いったいスピルバーグに何を期待しているんだ。これはスピルバーグ映画ではない。スピルバーグによって追悼されたキューブリック映画
なのだ。だから、いくらスピルバーグがシナリオを書き直そうが、爽快な後味のある映画に仕上がるわけがない。キューブリックの映画を観て、鼻歌まじりに映画館を出たことがあるかね。まずそこを覚悟しなきゃいけない。
じゃあなぜスピルバーグが映画化したかって?たぶんスピルバーグが映画にしなきゃ、ワーナーブラザースのことだから、知らぬ間に映画化して、「キューブリックの幻の映画完成」とか言ってビデオで売る積もりだったんじゃないか
(『2010年』とか作ったことを考えればそうとしか思えない)。だからスピルバーグがすべてを買い取るのではなく、ワーナーの製作で映画化することで決着つけたのではないか。それで丸く収まるということで。
スピルバーグが固執したのはなぜか。経歴をみるとキューブリックとスピルバーグのキャリアは似通っている
ことがわかる。青年期からカメラを使い倒して、神童の名前を得る。メジャー・スタジオとの契約のなかで異色の作品作りで名を挙げる。登場人物よりもかれらが陥ったシチュエーションに興味がある。最新技術を使うために映画を作る。最も重要なことは、ハリウッドと言うシステムは否定していない。ヒット映画を作ろうとする、そのための努力は惜しまない。
ハリウッドシステムからはまったく外れていない。
しかし、映画のテーマへのアプローチが違うので、一見わからないが、この二人の映画に対する素養は似ている。もしかしたらスピルバーグ自身も気づいていないのではないだろうか。
『A.I』では、毎回オープニングでは驚かせて、映画の世界につれて行く手法を今回は使っていない。いきなり真面目に「人間」について延々と語り始めてしまっている。キューブリックなら病院で眠っている子供からはじめるだろう。そしてそれを見ている主人公とね。この段階で映画はすでに失速する。
キューブリックが、1950年代の犯罪映画で鍛えられた、そぎ落とした演出がいざというとき出来るのに対して、スピルバーグは、手抜きのシーンの省略法は出来ても、それ以上の思い切った登場人物の切り捨てはできない。だから結局だれもが良い人であり、まんべんなく描いてしまうから人物がぼやける。キューブリックの場合は、逆にそれは冷たいとなってしまうんだけどね。
しかし、ヒトが壊れていくのを描かせるとふたりの立場は一変する。キューブリックが、狂気に至る過程を丹念にねちっこく描くのに対して、スピルバーグは、嬉々としてヒトを殺して行く。そこにはなんの躊躇もなく淡々としている。理由はとくにない。
まあどちらも人倫に悖る表現だとは思うのだが、ハリウッド映画として公開されている。その(ハリウッドの)規制のぎりぎりで表現しているところも似ている。
スピルバーグが外面のタブーに対して、キューブリックは内面からの表現だ。それは最終的には社会に対するアプローチの仕方ということだと思うけれど。
それは、ヒット作を作るのがノルマとなった、ハリウッドの神童に課せられた使命だったのではないだろうか。さらに神性を深めるために、一方は寡作の完璧主義になり、もう一方は早撮りの王となった。
人間不信の行きつく先を「絶望」として自分の世界を造るのか、それとも人間を拒否して自分の世界を造るのを「絶望」とするのか。前者を大人のキューブリック、後者を子供のスピルバーグとするのは早計だろうか。
結局、『A.I』は同じところを指向していても、アプローチが違うので表現はスピルバーグなのだが、キューブリックが芯に残る後味の悪い映画になったといえよう。スピルバーグでは「機械は人間になれるのか」だが、キューブリックでは「人間は機械よりも上等か」という問いになる。その解釈と視点が一致しない。これから観る方は、キューブリック映画のように、埒もない悲劇として観ると満足できるのではないかと思います。
テルミン及びその状況について語られた映画であって、テルミンについての映画じゃあない。そこにある事実がおもしろいのであって、映画が面白いとは言い切れない。
テルミンを発明した男。彼に見出されてテルミン演奏の女神になった女。発明者はソビエトで消息を絶つ。そして生きていることがわかる。その間にアメリカでのテルミンの扱い。そんな事項が細切れに出される。
一応、ドキュメンタリーの体裁は取っているけれど、ドキュメンタリーである必然性はない。はっきり言って書物にした方が興味深いものができるだろう。ひたすら物事の周縁をぐるぐると回り続けて、どこにも辿りつかない。様々な「なぜ」という疑問にはなにひとつ答えていない。
一番の問題はテルミンって?なにか?がちっともわからないので、まわりの人間が全然見えてこない。だって、まともなインタビューがひとつもないんだもん。いや、製作者もこれが面白くできるか確信がなかったんだと思うよ。ただ、「テルミンの発明者が見つかり、アメリカに帰ってくる」という事実だけで作り始めたんだと思う。結局、それ以上に広がらない題材だったことだろう。上映するためにめいっぱい、手元にあるのフィルムをつなげたって感じだ。
ただ、なんとなく巷の話題に付いて行こうという人は観たほうがよいでしょう。ただ、NHKの海外ドキュメンタリーやディスカバリー・チャンネルが面白いと思っている人は期待しないほうがいいです。
円谷プロも、新しいウルトラマンばかり作ってないで、こういう映画作ればいいんだよな。って思い出したけど、「ウルトラマン・ティガ」の第49話 ウルトラの星の回で、ウルトラマン誕生の前にタイムスリップして、円谷英二と話すという洒落た話があったな。
近年まれに見る、シナリオがきちんとしたコメディなんだけど、演出がコメディでないのでつらいなあ。ヲタクの夢が幾層にもなって、にやりとさせられるところがたくさんあって楽しめる。
