公開済み映画

漂流街
  三池崇史
  00
(熊谷マイカル)
 三池side-Bに当たる原作モノの過剰演出作品。誰か止めてくれえ。凡百の日本映画のなかではダントツに面白い三池だが、ちょっとずれているというか、丁寧に撮ってほしいなあ。主演の二人が喋れない、演技が出来ないのは仕方がないけど(ストーリー展開で致命的といえばそうなのだが)、埼玉県のバスジャックで乗れるハズなんだけど、ダメなのはあの看板のクレーンショットのせいだ。インスタントカレーの大看板だが、いかにもしょぼい。もっと本格的に贋作するか、大塚食品のタイアップ取るとかしないと、作品にかける意気込みの程度が見えちゃうんだよ。観客が乗れないし、作品のクオリティーがぐっと下がるんだよね。あのシーン全体が予算の関係で……というマイナスイメージにしか見えてこないんだ。同様なことが渋谷ロケや彼らのたまり場、結婚式のシーンにも言える。たぶん今回はコダックのフィルムを使っているんで、発色が非常に良く出るんだけども、美術にカネをかけてないし構図を整理し切れてないから、隅っこに赤いものや青いものとか写っているとすごく気になる。寺山修司が「ロケで青いポリバケツがあると全部どける」と言っていたが、まさにそういう注意がなされていないと感じた。カメラマンの責任だけどさ。その意味じゃ、北野武とやっている柳島カメラマンは鍛えられていると思う。音響もドルビーSRを使い切れてないと感じる。ミキシングも普段と変わってないようだが、非常に大袈裟、大雑把に聴こえる。
 無垢な盲目の美少女というのもねえ、いつの時代の話だと突っ込みたくなる。シナリオはもちろん全然ダメだけど。及川ミッチーも間抜けすぎるわい。渋谷に闘鶏場があって、その地下に中国マフィアがいる。なんてどうも空間が繋がってないんだよね。吉川晃司の怪演があったから持ったようなもので、羅列のストーリーは全く頂けませんわ。カポエラの戦いも迫力ないし、沖縄に一度行って戻るなんて、ご都合だよね。海のブルーだけがコダックの良さが出てました。
(角田)



チャーリーズ・エンジェルズ
  CHARLIE'S ANGELS
  McG
  00
(熊谷マイカル)
 ハリウッドスターが「性的代用商品」であることは自明なことだが、ここまであからさまに自らをきっぱりと売り物にする潔さは素晴らしい。それが、映画というエンターテインメントの原点だということを改めて分からせてくれる。そこまでツボを押さえた作品がつまらない訳がない。観る快楽を与えてくれる。ほとんど脳内麻薬状態で、映画を観ている!と感じさせてくれた。初期の007や、ジャッキー・チェンの作品のように楽しませるためには、なんでもやる。カンフーも、お色気も、爆発も。絶対に続編を作るべきだ。監督も見せ方を分かっている。意味のない映像の遊びが、ニヤリ、ワクワクさせてくれたり、音楽のセンスも抜群だ。ANGELつながりの曲のオンパレード。
 しかしキャメロン・ディアスは一体なんの達人だったんだろう?
(角田)


インビジブル
  The Hollow Man
  00
  ポール・ヴァン=ホーベン
(新宿トーア)
 ハリウッドで画面を見ただけで、映画監督が分かるのは、ジョン・マクノートン(『ヘンリー』、『ワイルドシングス』)とこのヴァン=ホーベンだけだ。なんでバーホーベン映画の登場人物は、あんなに色つやが良く、たくましく映るのだろうか。カメラマンも毎回違うんだよね。どこに秘密があるのだろうか。好むと好まざるとそれだけでも才能だと思う。それ自体映画の魅力になっているのだから。
 つねにメインストリームの三文小説を映画化してきた彼だが、屈折したシナリオの読み換えがある。誰もが善人とはいえない。悪人は出てくるがその魅力は、対立する善玉をかき消してしまう。また善玉も灰色に近い邪悪さを持っている。
 バイオレンスは感情の吐露の表現でしかない。だから必ずしも男同士の戦いとは限らず、男女間でも死闘が繰り広げられる。それは永遠に受け入れられることのない、すれ違う愛情の表現の変形とも思える。怒りが愛情の表現なのでどこかSM的な様相を呈する。非常にえぐいポルノの表現だと思う。自らの欲望、目的のためなら悪の側(ダークサイドね)に進んで入り込む。これがヴァン=ホーベン映画の美学、決して受け入れられない美学だ。
(角田)


