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フィクション

ぼっけえ、きょうてえ 岩井志麻子:角川書店:1400

 岡山という土地を縦断していくと、山の合間に黒色の屋根瓦の屋並みが続き、横溝正史の世界に近づく、そしてあきらかに空気が変わる地点がある。瀬戸内の開けた空気が、陰鬱な山の空気に変化する地点がある。そこでは美しい黒々として緑の森が続く中、鳥の声もしない森閑とした世界がひとを包む。岡山の山間がこの作品の背景にはある。
たしかに瀬戸内の話もある。が標題の作品をはじめ、作品世界を覆う空気の重さはなんだ。ストーリーなどに新奇なものはないが、寝物語としては、悪夢を見るには絶好の子守唄だ。その文体を愉しめば良い。短編集としてよくできているし、非常にいやな気分になる。それは面白い小説を読んだ高揚と相殺されるので心配はいらない。
それにしても横溝正史は偉大だと思う。かれがいなければ、田舎の猟奇を美しく描く小説のカタチは生まれなかったのではないだろうか。


第三閲覧室  紀田順一郎:新潮社:1900

  大体、本の収集家なんて人種にまともな奴がいるはずがない。作者の古書探偵シリーズを読めばそれがわかる。今回は多摩ニュータウンに新設された大学図書館で起きる殺人事件だ。ここでも本に魅入られすべての失って行く人間たちが描かれる。滑稽でありながら容赦のない人物の造型は作者の世界の特徴だろう。北村薫とそれほど世界は変わらないのにこの落差はなんなのかと思った次第です。







巷説百物語 続  京極夏彦:角川書店:2000

 探偵小説の欺瞞とジレンマは、「なぜ探偵は殺人犯人の行動を最後まで止めることができないのか」ということだ。なぜなら、途中で犯人を捕まえてしまうと物語がおわってしまう。では殺人を止められないのに名探偵と呼ばれるのは矛盾していないか。それじゃ探偵小説自体を否定する結果となってしまう。
そのようなことは、探偵小説を書いている小説家は少なからず感じていることだ。
 本書はこのジレンマに一石を投じている。ここでは、探偵は犯人を見つけるのではなく、自ら事件を作り上げて、別の解決方法を見つけ出して、妖怪の仕業として煙に巻くのだ。言い様によっては出来の悪いディスクン・カーとも考えられる。そこに衒学とオカルトが入り乱れる大時代な読み物となっている。シャーロックホームズを読み終えた中学生から、カーが好きなゴリゴリの本格派まで楽しめます。



 ドナルド・E・ウエストレイク:文春文庫:667

 どちらかというと、ウエストレイク名義なのかは大いに疑問があるところだけども、敢えて言うなら、初期の「雇われた男」などの、辛い読後感のある作品にテイストは近い。そこに作家としての語り口の充実さを加えたところに、ほかのブロック・バスターの作家なら上下巻にしてしまうのをさらりと書き連ねる余裕を感じさせる。
 失業中の主人公が、自分の就職を成功させるために、自分に似た職歴の相手(求職のライバルね)を殺して行く。ありえないことではない、アメリカのサバイバル事情を衝いているかれのある種のオブセッションがもしれない (「悪党パーカー 人狩り」の冒頭の、パーカーと対比される通勤するサラリーマンの描写を思い出す) 。
 過剰な暴力の正当化と不条理さをバランス良く配置して、主人公の傍目に狂気、本人は本気という、古典的な心理の流れを全うしており(最近はこれができない作家が多すぎる)、そこに練られたストーリーの奇抜さがより興味を深め、ほんとうのエンターテインメントとして成立している。この奇抜なアイディアを説得力ある語り口で読ませるところが、さすがだ。このずれてなさは貴重ですらある。日本の職業作家はほぼ全滅だものね。