定番の部分を全部出し切っていてくれて、心地よく進んでくれるけど心地よすぎて「?」という箇所もある。キャラクターのこの設定を信じすぎるところなどが、飛躍するための、もうワンエピソードあって信じれば納得できるのだけども、いまひとつ決心して行動に向かう動機が、全体的に弱い。もうちょっととッ散らかったコメディ調が良かったんではないか。
まあ、ヲタクねらいなら細かいこといわないとは思うけど。さいごまで安心して観られる一本です。小品佳作です。
ジェームズ・キャメロンにより、映画は徹底的にまったく別のものになってしまった。彼の映画のありとあらゆる細分化されたカットは、単純に読み取れるような意味を構成しなくなり、映像情報の奔流のなかにすべて叩きこまれた。
1950年代までの古典的な映画作りでは、効果的なモンタージュで物語とともに情動を語ることが旨とされていた
が、実はその二つはその時点での技術と拮抗せざるを得ないすることを、多くのハリウッド映画監督は体現しながら、一方では技術と演出については無視していた。
ヌーヴェル・ヴァーグの影響を受けた、ハリウッド第8世代(コッポラ、ボグダノヴィッチ、フリードキン)、ハリウッド第9世代(スピルバーグ、デ・パルマ、スコセッシら)は、優秀なキャメラマン(ビルモス・ジグモンド、ラズロ・コヴァックス、マイケル・チャップマンら)や技術スタッフとともに、より完璧な映像を求めて
最新の技術を駆使し始めた。
イーストマンコダックの高感度フィルム、パナビジョンキャメラ、スティディカム、ドルビーステレオ、HMIライト、ヴィデオモニタ、VFX、レンタルビデオの普及。これらが映画の作り方を一変していった。平たく言えば、
誰でもどこでも映画が作れるようになったということだ。
それまで、映画にはこの条件では映らない、音が録れないという技術的な制約があり、それが独特の映画文法を発達させていった。それらが無くなったという事は逆にいえば、これまでも、サイレントからトーキー、モノクロからカラー、スタンダード画面からワイド画面へと技術により映画のカタチが変わるたびに文法は変わっていった。今の状態はそれにも匹敵するものだろう。
その先陣を切ったのは、スピルバーグの『ジュラッシック・パーク』であったことは確かだ。だれもが言った「これは映画ではなく、アトラクションだ。…でもおもしろい」
この時点では、それぞれの技術と物語、情動のレベルはバラバラだった。だからこけおどしとしか評価は得られなかった。しかし、ハリウッドのプロデューサーや監督はこう考えた。「同じ技術を使えば同じものが出来るはずだ」と。
実際、同じものがたくさんできた。CGだらけで、爆発、ドルビー音響がスタンダードになっていった。キャメラもスティディカムに載せられ、街中を滑るように人物の周りを駆け巡り、荒い鼻息の音をも拾う音響の再現性が当たり前となり、それを観客も認め出した。
それもそうだ、一番リアルに捉えられているのだから、なんの訓練もいらない。観たままを感じれば良いのだから。
デジタルに変換された画と音が、加工されてデフォレメされて、目と耳に届く。最早、自然界には無いものを感じさせられるのだから、五感は容量オーヴァーになるために、防御として、脳を停止してそのまま受け入れるしかない状態に追いこまれているといえよう。
それをそのまま使っているのが、ジェフィリー・ブラッカイマー、ディズニーアニメ、ジャパニメーションだろう。これらは、プロデューサーが歯止めを外しているとしか思えない悪質な確信犯。
反対にプロデューサーが歯止めを掛けているのが、ジョージ・ルーカス、スティーヴン・スピルヴァーグ。かれらの内なるディレクターが危険信号を出している。古典的な素養が、これ以上情報を入れてはいけないと言っているようだ。『プライべート・ライアン』での行き過ぎに気づいたのではないだろうか。
さて、キャメロンであるが、かれはあくまで確信犯側だと思うけど、彼の場合はスピルバーグでさえ混同している、
「物語を語る」、「情動を喚起する」、これらのモンタージュをいまの状況に巧みに織り込んでいることだ。この映画100年の蓄積の技法を入れ込むことで効果的な映画づくりを操るようになったといえよう。
『ターミネーター』、『エイリアン2』、『ターミネーター2』、『タイタニック』と見てみるとその様子が歴然とする。(『アビス』、『トゥルー・ライズ』は繰り返しの要素が多いのでここでは除く)
古典的なSFアクションに忠実な『ターミネーター』では、そのモンタージュも古典的な、追い追われるのワンシーンの中での2点カットバックを基本としている。ここでは、アクションをきちんと捉えようとしている丁寧さが見られる。
『エイリアン2』では、基本的設定の宇宙のヴェトナム化という、隠れた敵との戦闘という部分が必ずしも成功しているとは限らない。(いわゆるヴェトナム戦闘物で成功した描写のものは無いので仕方ないのかもしれないが)。また極度の顔のアップや、暗闇での戦闘の模様が判別つかない点で技術的な失敗が看て取れる。またこの時点では、銃撃のモンタージュも撃つ撃たれるの単純カットバックで成り立っている。キャメラの動きもまだ限られている。
『ターミネーター2』になると、まったくそれまでの制約から逃れ、キャメロン演出全開になる。製作会社のカロルコ=パイオニアLDCの呪縛がどこまであるかは分からないが、ヴィデオソフトとしては十分なくらいに、照明がまんべんなく当てられている。その画面の再現性は夜のシーンに限りなく発揮されている。どう見ても夜に見えないのだが、全部、夜のように照明しなおしているサイバーダイン社でのアクションシーンや、それに続くハイウェイのアクションシーンなどの開き直りとも言える約束事(夜の照明)を駆使している。
