東映会長の自伝。雑誌「財界」という経営者が読む雑誌に連載していたためか、「俺礼賛」の嵐である。
まあ著者が関係各位に配るには良い本だろう。中味はほとんどないし、どこまで本当かは不明だ。ただ、東宝、松竹の代表との対談はそれぞれの社風が見えておもしろい。東宝会長とは、自分が現場出身でないことを下卑し互いにアニメーションが儲かるという話で盛り上がったり、松竹はまあ歌舞伎があるからねで終わってしまう。当の岡田は、東大経済出で東映の現場からのたたき上げで、大泉撮影所を立てなおし、大川社長の急死後、社長、会長職を歴任するというなかなかドラマティックな履歴だ。
東京大泉撮影所時代にかれのもとでデビューした深作欣ニが対談で「会長の好きな映画はなんですか」と聞いたのに対して、特に無い、そのことが逆に映画に淫しないで経営面からすぐに路線を変えられるとうそぶく。時代劇から任侠路線への変更、さらに実録へと(ただ実録はすぐに終わったと嘆く)、
東映の無節操さはこの人が作ったと言っても過言ではない。ただ、社長就任後、プロ野球球団・東映フライヤーズ売却、NETテレビ(現テレビ朝日)乗っ取り事件など以外、ほとんど「なにをやったか」ではなく、「なにをしなかったか」ということだけが目立つのは、斜陽産業の悲しさとしかいえない。ほんとうにおもしろい話はここに書かれていないことだろう。巻末の東映の配給作品記録は資料として役に立つ。
前作の自伝「書いては書き直し」では、生い立ちとテレビから演劇に進出して、評価を得るまでが描かれていた。これは日本人にはあまり馴染みのない、ニール・サイモン像だった。本書はその後から現在に至るまでの道のりで、いくつものおなじみの演劇や映画が顔を出す。
最初の妻との死別から立ち直り、マーシャ・メイスンとの結婚、ニューヨークからカリフォルニアへの引越し。70年代最後から80年代にかけての、ハリウッドでの快進撃、『おかしなふたり』、『名探偵登場』、『カリフォルニア・スイート』、『グッバイガール』などがアカデミー賞を取る。マーシャとの離婚の失意のあと発表した、いわゆるブライトンビーチ三部作で地位を揺るぎなきものとした。
その後、ブロードウェイでの『グッバイガール』ミュジカルコメディー化の失敗、などもあったが、毎年のように新作を出すニール・サイモンの余すところない、本書自体がかれの新作戯曲のように魅力に満ちた贈り物だ。
ぜひ戯曲集と併せて読むことをお薦めする。どちらも良いセリフが詰まってます。
私自身ジャッキー・チェン映画の良い観客であった試しはないが、一度、彼の映画を観始めるといつでも最後まで観てしまう。
本書では、かなりジャッキー・チェンのキャリアをあからさまにして、いくつもの疑問に応えていると思う。彼のキャリアが全寮制の京劇学校にはじまること。そこでサモ・ハン・キンポーやユン・ピョウに出会って彼等が別れられない「ブラザー」であること。
ジャッキーから見たブルース・リー像なぞ、リーの無二のスター性を認めながら、「彼くらいのパンチを出すものなら他にもいた」
と技術については手厳しい。
キャリアの合間にはいるハリウッド進出と挫折。『バトルクリーク・ブロー』、『キャノン・ボール』、『プロテクター』の失敗。その挫折から立ち直ったのも、ブラザーたちとの『プロジェクトA』、『五福星』での成功。しかしかれらとの確執。サモハンは兄として、ジャッキーの下にはつけないという面子。
『レッドブロンクス』でのようやくの成功。
テレサ・テンとの恋愛にもかなり書いている。実は香港映画においてもかれはクンフー映画を改革した存在として考えた方がよい。だれもかれのようには動けないのだから。
『プロジェクトA』にはじまったNG集は『キャノンボール』(もとになった『トランザム7000』)からパクッたなどのネタがあり、契約でトラブッたときに、暗黒界に顔が利く役者、ジミー・ウォングに世話になったため、何故か『ドラゴン特攻隊』に出演しているという裏がある。
