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映画評  2002


 


阿弥陀堂だより 

小泉尭史 (ワーナーマイカル大宮)

 

 豪華な映画とは大規模予算の映画だけではない。いかに時間を掛けて製作をしたのかがフィルムには全部写ってしまうから怖いし、観客もそれを感じてしまうので恐ろしい。そこにある濃密な時間というのは、いま生きている時間と同調する瞬間を持っているかもしれない。そう感じ取れることでより豊かな時間を愉しむことができるのだろう。

 いわゆる癒しというキーワードで括ることもできる。アロマキャンドルを立てて、さあ癒されましょう、というカネを出すだけ癒される対処療法ではなく、もっと静かに手探りで進んでいく。長野の四季を追いかけながら自然の美しさよりも、そのなかに遍在する日本人の死生観を示そうとしている。『雨あがる』もそうだが、監督は何も押し付けない人なのだよね。そこがいわゆる邦画としては珍しいので違和感を憶える人も多いだろう。常に画面に現われる空気感のようなものをずっと求めている。その時間が観ている側の警戒を解いてしまう。

 「在っても良いファンタジー」を追いかけているように思う。設定がうそ臭いとか登場人物が偽善的だというのは簡単だ。ただ樋口可南子や寺尾聡が既製服を着て歩いているだけでホッとするし、彼女が病院に初出勤する朝、坂を下りその後姿を追っていると、野良仕事に出かける老婆たちと挨拶を交わすさりげないカットが素晴らしく強烈に感じる。セリフもね、結構思ったことや感じたことを口にしているのだけども、言葉として良いものがたくさんあって、これもファンタジーだと思っちゃうし、その世界観が良いね。

大人が観ることができる(大人の鑑賞に耐えるという意味ではない)、息の長い映画になったのではないでしょうか。樋口可南子はイイ。なんで映画に出なかったのかなあ。糸井重里のせいか?

 


神の子たち 

四ノ宮浩 (某所ホール 16mm映写)

 

 ドキュメンタリー映画は常に何かを突きつけられる瞬間を持っているのだけれど、その様子も最近は声高に政治・社会不正を叫ぶものから生活している人々を写していく静かなスタイルのものが多くなっているようだ。ひとつには政治形態が右左では無くなった事、もうひとつにはビデオやテレビニュースショーの広がりがあるのではないだろうか。簡単に見られるテレビの特集、終わった途端に司会者が「ではCMです」としか言わないものが表面的に単純にしかなぞらないことに対する無言の答え。ただこれらは日本のドキュメンタリーのみに言えることのようだ。ナレーションも無く、加藤登紀子のギター伴奏の歌が挿入歌として延々と流れるのには辟易するが、(そこら辺を作品として成立させたいのか、見せる運動にしたいのかハッキリしない。たぶん両方だと思うが。子供にはナレーションがないとわからないし、その点では説明不足だ)。

 フィリピン、スモーキーマウンテンの隣町にできたごみの山。それが崩壊して生き埋めになる人々。ごろりと並ぶ死体の山。それも目を背けなければ逆に受け入れることができる感覚の不思議さ。そう思うとハリウッド製のエンターテインメントの無意味な暴力に不感症になっている自分に気づく。いくつかの家族を並行して取材するのだが、なぜか食べるものに困ってもテレビは売らない。電気はどこから来ているのだろうか。貧しい=悲惨の図式にも、貧しさ=だけどどっこい生きているの図式にも乗らない、淡々した日常、生命の誕生と死。水頭症の赤ん坊が最初は表情も無くハエにたかられながら寝ているのを見るのも苦痛だったが、それが数ヶ月経って笑顔を見せるとこちらまでホッとする。その事実の力はただただ強い。

 


スパイダーマン 

サム・ライミ (DVD)

 

 ダニー・エルフマンの音楽を聴いて、『ダークマン』の監督の作品なら『バットマン』よりもケレン味があるはずと期待するのは間違いだろうか。絶体絶命の危機に晒されながらも、粘り強く偏執狂の如くアクションを繰り広げるに違いない。敵役も意味無く爆発は使わずに非情なことをするだろう。出てくる家族や友人も影のある変人揃いに決まっている。

 という予想はことごとく粉砕された。もし911のテロが無かったとしてもそれは払拭できただろうか。完成した映画を見る限り、サム・ライミに最終編集権があったようには思えない。明らかにカットを割りすぎなのだ。そのお蔭で映画が長すぎる割りには大雑把な印象しか残らない。シナリオのいい加減さもねえ、身内を殺されて復讐に目覚めて行くというのは基本だけど、てめえの自分勝手なドジで叔父が殺されて、そして正義に目覚めるというのは反則じゃないか。それは過剰な被害者意識という。今のアメリカ的感傷であって、作劇とは関係無い。

 ただね、ラストの辺りで少しは影が出てきたので、PART2に期待ということかな。今回はあまりの公的抑圧にサム・ライミが屈してしまったことにしておこう。キルティン・ダンスト起用に関してもね。

 


DAGON 

スチュワート・ゴードン (ヴィデオ)

 

 『ゾンバイオ、死霊のしたたり』以来、PHラブクラフトに憑かれているゴードンは、念願の『インスマウスの影』を現代に置き換えて映画化した。株バブルで儲けた若きドットコム企業の社長が妻と知り合いの弁護士夫妻と一緒にヨットで休暇に出るが嵐で事故に遭い、近くの寂れた村に助けを求めに行くとそこは…、という典型的な展開なのだが、さすが緊迫感のある演出の上手い監督ならではの雰囲気造りで全然低予算には見えない。美術も本当の廃ホテルなどを使っているのではないかな。雨漏りのする部屋のベッドのシーツをめくると黴だらけのところなんかホントに戦慄する。この人の限定された空間での芝居の付け方の巧みさは演劇出身なのだからだろうか。でもSFものはダメだもんなあ。ホラーが大好きなんだろうね、心底。夜間の照明も白黒映画のように部分的に強い光線を当てるやり方で、ハリウッドの夜間撮影のような全体的に当てるものと異なり懐かしいし、それがキチンと作品の質を上げている。

