブローアップしても、フィルムレコーディングとカネは変わらんと思うんだけど(まあキャメラ、テープ、ポストプロダクションがタダというのならハナシは別だが)。
レンタル・ビデオで観てもキタナイ映像だなあ。劇場で観なくて良かった。
素晴らしく陳腐で退屈で抽象的で唐突で、登場人物が自分の思っている観念と感情をセリフで説明してくれるしてくれるシナリオ。「君たちを許す」ってなんだよ。
アラン・レネかと思ったよ、ホント。
相変わらずリアリティが無いよねえ。刑務所でバイト仲間が接見できたり、椅子や○○があったり(ストーリーばれになるので書かないが)、百歩譲っても、2時間サスペンスじゃプロデューサーに絶対に突き返される都合の良いウソが多すぎ。アイディアが足りないというしか無い。それを回避するのがプロの仕事だろうが。
『ニンゲン合格』とおなじく平坦な筋の運び。普通のプロデューサーだったら、時間をバラバラにしてサスペンスを中心に全体を組み直すと思う。最初の10分で客は帰るよ。
あと私はオヤジだけど、大学、高校生がこれを観てどう思うのかを知りたいね。こんな風にサラリーマン週刊誌のように、断罪されて腹立たないのか?
あれでしょ、最後の藤竜也は、オダギリジョーが歳を取った姿でしょ。前のシーンでは毒クラゲに刺されて死んだはずなので、でなきゃ辻褄が合わない。藤竜也と浅野のふたりとも幽霊という解釈が妥当だろうが、結局オダギリは町を出られず藤の後を次いだと解釈してみたい。まそのあたりは曖昧に描かれているのでいらいらするのだが。
象徴はあれこれ解読するのは馬鹿馬鹿しい(というか破綻している)。

ただ今回観ていて、黒沢清映画の「指示する者」と「指示される者」の関係で物語を動かそうとする構図がはっきり見えてきた。 「指示する者」は虚ろだがカリスマ性、誘惑する力があり、世界の法則を変えようとするが、自滅するマッド・サイエンティスト。「指示される者」は、だいたいがまじめで無垢な学徒。で最後に彼が指示する者を引き継ぐ。平行して彼らに反発して隠れて独自に世界の法則を解こうとする者たち(集団)がいて「指示される者」を誘惑する。彼らはだいたい最後までうまく絡まないので、途中で構図を読み解きながら観ていると物語がわからなくなる(そうでなくともか?)。
そして一番周縁にいたと思っていた「指示される者」が実は中心人物であったというのがオチなわけで、彼らの行動の規範は「指示する者」が「指示される者」から指示されるというのが、「指示する者」の「指示される者」への指示なわけで、そのように、どちらとも取れるダブルミーニングとして作ってあるので、彼らの論理の中で突如ヘンな方向に物語が進んだりするので注意がいる。
さらに複雑なのは、登場人物の役割が、なんの説明もなしに途中で突然入れ替わり、急に人格が変わってしまう。それは言い換えれば人物造形、性格設定をしていないから成り立つのだが。あるいは、みんな操り人形で、同じ人格だったりするからだったりもする。
まあ最後までその調子なので、当然観客にはカタルシスは訪れない。訪れるのは監督だけだ。
わかります?
つまり、コインを投げて勝負を決めるときに「表が出たら僕の勝ち、裏が出たら君の負け」と言っているようなものです。


ウインド・トーカーズ
ジョン・ウー
DVD

公開当時は反戦厭戦ムードでなんとなく観に行かなかったけど、まぎれもなくジョン・ウー映画。戦闘機も戦艦もプレステレベルのCGなのだけど、派手な爆発、血まみれのバイオレンス、M4カービン・ライフル銃でなくM1トンプソン・サブマシンガンとコルト・ガバメントでやたら撃ちまくる格好良さ、まさにジョン・ウー印が満載です。
最近の戦争映画では久しぶりに、小隊のメンバーの顔と性格が描き分けられているのを見たよ。ってレベルの低いハナシですね。出撃前のポーカーの試合のシーン、わずか5分ほどの尺だけでさらりとやってのけるところが頼もしい。
シナリオはあまり分かり易くなくメリハリが無いです。それに手を入れ、演出でドラマチックさを失わないように持ってきたのは大したものです。登場人物たちの葛藤と友情、対立と和解、そして次の対立という古典的なドラマツルギーがすこしも古くなっていないことを改めて証明してくれます。
『MI:2』を無かったことにすれば、ジョン・ウー健在です。戦闘シーンの丹念なカット割りはいつも通りの職人芸ですが、他のシーンは時間が足りなかったのでしょうか、ちょっと急ぎ足で撮っている感があります。距離の離れた場所のカットバックがいまひとつピンとこないのですね。なので戦争映画に欠かせないスケール感がでてこないのです。
撮影は、黒味を強調してカラーを派手にして艶を落とし画面をざらつかせる、当時のカラー記録映像を巧みに再現しています。『プライベート・ライアン』のただキタナく彩度を落としただけの映像とはひと味違います。
クリスチャン・スレーターは儲け者のオイシイ役です。ニコラス・ケイジの人物設定は難しすぎるねえ。演じられる人はそういないだろうね、説得力をもってよくやったと思うよ。


極道恐怖大劇場 牛頭
三池崇史
(DVD)
間違いなく現在の日本映画において新進気鋭であり、芸術娯楽職人芸においても最も面白く実力がある監督のはずなのに、「刑事祭り」にも「jam Film」にも呼ばれず、流行りのアイドルが出るJホラーからも距離を置かれていた(柴崎コウで撮るらしいが、R指定にならないだろうかちょっと心配?)三池崇史が生み出した、ヤクザホラー自主Vシネマ(コメディ)
いままでは「日本映画のテポドンミサイル」や「ひとりプログラムピクチャー」のマイナーな枠で納まっていたが、この作品で、何も知らないマスコミだけでもてはやされる「世界から注目される日本映画がオシャレで新しい」みたいなことを、すべてを徹底的に破壊して、同時にそのすべての要素を取り入れてしまった滅茶苦茶な作品。だって、ヤクザ+ホラー+自主(友情出演による豪華キャストで低予算)+Vシネマ、だよ。昨今のガイジン向けのあざとい賞取り用に製作される日本映画を尻目に、なぜかVシネ初のカンヌ行きという映画以上に不可解な事態となり、いまや三池は「ひとり現代日本映画界」になってしまった。
色々書きたいことあるけど、とにかく観て!DVDは、監督とシナリオの佐藤佐吉のオーディオコメンタリーが充実していて、映倫との闘いや名古屋の謎の製作裏話、三池演出や考え方がわかってお得。ちょっとしたメイキングもあり。成人指定ではなくR-15なので、自主映画少年少女には深刻に考えなくとも、なにやっても映画などはできると大笑いできて、元気が湧いてくるので是非に。
既に三池はシナリオを捩じ伏せる演出を会得したように思える。どんなものが来てもさっと撮り上げていく様は、漫画家の一番脂の乗りきったときに、毎週の連載にどんどん書いていくような感じに近い。完成して一作通しての中身としては、それほど面白くなくても各シーンがものすごく充実していて印象に残り、それが集まって成立している力強さがある。
観終わった者だけで語り合いたいですね。あー、エンディングの唄がアタマン中でループする…。
この映画の世界観について高尚な色んな例えや言葉が出てくるだろうけど、でもこれは絶対にレッツラゴンなどの最盛期の赤塚不二夫なーのだ!(断言)


デッド・コースター
デヴィッド・エリス
(ワーナーマイカル大井)

もうすぐ終っちゃうんでどうしようかと思っていたんだけど、お薦めもあったので前作を復習してから行く。
ホラーという枠組なんだけど、運命のいたずらで生き残った人が次々悲惨な死を遂げる、しかも毎回死に方が凝っているので昔のスプラッターを観てる人には楽しめます。きちんとまともに撮っているので、こけおどしのスラッシャー好きにはもの足りないかも。
低予算なのでニューヨーク郊外の話なのにカナダ・ロケしています。予告やCMでお馴染みのカー・クラッシュ・シーンは少ないキャメラで頑張って全体をカバーしている。しかも失敗しないような複数のキャメラだったり広角めのレンズじゃなく、見た目に近い標準めなので余計迫力がある。しかも最近流行りのスロー・モーションも最小限に押さえ、無駄の無いモンタージュで見せてくれる。キャメラの置く位置が的確です。撮影時に編集が出来ている理想的なアクションシーンです。ハリウッドもまだやればできるじゃん。
監督は『マトリックス・リローデッド』のカーチェイスの第二班監督したというが、あの出来には不満だったんじゃないのかな。『マト2』は一瞬一瞬の画としては格好良いんだけどね、シーンとしては完成度が低い。ストーリーボード通りでそれ以上じゃないってこと。新人監督の陥る罠だ。しかし現場の叩き上げのこの監督は、惜しげも無くアクションを繋げて迫力を増して見せる。CGもわからないようにうまく使っている。まあ切断シーンで
1箇所露骨にやっているのだけど、サイコーに笑えました。こういう非道ぎりぎりのユーモア好きです。
消化しきれていないけど、シナリオが学園ものホラーでなく登場人物を雑多にして膨らまそうとしたのは、スティーブン・キングの緩用だろう。あとは一作目と緩い関連性を持たせているので、第三作もできそうですねえ。
とりあえず大作じゃないけど娯楽作品の観たい方、ウェス・クレイヴンやジョン・カーペンターで満足できない人。『殺し屋1』まで行くとキツイけど、ああいうの好きな人。どうぞ。


チャーリーズ・エンジェル・フルスロットル
McG
(ワーナーマイカル熊谷)

ま、そういうものなので大いに楽しめます。オープニングからのフッ飛ばし方がバカで素晴らしい。『マトリックス』のマジメさを上回るアホさ加減で全然アクションのレベルと処理の仕方がオトナというかコドモというか、「わーい、こんなのできちゃった」感満点の拍手喝采のアイディアに唸ります。わたしはだらだらといつまでも勝負のつかないクンフーが好きでないので、今回、一撃で決まる矢継ぎ早のアクションが気持ち良い。
McGの「全然モンタージュなんか信じてないもんね」というカットの途中で突如スローモーションにしたり、スター映画として各人のアップを確実に入れる潔い姿勢、ここまでやればそれもスタイルとしてOKですね。(すぐに誰かが真似るだろーが)
しかし細かいネタが多い、というかわからなかったり読みきれないネタが山ほどあった。DVD待ちなのか。誰か解説してくれないかな。
最近のCG濫用のハリウッド映画は実写と色を合わせるために弄りすぎてどうもプリントが良くないカンジがするんだけど。地方と都内じゃ、映写状態はシネコンの方が良かったりするけど、プリント自体は都内有楽町あたりの方がきちんときれいに焼いたので上映されているんじゃないかなあ。オリジナルネガから作るDVDレベルの色が劇場で再現されているのだろうかという疑問なんだけどね。モトクロスのシーンが合成の画質が合ってなかったりするんだけど、まあいいやオモシロイから。
でもメイクのせいか、アップが多すぎるせいか、顔の疲れが3人とも出ているんだよねえ。ごまかせなかったのかなあ。各人の専属メイク係りに監督が指示できなかったのだろうか。ストーリーもいつかまでも三人一緒にできるかという、ちょっと切ないハナシでもあったし、若さか艶っぽさかのどちらかを強調したらいいのに、もう少しどうにかならなかったのかな。
予算で言えば、テロ後のせいもあるだろうが、地元ハリウッドロケばかりで、カネがそれほど掛っているふうに見えないのはギャラに消えたからか?


