●バトルロワイアル
深作欣二
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(新宿東映)
深作は、「15才のとき戦争で友達が爆撃でどんどん死んでいくのを見た。だから私にはこの映画を撮ることが出来る」と語る。政治屋は「未成年は判断力がないから暴力的な映画は大人が規制する権利がある」と言う。17才は「僕らも人を殺したことがあるから観る権利がある」と言うだろう。俺らはなんだ?いまさらガキの気持ちがわかるなんてナイーブな子どもぶってどうしようもないだろう。あ、そんなことばかりいうとオヤジ狩りされちゃう。そう、俺たちはターゲットなんだよ、もう。だから、ガキには観せるな!!俺たちが狩られないためにも。それでも擁護するかい、立派なみなさんは民主主義なんかのためにさ。
議論のズレは、キネ旬が『仁義なき戦い』をベストワンにさせないために、斉藤耕一の『津軽じょんがら節』を選んだのとやっていることはよりナイーブに政治的になり(形だけだが)、より映画自体から遊離していく。
ストーリーは端折っているところが多いので、原作を読んでから観ると分かりやすいです。映画は別物に仕上がっているから問題ないです。まあ、一連の深作映画を観ている人は驚きません。深作ならこれくらいやるだろうという期待には応えています。
深作映画を観たことのない、良い子や政治屋のおじさんたちに教えてあげるとね、基本的にこの映画は集団抗争モノになるんだ。仁義なき戦いシリーズを踏襲するパターンなんだ。だから、主人公は人を殺さないけど、実は狂言回しで、美味しいところは、柴崎コウ、安藤政信、山本太郎にもって行かれちゃうんだよね。藤原君が絶叫しても浮いちゃうわけ。
だけど、一番興味深かったところは、中坊の殺し合いじゃなくて、キタノの描き方なんだ。ここに深作監督の罠がある。キタノは悪役だが、単純な悪役として描いていない。簡単に悪い大人代表として描けばR-15層からは喝采を浴びるだろがそうはしていないところが、監督の実に意地の悪いところだと思う。
それは、原作にはない、前田亜季の夢とその後のキタノが傘を持って登場するシーン。執拗に亜季の作ったクッキーを大事に食べるシーンが何度も出てくる。これは、何を意味するのか。誰かの願望なのか。まあ順当なところとしては、憎い敵役のキタノの幻想と見るのが普通だろう。しかし、ちょっと納得がいかない動きだ。もし、これが現実の回想としたらどうだ。前田亜季がキタノの愛人で、援助交際をしていたとしたらどうだ。映画の中の唯一無垢な存在で、みんなが守ろうとしていた亜季がキタノの女なら、亜季が生き残った殺し合いの意味やキタノの死が別の様相を呈しては来ないだろうか。逆の意味で、キタノに代表される大人の裏の顔には、少女への無垢性への願望(都合のいい形でのね)が根深くあることが問題だと示してるんじゃないだろうか。(『いつかぎらぎらする日』で荻野目慶子が銀座で赤い風船を飛ばしたシーンを思い出せ)キタノの娘の声が前田愛!というのも暗示的ではないだろうか。敢えてどこにも描かれていない大人と子どもの性を介したズレを提示しているんじゃないだろうか。キタノは亜季に裏切られ死んでいったとも解釈できないだろうか。
上手くないティーンの役者も、発声練習をしてしごいたお陰か、ぎゃーぎゃーわめく演技にならないように演出されているのはさすがだ。ラストは原作の方が良かったな。最後にもう一度、俺たちは狩られる側だよ。
(角田)