ねじまき鳥クロニクル
 第一部 泥棒かささぎ編 1600
 第二部 予言する鳥編 1800
 第三部 鳥刺し男編 2100
 村上春樹:新潮社

 1980年代初頭にYMOが音楽をはじめとしてあらゆる部分を席巻した時に、近田春夫がかれらの人気について「YMOは、逆輸入の左ハンドルの日本車だ」と喝破した。そして90年代、小室哲哉が徹底的にそれを、大量生産可能なものとして以来、音楽はなにか別のものとなってしまった。
 村上春樹についても同じことが言える。かれを構成していた、スティーブン・キングとレイモンド・チャンドラーの手法の翻訳と、蓮実重彦の「小説から遠く離れて」で言及された、「不在と妹の力」によるストーリーの骨子が、80年代的であったかどうかは、90年代の沈滞がそれを物語っているとは言えないだろうか。
 コムロテツヤ的な部分は、肥大化したミステリー分野に吸収されて、より日本的な文体に拡散され (馳星周、宮部みゆき)、もう一方の翻訳の部分は分厚いだけのエンターテインメントに行きついた(小野不由美、瀬名秀明)。
 そこには、村上春樹の出番はあるのだろうか。政治や風俗にコミットしているようかにみえて、実はノスタルジーとセンチメンタリズムに変換していった手法は限界に来ていることは本人がわかっていたと思う (かれのエッセーが保守的・通俗的なのをみればそれがわかるだろう) 。
 結果かれは、同じものがたりをだらだらと書きつづけることを選んだ。小説家としてではなく、村上ブランドとしてファンを慰撫することに徹することにしたようだ。
 ここには、謎の過去の事件や、謎の金持ち、ひとが良いけど結果なにを考えているのかわからない主人公、失踪する女性、かれを助ける変わっているけど美しい女性が出てくる。「羊をめぐる冒険」から「世界の終わりとハード・ボイルド・ワンダーランド」へと続く小説群と同じだ。かれのファンであるなら、期待は裏切られない。ただお得意の固有名詞の羅列は止めたようで、逆に、それが時代を80年代の話のように思わせている。



睡魔 梁日石:幻冬社:1800

 これは作者のクロニクルでいうと、「血と骨」の中盤で、東京に逃げた長男が、「タクシー狂騒曲」の舞台を、事故で去ったあとの事件である。
 何度も指摘しているが、梁日石は実体験を基にしたものが抜群におもしろい。それは裏返すと著者の欠点でもあるのだけれども。
 事故でタクシー運転手を辞めた在日の作家でもある、主人公はかれと同じく出身地の大阪を追われ、東京に出てきた友人とともに、健康磁気ベッドの販売にはまって行く。
時期はバブルの前夜、お判りだと思うが、ただの訪問販売ではない。ネズミ講式のマルチ商法なのである。最初は嫌がっていた主人公は、売上を伸ばしていくうちに、どんどん金銭感覚が麻痺して行く。と同時に人間的にもボロボロになっていく。
この商法は、自己開発セミナーとセットになっており、その講習会の様子がこと細かに書かれ圧巻だ。後半、販売組織がヤクザ紛いの集団になっていくところなど、 悪が悪を呼ぶ、一流のピカレスクロマンになっている。このアクの強さがこの小説のおもしろさ。
 作者の分身の主人公が、この仕事に批判的である割には金儲けの中枢にいたりする矛盾があるのだが、それが読み手を混乱させられる。主人公が格好良すぎてキタナイことしないように書かれるのが、作者の小説の限界であるんだけど、それを突っ放せればもっとおもしろくなるんだけどなあ。



奇術探偵曾我佳城 泡坂妻夫:講談社:3200

 最後の一行を読む。しばらく絶句したあとに、うーんと唸る。前の文章を読み、さらに前の章に戻り、舌打ちをしながら、その前の短編を読みなおし、パラパラとページをめくり一番最初に戻りためいきをつきながら、表紙の裏カバーを剥がし、じっと見てから地団駄を踏む。まただ、また泡坂妻夫のマジックに見事にやられてしまった。
 本書は、いままでに出た女奇術師、曾我佳城シリーズを一冊にまとまたものである。奇術研究家としても著名な作者がその愛情を注ぎ込んだ集大成であり、泡坂魔術健在です。 この本自身がトリックともいえるので、なにも書きません。ただゲーム性以外の倫理観を探偵小説に求める松本清張な方にはお薦めできません。エラリー・クイーンが好きでない人は読まないほうがいいです。はっきり言ってかなりすれっからしの愛好家じゃないとたのしめませんよ。
 それにしても、毎回出る凝った名前はどういう裏があるのだろうか。だれか解明したかなあ。情報求む。



