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映画本 2002


伊福部昭 音楽家の誕生 木部与巴仁:新潮社:2600

 

自分の好きな人を顕揚するのにこれほど丹精こめた文章はそうない。本当にやさしい言葉で書かれてこの人の素晴らしさを伝えたいという謙譲の姿勢で書かれている。それだけ伊福部昭も素敵な人なのであろう。

彼の祖先はオオクニヌシノミコトまで遡れる神官の家。北海道で生まれ、10代から亡命ロシア人の現代音楽家に見出され、当時から黒沢映画の作曲家として後に有名になる早坂文雄と交友を結ぶ。そして今も延々と作曲を続ける。300近くも書いたという映画音楽は実は彼の一部でしかないのだ。若い頃に夢中になったのが、ほぼリアルタイムでエリック・サティというのもええっ、と思わせるがよく読むと理解できるようになってくるし、伊福部という現代作曲家のスタンスも見えてくる。

東京芸大で教鞭を取った最初の授業での言葉がすごい、‘終戦直後の食うや食わずの時代というのに、ダンディな蝶ネクタイ姿で、開口一番「定評のある美しか認めぬ人を私は軽蔑する」というアンドレ・ジイドの言葉を引用し、「芸術家たるものは、道ばたの石の地蔵さんの頭に、カラスに糞をたれた。その跡を美しいと思うような新鮮な感覚と心を持たなければならない」’と言ったと生徒の黛敏郎が書き残している。こんなことを言われたら学生は参っちゃうよね。さらに伊福部本人に聞くと、‘もっとも、ジイドの言葉には続きがあるんです。これもまた美しいということを、人よりも咲きに美の刻印を押す人、それも私は芸術家と呼ぶ、と。’なぞと平然と言う。うーん。そんな言葉が一杯です。彼の曲を聴きたくなること請け合いです。

最後に、ゴジラの映画音楽について‘まあ、自分の背中を見ることができないのは世界で私一人ですから。ゴジラの音楽になぜ人気があるのか。私はこうではなかろうかと感ずるだけで、本当の理由は違うところにあると思います

 


テレビの黄金時代 小林信彦:文藝春秋社:1857

 昔出ていた、著者の編纂の「テレビの黄金時代」と同一の書名だが、中身は違う。小林の最近の芸人ノンフィクションの手法で彼がテレビの現場にいた時代を書いている。これを読むとディープな小林信彦マニアは(私だ!)、あのフィクションのあの人物は彼がモデルだったのねというのがさらにわかる。逆に読んだ事のあるネタも多いことも確かだ。

冒頭に書かれている「イグアナドンの卵」という芸術祭参加バラエティー番組(!)を有楽町読売ホールで見たことがある。印象は薄い大学生が文化祭でやる観念的な劇のように思えた。ちょっと持ち上げ過ぎのような気もするのだがその当時を思えば画期的な番組だったのだろう。ただテレビと言う舞台に飛び込み、駈け抜けて行った人たちが活写されてあの人がテレビをどう使ったのか、いわゆるタレントの姿が現われている。青島、永、巨泉、前武、作者自身、もしイレブンPMの司会を引き受けていたらといまでも考えることがあるのだろう。その人間観察も見事だ。今回、日本テレビ内の派閥争いについてもはじめてキチンと書いている。なにがあったのか。しかし作者の粘着質はすごいと思う。政治風刺をしていながら、実は変節漢だった放送作家三木トリローの実像について、近くにいた神吉拓郎は死ぬまで口を開かなかったことを非難しているところなぞ、執念だなあと思う。他の芸人シリーズよりも一歩引いた位置から書いているので、いつものセンチさとお友達理解者感覚が前面に出ていないので鼻につくこともない。テレビの通史としてもオモシロイ。
 


虫プロ興亡記 安仁明太の青春 山本暎一:新潮社:1500

 虫プロという日本のテレビ・アニメーションに神話を作り上げた会社がどのように誕生し何が行われ、そして消えて行ったか。その様子を内部に一人のアニメーター、演出家として立ち会った作者が小説として書いている。

鉄腕アトム誕生云々は資料が出回っているので割愛するが、虫プロは手塚の会社でもマンが原作をアニメ化する会社ではなく、実験的なアニメーション映画をつくることを目的として作られた。だから手塚は長編映画の製作には直接かかわっていなかったりもする。その辺りの距離感がいままで分からなかった。