 邪教の王女が妖しく美しいのだけれども、かつてのホラー・クイーンのバーバラ・スティールそっくりなのですよ。

 こういう新宿東映パラスにかかるような小品娯楽映画はいまやビデオスルーなのかな。

 


ロボジョックス 

スチュワート・ゴードン (ヴィデオ)

 

 近未来、核戦争を廃止して大国同士の巨大ロボットによる戦いで領土問題を解決するというオープニングのナレーションに、雪が降るなか壊れたロボットが放置されている荒野をスロー・モーションで横移動するキャメラを観たときには、「これはすごいかも。中世の甲冑戦をロボットでやるのか、スケールのでかい話なのか」と期待していたのだが、その後がどうもいけません。人形アニメはデビッド・アレンの惚れ惚れする動きなのですが、役者、セット、衣装とトホホな展開であって、この大きなウソをつき続けることが出来なかったようです。まあそれはそれでオモシロイのだけれど。

 


DOA ファイナル 

三池崇史 (ヴィデオ)

 

 ファイナルと言うことでSFになってしまったが、まあそのままの設定のお約束通りのストーリーをものすごいスピードで的確に撮り上げるのは相変わらずの上手さ。三池映画を成立させている隠れた要因って、実はベタベタの家族ものの部分だと思う。要するにアクションの速度に観客がついて来れなくなる頃に、ギアを落として情愛のシーンを入れてくる、それをかなり本気で入れて来るので、観客は登場人物に追いついたような気になる(そんなことは最後までないのだが)。いわばシナリオで言えばクサイ部分である。普通アクション系の人なら飛ばして描くのを彼は丁寧に描く。逆に情緒系の人なら過度になる湿り気もない。そのバランスの取り方が抜群だと思う。そこが和泉聖治なぞとは同じような題材のシナリオでも出来が違うところだし、誰のシナリオでもこなせる自信でもあろう。

 そこは監督本人がたぶん一番自覚的で、その軸はブレることがないように思える。あくまで具体的に描くこと。そしてストーリー的に結末をどうつけるかという計算ではなくて、シーンの充実の総体としての映画を作って行く、独特のカタチはまだまだ続きそうだ。

 


フォートレス 

スチュワート・ゴードン (ヴィデオ)

 

 なんでクリストファー・ランバートって一時期あんなにたくさん映画の主役をしていたのだろうか?あまり上手いともハンサムとも思えないし、それほどカリスマ性も見出せないのだが。

誰も出ることが出来ない地下要塞監獄からの脱出を描くSF作品は、いかにもな作りのセットとやる気の無い役者のためか、安っぽいテレビ・ムービーのようだ。美術もいかにもSFな作りなので照明もベタにしか当てられず、芝居に説得力を与えられない。そこには『スペース・トラッカー』のような細部のジョークの入る余地も無い。刑務所長の変態的なキャラクターのみが、ゴードン映画らしい。

 


少林サッカー 
 チャウ・シンチー Tジョイ大泉

 なに一つ確かなことはない昨今だが、日本では2002年はW杯開催の年ではなく、少林サッカーの年として後年まで語られることは間違いないだろう。
 少年ジャンプのかつての(いまは知らないが)三大要素として、「友情」「努力」「勝利」を入れる鉄則があった。常に変化を生み出さねばならない消費社会の流れの中、会議ではマーケティングという統計のウソに踊らされ、いつ間にかそのテーゼは古いということになって、出来の悪いRPGのタイアップマンガしか読めなくなった。部数が伸びなくなったのは少子化や多様化のせいではない。そのことはこの映画が証明している。ただ作り手が自分を信じられなくなったということだけなんだろう。
 こんな話を、いま日本で会議に出したら間違い無くつぶされるだろう。キミはいまのトレンドがわかっていないね。どこが新しいのかね、と。映画の企画をつぶすのは簡単だ。娯楽には芸術性を、芸術には採算性を求めればいい。だれも観客の方を向いていない。いや自分が観客ですらない。観客は本気にしてくれる映画を探している。斜め読みしなきゃならないような映画の蔓延に飽き飽きしている。
 この映画が素晴らしいのは、そんな条件のなか、退行的に安直な企画ものに安住せず(「少林」と「サッカー」の組み合わせほど安直なものはないだろう)、ほんとうに観客に信じさせたいし、もちろん自分たちが信じているこの物語を語りたいという欲求が高度なテクニックの次元で結集しているのだ。でないと、あんなオープニングCGアニメの格好良さや、ワイヤとCGの融合の超現実感(ハイパーリアリティ)は作れないと断言できる。細かいつじつまの合わない部分を観客が無視して楽しんでくれるのも、これらの想いが伝わるから だろう。いわば作り手を観客が映画を共有するもっとも幸福な時間を生み出しているということなのだ。
 バカバカしいというのは簡単だ。でもバカバカしいことに映画の本質があると思いませんか。その想像力が映画の魅力と考えないですか。信じられるホラ話が無くなって楽しいですか。青いユニフォーム着てテレビの前で騒ぐのがそんなに楽しいですか。いますぐ映画館に行きなさい。そこにはもっと笑えてずっと幸せな気分にしてくれる映画が待ってます。