この映画になると、スチディ・カムによる回り込みの画面がやたら使われるようになる。ただし、手持ちのかわりではなく、あくまでシーンのモンタージュの一環としてである。それを証明するように手持ちの次に短いアップのカットがすぐに入るなど、そろそろシーンの情動をキープするためのカットつなぎが顕著になる。どんどんカットが変わるために余計なこと考えずにドキドキできる仕組みを効果的に使い、そのまま最後まで突っ走るキャメロンの手法の集大成と言える。
音楽と音響効果も分厚く、画面の音を全部拾っている。ここまでいくと体感映画に近づいてくる。シーンの情動の持続も計算ができてきた(『トゥルーライズ』では失敗して、コメディーシーンやロマンティックなシーンがアクションのように撮られていた)。映画全般のリズムをコントロールできた最初の作品といえるだろう。ハードの性能を最大に引き出す手法を手に入れた作品というのが適切な言葉であろう。
そして『タイタニック』。これまでの我流を通せば、観客と映画をコントロールできるレベルは計算できたのだろう。
キャメロンは『タイタニック』をパート2・続編映画として演出したのではないだろうか。自らの『ターミネーター2』のヒットを、分析しまくった結果から出た自信がその底辺にあるのだろう。結末の見えている映画とフラットな主人公をどうしたら描けるのか。
ここでは、『ターミネーター2』と同じく画面の情動だけで描ききってやろう。そのための効果的な方法はなにか。「観客を船に乗せて一緒に沈めてやることだ」。
みんな3時間の悲愛の物語を見たと勘違いしているが、実は3時間のタイタニック沈没アトラクションを体験したに過ぎない。だから観てへとへとになっても、尻は痛くならなかっただろう。
もはや、ここではストーリーを語るモンタージュは存在せず、そのシーンを描くカメラの位置と音響のリアルさだけが追求される。
キャメロン特有の回り込むスティディ・カムと、それを分断するようなカットの連鎖。肉迫するカメラと情動を喚起するカット割りが、そこのシーンに立ち会う観客を盛り上げながら続ける。ドキュメンタリーのリアルさと、モンタージュによる効果をうまく掛け合わせている。
それだけなら凡百のB級アクションと変わらない。キャメロンの場合はここに無意味な短いワンカットのアップを挿入するのだ。聞こえないけど効果音としてのアクセントと同じ効果をもたらすカットだ。たとえば、だれかが逃げる時、まずかれの全身をフォローして一緒に走るカットがあり、普通なら、その足元、顔のアップでつなげるのだけど、その間に短く上半身だけのカットが入ったりするのだ。
観客はそれまでのリズムには慣れているけど、ここに余計な(でも、なにが映っているかはわかる)カットが入るために、無意味に情動だけが盛り上がる。ここに音響が入れば一気に体感率が高まる仕掛けだ。
そのリズムをキープしながら、随所に時間や空間を処理する古典的なモンタージュを差しこむために全体の速度は落ちない。
ふつうの体感アトラクションが失敗するのは、このモンタージュを効果的に使えないからだ。リアルになる過ぎる点をモンタージュで切り抜け、逆にモンタージュで退屈になる部分をリアルなカメラの動きで切り抜ける。そして全体(特にアクションシーン)をリズムで編集する。音響はカットレベルではなく、シーンレベルで統一して聞かせ臨場感を出す。これがキャメロン映画の特徴ではないだろうか。
いわば、映像と音響を一度すべて情報に還元して、それをより情動を喚起するようにさらに組替える作業をするのだ。
もはやキャメロンの前には、いままでの映画文法だけでは成立しない、70年代以降の映画テクノロジーの歴史が刻み込まれた集大成ではないだろうか。
で、『ダーク・エンジェル』なのだが、相変わらずキャメロンの作品の男は弱いなあ。全然格好良くない。かと言って主役が上手いと言うこともない。なにしろアクションがヘタレだ。でも、この手のSFをマトモに作れる製作者もそういないのでストーリー展開に期待。
人を不快にさせる映画というほどのインパクトはない。なのに、なぜ気分が良くないかというと、実はドラッグに溺れる人々を描いているのではなく、
「反ドラッグの教育映画の枠組でしかない」ことが不快感なのだ。あまりにも高みから眺めている様子がいやだ。ドラッグは身を滅ぼし地獄に落ちると喧伝するCMとどこが違うのだ。
その点ははっきりしている。ドラッグの快楽がまったく描かれていないのだ。というと誤解を招くから言いなおすと、背徳の快楽を魅力的に描く演出力がまったくないのがこの映画の致命的につまらなくしている点なのだ。ただ、CGで画面いじったり、コマ落としで、ドラッグの効力を示そうとしたってギャグにしかならない
(しかもドラッグを打つと瞳孔が開くシーンを何度もくりかえすアタマの悪さ) 。悪が魅力的に描かれない限り、映画は説得力や魅力を持たない。
基本的に人に対する演出が出来ていない。単純な切り返しの会話の演出もマトモにできていない。母と子の結婚をめぐる会話のシーンなどぼろぼろ。こいつ現場でモニターしか見てないんじゃないかと思うほどひどい。恋人との楽しいシーンもシリアスな売春をするかどうかの瀬戸際のシーンも全然トーンが一緒。だめだねえ。
基本ができていないから、いくらエフェクトで凝っても面白くない。もっと言えば、そのエフェクトだって、毎回同じパターンだし、音と画の編集も単純に音と画をあわせてドッカンという大きな音つけるだけじゃセンス無さすぎ。だから編集がいくら細かくいろんなことやっていてもすぐに飽きてしまう。
はっきり言えばこんなことさ、60年代の終わりにニューヨークでスコセッシやデ・パーマ、カサベテスはとっくにやっていたんだよね。