スペースカウボーイ
  SPACE COWBOYS
  クリント・イーストウッド
  00
(熊谷シネプラザ21)
 映画がおんな子どもや渋谷アートもどき野郎に占拠されてから久しいが、ここにハリウッド映画が21世紀も生き残る可能性を示した映画がやっと登場した。それはとても反動的ないわば超保守といわれる男の映画への反逆とも愛情とも後年、評されることだろう。
 音響や爆発やSFXだけでなく、まだ映画で人を感動させることが可能だということを、身を持って証明した男クリント・イーストウッドは、70才。その彼とチームを組んで宇宙に行く男たちが、設定上のキャラクター、プラス、役者そのものの魅力によって一層存在感のある演技を見せる。だってイーストウッドと54才のトミー・リー・ジョーンズが同じチームにいるなんてあり得ない設定をぬけぬけと説得させる語り口は、「映画とはそういうものである」と確信を持っているとしか思えない。
 どちらかというと『バード』、『許されざる者』、『マディソン郡の橋』、『真夜中のサバナ』など重いテーマをねちっこく撮ることで評価されるようになったと思うが、実は映画自体のダイナミズムを大切にしながらプロの仕事として観客を魅了する術を十分に心得ているのだ。
 4人のスターのこれまでのキャリアを知っている観客に目配せをしながら、それを楽しんで誇張して描くなんて敬意と親愛がないと成立しない演出手法と思う。ある種、ハワード・ホークスのリオ・ブラボー三部作を思わせる雰囲気もあるが、僕はドン・シーゲルの『ダーティー・ハリー』以降の軽やかな作品群を思い起こした。『突破口』のウォルター・マッソー、『テレフォン』のチャールズ・ブロンソン『ラフ・カット』のバート・レイノルズらスターと一緒に彼らのキャリアとキャラクターを生かしながらも、型にはめずに作り上げるセッションのような映画作りに近いと思った。
 語り口もシーン変わりもばっさり大胆な省略法を使い、今の観客には着いて来れないほどのテンポで物語は進む。でも観ていればわかるんだよなあ、実は。なぜなら物語が非常に単純だからだ(笑)。
 SFXにしても、無重力状態は老体たちの身体がきついからこれくらい描けば良いだろうと最小限の表現だけど、きちんと無重力で浮かないように足元を固定するとカットなどディテールはきちんと描いている。手抜きでは無い説得力だ。
 この簡潔な編集・演出をあえて選んだことに監督兼プロデューサーとしてのキャリアと自信が感じられる。この映画の簡潔さとキレは、いつまでもうだうだ自問自答しているJ=L・ゴダールの近作を遥かに越えた的確さだ。
 「映画ってこういうもんだよ○○君」と無言のメッセージを送ってくる(○○には、ルーカスでもスピルバーグでも誰でも良いけどね)。タランティーノとルーカス以降、無意味に複雑化された映画に対してもっとも未来志向な答えだといえる。
 ラストは男の(そして彼に感情移入した観客の)バカな夢で終わり完全に『スペース・カーボウイ』の虜とされてしまう。
< 僕的にはあまりフューチャーされていないが、ジョン・フリンの傑作『ローリング・サンダー』のウイリアム・ディベイン&T・L・ジョーンズのコンビが観られてうれしい。この作品は『三鷹オスカー』で観たなと思い出してしまう。
 わかっているな監督は、とにんまりする。
(角田)