マトリックス・リローデッド
吹き替え版
ウォシャウスキー兄弟
(ワーナーマイカル熊谷)

吹き替え版にしたのは、ちょっと前にテレビでやっていた前作のハナシがわかりやすくて良かったんだけど、今回どーだろうか。喋りの情報が多すぎて却って疲れた気もするんだけど、字幕はどうだったのかしらん。あ、それから 『アニマトリックス』 の「セカンドルネッサンスPART1、PART2」を観ておいた方がお話はよくわかります。
ハッタリシナリオ命のウォシャウスキー兄弟としては、一本調子のシナリオでドラマが空中分解しすぎ。というか途中で気付いたんだけどこれってまったくのRPGの構造じゃん。しかも初期のドラクエ。でゲームバランス悪すぎ。話の核になっているメタファーは今回コンピュータの仕組みだし、理系じゃないとどうしてこんな展開になるのかわからないんじゃないの。大体アーキテクトなんてだしたら救世主とキャラがダブるからいらないし、あんなどこでもドアは陳腐過ぎ。フランス人とモニカ・ベルッチは何の為にいたのかもわからん(目の保養だから良いけどさ)。双子もなあ、何の役に立たないボバ・フェットのようだし。ザイオンは猿の惑星のスタートレックみたいだ。教えられて訊ねる相手がみんなマトリックスのことを知っているので、現実と仮想の境界の重みが無いし、みんな都合よく説明してくれて協力して案内してくれる。陶嬢人物の役割が最初から最後まで成長しないというのはイカンではないのか。前作にあった生きて元に戻れないんじゃないかというサスペンスがないんだよね。キアヌはカツアゲされた中学生のような格好で悩んでいるだけでアホ面過ぎ。その割りには意味深長にだらだらと説明された謎がすぐに理解できるのはなぜか?観ている観客としては預言者やアーキテクトの説明がわかったかというか納得した?よくわかんらなかったぞ。
そしていつの間にかキーパーソンになっているスミスは、隠し事が多すぎてなんだかわからん。なんでどこでも出てくるの。映画一本引っ張っても解けない謎というのはアリ?あれなら何百人のスミスがザイオンに入り込んで皆殺しにするPKディックみたいなシーンを作れば面白いのにねえ。というかザイオンのシーンって必要なの?(次作への引張りかな?)
あとヒーローものの禁じ手である、空を飛べるようになるのもねえ。すべてが台無しだよね。誰にも明確な弱点がないから「お前はただの人間だ」とネオに言っても説得力無いし、何人エージェント・スミスが出てこようと盛り上らない。香港クンフーアクションの通りなので、いつまでも決着が付かず最後にはいつも飛んで逃げるというのはどうよ。飛べるなら悩んでないでさっさとお前が全部やれと思うわな。
カーチェイスは撮影と編集が雑過ぎて、いつものジョエル・シルバー印になってしまった。まあ30才代の監督に求めるには酷だけどそれなら周りを固めないとねえ。アクションシーンは全部各アクション監督とコーディネーターにカット割りまでお任せなカンジがして骨がないんだよなあ。なんで前作のオープニングとかヘリでの奪還のようなスタイリッシュな編集できなかったのかなあ。
シナリオの無駄なお喋りしかも話と関係無いセリフのためのセリフは縮めないとダレルし映画が長くなりすぎ。あと彼らはまじめすぎてユーモアの欠如がシーンの展開を決定的に遅くしている。ザイオンのドンドコ祭りとセックスシーンのカットバックは、SWの暖炉のシーンに匹敵するぞ。
まあそれほど期待はしてなかったけど、『レボリューション』も撮影終っているんでしょ。うーん、なんかこのままでいくとさ、機械にも分があって、人間も機械が必要だという方に行っているので、人間にとっての勝利がなんなのか見えないんだけどさ。最 終作は夢オチなんてことにならないだろうな。
おまけに言うならこれがハリウッド・マクドナルド・ムービーじゃなかったらなんなのさ。品質を物量でカバーしているじゃん。それなりの価格ならバリュー感があるんじゃないかな?適正価格1200円くらいかな。


花と嵐とギャング
石井輝男
(ビデオ)

さすが石井輝男、びっくりするくらいバタ臭く楽しく新しい娯楽作品。昭和 36(1961)年にこんな映画を作れるなんて素晴らしいです。ゴダールが悩みながらなんとかアメリカギャング映画もどきの『勝手にしやがれ』を作って、世界に衝撃を与えたと評論家は言うが、撮影所の現場に言わせれば「なんだこんなもんか、じゃあこっちもやったろうぜ」と軽いノリでヌーベルバーグのよりも遥かに上手く、テンポも良く、ジャズが流れ手持ちカメラで、追いつ追われつ騙し合いで銃撃戦もある、これでもかというサービス満点の内容。
例えるならどっかの横丁の洋食屋のオヤジが作ったラードがギトギトのオムライスなんだけど、本格フランス料理よりもうまくてボリュームがあって、頼んでないのにサービスでコーヒーが付くようなもの。(違うか?)
高倉健が良いね。石井アクションの主人公はみんな元気があってでもどこか抜けている憎めない奴。鶴田浩二も不思議な日本人離れした存在感がある。女たちもみんな悪だけどすごく積極的に物語を引っ張る適度なエロさ。
どこまでも下世話な風景だったり、みんな日本家屋でもソフト帽を脱がないギャング稼業という設定や何発も打てる拳銃。洋画だけしか観ないようなファンからは嫌われたのだろうなあ、日本人はいつもマジメだから。いまになって時代がやっと追いついたということなのでしょうか。アメリカのB級でもこれくらい生き生きとした展開のアクション作品は少ないと思うのだが。この陽性ギャング路線と網走番外地のふたつをヒットさせているのに、世間的には重たい変態性愛モノばかりがまだ評価されちゃう。うーんまだまだ世の中マジメなのだねえ。


マイノリティ・リポート
スティーブン・スピルバーグ
DVD

2時間以上ある火曜サスペンス。犯人はやっぱりわかりやすいし、やたらみんな説明してくれるわで、一瞬たりとも混乱することもなかった。迷いなく全くシナリオ通りに撮ったんじゃないだろうか。ユニバーサルではなく20世紀フォックス配給ということは今回はトムの雇われ監督ということかな。
相変わらずの低予算だし、話題の未来の広告の部分だって、単なるタイアップ。あんなトヨタ・レクサスに乗りたいかね?ショッピングモールのシーンなんか、ご近所でロケして撮りましたという感じ。本来ハリウッド映画ならあのシーンで警官が数百人現われで銃撃戦で窓ガラスが割れ、照明が落下するのが本道だろう。それを数人の警官と風船の 古典的なサスペンス手法で(これを上手いとか言うなよ)あっさりとごまかしたりする。未来都市もはじめの数分ちょっと見せとけばいいやという投げやりぶり。室内セットの数の少なさは確信犯だね。
色を抜いたのも、試写の時にまったく現代にしか見えずどこが未来やねんとなり、苦肉の策でイジッたと推測する。普通予算の無いB級SFでこれをやると単なる手抜きにしかみえないのだけど、言い訳でなく表現に見せてしまうところはやはりブランドの力か?そんなプロデューサーと監督が無理なく同居する最近のスピルバーグはやはり変だ。
演出を見ていると、とりあえず、話すシーンは人が動いていれば持つので意味無く動き回るし、サスペンスシーンはカメラ位置をバンバン切替えて行く。盛り上りはドリーで近づく。シーン全体のカットのリズムがガタガタなんですわ。感情とか演技でカットしていないから登場人物が平易というのは前からみんな言うよね。いわばスイッチングで切替えるテレビの編集に近い。普通はもうワンカット入れるところを、まあ抜いても差し障りはないと、丁寧じゃない仕事ぶりは客を嘗めているね。とりあえず視覚的に飽きないように作っていくところはさすがだと思うのだが、所詮はその視覚効果だけ。
シナリオに対してのいい加減さ、PKディックの世界も無い。ハリウッド調というやつだ、しかもニューシネマ以前から変わらない勧善懲悪。三位一体の人間を超える神の存在や隠しテーマやディックの薄汚れた警官や意地が悪い上司など使えるネタは多いのに。コリン・ファレルが良い味だしているのにまったくトム・クルーズと絡まないのはいかがなもの。
スピルバーグが面白いのは、スコセッシやコッポラたちが映画を芸術とすることをヌーベルバーグ経由で学び、アメリカB級映画をお手本にしてはじめたのに結局はハリウッドに吸収されていったのに対して、スピルバーグは予算の制約とヘイズコード逃れが生み出したB級映画のスタイリッシュな格好良さを、純粋に観客を楽しませるエンターテインメントとして見ていたのではないか。それを作る側の目で徹底的に観察していたのだと思う。芸術=スタイルに拘泥(束縛)することを忌避しているのだ(そこが大学の映画学科出との違い)。
だからスピルバーグの強みは1台のキャメラでものすごい勢いで撮影でき、シーンを即興で状況に応じて変えたり、ほかの編集ができないように作れることだ。その意味だと娯楽の職人なのだろうね。いわばロジャー・コーマン・スクールに入れなかったけど、一番その素養をもっている監督だということだ。
なにかしらB級精神=作家=監督としてみることを強要されている私たちのフィルターが間違いということなのだろうか。
極端に言えばスピルバーグはハリウッドでなくても、映画監督としてやっていける才能のある、珍しいアメリカ人監督なのではないだろうか。それがたまたま映画産業の中心地にいるので大巨匠のようであり、シンボルになっているのだろう。だから評論家もどう取り上げて良いのかわからないのではないか。
「必要も無いのに美学的でなく商業的な制約を課すことで、自分のスタイルを維持する作家・スピルバーグ」が存在することになる。世界一豊かな環境で映画が撮れる人間が、自分を追い込む逆境がないと作品が作れないというのは面白い。映画を作ること自体が表現であるパフォーマンス・アーティストなのか?うーん、これってさあ大いなる矛盾なんだけど、異様にケチな金持ちみたいなものかなあ?それとも貧乏性なのか?