あまり書くことないというのが正直なところだけれど、ティム・バートンにはアクション映画は無理だった
ということかな。もともと彼のつくる映画には簡潔という言葉からは程遠く、ねじれたユーモアをじっくりとひとつひとつ置いて行くというのが特徴だ。そこにはまったく物語を進めることとは無縁の所作しかなかったと思われる。そういう意味では、シーンのスペクタクル化が表現できる点で現代作家ということができる。
しかし古典的なハリウッドスタイルの時間の節約方法を押し付けられた結果、自身と物語のどちらを優先するかというジレンマに陥ったために映画が混乱した。まあ普通こういうのは作家の初期に起こることなのだけど、
バートンの場合はいままでその個性を放っておかれていた。デヴィド・フィンチャーの場合、『ゲーム』での惨敗がこれに相当するといえる。いわばかれらは、切り替えしの画面の積み重ねで物語を語ることができないのだ。
だからアクションの基本である、逃げる追うのニ点の距離感による緊迫感が演出できないといえる。だからかれらの村からの逃走や、人間対猿の戦いのシーンなど、距離感が「うそジャン!」ということになる。『スリーピー・ホロー』のアクションシーンのときも同じことを感じたけれど、サスペンスがでないのね。箱庭的なセットをうその空間つなぎして見せることにまったく興味がないのだろう。そのあたりは、うその空間の広がりに命を賭けているテリー・ギリアムとは対照的だ。
ものがたりのことは書かないけれど、これでわかったのは、ティム・バートンは、映像によって物語をねじ伏せる、ヒチコック、ロン・ハワードに至る系譜ではなく、どちらかというと、
NY演劇界出身のシドニー・ルメット、ノーマン・ジェイソンなどに近いと思う。ようするに、ワン・セット内での演出の充実ということだ。尤もそのなかでの映像処理が卓越していることはバートンの特徴なのだが、その演出の保守さ加減が今回は足を引っ張ったのではないか。
まあこの物語とシーンのスペクタクルの両者を解決しているのは、ポール・ヴァーホーベンくらいで、その次にキャメロンとスピルバーグが並ぶかどうかだな。
「革命の映画ではなく、映画の革命を」を叫んだゴダールは、誰の金だろうと金はカネだ。と嘯きながら誰も観ない映画をつくり続けるようになった。結局は
“革命を唱えた”映画しかつくらなかったということだ。
そして21世紀、誰もが映画への愛を語り、国際映画祭の話題やシネコンの繁栄など、映画産業の未来はいやとなるほど明るい。
だれもスプリングがボコボコになった座りごこちのわるい椅子に、アメの降ったブツ切れのフィルムを流す名画座なんぞなかったことになっている。そんな空間を薄いぴあを抱えて渡り歩いた顔色の悪いにんげんもいなかったことになっている。
そんなフザケタ状況に天誅を下すのが映画製作集団「スプロケット・ホールズ」だ。名前の由来はフィルムの両側にある穴のこと。映画が好きだと言いながら、
『フォレスト・ガンプ』を良い映画だと言って、パゾリーニの映画を見に行かない奴。ポルノやカンフー、ドライブイン・シアターにかかる映画を下品だといって観ない奴、(そしてそういう映画を観ているにんげんを差別する奴)。すべてまとめて天誅だ!
そうだ、『パッチ・アダムス』を観ている暇があったら映画を作るんだ。真の映画を。大予算を使った映画なんて、くやしいけどできないんだ。でもそんなことは問題じゃない。要は真の映画をつくろうとすることが真の目的なのだから。編集したり、上映したりするのはどうでも良いんだ。でもわれわれの革命的な映画の素晴らしさにメジャーの映画会社が「理解をして」、ハリウッドに招くというなら行かないこともないだろうけど。これこそ真の革命の達成といえるだろう。契約の条件として専用トレーラーと高級レストランでの会食も…。いやこれは革命を成し遂げた芸術家に対する当然の権利であって、権力に取り込まれるのではない。
芸術的作品は単なる娯楽映画とは違うんだ。
そして、われわれの作り上げた真の革命的映画は4時間を越えるモノクロ映画になるだろう。当然の革命プロパガンダとして、国際映画祭に出品して革命を世界に広げるのだ。賞を獲るためにはパーティーや審査員の買収も革命の勝利のためには仕方がない。おい、早く記者会見をセッティングしろ!日本人に先を越されるぞ。
スタジオのボスとの会見に、キャラクター・グッズの版権料?これで敵の本丸に入り込む全面的勝利であり、フィギュアは労働者の創造物の権利を再配分するという、革命における富の再配分の実現である。え?それじゃジョージ・ルーカスやスパイク・リーと同じじゃないかって。
かれらはすでにわれわれの革命の実践者なのだ。かれらは革命資金の調達のためにキャラクターを生産し、政治的主張をわかりやすく長い映画にするのだ。
さあ、きみも映画が好きなら、革命的な映画づくりをしてみないか。オレ?オレハまず借りてきたビデオの延滞料金を払うよ……。
この映画を観てみんな沈黙してしまうのは、掴みどころが無さ過ぎることもあるけど、僕は
三池SIDE-AとSIDE-Bの混乱にあると思う。オリジナル脚本のSIDE-A、原作モノや企画モノのSIDE-B。これまで二つは明確に分かれてきたけど、『DOA』の続編となるこの映画は三池ワールドでありながら、役者が決まった企画モノの性格もある。だから、
両者を存続させるために統一性から程遠くなったと思われる。
竹内力と哀川翔が捨てられた子どもで、殺し屋として生業を営むという三池・オリジナルワールドの住人でありながら、役者セッションのアンサンブルのみで作ってしまう部分を多く残しているのは、企画モノで多くみられる突っ放した演出部分のそれである。そのため天使という恥ずかしい設定が最後まで消化されずに画として残ってしまうし、ふたりが役じゃなく、いつまでも本人を演じているままである。