主人公が、虫プロの一連のアニメーション映画『ある街角の物語』『クレオパトラ』、『千夜一夜物語』などに演出として立ち会って手塚カラーとは違う作品を発表していく過程。どんどん手塚の手を離れ、その割には社長としての責任の減らないアニメーション製作会社。そのなかで手塚は実験アニメをやらないのか、営利アニメだけでいいのかと社員にアンケートを出したり、どんどんアニメーターたちと疎遠になっていく。そのマンガ家の姿が淋しい。初期の海千山千のアニメーターたちが集まりわいわいと作り上げて行く様子は読んでいて楽しいし、最後までアニメーターの仕事の理想を語る主人公たちは作り手の心意気を失っていない。虫プロの終わりの頃、虫プロ商事の一人としてヤマトの西崎が現われてくるのも時代かなと思う。虫プロの長編アニメーション映画をちゃんと見てみたいです。
 


金城哲夫 ウルトラマン島唄 上原正三:筑摩書房:2200

 沖縄出身のシナリオライター、金城哲夫はウルトラQから、マイティー・ジャックまで円谷プロの文芸部門の長を務めた。上原正三は同郷の金城を頼り、ウルトラQから円谷プロに出入りをしてその作家活動をはじめる。今回作者は金城の未公開の日記などを読み、あくまでも上原の視点から金城哲夫というウルトラマンを作った男を描き出す。

 そこには、いままで存在しないテレビ番組を作り出す企画書を持ち歩くエネルギッシュな男の姿がある。怪獣について理解のない者が「最後に怪獣を殺すだけの話だ」というのを、金城は「そうではなく、怪獣を元のところに戻すのだ」と説明する。これを読むと、ウルトラマンだけが殺伐とせずにやさしい印象のあることが思い出される。冒頭に引用される実相寺監督の「ウルトラマン――本籍沖縄」というのがわかるような気がした。ただ沖縄に帰ってからの姿は読んでいて苦しいものがある。


アメリカ映画の文化史(上下) ロバート・スケラー:講談社学術文庫:各900

 

 アメリカ映画をその最初から1960年代のニューシネマの頃までを社会科学の方向から切って行く。そこにあるキーワードは、検閲、トラスト、中産階級だ。

 移民相手の商売のニッケル・オデオンは、エジソンがフィルムや機材の独占によって作り出されたトラスト(独占企業体)と非トラストの争いの中で繁栄していく。それも結局非トラスト組みが勝ち、それがハリウッドの基になっていく。そこらの叩き上げが撮影所の主、タイクーンたちだ。

観客として映画産業を支えた中産階級(労働者・移民階級)に対しての20世紀のアメリカ人のモラルを規定していくのに映画が利用される。というよりもいかがわしい映画というものに行くことができる免罪符として自主検閲が導入される。その制約のために60年代には世界の流れから取り残されてしまうのも事実だ。反対に言えば、映画の検閲を通った「アメリカ式生活様式」がアメリカ中流社会のモラルを作り上げたことを指摘する。フランク・キャプラの在り方などが分かりやすいだろう。もうちょっとウォールストリートとの関係が書かれていればもっと複眼的になったのに。


 


松本清張の映像世界 林 悦子:ワイズ出版 :2,200

 

松本清張の原作を映像化するための会社、霧プロ。そんなプロダクションを切り盛りをした女性からみた清張のまわりの人間模様。ただみんな原作が欲しいから腰が低い。しかし清張の死後の映像化権の奪い合いは人間関係のどろどろがそれこそ清張作品のようだ。でもそれほど面白いわけでもなく、だからなんだということも無いのだが。

 

 


 


映画は陽炎の如く 
 犬塚稔:草思社:2200

 百歳を越えた、脚本家・監督としての筆者の自伝。まわりはみんな死んじゃったから言いたい放題怖いもの無し。でもそれほど映画史的にみて面白いことが書かれているかというところでの資料的な部分はどれくらいあるかはちょっと疑問。
 戦前、松竹京都に入り、サイレント時代からシナリオを書き始め、長谷川一夫のデビュー作で監督をするようにもなる。その後阪妻のプロダクションに入ったり、日活に行ったりして、座頭市のライターというのがわかりやすいのではないか。
 いわゆる有名監督はほとんど出てきません。松竹京都の周辺の人々が主な登場人物です。しかも、シナリオが良くないと映画はダメだと言って監督をしなくなった人ですから、手厳しい。長谷川一夫の顔斬り事件の真相(これはマキノの自伝と読み併せるとおもしろい)。衣笠貞之助の人格の悪さ。阪妻のエキセントリックさ。永田雅一のカツドウヤとしての人物像などが描かれる。
 またカツシンについては、座頭市の続編をタダでシナリオを書かされたと裁判を起こして敗れるまでを克明に記録し、墓石をひっくり返す勢いで罵倒する。そして最後にそのシナリオを掲載するしつこさ。
 人間さいごまで生き残った者は強いですな。
 