チェルシー・ホテル
イーサン・ホーク
ビデオ

小型デジタルビデオカメラで撮影して、動画加工ソフトAfterEffectのPlug-in MagicBullet でフィルムのような色に調整、24コマに変換してキネコかフィルムレコーディングしたというもの。内容はニューヨーク独立プロっぽいもの。スクリーンじゃないからよくわかんないけど、速い動きに白の部分が追いつかないてボケるくらいで適正露出に関しては違和感なし。雪が降るのもヘンに見えなかった。フィルターかけていたりもするので良くわからん。でもビデオはビデオで映画の代用品ではないからねえ。


害虫
塩田明彦
ビデオ

ロリ系アイドルものなのに女の子が可愛く撮れていないのがまずダメだなあ。ヨーロッパ映画の真似ばかりしてるとありえないヘンな貧しいんだかカネがあるんだかわからない現代日本になっちゃう典型。50年代の貧乏イタリア映画かと思ったよ
別に映画が撮りたいだけで、撮りたい内容が無いので映画のカタチの残骸しか残らない。ドラマを描こうとしないから主人公が動かず受身ばかりなので少しも進まない。スタイル重視で一見現在風俗を排した映画は時代を越えて成立するように思われがちだが、その時代時代を切り取ろうとしない限りそこから簡単に古びる。


近未来蟹工船レプリカントジョー
松梨智子
BOX東中野

うーんうーん…。今回そうとう気張ったんだと思うよ。それが空回りしちゃってこういう風になったらおもしろくなくなるのにぃ、ということをすべてやってしまった。自分の強みを捨てちゃった結果がつらいもんがあります。マトモになっただけツマラナイということですね。
前作『サノバビッチサブ』の時に撮影をちゃんとした方が良いんじゃないかとも書いたけど、あくまでそれは付帯条件なので、画面がきちんとした分、ノリが消えてフツウになっちゃうという、よくある技術スタッフに牛耳られるパターンを乗り越えられなかったようです。
自分の作品の強みが、如何に小劇場的なもので構成され、パクリで構成され、画面についての何ら偏愛がなくても、自意識過剰なテンションで一気に突っ走りラストまで失速しないところなのに、それがすべてアラが見えてしまい観客が白けてしまうという展開。まあ自主映画出身によくあるといえばそうなのだけども。さまざまなイメージのパクリが衝突して脳内思考を停止させて化学反応を起こす技が、「ああやっているね」と冷ややかにしか思えないのは、描くのを難しいとこをCGにするとか、テロップでここで笑ってくださいという部分が多すぎで、チープな作品ならそれが笑えるのだけど小細工的に作りこむと単に手抜きしているとしか思えない。そこを描くと言うのが映画ということですよ。自己中心的な人物が鬼畜な振舞いをするのが最大のポイントなのに、役者にテンションの高い演技をさせず、基本的に変だけで悪い奴じゃなくて、青春の挫折を味わい、人から嫌われたらどうしようと考えながらも…。観てる方としてはどうでもいいんですわ。
なんか30人収容くらい小スペースでの芝居を200人キャパの小屋で見せられた感がものすごくあって、作っているほうがそれなりの規模の作品を作りたいのはわかるけど、メジャーを目指してもカタチだけで、映画としての技法の未熟さだけが目についてしまう。74分ですら持たないのはねえ。テンションの高い以前の方法に戻るか、もうちょっと映画の技術を学ぶかですよね、パクリでなく。「バカ映画」を作っていて褒められたからって、それは「素人映画にしては」というレベルでしかない。もしかして少しアタマが良くなったんじゃないかと勘違いして作ったが、基本的に「バカ」の中身は変わっていないので、単なるアタマが悪い映画としか見えないというのはねえ…。松梨本人が出てナンボだと思うのだけど。


呪怨 劇場版
清水崇
ワーナーマイカル熊谷

観た人みんなが言っているように、ビデオ版の方が怖い。なんでだろうか。清水祟監督が今の日本映画のなかでもかなりのテクニックを持ったおもしろい作品を撮る監督だということは異論がない。でも敢えて考えてみるとこうなるんじゃないだろうか。
 1.アップが多い。2.音が先行。3.画がクリア過ぎる。
ビデオ版はビデオなのに、全くその表現できる限界を斟酌せずに映画の如く大胆かつ繊細な作りをしたが、映画版は映画らしく職人的なていねいなやり方を取ろうとして却ってテレビドラマになっちゃったのではないか。会話になるとすぐに切り返してカットを割るために、役者の表情に注意が行き過ぎてどうしても「あー演技してんな」と冷めてしまう。ビデオ版のように全身のロングで怯える突き放した怖さが出てこない。怖いのはその人の状態≠カゃなくて人がいる状況≠ネのです。それを出てきたお化けの状態に重点がいって、お化けが出てくる状況がハッタリが効いていない。不条理じゃなくすべての理由が理解できちゃう。
彼の持ち味のモンタージュの上手さも出し惜しみしているようで、音先行のカット繋ぎがあまりにも感覚的に予想できちゃうんですよね。遠くで音がして…というのが多く、心構えができる。だから反対に俊雄くんがテーブルの下にいるシーンの前後のカットの繋ぎ方と音が無音の単純さが一番怖いのですよ。場内もひええとなっていた。
画にしてももっとのっぺりしててもいいのにねえ。あのメインのお化けも悪いモノ食ってアタッた山海塾にしか見えない。逆にロング一発入れられればOKだったと思うのに。リアルに見えるとちょっと躊躇したのかな。ビデオ版の怖いのはみんなロングだったような気がする。その身も蓋も無い即物的なところが無闇に怖かったのだけど。あと室内の照明がつまらなかった。わざと明かりをつけないので、明かりつければ怖くないじゃんと思っちゃう。
話の時間軸が変だったがなんでかな?今回いままでの演出パターンを崩して作ることに挑戦したみたいです。でもクレバーな人なのできっと『呪怨2』では持ち味の即物的なところとモンタージュのテクニックの整合性が解消されていると思う。個人的には注目していた階段を上手く撮る≠ェ最初のカットから出てきてニヤリとしてしまった。


戦場のピアニスト
ロマン・ポランスキー
ワーナーマイカル熊谷

観た者の判断を停止させるような映画。観終った後に「良い映画だった」と嘯いて家に帰ってさっさと忘れたくなる映画。それだけでポランスキーの術中に嵌るのだろうね。明晰過ぎて何も隠すことが無いが故に観たものを評価するのを観客に大きく委ねたようです。この題材で、主人公の立場も神の視点も取らないとはね、それだけでも大変なことだと思うよ。大体こういう歴史ドラマは客観的な事実に振り回されて説明的になってしまうのだけど。
ポランスキーは、主人公のサバイバルに絞って追い込み、いつの間にかそこで起きていることが、現実なのか、主人公の幻視なのかさえも曖昧にする。死体がごろごろと横たわり、飢えと寒さで時間の経過さえ定かでなくなっていく。それを戦争の巻き起こす皮膚感覚といったら言い過ぎか。そこがポランスキーの視点でもあるのだろう。
ポランスキーの描く部屋の中って、外から逃げ込むところ心地良く秘密めいたところだが、それでいながらも悪意の侵入を容易く許す薄いドアや壁でしかない。しかしそれに縋ることしかできない無防備な者たちがいつもいる。その狭い視野からあまりにも多くの物を見過ぎる。車椅子のシーンなどああいう撮り方しかないとは思うが衝撃がすごい。
徹底的に自然光で照明も簡潔。晴れた光は悪意に満ちている。あー雪が降るんです、良い具合に風に舞って寒そうなんですね。ポーランドではああいう風に降るのでしょうか。
あと色彩のデジタル加工が気になるなあ。パキッとせんのよ白い色が。それも世界と言えばそうなんだけど個人的には納得いきませんなあ。VFXとのマッチングかもしれないけど。


ロード・オブ・ザ・リング 二つの塔
ピーター・ジャクソン
ワーナーマイカル熊谷

3時間を越える映画でまったく完璧な映画です。素晴らしいっス。これくらいの長さでちょうどいいです。前作の性急な感じはまるでなく、心理描写もより深いものになってます。いろんなテーマと演出が一体となってそういう寓話なのかとようやくわかってきました(原作読んでないのバレバレ)。
デジタル技術も一箇所も違和感がない。表現力もさらにアップ。このままだと技術にあわせて全部終ったらまた第一作のフィルムの色調を直すのではないか。
R‐15にでもしないと、中学生が観たら知恵熱出しちゃうね。それくらいの力はあります。体調万全じゃないと負けちゃいます。
『二つの塔』の戦闘場面の鮮やかさが、ゲームみたいだなあと感じて、SFXの影響かなとも思っていたのだけども、良く考えたらピーター・ジャクソンって、上と下の位置関係をうまく描ける人だというのを忘れていた。『バッドテイスト』、『ブレインデッド』『さまよえる魂』と2階1階地階のタテの場所の関係を見事にわからせてサスペンスを生み出すのが巧みだった。
映画ではだいたい写真や絵画と違いタテ長のアングルはありえない。そこは演劇と同様の制約。でもキャメラを上下に振ったり、俯瞰や仰角を多用することはあまりしないし、あってもスタイルだったりするのは、キャメラが主張しすぎて感情があまりにも出すぎるのが嫌われるでしょう。アオリのスタイリストも必要以上に考えすぎると変になったりする。
さて『二つの塔』だが、オープニングのあれだってあのタテの空間の使いこなしは見事だよね。普通は『インディジョーンズ魔宮の伝説』のラストの悪役の落下のようになるのだけど、あのカッティングと長回しの使い分けは見事。最後の戦闘も位置関係が完璧に理解できた。『七人の侍』では何度観ても村の位置関係がわからんが。『十三人の刺客』はどうだったかな?第1作の『旅の仲間』のオークの地下の工場(?)もそうだった。もし『さまよえる魂』を観ていたらどんなことを言っていることがわかると思うんだけど。
なにが言いたいかというと、スタイルにこだわるのでもなく何気なく撮れる手腕が大したものだということ。これだけきちんと撮れるのは、ロバート・アルドリッチの位置関係の的確さか、ドン・シーゲルの編集技か、またはロバート・ワイズの大胆さじゃないかな。なぜかロバート・ワイズがね、気になるんですよ。『ウエストサイド・ストーリー』の俯瞰やビルの上と下、『アンドロメダ…』の地下からの脱出。職人監督に分類されちゃっているけど、編集者出身だけにカットのつながりがていねいでいつ観ても楽しめる。そのあたりに注意していなかったので断言できないけど、ジャクソンとワイズをつなぐ線はなにかありそうな気がする。


プレッジ
ショーン・ペン
DVD

ショーン・ペンは古臭いといわれようが好きなんで観ます。やー、70年代前半のアメリカンニューシネマの「主人公の考えたくもない最悪の不幸のどん底感」に、久々打ちのめされる。そう思うと最近のハリウッド的な不幸も「やってます」ってカンジで浅いのう。
主人公の執念が執着になり、狂気に繋がる部分の積み重ねと、さっと犯罪の匂いを嗅ぎ付けると本能的に刑事の視点に戻って行く様がうまい。さすがジャック・ニコルソン、わかっていますなあ。
脇が豪華です。サム・シェパード(推定拘束時間3日)、ベニチオ・デル・トロ (推定拘束時間2日)、ハリー・ディーン・スタントン!(推定拘束時間1日)、ヴァネッサ・レッド・グレーヴ!!(推定拘束時間半日)、ミッキー・ローク!?!(推定拘束時間30分)。
ショーン・ペンの演出は細かいところがうまいねえ。タバコの吸い方とか、灰皿が無くて困っていると、見かねた同僚が食べていたオレンジの皮を渡して、それで消すとか。引退間際の田舎刑事のジャック・ニコルソンの指のアップのときにバンドエイドをして爪が汚かったりするところで、こういう人物なんだとわからせる手腕に惚れ惚れする。