スターウォーズ エピソード2 クローンの攻撃
ジョージ・ルーカス
Tジョイ大泉

●ネタばれなので映画を観てからお楽しみ下さい。
 ウイッす、俺アナキン・スカイウォーカーっ言います。師匠のオビワンさんにはまだまだと言われてますが、自分としてはかなりできてると思ってます。
 今回は10年ぶりに会う、パドメ姐さんの護衛の仕事っす。すげえ久しぶりなんで楽しみなんすけど、ここだけのハナシ、自分姐さんにずっとホレてますんで。あ、パドメだ。マジ、激マブイじゃん。でも姐さん自分のことあんまし気にしてくれなかったようだし……。
 おっと、大変だ。パドメさんを襲うとはいい度胸じゃねえか。このアマ、どこのどいつだ。よっしゃ、スピーダーでぶっ飛ばすぞ。おらおらどけどけ、ぶつかるぞ!よし先回りだ。え、見失ったって。オビワン先輩勘弁してくださいよ、ぶつぶつ言うの。自分、やるときはやりますから。失礼します!。と飛び降りたはいいけども、ふつう真下に降りても走ってくる乗り物には乗れないよな。よほどタイミング合わないと。でもちょうど敵のスピーダーが来た。うりゃ、ライトセーバーを受けてみろよ、ほれほれ。ああ、また逃げられちまう。オビワンさん、この店ですか。なんかヤバくないですか。さすが先輩、ヤクには手を出さないんだ。なんか歌舞伎町のゲーセンみたいな店だなあ。とりあえず、ジェダイ!の一言で店の中でいくら暴れてもオッケーだもんな。
 殺し屋に死なれたのは痛いけど、お蔭でパドメと一緒に居られるぞ。オビワン先輩は国道沿いの昔ワルだった喫茶店のマスターに、吹き矢の出どころを聞きに行くと言ってた。宇宙船の中ならいまがチャンス、俺、告ることにしまッス。そしたらなんと向こうも想っててくれだんだと、ヤッタ。
 惑星ナブーでの警備、湖水地方の邸宅に二人っきりだなんて誘っているのかな。これでラブラブだと思ったのに、フォースで果物むいてやったりしたのに、なんでダメなのかな。歳が違いすぎてんのか、もしかして俺あそばれてるぅ?
 (ルーカス先生は、王族と金持ちの区別がつかないらしく、ただなんの気品もないタカビーな姐ちゃんとしてしかアミダラを描いてないです。)
 マザコンだということがバレタのかもしれない。でも夢に見るほどママが恋しいんだ。え、一緒にタトゥーインに行ってくれるって?いいよ、行かなくても。なに私が行くから護衛はついてきなさいって、仕方ねえな。
 懐かしいなあ、タトウーイン。変わらねえなあ、全く。あ、古物屋じゃないか。むかしは世話んなったなぁ。俺のママはどこ行ったんだ。え、再婚した。聞いてないぞ。
 さあママに会えるぞ。あれみんな暗い顔してよ、誘われた?もう生きてないだってふざけるな。この盗んだバイクで走ってくぞ。夕陽に向かって。インディアンのテントのようだけど、どこに捕まっているかはフォースを使わなくてもわかるぞ。ああ、ママが死んじゃうなんて。クソー、インディアンどもめ、虐殺してやる……。暗黒面に落ちる設定とは言えむごいんじゃないの、ダース・ベーダーになるにはスケールが小さいような気がするけど。うー、こんな俺になったのもオビワン先輩が認めてくれないからだ!愚連てやる。パドメとの話が深刻になった時に、オビワンさんからメッセージが来て助かったぜ。また助けに行くって、アミダラ。オビワンさんの言いつけ守らないと。わかったよ、行くよ。
 ちぇ、うまく敵の惑星に潜入したと思ったのに、派手なアクションの甲斐なく結局捕まっちまった。このシリーズはいつもそうだよな。インディー・ジョーンズもおなじパターンだけどよ。
 あ、オビワン先輩、スイマセン、ドジこきまして。え、皮肉言わなくても。(小声で)先輩もドジってんじゃないかよ。パドメは俺のこと信用してくれないで、とっとと柱を登っちまうし。クリーチャーはデザインイマイチだし、コロシアムってローマ時代そのままじゃない。ここは地球じゃないはずだけど、ジェダイの騎士をナメとんのか、おのれらは。それにしてもジャンゴ・フェットは弱すぎる。
 大して危機じゃなかったんだけど、みんながつるんで来てくれたんで助かったぜ。でもアクションがダルダルで、右往左往してるだけのような気がするけどさ。また降伏かよみんな集められて。と思ったら良いタイミングで名誉幹部のヨーダさんが戦闘モードで全開バリバリでやってくれたッス。さすがジェダイを束ねてただけあります!アクションシーンなんかオールCGで、『ファイナル・ファンタジー』みたいっすね(観てないけど)。CGスタッフもアフガン空爆とかのテレビ見過ぎじゃないっすかねえ。なんで他の銀河系にヘリコプターもどきがあるのかってことは聞かないで欲しいっす、ここだけ浮いてます。
 ドゥーク伯爵だ。逃げるのか、タイマン張ろうぜ。あ、腕が。やっぱ俺弱いのか。これで親子二代で腕無しだ。明かりが消えて暗い中のライトセーバーの戦いで、ドゥークとヨーダの二人、赤と青の光だけがチカチカしてポケモン効果で口から泡吹くかと思ったぜ。
 さいごまでパドメがなんで惚れたのかよくわからないけど、とりあえず結婚だ。ジョン・ウイリアムズのおっさんも大いにうるさいくらい盛り上げてくれるぜ。俺もヤンチャやめねえとな。双子も産まれる事だしよ。
 