サノバビッチ★サブ
  松梨智子
  00
(中野武蔵野ホール)
 うーん、きついなあ。というのが正直な感想。敗因は一つ、きちがい女・松梨が主役じゃないことだ。だから彼女が出ている前半だけがおもしろく観られるんだ。基本的に確信犯的な悪趣味・妄想は彼女が画面に出てはじめてインパクトを持つ。だから他の誰かが狂気を演じていても、それは松梨のフィルターを通した面白さであって、肉感的にこちらまで届いてこない。
 今回の場合はインモラルな登場人物たちが遭遇する出来事がかなり読めてしまってツライ。おいおいオチはそこかい何か普遍的だなあ……、ずっこけました。
 ちょっといきなり自主映画の世界だ(もともとそうだが)。毒が効かないんだよお。笑いが並列なんだよな。主人公が絞り気切れてないのもなあ。あと、スプラッターねたは、『モンティー・パイソン&ホーリー・グレイル』ですでにやっているのでぜひ観るように。
 もともと時空間処理はめちゃくちゃな人で、それは演劇的で別に良いんだけど。今回は物語の時間配分に失敗していると思う。物語の中で数年たつとするときには、そのシーンも長くなり、繰り返しをいれることで時間経過を示しているのだけど、そのシーンのなかに飛躍がないので、映画のスピードが停滞してしまう。ちょっとそれが多すぎたんじゃないの。
 今回の問題は、いかにもコンピュータで編集しましたという感じの編集。入門書に「こういう風にはしてはいけません」というのを全部やっている。テロップの入れすぎ、エフェクトの使いすぎ。
 あと、音楽、音響の処理のまずさ。『毒婦マチルダ』は音楽のインパクトが作品を引き締めていた。今回は音楽がうまくはまってない。
 撮影はお金のないのは分かるけど、もう少し出来る人に頼んだ方がクオリティーあがるよ。バカコメディーで画面が見えず、セリフが聞こえないのは致命的だと思う。
 一年に一作撮るのは大変だと思う。しかし僕はきちがい女優監督、松梨智子を観たい。
(角田)


マルコヴィッチの穴
  Being John Malkovich
  スパイク・ジョーンズ
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(渋東シネタワー)
 ビョークのPV「It's so quiet」や、ニューヨークのど真ん中でアガシとサンプラズがテニスの試合を始めるNIKEのCM。新しい才能のように言われて映画デビュー。でも買わないんだよね。バカじゃないけど狂気が足りない。
 アタマにハッタリかますのは結構なんだけど、アイディア勝負のところがあって、電通とスポンサーのオヤジは騙せるだろうが、それを展開して行き観客を誘導する才は無いとみた。というか本人が必要としていないのかもしれない。それは、完成度やこだわりが低いからだ。「おお、すごいじゃん。それで……(息切れ)」。今の観客は映画を観に行くんじゃなくてチェックしにいくんだから良いのかもしれないけどね。まあ、ハリウッドの技術力なら、監督が思い描く世界を映像化することは簡単だろう。その時にスパイク・ジョーンズがなにが出来るのかが問われるんじゃないだろうか。映画は20分ほどで飽きてしまいました。だって、単調なんだもん。生真面目に撮ってるだけでさ。論理の飛躍がない。すべてはシナリオに書いてあるとおりなんじゃないだろうか。
(角田)


ホークB計画
ブルース・ロウ
(新宿ジョイシネマ)
 『プロジェクトA』に対抗して、B計画なのか?まあいい。期待しすぎるとこけるけど、香港映画としてみれば楽しめる。人がバタバタ死んでいくんだけど、虐殺って感じでいまひとつ盛り上がらない。テレビ局に行ってからは、どうしても話が止まっちゃうし、逃げる気がないと分かるとサスペンスになりようがない。バッタものとしてもっと早く公開されるべきだったなあ。
(角田)


U-571
 U-571
  ジョナサン・モストウ
  00
(新宿文化シネマ)
 ディノ・デ・ラウレンティスは「ハンニバル」の映画化権を買ったので、予算が無くなったのではないだろうか。潜水艦だけのセットだモンね。CG合成もちゃちで笑っちゃうけど、そこは、『ブレーキ・ダウン』の実力派、モストウのことだから手堅くまとめてます。次々と難問が降りかかり、それをプロの男たちが解決していき人物が成長していく。王道の戦争映画だ。「沈黙の艦隊」を読んで潜水艦の基礎知識があるとより楽しめます。ハーベイ・カイテルが良い役をやっている。機関士の軍曹。脇役だが、主役を見事に食っている。監督はモンタージュが上手い人だが、いまの時代、音の演出で表現できちゃうんで、サスペンスもカット割るより、ワンカットで、音の遠近感で、潜水艦が見つからないように耳を澄ます表情を押さえる風に変わってきている。
 この一番上の劇場は狭くて観ずらい。
(角田)