自殺サークル
園子温
DVD

レンタルDVDは特典無し。園子温って観たこと無かったんです。でもねえ、エヴァ落ちとはねえ合点がいかないです。もう狐がみんな落ちたと思ったんだけど。自分探しの無意味で退行的な暴力の羅列は好きじゃない。安っぽいアイドル予備軍とか、インターネットとか、半端なローリー寺西とかそんなにハナシを広げなくても充分にできるネタじゃないかねえ。
もっとシンプルにして、逆に観念性を弄んだ方が良かったんじゃないのかな。
カットはマンガのコマ割りでカットの自体の構成はしっかりしているけど、時間軸の構成がぐずぐずなのでどこでもカットを変えることができるので観ていてイライラする。岩井俊二もそうだけど。まあ私とは関係無い世界なカンジでした。


刑務所の中
崔洋一 02
( シネクイント)

 ストレスの多い現代社会の究極の癒しは、俗世を離れ刑務所で過ごすことだ!というとんでもない内容の映画。崔洋一の本領発揮。皮肉なコメディーを誰も裁かずに撮れるのがこの人の特徴です。不条理な状態に持ち込めば持ち込むほど笑える ことをよく知っています。シンプルに出来た分だけ滑らずに済んで、 余計な説明をしない部分も省略法として活きています。
 主役の花輪を演じる山崎努が良いです。CMにでようとテレビに出ようとどうイジラレようと役者の質が変わらない、そんな強さを持っています。だからどんなにマヌケな役をやっても説得力があります。全編を進行する朴訥な素っとぼけたナ レーションは素晴らしい。この演出だけで日本アカデミー賞ものなのになあ(受賞できる作品じゃないけど)。相変わらず香川照之はうまいし、田口トモロヲは浮きまくりだが自分のコメディリリーフの位置をきちんと踏まえている。たぶん映画 の中では花輪をマンガ家だとはっきりと言ってはいないのだが、それが良い結果にもなっている。 「落ちつくなあ」とい う主人公の精神状態なのか性格かを理解できるだろうかというのは杞憂だったようで、観客みんなケタケタと笑ってい た。細部へのこだわりの可笑しさは原作を読んでいたから納得できたのかなあ。観客といまの時代の空気をも共有できる至福な時間の流れでした。(いかん洗脳されているぞ!)


ザ・ミッション 非情の掟
Cheung fo The Mission
ジョニー・トゥ 00 (ビデオ)

 さりげなく観たら傑作なのだけど、ちょっと外した作風は王道の香港アクションがきちんとしていればしているほど輝くという、脇の渋いオイシイ位置を占めている。この手が主流になっちゃうとキツイのだけども、登場人物の作りとか事象の 省略などタケシ、タランティーノ以降の作風だなあと思う。
 ただストーリーの単純(直線)化をするだけで大抵の物真似は失敗するのだけども、この映画の場合は、登場人物や 設定のディテールが豊か なので観客も含めて映画を補うことができる。そのセンスがPVやCM出身の「過剰さ」を豊か さでありスタイリッシュを履き違えている凡百の監督とは一味違う。なにをどう削り整理するかも映画演出の要素なのだよ。リーダーが美容室を経営していて、一言も喋らずに舎弟の話を聞いていたり、殺しの店で麺を啜っている部分の 時間の流れ方は異質であるが、ひとつの方向性ではあるなと思う。エレベータの銃撃戦のところの一瞬人間がっぐちゃっと交錯するのだけど、各々がはっきりと役割をわかって動いているのでものすごくカタルシスがある。人物造型か らストーリーを組み直していく手腕が並大抵のものじゃないなと感じる。ジャスコの銃撃シーンはやり過ぎの感はあるが。佳作です。

肉の蝋人形
HOUSE OF WAX
アンドレ・ド・トス 53 (ビデオ)

いまや忘れられた作家らしいのだが、私は知りませんでした。今世紀の初めのニューヨーク、ビンセント・プライスが気が狂った蝋人形館を営む芸術家 。蝋人形館が人の処刑されたり殺されたりする歴史上の場面で構成されているというが、実は死体置き場から死体を盗み出して蝋を被せて蝋人形にしているという設定。あとはヒロインと芸術家の卵の そのボーイフレンドに警部というお馴染みの人物たち。蝋人形の本物さと地下の工房のセットがなかなか楽しめる美術セット。演出が上手すぎてエグくないのでカルトにはならない残念な作品。数本借りたときに観るとちょうどいい一本で す。まさに添え物…。


マルホランド・ドライブ
MULHOLLAND DRIVE
デヴィッド・リンチ 02 ( DVD

 リンチももういいと言いながら観ちゃうんだよねえ。『ロスト・ハイウェイ』はひとりコスプレだと思ったが、今回は露骨な 夢オチ。みんな他人の夢の話を聞いてて面白いかぁ。手塚治虫はマンガには夢オチは禁じ手と言っていたが、まさに 今回はそれだなあ、ハナシがどう転がってもいいんだもん。作っている方は楽だろう。彼の場合はその夢が面白いのとその語り口が秀逸なので許されているのだが。まあここに現代美術、抽象芸術との関係を持ってくるのは野暮というも んだとは思いますがね。
夢なんでどこで終っても良いといえば身も蓋もありませんがそんな感じ。ところどころに分岐点があって、こうなると悪夢だよなという方へと流れて行く。その意 味じゃ80年代前半の筒井康隆の作品群に似ている。まあ夢だからいいじゃんが、面白くできているのでそれはそれで芸というものだけども危ういよね。ひとネタギャグと 同じでそれが古い!とみんなが思っ た瞬間に整理されて無かったことにされてしまう可能性がある。『ツインピークス』なんてそうだよねえ、乱獲消費という感じ。細かい部分は凡百の類似品よりは全然楽しいのだが、パターンが見えちゃ うというか、表現が過剰にはならない人だから観ている方がいつか冷めてしまう。職人芸の難しさですな。
 と言いながらもリンチの本性は職人芸でも芸術肌でもないと思うんだけど。なにいかといわれるとテレビ・ウォッチャーだと思う。発想の基本がそこから来ていて決して映画のカタチに拘泥してはいないんじゃないだろうか。似たようなテイストとし てタランティーノと三池崇史が思いつく。彼らも細部に こだわりながらも時々トンでもないやり方でストーリーの語り口を変えてくることを平気でやる。通常映画で重要とされる繋がり(コンティニュティ)とすっ飛ばす手法を大胆に使うんだよ ね。これはテレビでCMが開けると全然別のシーンになってまたストーリーを進める手法(まあ安易な転換と言う場合も多いが)で、それで30分とか60分番組にするのは映画とは違う語り口になるのだけど、その自由さを積極的に取り入れ ているのが上記の彼らだと思う。テレビを観なれた我々にはその辺りに付いて行くことがそれほど難しくないのは馴れているからで、でもなんとなく物足りなく感じるのは「映画にしては」という思いがどこかにあるからだろうか。この現実の 緩用でイメージを作り上げる節約手法は『ブルー・ベルベット』以来のものですが、いざとなれば『エレファントマン』のように普通の演出もできるので心配はしてませんが、画家のように突然スタイルを変えるかもしれないので、その辺りにも 興味があります。

誘拐魔
Lured
ダクラス・サーク 47 (ビデオ)

その昔の「リュミエール・ビデオテーク」(だっけ?)だったので、へえと思って借りてみたが、寝た。ビデオシリーズを選 んだ者たちが観たかったのね、きっと。


ゴースト・オブ・マーズ
John Carpenter's Ghosts of Mars
ジョン・カーペンター 02 ( DVD)

 いつもアイディアはオモシロイのだが、観ているうちにそれが空回りして観ている方が醒めてしまい後悔してばかりいる。ジョン・カーペンターについてはそんな印象が付き纏う。基本的にサスペンスの人じゃなくショッカーの人の癖に、最 初はサスペンス演出をして、それが破綻するといきなり身も蓋も無い残酷シーンへと移り、ウソだろと思うくらい簡単にラストに至り、主人公が格好つけて終る。なーんかそのパターンばっかだな。どうもその体温の低さがダメなのですよね。 本気で褒めている人がどれくらいいるのかホントにわからない。黒沢清がたぶん気に入っているのは彼自身の映画を観ればなんとなくわかるのだが(でもその一方でトビー・フーパーとか言っているしなあ…)。
 カーペンター自身が思っているほど、友情みたいなものってうまく描けていないんだよねいつも。登場人物が最後まで成長しないしなにを考えて いるかわからない。それが逆にリアルで誰が敵だかわからない『物体X』 が監督の意に反して傑作になったんではないでしょうか。 DVDの副音声コメンタリーの監督と主演女優の駄バナシは面白いです。禁煙、ドラッグ、暴力についての意見が聞け る。メイキングもよくできていたし、アンスラックスとの音楽録音風景もチープな感じがアメリカ映画?と思えます。

阿弥陀堂だより
小泉尭史 02 (ワーナーマイカル大宮)

 豪華な映画とは大規模予算の映画だけではない。いかに時間を掛けて製作をしたのかがフィルムには全部写ってしまうから怖いし、観客もそれを感じ取れてしまうので恐ろしい。そこにある濃密な時間というのは、いま生きている時間と同調 する瞬間を持っているかもしれない。そう感じることでより豊かな時間を愉しむことができるのだろう。
いわゆる癒しというキーワードで括ることもできる。アロマキャンドルを立てて、さあ癒されましょう、というカネを出すだけ癒される対処療法ではなく、もっと静かに手探りで進んでいく。長野の四季を追いかけながら自然の美しさよりも、そのなかに 遍在する日本人の死生観を示そうとしている。『雨あがる』もそうだが、監督は何も押し付けない人なのだよね。そこがい わゆる邦画としては珍しいので違和感を憶える人も多いだろう。常に画面に現われる空気感のようなものをずっと求め ている。その時間が観ている側の警戒を解いてしまう。
「在っても良いファンタジー」を追いかけているように思う。 設定がうそ臭いとか登場人物が偽善的だというのは簡単だ。ただ樋口可南子や寺尾聡が既製服を着て歩いているだ けでホッとするし、彼女が病院に初出勤する朝、坂を下りその姿をキャメラが追っていると、野良仕事に出かける老婆たちと挨拶を交わすさりげないカットが素晴らしく強烈に感じる。セリフもね、結構思ったことや感じたことを口にしているのだけど も、言葉として良いものがたくさんあって、これもファンタジーだと思っちゃうし、その世界観が良いね。
大人が観ることができる(大人の鑑賞に耐えるという意味だけではない)、息の長い映画になったのではないでしょうか。樋口可南子はイイ 。なんで映画に出なかったのかなあ。糸井重里のせいか?