バブルな時代を生き残り、あいかわらずはしゃぎ過ぎの感がある帝大前総長だけど、まあ大体の発言は
信用のおけない裏があるというか、あとで言い訳のできるダブルスタンダード(二重基準)なので飛ばして好い加減に読むんだけど、むかしからこれだけは許せないという発言を相変わらずしているのでこれについて書いてみたい。
「日本にはプロデューサーがいないので、私に数億円の金を預けてくれればどうにかしてやる」という能天気な発言が、実はいかに無神経な学者発言であるかはここでは述べない。まあ言ってみれば、
この人ってホント教育者じゃないなと思う。
おもしろいのは、予算があったら「まず撮影所を作り、人を養成する」と言っていることだ。それまで彼の顕揚してきたハリウッド50年代にしても、ヌーヴェル・ヴァーグにしても、日活ロマンポルノもすべて撮影所以降の作品じゃないか。しかし、かれが
日本映画をプロデュースするときには撮影所で人を育てるということしか連想できない貧弱な文部官僚的な発言できないところから、この人の限界を感じる。
そこで思ったのは、彼と一対のことを実現している日本映画人のことだ。それは
山城新伍監督だ。山城の作ってきた映画やその発言は、かれのテレビでのキャラクターとは違い、非常に撮影所的価値にその基準を置いている。
その実践こそが蓮実的であることことに注目したい。逆にいえば、蓮実的価値観を体現するということは、山城新伍になることと言える。
一時期、山城の第1作『ミスターどん平衛』に蓮実がでているという噂が流れたが、その真相は調べていない。その撮影所のベテランの手を借りながら、自分の映画を撮りつづけるというのは、
総長がむかしから言っている、「年配者に教えを乞う若者像」という物語にぴたりと当てはまる。
まったく正反対に思えるふたりが同じ物語を紡いでいることは非常におもしろい。そこには批評的メンタリティーと実作的な方向性がまるで違うベクトルを示しているという、当たり前だがおもしろい事実が浮かび上がる。
もうひとつは特権的であると吹聴する「ゴダールのおともだち」についてのホンネである
。ゴダールが結局のところは反逆児でもなんでもなく、スイスの大銀行家の孫である貴族階級であることを肯定し、自分をそれを理解できるサークルの一員としてクラブの一員であることを肯定すること。
ゴダールのおうちで彼といっしょに「映画史」を見ました。なんてどうでもいい自慢話を延々と書く。おまえは、ちょっといい話か!それはいわばハリウッド・カルテルに対抗するヨーロッパ・ハプスブルグ=大オーストリア連合の争いの欧州に加担することを表している。かれの展開するフィールドが非ハリウッドに傾斜している部分もそれを意味する。
まあ、書いたりリップサービスする1/100もできればご立派だけどね。そこには、
明治以降の典型的な東洋人に対しては西洋人の顔をして、西洋人には東洋人の貌をする、典型的な日本のインテイゲンチャ層の在り方が見える。
モーニング娘。じゃないんだからタイトルに「、」や「。」を入れるのやめてくれないかなあ。
しかしいきなり冒頭から2頁半の一人語りでハスミニアン大喜びの饒舌さ。あいだに伊丹十三(映画を撮る前)の、幇間鼎談が入り、だれにでも
伊丹がバカであるかわかってしまうつくりになっている。一応鈴木清順、北野武、村上龍なんぞは押さえているが、黒沢明とは対談してないのでフランス人やイタリア人の評論家とクロサワについて語る。シメはやっぱ淀川追悼対談を金井美恵子としてかなりはしゃいでいる。
かれの特権意識というのは年々ひどくなっていていまや老害としか呼べないんじゃないだろうか。まあかれがなんか言ったからといってもなんの状況も興行も変わらないけどね。
なにを言っても結果、一番映画を見ない層に東大総長の肩書きで読ませるしかないんだろうね。結局、