パーフェクト・ストーム
Perfect Storm
00
ウォルフガング・ペーターゼン
(有楽町シネリーブル)
 制作費が回収できないので、DVDの発売日を早めたという歴史に残る一作。目が疲れました。というのは、シネスコ画面にCGの嵐が目一杯広がって、つくりものだから、全部ピントが合ってどう考えても遠近感おかしい画面になるわけ。良くできていても目の反応は素直だから、容量オーバーして頭が付いていかない。すごいとかなんとか映画として感じる前に、目がすごいすごいと画を判断しちゃうわけ。だからその情報を処理するだけでいっぱいになって、最後には「もうどうでもいいや」になっちゃうんだよね。『スター・ウォーズ エピソード1』も同じく感じた。
 『ジュラシック・パーク』では、スピルバーグがそこら辺を計算して、モンタージュで息抜きさせてくれていた。そういう意味じゃ、編集粗いなと思う。全体に長いし、全部使っただけで公開に間に合わせただけだろう。陸のシーンも意味無く長いし、もう一人の女船長との関係も良く分からない。出航のシーンが盛り上がらないのも、人物がよく描けてないからだろう。あと、ヨットのシーンはいらんだろう。ヘリのシーンの伏線とはいえ意味が無さ過ぎる。ペーターゼンはもともと冗漫な人だけど、『Uボート』撮ったんだから、も少し海の男描けよな。船の乗組員、みんなアタマ悪過ぎ。特にジョージ・クルーニーは単なるバカ船長にしか見えん。しかし、DVD発売しちゃったからディレクターズ・カット版は出ないかもね。
(角田)


サウスバーク無修正映画版
 SOUTH PARK Bigger,Longer & Uncut
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 トレイ・パーカー
(シネアミューズ)
 「観ろ」。ただそれだけしか言えない。何が面白いからと言葉を費やしても、そこからぼろぼろとこの映画の本質がこぼれ落ちてしまうような気がする。だからDVDが出たら即買うこと。鬼畜アニメ「サウス・パーク」が映画になると言ったらみんな引いてたけど、それはアメリカ人の作ったテレビアニメが面白いわけないだろうという、極めて普通の反応だったといえる。しかし、その予想を簡単に裏切ってくれる。 そこには、本当のエンターテインメントとはなにか、バッド・テイストとは何かを知った作者がいた。センスとその裏付けとなるテクノロジー、アメリカエンターテインメント産業のgぎ技術力を駆使してテンションが上がりっぱなしの掛け値無しのミュージカル、それもパターンを踏んで、さらに過激に作り替えている(パロディーというには完成度が高すぎる)。彼らの原点を観ているとここまで作れるのかと改めて感嘆する。
(角田)


さくや妖怪伝
 原口智生
 00  
(シネリーブル池袋)
 困ったちゃん。なにも絵コンテ通り撮らなくてもいいだろう。空間把握、造型の出来ない人は基本的に映画監督はしない方がいいです。俺も何を期待していったんだろうね。まあ、アニメーションならごまかせるんだけど人物も浅いし……。樋口氏のSFXを褒めてもなあ(ブツブツ)。
(角田)