子猫が読む乱暴者日記 中原昌也:河出書房新社:1200円

 あいかわらずのの狂暴さはわかりにくく、どこにも組しない孤高あるいは孤独さを巻き散らしている点では、かれの評論集 「ソドムの映画市」の続編ともいえよう。その語り口は鬱屈を評論という形にこだわらず、不機嫌なまでのつぶやきに変えながら唐突に枚数になったから投げ出すように終わる。
 これを小説の流れに位置させるかどうかは、評論家次第なのだけど、著者はたぶんそのようなカテゴリー分類をも拒否する ことを視野に入れながら書いているのだろう。かれにとって小説は、なにかを表現する昇華されたアウトプット・ツール(情念)ではなく、選択肢のひとつ(怨念)に過ぎないのだから。映画や音楽のように様々な解釈は甘受するが、体験することによってのみたのしめることを書き示しているといえる。



サバイバー  チャック・パラニューク:早川書房:1900円

 「ファイトクラブ」でそのヴィジュアルイメージの強烈さを読者に印象付け、ここ数年で図抜けた才能を見せてくれた 感のある作者が前作以上の、巧緻さで塗り上げたありとあらゆるFUCKOFFな文学に向けた挑戦状である。これを受け取るか受け取らないかはあなたの自由だが、 これを読まずして、今後の文学を語ることは無意味だと断言しておこう。
 たとえば、極東の島国では80年代の半ばごろ、高橋源一郎が「さよならギャングたち」でデビューし、「中島みゆきソングブック」へ向かったように、ある種の強暴さを放った読み物が存在できた。そのころの彼を国電の中で目撃したことがあるんだけど、座席に座り、肉体労働を糧にしていたことを物語るガタイのいいその身体を米軍放出のダーク・オリーブのジャケットに包み、ビニール製の袋を脇に、一心不乱に文庫本を読みふける姿は、人を寄せ付けない不機嫌さをまとっていた。その後、そのあたりの輩はテレビとかカラー写真がいっぱい載っている雑誌に取込まれてつまらなくなるんだけどね。いまなら中原昌也かなあ。あと、別な意味で梁日石。
 そういう居心地の悪さをぎりぎりのセンスに置きかえる趣味のよさ、「悪趣味」といえる露悪さでいえば、憐憫のかけらも無い不快さにこの小説は突き進む。スティーブ・エリクソンなどの、不幸な振りをした、心地よい予定調和とは違う世界を目指していることは確かだ。
そう、ストーリーだ。ストーリーが大切だ。物語は、いきなり、墜落しそうになっているジャンボジェット機の中で男が独白を始めるシーンから始まる。 この男は、集団自殺したカルト教団の唯一の生き残りなのだ。独特な世界における教義のなかで育った男は、ただひとり取り残される。それが、なぜジャンボ・ジェットにいるかって?彼の生涯がフラッシュバック形式で描かれて行く。
 これ以上は、楽しみを奪うので書けないのだが、資本主義の寓話、すべてがショーになる、不幸でさえも商品だという世界を道化ではなく、「ならざるを得なかった無垢」、恐ろしい言い方を敢えてすれば、 すべてを見てしまった子供という大胆な視点を持って語られる。それはイブリン・ウォーの「囁きの霊園」のような異邦人の受身の被害者的な立場ではなく、確信犯的な受身の加害者、「生まれたときから手は汚れている」存在を無理なく語り手として作り出している。そして、現実の不条理ではなく、不条理の現実を過不足無く浮き彫りにする。
 キーパーソンの女性が出てくるのだが、この全能の女性は、村上春樹をはじめとして、いまもだが日本の男性作家たちが描けなかった、「小説から遠く離れて」の蓮実重彦というか柳田国男の言葉を借りるなら「妹の力」を越えた女性として登場する。今後も日本では出てくるだろう、「曖昧な力をもった謎の女性」というのはすべて粉砕されるくらいの練られた登場人物だ。
 最後に言う、この小説がデヴィッド・フィンチャーによって映画化される前に読まなければならない。賞味期限つきの傑作である。