三池ワールドの本質は、役者がその存在を超える「えっ」という瞬間
にあると思うのだが、最近のかれはどうも役者をいじっているだけで、それ以上のものを引っ張り出していない、“スター隠し芸大会”チックだといえる。
監督はダメなシナリオをダメなままに拡大解釈をしながら、自分のテリトリーに強引に引き寄せる
ところにその真骨頂があると思うのだけど、近頃その作業を放棄している感がある。新宿歌舞伎町の世界に安住したくないと思いながら、渋谷や他の街を描こうとしながら中途半端に陥っている。ちょっと
時代の切り取り方が雑になっているのではないだろうか。
しかし、他の人と違い、SIDE-Aのオリジナルの世界ではなく、SIDE-Bの
企画モノの世界を描くと観念的になるのはなぜなんだろう。SIDE-Aでは、観念的世界(在留孤児の世界など)が見事に具体的に昇華されバイオレンス、エロス
につながるのだけど、SIDE-Bはどうもテクニックやはずかしい世界(これだと天使、『アンドロメディア』の海岸の桜の木)になってしまうのはなぜなんだろう。これって、映画作家としては例外な存在だよね。
映画作家としてオリジナルな世界に自分のルサンチマンが出てこない人というのは珍しい。企画モノの場合に観念を託すというのもあまりいない。そこがわかりにくいところじゃないのだろうか。
観客が、かれのこのふたつの方向の才気走りを統合へと進ませないで、ただイジラレテいるだけで喜んでいるだけだと、監督自体空中分解していく可能性がある。
だからこの映画、細部に上手いところ、楽しめるところはあるが、全体としては冒頭に述べたようにばらばらであり、ばらばらならではのハチャメチャな楽しさもない。しかしこれだけ撮れる人はいないので必見だ、そしてずっと観ていなければならない監督だ。これだけ文句を考えられるだけの監督が新作を撮りつづけているだけでぞくぞくするし、わたしたちは幸せだと思う。(最後ちょっと腰砕けか?)
快楽亭ブラック師匠をはじめ、おおくの人が生涯のベストに推す、長谷川伸原作、中村錦之助主演の任侠ものの原点といえる作品だろう。
古谷伸の撮影が美しい。山下耕作のアクセントである花も、構図と物語の要所を締めるポイント
として的確に置かれている。
物語の構成については長谷川伸について語ることになるので、あまり触れない。映画と関係ないところで成立していると思うのだけど、
日本人というか汎人的に通用する話の構成を、日本人のユートピア幻想の渡世人に託していることがうまい。このことを差し引いても、映画の完成度は高い
。セリフは無駄がなく泣かせるし、キャラクターが運命に翻弄されていくのに、ホントウの悪人が誰も出ないところがすごい。ものがたりの進み方がほとんど不条理に近い、
ありえない設定なのに、みながその性格に合わせて演じきってしまうので、そのテンションの高さがものがたりの質を支えていると言える。涙を流したいときには観るとよいでしょう。
日本人以外にも絶対通じる作品だと確信する。
それほどは期待してなかったけど、案の定「こりゃビリー・ワイルダーの艶笑喜劇じゃないか」
と思った。この程度がスキャンダラスなんて健全過ぎるんじゃないのともおもうけどね。
監督が演劇のひとということもあろうが、どう考えてもシナリオも演出も演劇で、どぎつく一番効果を発するようにしかつくられていない。たぶんもともとは戯曲ではないか。限られたセット・アップ。つねに二点カットバックが、前景後景のごとく配置されていて同時に展開するドラマ。妄想シーンや男色疑惑の演出は
舞台なら非常に効果的だ。人物像の単純で硬直したキャラクターなぞ、劇でしか通用しないと思うのだけどいかがだろうか。おかげでソープ・ドラマに近づいたんで観客に受け入れられたのだろう。
まあビデオカメラが出てくるのでギリギリ現代劇とわかるのだが、それを取っ払えば非常に古臭い話だと思うのだけど。人物の感情の動きが平坦で通俗的過ぎるね。なにも新しくない。
30男は、女房子供を質に入れてでも観ろ。30女は舅姑を縛ってでも出かけろ。21世紀がこの先99年、なにもなくても、この映画があっただけで、この世紀は救われる。しかも、これはいま観ないとダメなんだ。永遠の名作っていうんじゃなくホント、ぼくらひとりひとりのために作られた映画なんだ。
不覚にもなんども涙してしまった。映画を観るときには絶対にセンチメンタルな気分になってしまうものか。現実を離脱するために観に行くんだけど、こんなに
最後はどうにかなっちまうんじゃないかと思うくらい動揺した。あと30分長かったらもうどうなっていたかわからない。この時ほど、100分の長さでよかったあと思ったことはない。
なんでこんなことを考えたのだろうか。ストーリーがあまりにはまりすぎていたことは確かだけど、それ以上のものを表現しようとしていたからじゃないだろうか。ものがたりはここには書かないのでみなさま、各自情報を断片的に集めること。
「ノスタルジーは病気であるか」とムーン・ライダーズの鈴木慶一が書いていたが、ぼくに言わせれば「不治の病」だと思う。なぜか。もし治療が完癒されるようなことがあれば、そのひとがそのひとでなくなり死んでしまうからではないか。「無意味な人生だったな」のひとこと終わってしまう。そんなことを抱えながら日々暮らして行くわたしたちは、あらかじめ宣告された死者のようなものではないだろうか。もちろん日々こんなことを思って暮らしている奴はいないんで、突如そんなことが降りかかる瞬間、ひとはその時の歳にかかわらず、はっとする経験をする。