MI:2
 ジョン・ウー
 00 
(ヴァージンシネマズ市川コルトンプラザ )
 廃人同様になっていたデ・パルマにとどめを刺した、シリーズの第二段。
 『アイズ・ワイド・シャット』でキューブリックにいじめられた、サイエントロジー教徒トム・クルーズが鬱憤を晴らすように、“俺”映画にしようとした結果、ジョン・ウーもお手上げなファミリー向け映画になってしまった。ほとんどT偏差値40からの大学進学!Uのような誇大広告、ジョン・ウーだからと期待したこっちが甘かったのか、にやけた表情しか印象にないトム・クルーズにしてやられたって感じ。お陰でぬるいヘタレ・アクションは見せられるは(スローモーションにしても身体のキレがないことは分かる)、話のせこさは、全作を上回るほどだ。
 ジョン・ウーの映画の登場人物は臭いくらいの香港テイストな役者じゃないと成り立たない、アクション(演技)の様式化があるけど、トラボルタやニコラス・ケイジだったらなんとかやってくれた(くさい演技と紙一重だが)。だが、クリスチャン・スレイターやスティーブン・セガールとかは表情が乏しいのでどうしてもドラマが盛り上がらない。ましてや、過度のバイオレンス表現も、銃撃だけじゃなく、顔取り替えたりするグロテスクなシーンも含め、アジアン・テイストなのに、それも禁じ手になった。 
 シュワちゃん映画のように、結局はギャラの安い俳優が悪役になるので、盛り上がらないし、痛めつけられてもカタルシスが無い、まるでイジメだよな。ストーリーは論外としても、サンディ・ニュートンは損な役回りだよなあ。どんどん映画のなかの比重が軽くなっていく。Gパンでほっつき歩いちゃダメだよ(ウー自体女性を上手く描ける人じゃないモンな)。結果、ジョン・ウーはアクション専用監督として雇われただけであった。二度とトム・クルーズ、プロデュースの映画なんか観るか!
(角田)


ドグマ
 DOGMA
 ケヴィン・スミス
 99 
(シネマスクゥエア東急)
 ケヴィン・スミスはよほど世の中、世間に恨みがあるみたいで、いかにして自分の都合の良い、フマジメな世界を作るかに全精力を傾けているとしか思えない。マット・ディーモンとベン・アフレックスが悪魔で、それを退治するのが、堕胎専門の女性産婦人科医に黒人のキリスト、そしてサイレントボブと相棒ジェイだ。彼らは、『ブルース・ブラザース』のように天の言葉によって行動する。とんでもない罰あたりな言葉を吐きながら。ぜひ突っ込みを入れながら観て欲しい。結構、笑いのIQ高いです。
(角田)


人狼
 00
(テアトル新宿)
沖浦啓之
 誰が押井守を必要としているのか。アニメをアートに加えようと、記号的に作品を読みとることは、彼の術中にはまることになるのに。庵野と同じく、押井もダブル・スタンダードを駆使しているのでどんな攻撃にも耐えられる。逆にどんなにまじめに語ったところですっぽりと手の中から抜け出てしまうのだ。押井は庵野ほど、露骨なことはしないけど、彼も作品を読みとろうとするものを拒絶する。
 彼の作品作りは、あらかじめ「どのように読みとられるか」というところから発想が始まると言っても過言では無い。「うる星やつら」にしても「パトレイバー」にしても「甲殻機動隊」も、原作の読み変え作業から始めている。どうしたら別の面から別の物語が語れるか?それが第一歩だと思う。設定をいじるというやり方で、アニメの脚本ではよくやることだ。
 これは藤原カムイと組んだ「犬狼伝説」が原作だが、映画では、大胆にホンのサブキャラクターだった警官を主人公に据えている。いわば外伝を書いていることになる。そこにわかりやすい“赤ずきん”を持ってくる。この撒き餌にみんな食らいついてくるが、押井にとっては、どうでもいい口実なんだよね。日本のアニメーションの人は借り物でみんな武装しているんだ。庵野の場合は開き直っちゃったけど、押井は、巧妙にもう少し難解なレトリックを持ってきて評論家転がしをしている。押井にとってアートの擁護なんか必要じゃないんだ。そこをクリアして、細部で遊ぶ。徹底したIFの戦後を再構築して楽しんでいる。
 技法として、影を一段落ちにして、立体感を強調していない。いまのテレビアニメ、OVAになると、二段、三段は普通だから、これは珍しい。監督の意図だろうか。昭和30年代の邦画のようなライティングを意識しているのだろうか。時代性を出すために。確かに細部にこだわる描写のために評価が高いのは分かるけど本質的じゃないよね。ホントのオリジナリティのある日本のアニメ作家は大友克洋だけだと思う。
(角田)


●ゴダールの映画史 第一部
             第1章=1A「すべての歴史」第2章=1B「ただ一つの歴史」第3章=2A「映画だけが」第4章=2B「命がけの美」