希望の国のエクソダス 村上龍:文藝春秋:1571円

 いつも思うんだけど、村上龍の小説っていつも宣伝文句以上であった試しがないんじゃないか。 キャッチコピーに書かれていることはないのね。今回は確か、「2002年、全国の中学生が日本を後にする」みたいなものだと思ったけど、まさにそれ以外のこと書いてないんだよ。それは小説として破綻がないということでもあるし、尻つぼみと言ったほうが正解かもしれない。大風呂敷をひろげたは良いけど閉じられなくなる、しかしこのまま突っ走ったら、批判を受けるので自爆装置を作動させる。いつもこのパターンだ。でなければ、だらだらとした連作小説体となる。
 前者は「コインロッカーズ・ベイビー」、「愛と幻想のファシズム」、「昭和歌謡大全集史」、「五分後の世界」など。後者は、「テニスボーイの憂鬱」、「トパーズ」、「ラブ・アンド・ポップ」、「だいじょうぶマイフレンド」、「ラッフルズホテル」、「ライン」、など。
 前者で致命的なのは、いつも音楽や映画を特権的なものとして神聖化し、持ち上げすぎて降りてこられなくなってしまう感がある。芸術的な才能を持つ人間を 「全能神=天才」と称するのでストーリーが進まなくなるのだ。彼らのやることは、いつも成功して大衆の支持を簡単に受けられスター化するので、その後彼らのすることはすべてうまくいく。そのため、後半になるとストーリー展開がどんどん安易になっていく。そして肥大化するだけして、空中分解する。後者の場合も、特権的な主人公を軸に据えるが、同じ話でも連作のため、看板を替えるので一応飽きないようにはされている。
結局、それは村上龍の小説がキャッチコピー的な発見、電通的なウリをカリスマ的な人物に仮託するからだ 。そのため語りやすく、読みやすく、議論されやすい、消費物に転換されるのだ。
 ここで、問題なのは、小説としての問題ではなく、小説のまわりの問題にすりかわることだ。 それは最終的に、中田英寿とオトモダチの作者の仕掛けをどう思うか、その意見を強要することにつながる。いわば、新聞と同じく、別にその記事に対してなんの意見もないけど、無関心は許さないという、極めて戦後民主主義的な強制参加を求められるのだ。
 だから、結末は出せないのだ。だって高校の多数決と同じなんだもん。無意味な議論は延々と続けられるけどね。でもこの人は、公平とか、進歩的とか装っているが、実はそんなこと考えてないで、「一人の天才だけががすべてを変える(自分を含む)ことができる」と考えているのだ。
 この矛盾した考えのため村上龍の小説はいつも空中分解せざるを得ないのだ。まあそこら辺に、彼の映画に対する永遠のコンプレックスがあるのかもしれない。「特権的な俺様が芸術的な映画が作れないはずがない!」そんなことないのは、証明されているいるんだけどなあ。
 あ、最後になるけど、本書は、「愛と幻想のファシズム」の構成に、「電脳ナイトクラブ」の会員となる中学生が出てくる話である。おわり。


誇りへの決別 ギャビン・ライアル:早川書房:2100円  

 シリーズ第二作。イギリス情報部黎明期、第一次世界大戦前の欧州情勢をめぐる権謀術数、今回の目玉は飛行機とイタリアである。飛行機好きのライアルとしては本領発揮だ。まだ海のものとも山のものともわからない新兵器をどう料理するのか見もの。
 またイタリアは新興国家としてオーストリア王国との対立も描かれる。 ここら辺を読むと昨今のユーゴ情勢も少し見えてくる。 愛国的詩人として三島由紀夫も入れ揚げていたダヌンツィオも登場し、いつものやるきのないスパイ大尉と、アイルランド革命家くずれの彼の部下、美貌のアメリカ人富豪のトリオも活躍する。 本格的冒険間諜小説をご堪能あれ。





ハイスクール・パニック リチャード・バックマン:扶桑社文庫:590円

 コロラド州、コロンバイン高校の大虐殺は、少年犯罪上エポック・メイキングな事件であったが、ショットガンで自分のアタマをぶち抜いた少年たちは、 この本を読めばもうちょっとましなことできたのではないだろうか。スタローンとかシュワルツネッガーの爆発映画が蔓延する前の、ビジュアル先行型小説(余計な描写のため50ページほど意味なく長い)以前のつつましいアクション型小説である。高校生の妄想の限界はいかにビジュアルの肥大化とともに増大していくかを示す、70年代から80年代への「ペーパー・バック=現実」の証拠の一冊といえよう。