 悪魔とペプシに魂を売り渡したルーカスに感情の物語が描けるとは思わなかったので期待はしていなかったけど、SFXにおいてもルーカスの独壇場がそろそろ耐えがたくなってきている。『帝国の逆襲』がイイと言われているのは、メカニック、クリーチャーデザインがシリーズの中で突出していることが挙げられる。
 メカがCGでしか表現できない代物なのでリアリティーが無さ過ぎるし、イメージがどこかから借りてきたものが多すぎる。爆撃ヘリにしても、兵隊にしてもヒドイ。まあダイナーのひどさに比べたらね。あのシーンは急遽付け足しじゃないかな。説明のためだけど、別にカネにウルサイ種族じゃなかったぞ。
 ルーカスのイメージを優先的にしているので、それがダサくても他のデザイナーは手出しが出来ないようで、それがトータルでデザインのチープさにつながっている。
 照明も平坦だし、外では、ヒトの顔が逆光になるようにはしていたが、CGとのマッチングだけだな。CGのアニメーション(動き)もテレビゲームに近づいている。要するに映画の動きじゃない。戦争シーンなんかゲームそのもの。
 タトゥーインの砂漠のシーンはルーカス現場に行っていないんじゃないか。すごい平凡なカット割り。本編が長いのも、なぜか音響デザイナーが本職のベン・バートが担当しているからだ。まあルーカスがほとんどだとは思うけど。ちゃんとした編集マンにやらせなさい。
ジョン・ウイリアムズの音楽も大きいだけに、スカスカに感じる。役者もほとんどブルーバックの中で演技しているのだろう。CGのセットを見せるためのロングのカットが多すぎる。
 これだけの作品なのに、手前盛りで作ってしまうのがイイのかねえ。個人映画といえばこのシリーズは究極的にそうなのだけど、ルーカスは完成度の高いものを作るよりは自分の映画を作り儲ける方に興味がある。これは映画を作るものとしては当然なのことだけどさ。そうすると次もこのパターンが続くのか……。
 DLPについては、ほとんどフィルムとの違いはわからない。早い動きも付いて来ていた。深みのある照明をしたときに、果たして使えるのかがわかると思う。今回露出オーバーの部分が無かったのでその辺が不明。やればDVD並みの画質は得られると思うのだけどなあ。

(スベッテシマッテ、モウシワケナイ)


パニック・ルーム
 デヴィッド・フィンチャー ワーナーマイカル熊谷

 映画という形式にもっとも必要な要素は何だろうか。一人の監督でこんなにムラのある出来の人も珍しいと思う。大体かれの映画にはひとりとして感情移入できるようなイイ奴は出てこない。だれもが嫌な奴だ。しかもそれが人物像を脹らましているかと言うとそんなことはまるでない。ひたすら平板である。だからいつどこで心変わりをするかわからない。でもまるでドキドキしない。
 映像についていえば、完璧に近いといえる出来だ。そこにはすべてがリアルでありながら、美しく不気味に映っている。文句はない。たぶんラッシュのときもそうだろう。
 それが、モンタージュによって編集されてシーンとなると、映画としての輝きがまるでなくなり、失速する。ただ映像が羅列されるだけだ。こうなっては救いようがない。音楽で盛り上げようが、SFXを駆使しようがますますテレビドラマのようになっていく。あまりに紋切り、あまりに脱力、あまりにご都合的。
 かれの映画は、その卓越した映像構成力を持つお陰で、映画構成力を犠牲にしているといえる。いわば素晴らしい映像カットを作るために、いわゆるサスペンスを生み出すためのつなぎのカット、シーンを切り捨てている。見せないことで盛り上がるのにすべてを見せ過ぎてしまうのだ。モンタージュによって積み重ねられることによって生み出される緊張感を切り捨てるために観客は映画を冷静に見てしまう。しかも美学的に構成された画面の隅々まで見えてしまうので二重に白ける。逆説的に言えば、もはやそれは観光風景写真の退屈さと変わらないのだ。 説明カットを入れないというか、説明カットの意味すらたぶんわからないのではないかと思えるフィンチャー映画の特徴は、古典的なモンタージュが必要とされないときに効力を発する。『セヴン』、『ファイト・クラブ』がそうだ。両者には古典的なモンタージュの緊迫感がない。まあそれは他の作品も同じだけど。
 しかし、2作品には映画全体が要求している雰囲気としてのモンタージュが存在する。『セヴン』ならば、カイル・クーパーのタイトルが弾みをつけたリズムだ。ひとつひとつの画面に痕跡がある、あの汚れと雨の雰囲気だ。そのつながりによって映画はフィクションを保っている。『ファイト・クラブ』の場合は、ハイパー・リアリズムに近い照明によって生み出される消費社会の薄っぺらい品々の数々。それらがカット毎に自己主張することで、映画の雰囲気が確立する。モンタージュも良く観るとものすごく強引につないでいることがわかるだろう。それがこの作品の場合は魅力となっている。
 また、映画は一秒間に24枚の写真からなっているのだけど、その意味で一枚一枚充実させることは、いままでみんな考えるけどもうまく行くはずがないことは、経験的に理解していたし、画面がきれいだからと言って映画が良くなるのとは意味が違うとしていた。フィンチャーはここに現代アートという即物的な評価のラインを導入することで、映画を一枚ずつの写真で構成し、ストーリー優先の映画から離脱しようとした。それが一部スパークしたのが『セブン』だ。
 まとめると、デヴィッド・フィンチャーの映画では、基本となる雰囲気を映像とストーリーで作れるかが勝負なのだ。それを堪能することがかれの映画の楽しみ方であって、いたずらにストーリーを追いかけ始めると、そこには演出が存在しないので感情移入という古典的な映画としての最低ラインを外してしまう。
 だから彼の映画はストーリーを追いかけるものではなく、映像の力で見せるという異形の映画と認識した方が良いだろう。どこかコマーシャル・フォトやCMに近い感覚なのかな。プロモーション・ヴィデオの普及でそういう映像・映画も私たちのなかに許容できるレンジができたのだと思う。映像の力だけでも映画を楽しめる時代ということなのでしょうな。


クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶアッパレ!戦国大合戦
  原恵一 ワーナーマイカル熊谷