 
 
 
 



タチ「ぼくの伯父さん」ジャック・タチの真実
 マルク・ドンテ:国書刊行会:2400

 ジャック・タチという孤高の作家について当時の評論、証言を膨大な写真とともに振りかえる資料本と言っていいだろう。そこには余計な論評やプライベートの詮索はない。ひたすら真面目である。それゆえに退屈だけど。タチのどこまでもモダンな作風はだれにも似ていないし、理解はされることはない。同時代のもうひとりの作家ロベール・ブレッソンは、その禁欲さゆえに論評しやすく模倣されやすいのでいまの語られるが、タチはまるで違う。それは彼の映画を何回見てもわからないことだと思うけど。彼の映画製作の姿勢はいまも見習うことは多いと思う。
 『プレイタイム』を撮影するためにワンブロック分のビル群をふくむ都市の一角を建設した辺りの記述を読むと、「レオス・カラックス……小さい、ちいさい」と呟きたくなる。
 
 
 
 
 



スカイウォーキング ジョージ・ルーカス伝
 デール・ポロック:ソニー・マガジン:2000

 最近は何かというと、ジョージ・ルーカスは対スピルバーグの図式で語られることが多いが、実はルーカスの対立軸はフランシス・コッポラなわけで、この二人の近親憎悪は消えることはないと思われる。
 お互いがそれぞれに一番なりたい人物であり、またそのネガ像でもある。その距離の取り方が映画産業でスタジオに取り込まれずに、どう生きるかが問われている。大っぴらに面と向かって大手スタジオに逆らったのは、このふたりだけと言ってもいいだろう。そう、このふたりの原点はサンフランシスコに作られた映画作家たちのための独立スタジオ、アメリカン・ゾエトロープだった。
 ここで社長職を任されたルーカスは、田舎町の文房具屋の無口な倅であり、倹約の精神をたたき込まれていた。一方の作曲家の息子のコッポラは大言壮語と浪費癖が直らない、というか考えていなかった。
 そのふたりの性格が映画に対する情熱以前の現実問題が立ちはだかった。結局のところスタジオは破綻し二人は決別する。ルーカスは『アメリカン・グラフィティ』の企画を通そうとするが、スタジオは首を縦に振らない。そこで『ゴッドファーザー』で当てたコッポラをプロデューサーに据えることでようやくゴーサインが出る。社交的なコッポラと無口なルーカスの奇妙な関係の一例だ。
 映画は大ヒットする。すると、ルーカスはコッポラを拒絶する。実利はルーカスというわけだ。それ以前にルーカスが『THX1138』を作り、お蔵入りとなったときコッポラは『ゴッドファーザー』でハリウッドで影響力を振り回す。芸術と実利があったわけだ。
 ふたりを決定的に分けるのは、『地獄の黙示録』だろう。ルーカスの低予算リアリズムのアプローチに対して、コッポラの大型予算かつ芸術的な作品づくり。ここでも結果は見たとおりだ。ルーカスは自身の企画が滅茶苦茶にされたことでコッポラと離れていく。
 しかしいまの二人を見ると、立場が反対になっているようにみえる。『地獄の黙示録』のカーツ大佐のように自分の城から出てこないルーカス。小回りの利く実験作品ばかり作るようになっているコッポラ。
 と見えるが、もう一度よく考えると、スターウォーズ・サガという個人で実験的な映画を作っているルーカスと、大衆から喝采を受けようとジャンル映画を作り続けるコッポラ。やはりこのふたりの指向性は似ていることがわかる。
 本書は、ルーカスの誕生から、『帝国の逆襲』の頃までの伝記で一応ルーカス公認なので暴露本じゃありません。コッポラとの対立あたりを深読みするとさらに楽しめます。