死のロングウォーク リチャード・バックマン:扶桑社文庫:667円

 キング版「バトルロヤイアル」というか、こっちが本家なんだけどね。独裁国家アメリカで17才の少年が最後の一人になるまで歩きつづけるという作者が大学時代に書いた習作を屋根裏から引きずり出して出版したらしいということでわかるように、非常に類型的で粗い出来。短編としてのアイディアでどこまで書けるかを試したようなもので、バックマンシリーズの常として身も蓋も救いも無い読後感となっている。1時間くらいで読めるのでキング=バックマンを研究する人にはお薦めします。
 キングのお里がいかに50年代ドライブイン・B級ホラーであったかが構造的に透けて見えて、 「なぜキングの原作の映画はつまらないのか?」 が理解できるヒントにもなります。


ハード・タイム サラ・パレツキー:早川書房:2000

 いつも水準点を越える出来なので安心して読める少ないシリーズとして重宝しています。登場人物が自分たちとともに歳を取って行くのは続き物ミステリーのひとつの特権とも言えます (まあ、そういうのを拒否するミステリー通連中もいるけど) 。
 たぶんに、シカゴの風俗小説として読みつづけるのがよいのだろうが、今回は刑務所問題というホットな問題が全面に出てくる。 このウォーシャウスキー・シリーズが魅力的なのは、被害者や脇役を含め、登場人物が魅力的に肉付けされているからだろう、もちろん主人公の彼女は相変わらず魅力的なのだが。
 今回、シカゴで撮影がはじまるテレビシリーズの、オープニング・パーティーが謎の発端となる。ここからいろんな事件が膨らんで行く。主人公の無茶な行動を笑ってすませるために、全巻読んで彼女のファンとなろう。




ボーン・コレクター ジェフリー・ディーヴァー:文藝春秋:1857円

 「アームチェアー・ディティクティブ」という探偵小説の分野があり、非常に古典的なものだが、成功しているものは少ない。なぜかというと、パズル型犯人当てミステリーでは、絶対的なんでも当てる探偵「デウス・エキス・マテナ」(全能神)の存在が不可欠なのだが、この時代そんな人間がリアリティを持つはず無いし、いわば証拠隠匿にならざるを得ない。
 ということで、なんの解決も出来ず書かれてしまった本書は、脳みそを働かせずに、受身で読む分にはなんの問題も無い。先まわって読もうとすると、 主人公の馬鹿さ加減と、作者のご都合主義に辟易する。ひまつぶしには最適の一冊。






夢へのレクイエム ヒューバート・セルビーJR:河出書房新社:2400円

 『レクイエム・フォー・ドリームス』として映画化されたので、期待半分で読んでみたけど、すでに出てからかなり経っている事に気づいた 。典型的な80年代のドラッグがらみで壊れて行くニューヨークの若者たち を描いた、そのまんまの内容であった。いまとなっては、だらだらの地と会話とモノローグを分けない書き方ももう懐かしい感じだ(スティーブン・エリクソンとかね)。
 なにが古いのかというと、閉じられた孤独の世界を描いていることなんだよね。これって、日本で言えばオウム事件、アメリカならオクラホマ連邦ビル爆破、その原因のブランチ・デビアン教会事件で、終止符を打たれた時代だと思う。うーん例えてみれば、 「終末論」で世界観を語れる時代の終焉なのかなあ。すべてをそれが背景にある小説は、21世紀を越えられないと思うんだ。それより先に進めないと思う。これはあらゆる芸術において同じではないだろうか。