 前作は掛け値なしの大傑作だったけど、今回はまた難しいモノ作ったね。曰く「クレしんでやる必要があるのか」「アニメでこんな作品を作って良いのか」。
 答えは、監督の意図に乗るか、乗らないかの二通りあって、それぞれ正解だと思う。アニメ・ヲタクの、「ここはいいけどあれはダメ」という部分的な賛成を封印しているのだ。まるごと好きか嫌いかしかない踏み絵のような映画。その意味では前作を引き継いでいるともいえよう。非常に個人的な映画でありながら、その佇まいとアピール先は大衆向けの形式を取っている。そのバランスの取り方が名人芸に近くなってきているんじゃないだろうか。
 監督が、こう思わせたい作品世界を実現するのに要する、映画内時間やファンタジーを感じさせる仕掛けが実に上手い。眼を閉じるだけで念じるだけでタイムスリップするなんて、恐くて普通は考えてもできない。それを難なく演出してしまう力に恐れ入った。戦国時代の合戦の細かい描写などこだわりの世界感によってさらに内容が厚みを持つ。
 当時の倫理感の葛藤を物語の軸に据えながら実にあっさりと進む。アニメーションのシナリオの感情を描き込まないでもいいという、大雑把さを逆手に取って、物語を大胆に進める確信犯的な作業。アニメーションの世界ではものすごい完成度だと思う。
 だから、それに同意して楽しむかどうかで評価は分かれるんじゃないだろうか。お約束ごとを見事にクリアしているけど突っ込むところもたくさんあるということです。そりゃ、アニメだモン。
 けど、おらはしんちゃんが活躍する、おバカ・アクションがもっと観たいぞお。


ロード・オブ・ザ・リング
 ピーター・ジャクソン ワーナーマイカル熊谷

 今後残りの二作を観ようが、DVD BOXが出ようときっと満足をすることができないだろうし、様々なクリエーターたちには立ちはだかる大きな壁(ようするにこれくらいできるよねという基準点)になることは間違いない。いつの間にか単なるおもちゃのプロモーション映画に堕ちたスター・ウォーズのように慰撫してくれることもない(ようするに観客をナメるってことだけど)。
 ただそこには圧倒的な映画体験しかないのだ。映画っておもしろいんだとため息をつける贅沢を味わおう。これが贅沢なことだと後からわかることもまた良しだろうし、すべての細部が映画に対して奉仕している。豊かな映画とはなにかを良く知っているピーター・ジャクソンならではだ。テクニックを知っているとどうしても逃げ場を作りたくなってしまうのだけど、彼はどの映画でも決して逃げ場を作らず、ひたすらマジメに観客を納得されるまで丁寧に撮る。そのヴィジョンの強さは昔から変わることがない。エンターテインメントとはこういうことだ。
 どうしても長くなりすぎて3時間では収まりきれなかったことが明らかなのは、セリフのシーン以外はほとんどぎりぎりなまでにカットされていることからもよくわかる。そのためにリズムが性急な一方で説明過多に感じられる。まあDVDとかディレクターズ・カットで5時間ヴァージョンとかできるのだろうから、それだけでも10年は楽しめるわな。


ブラック・ホーク・ダウン 
リドリー・スコット ワーナーマイカル熊谷

 タイタニック症候群にはまったプロデューサー、ジェフリー・ブラッカイマーは、『パール・ハーバー』と同時にこの映画の企画を立ち上げたに違いない。企画書のタイトルだけを書き換えて……。負け戦に翻弄される人間を描けば感動して客が入るに違いないと、自らもタイタニックに号泣しただろうプロデューサーは考えた。
 しかし、この映画ではもっともそれから遠い映画監督を選んだようだ。リドリー・スコットは『ハンニバル』が当たらなかった結果、自分は『グラデュエーター』の監督だと納得することにした。派手で残酷な戦闘シーンにこそ、観客が求めるものがあると考えた。元々登場人物が何を考え、感情を明らかにしたりすることに興味を持たない監督は、兵士を徹底的な戦闘マシーンにすることにした。
 あまりに本物らしさにこだわりすぎるために、兵士がみな坊主刈りでだれがだれだかわからなくなった。ストーリーも別に負け戦はどうでも良かったので戦闘シーンに力を入れることにした。内蔵がドバッと出ないと受けないからな。
 主人公のアメリカ人たちの視点から撮るために、アフリカ人の様子はステレオタイプに撮ることにした。あの大阪の日本人どもと同じようでいいだろう。道頓堀を封鎖してスモークを炊いたのと同じく、モロッコの廃墟と工事現場を封鎖して撮影しよう。ヘリコプターのシーンはストーリーボードを用意してその通りに撮るようにB班に命じよう。つながりは考えなくていい。やっぱり夕陽をバックに出撃した方が恰好良いからな。夜間のグリーンのフィルターはなかなか良い効果が出た。今後も使うことにしよう。
 と、妄想するが最後にこの映画を捧げられた亡きリドリーかあちゃんは天国でどんな気分なのだろうか。