夕方になって、陽がくれようとしてまだ遊び足りないのに、みんな帰ってしまったとき。商店街のコロッケを揚げる総菜屋や、きらびやかな新製品であふれる電気屋の前を走り抜けたとき、
田舎道を自転車でほこりまみれになりながら全力疾走したとき、人ごみのなかで迷子になって心細い思いをしたとき。その時々の瞬間に揺れた感情があふれ、観ている自分を思いきり直撃する。
この映画に仕掛けられた、ギャグでもありマジな設定におかしくってうんうんとうなずくしぶさがありすぎる。いつもながら悪役がいいのがこのシリーズの特徴でもあるけど、今回はすごすぎる。このネーミングには参ってしまった。しかも声優が、津嘉山正種(!)。この説得力の持っていき方はものがたりを信じさせようとする心意気を感じさせる。
今回のキャラクターにつけた動きが、おざなりとか、デフォレメや様式化したりしているのではなく、過不足無く動いていることにも注目してほしい。まさに演技という形になっている。その細かさを観て。しんのすけが階段を駆け登るところは、一切手抜きをせず、全部手書きの動画だけで表現しているところも良く観て。久しぶりにおもいが乗っている画を観た。小堺、関根のコサキン・コンビのギャグも聞き逃さないように。あと、「国会で青島幸男が決めたのか」は赤塚不二夫のギャグだからね。
余計なことを書くとしたら、これで原恵一は宮崎押井庵野を越えたというか、全然別の答えを出してくれたことに感謝する。
ここで描かれているのは、むやみに慰撫してくれたり免罪符でも言い訳でもない、ひとつの時代を生きていることをただただ感じさせてくれる<作品>なのだ。
そんなことが次々に波状攻撃されて、どうにかなりそうになったとき吉田拓郎の歌が流れて、感情の堰が切れてしまった。いままで彼の唄をいいと思ったことないんだけど、うわっという感じでダイレクトに入り込まれてしまった。この映画の音楽のセンスも秀逸だね。
こんな奇跡のような想いをさせて堪能できる映画はまずない。ぜひ劇場へ行って観てほしい。
さいごに、こんなに映画館で泣いてしまったのは、『超高層プロフェッショナル』を観て以来だ。約20年ぶりかもしれない。そのときは映画がよかっただけではなく、その日通っていた学校の同期のふたりが自殺したということを聞いたことも関係あったんじゃないかな。どっかで、生きていればなんかいいこともあるんじゃないか、というのが20年前のぼくの考えだったけど、そんなことはだれにも言えずに、映画館の暗闇でその映画に遭遇してしまった。整理できない感情をそのまま受け止めてくれたと思った。そんなことを思い出した。
まあ、なにはともあれ、この映画はあなたのためだけにつくられたぜいたくな映画なことだけは確かなのだから。
今回ほど、デジタル処理技術のすごさを感じたことはない。今回、キズひとつないプリントに、ノイズをほとんど消した音声とステレオで聞こえる『ツァラストラウスはかく語りき』が流れた時にはボーっとしてしまうくらいすばらしかった。
30年前にはじめて観た時は、なにがなんだかわからなくやたら長かったように思えたが、今回は細かい部分までよくわかり楽しめた。
逆に、ある程度ストーリーが入っていた方が、スクリーンに身を任せられるので良いのではないか。今回のサウンドの良さでそう思った。
しかしシネラマってもっとスクリーンが横長かったような気がするけど、今回はワイドくらいの長さしかないんではなかったか?
単純に、スクリーンで観たことのない人にはお薦めします。観劇とはこのようなことをいうのではないでしょうか。
ゴダール以降、重要な作家として、小難しくされてしまった感があるジャン・ユスターシュだけど、彼の作品を解くカギは、彼が労働者階級出身の監督であり、ゴダールのようなブルジョアジーでないところにあるのではないか。
トリュフォーの場合は、ブルジョアジーになろうとしていたので、ユスターシュの描こうとした世界を近親憎悪していたのではないだろうか。
結局、ユスターシュは、この映画で自分の少年時代、いなかの生活、別れて暮らしていた母親と彼女の男との暮らし、高校へ行かず働く毎日、おんなを口説くこと、しか描いていない。たぶんこれがすべてだったのだと思う。退屈なまでに退屈。暴走するでもなく劇的でもない日常。その日常がスリリングなことを描きたかったのではないか。あえて物語を夢想するのでなくて、
ひとつひとつの立ち居振舞いに自分が「確かにいた」ことを再確認しているのではないだろうか。そうやって記憶していかないと自分が生きてきた証がないと。ブルジョアジーなら、思い出作りという手段があるかもしれない。しかし、労働者たちにはなにも残っていない。だからそれを物語で誇張するのではなく、そのときに感じた感覚をもう一度、画面で切り取り、編集で繋ぐ時に、自分だけのストーリーにして行こうと考えたのではないだろうか。それは、ありとあらゆる誇張したみずみずしさとは無縁のものだけど。
スーパースター・ラジニカーントの文字が再びスクリーンいっぱいに広がる。『ムトゥ踊るマハラジャ』の時とまったく同じだ。
インドのある集落、パダヤッパ神の前で、結婚を誓うカップル、しかし花嫁は誓いの言葉を言えない。がっかりする花婿を前に、長老は言う「この村では、本人の意見にそむいて結婚を進めてはならない」と。過去に自分を偽って命を絶ったものがいたからだ。これで映画が結婚をめぐる騒動として展開することがわかる。
そこにボンベイで一旗揚げた長老の息子、ラジニカーントが登場する。仲間を引き連れ散歩すると、ある美人を見つけここでいきなり求愛のダンスを熱演。
こってりとした踊りの後、真っ赤な日本車のスポーツカーから降り立つのは、インドで大流行 (ウソ) の、ボディコンスタイルのケバイ高ビーな女