●ゴダールの映画史 第二部
             第5章=3A「絶対の貨幣」第6章=3B「新たな波」第7章=4A「宇宙のコントロール」第8章=4B「徴(しるし)は至る所に」
    HISTOIRE(S) DU CINEMA
    ジャン=リュック・ゴダール
 98 
(ユーロスペース) 
 僕にとって、ゴダールってのは、難解な映画を引用をちりばめる意地悪爺さんというイメージではない。ゴダールの天才なところはあまりにも独創的すぎて、同時代には理解できないことだ。だから陳腐な形でそれが広く受け入れられるときには、そんなとこはもうとっくにやっているじゃんとなる。
 要するにデザイナーの位置にあると言える。先鋭的に発表されるコレクションは、その時点では奇抜でそのままは受け入れられないけど、何年か後にはそれがファッションとして、着られるものとして一般に出回る。
 彼の映画はそのエッセンスだけで出来ている。その驚きだけを受け入れれば良いのでは無いだろうか。無理して理解しようとはせずに。きっとそのトッポイところは、数年あとにハリウッドの新鋭監督か、CMまたはPVが盗用するに決まっているんだからさ。
 ゴダールについては、もう一つデビュー以来“B級映画”しか撮っていないことを忘れないことだ。あるいはB級映画の精神で作っていることを。単純明快で予算以内で目一杯つめこんで妥協するところはして、自分のやりたいことをする。予算超過までして自分のエゴを押し通す巨匠とはそこが違う。まさに、低予算の映画作りだ。やろうと思えばヒットする映画の作り方などワカッテイル(はずだ)。
 さて、「映画史」だけど、なんか欧州知識人の系譜に連なるような難解なことやっているのかと思ったらさ、アリモノのフッテージにナレーション、相変わらずのノイズ(この場合は、タイプライター)、クラッシック音楽を混ぜ合わせて、盛り上げたり、下げたりと挑発的にやってくれます。
 だから映画史といっても目新しいフィルムや、歴史を語るようなフッテージは出てきません。予算の関係からか、フィルムの代わりにスチルを使ったりと低予算というのが見え見えです。しかも、最初一本60分が、後半は一本30分になる。まさにB級映画。十年かけるならもっと予算はあるだろうが。というかこの「映画史」テレビ局内の位置づけがそのくらいなモノなのだろう。内容はサブテキストを読んでも良く分かりません。出てきたモノがすべて分かっても繋がらないこと間違いなしです。だから「ゴダールの映画史」という売り方は正解なのです。「映画史」じゃないんですね。
 しかしゴダールがいま再びビデオを撮る必然性がどこにあるのだろうか。70年代に始めて、あきらめたんじゃないのか?そのあたりがあきらかになっていない。
 あと90年代ヨーロッパを意識しだしてからのゴダールは特につまらない。ヴェンダースもそうだが、東が無くなり、欧州統合が進むと、急にアイデンティティ崩壊したようにダメになってしまったのはなぜか。ソ連のスパイだったのか?
 ソニーのセールスマンと化したヴェンダースと違い、ゴダールにはこじんまりとしたものではなく、アナーキーな、どきどきする訳のわからん映画を撮って欲しい。
(角田)



