公開中新作映画

バトルロワイアル
  深作欣二
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(新宿東映) 
 深作は、「15才のとき戦争で友達が爆撃でどんどん死んでいくのを見た。だから私にはこの映画を撮ることが出来る」と語る。政治屋は「未成年は判断力がないから暴力的な映画は大人が規制する権利がある」と言う。17才は「僕らも人を殺したことがあるから観る権利がある」と言うだろう。俺らはなんだ?いまさらガキの気持ちがわかるなんてナイーブな子どもぶってどうしようもないだろう。あ、そんなことばかりいうとオヤジ狩りされちゃう。そう、俺たちはターゲットなんだよ、もう。だから、ガキには観せるな!!俺たちが狩られないためにも。それでも擁護するかい、立派なみなさんは民主主義なんかのためにさ。
 議論のズレは、キネ旬が『仁義なき戦い』をベストワンにさせないために、斉藤耕一の『津軽じょんがら節』を選んだのとやっていることはよりナイーブに政治的になり(形だけだが)、より映画自体から遊離していく。
 ストーリーは端折っているところが多いので、原作を読んでから観ると分かりやすいです。映画は別物に仕上がっているから問題ないです。まあ、一連の深作映画を観ている人は驚きません。深作ならこれくらいやるだろうという期待には応えています。
 深作映画を観たことのない、良い子や政治屋のおじさんたちに教えてあげるとね、基本的にこの映画は集団抗争モノになるんだ。仁義なき戦いシリーズを踏襲するパターンなんだ。だから、主人公は人を殺さないけど、実は狂言回しで、美味しいところは、柴崎コウ、安藤政信、山本太郎にもって行かれちゃうんだよね。藤原君が絶叫しても浮いちゃうわけ。
 だけど、一番興味深かったところは、中坊の殺し合いじゃなくて、キタノの描き方なんだ。ここに深作監督の罠がある。キタノは悪役だが、単純な悪役として描いていない。簡単に悪い大人代表として描けばR-15層からは喝采を浴びるだろがそうはしていないところが、監督の実に意地の悪いところだと思う。
 それは、原作にはない、前田亜季の夢とその後のキタノが傘を持って登場するシーン。執拗に亜季の作ったクッキーを大事に食べるシーンが何度も出てくる。これは、何を意味するのか。誰かの願望なのか。まあ順当なところとしては、憎い敵役のキタノの幻想と見るのが普通だろう。しかし、ちょっと納得がいかない動きだ。もし、これが現実の回想としたらどうだ。前田亜季がキタノの愛人で、援助交際をしていたとしたらどうだ。映画の中の唯一無垢な存在で、みんなが守ろうとしていた亜季がキタノの女なら、亜季が生き残った殺し合いの意味やキタノの死が別の様相を呈しては来ないだろうか。逆の意味で、キタノに代表される大人の裏の顔には、少女への無垢性への願望(都合のいい形でのね)が根深くあることが問題だと示してるんじゃないだろうか。(『いつかぎらぎらする日』で荻野目慶子が銀座で赤い風船を飛ばしたシーンを思い出せ)キタノの娘の声が前田愛!というのも暗示的ではないだろうか。敢えてどこにも描かれていない大人と子どもの性を介したズレを提示しているんじゃないだろうか。キタノは亜季に裏切られ死んでいったとも解釈できないだろうか。
 上手くないティーンの役者も、発声練習をしてしごいたお陰か、ぎゃーぎゃーわめく演技にならないように演出されているのはさすがだ。ラストは原作の方が良かったな。最後にもう一度、俺たちは狩られる側だよ。
(角田)



ダンサー・イン・ザ・ダーク
  DANCER IN THE DARK
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  ランス・フォン・トーリア
(熊谷マイカル)
 2000年のカンヌ映画祭は、日本国内では『御法度』の出品。日本映画二本コンペに上がるとか話題になっていたけど、そんなローカルな話は叶姉妹が現れたのと同じくらいどうでも良い話で、実は、グランプリは決まっていたという。ランス・フォン・トーリアが、「グランプリをくれないなら出品しない」と事務局を脅したらしい。結果、グランプリと主演女優賞は、リュック・ベッソンの手からデンマーク人とアイスランド人に渡された。時代は、アカデミー作曲賞、衣装賞授与者の参加した映画や、4時間のモノクロ映画など相手にしてなかったのだ。
 その頃、この作品が“ドグマ95”にのっとり、デジタルビデオカメラで撮られたとの情報が入ってきた。すぐに連想したのが、にっかつロマンポルノの最後に、ビデオで撮ったTロマンXUなるキネコ作品だ。まあ、正直な話観てられない、走査線が気になって目がちかちかした。ああ、今度もコンセプトが先行してるのかと不安になった。
 果たして作品は、ものすごく良くできたビデオの特性を生かした非ハリウッド映画の中では一番進んだ形に仕上がったのではないだろうか。ビデオの持つ、極端に肉薄した表現。生々しさが上手くフィルムに乗っている。画質も全然問題ない。ちなみに撮影監督は、ロビー・ミューラー。ヴェンダースやジャームッシュの作品でお馴染みだ。ただしカメラオペレータは監督自身がやっている。
 映画は、前奏が終わると、いきなりブレブレの画面にかろうじて映る、メガネをかけたビョークが素人劇団ミュージカルで‘MY FAVORITE THINGS’を歌うところから始まる。素人カメラマンが撮ったように、ブツ切れの編集で状況が分かるようには撮影せず、ただ雰囲気が伝わってくる。そこにいるのは、主人公のセルマか?それとも演じているビョークか?観客は不安定な状態のまま物語に入っていく。音楽が楽しみで、眼が見えなくなる恐怖にどこまでもおびえるチェコ移民。アメリカとミュージカルという憧れへの絶対に届かない絶対的な距離、届かないが故に想いが募る。それに対する現実は貧しい。と二重三重に夢想(アメリカンドリーム?)と現実、いや映画と現実がビデオという細い線で一本に繋がる。そこにビョークの唄が吹き込まれ、より強い力を映画に与えている。
 全編、ヨーロッパで撮影されたアメリカの風景。ミュージカルの撮影の仕方も、へたくそだ。話も平凡だ。しかし、映画の完成度よりも、ビョークを選択した監督は正しい。ビデオだけが撮れたもうひとつの現実だろう。そう、カメラが歌い踊っているといっても過言ではない。大袈裟と言うなら、二度目の‘MY FAVORITE THINGS’を歌うシーンの緊張感を思い出すが良い。あそこからラストまで一気に持って行かれてしまった。
 ミュージカルのシーンなら、裁判所のシーン。絶対踊ると思ったけど、やられたあと思った。あの奇妙な美しさはなんだろう。あのタップは忘れられない。
 音響もドルビーサウンドが素晴らしい効果を上げていた。これは、ヨーロッパからのアメリカへの挑戦状じゃないだろうか。「映画にとって本当に重要なのは…………」だとね。世界の貧乏人映画作家に勇気と絶望を与えてくれる。要は志だね。
(角田)