である。彼女は大学出のインテリで、アメリカへ留学していたという。なんかこの辺なまった英語とタミル語が混じってわかりづらいが、推測だとナウい言葉は英語で表現されているようだ。いきなりわたしにふさわしいのはあなたなのよと、高飛車に宣言する。しかしラジニカーントの心は揺らがない。でも、気に入った彼女は、政治に野望を持つ父を持つ高ビー女の家の召使だった。
そのあと、政略結婚あり、長老の急死あり、ラジニカーントが一家を支え事業家になり成功したり、次々に事件が起こる。そして、ある事件をきっかけに高ビー女は、ラジニカーントに復讐を誓う。
そして、なんと18年が一気に過ぎる。時代は子供の時代へと変わる。トラブルに巻き込まれ彼の娘が危ない。すると、メイクでひげを生やしただけの老け役のラジニカーントは、アクション全開で闘うのだ。そして、ひまな人間をすべて動員したラストの大群衆エキストラを含むシーンあり、
『特攻野郎Aチーム』かと思うカーアクションあり、『マトリックス』を越えたCG、ガンアクションとまったく飽きることなく、最後には、『ムトゥ』と同じテーマ曲が流れ、おお盛り上がりをする。しかし最後までラジニカーントのままスーパースターは決めてくれる。3時間を越えるてんこもりの娯楽の王道に感謝。
いくらなんでもここまで心のこもってない映画が撮れるというのもそれはそれで才能ではないだろうかと思える。こんなに現場が低予算なのにそれらしく出来るのは大したものと思う。だから見終った後に、虚しさが残るはずだ。
まず撮影がぜんぶフィルターをかけているために、画面が非常にフラットだ。まあ、天気のつながりをごまかすためだと思われるけど画面作りが粗い。
同様に、セット、ロケセットを含めて数が少ない。ロングは、B班を使って効率的に撮っていると思われるが、役者のありなしでの画の作りがちょっと違いすぎるし、夜間や暗い室内の照明が単純すぎる。
脚本や演出のミスが多いけど、それを持ちなおすことができないのがリドリー・スコットだと思う。うまくいかないときは、とりあえず仕上げちまえ。そんな姿勢が一貫している。たぶんこの人は、役者に対する演出に興味ないのだと思う
(カット単位でしか) 。
そこが『羊たちの沈黙』のジョナサン・デミとの違いだろう。できる役者かロボットのように動ける役者でないと彼の映画は成立しない。スターは必要ないんだよね。
20年前にこの映画が公開されていたら、日本の若者はみんなインフルエンザに罹ったように、『はなればなれに』と呟いていたはずだ。というほどここには映画の塑型がある。恋愛、ギャング、クルマ、拳銃、女、陰謀。あなたが高校生や大学生だったら迷わずにいま見るべき映画だ。この年になって観ても遅すぎる。
ふつう、こんな映画をつくってしまったら映画監督は死んでしまうんだけど、ゴダールはいまも生きて映画を撮っている。
竹中直人の「少々、おむつがりのようで」に、この映画に出演するいきさつが出ている。事務所が没にした台本を拾い、石井隆に会いに行くところがとても良い。赤い天使シリーズのようだ。このころの竹中直人は、森崎東の『ロケーション』という傑作にも助監督役として出ているが、声がやたら良いけど、ぎらぎらしている存在だった。
この石井隆のデビュー作ですでに石井組ができているのが印象的だ。そして、演出も完成されている。
わたし的に仲間由紀恵がブームなのだが、そのきっかけになったのはこの映画であることは確かだ。鶴田監督の演出力はまだまだ本数撮っていくうちに上手くなる人と確信している。お化け映画のちょっとした部分をこわがらせるツボをついている。ストーリー的には田中好子が出ている分、話が拡散しているので、もっと密室な人間関係になれば良かったと思う。細かいところはあるのだけど、できればもうひとりいる部分を楳図かずおの「神の右手、悪魔の左手」の最終話のようにすれば、おもしろく出来たのではないか。
もうちょっと時間があれば、『レベッカ』のようになれたのだけどなあ。
あと、仲間由紀恵はバラエティーに出たり、唄をうたったりしないで、映画出演に集中すべきだと思う。
要塞警察
ジョン・カーペンター
ビデオ
かつて、『スターウォーズ』の続編よりも、公開が待たれた映画があった。『ダーク・スター』だ。幻の自主製作のSF映画、監督はもとより音楽まで担当する才人としてジョン・カーペンターは紹介された。
彼が撮った伝説のテレフィーチャーが本作だ。いわゆる『リオ・ブラボー』現代版だが、全体としては、『ゾンビ』(LAバージョン)と言った方がわかりやすい。昔から身も蓋もない直球演出で気取らないところが良いけど、いまもおんなじだぞ。『高校大パニック』のようにさわやかな映画である
(時代もふくめてね) 。
グラディエーター
リドリー・スコット
ビデオ
ここ何年かの間で、テレビ番組のBGMでサウンドトラックが使われることが多くなった。それまではタブー的にオーケストレーションは使われなかったのだけど、いまは一般的になってきている。わかりやすいのは「料理の鉄人」の『バック・ドラフト』だ。音だけ荘厳なイメージは一般化している。わたしはこれを
作曲家ハンス・ジマーの功罪と個人的に呼んでいるのだけどね。
さて、『グラディエーター』である。このサントラも良く使われている。重厚なまでに盛り上げるが無意味。CGも演技も同じレベル。話も直線過ぎる。ただ勝手にイメージが膨らんで行く効能はある。だから半年後に、アカデミー賞が取れるのだろう。そこら辺はリドリー・スコットのねちっこい計算勝ちだ。インパクトのある印象深い画と音響で繋いである。あとで観客がものがたりを反芻するとき困らないようにしてある。というか、
じつはそれしか映像がないのであるが、観客はもっとあるように感じてしまう、CM的効果だ。ここらが、『アルマゲドン』組とは、ちがう老練さ。じっくりみなければ愉しめる一品です!