●『住民が選択した町の福祉』
   羽田澄子
   97
 (BOX東中野)
●続『住民が選択した町の福祉』問題はこれからです
   羽田澄子
    99
(BOX東中野)
 NHK-BSで、羽田、土本典昭、松川八洲男、それに文部官僚評論家、寺脇研の出たシンポジウムがやっていた。終盤、観客席から質問が飛んだ。「ドキュメンタリーにおいてビデオの可能性についてどう思われますか?」出席者一同は、それまでの(良く見るドキュメンタリーの意義について語る作家)の勢いとは違って、あいまいな笑みを浮かべて言いよどんだ。「確かに、フィルムにはこだわっているが、ビデオは、長く回せて融通が効くし、安い」というようなことを次々と述べた。それは、否定とも肯定とも言えない歯切れの悪い回答だった。そこには、テレビに対する優位性、フィルム=映画へのこだわり。上映という手段で動員することが、テレビという不特定多数を相手にするものとは違う、「運動としての映画」を生み出すという信念だろう。
 このようなテクノロジーに対する敗北、戦略の無さが、岩波文化人(市民)に消費される映画になり、興業としても、生活の手段としても成立しなくなる悪循環を招いているとも言える。対する権力もなく、そこに共感する観客も作れなくなった現在、ドキュメンタリーの存在意義は問われ、情報ニュース番組と境界はますます曖昧になる。もっと、テクノロジーを活用するべきだと思う。それが作家の武器ではないだろうか。
 ビデオだから映画だからというのは、問題を対立にしか持っていかず、何一つ本質的な問題を訴えることはない。(もちろん、だからといってテクノロジー史上主義がいいとは言わない)
 僕流に言えば、平野勝之の作品が面白く、『A』がつまらないのはそこの問題をどう捉えているかの差なのだが。
 ドキュメンタリーの手法も世代交代があるべきではないだろうか。サティーの曲に、女性ナレーションに、愚直なまでのインタビューは、もう流行らないのではないか。水俣、三里塚の「ドキュメンタリー=運動」から古屋敷、そして羽田澄子の「ドキュメンタリー=記録」の時代を経て、次の時代に行こうとしている。誰もがビデオカメラを持てる時代、作家は何をすべきか、まさに問われていると思う。
(角田) 

●どら平太 
     市川昆
     00
 (熊谷シネプラザ21)
 市川昆には、まったく期待してないし、役所だって決して上手い役者とは言えないだろう。だからシナリオが良ければなんとか観られるだろうと思ったが、甘かった。ロートル監督四人にはもう面白いシナリオが書ける力は無かった。というよりも、黒沢活劇以外に四人の中で面白い時代劇撮った人いるの?と聞きたい。ふーむ。
 クロサワ活劇もさ、近頃疑い出しているところなのよ。橋本(『幻の湖』)忍は別において、小國英雄が気になっているいるんだよね。彼って、東宝のなかでも取締待遇かなにかになっているくらいベテランで何本も時代劇、マキノ雅弘とかと組んでやっている訳じゃない。それが、クロサワと複数人で組んでやるなんていい気分じゃないと思うよ。実際、クロサワは『赤ひげ』以降、復活出来なかったじゃない。時代劇活劇のシナリオの技に関しては、小國がかなり書いているんじゃないかと勘ぐっているんだけど。
 『どら平太』?テレビで見るとちょうどいいサイズだよ。
(角田)


●マグノリア 
    Magnolia
   ポール・トーマス・アンダーソン
   99  
 (銀座シネパトス)
 映画にあるべき姿などない。必要なのは人々の心理を映す鏡をどうやってつくるのかだ。
この作品をつまらなく思うことは簡単だ。誰か一人の人物または事件を嫌いになれば良いのだ。しかし、逆に言えば、それほど相互の事件や人物が絡み合いながらストーリーが怒涛の如く曲線を描きながらラストに向かって突き進むのだ。そこにはステレオタイプの人物は一人としていない。ストーリーの進行役もいない。
 切れ目無く、三時間近く拘束し続ける力は大したものだ。シナリオがどれくらい拘束力があるかは不明だが、P・T・アンダーソンの演出力は賞賛に値する。彼の大胆な「人生」に対する解釈をみると、コーエン兄弟のオフビートさえ滑稽なものに思えてしまう。
 ラストの解釈だが、あそこでダメという人が多いが、アメリカ文学の人を食ったほら話の系譜に入るので、あの話法は良いでしょう。音楽の使い方、センスも抜群です。個人的には、ジュリアン・ムーアが唄いだすところが好き。
(角田)