シネマ坊主
松本人志:日経BP:1000

 言っていることは極めてマトモであり、そのこと自体は驚くことではないけれど、それが意外に映画を識っているように思われてしまうのは、この国にマトモな映画評論がない証拠なのだと思う。まあ見ていればわかるけど、数年たてば評価が定まる作品ばかりなので、その時に読み返せば、「なんと普通なことを言っているのか」と思うだろう。逆に松本の下らない自慢話だけが鼻に付くというわけだ。タレント本なんかはみんなそんなものだけどね。だからその時にはバカ売れするけども、あとは見向きもされない。そんなもんだ。
 彼の見方はそれほど独自のものではなく、オチがないとアカン。外国の風習はようワカラン。簡単に感動はセエヘン。と普通の感覚であって、テレビの作り手としては真っ当な神経だと思います。雑誌の保守おやじコラムですな、この人の書いているものは。
 
 
 
 
 


ハリウッド・ビジネス 
ミドリ・モール:文春新書:700

 「映画とは芸術性の高い商品である」この一言を認めるかでハリウッドへの道が開かれる。
 著者はハリウッドでエンターテインメント関係の弁護士を務めている。筆者が驚いたのは契約社会アメリカなのに、ハリウッドの契約概念は非常に甘いことだ。口約束が多く、作業が終わった後に契約書を作ることがザラだという。
 具体的な例が多くて楽しめる。『オースティン・パワーズ』のマイク・マイヤーは映画を作りたくなくて言い訳を考えていた。契約書には、彼が全権を握りシナリオを決定出来るとあるのを見つけ、シナリオが気に入らないと言ってシナリオを書いた自分自身にNGを出して映画制作を延ばした。
 クリント・イーストウッドの愛人ソンドラ・ロックと別れるとき、彼女が映画監督になるのを助けたら告訴を取り下げると言われて映画会社ワーナーを紹介する。彼女は第一作は撮れたが次が何年経っても企画が却下され映画化出来ない。映画会社では全く映画を撮らせる気はなく、ウラでイーストウッドが手を回して、ワーナー経由で彼女の事務所経費を立て替えたりしたというのが真相。慰謝料をケチったということだ。
 資金を集めるが赤字なので出資者には戻らないカラクリはすごい。ハリウッドには数字の違う帳簿が4冊あるという事実を暴いた『星の王子ニューヨークに行く』裁判の経緯や、パーセンテージ収入のボーナスを巡るディズニーVSカッツエンバーグ裁判。ビデオの権利収入に対するハリウッドの考え方を変遷など資料としても目新しい。
 海千山千の強者というよりセコイ奴等が立ち回る世界の話だなあと思う。いまのハリウッドを読むサブテキストにお薦め。


夏草の道 小説浦山桐郎 
田山力哉:講談社:1748
 小説と書かれているので真偽の程は定かではないが、映画監督、浦山桐郎の想像の源を、ただただかれのコンプレックス意識に求めているフロイド的な解釈は通俗かつ一方的であろう。小説を書いた本人の手柄にはなるが、書かれたモデルにとっては不名誉としかならないものだ。
 日活時代の浦山作品の素晴らしさはそんなところに留まらないし、説明がつかない。原一男の本も読まないとなあとは思うのだが、本書のような文脈から逃れられるのかねえ。