発表の場が丸谷才一と同じ になってしまう皮肉さ。
初出対談誌も「エピステーメ」から「モノンクル」、「話の特集」、「リュミエール」ときて「This is 読売」、「文藝別冊」と変遷がわかりやすい。
内容は出がらしのようなもので特記することはないが、伊丹との鼎談は載せないのが情けじゃないの?故人に対して品が無さ過ぎ。
リドリー・スコットはなにものか。作者は、「スコットの演出はカメラにばかり多くの時間を費やし、役者の演技には時間を割かないと指摘する人もいるがそうではない」と本書で反論をしているが、その結果がことごとく
撮影にしか興味がなく、役者から嫌われるリドリー・スコットの姿をみごとに描き出している。
リドリー・スコットの世界観は、CMの世界で何千本も撮って来て、成功してきている。撮影も自分でこなす。こんな俺って才能あるぅ。だから映画も撮れちゃうんだよ。
という自画自賛とカッコイイもの見つけた!これパクろう。というCM監督特有のうぬぼれで成り立っている。
前者はかれの映画の多くの登場人物に共通する。たとえば『ブラック・レイン』のマイケル・ダグラスや『グラディエーター』のラッセル・クロウ。かれらは才能があるのにある人たちの陰謀によって貶められている。しかしかれらは才能があるので
努力せずもって生まれた才覚で自分の地位を取り戻す。ね、CM監督のうぬぼれと一致するでしょ。
『ハンニバル』のレクター博士もこの系統だね。リドリー・スコットの主人公はだから同情を得ないし、最後には観客が取り残される。
もう1点興味深いのは、『エイリアン』のH.R.ギーガーにしても、『ブレード・ランナー』のメビウスにしても、最初に見つけたのは監督じゃないってこと。それを隠さないというのもパクリを恥じていないと言うことなんだろうなあ。『デュエリスト』には『バリー・リンドン』の影響が大きいなどと言ってしまえるんだから。
基本的な構成力の無さは、ディレクターズ・カット版の多さからもうかがえる。シナリオを読みこめていないということにつながる。『ブラック・レイン』では最後のアクション・シーン(アメリカロケだそうだ)で、松田優作が殺されるシーンも撮影していたという。
そのあたりの分かっていたことを再確認できるためには本書は有効だろう。個人的に一番おもしろかったところは、実は
『ブラック・レイン』はポール・バーホーヴェンが撮ることになっていたが(撮影監督のヤン・デ・ボンがなのはそのためか?)、かれは
“異なる文化の対立”という作品の趣旨を、適切に判断できそうにないと降板した。 とあったけど、かれが撮ったらもっととんでもない日本ものになっただろうなあ。残念。
それにしても日活は幸福な会社だと思う。私企業でこれだけ思い入れをされるのは、他にホンダかソニー、阪神タイガースくらいなもんだろう。
本書は出色のクロニクルである。しかも最近流行りの作者が全面に出てくるのではなく、あくまで黒子であるのが良い。これだけ適当な距離をもって書かれる背景には作者が最初から最後まで付き合ったという個人的な自負がないとできないだろう。この点で他の類似書を抜いている。しかも批評の部分は「官能のプログラムピクチャー」(フィルムアート社刊)に任せてあるの
でスタッフ、キャスト個人個人へのアプローチに徹することが出来ている。その現場にいた人物にしかわからない事実が多く含まれ、
人物の出入りの記録や順番もていねいに記録されているので、撮影所の時間、世間の時間がわかりやすく対比できる。
ロマンポルノというさいごのプログラムピクチャーとその時代の記録のなかで、日本映画史についての貴重な資料になるだろう。
追記:だれか宮下順子の「水のように」を貸してくれ。なかなかないんだよね。