●ストレイト・ストーリー 
   the streight story
   デビッド・リンチ
    99 
 (新宿ピカデリー1)
 リンチの呪縛記号を見つけることに意義があるのか。彼らしい、オープニングの不気味さ(ブルー・ベルベットだ!)、双子や鹿、など探しても彼自身、現代美術家なのだから、モチーフの使い回しなんてことは当たり前だから、別のところを見ないことにはこの映画を評価することにはならないだろう。
 反時代的な題材「長年会わなかった兄に会いにトラクターで出かける」を映画化するには、無理な点がある。車でなぜ行かないのかと観客に思わせたら負けだ。ロード・ムービーが失敗するのはそこと、無理して旅をするほどラストに何かしら感動があるかだ。その点をリンチはクリアしたのか。クリアしたとは思わないが、逆にわざと時間や距離の経過を曖昧にしている印象を受ける。度々出てくる太陽込みの空撮、インサート無しのシーン転換。トラクターがゆっくり走っているのはわかるが、どこに向かってどれだけ走ったかまったくわからない。事件や人との出会いが唐突に起きることや事件を次のシーンまで持ち越さないことで、どこまで走ったか、早く目的地に着かなければ行けないのに、など観客に考えさせない(もともと死にそうな兄に会うのに急がないというのが矛盾だけど)。
 ラストも、このストーリーじゃ精一杯の終わり方だろう。バット・ベティカーの『決闘コマンチ砦』のような終わり方は出来ないだろうからね。一見、ロード・ムービーを思わせながら、その手法を意図的に使わないことで平凡さを回避したリンチの職人芸をみました。
(角田)


●スリー・キングス 
   THREE KINGS 
  デイビッド・O・ラッセル
 99 
(新宿ピカデリー1)
 湾岸戦争をポップな映像で処理しているため、悲惨さとかより、不条理さが全面に出てきた。ねらいはまさにそこにあると思うんだけどそれほそ印象に残らないのは、役者が達者じゃないためか、人間がゲーム感覚で戦争しているためなのか、どんどんストーリーだけが進んじゃう。
(角田)


●バレットバレー
 塚本晋也
 00
 (渋谷シネアミューズ)
 塚本作品に隠された過度の暴力。過激であればあるほど、それは様式に行き着き、暴力の持つ肉体性、隠喩から離れていく。『TOKYOフィスト』は、そのギリギリまで行った作品だと思う。その先に行くのであれば、暴力から意味をはぎ取るしか無くなると思う。しかしそれは、もう現実が追いついてしまった。しかもつまらない形で。
 バイオレンスは誤解されている。メディアによって肉体がはぎ取られていく。塚本の中で消化されていない苛立ちや暴力の昇華はそんな方向では、なかったはずだ。暴力を描く作者としてレッテルを貼られることは本意ではないだろう。
 今までの失われた肉体を取り戻す過程で暴力という手段を使うモチーフは一貫しているのだが、そこに真野きりなの持つ「死」という現実的かつ観念的なモチーフを対立させることで、肉体の復権に息を吹き込むことが出来た。冒頭の恋人の死は真野と二重写しになる。主人公は肉体の復権を拳銃を通じて見いだす。
 暴力と死を通じて、互いはふたたび少女とオッサンに戻る。それこそが「生の復権」まで肯定的に捉えた瞬間ではないだろうか。そのエネルギーに溢れたラストは感動的だ。
(角田)


●イグジステンズ 
   eXistenZ
 デビッド・クローネンバーグ
 99 
(新宿ピカデリー3)
 出来の悪いテレビゲームだなあ、クソゲーだよこれは。強制イベントが多すぎて、自由度が少なすぎる。こんなに分かりやすいヴァーチャル・リアリティーの解釈をクローネンバーグがするとは思えない。オチがすぐに見えてしまいすぎるよな。現にストーリーの仕掛けが『デッド・ゾーン』、『ビデオドローム』(そういえば初公開はユーロスペースだったな)から進化してない。いやむしろ退化している。傑作『クラッシュ』の次がこれとはおかしい。何か原因があるのではないだろうか。
 例えば、ファイナルカットが無かったとしたらどうだ。もっと、自由度が多いというか、現実との境界が曖昧なシーンが多く含まれていたとしたらどうだろう。監督は別にヴァーチャル・リアリティーの世界を描きたいとは思わないしね、ぐちゃぐちゃのブツはうれしそうだったけど。プロデューサーとしては分かりやすくしたがるだろう、そのため曖昧な部分を切って直線的にしたら分かりやすくなりすぎた。と推測するのだが一概にそうともいえないしなあ。ジェニファー・ジェイソン・リーはやらしくて良いです。でもこれだったら『アイズ・ワイズ・シャット』の撮り直しに参加した方が良かったかもね。
(角田)