デスペレーション スティーヴン・キング:新潮社:3000円
レギュレイション リチャード・バックマン:新潮社:2300円

 スティーブン・キングにはしばらく愛想を尽かしていた。「IT」以降、あのシャベリ文体が翻訳のせいだけじゃなくホント鼻についていたのだ。それが、「ローズ・マーダー」など、異常者の脳みそに入り込んだような文章がのた打ち回っているのをながめているうちに読む気がなくなってしまうのであった。「グリーン・マイル」は制約があったせいか、以前のキング節が復活していた。
 さあ、この二作であるが、位置付けがあいまいなんだよね。「レギュレイション」はバックマンの賑やかしである。なんの裏もないけどね。読み物としてもちょっと半端だ。ネタとしては短編なんだけど、まあバックマン名義がみんなそうだけどね。
 わたしが感心したのが、「デスペレーション」。ハイウエイから外れた寂れた鉱山町に現れた古代の邪悪な神が復活し、そこに偶然、必然的に集まった人たちが戦うというシンプルな物語。
登場人物のひとりが何度もつぶやく「神は残酷だ」というセリフに代表されるように、善と悪の物語である。それをディーン・クーンツのような薄っぺらい舞台を背景にしながら、人物に犠牲と再生という古典的、神話的な枠組を与えることで物語を深化させることに成功した。 物語のテンションの高さは保証する。
 ただわかったら教えて欲しいのだけど、主人公の作家が泣くところがあるのだけど、あのきっかけの事件がよくわからなかった。一番重要なシーンなのにちょっと不明なのだ。情報と解釈を求む。


ポップ1280 ジム・トンプスン:扶桑社:1429円

 「雑貨屋のドストエフスキー」と呼ばれ、ようやく再評価され出した、ジム・トンプスン。この小説、実は読むのにというか、読み始めるのに異常に時間がかかった。なぜか。こんな文章を小説として読んだことが無いからだ。主人公の目を通してみた田舎街の描写、これがなんか変だ。アタマが悪い人間がスローモーションのようにふわふわと歩いている、そんな印象なのだ。
 こんな語り口ってあり?!と驚く暇も無く、事件は欲望のままに進んでいるように見えた。典型的ないなかの事件の展開である。セックス、金、暴力。パルプフィクションとしてストーリーが展開しながらも、人物造型が複雑に現代的だ。チャンドラーほど、気取ってなく、マクドナルドほど陰鬱ではなく、スピレーンよりも頭の良い主人公、ハリード・チェイスの女たちよりも淫乱。 どこの塑型にもはまらず、孤独な作品。
以前「ゲッタ・ウエイ」を読んだとき映画と違いなんて暗い小説なんだと思ったけど、いま読みなおしたらおもしろいと思う。
ハード・ボイルドずれをしたみなさまに送る、絶対に後悔させない一冊。


内なる殺人者 ジム・トンプスン:河出書房新社:1400円

 ひとの中にある邪悪な本質を識るのに、「罪と罰」のような三文メロドラマを読む必要は無い。ジム・トンプスンがあればいい。ここには、 ロシアの文豪もたどり着けなかった地点が凝縮されて描かれている。 ハードボイルドの始祖としてのダシール・ハメットも結局は19世紀の人間であって、小説に浪漫主義的な理想部分をどこか捨てきれないでいたと思う。
 そこから入った読者はこのトンプスンのあまりにもそっけなく、救いのない物語舞台に、なにかを見出すことはむずかしい。受け入れるか嫌うかどちらしかない。どちらにしても今までの世界が壊れることは確かだ。その覚悟がおありならこの本は絶対に読むべきだ。覚悟が無ければ、卑しい街を男がひとり歩いていく小説を読みつづけることだ。





俺、南進して。 町田町蔵 荒木経惟:新潮社:1900円

 町田町蔵の軽薄重調文章は好きだ。やるせないほど駄目男も良い。だけど、アラーキーとのコラボレーションはちょっと企画としては面白いけど、結果お互いに、自分のテリトリーを守りつつ、この辺で手打ちにするかのような、 中途半端な心地良さを目指してしまったために、刺激的な読み物には程遠い出来となった。
 町田町蔵の小説のおもしろさは、彼自身がモデルかもしれないけど、まさかこんなことは、あるまいと読者が笑える、その法螺話に魅力があったのだけど、アラーキーの写真に彼自身が出ることによって、法螺話が想像できる高さにしかならないので、法螺じゃないのでおかしくもなんともないのである。
 またアラーキーの写真の小説性も、一見無関係な写真を並び替えただけで、エロスやストーリーを生み出すのがその真骨頂ではないだろうか。まあ大阪との相性があまりよくない気もするけどね(大阪でも難波だけど、その辺のこだわりは関西人で無いわたしにはわからないです)。
結果として、荒木の写真は、町田の文章に合わせたものとなった。逆に、町田の文章は、荒木の写真に合わせたものとなったでもいいのだけど。 ふたりでやることが相乗ではなく、相殺効果となった。


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