クロサワ死後、いくつもの便乗本が出版されたけど、各人「群盲象を撫でる」の感があるが、本書は『羅生門』以降、『まあだだよ』までのスクリプターを務めた人によるクロサワ像である。
黒澤明の創造の源を探ると言うより、伝記記述に近いために今後参考文献として重宝されるだろう。まあどこまでが真実かはなんとも言えないというのが本当のところだろう。武満徹と『乱』のダビングでぶつかり、部屋を出ていった武満を送るとき、「黒澤さんの取り巻きが悪いんです」といわれ、「あなたもですよ」とジロリとにらまれたエピソードなどはわかりやすい。
天才どうしのぶつかり合いといったら万人向けなのだろうが、作曲家との打ち合わせに、完璧にクラッシックの名曲をカット割を合わせたラッシュを持参して、「これより良い曲を書いてくれ」と頼むことをしてしまう感性が
独裁とリーダーシップの混同ではなかったのだろうか。
マルチカメラがたまたま上手く行った『七人の侍』のために彼の方向性がおかしくなっていったのではないだろうか。それは裏返せば
編集でいくらでもいじれることを意味するのだから、撮影の意味が混乱したと思われる。いわば芝居をフレームで切り取ることだから、役者の長回しに対するテンションと望遠レンズで捉える表情の意味合いが混乱していくことが、映画の統一性を奪って行ったと思える。
役者はロングに耐える演劇的なオーバーアクトをするが、望遠でドキュメンタルなカメラはそのクドイ演技をアップで、ぶれながら見せることになる。
現場では意味合い的につながっても、編集ではつながらないのだ。(それはリアリズムとは別のものだろう 。クロサワの持つネオリアリズモな雰囲気
はこのあたりに起因するのではないか?)
この手法が成功するのはアクション映画なのに、自らそれを封印したところに、どこか彼の限界を感じる。
それは、さておき、野上氏の映画入りのキッカケが伊丹万作との文通であり、息子十三の後見人的な人であったこともはじめて知った。
これはカツドウヤの記録というより、特殊な個人の例として読んだほうが理解できるだろう。
だれもがディズニーはむかしとは違うという。ではどこがいつから違うかということに、答えられる人は少ないだろう。
これはその変化を記述してある的確な好著だといえよう。
ウォルトとロイ・ディズニー兄弟が製作者と経営者としてディズニー・ブランドを打ち建てたが、晩年の道楽であったディズニーランドは不振にあえいでいた。かれらの死後は、家族間での権力争いや会社の乗っ取りさわぎ、またウォルトならどう考える?病で落ち込んで行った。ちょうどアメリカ経済自体の疲弊もその時期だった。そこにパラマウント映画を立て直したマイケル・アイズナーとワーナー出身のフランク・ウエルズが乗りこんできた。アイズナーは腹心のジェフリー・カッツエンバーグにアニメの現場を任せ、カッツエンバーグは古株をどんどん斬り、次々とヒットを飛ばす
(『美女と野獣』以降のつまらん映画) 。もともとテレビ出身のアイズナーはテレビ番組やビデオ、ディズニーランドのまとめてブランド売りを行ない、バブルのジャパンマネーを背景にABCテレビ買収へと動く。この段階で
会社はアニメ映画社ではなく、メディア・コングロマリットになる。このあとアイズナーとカッツエンバーグは大喧嘩し、カッツエンバーグはスピルバーグらとドリームワークスを作り、一方のディズニーのイメージは落ちるのだが、相変わらずアイズナーは会長兼社長として君臨している。はっきり言ってなにも作り出していない最近のディズニーでは、アイズナー自体も張子の虎ではないだろうか。たぶん本人はウォルトの後継者だと自認しているだろうけど。
まずタイトルに注目して欲しい。「小説・日活撮影所」である。「日活映画」でも「日活アクション」でもない。「日活撮影所」なのだ。