カタクリ家の幸福 
 三池崇史 リーブル池袋

 いまの日本で一番おもしろい映画を連発する監督の作品が、これほど次々と観られるのはなんと幸福なことか。一作を観終わって、次作を渇望すること無いなんてことがあり得るのか。あらゆるうるさ方を唸らせながら問題作ばかり作ってしまうアタマの中はどうなっているのだろう。
 この映画は韓国映画『クワイエット・ファミリー』のリメイク。この映画のリメイク権を誰が買ったのだろうかというハナシもあるが、これを三池に振った松竹もようワカラン。これをオペレッタというか歌謡ロックショーに仕上げる三池監督もようワカランなあ。ただどんな映画でもおもしろく作り上げてしまうテクニックを手に入れたことで暴走度はますます加速している。
 このテクニックが果たしてどこから来たのかをずっと考えているのだけど、まったく予測が出来ないけれど抜群の安定度と納得度を持ったカット割りは映画を観たりしているだけじゃ出来ないよなと思う。現場を知り尽くしていないと生まれない。
 誰にも似ていないが、これが三池カットだ、というのも無い。省略と豊饒を一度に画面に納める。予算と時間が限られた現場で最大限の効果を出す。かと言って安直などこかで観たカット割りに逃げない。
 これって映画の手法よりは、テレビの自由さではないかと思う。テレビ映画の現場に何本も付いていたこともあるだろうが、35ミリフィルムの感度がヴィデオよりも、実は遥かに自由度が大きいことを監督はよく分かっていると思う。それを実現する撮影・照明チームもいままでの映画製作現場の思考パターンに囚われていないのだろう。普通は恐くてもっとカットを割るのをワンカットで撮ったり、逆に、こんな即物的なアップは入れないよと言われるのを平気で入れて、短い数秒のカットとして成立させる。ワンシーン・ワンカットも手法としてだけではなく、現場の効率と効果を一挙に解決することを旨としている。
 かれの一見ごちゃごちゃに見えるフィルモ・グラフィーを家族、家庭の共同体への執着をキーワードにして解き明かせるだろうか。三池映画の登場人物は、いつも共同体とその周辺にいながら、はじかれているハグレ集団の中での諍いを描いているように思える。
 それは、デビュー作からチャイニーズ・マフィアと中国残留孤児の子供たちという合わせ鏡のような登場人物を配していることからも明らかだ。『殺し屋1』にしても、イチと垣原を考えてみればわかるし、『DOA』シリーズの力と翔もそうだ。おもしろいことに対立していても必ずどちらかは大組織で一方は小組織なんだよね。それも外からその集団を壊そうとする相手には徹底的に戦うという、いわばチンピラの疑似家族の世界が根底にあるのではないだろうか。登場人物の対立軸はすぐには分からないが、次第に日本人(アジア人)にはしっくり来るもの任侠なので受け入れられるようになる。ヤクザ映画の世界だね。
 大体いつもアタマに人がゴチャッと出てきてその関係がなかなか分からないんだよ。そこでは既に映画の前の設定段階で出来上がっている役割分担で動いているので、彼らにとっては自明な関係なのだけど、映画では観客には分からない。『DOA』の1も2もそうだ。いわば裏設定が既に監督のアタマのなかでは出来ているということ。それを説明することには興味がないんだろうね。
 話が動き出すのはその内部においての諍いから起きる対立からで、それもその外側にいる巨大な敵の出現を待つまでだ。それが疑似家族を呑み込もうとすると死にものぐるいで戦う。その様がいつも泣かされる。そこには犬死にと崇高な犠牲が必ず交互に現れるが、そこには救いは無い。必ず、誘惑されて仲間から裏切り者が出てきたり、女が虐待されたり、過度な残酷シーンも、共同体を抜けようとしたり、守ろうとしたりする過度の動きだ。ただそれらはすぐにもっと大きなものに呑み込まれてしまう。主人公に平穏か和解が行われようとすると、その相手が死ぬことが多い。
 ラストの結論は常に恣意的ケレンなので感情的な話は、大体その前にヤマを迎えて終わる。最後は映画的な面白さ、カタルシスに持っていく。そこがタガが外れた風に見えるのだろうね。いわゆるケレンのラストシーンがそうだ。そこではすべてがチャラにされるのでマジメな人は怒るんだろうね。まあそれは正しいけど。そこまで来ると監督の意図はストーリーラインに沿ったところから逸脱して映画の画としてここまではいけるよなと暴走するようだ。『DOA』のCG、『アンドロメディア』の海辺の桜、もそうだろう。
 こう考えると『DOA2』を監督が大好きなのもよく分かる。ふたりの仕事や生まれ育ちを通じた関係性やユートピア感、共同体の在り方が監督の理想だと言うことが考えられる。
 でもさ、ヤクザ映画の典型の展開といえばそれまでなんだけど、三池映画の映画の感情の起伏の流れが似ていると感じるのはこの辺だろう。逆に言えばどの脚本もこのラインに作り直してしまうのだろうと思う。
 『カタクリ家の幸福』のこのラインに近い気がするけど。家族愛というか共同体への監督の考える偏愛は本気だと思う。
 馬飼野康二の音楽も歌謡曲していて、沢田研二の唄にうまく乗せることができている。HD24pでの撮影もまだ未完成な機械をうまくボロがでないように、速いカメラの動き、過度のアップ、照明のコントラストの差が無いようにと工夫している。


ピッチ・ブラック 
ヴィデオ

 様々な人々を乗せた宇宙船が故障して降り立った惑星には未知の殺人生命体がいる。やつらは暗闇でしか動けない。たまたまその日は月蝕のはじまりだった。脱出まではあと数時間。乗客のリーダー格は、知恵はあるが信用できない極悪非道の囚人だ。
 とまあハナシを聴くだけだとワクワクするのだけど、なにしろ演出が全くのヘタレであるので一向に盛り上がらない。どうしたらこんなにつまらなくできるのだろうか。SFというなんでもありのキャンバスを与えられたのに全然スケール感がない。安っぽいことを逆手に取れば『アンドロメダ病原体』やいくつかのTVSFシリーズを応用すればいろんなことができると思うのだけど。半端に豪華なVFXやモンスターだけが目立つ。これくらいだったら日本からアニメの監督を引き抜いた方がナンボおもしろいものができるやら。そういう考え方はないのだろうか。


グッド・フェローズ 
 マーティン・スコセッシ  ヴィデオ

 やはりニューヨークのチンピラを描かせるとスコセッシに敵うものはいないな。何者かに影響されて、パシリから組織の一員になり、主人公が狂気に駆られ、逆に破滅するのがかれの映画のスタイルだ。そこから外れるとおもしろくないし、主人公の成り上がりぶりがなんとも言えなくヨロシクと言いたくなるのはどこでも同じらしい。走り出したら止まらない、その狂気こそがスコセッシだ。
 ポップミュージックの使い方として、ものすごくセンスの良い映画だ。かつてファスビンダーのカメラマンであり、本作でも撮影担当のミヒャエル・バウハウスは、『アフター・アワーズ』でスティディ・カムの移動速度とタイミングでモーツアルトのリズムについて議論したという。その移動ショットはここでも健在だ。