人は大切なことも忘れてしまうから 松竹大船撮影所物語
山田太一 田中康義 宮川昭司 吉田剛 渡辺浩:マガジンハウス:3600
 

 日本映画の黄金期をスタジオ経営会社から描くとき、一番多いのが日活だ。なぜかみんな生き生きとして書かれている。その対極にあるのが本書だ。
 こんなにみんな罵倒している本は読んだことがない。松竹大船の落ち込みをそのまま活字にしているようだ。橋田壽賀子に至っては消したい過去と言う。そのあたりのパースペクティブの歪みがここに表れている。この本ほどかつて大船で働いた人々に給与の話ばかり聞いている本はないだろう。会社がけちで機材を買ってくれないといいながらも他人の懐具合ばかり気にしている部分がいやだなあ。
 またここまで小津安二郎の功罪を明らかにしてのもはじめてではないか。それが裏テーマとも読みとれる。最近の本では小津が古き良き日本映画人の象徴のように思われているけれど、大船じゃ別格の扱いの特異な例であったことがよくわかる。カメラの厚田雄春も他の監督からはボロクソ言われる。一致した意見としては小津は芸術映画を作ったが、誰も後身を育てなかったし、彼の映画は大船調ではないということだろう。その点で非常に政治的な人間だったのではないか。
 のちにチーフ助監督さえ経験していなかった大島渚がいきなり監督になれたのも、社内的政治力に長けていたことと関係があるだろう。
 また大船では小津か木下恵介か渋谷実か誰に付くかで、仕事量やギャラに返ってくるという社内の派閥の論理でみんな汲々としていた。だから外から来る人間との確執がすごかったし、外に出てからも松竹出身だからといって仕事をすることもなかったようだ。
 全体に、松竹の通史ではなく個人史の集まりなので偏っている部分が多く、小林正樹の『人間の絛件』がやたらピックアップされたり、松竹ヌーベル・バーグへの言及が多いことはそのあたりを体験した助監督連が多いことでもある。
 逆に物足りないのは、野村芳太郎や山根成行のような形で松竹を支えた人物の話がないことである。川島雄三に付いて、軽快な庶民派コメディーを山田洋次、前田陽一、森崎東らとともに築いてきた人物も取り上げるべきなんじゃないか。わたしの嫌いな『砂の器』が大好きという人は案外多い(なぜか地方の公務員や教師に多かったりする)。そのあたりのメンタリティーをどのように松竹が掬い上げたのか結構気になる。
 歪んだパースペクティブのなかで武満徹の言葉が引き立つ。「映画音楽っていうのには特定の法則とか美学っていうのはないように思うんですよ。映画の場合は一本一本が、新しい映画音楽の方法論っていうのを作りだすんではないかと思っている。」「いろんな不自由がありながら面白いっていうのは、自分が書いた音楽が他の映像と、共同の作業のなかで、違うもののようになっていくからです。(中略)そうね、自分でも予測できないような、予測できなかったように動きはじめるっていうのかな。」


映画監督の未映像化プロジェクト エスクァイアマガジンジャパン:1600

 ムックとしてはおもしろい切り口だけど、レイアウトが滅茶苦茶で詰め込んだだけという感じで読みづらい。いくつかの情報を拾い読みするには良いだろう。なんか昔のキネ旬世界の映画監督シリーズのようだ。作り手の愛情が感じられない。未映像化プロジェクトの紹介も中途半端だ。書きっ放しで、書かれている内容を編集者が理解しているとは思えない。読むよりも持ち歩いて、スターバックスの屋外テーブルに飾ってひとに見せるのには適している。
 
 
 
 
 
 
 


ディートリッヒ マリア・ライヴァ:新潮社:3,500

 マレーネ・ディートリヒがセックス・シンボルというのは長年ピンとこなかった。しかし、彼の娘が書いたこの赤裸々な伝記は、マレーネという不思議な生き物が女性を越えた存在として、どのように築き上げられたか克明に描かれている。またそれは背筋が寒くなるほど非人間的でもある。生きるハリウッド・バビロンだ。
 ジョセフ=フォン・スタンバーグが『嘆きの天使』に彼女を見出しハリウッドに招いたのは映画史の事実である。そのとき彼女はすでに娘を生んでいて、娘はマレーネの専属のアシスタントになる。毎日スタジオに通い、きらびやかな衣装のために、すでに身動きが取れないほどになっていた装飾過多のマレーネの手伝いをする。マレーネは映画の衣装も自分で創案し、スタンバーグ以外の監督作品では照明も自分で決めてうるさい照明チームからも一目置かれたという。
 しかし『恋のページェント』を頂点としてスタンバーグとのチームはこわれる。それがディートリヒ映画の最期でもあった。はっきり言って大根役者の彼女をマジックでイコンと化したのはスタンバーグであり、ディートリヒの人工美はスタンバーグの骨頂でもあった。いま思うとディートリヒの美しさは女性のための美しさのような気がする。この世のものではない人工な美しい存在が受けたのだと思う。それが結果として彼女の一生を支配するのだが。
 もうひとつ明らかにされたのが、いつも恋愛をしている彼女の姿。毎晩男を替えていた様子が描かれている。それが日常である感覚もすごいが、相手がジャン・ギャバンからパットン将軍までと多彩だ。
 後年のディートリヒはステージで復活する。特にバート・バカラックと組んだ時代が、かつての脚線美を変わらないサイボーグのような肉体を売り物にしてオールド・ファンを喜ばせていた。それも服の下にボディースーツを着用して身体の線を保っていたというから鬼気迫る。


 

   

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