神の子たち
四ノ宮浩 01 (某所ホール 16mm映写)

ドキュメンタリー映画は常に何かを突きつけられる瞬間を持っているのだけれど、その様子も最近は声高に政治・社会不正を叫ぶものから生活している人々を写していく 静かなスタイルのものが多くなっているようだ。ひとつには政治形態が右左の問題だけでは無くなった事、もうひとつにはビデオやテレビニュースショーの広がりがあるのではないだろうか。簡 単に見られるテレビの特集、終わった途端に司会者が「では CMです」としか言わず、事実に隠されたものを表面的に単純にしかなぞらないことに対する無言の答えではないか。ただこれらは日本のドキュメンタリーのみに言えることのようだ。ナレーションも無く、加 藤登紀子のギター伴奏の歌が挿入歌として延々と流れるのには辟易するが、(そこら辺を 作品として成立させたいの か、見せる運動にしたいのかハッキリしない。 たぶん両方だと思うが。子供にはナレーションがないとわからないし、その点では説明不足だ)。
フィリピン、スモーキーマウンテンの隣町にできたごみの山。台風によってそれが崩壊して生き埋めになる人々。ごろりと並ぶ死体の山。それでも目を背けず凝視すれば逆に受け入れることができる感覚の不思議さ。そう思うとハリ ウッド製のエンターテインメントの無意味な暴力に不感症になっている自分に気づく。いくつかの家族を並行して取材するのだが、なぜか食べるものに困ってもテレビは売らない。電気はどこから来ているのだろうか。貧しい=悲惨の図式 にも、貧しさ=だけどどっこい生きているの図式にも乗らない、淡々した日常、生命の誕生と死。水頭症の赤ん坊が最初は表情も無くハエにたかられながら寝ているのを見るのも苦痛だったが、それが数ヶ月経って笑顔を見せるとこちら までホッとする。その事実の力はただただ強い。


スパイダーマン
SPIDER MAN
サム・ライミ 02 ( DVD)

ダニー・エルフマンの音楽を聴いて、『ダークマン』の監督の作品なら『バットマン』よりもケレン味があるはずと期待するのは間違いだろうか。きっと絶体絶命の危機に晒されながらも、粘り強く偏執狂の如くアクションを繰り広げるに違いない。 敵役も意味無く爆発は使わずに非情なことをするだろう。出てくる家族や友人も影のある変人揃いに決まっている。
という予想はことごとく粉砕された。もし911のテロが無かったとしてもそれは払拭できただろうか。完成した映画を見る限り、サム・ライミに 最終編集権があったようには思えない。明らかにカットを割りすぎなのだ。そのお蔭で映画が長す ぎる割りには大雑把な印象しか残らない。シナリオのいい加減さもねえ、身内を殺されて復讐に目覚めて行くというのは基本だけど、てめえの自分勝手なドジで叔父が殺されて、そして正義に目覚めるというのは反則じゃないか。それは過剰な被害者意識という。 今のアメリカ的感傷であって、作劇とは関係無い。
ただね、ラストの辺りで少しは影が出てきたので、PART2に期待ということかな。今回はあまりの公的抑圧にサム・ライミが屈してしまったことにしておこう。キ ルティン・ダンスト起用に関してもね。


DAGON DAGON
スチュワート・ゴードン 02 (ヴィデオ)

 『ゾンバイオ、死霊のしたたり』以来、PHラブクラフトに憑かれているゴードンは、念願の『インスマウスの影』を現代に置き換えて映画化 した。株バブルで儲けた若きドットコム企業の社長が妻と知り合いの弁護士夫妻と一緒にヨットで休暇に出るが嵐で事故に遭い、近くの寂れた村に助けを求めに行くとそこは…、という典型的な恐怖映画の展開なのだが、さす が緊迫感のある演出の上手い監督ならではの雰囲気造りで全然低予算には見えない。美術も本当の廃ホテルなどを使っているのではないかな。 雨漏りのする部屋のベッドのシーツをめくると黴だらけ のところなんかホントに戦慄する。この人の限定された空間での芝居の付け方の巧みさは演劇出身なのだからだろうか。でもSFものはダメだもんなあ。ホラーが大好きなんだろうね、心底。
 夜間の照明も白黒映画のように部分的に強い光線を当てるやり方で、ハリ ウッドの夜間撮影のような全体的に当てるものと異なり懐かしいし、それがキチンと作品の質を上げている。邪教の 王女が妖しく美しいのだけれども、かつてのホラー・クイーンのバーバラ・スティールそっくりなのですよ。こういう新宿東映パラスにかかるような小品娯楽映画はいまやビデオスルーなのかな。


ロボジョックス
ROBOTJOX
スチュワート・ゴードン 86 (ヴィデオ)

近未来、核戦争を廃止して大国同士の巨大ロボットによる戦いで領土問題を解決するというオープニングのナレー ションに、雪が降るなか壊れたロボットが放置されている荒野をスロー・モーションで横移動するキャメラを観たときに は、「これはすごいかも。中世の甲冑戦をロボットでやるのか、スケールのでかい話なのか」と期待していたのだが、その後がどうもいけません。人形アニメは デビッド・アレンの惚れ惚れする動きなのですが、役者、セット、衣装とトホホ な展開であって、この大きなウソをつき続けることが出来なかったようです。まあそれはそれでオモシロイのだけれど。 ネットで検索するとトホホだけでも好きな人が多いことがわかる、不思議な作品だ。


DOA ファイナル
三池崇史 01 (ヴィデオ)

ファイナルと言うことでSFになってしまったが、まあそのままの設定のお約束通りのストーリーをものすごいスピードで 的確に撮り上げるのは相変わらずの上手さ。三池映画を成立させている隠れた要因って、実は ベタベタの家族もの の部分だと思う。要するにアクションの速度に観客がついて来れなくなる頃に、ギアを落として情愛のシーンを入れてくる、それをかなり本気で入れて来るので、観客は登場人物に追いついたような気になる(そんなことは最後までないのだが)。いわば シナリオで言えばクサイ部分である。普通アクション系の人なら飛ばして描くのを彼は丁寧に描く。逆に情緒系の人なら過度になる湿り気もない。そのバランスの取り方が抜群だと思う。そこが和泉聖治なぞとは同じような 題材のシナリオでも出来が違うところだし、誰のシナリオでもこなせる自信でもあろう。
そこは監督本人がたぶん一番自覚的で、その軸はブレることがないように思える。あくまで具体的に描くこと。そしてストーリー的に結末をどうつけるかという計算ではなくて、シーンの充実の総体としての映画を作って行く、独特のカタチはまだまだ続きそうだ。


フォートレス 未来要塞からの脱出
FORTRESS
スチュワート・ゴードン 93 (ヴィデオ)

なんでクリストファー・ランバートって一時期あんなにたくさん映画の主役をしていたのだろうか?あまり上手いともハン サムとも思えないし、それほどカリスマ性も見出せないのだが。 誰も出ることが出来ない地下要塞監獄からの脱出を描く SF作品は、いかにもな作りのセットとやる気の無い役者のためか、安っぽいテレビ・ムービーのようだ。美術もいかにもSFな作りなので照明もベタにしか当てられず、芝居に説得 力を与えられない。そこには『スペース・トラッカー』のような細部のジョークの入る余地も無い。 刑務所長の変態的なキャラクターのみが、ゴードン映画らしい。


少林サッカー
チャウ・シンチー 02 Tジョイ大泉

なに一つ確かなことはない昨今だが、日本では2002年はW杯開催の年ではなく、少林サッカーの年として後年まで語られることは間違いないだろう。
少年ジャンプのかつての(いまは知らないが)三大要素として、「友情」「努力」「勝利」を入れる鉄則があった。常に 変化を生み出さねばならない消費社会の流れの中、会議ではマーケティングという統計のウソに踊らされ、いつ間にか そのテーゼは古いということになって、出来の悪いRPGのタイアップマンガしか読めなくなった。部数が伸びなくなったのは少子化や多様化のせいではない。そのことはこの映画が証明している。ただ 作り手が自分を信じられなくなったということだけなんだろう。
こんな話を、いま日本で会議に出したら間違い無くつぶされるだろう。キミはいまのトレンドがわかっていないね。どこが新しいのかね、と。映画の企画をつぶすのは簡単だ。娯楽には芸術性を、芸術には採算性を求めればいい。だれも 観客の方を向いていない。いや作り手たちも観客ですらない。 観客は本気にしてくれる映画を探している。斜め読みしな きゃならないような映画の蔓延に飽き飽きしている。
この映画が素晴らしいのは、そんな条件のなか、「少林」と「サッカー」の組み合わせほど安直なものはないが、ほんとうに観客に信じさせたいし、もちろん 自分たちが信じているこの物語を語りたいという欲求が高度なテクニックの次元で結集しているのだ。でないと、あんなオープニングCGアニメの格好良さや、ワイヤとCGの融合の超現実感(ハイパーリアリティ)は作れないと断言できる。細かいつじつまの合わない部分 を観客が無視して楽しんでくれるのも、これらの想いが伝わるからだろう。いわば作り手を観客が映画を共有するもっ とも幸福な時間を生み出しているということなのだ。
バカバカしいというのは簡単だ。でもバカバカしいことに映画の本質があると思いませんか。その想像力が映画の魅力と考えないですか。信じられるホラ話が無くなって楽しいですか。青いユニフォーム着てテレビの前で騒ぐのがそんな に楽しいですか。いますぐ映画館に行きなさい。そこにはもっと笑えてずっと幸せな気分にしてくれる映画が待ってます。


スターウォーズ エピソード 2 クローンの攻撃
STAR WARS EPISODE2 ATTACK OF THE CLONES
ジョージ・ルーカス 02Tジョイ大泉