殺し屋1 
 三池崇史 01 新宿

 ちょっとこの映画を評する言葉をいま持っていない。三池崇史が日本で抜群の演出力を持っている監督であることは間違いない。ただ近作を観るとエネルギーだけが膨張して、映画の方向性を見失っていることも否めないと思う。三池が映画に求めているものがどんどん変質していっていることは近作を観るとよくわかる。昔風の言い方をすると、ストーリーを解体する方向というのだろうね。例えば80年代の寵児であった森田芳光などが『家族ゲーム』でアンタッチャブルの存在になり、『そろばんずく』、『ときめきに死す』などで、どんどん観客を突き放した映画を撮ってドン詰まって、『それから』でまた再びストーリーに帰ってきたように、アンタッチャブルな存在になった三池は、いまは物語とは一番遠い方向に突き進んでいる、表現者としての必然の道を辿っているとも言えよう。
 抜群のシーンの演出力により、断片化された映画の各シーンは暴走し、より充実していく。ワン・シーンの情報量と説得力は世界一じゃないだろうか。同じ条件で撮っても一方はVシネにしかならないのに、三池ではスペクタクルになる。
 しかし以前はストーリー展開にも考慮していて丁寧に時間を緩やかにして観客を置き去りにしていなかった部分(あるいは感傷的な部分)を、どんどん捨ててきて映画を成立させる方向へとシフトしてきた。編集の巧みさ(暴力的なつなぎ)がどんどん浸食してきたと思う。それは音と画の共演とも言える。北野武が簡潔にして暴力的な効果を上げてきたものをさらに徹底し、シーンのつなぎを加速してきた。
 いまはマスコミ的に突拍子もないシーンの飛ばし方をすればするほど客が喜ぶんで、ケレンで行っているけれど、結局は感情がついて来れない部分が残ってしまう。『漂流街』のラストはもっと泣ける、いや泣きたいのだけども、アタマのシーンでああいう風に納得をあきらめて客を選んでいるので、感情がついていけないんだよね。『DOA2』も同じ。観客は未消化に終わる。監督はそこまでついて来て欲しいんだと思うのだろうが、ちょっと無理じゃないのかなあ。
 本作のラストの子ども、SABU、浅野、塚本の各人の映画のけじめのカタルシスが崩壊しているのも同じだと思う。そこら辺が吹っ切れない三池自身がいるのだろうと思うけど。
 わたしとしては、ラストで感情の頂点に達するほどのエクスタシーを持つ作品を作る方向へ早くシフトして欲しい。ああ、それから大森南朋いいなあ。かれをうまく使う映画アリだと思うのだが。


ゴジラ・モスラ・キングギドラ 大怪獣総攻撃
  金子修介 01 新宿東宝

 いきなり、宇崎竜道 新山千春がトップ二枚看板で大いにコケる。えー、他に無いのかいなあ。主役ふたりのあまりにも滑舌の悪さに閉口する。宇崎のいちいち貯める演技や新山の訛りを隠すための変な発音、だれか直してくれえ。
 これで金子修介ってホント、役者に演技をつけることに興味ないことがわかった。役者がアニメみたいに動いてくれるのが一番の理想なんじゃないのかねえ。キャラクターもウルトラQじゃないのだから、類型的過ぎるんじゃないでしょうか。ということと関連すると思うんだけどさあ、今回無意味なバイオレンス・シーンが多すぎると感じた。何の感情も乗らない暴力シーンは、ガメラのときも感じたけれど、今回はまったくどこに感情移入していいのかわからないかった。
 ストーリー上の問題は怪獣マニアに任せるとして、怪獣を護り神にするなら、誰をなぜ守るのかをはっきりさせないと意味無い。抽象的な戦後日本では今が足りない。結局はゴタク並べただけでいつもの着ぐるみショーでしかないと思う。


劇場版とっとこハム太郎 ハムハムランド大冒険
 出崎統 01 新宿東宝

 なぜベテランの出崎監督なのかわからん。樋口特撮監督による3DCGでダンスするキャラクター・ミニハムズの動きはすごかったけれど。セルアニメと3Dの両方を熟知してないとああいう表現はできない。デジタルのみの世代には無理じゃないだろうか。関係者には、そこら辺をぜひ見て欲しい。お話はねえ。ラストの人間のシーンくらいにしか興味がないんじゃないかとしか思えない。まあ良いけど。


ラッシュアワー2
 RUSH HOUR2
 ブレット・ラトナー 01 新宿ピカデリー

 今回はジャッキーがアクション監督しているということで、アクションとコメディーが心地良い。クリス・タッカーの無意味な早口も安心して見ていられる。太ったジョン・ローンはかつての色気はないけれど、悪役としていい味を出している。ハリウッドでのジャッキーのあり方としては最高の香港ライクな出来ではないだろうか。


ゾンビコップ
 DEAD HEAT
 マーク・ゴールドブラット 88 ヴィデオ

 ヴィデオ・バブル期には、思いがけないおもしろい映画が転がっていたりする。スティーブ・カーバーの『テキサスSWAT』(83)。デニス・ホッパー『アウト・オブ・ブルー』(80)。ジャック・ショルダー『ヒドゥン』(87)、フレッド・デッカー『ドラキュリアン』(87)。
 ちょうどコーエン兄弟やサム・ライミが認められる前後の微妙な時期、きつい予算でありながらきちんとした安定した作品を作るチームをよく観るとロジャー・コーマンの名前がやはり出てくる。AIPの活動に続き、NEWWORLDというヴィデオ市場中心の会社をはじめる。確か後に経営から手を引いたはずで、その後NEWWORLDも潰れたと思うが。
 その会社からリリースされたのが本作だ。監督はこの作品の前に、ポール・ヴァーホーヴェンのハリウッドデビュー作の『ロボコップ』の第二班監督を務めている。この作品の執拗な銃撃戦はその影響があるのではないか。ロジャー・コーマンらしい「もし刑事が死んでゾンビになったらどうか」というアイディアを手堅く撮っているとともに、二人組刑事ものの定番の軽いセリフの応酬などを押さえ90分にまとめる手腕はまだB級映画の法則が生きている時代のものだ。
 特別出演のヴィンセント・プライスも自らのコーマン演出の作品がテレビで放映されていたり、その出演の扱いがピーター・ボグダノヴィッチの処女作『殺人者はライフルを持っていた』のようであり、わかる人にはわかる軽い遊びが入っている。この手の作品が消滅してしまって悲しいのは私だけだろうか。(jkさん、お薦め多謝)