アンブレイカブル
ナイト・M・シャマラン
熊谷ワーナーマイカル
映画の魅力はどこにあるのだろうか。確固としたストーリーを経て、ちょっとした「センス」がそれを決定的にする。『アンブレイカブル』はそんな映画である。今回のトリックはわかろうがわかるまいがどちらでも良いと思う。そこに引っかかると最後まで愉しめないおそれがある。
ただただ、いろんなところに驚き、声をあげることお薦めする。
最後まで声を荒げず、にこりともしない演技を続ける、ブルース・ウイルスとサミュエル・L・ジャクソンの2人の素晴らしさにドキドキしよう。
静謐でありながらも、大胆な演出をする監督にワクワクしよう。これを『シックス・センス』と比べて…というのは愚問だ。
ただ、論理と倫理のあいだを行き来するストーリーのエンターテインメント性にため息をつきながら、続編について想いをめぐらすのも良いかもしれない。
こんな話、なかなか作れるものじゃない。
回路
黒沢清
ヴァージンシネマズ・市川コルトンプラザ
映画は、商品なのか作品なのか。個人のものであるとしたら「作品」であり、金を取るとしたら「商品」だと思う。誰かにほめられるだけなら「作品」だけど、議論されるなら「商品」だ。
企画:「インターネットのなかから幽霊がでてくる」 ……「『リング』の呪いのテープとどこがちがうの?」。まあ、シナリオのミスとか演出のミスご都合主義が、
シナリオ学校レベルなので失笑するしかないけど、やっぱ黒沢清はシナリオが書けない。自分で書いたやつはぜんぶ最後にはストーリーが破綻していることを指摘したい。また、撮影もあいかわらずひどいので観ていて疲れる。田村正毅はさすがにきちんと撮れていたけど、その他最近のものは特にヒドイ。人物が背景に溶けこんで見えない。これって技術レベルの問題だよ。作品意図以前にさ。ディテールのない(風俗を描かない)ことが、映画が腐らないことと考えているかもしれないけどそれは明らかに間違えだ。ディテールにこそ意味がある。しかしおもしろくしようとしていない映画について書いても仕方ないと思うのだけど。ずっとおなじようなことしていくんだろうなあ。ジャンルをつくったりこわしたり、基本的にできないだろうから。
海外で賞でも獲らない限りはね。たぶん。
『甲殻機動隊』以降、どんどんダメになっていく押井守を見ているのはつらい。実のところ、ここで「ヴァーチャル・ボーイ、ミーツ、2次元ガール、アット、サイバー・スペース」として、押井守から、青山真治までが抱える薄っぺらな事象について、書こうと思ったのだけど、それは改めて書く、かも知れない。
今作でも相変わらず、欠点は直っていない。シナリオに対する妥協。キャラクター造型に対する甘さ。同じくセリフなど、脚本家の責任が大きいのだけど、今回、それ以上に痛かったのは、
構築すべき「もうひとつの世界」をRPGに置き換えたところだろう。あまりにもそのシステムに寄りかかりすぎて身動きが取れなくなってしまう過ちを犯した。
押井は、『うる星やつら ビューティフル・ドリーマー』から、見える世界のもうひとつの局面に魅せられ続けていた。その答えが、パトレイバーという世界であり、その心地よい空間で、メディアミックスのなかでコミックス、OVAとも違いながら交差する、いわば外伝の『パトレイバー』2作を完成させられた。近未来の東京という架構された世界で十分遊ぶことができた。
それを推し進めたのが『甲殻機動隊』で、原作のセリフをそのまま使ったが、意味を全部違え、原作者の好むようにはしなかったと言っているように、換骨奪体することにしか興味のなかったため、内容がまるでなく途中で空中分解してしまう。
そして、『Avalon』。はじまって数分、戦車がヨーロッパの旧市街地を疾走し、ぼこぼこ人が吹っ飛んで行くシーンに、驚きを覚える。ヲタクなら撮りたかった夢のような映像だ。しかし、映像はもとより、ストーリーが単純なRPGだということに気づき出すころには、ものがたりは失速し始める。そこで、観客は、ポーランドで撮影しながらも、どこの国のどの時代といってないため、観るポイントをも失う。虚構と現実を弄ぶことで成立していた、押井ワールドの崩壊である。
一方に仮託すべき現実があればあるほど、虚構が輝くのは真実である。この作業を止めた途端に、映画という虚構自身の存在が疑われるのだ。それをさせないためにも、細部にこだわるのが普通なのに、意味も無く細部のみにこだわるヲタクの弱点が露呈したといえよう。(その点で『ファイナルファンタジー』の映画もダメだと思うけどね)
ここで、もうひとつ驚く点を上げるとすれば、実写なのに、カメラワークはアニメとまったく同じなのだ。いくらデジタルエフェクトをかけるとはいえ、極端過ぎる。そのままアニメにしてもまったくおかしくないカット割なのだ。押井がインタビューで言っている「今度はカメラマンを世界に派遣して、撮った背景と人物を合成して映画にしたい」というのは、まったくアニメ監督の発言だ。実写をアニメ化する失敗作の『赤い眼鏡』と同じことをまだ考えているのかと愕然とし、この人変わらないなと感じた。
いわば、この人の演出は、前景と背景しかないということだろう。その間を埋めるものを必要としていない。アニメーションというデフォレメされた遠近感の中なら良いけど、情報量があるすぎる、実写の3次元では、薄っぺらくなるだけだ。
ものがたりは失速したまま、RPGの法則に従ったまま、腰抜けなラストを迎える。くそゲーである。
THX対応劇場でしたが、サウンドもあまり感心するほどではなかった。