●ネタばれなので映画を観てからお楽しみ下さい。

ウぃッス、俺アナキン・スカイウォーカーっ言います。師匠のオビワンさんにはまだまだと言われてますが、自分としてはかなりバリバリいけてると思ってマス。
今回は10年ぶりに会う、パドメ姐さんの護衛の仕事っす。すげえ久しぶりなんで楽しみなんすけど、ここだけのハナシ、自分姐さんにずっとホレてますんで。あ、パドメ。マジ、激マブじゃん。でも姐さん自分のことあんまし気にしてくれなかったようだし……。(ワイプ)
おっと、大変だ。パドメさんを襲うとはいい度胸じゃねえか。このアマ、どこのどいつだ。よっしゃ、スピーダーでぶっ飛 ばすぞ。おらおらどけどけ、ぶつかるぞ!よし先回りだ。え、見失ったって。オビワン先輩勘弁してくださいよ、ぶつぶつ 言うの。自分、やるときはやりますから。失礼します!。って飛び降りたはいいけども、ふつう真下に降りても走ってくる乗り物には乗れないよな。よほどタイミング合わないと。でもちょうど敵のスピーダーが来た。うりゃ、ライトセーバーを受け てみろよ、オラオラ。ああ、また逃げられちまう。オビワンさん、この店ですか。なんかヤバくないですか。さすが先輩、ヤクには手を出さないんだ。なんか 歌舞伎町のゲーセンみたいな店だなあ。とりあえず、ジェダイ!の代紋で店の中 でいくら暴れてもオッケーだもんな。
鉄砲玉の殺し屋に死なれたのは痛いけど、お蔭でパドメと一緒に居られるぞ。オビワン先輩は国道沿いの昔ワルだった喫茶店のマスターに、吹き矢の出どころを聞きに行くと言ってた。宇宙船の中ならいまがチャンス、俺、告ることにしまッス。 そしたらなんと向こうも想っててくれだんだと、ヤッタ。
惑星ナブーでの警備、湖水地方の邸宅に二人っきりだなんて誘っているのかな。これでラブラブだと思ったのに、フォースで果物むいてやったりしたのに、なんでダメなのかな。歳が違いすぎてんのか、もしかして俺あそばれてるぅ?
(ルーカス先生は、王族と金持ちの区別がつかないらしく、ただなんの気品もないタカビーな姐ちゃんとしてしかアミダラを描いてないです。)
おいらがマザコンだということがバレタのかもしれない。でも夢に見るほどママが恋しいんだよお。え、一緒にタトゥーインに行ってくれるって?いいよ、行かなくても。なに私が行くから護衛はついてきなさいって、仕方ねーな。
懐かしいなあ、タトウーイン。変わらねえなあ、全く。あ、古物屋じゃないか。むかしは世話んなったなぁ。おいらのママはどこ行ったんだ。え、男ができて再婚した。聞いてないぞ。
さあママに会えるぞ。あれみんな暗い顔してよ、誘われた?もう生きてないだってふざけるな。この盗んだバイクで夕陽に向かってどこまでも走ってくぞ。インディアンのテントのようだけど、どこに捕まっているかはフォースなんか使わなくてもわかるぞ。ああ、ママが死んじゃうなんて。クソー、インディアンどもめ、虐殺してやる……。暗黒面に落ちる設定とは言えむごいんじゃないの、 全宇宙を束ねる悪の総長ダース・ベーダーになるには、きっかけがなんだかなという気がする けど。うー、こんな俺になったのも元々オビワン先輩が認めてくれないからだ!愚連てやる。パドメとの話が深刻になった時に、オビワンさんからメッセージが来 て助かったぜ。また助けに行くって、アミダラ。オビワンさんの言いつけ守らないと。わかったよ、行くよ。
ちぇ、うまく敵の惑星に潜入したと思ったのに、派手なアクションの甲斐なく結局捕まっちまった。このシリーズはいつもそうだよな。インディー・ジョーンズもおなじパターンだけどよ。
あ、オビワン先輩、スイマセン、ドジこきまして。え、皮肉言わなくても。(小声で)…先輩もドジってんじゃないかよ。パドメ は俺のこと信用してくれないで、とっとと柱を登っちまうし。クリーチャーはデザインイマイチだし、コロシアムってローマ時 代そのままじゃない。ここは地球じゃないはずだけど、ジェダイの騎士をナメとんのか、おのれらは。それにしてもジャン ゴ・フェットは弱すぎる。
大して危機じゃなかったんだけど、みんながつるんで来てくれたんで助かったぜ。でもアクションがダルダルで、右往左往してるだけのような気がするけどさ。また降伏かよみんな集められて。と思ったら良いタイミングで名誉幹部のヨーダ さんが戦闘モードで全開バリバリでやってくれたッス。さすがジェダイを束ねてただけあります!マジで尊敬してまッス!アクションシーンなんか オールCGで、『ファイナル・ファンタジー』みたいっすね(観てないけど)。 CGスタッフもアフガン空爆とかのテレビ見過ぎじゃないっすかねえ。なんで他の銀河系にヘリコプターもどきがあるのかってことは聞かないで欲しいっす、ここだけ変に浮いてます。
ドゥーク伯爵だ。逃げるのか、タイマン張ろうぜ。あ、腕が。やっぱ俺弱いのか。これで親子二代で腕無しだ。明かりが消えて暗い中のライトセーバーの戦いで、ドゥークとヨーダの二人、 赤と青の光だけがチカチカしてポケモン効果で口から泡吹くかと思ったぜ。
さいごまでパドメがなんで惚れたのかよくわからないけど、とりあえず結婚だ。ジョン・ウイリアムズのおっさんも大いにうるさいくらい盛り上げてくれるぜ。俺もヤンチャやめねえとな。双子も産まれる事だしよ。


悪魔とペプシに魂を売り渡したルーカスに感情の物語が描けるとは思わなかったので期待はしていなかったけど、SFXにおいてもルーカスの独壇場がそろそろ耐えがたくなってきている。『帝国の逆襲』がイイと言われているのは、 メカニック、クリーチャーデザインがシリーズの中で突出していることが挙げられる。
メカがCGでしか表現できない代物なのでリアリティーが無さ過ぎるし、イメージがどこかから借りてきたものが多すぎる。爆撃ヘリにしても、兵隊にしてもヒドイ。まあダイナーのひどさに比べたらね。あのシーンは急遽付け足しじゃないか な。説明のためだけど、別にカネにウルサイ種族じゃなかったぞ。
ルーカスのイメージを優先的にしているので、それがダサくても他のデザイナーは手出しが出来ないようで、それがト ータルでデザインのチープさにつながっている。
照明も平坦だし、外では、ヒトの顔が逆光になるようにはしていたが、CGとのマッチングだけだな。CGのアニメーション(動き)もテレビゲームに近づいている。要するに映画の動きじゃない。戦争シーンなんかゲームそのもの。
タトゥーインの砂漠のシーンはルーカス現場に行っていないんじゃないか。すごい平凡なカット割り。本編が長いのも、なぜか音響デザイナーが本職のベン・バートが担当しているからだ。まあルーカスがほとんどだとは思うけど。ちゃんとした編集マンにやらせなさい。
ジョン・ウイリアムズの音楽も大きいだけで、スカスカに感じる。役者もほとんどブルーバックの中で演技しているのだろう。CGのセットを見せるためのロングのカットが多すぎる。
これだけの作品なのに、手前盛りで作ってしまうのがイイのかねえ。個人映画といえばこのシリーズは究極的にそうなのだけど、ルーカスは完成度の高いものを作るよりは自分の映画を作り儲ける方に興味がある。これは映画を作るものとしては当然なのことだけどさ。そうすると次もこのパターンが続くのか……。
DLPについては、ほとんどフィルムとの違いはわからない。早い動きも付いて来ていた。深みのある照明をしたときに、果たして使えるのかがわかると思う。今回露出オーバーの部分が無かったのでその辺が不明。やればDVD並みの画質は得られると思うのだけどなあ。

(スベッテシマッテ、モウシワケナイ)



パニック・ルーム
 
PanicRoom
 デヴィッド・フィンチャー 02 ワーナーマイカル熊谷

映画という形式にもっとも必要な要素は何だろうか。一人の監督でこんなにムラのある出来の人も珍しいと思う。大体かれの映画にはひとりとして感情移入できるようなイイ奴は出てこない。だれもが嫌な奴だ。しかもそれが人物像のドラマを脹 らましているかと言うとそんなことはまるでない。ひたすら平板である。だからいつどこで心変わりをするかわからない。 でもまるでドキドキしない。
映像についていえば、完璧に近いといえる出来だ。そこにはすべてがリアルでありながら、美しく不気味に映っている。文句はない。たぶんラッシュのときもそうだろう。
それが、モンタージュによって編集されてシーンとなると、映画としての輝きがまるでなくなり、失速する。ただ映像が羅列されるだけだ。こうなっては救いようがない。音楽で盛り上げようが、SFXを駆使しようがますますテレビドラマのようになっていく。あまりに紋切り、あまりに脱力、あまりにご都合的。
かれの映画は、その卓越した映像構成力を持つお陰で、映画構成力を犠牲にしているといえる。いわば素晴らしい映像カットを作るために、いわゆるサスペンスを生み出すためのつなぎのカット、シーンを切り捨てている。見せない ことで盛り上がるのにすべてを見せ過ぎてしまうのだ。モンタージュによって積み重ねられることによって生み出される緊張感を切り捨てるために観客は映画を冷静に見てしまう。しかも美学的に構成された画面の隅々まで見えてしまうの で二重に白ける。逆説的に言えば、もはやそれは 平坦な観光風景写真の退屈さと変わらないのだ。 説明カットを入れないというか、説明カットの意味すらたぶん理解していないのではないかと思えるフィンチャー映画の特徴は、古典的なモンター ジュが必要とされないときに効力を発する。『セヴン』、『ファイト・クラブ』がそうだ。両者には古典的なモンタージュの緊迫感がない。まあそれは他の作品も同じだけど。
しかし、2作品には映画全体が要求している雰囲気としてのモンタージュが存在する。『セヴン』ならば、カイル・クーパーのタイトルが弾みをつけたリズムだ。ひとつひとつの画面に痕跡がある、あの汚れと雨の雰囲気だ。そのつながり によって映画はフィクションを保っている。『ファイト・クラブ』の場合は、ハイパー・リアリズムに近い照明によって生み出される消費社会の薄っぺらい品々の数々。それらがカット毎に自己主張することで、映画の雰囲気が確立する。モンタ ージュも良く観るとものすごく強引につないでいることがわかるだろう。それがこの作品の場合は魅力となっている。
また、映画は一秒間に24枚の写真からなっているのだけど、その意味で一枚一枚充実させることは、いままでみんな考えるけどもうまく行くはずがないことは、経験的に理解していたし、画面がきれいだからと言って映画が良くなるのとは意味が違うとしていた。フィンチャーはここに 現代アートという即物的な評価のラインを導入することで、映画を一枚ずつの写真で構成し、ストーリー優先の映画から離脱しようとした。それが一部スパークしたのが『セブン』だ。
まとめると、デヴィッド・フィンチャーの映画では、基本となる雰囲気を映像とストーリーで作れるかが勝負なのだ。 それを堪能することがかれの映画の楽しみ方であって、いたずらにストーリーを追いかけ始めると、そこには演出が存在しないので感情移入という古典的な映画としての最低ラインを外してしまう。
だから彼の映画はストーリーを追いかけるものではなく、映像の力で見せるという異形の映画と認識した方が良いだろう。どこかコマーシャル・フォトやCMに近い感覚なのかな。プロモーション・ヴィデオの普及でそういう映像・映画も私たちのなかに許容できるレンジができたのだと思う。映像の力だけでも映画を楽しめる時代ということなのでしょうな。


クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶアッパレ!戦国大合戦
原恵一 02 ワーナーマイカル熊谷

前作は掛け値なしの大傑作だったけど、今回はまた難しいモノ作ったね。曰く「クレしんでやる必要があるのか」「アニ メでこんな作品を作って良いのか」。
答えは、監督の意図に乗るか、乗らないかの二通りあって、それぞれ正解だと思う。アニメ・ヲタクの、「ここはいいけどあれはダメ」という部分的な賛成を封印しているのだ。まるごと好きか嫌いかしかない踏み絵のような映画。その意味では前作を引き継いでいるともいえよう。非常に個人的な映画でありながら、その佇まいとアピール先は大衆向けの形式を取っている。そのバランスの取り方が 名人芸に近くなってきているんじゃないだろうか。
監督が、こう思わせたい作品世界を実現するのに要する、映画内時間やファンタジーを感じさせる仕掛けが実に上手い。眼を閉じるだけで念じるだけでタイムスリップするなんて、恐くて普通は考えてもできない。それを難なく演出してしまう力に恐れ入った。戦国時代の合戦の細かい描写などこだわりの世界感によってさらに内容が厚みを持つ。
当時の倫理感の葛藤を物語の軸に据えながら実にあっさりと進む。アニメーションのシナリオの感情を描き込まないでもいいという、大雑把さを逆手に取って、物語を大胆に進める確信犯的な作業。アニメーションの世界ではものすごい完成度だと思う。
だから、それに同意して楽しむかどうかで評価は分かれるんじゃないだろうか。お約束ごとを見事にクリアしているけど突っ込むところもたくさんあるということです。そりゃ、アニメだモン。
けど、おらはしんちゃんが活躍する、おバカ・アクションがもっと観たいぞお。