これが宍戸錠という映画スターの出した答えだと思う。この言行一致のまさにアクション(肉体派)スターは、冒頭で度肝を抜く宣言をする。まさに本書が出版された時点では行われていない、豊頬のシリコンを取る手術を受けたシーンから始まるのだ。センセーションを狙ったものであるし、もっと確固たる決意であるのは、もしうまく行かなかった場合でも、これだけ公にしていたらあとは引退するしか道は残されていない。
自らの退路を断った著者に、ここまでして書かせたものはなんなのかを尋ねたい。
戦後、製作を再開した日活は、露骨なスタッフ、俳優の引きぬきを行い他の五社からの締め出しをくらっていた。監督で言えば、中平康、鈴木清順、西河克巳ら松竹組などが代表だけど、俳優も新劇などから呼んでこなければ間に合わなかったのだ。そこで、日活はニューフェイスの募集を行う。自前のスターを育てようというのだ。しかも新しく調布に作られた東洋一の日活撮影所で。その辺の映画界状況も的確に説明されている。
宍戸は見事に受かり、撮影所に通い始める。撮影所は夢の工場であり、彼はいわば「金のたまご」であったはずだ。映画という最後の生産産業の労働者として、働き、自分を磨いて行くか。作者は押さえたタッチで自分を突き放し、すべてをさらけ出す。そこには他のものには知り得ない日活撮影所とそこに集った人間の姿が活写されていると思う。まるで映画のように。本書が最後のあいさつなのか、次章の幕開けなのか、2001年4月の段階ではまだわからない。でもスクリーンで再会することを確信しています。
いま読んでいる新聞は、朝日読売に及ばない永遠のナンバー3、なんだけど、この新聞にしても読む価値のあるところは、日曜版、書評欄の川本三郎氏の書評だけだ。
読み手として、散歩者(さんぽもの)として、反動的なまでに的確な筆者は、筋金入りの映画ファンだ。川本氏の圧倒的なおもしろさは、
ものすごい知識量と質に支えられながらも、ファンというスタンスを崩さずに文章を書くことだろう。 ゆえに厳選された一品料理のように、さりげなく出された皿も実は、選びに選び抜かれたものである怖さがある。こちらはおいしいと言えばいいのだが、調べて行くとその奥深さに驚く。
ここでは、主に50年代に公開されたアメリカ映画を取り上げているが、かれはこの時代を「西部劇の時代」と定義づける。取り上げられるスターは、ゲーリー・クーパー、監督はウイリアム・ワイラー。このメニューはだれにも作れないもので、是非食べてみたい料理である。少なくとも、フランス直輸入のメニューよりは美味いことは確かだ。
映画監督が性格が良いからだといって、その作品がおもしろいかはわからないけど、ただ、映画監督という絶滅種の職業のひとがその業種について語るときはそれなりの覚悟がいるわけで、その覚悟を「放棄」という形で最初に提示したのは、鈴木清順だと思う。かれの場合は例外的で、言葉の無力を知っていながら、職業監督として、読まれることを前提として読めない文章を書いているのだから始末に負えない。そうでない人は、中平康のようにまじめに憤っていると早死にしてしまうのだろうか。
この、ひたすら日本的な批評言説を駆使しているのが作者ではなかろうか。王様は裸だと言っているのに、いや見えない洋服を着ているのだ。そもそも、洋服とは?着ることとはなんぞや?わたしとおなじことは、とうにカサベテスが言っていると、わけのわからないことを書き連ねているのが本書だ。というか、なんの意味も持たない文章をかき集めさせて著作でございと出す神経が不思議だ。たぶん、出版社が出したいといったから、と受身な責任放棄をいうのだと思うのだけど、その文章の不誠実さは、前著の「映像のカリスマ」と比べてみれば、一目瞭然だ。
本書は最終章の書き下ろしの言い訳文にしか意味はない。しかしこれも、なにかへの決別あるいは宣言ではなく、今後十年間への言い訳の先回りにしかすぎない。
もう一度言おう。映画監督は性格が良いからといって、面白い映画が撮れるわけじゃない。
HOME | Foward |