バッドテイスト 
 BAD TASTE 
 ピーター・ジャクソン 87  ヴィデオ

 自主映画(最近はインディーズというらしいが)でエンターテインメントを求めてはいけないと誰が決めたのだろうか。南半球の映画産業すらない国、ニュージーランドに新産業を作り出してしまったピーター・ジャクソンの第一作が、SFバイオレンス・スプラッター・コメディの本作だ。
 ここでも確信犯的に映画をうまく作る術を駆使している監督は『ロード・オブ・ザ・リング』なんか軽いものだろう。この作品ですでに数年がかりの映画をとっくに作っているんだからね。


グリ−ン・ディスティニー 
 臥虎藏龍
 CROUCHING TIGER, HIDDEN DRAGON
 アン・リー 00 ヴィデオ

 劇場で観たらもっともっといい気分になれたろうな。映画の持つファンタジーの力を、いま最大限に利用しているのがワイヤワークであることは異論はないだろう。それをここまで磨き上げた香港のチームとここまでドキドキするシーンを作り上げた製作チームに脱帽。
 お伽噺をこのような解釈で甦らせてくれる映画のマジックは、かつての黄金期のミュージカルに匹敵する。そしてそれを支えるスターの顔が説得力に満ち溢れている。彼らなら空を飛んでもおかしくない。これこそが映画におけるスターの役割なのだ。昔なら中村錦之助の役をチョー・ユン・ファが演じる。そうストーリーは東映時代劇なんですよ。美術も違和感がないし音楽も素晴らしいです。映画の持つ力を久々に感じさせてくれる映画です。


ヴィドック 
 VIDOCQ 
 ピトフ 01 東映大泉Tジョイ

 ソニーの開発したHD24Pカメラはホントのところ使いものになるのだろうか。満足できる画質という話は聞いたことが無い。ソニーも本気なら、ヴィトリオ・ストラーロあたりに札束で叩いて「こいつは使える」と言わせないと、いつまでたってもハリウッドじゃ使われないだろう。 
 本作ではCM出身の監督が色をいじりすぎて、まともな画がひとつもないので判断に悩む。白がきれいに出なかったり、速い動きについていけずに残像が出たり、肌のキメが見えすぎたりする欠点はヴィデオだなあと思うが、DLPだと良いのかもしれない。これについては『スターウォーズ・エピソード2』待ちだな。ただルーカスはいまひとつ信用できんが。
 レ・ミゼラブルの原点になった、悪党であり探偵でもあるヴィドックの話を現代風にアレンジ。何でも演じるド・パルデュー!あんたは偉い。美術のマイク・キャロは冴えていて本領発揮。『デリカテッセン』、『ロスト・チャイルド』が好きな人にはお薦め。監督が生かしきれていない部分はあるけれどね。江戸川乱歩が入っているストーリー世界はなかなか楽しめる。CMやプロモ的な解釈による中世ヨーロッパな世界観です。清潔すぎたり、意外とエログロ部分が少ないのが不満なのだけど、頑張っています。フランスでも変な奴がまた現れたということで注目したいです。やはりCGの使い方も、日本やアメリカと違う色遣いやアニメーションの動きは、デジタル分野の人には参考になるのではないでしょうか。


スパイ・キッズ 
 SPY KIDS
 ロバート・ロドリゲス 01 ワーナーマイカル熊谷

 安っぽいVFXだなあと観ていたら、製作場所がテキサスなのね。地元に産業を持ち帰ったわけだ。ハリウッドのやり方がいやだったのだろうか。前作の『パラサイト』も結構好きなんだけど本人としたらちょっと違ったんだろうか。良い役がヒスパニックで悪役がWASPであるところにロドリゲスの心意気を感じるな。メジャーでこういう色分けした娯楽映画はないんじゃないの。
 ただこの手の映画は、シナリオが勝負のところがあるんだけど、今回はアクションを選んだようだ。コメディとしては編集が詰めすぎているので笑うタイミングがむずかしい。笑うところは、もうちょっと緩やかにつないで欲しい。もうちょっとばかばかしくてもいいかな。子ども版007を強調してもいいくらいだ。おとなと子どもの世界の違いがもっと出たらよかったのに。子どもっぽいドジなおとなと、オトナっぽい賢い子どもになっちゃうんであっさりしすぎた。でもエンターテインメントとしてはすごくよくできてます。小学生にみせたら興奮して、知恵熱出ちゃうんじゃないかな。


アメリ 
 AMERI
 ジャン=ピエール・ジュネ 01 ワーナーマイカル大宮

 映画の可能性を信じていないとこの手の映画は失敗する。で、全体をコントロールすることに決めて徹底的にミニマルなかたちにしてのが成功している。
成功した監督じゃないと通らない企画だろう。シナリオ読んだだけじゃおもしろいんだかわからないだろうね。主人公が何者だかわからないと言われるだろう。確固とした画として見えていないと作れない映画だ。
 まるで岡崎京子の短編のようにたわいもない話のなかから抽出された、シーンごとのエッセンスを並べた強引なストーリー展開。ストーリーのためのシーンではなく、シーンを充実させるためのシーン作りに全力を注いでいて、それをいかにも巴里的でコートしたんで雰囲気作りもうまくいっている。これは奇跡的なシーンづくりのうまさなのだが、変人たちが裁かれることもなく変なことを堂々としている(ただ意地悪な八百屋はやっつけられるが)。その狭く完結した世界が心地良く感じるような仕掛けになっている。この楽しみは、小説を読む楽しさではなく、通販のカタログを読む楽しさに似ている。小物の細部ってこと。かろうじてストーリーになっているけど、この世界に浸ったらラストはおまけみたいなもの。お菓子でもポリポリと食べながら観るのがいいです。


 


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