ロード・オブ・ザ・リング
The Lord of the Rings
ピーター・ジャクソン 02 ワーナーマイカル熊谷

今後残りの二作を観ようが、DVD BOXが出ようときっと満足をすることができないだろうし、様々なクリエーターたちには 立ちはだかる大きな壁(ようするにこれくらいできるよねという基準点)になることは間違いない。いつの間にか単なるおもちゃのプロモーション映画に堕ちたスター・ウォーズのように慰撫してくれることもない(ようするに観客をナメるってことだけど)。
ただそこには圧倒的な映画体験しかないのだ。映画っておもしろいんだとため息をつける贅沢を味わおう。これが贅沢なことだと後からわかることもまた良しだろうし、すべての細部が映画に対して奉仕している。豊かな映画とはなにかを良く知っているピーター・ジャクソンならではだ。テクニックを知っているとどうしても逃げ場を作りたくなってしまうのだけど、彼はどの映画でも決して逃げ場を作らず、ひたすらマジメに観客を納得されるまで丁寧に撮る。そのヴィジョンの強さは昔から変わることがない。 エンターテインメントとはこういうことだ。
どうしても長くなりすぎて3時間では収まりきれなかったことが明らかなのは、セリフのシーン以外はほとんどぎりぎりなまでにカットされていることからもよくわかる。そのためにリズムが性急な一方で説明過多に感じられる。まあDVDとかディレクターズ・カットで5時間ヴァージョンとかできるのだろうから、それだけでも10年は楽しめるわな。


ブラック・ホーク・ダウン
BLACK HAWK DOWN
 リドリー・スコット 02 ワーナーマイカル熊谷

タイタニック症候群にはまったプロデューサー、ジェフリー・ブラッカイマーは、『パール・ハーバー』と同時にこの映画の企画を立ち上げたに違いない。企画書のタイトルだけを書き換えて……。負け戦に翻弄される人間を描けば感動して客が入るに違いないと、自らもタイタニックに号泣しただろうプロデューサーは考えた。
しかし、この映画ではもっともそれから遠い映画監督を選んだようだ。リドリー・スコットは『ハンニバル』が当たらなかった結果、自分は『グラデュエーター』の監督だと納得することにした。派手で残酷な戦闘シーンにこそ、観客が求めるものがあると考えた。元々登場人物が何を考え、 感情を明らかにしたりすることに興味を持たない監督は、兵士を徹底的な戦闘マシーンにすることにした。
あまりに本物らしさにこだわりすぎるために、兵士がみな坊主刈りでだれがだれだかわからなくなった。ストーリーも別に負け戦はどうでも良かったので戦闘シーンに力を入れることにした。内蔵がドバッと出ないと受けないからな。
主人公のアメリカ人たちの視点から撮るために、アフリカ人の様子はステレオタイプに撮ることにした。あの大阪の日本人どもと同じようでいいだろう。道頓堀を封鎖してスモークを炊いたのと同じく、モロッコの廃墟と工事現場を封鎖して撮影しよう。ヘリコプターのシーンはストーリーボードを用意してその通りに撮るようにB班に命じよう。つながりは考えなくていい。やっぱり夕陽をバックに出撃した方が恰好良いからな。 夜間のグリーンのフィルターはなかなか良い効果が出た。今後も使うことにしよう。
と、妄想するが最後にこの映画を捧げられた亡きリドリーかあちゃんは天国でどんな気分なのだろうか。


カタクリ家の幸福
三池崇史 01 リーブル池袋

いまの日本で一番おもしろい映画を連発する監督の作品が、これほど次々と観られるのはなんと幸福なことか。一作を観終わって、次作を渇望すること無いなんてことがあり得るのか。あらゆるうるさ方を唸らせながら問題作ばかり作ってしまうアタマの中はどうなっているのだろう。
この映画は韓国映画『クワイエット・ファミリー』のリメイク。この映画のリメイク権を誰が買ったのだろうかというハナシもあるが、これを三池に振った松竹もようワカラン。これをオペレッタというか歌謡ロックショーに仕上げる三池監督もようワカランなあ。ただどんな映画でもおもしろく作り上げてしまうテクニックを手に入れたことで暴走度はますます加速している。
このテクニックが果たしてどこから来たのかをずっと考えているのだけど、まったく予測が出来ないけれど抜群の安定度と納得度を持ったカット割りは映画を観たりしているだけじゃ出来ないよなと思う。現場を知り尽くしていないと生まれない。
誰にも似ていないが、これが三池カットだ、というのも無い。省略と豊饒を一度に画面に納める。予算と時間が限られた現場で最大限の効果を出す。かと言って安直などこかで観たカット割りに逃げない。
これって映画の手法よりは、テレビの自由さではないかと思う。テレビ映画の現場に何本も付いていたこともあるだろうが、35ミリフィルムの感度がヴィデオよりも、実は遥かに自由度が大きいことを監督はよく分かっていると思う。それを実現する撮影・照明チームもいままでの映画製作現場の思考パターンに囚われていないのだろう。普通は恐くてもっとカットを割るのをワンカットで撮ったり、逆に、こんな即物的なアップは入れないよと言われるのを平気で入れて、短い数秒のカットとして成立させる。ワンシーン・ワンカットも手法としてだけではなく、現場の効率と効果を一挙に解決することを旨としている。
かれの一見ごちゃごちゃに見えるフィルモ・グラフィーを家族、家庭の共同体への執着をキーワードにして解き明かせるだろうか。三池映画の登場人物は、いつも共同体とその周辺にいながら、はじかれているハグレ集団の中での諍いを描いているように思える。
それは、デビュー作からチャイニーズ・マフィアと中国残留孤児の子供たちという合わせ鏡のような登場人物を配していることからも明らかだ。『殺し屋1』にしても、イチと垣原を考えてみればわかるし、『DOA』シリーズの力と翔もそうだ。 おもしろいことに対立していても必ずどちらかは大組織で一方は小組織なんだよね。それも外からその集団を壊そうとする相手には徹底的に戦うという、いわばチンピラの疑似家族の世界が根底にあるのではないだろうか。登場人物の対立軸はすぐには分からないが、次第に日本人(アジア人)にはしっくり来るもの任侠なので受け入れられるようになる。ヤクザ映画の世界だね。
大体いつもアタマに人がゴチャッと出てきてその関係がなかなか分からないんだよ。そこでは既に映画の前の設定段階で出来上がっている役割分担で動いているので、彼らにとっては自明な関係なのだけど、映画では観客には分からない。『DOA』の1も2もそうだ。いわば裏設定が既に監督のアタマのなかでは出来ているということ。それを説明することには興味がないんだろうね。連続ドラマのようにもうおなじみの設定なので説明はしないで事件から入るみたいなことじゃないかな。
話が動き出すのはその内部においての諍いから起きる対立からで、それもその外側にいる巨大な敵の出現を待つまでだ。それが疑似家族を呑み込もうとすると死にものぐるいで戦う。その様がいつも泣かされる。そこには犬死にと崇高な犠牲が必ず交互に現れるが、そこには救いは無い。必ず、 誘惑されて仲間から裏切り者が出てきたり、女が虐待されたり、過度な残酷シーンも、共同体を抜けようとしたり、守ろうとしたりする過度の動きだ。ただそれらはすぐにもっと大きなものに呑み込まれてしまう。主人公に平穏か和解が行われようとすると、その相手が死ぬことが多い。
ラストの結論は常に恣意的ケレンなので感情的な話は、大体その前にヤマを迎えて終わる。最後は映画的な面白さ、カタルシスに持っていく。そこがタガが外れた風に見えるのだろうね。いわゆるケレンのラストシーンがそうだ。そこではすべてがチャラにされるのでマジメな人は怒るんだろうね。まあそれは正しいけど。そこまで来ると監督の意図はストーリーラインに沿ったところから逸脱して映画の画としてここまではいけるよなと暴走するようだ。『DOA』のCG、『アンドロメディア』の海辺の桜、もそうだろう。
こう考えると『DOA2』を監督が大好きなのもよく分かる。ふたりの仕事や生まれ育ちを通じた関係性やユートピア感、共同体の在り方が監督の理想だと言うことが考えられる。
でもさ、ヤクザ映画の典型の展開といえばそれまでなんだけど、三池映画の映画の感情の起伏の流れが似ていると感じるのはこの辺だろう。逆に言えばどの脚本もこのラインに作り直してしまうのだろうと思う。
『カタクリ家の幸福』のこのラインに近い気がするけど。家族愛というか共同体への監督の考える偏愛は本気だと思う。
馬飼野康二の音楽も歌謡曲していて、沢田研二の唄にうまく乗せることができている。HD24pでの撮影もまだ未完成な機械をうまくボロがでないように、速いカメラの動き、過度のアップ、照明のコントラストの差が無いようにと工夫している。


ピッチ・ブラック
 PITCH BLACK
 デヴィッド・トゥーヒー 00 ヴィデオ

様々な人々を乗せた宇宙船が故障して降り立った惑星には未知の殺人生命体がいる。やつらは暗闇でしか動けない。たまたまその日は月蝕のはじまりだった。脱出まではあと数時間。乗客のリーダー格は、知恵はあるが信用できない極悪非道の囚人だ。
とまあハナシを聴くだけだとワクワクするのだけど、なにしろ演出が全くのヘタレであるので一向に盛り上がらない。 どうしたらこんなにつまらなくできるのだろうか。SFというなんでもありのキャンバスを与えられたのに全然スケール感がない。安っぽいことを逆手に取れば『アンドロメダ…』や いくつかのTVSFシリーズを応用すればいろんなことができると思うのだけど。半端に豪華なVFXやモンスターだけが目立つ。これくらいだったら日本からアニメの監督を引き抜いた方がナンボおもしろいものができるやら。そういう考え方はないのだろうか。


グッド・フェローズ
GOODFELLAS
 マーティン・スコセッシ 90 ヴィデオ

やはりニューヨークのチンピラを描かせるとスコセッシに敵うものはいないな。何者かに影響されて、パシリから組織の一員になり、主人公が狂気に駆られ、逆に破滅するのがかれの映画のスタイルだ。そこから外れるとおもしろくないし、主人公の成り上がりぶりがなんとも言えなくヨロシクと言いたくなるのはどこでも同じらしい。走り出したら止まらない、その狂気こそがスコセッシだ。
ポップミュージックの使い方として、ものすごくセンスの良い映画だ。かつてファスビンダーのカメラマンであり、本作 でも撮影担当のミヒャエル・バウハウスは、『アフター・アワーズ』でスティディ・カムの移動速度とタイミングでモーツアル トのリズムについて議論したという。その移動ショットはここでも健在だ。


殺し屋1
三池崇史 01 新宿

ちょっとこの映画を評する言葉をいま持っていない。三池崇史が日本で抜群の演出力を持っている監督であることは 間違いない。ただ近作を観るとエネルギーだけが膨張して、映画の方向性を見失っていることも否めないと思う。三池が映画に求めているものがどんどん変質していっていることは近作を観るとよくわかる。昔風の言い方をすると、ストーリーを解体する方向というのだろうね。例えば 80年代の寵児であった森田芳光などが『家族ゲーム』でアンタッチャブ ルの存在になり、『そろばんずく』、『ときめきに死す』などで、どんどん観客を突き放した映画を撮ってドン詰まって、『それから』でまた再びストーリーに帰ってきたように、アンタッチャブルな存在になった三池は、いまは物語とは一番遠い方向に突き進んでいる、表現者としての必然の道を辿っているとも言えよう。
抜群のシーンの演出力により、断片化された映画の各シーンは暴走し、より充実していく。ワン・シーンの情報量と説得力は世界一じゃないだろうか。同じ条件で撮っても一方はVシネにしかならないのに、三池ではスペクタクルになる。
しかし以前はストーリー展開にも考慮していて丁寧に時間を緩やかにして観客を置き去りにしていなかった部分(あるいは感傷的な部分)を、どんどん捨ててきて映画を成立させる方向へとシフトしてきた。編集の巧みさ(暴力的なつなぎ)がどんどん浸食してきたと思う。それは音と画の共演とも言える。北野武が簡潔にして暴力的な効果を上げてきたものをさらに徹底し、シーンのつなぎを加速してきた。
いまはマスコミ的に突拍子もないシーンの飛ばし方をすればするほど客が喜ぶんで、ケレンで行っているけれど、結局は感情がついて来れない部分が残ってしまう。 『漂流街』のラストはもっと泣ける、いや泣きたいのだけども、アタマのシーンでああいう風に納得をあきらめて客を選んでいるので、感情がついていけないんだよね。『DOA2』も同じ。観客は未消化に終わる。監督はそこまでついて来て欲しいんだと思うのだろうが、ちょっと無理じゃないのかなあ。
本作のラストの子ども、SABU、浅野、塚本の各人の映画のけじめのカタルシスが崩壊しているのも同じだと思う。そこら辺が吹っ切れない三池自身がいるのだろうと思うけど。
わたしとしては、ラストで感情の頂点に達するほどのエクスタシーを持つ作品を作る方向へ早くシフトして欲しい。ああ、それから大森南朋いいなあ。かれをうまく使う映画アリだと思うのだが。


ゴジラ・モスラ・キングギドラ 大怪獣総攻撃
金子修介 01 新宿東宝

いきなり、宇崎竜道 新山千春がトップ二枚看板で大いにコケる。えー、他に無いのかいなあ。主役ふたりのあまりにも滑舌の悪さに閉口する。宇崎のいちいち貯める演技や新山の訛りを隠すための変な発音、だれか直してくれえ。
これで金子修介ってホント、役者に演技をつけることに興味ないことがわかった。役者がアニメみたいに動いてくれるのが一番の理想なんじゃないのかねえ。キャラクターもウルトラQじゃないのだから、類型的過ぎるんじゃないでしょうか。ということと関連すると思うんだけどさあ、今回 無意味なバイオレンス・シーンが多すぎると感じた。何の感情も乗らない暴力シーンは、ガメラのときも感じたけれど、今回はまったくどこに感情移入していいのかわからないかった。
ストーリー上の問題は怪獣マニアに任せるとして、怪獣を護り神にするなら、誰をなぜ守るのかをはっきりさせないと 意味無い。抽象的な戦後日本では今が足りない。結局はゴタク並べただけでいつもの着ぐるみショーでしかないと思う。


劇場版とっとこハム太郎 ハムハムランド大冒険
出崎統 01 新宿東宝

なぜベテランの出崎監督なのかわからん。樋口特撮監督による3DCGでダンスするキャラクター・ミニハムズの動きはすごかったけれど。セ ルアニメと3Dの両方を熟知してないと ああいう表現はできない。デジタルのみの世代には無理 じゃないだろうか。関係者には、そこら辺をぜひ見て欲しい。お話はねえ。ラストの人間のシーンくらいにしか興味がないんじゃないかとしか思えない。まあ良いけど。


ラッシュアワー2
RUSH HOUR2
ブレット・ラトナー 01 新宿ピカデリー

今回はジャッキーがアクション監督しているということで、アクションとコメディーが心地良い。クリス・タッカーの無意味な早口も安心して見ていられる。太ったジョン・ローンはかつての色気はないけれど、悪役としていい味を出している。ハリウッドでのジャッキーのあり方としては最高の香港ライクな出来ではないだろうか。


ゾンビコップ
DEAD HEAT
マーク・ゴールドブラット 88 ヴィデオ

ヴィデオ・バブル期には、思いがけないおもしろい映画が転がっていたりする。スティーブ・カーバーの『テキサス SWAT』(83)。デニス・ホッパー『アウト・オブ・ブルー』(80)。ジャック・ショルダー『ヒドゥン』(87)、フレッド・デッカー『ドラキュ リアン』(87)。
ちょうどコーエン兄弟やサム・ライミが認められる前後の微妙な時期、きつい予算でありながらきちんとした安定した作品を作るチームをよく観ると ロジャー・コーマンの名前がやはり出てくる。AIPの活動に続き、NEWWORLDというヴィデ オ市場中心の会社をはじめる。確か後に経営から手を引いたはずで、その後NEWWORLDも潰れたと思うが。
その会社からリリースされたのが本作だ。監督はこの作品の前に、ポール・ヴァーホーヴェンのハリウッドデビュー作の『ロボコップ』の第二班監督を務めている。この作品の執拗な銃撃戦はその影響があるのではないか。 ロジャー・コ ーマンらしい「もし刑事が死んでゾンビになったらどうか」というアイディアを手堅く撮っているとともに、二人組刑事もの の定番の軽いセリフの応酬などを押さえ90分にまとめる手腕はまだB級映画の法則が生きている時代のものだ。
特別出演のヴィンセント・プライスも自らのコーマン演出の作品がテレビで放映されていたり、その出演の扱いがピ ーター・ボグダノヴィッチの処女作『殺人者はライフルを持っていた』のようであり、わかる人にはわかる軽い遊びが入っている。この手の作品が消滅してしまって悲しいのは私だけだろうか。(jkさん、お薦め多謝)


バッドテイスト
BAD TASTE
ピーター・ジャクソン 87 ヴィデオ

自主映画(最近はインディーズというらしいが)でエンターテインメントを求めてはいけないと誰が決めたのだろうか。南半球の映画産業すらない国、ニュージーランドに新産業を作り出してしまったピーター・ジャクソンの第一作が、SFバイ オレンス・スプラッター・コメディの本作だ。
ここでも確信犯的に映画をうまく作る術を駆使している監督は『ロード・オブ・ザ・リング』なんか軽いものだろう。この作品ですでに数年がかりの映画をとっくに作っているんだからね。


グリ−ン・ディスティニー
臥虎藏龍
CROUCHING TIGER, HIDDEN DRAGON
アン・リー 00 ヴィデオ

劇場で観たらもっともっといい気分になれたろうな。映画の持つファンタジーの力を、いま最大限に利用しているのがワイヤワークであることは異論はないだろう。それをここまで磨き上げた香港のチームとここまでドキドキするシーンを作り上げた製作チームに脱帽。
お伽噺をこのような解釈で甦らせてくれる映画のマジックは、かつての黄金期のミュージカルに匹敵する。そしてそれを支えるスターの顔が説得力に満ち溢れている。彼らなら空を飛んでもおかしくない。これこそが映画におけるスターの役割なのだ。昔なら中村錦之助の役をチョー・ユン・ファが演じる。そうストーリーは東映時代劇なんですよ。美術も違和感がないし音楽も素晴らしいです。映画の持つ力を久々に感じさせてくれる映画です。


ヴィドック VIDOCQ
ピトフ 01 東映大泉Tジョイ

ソニーの開発したHD24Pカメラはホントのところ使いものになるのだろうか。満足できる画質という話は聞いたことが無 い。ソニーも本気なら、 ヴィトリオ・ストラーロあたりに札束で叩いて「こいつは使える」と言わせないと、いつまでたっ てもハリウッドじゃ使われないだろう。
本作ではCM出身の監督が色をいじりすぎて、まともな画がひとつもないので判断に悩む。白がきれいに出なかったり、速い動きについていけずに残像が出たり、肌のキメが見えすぎたりする欠点はヴィデオだなあと思うが、DLPだと良いのかもしれない。これについては『スターウォーズ・エピソード2』待ちだな。ただルーカスはいまひとつ信用できんが。
レ・ミゼラブルの原点になった、悪党であり探偵でもあるヴィドックの話を現代風にアレンジ。何でも演じるド・パルデュ ー!あんたは偉い。美術のマイク・キャロは冴えていて本領発揮。『デリカテッセン』、『ロスト・チャイルド』が好きな人にはお薦め。監督が生かしきれていない部分はあるけれどね。 江戸川乱歩が入っているストーリー世界はなかなか楽 しめる。CMやプロモ的な解釈による中世ヨーロッパな世界観です。清潔すぎたり、意外とエログロ部分が少ないのが不満なのだけど、頑張っています。フランスでも変な奴がまた現れたということで注目したいです。やはりCGの使い方も、 日本やアメリカと違う色遣いやアニメーションの動きは、デジタル分野の人には参考になるのではないでしょうか。
スパイ・キッズ
SPY KIDS
ロバート・ロドリゲス 01 ワーナーマイカル熊谷

安っぽいVFXだなあと観ていたら、製作場所がテキサスなのね。地元に産業を持ち帰ったわけだ。ハリウッドのやり方がいやだったのだろうか。前作の『パラサイト』も結構好きなんだけど本人としたらちょっと違ったんだろうか。 良い役が ヒスパニックで悪役がWASPであるところにロドリゲスの心意気を感じるな。メジャーでこういう色分けした娯楽映画は ないんじゃないの。
ただこの手の映画は、シナリオが勝負のところがあるんだけど、今回はアクションを選んだようだ。コメディとしては編集が詰めすぎているので笑うタイミングがむずかしい。笑うところは、もうちょっと緩やかにつないで欲しい。もうちょっとばかばかしくてもいいかな。子ども版007を強調してもいいくらいだ。おとなと子どもの世界の違いがもっと出たらよかったのに。子どもっぽいドジなおとなと、オトナっぽい賢い子どもになっちゃうんであっさりしすぎた。でもエンターテイ ンメントとしてはすごくよくできてます。小学生にみせたら興奮して、知恵熱出ちゃうんじゃないかな。


アメリ
AMERI
ジャン=ピエール・ジュネ 01 ワーナーマイカル大宮

映画の可能性を信じていないとこの手の映画は失敗する。で、全体をコントロールすることに決めて徹底的にミニマルなかたちにしてのが成功している。
成功した監督じゃないと通らない企画だろう。シナリオ読んだだけじゃおもしろいんだかわからないだろうね。主人公が何者だかわからないと言われるだろう。確固とした画として見えていないと作れない映画だ。
まるで岡崎京子の短編のようにたわいもない話のなかから抽出された、シーンごとのエッセンスを並べた強引なストーリー展開。ストーリーのためのシーンではなく、シーンを充実させるためのシーン作りに全力を注いでいて、それをいか にも巴里的でコートしたんで雰囲気作りもうまくいっている。これは奇跡的なシーンづくりのうまさなのだが、 変人たちが裁かれることもなく変なことを堂々としている (ただ意地悪な八百屋はやっつけられるが)。その狭く完結した世界が心地良く感じるような仕掛けになっている。 この楽しみは、小説を読む楽しさではなく、通販のカタログを読む楽しさに似ている。小物の細部ってこと。かろうじてストーリーになっているけど、この世界に浸ったらラストはおまけみたいなもの。お菓子でもポリポリと食べながら観るのがいいです。



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